ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(227):稲美町の文学碑⑧・菅公碑(天満神社)

2010-06-08 09:13:04 |  ・稲美町文学碑

  東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花

      主なしとて 春なわすれそ

Inamimachi4_044 天満神社の祭神の池大明神は大池を神格化したもので、伝承では大池の歴史は古く、天満大池は、白鳳3年(675)に築造されたといいます。

その後、寛平5年(893)社殿を今の地に移しました。 

この地域を開拓した人々にとって、池(水)はまさに命でした。そのため、大池は池大神として祀ったのでしょう。

祭神、菅原道真についての詳細な物語は、ここでは省きますが、道真は藤原氏の讒訴(ざんそ)にあい、突如大宰府に流されました。

伝承では、その途中二見港に立ち寄ったとき、池大明神の梅が花盛りであったので道真をここへ案内したといいます。延喜元年(9012月のことでした。

こんな伝承の関係で、後に京都の北野天満宮から勧請して、池大明神の右側に奉納するようになりました。 

道真の話は、あくまで伝承としておきます。 

道真は、延喜3年(903)、失意のうちに大宰府で亡くなりました。

59才の人生でした。 

道真の死後、京都では天変地異がしきりに起きます。 

旱天・流星・大地震、そして疫病などが続き、貴族たちは道真の怨霊が京の空に舞い戻って来たのではないかと噂し、動揺ははなはだしいものがありました。 

このため、朝廷は神社を建立して道真の霊を慰めようとしました。 

道真の怒りが雷神として現れたと信じた藤原貴族たちには恐怖でしたが、農民にとって雷は雨と水をもたらし、稲の稔りをもたらす神として全国にひろがりました。

天満神社は、こんな歴史を持つ神社です。

天満神社には菅原道真を祀る関係から、彼の有名な4メートルもある歌の碑(写真)が建立されています。

揮毫は、菅原道真36代の後裔である太宰府天満宮西高辻(菅原)信貞宮司によるものです。   

    万葉の森には3基の『万葉の森賛歌碑』がありますが、これらについては後日紹介します。

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稲美町探訪(226):稲美町の文学碑⑦・万葉歌碑(万葉の森)

2010-06-07 07:49:34 |  ・稲美町文学碑

後(おく)れ居(い)て 我はや恋ひむ 稲見野の

    秋萩見つつ 去(い)なむ子故(ゆえ)に

                     (巻9-1772)

Inamimachi4_101 この歌は作者の安倍大夫(あべのまえつきみ)が筑紫に赴任する大神大夫(おおみわのまえつきみ)に贈った歌といわれています。

歌中の「子」が誰をさすのかで解釈が分かれるのですが、一般的には「子は、筑紫へ下って行く大神大夫の一行の中の女性と見て、その女性との別れをつらく思う気持ちの表現が、ひいては大神大夫への惜別の歌となっている」とされています。

(意味)

 後に残されて、私は恋しく思います。

あなたは、稲見野の美しい秋萩を見ながら任国(筑紫)に行く人であるのに・・・

この碑は、「明日よりは 印南川・・・」の歌碑のある散策路の一段上の散策路に面して立っています。

昨日は、印南川から勢いよく、枯れていた池(印南の海)に水が入れられていました。

印南川の河口のアサザは、勢いを得たように見えました。

この歌には、稲見野の萩が詠まれていますが、園内には萩の他、「おもいでぐさ」「わすれなぐさ」「やまぶき」「おみなえし」など百種をこえる季節の万葉の草花が植えられています。

その季節に来て、花の名前を覚えたいと思います。

もっとも、最近は覚えられなくなりました。それに、すぐ忘れてしまうんです。

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稲美町探訪(224):稲美町の文学碑⑥・万葉歌碑(万葉の森)

2010-06-05 08:27:27 |  ・稲美町文学碑

明日(あす)よりは いなむの川の 出(い)でて去(い)なば

     留(とま)まれ我(あれ)は 恋ひつつやあらむ

                        (巻12-3198)

