ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

江戸時代、高砂の商業活動(46)  経済(商業)都市・高砂の変貌 

2017-08-11 09:13:54 | 江戸時代、高砂の商業活動

 

        経済(商業)都市・高砂の変貌 

 高砂の町は、池田輝正の姫路への入部(慶長五年)後、ここに城が築かれ城下町として出発しました。

 城下町は、まず政治・軍事都市であり、そして経済都市の性格をもちました。

 しかし、高砂の町の性格を決定づけたのは、元和元年(1615)の武家諸法度の「一国一城令」でした。

 以後、高砂は政治・軍事都市から港町、つまり経済(商業)都市として整備を進めていくことになりました。

 加古川流域という豊かな後背地と高砂の町は、加古川(高瀬船)により結ばれ、高砂の町は、江戸時代をつうじ繁栄することになりました。

やがて、江戸幕府は倒れ、時代は明治へと大きく変わります。

 従来の領主の貢米がなくなり、それにたよっていた多くの問屋が没落しました。

 息の根を止めたのは、山陽鉄道(現:JR山陽線)開通でした。

   工業都市に活路をみつけようとしたが・・・

 明治21年に開通した山陽鉄道(現:JR山陽線)は、最初から加古川を通るように計画されていたのではありませんでした。

 当初の計画では、東二見(明石市)・高砂・飾磨(姫路市)・網干(姫路市)の海岸線を通過する予定でした。

 高砂は、当時海運業を中心に発展した町で、町の有力者は「鉄道敷設」に反対しました。

  鉄道が高砂を通過することにより海運が衰えるというのがその主な理由でした。

 その結果、海岸に予定されていた鉄道は、加古川の町を走ることになり、大正2年(1913)加古川線・高砂線が開通し、今まで高砂に集まっていた物資が、加古川の町に集まるようになりました。

 鉄道を拒否した高砂の町の衰退は決定的になりました。

結果、高砂は、工場誘致に活路を見つけることになりかした。

 注目したいのは、一般的に高砂への工場誘致の条件は企業側に有利に進められることになりました。

 やがて、高砂の町からの浜は企業のものになっていったのです。(no3685)

          完・江戸時代、高砂の商業活動  

*挿絵:江戸時代、賑わった高砂神社祭礼の風景(高砂神社提供)

◇きのう(8/10)の散歩(12.343歩)

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江戸時代、高砂の商業活動(45) 竜山石

2017-08-10 09:00:50 | 江戸時代、高砂の商業活動

    竜山石

 竜山石について触れておかねばいけません。

 古代の加古川の主流は、現代の加古川よりも西をながれていたと想像されます。

 河口は、竜山の採石場(写真)のあたりだったのでしょう。

 このあたりは、加古川の河口というよりも、海がせまり湾のような地形をつくっていたようです。

 そこに、竜山石の採石場がありました。

 真壁夫妻の研究によれば「五世紀ごろの畿内大王家の古墳のほとんどは竜山石であり、竜山が五世紀の畿内勢力と密接に関係し、畿内勢力下で、この石切り場が開発されたとも考えられる」と、述べておられます。

 竜山石は、もちろん大和地方へだけではなく、はるばる九州地方にまで運ばれました。

 竜山石は、水上により目的地まで運ばれ、当時の運搬用具である「修羅(しゅら)」に移しかえられ設置場所まで運ばれたのでしよう。

 道路の整わない当時の陸上を運ぶより、水上を運んだ方がはるかに容易に早く運べました。

 竜山石は、加工しやすい柔らかい石材(凝灰岩)でしたが、何よりも運搬に便利な川(湾)に面した絶好の場所にありました。

    竜山石は藩の専売制品に
 話は江戸時代に飛びます。

 江戸時代初期、慶長年間の姫路城や明石城には、石垣などの建築構造資材として竜山石が大量に使用されています。

 天保7(1836)年、姫路藩の専売品となり鳥居・燈籠・狛犬・石臼・石垣・石段などに広く利用され全国に供給されていきました。

 その後、近代になると美しく優れた建築資材として盛んに活用され、明治3(1870)年に、旧造幣局幣鋳造所、大正11(1922)年、住友銀行本店ビル、昭和3(1928)年には京都ホテル旧館や旧国鉄大阪鉄道管理局等の外壁を飾りました。
 伊保山、竜山などに登ると、山の尾根上に古い時代の石切場の跡を見ることができます。(no3684)

