ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

オマーン国王物語(23) オマーン王族 稲美町訪問(3) もっと知ろう オマーンのことを! 世紀のロマンスの話を!

2019-11-04 09:05:57 | 江戸時代、高砂の商業活動

   オマーン王族 稲美町訪問(3)

   もっと知ろう オマーンのことを! 世紀のロマンスの話を!

 オマーン夫人については、稲美町のあることを調べている時に、地元の人(Oさん)から聞き出した話題でした。

 Oさんも、はっきりとはご存じありませんでしたが、夫人の墓碑は、たまたま近くでしたので、案内してくださいました。

 インターネットで調べてみると、確かにオマーン国王が稲美町出身の方と結婚をされ、お墓が稲美町にあるとあります。詳しいことはわかりません。

 その後も、この話はずっと虫歯の疼きのように気になっていました。

 

 調べてみました。まさにドラマのような話でした。そこで、『オマーン国王夫人物語』としてまとめ、ブログで発信しました。  

 たくさんの読者が興味を持っておられました。 

 

 突然、話は、大きく展開しました。

 天皇の即位式にオマーンの副首相が参加されるというニュースです。

 「ああ、そうか・・・」と軽く考えておりました。

 即位式が、迫ってきた時でした。

 大使館から「即位式の後、副首相さんをはじめ、オマーンの一行が公式行事ではなく、私的に25日に稲美町のブサイナ姫の墓参をしたい」との連絡が入りました。

 稲美町には、この墓参と関係なく、数か月前に私のレポートを何冊か届けていました。

 それに大使館でも、ブログを読んでおられたようで、「墓参の時に私にも出席してほしい」という連絡が入りました。

 これが、私のような稲美町の住民でない異分子が墓参に紛れ込んだいきさつです。

 役場での会議のなかで、「もう一度、きれいな写真を加え、『オマーン国王夫人物語』を書き直してみたい」とお伝えしておきました。

 その日、副首相さんから、高価な時計までいただきました。ありがとうございました。(no4785)

 *写真:副首相さんから腕時計をいただきました。

    

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オマーン国王物語(22) オマーン王族 稲美町訪問(2)・感激の一日

2019-11-03 09:21:09 | 江戸時代、高砂の商業活動

   オマーン王族 稲美町訪問(2)

     感激の一日(10月25日)でした

 清子さん(ブサイナ元国王夫人)の墓参を済ませ、オマーン一行と墓でお別れしました。

 その時、アスアド副首相に、英語もどきでお礼を少しお話させていただきました。

 私は、今年76歳ですが、今まで現役の国のトップの方と直接お話をさせていだいたのは初めての経験でした。

緊張しました。

 25日の日程を紹介しておきますと、お墓に参ったのはオマーンの一行が稲美町役場の会議室で、すこしの会談した後のことです。

 その会談では、もちろん清子さん(ブサイナ姫のお母さん)のご親戚の杉本浜子さんとの話題が主になりました。

     アスファド副首相に拙書を紹介

 後半、町長(古谷)さんが、私のまとめた『オマーン国王夫人物語』を代表団に紹介してくださいました。

 その冊子の清子さんの結婚式の日に写された写真等を副首相も興味深くご覧になっておられました。

 この冊子このアスファド副首相のおじいさんのアルサイド氏、そしてその奥様のブサイナのことをまとめていたので、私ごときに声がかかったのだと思います。

 清子さんの墓参の前のいい話し合いになりました。

 10月25日は、忘れられない日でした。(no4784)

 *写真上:オマーンの副首相と最後の挨拶

    下:オマーン一行の方々との話し合い(稲美町役場にて)

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オマーン国夫人物語(21) オマーン王族 稲美町訪問(1)

2019-11-02 09:18:50 | 江戸時代、高砂の商業活動

 少し寄り道をします。オマーンの副首相が稲美町を訪問されました。以下の記事は、10月25日神戸新聞の記事からの再掲です。(記事を一部省略し、写真を変えています)

      オマーン王族 稲美町訪問(1)

 天皇陛下が即位を宣言する「即位礼正殿の儀」に出席するため来日した、中東・オマーンのアスファイド副首相兼国王特別代理らが25日、王族ゆかりの地である稲美町を訪問した。

