ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

文観と後醍醐天皇(26) 南北朝正閏論・東播磨は「北朝方」 

2018-11-20 08:00:08 | 文観と後醍醐天皇

 前号の続きです。

 円福寺(東志方高畑)の本堂に向かって右隅に、(県指定文化財の宝筐印塔(ほうきょういんとう・写真)があります。宝筐印塔には康歴元年の銘が刻まれています。

      北朝年号(康歴元年)

 「康歴元年(1379)」は、南北朝時代の北朝年号で、南朝年号では天授五年です。

 赤松四代当主・義則が赤松家所領の五穀豊饒を願い、また「一結衆」とあるところから赤松一族の安寧祈願、さらに赤松一族の供養塔として造立したものと思われます。

 この宝筐印塔の「北朝年号」からもわかるように、赤松本家は、曲折はあったものの足利尊氏(北朝方)として活躍し、後醍醐天皇(南朝方)に敵対し、時代を乗り切ります。

 江戸時代までは、北朝側であろうが、南朝側であろうがあまり問題とならなかったのですが、明治時代となり突如「南朝正閏論(せいじゅんろん)」が声高に叫ばれるようになりました。 

 そして、日本が戦争に突き進んでゆくにつれ、北朝を支持した赤松氏の逆賊度はますます高くなり、赤松氏は歴史上、全く評価されなくなりました。

 明治時代~戦前にかけて北朝支持を色濃く残す私たちの地域の立場は微妙であったと想像します。

 戦後、そんな歴史は間違いであるとして、足利尊氏・赤松氏の再評価がなされるようになりました。

 円福寺の宝筐印塔の加古川市教育委員会の説明には「・・・基礎正面に康暦元年の銘がり南北時代の遺品であることがわかる・・・」とありますが、北朝年号であるとの説明がありません。

 「北朝年号の説明がないのは、なぜ?」。もどかしい気持ちが少し残ります。(no4556)

 *写真:文観のつもり

 「文観と後醍醐天皇」をお読みいただきありがとうございました。次回から新しい話題、「宮崎奕保(みやざきえきほ)さんのこと」をとりあげます。

  きのう(4/27)の散歩(10.821歩)

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文観と後醍醐天皇(25) 南北朝正閏論

2018-11-19 08:30:07 | 文観と後醍醐天皇

 後醍醐天皇・文観は亡くなりました。激動の人生をおえました。

 シリーズ「文観と後醍醐天皇」もおわりになりますが、少しだけ余話として、「南北朝正閏論(なんちょうせいじゅんろん)」に触れておきます。

      南北朝正閏論(1)

 「南北朝正閏論(なんぼくせいじゅんろん)」、もうあまり聞かれなくなった言葉です。

 南北朝正閏論の発端は、明治44年1月15日の「読売新聞」の社説でした。

 ここでは水戸学の南朝正当論から「学校の歴史の教科書で南朝と北朝を並べているのはおかしい」という論調でした。

 第二次桂内閣の時でした。

 野党の立憲国民党はこの問題を倒閣運動に結び付けようと飛びついたのです。

 この時、桂太郎は、元老の山片有朋に相談して明治天皇の勅裁を受け、ここで法律として南朝が正当であると決められました。

 以来、足利尊氏は南朝に敵対した『逆賊』とされました。

 昭和9年には、「足利尊氏は人間的なすぐれた人物である」と書いたために斉藤実(まこと)内閣の商工大臣は辞職に追い込まれるという事件もおきました。

 戦前、足利尊氏は完全に『逆賊』とされてしまいました。

     足利・赤松一族の研究は戦後

 ことは足利一族だけにとどまりません。私たちの地域・播磨地域を支配したのは赤松一族で、播磨地域は足利の家来として活躍した武将です。

 となれば、当然赤松も逆賊扱いということになります。

 東播磨地域は赤松の勢力下にありました。つまり、北朝方でした。

 そのため、戦前赤松一族の公平な評価・研究はなされませんでした。

 赤松の研究は戦後になってからの事です。(no4555)