 *写真:竜山石

 ◇きのう(8/9)の散歩(11.273歩)

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江戸時代、高砂の商業活動(44) 高砂の漁業

2017-08-09 10:42:50 | 江戸時代、高砂の商業活動

 きょうの高砂の漁業は、今井修平先生の書かれた「たかさご史話(49」」をお借りしました。(文章を少しだけ変えています)

    高砂の漁業

 高砂では漁業も盛んでした。

 安永2年(1773)の高砂町の明細帳には「漁船118艘・船持115人、曳網船25艘・船持20人」とあります。

 また、町名にも漁師町、釣舟町、狩網町があって.それぞれ51世帯202人、111世帯、435人、68世帯296人が住んでいました。

 漁船の数からいえば、その大部分が漁業で生活していたといえるでしよう。

 そのほかにも、魚町91世帯341人がありました。

 その全では無いでしょうが魚問屋や生魚や塩干魚を加工・販売する商人も多く住んでいたと思われます。

     漁業権

 姫路藩主が参勤交替で国元に在住している年には高砂の町中として塩鯛10枚を歳暮として献上する習わしがありました。

 それは姫路藩から高砂に対して漁業権が認められていたことへの謝礼の意味がありました。

 それとは別に、毎年、高砂漁師から塩鯛420枚、塩鰆100本、干鱧300本を献上する替わりに、それぞれ銀336匁、150匁、10匁5分が上納されていました。

 これらも、漁師たちか漁案権を認められることに対するお礼の献上物であったものが、安永2年の段階ではすでに金納となっており、営業税的な性格に変わっていたと考えられます。

 また、網を用いる漁業に対して営業艦札が発行されており、これらにも銀納で運上銀が課されています。

 その他に、川漁師にも同様に運上銀を課しています。

 播磨離の海域には岡山や摂津(神戸方面)からも漁師が入り込みますので、姫略藩としては高砂、飾磨を始めとする領内漁村の漁師を保護するとともに、領外への漁獲物の叛売を制限して城下町姫賂を中心に領内の食科資源を確保する政策をとっています。(no3683)

 *「たかさご史話(49)・高砂の漁業」参照

 *地図:高砂周辺の主要漁村と高砂の諸漁場(『高砂市史第二巻』)より

◇きのう(8/8)の散歩(11.107歩)

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江戸時代、高砂の商業活動(43) 幻の高砂染(4)・「高砂染」再興へ

2017-08-08 07:58:20 | 江戸時代、高砂の商業活動

 

 5月30日(火)、神戸新聞は「高砂染」のニュースを掲載しました。

  「高砂染」の余話として掲載します。

      「高砂染」再興へ会社設立

             創始家子孫らも支援

 高砂染の再興を目指す団体「エモズティラボ」(兵庫県高砂市高砂町鍛冶屋町)が6月1日に株式会社化するのを前に、姫路市本町で会社設立発表会をこのほど開いた。高砂染の創始家とされる尾崎家と井上家の子孫も出席し、事業への支援を約束した。9月ごろには新ブランド「アムタ」から、新デザインのスカーフなどを発売する予定。

 同団体は昨年夏に発足した。尾崎家17代目当主の尾崎高弘さん(51)=加古川市加古川町=が相談役となり、活動を全面的に支えてきた。これまでに高砂染の代表的な松葉柄を取り入れたデザインの風呂敷や文具などを開発。高砂染の復興へ本腰を入れるため、株式会社化にかじを切った。

 これまでは織物を使っていたが、今後は型染めに取り組む。高砂染の古布に倣い、本来のデザインに近づけ、異なる2枚の型を重ねる技法も取り入れる。アムタではスカーフやストール、ランチョンマットなどの製造を検討しており、インターネット販売やイベント出店で販路を拡大していくという。

 代表を務める寄玉昌宏さん(32)=同市西神吉町=は「高砂染の原点に立ちながら、新たな高砂染を発信したい」と意気込む。高砂染の復刻版の製作に向け、インターネットを通じて個人から資金を募るクラウドファンディングにも取り組む。7月末までに175万円を目標とし、協力者には3千~5万円の投資額に応じて、アムタの新商品や、復刻版の高砂染などを贈る。