 元国王夫人で、神戸でブサイナ王女を生んだ清子・アルサイド(旧姓大山)さんの墓に、同国関係者10人が花を供えた。

 約40年前には同王女が来町しており今回は副首相が墓参した。

 清子さんは1935年(昭和10)、カーブース現国王の祖父であるタイムール元国王と神戸で出会った。

 恋に落ちた2人は翌年結婚式挙げ、ブサイナ女王(日本名は節子)が誕生したが、39年(昭和14)清子さんが病没。

 元国王は清子さんの母の出身地である稲美町に墓を建て、王女を連れて日本を離れた。王女は、オマーンで王族の一員としてそだてられたという。

 この日、午後12時半ごろ、アスファド副首相らが、古谷博町長らと同町中村の大沢公園墓地を訪れた。

 ハンチング帽姿のアスファイド副首相は、清子さんの親戚で墓の世話を続ける同町の杉本浜子さん(74)とともに線香をあげるなどした。

帰る際に、惜しんで同副首相らと抱擁した杉本さんは「遠くからわざわざ来てもらいうれしかった。お墓に『清子さん、良かったね』と心の中で呼びかけた。帰る際に、惜しんで同副首相らと抱擁した杉本さんは「遠くからわざわざ来てもらいうれしかった。お墓に『清子さん、良かったね』と心の中で呼びかけた。

(以上神戸新聞より・一部省略)

     元国王夫人が眠る墓地へ

 墓参は、オマーンのアスアド副首相(現国王のいとこで、次期国王の有力候補者)、それにオマーンのトップ方々。稲美町からは清子さんの親族(杉本浜子さん)、それに町長・教育長等町の幹部の方の墓参でした。ここまでは、当然の方々の墓参です。

 一人だけ異分子がまじっています。私です。「なぜか、奇妙な組み合わせ」と思われたでしょう。そうです。まさに異分子です。(no4783)

 *写真上:手を合わせる杉本さん、後はオマーン副首相(中央の女性は通訳)

   中 :オマーンの副首相ら

   下 :清子さんの墓に手を合わせる私

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オマーン国王物語(20)  オマーン王族 稲美町訪問 ・元国王夫人が眠る墓地へ

2019-10-27 08:29:49 | 江戸時代、高砂の商業活動

 26日の神戸新聞は、オマーンの副首相兼国王特別代理のアスファイドらが稲美町への墓参について報じました。『オマーン夫人物語』の続きとして、転載させていただきます

    神戸生まれの王女に代わって

       オマーン王族 稲美町訪問

          元国王夫人が眠る墓地へ

 天皇陛下が即位を宣言する「即位礼正殿の儀」に出席するため来日した、中東・オマーンのアスファイド副首相兼国王特別代理らが25日、王族ゆかりの地である稲美町を訪問した。

 元国王夫人で、神戸でブサイナ王女を生んだ清子・アルサイド(旧姓大山)さんの墓に、同国関係者10人が花を供えた。

 約40年前には同王女が来町しており今回は副首相が墓参した。

 清子さんは1935年(昭和10)、カーブース現国王の祖父であるタイムール元国王と神戸で出会った。

 恋に落ちた2人は翌年結婚式挙げ、ブサイナ女王(日本名は節子)が誕生したが、39年(昭和14)清子さんが病没。

 元国王は清子さんの母の出身地である稲美町に墓を建て、王女を連れて日本を離れた。王女は、オマーンで王族の一員としてそだてられたという。

 この日、午後12時半ごろ、アスファド副首相らが、古谷博町長らと同町中村の大沢公園墓地を訪れた。

 ハンチング帽姿のアスファイド副首相は、清子さんの親戚で墓の世話を続ける同町の杉本浜子さん(74)とともに線香をあげるなどした。

 帰る際に、惜しんで同副首相らと抱擁した杉本さんは「遠くからわざわざ来てもらいうれしかった。お墓に『清子さん、良かったね』と心の中で呼びかけた。

 約40年前には、ブサイナ王女とも会っており、「(当時)『もう一度来たい』といわれ、再開を待ち望んでいたが、かなわないのは残念」と語った。

 オマーン国大使館によれば、ブサイナ王女は同国で健在。

 次期国王候補の一人とみられているアスファイド副首相は現国王のいとこで、王女のおいにあたる。(切貫滋巨)(no.4777)