 *写真:北朝の年号を持つ円福寺(志方町高畑)の宝篋印塔(詳細については次号で)

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文観と後醍醐天皇(24) 文観ルート

2018-11-18 08:28:39 | 文観と後醍醐天皇

          文観ルート

 話を少し戻します。

 後醍醐帝が討幕の行動をおこした時、寺院がその都度拠点となっています。

 当初、元弘の乱によって後醍醐天皇が都を落ちていったのは笠置山であり、そこの笠置寺にこもりました。

 隠岐島から脱出、船上山に大山寺(だいせんじ)の僧兵を頼りに陣を張りました。

 「建武の新政」の失敗から再度、都を捨てて吉野蔵王堂を行在所として、後に河内へ出て金剛寺、さらに観心寺へと行宮を移しています。

 この一連の寺院と関連のある人物を探すと、当時後醍醐天皇の信任が厚かった醍醐寺座主文観僧正の名が浮き上がってくるのです。

 後醍醐帝はこの討幕挙兵の策謀が露見して、腹心の者たちが捕縛された知らせを受けると、当時、息子の護良親王が座主であった比叡山延暦寺へ逃げ込みました。

 そして、六波羅軍(鎌倉幕府軍)が、比叡山の行在所攻撃にきたという情報がはいると、今度は、山城国金胎寺へ移り、さらに3000人の僧兵を有し要塞堅固な笠置山へと行幸し、笠置寺を行在所として櫓をかまえ、柵をめぐらして城塞化しました。

 後醍醐帝の、一刻を争う事態での迅速敏捷なこの行動は、すべて、文観がかねてから非常時に対する計画をたて天皇に進言していたところによっていたようです。

 楠木正成が後醍醐天皇軍に加わりました。

 その菩提寺である観心寺の僧滝覚坊とは山伏の同業者であり、覚坊と文観と師弟の間であるので、正成と文観は前からの繋がりがありました。

 鎌倉北条軍が大挙して笠置に来攻し、笠置寺の僧兵もこれを迎撃して善戦したのですが、何分歴戦のつわもの関東武士には抵抗出来ず、笠置山も陥落し、後醍醐帝は脱出の途中敵の手におち、京都に還幸のやむなきにいたり、後醍醐帝は隠岐の島に流されたのです。

 後醍醐天皇は、山伏の武力の組織活動に期待して、文観に絶対的な信頼を寄せていました。

 「建武の新政」からの天皇の行動をたどってみると、金剛山伏と楠木正成、大山山伏と名和長年、児島山伏と児島高徳など、いずれも名もなき地方豪族であるがその背後には山伏の存在があります。

 この山伏ルートはいずれも文観とのコミュニケーションのある細胞組織であり、文観は、まさに後醍醐天皇のブレーンであったようです。(no4554)

 *写真:楠木正成像(富田林市の楠妣庵観音寺蔵)

 きのう(11/17)の散歩(10.203歩)

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文観と後醍醐天皇(23) 文観は破戒僧でない

2018-11-17 09:03:48 | 文観と後醍醐天皇

 

     文観は破戒僧でない

 足利尊氏を後(うしろ)楯(だて)とする北朝に対して、南朝方の劣勢は覆うべくもなく、延元四年(1339)八月十六日、後醍醐天皇は京郡奪還の夢を果たすことなく、吉野に逃れて三年足らずで世を去りました。52歳でした。