 発表会には、井上家の子孫で高校教員の井上国雄さん(57)=姫路市神屋町=も駆け付けた。染め物屋は2代前で閉じたといい、「これまで染め物を意識せずにきたが、このご縁をきっかけに協力していければ」とエールを送った。尾崎さんは「一度途絶えた高砂染の復興は困難な道のりだが、歴史や技法などに立ち返り、前に進んでいきたい」と力を込めた。(小尾絵生)

 (高砂染の説明略) (no3682 )

 *写真:姫路藩の下で発展した高砂染めにちなみ、姫路城を背景に協力を約束する(右から)尾崎高広さん、寄玉昌宏さん、井上国雄さん=姫路市本町(記事・写真ともに神戸新聞より)

 ◇きのう(8/7)の散歩(11.382歩)

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江戸時代、高砂の商業活動(41) 幻の高砂染(3)・高砂染の終焉

2017-08-06 09:11:06 | 江戸時代、高砂の商業活動

     幻の高砂染(3)・姫山絞の台頭

 明治時代も高級品として生産が続いていた高砂染は、大正10年代になると新たに姫山絞(ひめやましぼり)の生産が目につくようになりました。

 大正14年(1925)発行の『姫路商工案内』の広告ページに、姫路染色業組合の22名の名が掲載されています。

 それを見ると、組合長として「寺島仙吉」、副組長として「吉田廣吉」の名があり、最後に高砂染の「井上勘右工門」も名を連ねています。

 姫山絞は、木綿を用いた藍染絞の一種です。

 大正13年7月発行の一『姫路之実業』を見ると「姫山絞と高砂染合せて16万円」という数字が見られますが、このうち高砂染の占める割合は姫山絞よりも少ないものと考えられます。

 昭和4年発行の『産業要覧』にも、「現在、姫路市の染織品は紺染、高砂染、姫山絞などですが、姫山絞は価格の低簾なること、容易に鎚色せざる点に於いて他に比なく、毎年その生産額を増し、販路は国内各地方に及ぶ」と記されているように、絞り染が盛んになった理由は、より安いコストの商品が民間に供給されたことを示すものです。

 これまでの型染ならば、わざわざ伊勢に型紙製作を依頼する必要があり、それだけ製作にかかる日数とコストがかります。

 それに比べ、藍染めの絞りならば型紙は必要なく、注文を受けてすぐに取りかかることができました。

 こうして、高砂染は時代が下るにつれ、より安易でコストの安い絞り染に押されることになりました。

     高砂染の終焉

 昭和に入ると高砂染の名を文献上で見つけることは、いよいよ難しく、『姫路』(昭和5年発行)と『ひめじ』(昭和8年発行)の掲載広告に中州喜平、『高砂実業協会』(昭和2年発行)に藤尾呉服店の名が見えるのみです。

 このうち後者の藤尾呉服店は高砂北本町に店を構えており、広告には「高砂名産・高砂染」とありました。

 また『高砂染顛末記』には次のような記述も見られる。

 田植には高砂染は欠かせぬものであり、また「高砂染の時代が下ること、腰巻に用いたことがあった」と記されています。

 現段階では、高砂市内における高砂染についての資科を欠くため、明確なことはわからないのですが、徐々に簡略化した高砂染となっていたようです。

こうして、江戸時代、姫路藩の高級品であった高砂染は、昭和のかなり早い時期に終焉を迎えました。(no3680)

 *『姫路美術工芸館紀要3』(山本和人論文)参照

 ◇きのう(8/5)の散歩(12.390歩)


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江戸時代、高砂の商業活動(40) 幻の高砂染(2)・相生屋勘右衛門説

2017-08-05 07:41:40 | 江戸時代、高砂の商業活動

 高砂染の始まりには二説があります。

 前号では高砂の尾崎庄兵衛説を紹介しましたが、他の説は次のようです。

   相生屋勘右衛門説

 高砂染は、相生屋勘右衛門のはじめた染物であるとする説です。

 「相生屋の先祖は、徳島の藩士・井上徳右衛門といい、約三百年以前に姫路へ来て染め物業を始め、五代目・勘右衛門に至って、藩主・酒井侯により松の模様を染めて献上して、屋号の相生屋を賜わりました。これが高砂染の起源である」といいます。