 *写真:墓参りをするアスファイド副首相(左から4人目と杉本浜子さん(同2人目)=稲美町中村墓地

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オマーン国王夫人物語(19) 元オマーン国王妃・きょうの神戸新聞で紹介

2018-09-18 10:02:48 | 江戸時代、高砂の商業活動

 以前、「ひろかずのブログ」で「オマーン国王夫人物語」を18回シリーズで掲載しました。

 今日(9/18)の神戸新聞にオーマン国王妃・清子さんのことが掲載(24面)されています。嬉しくなりました。

 新聞記事を「オーマン国王夫人物語(19)」として掲載させていただきました。

 よろしかったら「ひろかずのブログ」のカテゴリー「オマーン国王夫人物語」をお読みください。新聞では紹介できてないことも知ることができると思います。

 新聞では貴重な写真も紹介されていますが、ここでは1枚だけの掲載になっています。

 

      オマーン元国王と結婚の邦人

             稲美町に墓所、親戚が守る

 約80年前、神戸で中東・アラビア半島のオマーンの元国王と結ばれた清子・アルサイドさん(旧姓大山)は結婚後まもなく、一人娘を残したまま亡くなった。その墓は兵庫県稲美町にあり、今も親戚が守り続ける。一人娘のブサイナ王女(80)は幼いころに日本を離れ、母の墓参りに訪れたのは40年前。その日、一緒に墓参りをした親戚、杉本浜子さん(73)=稲美町=は「代わりにお母さんのお墓を守っているよ、と伝えたい」と遠く離れた王女に思いを寄せた。(切貫滋巨)

 同国と日本の関わりなどを書いた遠藤晴男さん著「オマーン見聞録」(展望社)などによると、カブース現国王の祖父、タイムール元国王が、退位後に神戸に立ち寄ったのは1935(昭和10)年。ダンスホールで出会った当時19歳の清子さんと恋に落ち、翌年に結婚式を挙げた。

 2人は神戸で暮らし、程なくしてまな娘のブサイナ王女(日本名は節子)が生まれた。だが家族の幸せは長くは続かず、39(昭和14)年に清子さんが病没。元国王は墓を稲美町に建てた後、王女を連れて日本を離れた。それ以降、王女はオマーンで王族の一員として育てられたという。

 同町は、清子さんの母親の出身地。清子さん自身も生まれて数年を稲美で過ごしたとも言われる。

 その後、ブサイナ王女が来日したのは確認できる限り、たった1度だけ。父と日本を離れて約40年後の78年9月のことだった。

 王女のまたいとこに当たる杉本千明さん(故人)の妻、浜子さんら親戚一同が、墓参りのために同町を訪れた王女を出迎えた。「背が高く、とても優しそうだった」。浜子さんは今でもその様子を覚えている。

 王女は母親の墓の前で涙をぽろぽろと流し、通訳を通じて「母の記憶はほとんどないが、お墓という形が残っていてうれしかった」などと話したという。涙をティッシュペーパーで拭っていたため、浜子さんがハンカチを手渡した。見送りに行った新神戸駅で抱擁され、「ハンカチをもらってもいいか」と聞かれたという。

 比較的年齢が近いこともあってか、「顔を合わせるのは初めてだったが、何か通じ合うものがあった」と浜子さん。それ以来、杉本家の墓とともに、お盆や正月の墓参りを欠かさないという。

 浜子さんは今年も8月16日に、孫ら家族とともに清子さんの墓に手を合わせた。「『もう一度、ここに来たい』と言っていたが、かなえられていないのは残念」。でも「ブサイナさんと会ってからは、代わりにお墓参りをしている気持ち。元気でいる限りは続けたい」と話していた。

 駐日オマーン国大使館(東京)などによると、ブサイナ王女は健在で、首都マスカットで暮らしているという。公の場に出ることはほとんどない。(no4597)

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オマーン国王夫人物語(18) 「オマーン国王夫人物語」終了