 文観は、正平十二年(1357) 河内金剛寺大門往生院で亡くなりましたが、後醍醐天皇の死後活躍はありません。

 文観の人生は、後醍醐天皇の活躍と重なりました。

     『太平記』によりつくられた文観の評価

 文観の死後の話です。

 文観の宗教は、もっぱら「邪教」真言宗立川流の祖とされて流布されています。この宗派は、「セックスを宗教に持ち込んだ異形の信仰である」としています。

 この説は『太平記』により広がった説を言えるようです。

 後醍醐天皇が亡くなり、足利尊氏の時代が始まりました。

 足利幕府によりつくられた公認の歴史書と言える『太平記』では、後醍醐天皇の政治・文化をよく書くはずがありません。後醍醐天皇の時代を否定するのは当然のことです。

 当然のごとく文観の評価も否定され、「文観の教えは、セックスを利用した邪教であった」とされました。

 歴史学者の兵藤裕己氏は、『後醍醐天皇』(岩波新書)で、次のように述べておられます。

 ・・・従来は、『太平記』等の文観イメージたち、立川流の妖術を使う僧というものでした。

 この『太平記』によって流布した「邪魔外道」の文観のイメージは、近年大きく修正を迫られています。

 すなわち、内田啓一氏等の研究によって、碩学の真言僧としての文観の精力的な執筆活動、またその卓越した画業の全貌などがあきらかにされつつある・・・

 

 最近、従来の流布されていた文観像も改められてきました。(no4554

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文観と後醍醐天皇(22) 後醍醐天皇、吉野に死す

2018-11-16 08:29:07 | 文観と後醍醐天皇

     鎌倉幕府滅ぶ

 元弘二年(1333)五月二十二日、北条時高(31)は、鎌倉の東勝寺で最期を迎えました。

 そして、グレンの炎は次々と自害する諸将を焼き尽くしました。

 死者は600人、みな切腹して果てました。

 鎌倉幕府は滅びました。

     文観の活躍

 元弘三年(1333)六月五日、後醍醐天皇は京都へ凱旋しました。

 引き続き文観が鬼界ヶ島(硫黄島・鹿児島県)から帰ってきました。

 その後の文観の経歴は、華々しいものでした。(南朝年号)

  ・正慶二年(1333)  硫黄島から帰洛

  ・建武元年(1334)  このころまでに醍醐寺座主・東寺大勧進職

  ・建武二年(1335)  東寺一長者(真言宗のトツプ)

  ・建武三年(1336)  大僧正に任じられる

 しかし、後醍醐天皇による「新政(建武の新政)」は、前回にみたように失敗し、足利尊氏にうらぎられ、吉野に逃げ込みました。

 時代は、めまぐるしく動きました。

     後醍醐天皇、吉野に死す

後醍醐天皇は、吉野でひとすら足利尊氏の北朝打倒を目指し祈り続けました。

 しかし、足利氏を後(うしろ)楯(だて)とする北朝に対して、南朝方の劣勢は覆うべくもなく、延元四年(1339)八月十六日、後醍醐天駁は京郡奪還の夢を果たすことなく、吉野に逃れて三年足らずで世を去りました。

 五十二歳でした。

 『大平記』は、後醍醐天皇の最期の言葉は「身は、たとえ、南山(吉野山のこと)の苔になろうとも、魂は京都の政権をのぞむ。足利尊氏の首を我が墓前に備えよ」であったといいます。

 後醍醐天皇の墓は、京都に足に向けて築かれています。

 このことは、かれの京都に対するはかりしれない執念を物語っています。(no4553)

 *写真:京都の足利政権と対峙した後醍醐天皇が本拠地とした吉野朝宮跡

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文観と後醍醐天皇(21) 建武の新政

2018-11-15 06:46:48 | 文観と後醍醐天皇

 

 後醍醐天皇が隠岐の島を脱出し、京都へ凱旋し、「新たな政治」(建武の新政)をはじめました。

 建武の新政とその後の南北朝の展開の詳細については、他の書物をお読みください。

 ここでは中学用歴史教科書(『中学新歴史・帝国書院』)を読んでおきます。

      建武の新政

 幕府をほろぼした後醍醐天皇は、1334年、年号を「建武」と改め、天皇みずからが政治を行いました。

 そして、これまでの公家(くげ)政治のしきたりを大はばに改め、公家と武家の政治の両面を取り入れたしくみをつくり、倒幕(とうばく)に功績のあった公家や武士に官職をあたえました。これを「建武の新政」といいます。

 しかし、新政府は、公家や寺社をたいせつにしましたが、倒幕に活躍した武士に対しては恩賞が少なく、また、当時の武家社会につくられていた慣習を無視したりしたため、多くの武士たちから不満をもたれるようになりました。