 高砂染の最初については、以上のように尾崎庄兵衛説と相生屋勘右衛門の二説があり、はっきりとしていません。

 姫路と高砂と場所はことなっていますが、江戸時代、姫路藩の染め物業者として「高砂染」の生産を行っていたようです。

    河合寸翁の政策

 特に、河合寸翁が家老になって以降は、高砂染は姫路藩の献上品として定着していくことになりました。

 寸翁は、困窮した藩の財政を立て直すために木綿の専売制を実施したことで知られていますが、一方で、姫路藩の多くの国産品の奨励にも力を入れました。

 天保三年(1833)には、藩校であった好古堂内に御細工所を設けて高砂染の染色を実際に行っています。

 そして、「高砂染」を姫路の特産品として江戸、大坂などへ積極的に流通させました。

 文献上、高砂染の起源は、現在のところ18世紀中葉まで遡ることができます。

 その後、高砂染は江戸時代のみならず明治、大正、昭和と存続し、高砂を含めた姫路の広い範囲で染められ、より多様な展開をみせました。

 河合寸翁が亡くなり、やがて明治時代を迎えて、高砂染が藩の保護を解かれて後も生産は続きました。(no3679)

 *『姫路美術工芸館紀要3』(山本和人論文)参照

 *写真:高砂染の文様(松枝、松葉、松かさ、霰)・姫路美術工芸館蔵

 ◇きのう(8/4)の散歩(11.270歩)

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江戸時代、高砂の商業活動(39) 幻の高砂染(1)・尾崎庄兵衛が「高砂染」をはじめる

2017-08-04 05:38:12 | 江戸時代、高砂の商業活動

     幻の高砂染(1)

 「高砂染」の話をしましょう。

 「高砂染」の始まりについては、今のところ二説があります。「高砂説」を中心に紹介します。

     尾崎庄兵衛が「高砂染」をはじめる

 「慶長六年(1601)、姫路藩主池田輝政は高砂付近を開発し堀川をつくりその産業奨励の意味で、高砂の尾崎庄兵衛を召して木綿染をつくらせ「おぼろ染」として売り出しました。

 後に、庄兵衛は自邸でその業を営み、〝高砂染〟と改称した」というのがその一つの説です。

 『高砂町誌』(昭和55年4月発行)によると、「・・・慶長の頃、高砂鍛冶屋町に尾崎庄兵衛という人がいました。父祖の業をついで鍛冶職を営んでいました。

 庄兵衛は、常に考える人でした。

 たまたま、領主池田輝政が民間の生業を奨励するに当り、庄兵衛を召して染色をさせました。

 庄兵衛は、日夜思いをこらし遂に一種の染め物を創案し、これを輝政にすすめました。それは、紋様が鮮やかで見事な出来栄えでした。

 そこで、輝政は庄兵衛を姫路に出府させ、これをつくらせて、「おぼろ染」と名づけました。

 当時この「おぼろ染」は輝政の紹介もあって諸藩士、業界に用いられ、庄兵衛はその用達に努めました。

 後年、高砂の自邸でその業を営み「高砂染」と改称し、以来これを家業として高砂染は高砂の名産となりました・・・」(高砂雑志)より

     高砂染は、江戸時代中期以降か?

 昭和52年の「兵庫縣社会科研究会会誌」第24号で、玉岡松一郎氏は「高砂染顛末記」の中で、次ように記しておられます。

 「慶長6年3月11日、姫路藩主池田輝政は高砂附近を開発し堀川を造りました。

 その時、産業奨励の意味で、尾崎庄兵衛を召して紙型による木綿をつくらせ、「おぼろ染」と名付け、諸藩にも販売しました。

 尾崎家の隣家の川島家も後世に染色しており、新しい図柄ができて「高砂染」と名を変えるようになったのは江戸後期のことでしょう・・・」

 また、尾崎庄兵衛は実在の人物で、先の玉岡松一郎著の『高砂染顛末記』に次のように書かれています。

 「・・・高砂市鍛冶屋町に現在自転車・単車等を盛業しておられる尾崎庄兵衛の子孫である尾崎庄太郎氏(明25生)を訪問する。

 現在、布等は一切残ってなくて、紙型は明治末頃に一度整理し、なお、40~50枚残っていたが、戦時中に防空壕に入れたり出したりしているうちになくなってしまったといわれる・・・」