2017-11-16 07:59:55 | 江戸時代、高砂の商業活動

      「オマーン国王夫人物語」終了

 時間がたつのは早いですね。

 25年ほど前になります。県立東播磨高校の東の用水(寺田用水)のことを調査するために歩いていました。

 その時、地元のOさんとお出会いしました。ひとしきり、お話をしました。

 どういうきっかけであったのか覚えていません。

 Oさんは、「この墓地にオマーン国王夫人の墓がありますよ」と教えてくださいました。

 その時は「こんな田舎にオマーン国王の奥さんのお墓があるはずがない・・・またまた、ふざけた話がつくられたものだ・・・」と軽く聞き流していました。

 その後、神戸新聞で国王夫人の姉妹のことが大きく紹介された記事を読みました。

 「おやおや!・・・」とビックリしました。

 そのため、ほとんど分からなかったのですが「ひろかずのブログ」で国王夫人のことの簡単な紹介をしておきました。

 その時も、それだけで終わっていました。

 不思議なことに、そんな記事でしたが、オマーン夫人についてのアクセスは他のテーマと違い、多くはないのですが続きました。

 それが最近、ブログを読まれたオマーンに仕事で出張された方から、オマーン国王夫人(節子さん)を紹介した著書を紹介していただきました。

 『アラビアの王様と王妃たち(下村満子著)』(朝日新聞社)です。

 それに『オマーン見聞録(遠藤晴男著)』(展望社)もあわせて何回も読みました。

 両著ともオマーン・オマーン夫人ついての誠実な紹介です。

 改めて紹介したくなり、「オーマン国王夫人物語」としてまとめました。

 いかがでしたか。

 最後に、オマーン国王妃とブサイナ妃を思い浮かべながら、オマーンの国花(赤いバラ)を紹介して「オマーン国王夫人物語」を終わります。

 お読みいただきありがとうございました。(no3782)

 *写真:オマーンの国花(赤いバラ)

 ◇きのう(11/15)の散歩(10.680歩)

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オマーン国王夫人物語(17) 親日的な国、オマーン

2017-11-15 08:42:58 | 江戸時代、高砂の商業活動

    親日的な国、オマーン
 オマーンは、東日本大震災でいち早く支援を表明、日赤に義援金、金額がアメリカ、台湾、タイについで4位でした。

 この「オマーン国王夫人物語」にあるように、現国王のカーブースの祖父は日本人女性と結婚し、現王妃ブサイナの母親(清子さん)は日本人でした。
 きっと、そうしたご縁もあったのでしょうね。

 現国王は、日本から自然や家族を大切にする価値観を学んでいます。

 また、「日本の進める平和・協調外交も参考にしている」といってはばからないほどの親日家です。

    もっと知ろう、オマーンについて

 オマーンにとって日本は最大の貿易相手国です。
 日本は、原油、天然ガス、アルムニウム、インゲン豆などを輸入しています。
 特に、われわれが冬場に食するインゲン豆の9割はオマーン産です。
 「3・11」東日本大震災の直後、オマーンからは1000万米ドルの義捐金やLNGの追加供給の申し出がありました。
 それに加えて、福島県南相馬市にある「落合工機」という会社に浄水器700台、大型浄水器14台の計26億円の発注がありました。

 しかも、驚いたことに、その発注に際し、「注文した浄水器は被災地でまず活用して下さい。わが国に送って届けてもらうのは、その後で結構です」との但し書きが付いていたことでした。(浜田和幸氏のブログより)

 私は、この「オマーン国王夫人物語」を纏めるまで、オマーンという国はサッカーで、その名前を知っているものの、それ以外の知識は皆無でした。

 オマーンは、もっと知るべき国のようです。

 いま、『オマ-ン見聞録(遠藤晴男著)』(展望社)を読んでいます。

 「オマーン国王夫人(清子)さん」についてはもっと紹介されてもよい物語です。 

 まして、私たちにとって身近な地域の歴史です。(no3781)

 *写真:東日本大震災(岩手県宮古市、2011年3月撮影)

 ◇きのう(11/14)の散歩(12.581歩)