 このような動きをみて、足利尊氏は武家政治の復活を計画して兵をあげました。

 そのため建武の新政は、事実上、2年半で終わりました。

      南北朝の展開

 足利尊氏は、別に新しい天皇をたて、1338年、みずからは征夷大将軍となり、京都に幕府をひらきました。

 一方、京都を追われた後醍醐天皇は、吉野(奈良県)に朝廷をおき(南朝)、京都の朝廷(北朝)と対立するようになりました。

 両朝の争いはこののち約60年間にわたって各地で続きました(南北朝の争い)。

 両朝が争うなかで、南朝方の勢力はしだいにおとろえていきました。

 それに対して北朝方の足利氏には、地方の多くの守護が味方について、勢力を強めていったのです。

 1392年、3代将軍義満の和平の呼びかけに南朝が応じて両朝は一にまとまり、南北朝の争いは終わりました。(no4552) 

 *写真:後醍醐政権を風刺した「二条河原落書」

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文観と後醍醐天皇(20) 後醍醐天皇、隠岐の島から脱出

2018-11-14 09:16:13 | 文観と後醍醐天皇

               後醍醐天皇、隠岐に流されるも

 倒幕計画に失敗した後醍醐天皇はとらわれ、さらに暮府によって皇位をはくだつされ、隠岐(おき)に流されました。

 元弘二年(1332)三月、鎌倉幕府の滅亡の1年余り前のことでした。

 後醍醐天皇は、身を日本海に浮かぶ孤島におくことになりましたが、時代は動いていました。

 時代は、商業も盛んになり、情報の飛び交う社会でした。

 隠岐は、かつての孤島ではありません。

 情報は、秘密のルートからどんどんもたらされました。

 後醍醐天皇の遠島の後も、息子の護良(もりよし)親王や、河内(かわち)の豪族、楠木正成(くずのきまさしげ)らによってなおも根強く倒幕運動は続けられていました。

 後醍醐は、隠岐島にいながらも、なお幕府打倒の機会を虎視眈々と狙っていたのです。

 詳細は省きますが、隠岐へ流されてから11か月後のことでした。

 元弘三年(1333)閏以月突如隠岐を脱出することに成功します。

     文観、都に凱旋

 元弘三年(1333)、伯耆(ほつき)の国で六波羅探題壊滅の連絡を受けた後醍醐天皇は、天皇の政治の復活を宣言し、京都へ向かいました。

 護衛に当たったのは、伯書の国の名和長年(なわながとし)でした。

 都へのルートは、討幕に大きな役割を果たした播磨(はりま)、摂津(せっつ)が選ばれました。

 その道中で、赤松円心、楠木正成ら天皇のために戦った者たちが天皇を出迎え、天皇は彼等を従えて意気揚々と都に凱旋(がいせん)したのでした。

 天皇による「新しい政治」(建武の新政)が始まります。

 すぐに、文観も鬼ヶ島から京都に凱旋しました。(no4551)

 *写真:隠岐の島

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文観と後醍醐天皇(19)  後醍醐天皇、加古川を行く

2018-11-13 09:50:10 | 文観と後醍醐天皇

 