 尾崎庄兵衛が、高砂染を行っていたことは事実と考えられます。

 しかし、その始まりが池田輝政の時代というのは、少し無理があるようです。

 というのは、綿作が盛んになるのは江戸時代中期以降のことです。時代はかなり下るものと思われます。(no3677)

 *『姫路美術工芸館紀要3』(山本和人論文)参照

 *写真:高砂染め着物(姫路美術工芸館蔵)

 ◇きのう(8/3)の散歩(12.582歩)

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江戸時代、高砂の商業活動(38) 申義堂(13)・申義堂、高砂へ帰る

2017-08-02 07:01:57 | 江戸時代、高砂の商業活動

     申義堂、高砂へ帰る
 先に紹介したように、申義堂の建物は、高砂警察署ノ建設に伴い、明治125月に姫路光源寺の説教所として印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロに移築されました。
 昭和78年ころまでは光源寺の説教所として使われていたようですが、戦争中は軍の宿舎となり、戦後は村の倉庫に転用されて、もと、どういう建物であったかも忘れられて、物置同然の荒れた姿になっていました。
 それが、「申義堂」の建物であったことがあらためて確認されたのは、平成24月でした。

 天井に棟札があり、明治12年の移築が確認されました。

  その後、平成5年に高砂市にひきわたされ、平成6年に解体され、しばらく高砂市教育センターに保存されていましたが、平成23年、高砂市横町に江戸時代当初の姿に復元されました。

 お訪ねください。土・日は公開されています(no3675

 *『高砂市史(第二巻)・通史編近世』・『長谷川亀次郎を偲ぶ』(長谷川史子)参照

 *高砂地図(岸本家・長谷川家・元の申義堂・現在の申義堂の場所を確認ください)

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江戸時代、高砂の商業活動(37) 申義堂(12)・岸本家、姫路藩の御用商人も務める

2017-07-31 09:40:44 | 江戸時代、高砂の商業活動

     岸本家・姫路藩の御用商人も務める

 話は高砂に戻ります。

 申義堂のスポンサーの岸本家は、印南郡大国村(現:西神吉町大国)から、享保年間(1716~35)に高砂町(たかさごまち)に進出したことに始まります。
 大国村の岸本家の本業は、木綿業を行なっており、高砂岸本家も木綿屋(木綿屋)と称し、木綿問屋経営が本業でした。
 岸本家は、木綿売買のために加古川河口の港町高砂町にその拠点を設けるために、高砂町に移りました。

 高砂の岸本家は、その地の利を活かして大いに発展しました。

 岸本家は、三代で、その基礎が確立し、資産は、持高約270石を含め、銀高にして83貫目にも達したといいます。
 そして、岸本家は、従来の高砂町の特権商人であった大蔵元などの有力商人として、高砂町の大年寄役に就任し、高砂町の行政の一端を担うようになりました。
 また当時、姫路藩では家老・河合寸翁が中心となって藩政改革が進められ、藩財政の再建策の一つとして、領内の重要な産物であった木綿の藩専売制が実施されることになりました。

 姫路藩には多額の収入が入るようになり藩の借金は専売制を初めて7・8年で返済することができました。
 この時、岸本家は、木綿の藩専売制の運営の中で、重要な役割を果たす一方、姫路藩の財政にも深く関っていくことになりました。
 岸本家は、自身が献金するだけでなく、藩の借銀の信用保障を行ない、藩の財政に非常な貢献をしました。
 それに対し、姫路藩は、岸本家を御用達商人として士分待遇を行ないました。
 高砂岸本家は、高砂町の有力商人として、姫路藩の御用達商人になるとともに、高砂町の大年寄役を長期にわたって勤め、近世高砂町の町政に大きく貢献しました。(no3672)
 *『播州高砂岸本家の研究(工藤恭孝)』(ジュンク堂書店)参照
 *絵:三代岸本博高肖像(長沢蘆洲筆) 

 ◇きのう(7/30)の散歩(12.026歩)

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江戸時代、高砂の商業活動(36) 申義堂(11)・長谷川亀次郎のこと