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オーマン国王夫人物語(16) ブサイナ姫の墓参

2017-11-14 12:59:03 | 江戸時代、高砂の商業活動

 前号(no16)の清子さんの最後の日記をもう一度お読みください。

 清子さんの悲痛な叫び声が伝わってくる文章です。

    ブサイナ姫の墓参

 ブサイナ姫は、1978年に38年ぶりでターリック殿下とともに日本を訪問されています。

 お母さん(清子)の墓参のためです。

 その5年前に朝日新聞の下村記者との「必ず母の墓参に日本に行きたい」との誓いを果たされたのです。

 稲美町の墓に参られ、たくさんの親戚の方ともお会いになりました。

 この時、ブサイナ姫は、墓前で声をあげて泣き崩れたとのことです。

 *墓碑は、兵庫県立東播磨高校の前の大沢公園墓地にあります。

    神戸への訪問   

 墓参の後、神戸市内の両親の想い出の場所も散策されました。

 特に、両親の新婚生活の場であった葺合区の瀟洒な洋館も訪れ、ブサイナ姫はその塀を何度もさわりながら、「覚えている」とささやかれたそうです。

 今、この文は『オマーン見聞録(遠藤晴男著)』(展望社)を参考にさせていただいています。

 遠藤氏によれば、「下村氏は、ブサイナ王女とあった最初の日本人でもあり、その後も誰もあったという話は聞いていない・・」また、「ちなみにブサイナ姫は今もマスカット(オマーンの首都)市内で健在に過ごされている」と付け加えられています。(no3780)

 *写真:母の墓への墓参するブサイナ妃(テレビ番組TBS:アンビリーバボーより)

 ◇12日の散歩(10.288歩)

    きのう(11/13)の散歩(10.160歩)

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オマーン国王夫人物語(15) 清子さんの最後の日記

2017-11-11 21:15:01 | 江戸時代、高砂の商業活動

        ブサイナ姫にあう

 かたわらにいた、ターリック殿下は席をすすめてくださいました。

 ターリック殿下は、通訳をしてくださいました。

 「妹(ブサイナ姫)は、アラビア語以外話せないのです。

 今日は、私が通訳いたしましょう。本当ならば女性の通訳を方でもお願いして、女だけで和気あいあいでやっていただく方がよいのですが、何しろブサイナの出生に関する話には他人が介入してほしくないものですから・・・。おわかりでしょう? 

 これは、本当は内緒にして話にしておきたいのです。

 

 前国王のサイードは、ブサイナ姫を完全なオマーン人として育てることにありました。

 日本を離れた以上母親の国と全く断ち切ってしまおうという方針でした。

 私(ターリック殿下)は、日本の親戚の方と連絡をつけてやりたいと、手を尽くしたのですが、私自身、1962年、兄の政治に政治的に反対してオマーンをさり、以後はブサイナ姫とも会うことができなくなってしまいました。

    ブサイナ姫の形見

 三人での話の途中、ブサイナ姫は席を立って何かを抱えて帰ってこられました。

 「これは母が亡くなった時、一つの箱の中にまとめて入っていたものだそうです。

 日本語ですので、何が書かれているかわかりませんが、母の形見として大切に持っておりました。今まで誰にもお見せしたことがないのですが、何が書いて有る可読んでいただけないでしょうか」

 なんと、それは、母の清子さんがタイム―ル王との愛の生活を2年間欠かさず毎日したため日記でした。

 日記は、昭和13年1月1日から14年6月までほとんど欠貸さずつけられていました。

 14年春ごろ、病気が悪化してからは筆も乱れ、清子さんの心痛が胸にせまります。最後に日記から5ヵ月後に清子さんはなくなりました。

    最後の日記(昭和14年6月11日)

 ・・・私はどうしてこのような不幸な体になったのかと思い、自然に泣けてくる・・・神様ァ。

 神様、病気をするまでの私の朗らかな心はどこ。

 本当の自分の毎日の気持ちは、自殺をしたいと思う位だ。

 ・・・ブサイナのために生きたい・・・道行く人々はみな楽しそうだ。

 そうして、私だけがこう苦しい。病魔に負けてたまるか。勝たなければならない。

 かわいいブサイナのために。神様、何卒お見方下さい。我が子でありながら、そばへも寄っていけない。かわいいと思えばこそ、我が子の手にもさわれない。

 この病気さえなければ、と幾へん考えることか・・・(no3779)