Inamimachi4_080_2 この歌の「いなむの川」は印南川(いなみがわ)で現在の加古川です。

加古川の川は古事記では、針間(はりま)の氷河(ひかわ)とあり、『風土記』では印南川(いなみがわ)として登場しています。

印南川は豊かな恵みをもたらしました。

しかし、時には氾濫をおこした暴れ川でした。

この川の辺りでの、昔の人々の飾らない生活が展開されていたことでしょう。

上記の一首は、印南川の川べりでの生活を感じさせる歌です

(意味)

あなたが旅立ってしまったら、後に一人残された私は、あなたを慕い続けるほかはないのでしょうか・・・

男の旅立ちにいたたまれない女の心が歌われています。

歌碑は、万葉の森の加古川に模して造ってある川のたもとに建てられています。

少し残念なことに、現在公園の水が抜かれ、川の水は流れていません。

水のある時期にまた来てみます。

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稲美町探訪(223):稲美町の文学碑⑤・万葉歌碑(万葉の森)

2010-06-04 08:22:14 |  ・稲美町文学碑

Inamimachi4_074 柏の葉は大きく、葉肉が厚いので古くは食物を盛るのに使われ、祭式用としても用いられていました。

ことに播磨から献上される柏は有名で、宮中において祭りなどに用いられるのが慣わしになっていました。

この歌は、そうした慣習を下敷きにして歌われています。

印南野の 赤ら柏は 時はあれど

   君を我(あ)が思(も)ふ 時はさねなし

                  (巻20-4301)

(意味)

印南野の赤ら柏の照りはえる時節は、決まっていますが、私の天皇を思う心は、変わることなどは決してありません。

*さね・・・決して、ちっとも

この歌の「君」は孝謙天皇を指します。

歌は、天皇を退いた聖武や光明皇太后も列席していた宴の場で歌われました。

この時、聖武は54才、2年後には死がひかえていました。

聖武が播磨へ行幸したのは26才の若く、溌剌としたときでした。

聖武は、播磨が詠まれたこの歌をどんな気持ちで聞いていたのでしょう。

阿宿王(あすかべのおおきみ)作の歌を刻んだこの歌碑は、万葉の森の園内の西側に位置し、散策路のすぐ側で、道行く人の目に着きやすい場所にあります。

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稲美町探訪(222):稲美町の文学碑④・万葉歌碑(万葉の森)

2010-06-03 09:21:13 |  ・稲美町文学碑

Inamimachi4_060_2 神亀元年(724)春二月、24才の首(おびと)皇子が即位しました。聖武天皇です。

元明(げんめい)・元正(げんしょう)と二代続いた女帝の後の新しい天皇でした。

聖武は、即位後3月には吉野へ行幸しています。

そして以後、播磨を含めて5年間に8回も行幸をしました。

播磨(印南)への行幸は神亀3年(726)のことでした。

聖武天皇の行幸地は、大和政権や天皇家と深く関わる地が多かったようですが、研究者は播磨への行幸は風光を求めた遊園の性格を持つ行幸ではなかったかと推測されています。

Inamimachi4_064_4 随行の山部赤人らが競うように風光をたたえた歌を多く詠んでいます。

     家にして われは恋むな 印南野の

              浅茅が上に 照りし月夜を

二つの万葉歌碑

「稲美町の文学碑②」(天満神社)で紹介した上記のおなじ万葉集歌が、庭園の中ほどの茅月亭の前(写真上)と、庭園の通路を右に取った一段と高いところ(写真下)にあります。

*茅月亭:昭和63年稲美ライオンズ倶楽部の寄贈

 写真下の歌碑:加古川市在住の書道家・坂田聖峯氏の揮毫

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稲美町探訪(221):稲美町の文学碑③・万葉歌碑(万葉の森)

2010-06-02 08:07:43 |  ・稲美町文学碑

Inamimachi4_068 「万葉の森」には、たくさんの歌碑があります。

それらは、庭園と溶けあい、意識して捜さなければ見過ごしてしまいそうです。

庭園の通路を右に行くと、左手に池を背にして柿本人麻呂の歌「名くはしき 稲見の海の 沖つ浪・・・」を刻んだ歌碑(写真)があります。

  名くはしき 稲見の海の 沖つ浪

   千重に 隠りぬ 大和島根は 

                                                       (巻3-303)