2017-07-30 09:25:20 | 江戸時代、高砂の商業活動

     長谷川亀次郎のこと

 いまブログでは「西井ノ口に申義堂があった」ことを書いていますが、長谷川亀次郎については、他にほとんど紹介されていいません。

 亀次郎が「井之口小学校」を創立したことを称える、「旌徳碑(せいとくひ)」(写真)が井之口小学校跡にあります。
 西井ノ口の広報「にしいのくち(第100号)」に、この旌徳碑の碑文を現代文に直して紹介されているので読んでおきます。

     創設者・長谷川亀次郎の旌徳碑
 長谷川亀次郎君は、優れて気性が激しく、他の束縛を受けることなく自由闊達に行動する人物であった。
 物事を正しく判断する力に秀で、度量もたいへん大きい。
 普通の商家が努力して追つけるような器ではない。
 だから、君がなすところのことは、その前になし遂げた者はいない。
 今、君の実歴をここに列挙する。
 明治初年、君は、航海椎がすべて英国にあることを憤慨して、独力で安洋丸という汽船を造り、それによって我が航海権を再び取り返す。
 当時、天下に会社組織による商業は、ほとんど聞くことはなかった。
 君は、鋭意奮進して、有志を集めて物産会社を創立し、それによって商業の発達をはかった。
 君は、特に教育が振るわないことに感じ、千金を投じて井之口村に学校を新築した。
 当時、県下の学校の多くは人家をもつて代用し、一つとして見るに値するものはなかったが、君がその面目を改めた。
 それ以来、汽船は増加し、会社は競って学校を興して新築した。
 もとより、機運が熟していたといえども、君は率先してそれをやり遂げた。
 君は、維新前に金数十枚を旧姫路藩主・酒井侯に献じた。
 その他、多くの公事を手いっぱいに引き受け、ひどく多忙であったが、君は機敏に行動し、弁舌は実にさわやかであった。
 藩主は、感賞を惜しまず、大庄屋並に抜擢し、大庄屋並みの扱を受けた。
後に「藩士に準ずる」という。
 君は晩年、一年発起して仏門に帰依する。
 そして、井之口に説教所を設けた。

 (この説教所とは、高砂町から移設された申義堂のことです)
 ・・・(一部略)・・・ ああ悲しきかな、明治二十三年一月二十三日、病に罹り急逝す。
 享年五十二歳であった。法名を「釈浄修」という。
・・・・(一部略)・・・・ 明治三十七年六月(no3669)
 *写真:長谷川亀次郎の旌徳碑(場所は西井ノ口公会堂南側にある道路を東へ行くと三叉路となっています。旌徳碑は、その南西隅にあります)

  ◇きのう(7/29)の散歩(11.699歩)

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江戸時代、高砂の商業活動(35) 申義堂(10)・申義堂、西井ノ口へ移築 

2017-07-29 06:48:22 | 江戸時代、高砂の商業活動

       申義堂、西井ノ口へ移築 
 きょうのブログは想像が多く学問的ではありません。

 岸本家と長谷川家の関係を少し整理しておきます。
 ・岸本家の出身地は、大国村(現:西神吉町大国)で、長谷川家は(西)井ノ口村出身でともに近くです。
 ・大国村の岸本家も井の口村の長谷川家も綿屋でした。
 ・高砂における岸本家と長谷川家は近所に位置しています。
 ・両家は江戸時代、高砂町の町役として活躍をしています。
 ・「長谷川亀次郎を偲ぶ」によれば、亀次郎の妻・うのは、岸本家から嫁いでいます。
 とにかく、長谷川家と岸本家は深い関係にあったようです。
 このことを踏まえて、少し、想像みました。従って以下は記録によるものではありません。皆さんはどう思われますか。
    
ある日の会話
 「亀次郎さん、相談に乗ってもらえませんか」
 「岸本さんのいわれることです。出来ることでしたらなんなりと・・・」
 「実は、説教所(申義堂)のことやけど、あの場所に新しい警察署がつくられるので、立ちのかなあかんのや。どうしたものやろか・・・
 説教所を閉めるのはおしいし・・・
 近所で新しい場所というても、物入りでね。
(こんな話が幾日も続きました。ある日のことでした)
 「岸本はん、例の件ですが私(亀次郎)に任せてもらえませんか。私もずいぶん考えました。
 出しょうの(西)井ノ口村に移してもらえませんやろか。費用の方は私の方でなんとかします。
 「そこ(井の口村)で、説教所をつくりたいんです」「井ノ口村では弟の新蔵は、村役をしております。そして、新宅をしました庄蔵は手広く綿問屋を営んでおりました。多少の蓄えはあります。
 私も、高砂の町で、いささか蓄えさせてもらいました。
 話はトントン調子に進み、高砂町の説教所(申義堂)は、明治12年5月に姫路光源寺の説教所として印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロ村によみがえったのです。
 こうして、申義堂は、昭和7・8年ころまでは光源寺の説教所として使われていたのですが、戦争中は軍の宿舎となり、戦後は村の倉庫に転用されて、もと、どういう建物であったかも忘れられて、物置同然の荒れた姿になっていました。
 それが、「申義堂」の建物であったことがあらためて確認されたのは、平成2年4月でした。(no3667)
 *写真:西井ノ口にあった申義堂