             後醍醐天皇、加古川を行く

 正和5年(1316)、北条高時が執権につきましたが、幕府の支配体制の乱れは著しものがありました。

 先に述べたように、この機を見た後醍醐天皇は、正中(せいちゅう)元年(1324)、倒幕を計画しました。

 この時は、事前に機密が漏れ不成功におわりました。

 しかし、後醍醐天皇は、天皇には珍しく、それであきらめるような「やわ」な人物ではありません。

 元弘元年(1331)にも倒幕の計画を進めましたが、この時も身内の密告により失敗に終わってしまいました。

 俊基は、捕らえられ鎌倉へ護送されました。文観は遠島でした。

そして、後醍醐天皇は、隠岐島(おきのしま)に流されることになりました。

 京都を出発した天皇一行は、7月12日に教信寺(加古川市野口町)の前の山陽道を通り、加古川の宿に入りました。

 加古川での宿は、播磨の守護所(場所は現在の称名寺-加古川町)でした。

 その時のようすが「増鏡(ますかがみ)」にあります。

 残念なことに、後醍醐天皇一行は確かに教信寺の前の道を通り加古川の町で宿をとっているのですが、野口を通過した時の記録は残していません。

 少し残念です。

 <増鏡大約>

 12日、後醍醐天皇が加古川の宿に着いたとき、讃岐(四国)に流される子どもの宗良(むねなが)が少し遅れて加古川の東の野口に着きました。

 後醍醐天皇は宗良に会いたかったのですが、警護の武士は、それを許しませんでした。その夜は、後醍醐天皇はもんもんと一夜を過ごしました。(no4550)

 *写真:後醍醐天皇の流罪の道(教信寺の前の道)

 きのう(5/12)の散歩(10.958歩)

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文観と後醍醐天皇(18) 文観、死罪を免れ鬼界ヶ島(硫黄島)へ

2018-11-12 08:14:13 | 文観と後醍醐天皇

     文観、死罪を免れ鬼界ヶ島(硫黄島)へ

 後醍醐天皇の幕計画は正中の変に続き、またまた失敗でした。

 今度は、鎌倉幕府は激怒しました。厳しい取り調べでした。

 文観等には死罪の決定が下されました。

 「たとえ身分の高い僧であろうとも、死罪にすべきだ」ということに決まったのです。

 しかし、次のような噂話がまことしやかにつたえられています。

 ・・・・執権の北条高時が眠っているとき、夢の中に数千の猿があらわれ、「われらは、比叡に住む仏の使者である」と、猿が高時(時の執権)につげたのでした。

 「僧たちに拷問(ごうもん)にかけたらしいが、かならず仏罰があろう。さきごろの地震も、そのむくいである・・・」と言って姿を消しました。

  もともと気の弱い高時は、夜中におきて、部下をやって、文観の獄舎をのぞかせたところ、獄舎の障子に、不動明王の姿が写しだされていたと高時に報告しました。

 「まことか。もしも仏罰があれば、おおごと」と、高時は文観の死刑をとりやめ、僧侶たちを遠島の処分に変吏したと・・・

 あくまで夢物語でしょうが、地震で被害をうけ、まだ野原でむしろ一枚で起居している庶民がおる状態で、もし坊主を殺したならば、ただ反感を買うだけだと考えなおしたのでしょう。

 後醍醐天皇隠岐の島へ流罪、日野俊基や文観等もそれぞれ流罪となりました。

 この時、一番の重罪は文観で、薩摩国・鬼界ヶ島硫黄島)に流されました。

 日野俊基は、流罪になり後に殺害されています。

 幕府は、後醍醐天皇等は日野資朝・俊基・文観等を失い、倒幕という大それた計画はできないであろうと考えたのです。

 しかし、これはさらなる動乱のはじまりにすぎませんでした。(no4549)

 *写真:鬼界ヶ島(薩摩・鹿児島県)

 きのう(11/11)の散歩(10.462 歩)

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文観と後醍醐天皇(17) (余話として)日野俊基の妻との別れ(『太平記』より)

2018-11-11 08:30:50 | 文観と後醍醐天皇

      余話として:『太平記』の文章を読んでみませんか

                 〝日野俊基の妻との別れ″

 元弘の乱で、俊基はつかまり、二度と都に帰れることはなく、そして死を覚悟していました。

 妻との別れの名文が、後世にのこっています。

 死の旅につながる不安と郷愁のみがうたいあげられています。しかし、後醍醐天皇のことについては、ひとこともふれていません。

 俊基のこの名文は、私事にとどめたのでしょう。

 『太平記』の一場面として語り継がれています。

 余話としてとりあげておきます。暗記しておきたい文章ですね。

    『太平記』より

  ・・・落花(らつか)の雪(ゆき)に踏()み迷(まよつ)ふ、

 交野(かたの)の春(はる)の桜狩(さくらが)り、紅葉(もみじ)の錦(にしき)を衣()て帰(かん)る、

 嵐(あらし)の山(やま)の秋(あき)の暮(くれ)