 *写真:ブサイナ姫とターリック前首相(『アラビアの王様と王妃たち』より)

 ◇11/11の散歩(13.698歩)

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オマーン国王夫人物語(14) 下村満子記者ブサイナ姫と会う

2017-11-11 07:15:56 | 江戸時代、高砂の商業活動

 以下は、『アラビアの王様と王妃たち』を引用しています。

 朝日新聞記者・下村満子さんの記事の文体を少しだけ変えています。

    下村満子記者(朝日新聞)ブサイナ姫と会う

 朝日新聞は、かねてから秘かにターリック元オマーン首相と連絡を取っておられました。

 朝日新聞の下村記者はオマーンに着いてから連絡をとると、殿下から「・・・ブサイナ姫のことをいろいろ調べてくださってありがとうございます。

 姫は、あなたにお会いして詳しいお話を聞くのを楽しみにしています。明日ホテルに車をさしむけます。ぜひお越しください・・」という嬉しい内容でした。

 翌日ブサイナ姫の豪邸につきました。

 ・・・白い大理石の会談を上がると、左側が中庭になっており、右側の廊下づたいに部屋が並んでいます。

 その中の一つの扉を案内人があけました。

 白いカーテンを通して、明るい光の流れる部屋の中は、意外にも、白と黒を基調にした家具を並べたモダンな大広間でした。

 壁を背にして、一人の女性が座っておられました。その人がブサイナ姫でした。

 上下にアイライナーをくっきり入れた黒い大きな目。琥珀色の肌。

 背は165センチもあるでしょうか、大柄でその上肉付きの良い人でした。

 馬とオレンジの花模様の裾の長い衣装を着ておられ、オレンジ色のジョーゼットのベールの下から香油をつけた艶のいい黒い髪がのぞいています。

 どちらからともなく近寄り、手と手を軽く触れあうだけの柔らかな握手をしました。

 かすかに微笑んでおられるようでした。そして、じっと私(下村さん)を見つめられるのでした。

 アラビア人よりもずっと日本人に近い顔立ちをしておられます。(no3778)

 *写真:ブサイナ姫邸(『アラビアの王様と王妃たち(下村満子著)』より

 ◇きのう(11/10)の散歩(12.151歩)

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オマーン国王夫人物語(13) 開明的なカーブース王

2017-11-10 07:38:04 | 江戸時代、高砂の商業活動

    サイード王からカーブース王へ

 今日は、すこし、「オマーン国王夫人物語(3)」の復習をします。

 ・・・前国王・サイード国王は、外国で教育を受けた知識人でした。

 が、国民に「金を与えず、教育をあたえず、外の世界をみせない」ことが権力を保つただひとつの方法だと信じていました。

 そして、自分に批判的な息子のカーブース皇太子まで軟禁状態にしてしまったのです。

 オマーン国民は次第に不満をつのらせてゆきました。

 19707月、サイード王の一人息子のカーブース皇太子はクーデターをおこし、父から王位を奪取しました。

      開明的なカーブース王

 こうして、オマーンの暗黒政治の時代は終止符を打つことになりました。

 新しく王位についたカーブースはブサイナ姫にとっては甥にあたります。

 その後、若いカーブース(現国王)は、国民の支持を得ながら、失われた時代を取り戻すべく、今全力を挙げて近代化をという課題に取り組んでおられます。

 王位を奪われた父・サイードは、その後ロンドンに亡命しましたが、2年後の1971年に病気で亡くなりました。

 

 カーブースは、父サイードの保守的な政策とは正反対開放的、進歩的な政策を打ち出しておられます。

 ブサイナ姫は、日本人にはもちろんオマーン人にとっても秘密のベールに包まれていました。

 時代は変わり、民主的になりつつとはいえオマーンは回教国です。男性の記者は、ブサイナ妃に直接会うことはできません。

 ブサイナ姫のことを知った朝日新聞社は、女性記者・下村満子さんをオマーンに派遣しました。

 幸い、オマーンの要人・ブサイナ姫の後見人であり、異母兄である元オーマン国首相のターリック殿下と連絡を取ることができ、ブサイナ姫との面会が可能となったのです。(no3778