 ◇きのう(7/28)の散歩(11.252 歩)

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江戸時代、高砂の商業活動(34) 申義堂(9)・長谷川亀次郎ってwho?

2017-07-28 10:19:05 | 江戸時代、高砂の商業活動

    長谷川亀次郎ってwho?

 先に、「申義堂は、明治4年に廃校になり、その後建物は、高砂警察署ノ建設に伴い、明治12年5月に姫路光源寺の説教所として印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロに移築されました」と紹介しました。
 「なぜ、西井ノ口村か」という疑問が残ります。
 「なぜ、申義堂を西井ノ口村へ移築したか」という疑問の前に、この事件にかかわる重要な人物として長谷川亀次郎が登場します。
 長谷川亀次郎が突然登場しますので、長谷川家文書より、亀次郎について少し紹介しておきます。
    
<長谷川亀次郎、年表>
 天保9年(1838)  西井ノ口村に生まれる。
   ?年        高砂へ進出。 
 安永6年(1859)   名字帯刀を許される。
 文政元年(1861)   大判27枚を献上 大庄屋並びに五人扶持になる。
   <江戸幕府崩壊>
 明治2年(1869)  調達金・木綿代金を多く納める。 
 明治3年(1870)  軍事費を献金。高砂米場の預かり方・取締役に任ぜられる。
             蒸気船安洋丸をつくり、大坂~高砂を航海する。  
 明治5年(1872)  高砂南本町に物産会社をつくる。
             姫路と三日月町で鉱石の精錬会社を設立。
 明治6年(1873)  高砂・飾磨・船場の姫路藩蔵の御蔵米取り扱い方に任ぜられる。             
            印南郡に西井ノ口村に学校を新築。福崎町で石灰製造を行う。
 明治12年(1879) 申義堂を西井ノ口に移築

   明治22年(1889)  死亡、戒名は釈浄脩
              以下省略、また学校設立に貢献しました。

 亀次郎については、史料がすくなく、はっきとしませんが、晩年は仏教に帰依しました。
 彼は、特に教育の分野で大きな足跡を残しています。
 実業家・長谷川亀次郎の足跡を「申義堂の西井ノ口村への移転」と「学校の設立」に注目して、さらに彼の足跡をたどることにしましょう。(no3665)
 *挿絵:長谷川亀次郎

 ◇きのう(7/27)の散歩(11.166歩)

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江戸時代、高砂の商業活動(33) 申義堂(8)・申義堂が西井ノ口(加古川市)にあった理由①

2017-07-27 07:51:12 | 江戸時代、高砂の商業活動

      申義堂が西井ノ口(加古川市)にあった理由

  西井ノ口(東神吉町)の柴田育克(しばたいくよし)さんの研究による『なぜ、申義堂の建物が西井ノ口にあったのか』(写真)という冊子をいただきました。

  知っていただきたい内容が満載です。

 内容は、「申義堂について」『高砂市史(第二巻)』が「申義堂のその後」と簡単に書いているその部分です。

 なお、冊子『なぜ、申義堂の建物が西井口にあったのか』に沿って、市史を補うことにします。

     長谷川亀次郎

 明治時代、東神吉町井ノ口には、日本の教育史に残るような立派な学校がありました。

 この学校の建設に関わったのは西井ノ口の長谷川亀次郎氏でした。
 長谷川亀次郎氏と申義堂がかかわりを持ってきます。
 ここでは、名前の紹介だけにしておきますが、亀次郎氏のご子孫の方が『長谷川亀次郎を偲ぶ』として冊子にまとめておられます。
 とりあえず、この二冊を中心に、申義堂のその後・西井ノ口あった学校・長谷川亀次郎氏のことを紹介しましょう。(no3664)