 一夜(ひとよ)を明()かす程(ほど)だにも、旅宿(たびね)となればもの憂()きに、

 恩愛(おんあい)の契(ちき)り浅(あさ)からぬ、わが故郷(ふるさと)の妻子(さいし)をば、行末(ゆくえ)も知()らず思(おもい)ひ置()き、

 年久(としひさ)しくも住()み馴()れし、九重(ここのえ)の帝都(ていと)をば、今(いま)を限(かき)りと顧(かえり)みて、

 思(おもわ)はぬ旅(たび)に出()で給(たも)ふ、

 心(こころ)の中(うち)ぞ哀(あわ)れなる。・・・(no4548

 *写真:文章とは直接関係ありません。

 ◇きのう(11/10)の散歩(10.552歩)

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文観と後醍醐天皇(16) 元弘の乱・文観捕らわる

2018-11-10 07:52:25 | 文観と後醍醐天皇

 

        正中の乱は失敗するも!

 幕府は、倒幕の中心となった日野資朝(すけとも)・日野俊基(としもと)を取り調べたが、下手な裁断はくだせませんでした。

倒幕を企てたといっても、密告だけで、これという証拠もなかったのです。

 もし、倒幕計画に加わったと思われる公家たちをことごとく捕え、後醍醐天皇までむりやりに退位させてしまえば、地方の武士や民衆の反発を買いかねません。

 決裁は、両名を死刑にするところですが、資朝(すけとも)は佐渡ヶ島へ遠島。俊基(としもと)は「無罪」としました。

 

 後醍醐天皇は、これでへこたれるような、やわな天皇ではありません。

 「倒幕」に二文字がますます燃え上がらせるのでした。

 それからしばらく経(た)って、宮中に、醍醐寺の文観僧正等が招かれた。

 「ご坊に、お願いがございます」と、俊基が殊勝な顔つきで、頭をさげるのでした。

     元弘の乱・文観捕らわる

 「お願いともうしますのは、鎌倉調伏(倒幕)祈祷をしていただきたいのです。

 もちろん、表向きは、中宮のご安産の祈赫(きとう)だということにしていただき、安産祈祷を口実にして、北条高時をのろい殺してもらいたい」と、俊基は、文観等たのむのでした。

 文観らは、正中の変のときから、倒幕の企てに関(かか)わっていたので、一言もなく、承知しました。

 嘉暦元年(1326)の春ごろから、文観等は、宮中に壇をかまえ、祈祷をはじめました。

 後醍醐天皇も祈祷に加わりました。

 またまた、この計画は漏れてしまいました。

 京都はうだるような7月11日(元弘元・1331)の夕刻でした。日野俊基の館は六波羅の武士により取り囲まれてしまいました。(元弘の乱)

 日野俊基はとらえられ鎌倉へ送られます。死を覚悟した鎌倉へ護の護送でした。文観等もとらえられ鎌倉へ送られたのです。(no4547)

 *挿絵:文観等とらえられる(『マンガ日本の歴史・18(石ノ森章太郎)』)より

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文観と後醍醐天皇(15) 正中の変(正中元年・1324)

2018-11-09 07:29:19 | 文観と後醍醐天皇

 

            混乱する社会
  14
世紀の初め、時の執権・北条高時は、田楽や闘犬にふけり、政治をかえりみることをしませんでした。

 そのため、政治は腐敗しました。

 社会の混乱は深まるばかりでした。後醍醐天皇は、その機会を政権を武士から取り戻し、政治を改めようと、鎌倉幕府打倒を決意しました。
 その事件の顛末を少し述べておきましょう。

     正中の変(正中元年・1324)