この歌は、柿本人麻呂が筑紫(福岡)の国に下る時に海路にて作る歌」という題詞を持つ一首です。

(意味)

船が稲見(印南)の海(播磨灘)に入れば、故郷の大和(奈良)の山々は、もはや望むべくもない。

名も美しい稲見の海の沖の波が無数に重なって、大和の山々は波のはるか彼方に隠れてしまった。

郷愁の思いと、これからの旅の思いをしっとりと歌いあげた歌です。

なお、自然石に刻まれた文字は、東大寺長老であった清水公照直筆によるものです。

    清水公照氏は、姫路市の出身で、19995月6日88歳で亡くなられました。

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稲美町探訪(220):稲美町の文学碑②・万葉歌碑(天満神社)

2010-06-01 08:09:25 |  ・稲美町文学碑

きのう(5月30日)「万葉の森」に出かけました。

月曜日であることを忘れていたため、「万葉の森」は閉園。

急きょ、天満神社へ寄りました。

境内に、万葉歌碑(写真)があります。

Inamimachi4_046 この歌碑は、昭和59年に印南野短歌会が建設したもので、「印南野半どんの会」の代表・中嶋信太郎氏(故人)の揮毫によるものです。

   家にして 吾は恋ひむな 印南野の

    浅茅が上に 照りし 月夜を

                            (巻7-1179)

この歌は、神亀3年(726)聖武天皇の印南野行幸の時の歌です。

印南野行幸については後に紹介します。

印南野行幸を終え、翌朝都へ出発する折の歌でしょう。

(意味)

数日、印南野の仮宮に宿ったが、それにしても今夜の月は、一段と皓々と照っていることよ。

家に帰ったら、さぞかし慕わしく思い出すだろうな・・・

ちょっときざな英訳を載せておきます。読み飛ばしてください。

I would think after going home of this beautiful moon shining over the thatches of the Inamino Plateau.

(蛇足)

高校時代にこの歌を暗記しました。

その時以来「吾は恋ひなむ」と覚えていましたが、昨日、Sさんから「恋ひむな」であることを教えていただき、『万葉の歌6(兵庫)』(保育社)で調べてみました。

「恋ひむな」の「な」は詠嘆の終助詞との解説がありました。

同じような間違いのまま覚えている方も多いのではないでしょうか。

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稲美町探訪(219):稲美町の文学碑①・天満大池の記念碑

2010-05-31 00:04:47 |  ・稲美町文学碑

人には不向きなことがあります。

文学に鈍感な人が、文学を語るとき「ええ加減に止めてくれ」という声が聞こえてきそうです。

文学に鈍感な人とは私のことです。

でも、稲美町を探訪するとき、万葉集を避けて通ることができません。

万葉集を中心に、あえて稲美町にある文学碑を訪ねてみることにしました。

しばらくご辛抱ください。

今、六分一近辺を歩いていますので、天満大池にある「天満大池記念碑」にある歌を紹介することからシリーズ「稲美町の文学碑」を始めます。

ただ、まずい解釈はいらないと思うのですが、ご容赦ください。

               天満大池記念碑の歌

Inamimachi4_041 昭和20年の台風により池の南西部の堤防が決壊し、下流に大災害をもたらしました。これをきっかっけに昭和28年、改修工事が行われました。

この記念碑(写真)は、昭和3810月の建立です。

この竣工記念碑に元稲美町長大西一雄氏の短歌が記されています。

その後、堤防の老朽化が進み、昭和60年度に「県営ため池整備事業」が採択され、大規模な改修が行われました。

平成9年(1997)大規模改修工事が完成し、天満大池は現在の姿になりました。

     千代にかけて 瑞穂豊かに みのるらん

       水をさまりし 今よりにして

                    作 大西一雄

  (意味)

   (池の竣工により)水はしっかりおさまりました

これからは、末長く豊かな稔りが続きますよ

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