  *写真:冊子『なぜ、申義堂の建物が西井ノ口にあったのか』

 ◇きのう(7/26)の散歩(10.581歩)

 

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江戸時代、高砂の商業活動(32) 申義堂(7)・申義堂は残った

2017-07-26 07:13:32 | 江戸時代、高砂の商業活動

        申義堂は残った

   申義堂は明治4年廃校になりました。余話として、その後の申義堂について紹介しておきます

 廃校になった申義堂について、『高砂市史(第二巻)』は、次のように書いています。

 少し書き直して紹介しましょう。(文体も変えています)

 ・・・申義堂は、明治4年に廃校となりました。
 申義堂の建物そのものはどうなったのかについてふれておかねばなりません。

 土地・建物は廃校のさい、設立当初の提供者とみられる岸本家に返還されました。

 そのさい、申義堂に付属していた書類をはじめ、道具、蔵書類の一部も岸本家に渡されたようです。

 現在、再建された申義堂に掲げられている河合寸翁筆による「申義堂」扁額や文書が同家に保管されているのはそのことを示しています。

 その後、土地は明治28年、高砂警察署建設のため兵庫県へ寄付され、さらに高砂町役場となり、現在は高砂地区コミュニティセンターへと変転しました。

    申義堂が東神吉町西井ノ口(加古川市)に残っていた

 申義堂の建物は、解体され明治12年5月に姫路光源寺の説教所として印南郡東神吉村西井ノロに移築されたといいます。

 昭和7,8年ころまでは使われていたようですが、戦争中は軍の宿舎となり、戦後は村の倉庫に転用され、それがもとどういう建物であったかも忘れられて、物置同然の荒れた姿になっていました。

 それが、申義堂の建物であったことがあらためて確認されたのは平成2年4月でした。

 天井に棟札が打ち付けられていて明治12年の移築が確認されました。

 平成6年に解体されて、高砂市教育センターに保管されました。

 ・・・・

 申義堂に関して『高砂市史(第二巻)』の記述は、この段階で終わっています。

 さらに、その続きを紹介することにしましょう。(no3662)

  *『高砂市史(第二巻)・通史近世』参照

  *写真:加古川市東神吉町西井ノ口に残っていた申義堂

 ◇きのう(7/25)の散歩(11.466歩)

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江戸時代、高砂の商業活動(31) 申義堂(6)・申義堂の先生・美濃部秀芳(美濃部達吉の父)

2017-07-25 07:16:08 | 江戸時代、高砂の商業活動

   申義堂の先生・美濃部秀芳(美濃部達吉の父)

 美濃部秀芳(美濃部達吉の父)は、文久三年から申義堂で素読を担当しました。

 彼は、天保21年(1841)8月24日に生れで、父は高砂でただ一人の蘭方医の美濃部秀軒でした。

 秀軒の妻・秀芳の母は、申義堂教授であった三浦松石の娘であり、秀芳と申義堂との関係は深く、秀芳も申義堂で学んだにちがいありません。

 父・秀軒は、加東郡三草村の蘭方医西山静斎と深い交遊をもつ人で、蘭学に通じた人でした。

 また、漢学の素養も有し、儒医三浦松石とも高砂の町医として協力しあっていました。

 嘉永三年(1850)正月に、二人はともに緒方洪庵の主幸する大坂除痘館にかかわり、早くから種痘普及に協力して携わっていました。

 秀軒は、秀芳にも蘭医学を身につけさせようと、西山静斎に入門させています。

 なお、秀芳の妻も加東郡古川村(小野市)の儒医井上謙斎の娘で、謙斎は文政8年(1825)に学塾を開設し、明治5年(1872)まで医業の傍ら儒学をも教えた人でした。

 秀芳は、生れて以後、儒学や医学に携わる人たちに囲まれて過したといえます。

 したがって、秀芳が、申義堂の最後を飾ることになるのは自然な流れでした。(no3661)

 詳しくは『高砂市史(第二巻)・通史編近世』(p697~9)をご覧ください。

 *『高砂市史(第二巻)通史編近世』参照

 *写真:美濃部秀芳

 ◇きのう(7/24)の散歩(10.593歩)

 

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