 この討幕計画の中心になったのは、日野資朝(すけとも)と日野俊基(としもと)です。

 資朝は、当時の公家政治の中心人物でした。いっぽう俊基は、身分はもともと低く後醍醐天皇からその才能を認められ取り立てられた人物です。

 後醍醐天皇の信頼のおける仲間内の会議で俊基から討幕の計画が提案されました。

 さすがの、仲間の貴族もびっくりしました。

 俊基は、天下の情勢、後醍醐天皇の決意を諄々と語りました。

 具体的には「倒幕の旗揚げの日は、来る9月23 日。北野の天神祭りの日で、この祭りに、武士の一団がまぎれこみ、わざと喧嘩をはじめる。

 そうすれば、六波羅探題(ろくはらたんだい)は騒ぎをしずめるために兵をさしむける。

 そこで、手薄になった六波羅を急襲し、探題を討ちとり、我らの兵をもって、宇治と大津を固め、まず京都を、朝廷の勢力下においてから、地方の武士たちに号令して、鎌倉へ押し寄せる」ということでした。

 その場の貴族たちもさすがに青くなったようです。

 その後、貴族たちの緊張を和らげるために、肌のすけて見える絹のひとえにまとった遊女と遊ぶ無礼講になったと太平記は伝えています。

 しかし、この計画は仲間内から漏れ失敗におわってしまいました。(no4546)

 *挿絵(無礼講):『マンガ日本の歴史・18(石ノ森章太郎)』(中公文庫より)

 きのう(11/8)の散歩(10.915歩)

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文観と後醍醐天皇(14) 八髻文珠菩薩(般若寺)の語ること 

2018-11-08 09:10:44 | 文観と後醍醐天皇

   

     後醍醐天皇の野望
  14世紀の初め、長く続いた鎌倉幕府も、蒙古襲来をきっかけに、その支配体制にかげりが見えはじめていました。
 時の執権・北条高時は、田楽や闘犬にふけり、政治をかえりみることをあまりしませんでした。

そのため、政治は腐敗し、社会の秩序も乱れ始めました。
こうした社会の混乱が深まっていた文保二年(1318)、後醍醐天皇が即位したのです。
 天皇は、政権を武士から取り戻し、政治を改めようと、鎌倉幕府打倒を決意しました。
 後醍醐天皇はまず、中宮の安産祈願に名を借りて、寺々に幕府打倒の祈祷を行なわせます。
 そして、自らも法衣をまとい、護摩を焚き、経を唱えながら、幕府調伏を祈祷しました。
     八髻文珠菩薩(般若寺)の語ること 

 後醍醐天皇の討幕にかける執念を知る手掛かりが、奈良の般若寺に残されていました。

 般若寺には古くから伝えられてきた仏像・「八髻(はっけい)文珠菩薩」(写真))があります。

 最近、歴史学者・網野善彦氏等の研究により、その文殊菩薩が後醍醐天皇の意を受けた文観が、幕府打倒を祈願してつくらせたものであったことが明らかになりました。

 菩薩の体内から、そのことを示す銘文が発見されたのです。

 銘文は「金輪聖主御願成就」とあり、般若寺の住職の話では、「文珠菩薩が大変痛んでいたので、解体修理した際に見つかった」ということです。

 「金輪聖主」とは後醍醐天皇のことです。

 後醍醐天皇は、着々と討幕の準備を進めていました。

 後醍醐天皇が幕府の目を欺くために、しばしば開いた宴会では「無礼講」で、参加者は、裸に近い姿で、女をはべらせ、酒を酌みかわしたといいます。

 これを隠れ蓑に、統幕計画を練っていたのです。

 さっそく仲間を集め、秘策が練られました。

 「この計画を隠すために行われた無礼講では、素肌のすける衣裳をつけた女をまじえ、無軌道な酒宴が開かれた」と『太平記』は書いています。

 しかし、この「革命ごっこ」は簡単にもれ、つぶされました。(no4545)

 *『堂々日本史』(KTC中央出版)参照、『異形の王権(網野善彦著)』(平凡社)

 *写真:(修理前の)八髻文珠菩薩(般若寺)

 きのう(11/7)の散歩(10.615歩)