 *写真:現国王のカーブース王

 ◇きのうの散歩:(4.476歩)‐お見舞いのため京都に出かける‐

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オマーン国王夫人物語(12) 短かった幸せな生活

2017-11-09 07:13:37 | 江戸時代、高砂の商業活動

 日本を訪れたタイム―ルの長男サイード王が後に閉鎖的な圧制を敷いた専制君主になるのですが、この時はまだ、若く聡明な国王でした。

 *前国王サイ―ドの政治については『オマーン国王夫人物語(3)・鎖国時代から近代化へ』をご覧ください。

    短かった幸せな生活

 タイム―ルが神戸に300坪ほどの土地を買いスイートホームの建設に取りかかりました。

 ここに、「二人の愛は永遠のもの、ここを永住の地と定める」といった意味のアラビア語の文字を刻みこみました。

 このころが二人にとって一番幸せな時でした。

 しかし、幸せなときは長く続きませんでした。

 清子さんが結核に侵されたのです。このころ結核は不治の病として恐れられていました。

 タイム―ルは、清子さんを立派な病院に入れました。

 しかし、病状は悪くなるばかりでした。

 タイム―ルは困惑してしまいました。

    タイム―ル、一時神戸を離れる

 「このままでは、ブサイナ姫や自分に病気が移ってしまう・・」と考えたタイム―ルは、一時日本を離れることを決意しました。

 姫は、とりあえず清子さんの母が預かることになりました。

 その後、インドのボンベイに落ちづいたタイム―ルと清子さんの間には、何通もの愛の手紙が交換されています。

 この手紙は、後に見つかりました、後日、その一部を紹介することにします。

 タイム―ルが日本を離れて間もなく、昭和1411月、清子さんはこの世を去りました。23才でした。

 清子さんの死後いったんタイム―ルは日本へ帰りお墓(写真手前左端の墓)を建立した後、ブサイナ(当時3才)とともに日本を去りました。

 太平洋戦争の始まる直前のことでした。(no3777

 *写真:清子さんの墓碑(県立東播磨高校の前の墓地)

 ◇きのう(11/8)の散歩(11.566歩)

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オマーン国王夫人物語(11) オーマン国王サイード神戸へ

2017-11-08 09:03:36 | 江戸時代、高砂の商業活動

    オーマン国王サイード神戸へ

 ブサイナ姫の誕生直後、父タイム―ルの後を継いだ長男のサイードと、その弟のターリック殿下が日本を訪れました。

 二人はブサイナ姫にとって異母兄にあたります。

 この時に、はじめてタイム―ルが元国王であったということが、日本人に知られました。

 以下、新聞記事(昭和121224日付・神戸新聞)からの引用です。

   オマーン国王・サイード

     父(アルサイド)と清子さんに対面

 ・・・ラクダに乗った隊商が砂漠をゆきかうアラビアのオーマン国王の王位を惜しげもなくかなぐり棄て、昨年秋来朝、神戸葺合区の宏荘な洋館に・・・

 日本人の夫人をめとり、愛児までもうけ、周囲の人に、かつての王位を固く秘めて、悠々自適の生活を送っているタイム―ルを頼って、現オーマン国王でありアルサイド氏御曹司、本年28才のスルタン(王)とその御弟君で18才のターリック殿下が7名の従者を従えて、御兄弟仲睦まじく打ちそろって、世界観光のかたわら、久しく御対面のなかった御父君を異国のそらに訪ねて、23日神戸入港の箱根丸で船路をようよう来朝した。

 ・・・はるばる故国から愛児二人を迎える歓びのアルサイドさんのお宅では、朝からオーマン国王への真っ赤な国旗と日章旗を掲げて・・・国王と王弟を迎え、ここで初めて元国王と国際結婚をして玉の輿乗った大山清子夫人(21)と晴れて対面を交わし、数年ぶりに故国の想い出話に団欒の一夜を送った。