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文観と後醍醐天皇(13) 文観と後醍醐天皇と結びつき

2018-11-07 10:19:33 | 文観と後醍醐天皇

    文観と後醍醐天皇と結びつき

 文観は、永仁3年(1295)西大寺に入り受戒し、文観25才の時文観・朱音を名乗り、叡尊の起こした真言律宗の叡尊の十三回忌の追善務める西大寺の真言律僧としてその姿を現しています。

 復習です。

 正安3年(1301)真言宗に入り醍醐寺の道順により真言僧となっています。

 醍醐寺は、もともと天皇家と縁が深い寺でした。そして、寺内の道順(淳)は、後醍醐天皇の信頼を得ていた僧でした。

 文観は、この道順(淳)の直弟子となりました。

 文観は、師である道順の線に連なって、後醍醐天皇に近づいたようです。

 たちまち、双方の政治家的な気質、野心家的な素質が急激に二人を親しくさせていきました。

 後醍醐天皇は、天皇家の家系では珍しいほど政治好きでした。

 政治の場から遠ざけられ、愛欲と詩歌書画の世界に埋没し、そのことにほとんど疑問を感じていなかった当時の歴代天皇の中では変り種といってもいい天皇でした。

 「自分は政治をやりたい」

 30才を過ぎて即位した後醍醐天皇は、はっきりそう考えたのです。

 一方、学問にも打ちこんで、「なぜ天皇自身が政治をすべきか」という理論武装もしました。

 理論には弱い日本人政治家のなかでは、異色の人物です。

 それも、机上の学問としてではなく、むしろ現実的(実用的:宋学)な学問を愛したようです。

 一方の文観も、また政治好きな人物でした。

    鎌倉幕府打倒を・・・・

 この二人が結びついたとき、「政治をわれらの手に。・・・そのためには、まず幕府打倒だ」と、エスカレートしていったのは当然のことだったのです。

 政治好き、権謀好きにとって、陰謀、革命くらい心の躍る課題はありません。(no4544)

 きのう(11/6)の散歩(10.303歩)

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文観と後醍醐天皇(12) 後醍醐天皇の絵像について

2018-11-06 09:26:37 | 文観と後醍醐天皇

    後醍醐天皇の絵像について

 当後醍醐天皇が紹介されるとき、かならずといってよいほど紹介されるのが、神奈川県藤沢市にある時宗の総本山、清浄光寺(しょうじょうこうじ)に伝わる上の後醍醐天皇の絵像です。

 この絵像で、後醍醐天皇は、天皇の正装である黄櫨染(こうろぜん)の抱(ほう)を着、その上に袈裟(けさ)を掛けて、右手には密教の法具の金剛杵(こんごうしょ)、左手には金剛鈴(こんごうれい)をにぎり、八葉蓮華の敷物の上に座したすがたで描かれています。

 かつては、後醍醐天皇が幕府倒す時の祈りを行うさまを描いたともいわれていました。

 が、この絵像が、文観を師として灌頂を受けたすがたを写したことが、最近、絵像に付属する文書(「揄祇灌頂之事」(「清浄光寺文書」)から知られるようになりました。

 この後醍醐天皇像については、歴史学者の黒田日出男氏が、両手の持ち物や、八葉蓮華の敷物から、大日如来(だいにちにょらい)と衆生を仲介する金剛薩埵(こんごうさった)に天皇をなぞらえたものとしています。

 また、内田啓一氏も、付属文書(「揄祇灌頂之事」)から この絵像を、揄祇灌頂(ゆぎかんじょう)を受けて金剛薩埵と一体化したすがたを描いたものとしています。

 

 先に紹介したように後醍醐天皇も文観も道順からある灌頂を受けています。

 そして、後醍醐天皇は文観から灌頂「揄祇灌頂」を受けています。

 文観と後醍醐天皇は真言(律)宗を通じて強い結びつきがあったようです。(no4543)

 *写真:後醍醐天皇像(清浄光寺所蔵)

 ◇きのう(11/5)の散歩(12.286歩)

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