 なお、元国王・アルサイド氏は、・・・国際情勢から「元国王」の肩書を秘密にしていた・・・(no3776)

 *今日の写真はありません。

 ◇きのうの散歩(10.541歩)

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オーマン国王夫人物語(10) ブサイナ妃誕生

2017-11-07 07:30:36 | 江戸時代、高砂の商業活動

 以下の記事は、昭和11年9月18日付・大阪毎日新聞からの転載です。

     清子さんとの幸せな生活

 

 ・・・観光の旅でふと知り合った日本女性に熱砂そのまま灼つくような情熱を傾けて、日本を永住の地と決め、港都神戸に国際ロマンスを投げたアラビアオマーンの豪族千万長者タイム―ル・アルサイドは、愛人の元神戸キャピトル・ホールのダンサー大山清子さんに〝家財をまとめて秋にはきっと帰ってくる″と誓った通り、17日朝、神戸入港のドイツ船で再び来朝した。

 ・・・旅のつれづれに清子さんと踏んだステップが、そのまま愛のステップとなって二人は固く結ばれ・・・

 明石で日本式に三々九度の結婚式を挙げ、家財の整理に帰国したもので・・・17日朝清子さんは、母親や親せきの人々ともにで迎え、愛の須として用意された葺合区中尾町の坂の上の真新しい、しょうしゃな洋館に入った・・・・

 

     ブサイナ妃の誕生

 二人はふかく愛しあって幸せそうな夫婦でした。

 家にはオマーン人の料理人や下男がいて、清子さんはいっさい家事で手を汚すこともなくなり、高価な宝石やドレスを身に着け。王と二人で食事に出かけたり、ダンスを踊ったり、まさにシンデレラの生活でした。

 そして、昭和12年10月ブサイナ姫が生まれました。

 なお、「ブサイナ」はアラビア語で「美しい」という意味を持つ一般的な女性名です。(no3775

 *写真:タイム―ルオマーン元国王とブサイナ姫(昭和15年‐195010月撮影)ブサイナ姫の母・清子さの死去後に撮影したもの。

 ◇きのう(11/6)の散歩(10.338歩)

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オーマン国王夫人物語(9) 清子さん、タイム―ル元国王と結婚

2017-11-06 08:59:39 | 江戸時代、高砂の商業活動

   

    タイム―ルは、清子さんにプロポーズ

 清子さんは、稲美町向山の農家に生まれました。

 満2歳の時でした。

 お父さんが急死し、その後母親・しげのさんは清子さんを連れて、神戸に住む大工の大山勘治さんに嫁ぎました。

 勘治さんは、まじめな人でした。

 でも、家系は苦しくて、年頃になった清子さんは、神戸市内のダンスホールへダンサーとして働きに出るようになりました。

 そして、タイム―ルは彼女を見そめ、プロポーズをするまでになりました。

 この段階で、タイム―ルは、元オマーンの国王であるということを清子さんに伝えていません。

 周囲もそのことを知らなかったようです。

 当時は、国際結婚も少ない時代でした。それに19歳と42歳という歳の差があり、両親は、はじめタイム―ルとの結婚に反対していました。

 が、タイム―ルの熱心さに押され、二人の結婚を認めました。

     清子さんとタイ―ムール、明石で挙式

 タイム―ルは、昭和11年日本での永住を決意し、55日に明石で純日本式で挙式を行いました。

 タイム―ル42才。清子さんは19才でした。

 その後、家財整理のためいったん帰国し、9月再び来日しました。

 昭和11918日付けの大阪毎日新聞は「アラビヤの豪族愛人の懐へ帰る みなと神戸娘朗らか‐契りは固し」という見出しで大きく報じています。

 次回の「オマーン国王夫人物語」ではこの大阪毎日新聞の記事を紹介することにします。

 この段階でも、清子さんおよび家族、新聞記者たちにタイム―ルが元オマーンの国王であったことは知らされていませんでした。

 これは、当時の国際情勢にあったようです。オマーンは、イギリスと同盟関係にあり、日本はイギリスと敵対していたことにあったようです。(no3774

 *写真:清子さん(結婚式当日の写真)とタイムール元国王

 ◇きのう(11/5)の散歩(11.696歩)

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