ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(211) 江戸時代(6) 近世の高砂(6)・高瀬舟が運んだもの

2020-03-31 09:40:07 | 大河・かこがわ

     加古川の流れと高砂の町

 高砂の町場がつくられました。

 江戸時代の高砂は、加古川の流れをぬきに語ることはできません。

 高砂の町の特徴は、加古川の広大な後背地を持っていたことです。

 高砂は、商品経済の発達にともない、高瀬舟による加古川の舟運の役割は、ますます大きくなりました。

 高瀬舟の本来の役割は、年貢米を高砂へ運ぶことであったのですが、加古川の流域で産出された、さまざまな商品が高砂に運ばれました。

 また、高砂に集まった商品は、流域の各村々に運ばれました。

    どんなものが高瀬船で運ばれたのか

 主な商品は次のようです。

   下り荷物(高砂へ運ばれたもの)

  木工品・・・・・木材、タンス、下駄、桶、樽など

  生活用品・・・・薪、炭、紙、綿など

  食料品・・・・・米、芋、茶、梨など

   上り荷物(上流の村々に運ばれたもの)

  農具・・・・・水車、唐箕(とうみ)など

  肥料・・・・干鰯(ほしか)・油粕など

  海産物

  嗜好品・・・・・菓子、煙草、酒など

  食料品・・・・・塩、砂糖、そうめんなど

  衣料品・・・・・呉服など

  生活用品・・・・鍋釜、火打石、畳表、ろうそく、石炭、仏壇など(no4921)

  *挿絵:高瀬舟

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大河・かこがわ(210) 江戸時代(5) 近世の高砂(5)・高砂の町割り

2020-03-30 10:16:03 | 大河・かこがわ

        高砂の町割り

 寛永3年(1626)、高砂町の町割りが完成しました。

 図は、「近世元禄の頃の高砂の町図」です。

 なお、『高砂誌』によれば、高砂の町割りを担当したのは尾上左近右衛門中須又右衛門でした。

 市街地の南部は、魚町・釣舟町・漁師町・戎町など漁業従事者の町、船頭・船持水主(かこ)・仲仕人夫等の渡海町などで構成されています。

 しかし、港町高砂の中心地は高砂川・南堀川に沿う東浜町・南浜町・材木町・今津町で、ここは、高砂町の玄関口で、船着き場・荷揚場の他、問屋の蔵が建ち並び、賑わいのある問屋街でした。

     飾磨と共に姫路藩の経済を支える

 東浜町の向いの北堀川を渡ると、南北の御津留穀留番所がありました。

 なお、北堀川に沿っての町は高瀬町です。

 これは、加古川筋に姫路藩、その他の藩の年貢の輸送に当たった高瀬船にちなむ町名と思われます。

 このように、池田氏の城下は、本多氏によって港町高砂として生まれ変わり、江戸時代を通じて、飾磨と共に姫路藩を支える港町として繁栄するようになりました。(no4920)

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大河・かこがわ(209) 江戸時代(4) 近世の高砂(4)・ 政治都市から経済(商業)都市へ

2020-03-29 10:10:26 | 大河・かこがわ

               政治都市から経済(商業)都市へ

 江戸時代に繁栄した29ヵ町からなる高砂の町並みは、元和三年(1617)に姫路藩主となった本多忠政によってつくられたものです。

 元和の「一国一城令」に従って、高砂城が破却されたあと、その跡地には築城以前に、そこあった高砂神社が元の場所に戻され、神社の周辺に新たに町割りがなされて町人たちに屋敷地として与えられました。

        家を建てない場合は没収

 その時の「定書」の写し(写真)が『加藤家文書』に残されています。

 これには①高砂の町人を優先し、他所の者へはそのあと にすること、同じ屋敷地で競合した場合はくじ引きにすること。

 ②屋敷地を与えられても家を建てない場合は没収して別の者に与えること。

 ③屋敷の分議にあたっては高砂年寄(有力者)であっても「えこひいき」があれば直訴することなどが定められています。

 ここで注目したいのは②の内容で、領主は都市建設にあたって、町人が家を建て商工業を活発に行うことを期待していたことが判ります。

 このような法令は、同時期の他の都市でもみられます。

 その場合、たいていは無償で屋敷地が分議されており、地代収取よりも経済機能の充実に目的がありました。

 高砂では有償であったのか、また毎年の地子銭(税金)が徴収されたのか、現在のところ不明ですが、すくなくとも本多忠攻による高秒城の破却と町割り整備によって、高砂が軍事都市から平和的な経済都市に生まれ変わったと言えます。(no4919)

 *写真の文書:「高砂屋敷割定目之事」(『加藤家文書』)

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大河・かこがわ(208) 江戸時代(3) 近世の高砂(3)・高砂城、慶長17年の頃に造られた?

2020-03-28 07:18:43 | 大河・かこがわ

     高砂城、慶長17年の頃に造られた?

 高砂が近世の都市として成立したのは、姫路藩主となった池田輝政の高砂築城にはじまりました。(*戦国時代の高砂城は、荒井町小松原と思われる)

 おそらく、慶長六年から十四年にかけての大規摸な姫略築城が一段落したのち、高砂築城に着手したのでしょう。

『慶長播磨国絵図』(天理大学図書館蔵)に城と高秒町が描かれています。

 ただし、その規模は不明で、はっきりとしていません。

     高砂は、城下町として出発したが!

 姫路藩主・池田輝政の時代に、現在の加古川の河口に高砂城が造られました。

 城下町は、現在の高砂神社を中心とする高砂町(たかさごまち)でした。

 もう少し、図の説明をしておきます。

 図は、近世の高砂の町場の図です。

       城下町から港(商業)町へ

 高砂の町は、姫路に次ぐ城下町として発展する予定でした。

 が、一大事件がおきました。

 それは、元和元年(1615)、武家諸法度の「一国一城令」です。

 つまり、幕府から「一つの藩には一つの城しか認められない」という法令が出されたのです。

 この幕府の法令により、完成間もなく高砂城は取り壊されることになりました。

 以後、姫路藩主・本多忠政は高砂を港町・商人町として道を歩み始めました。

 (no4918)

 *図:赤く塗られた所が池田輝政時代の町場、元図は『近世の高砂(山本哲也著)』より

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大河・かこがわ(207) 江戸時代(2) 近世の高砂(2)・今津町は、現・加古川市尾上町から移住者のつくった町

2020-03-27 07:07:23 | 大河・かこがわ

  今津町(2)

  今津町は、現・加古川市尾上町から移住者のつくった町 

 この絵図の加古川河口左岸に「今津村」の記載があります。

 中世の頃、今津村のあった加古川河口から尾上神社付近にかけての地域は、瀬戸内を行き交う船の停泊地として大いに栄えていたといいます。

 その今津村に慶長6年(1611)、藩主(池田輝政)から通達(図)がありました。

 内容は、「高砂村へ移り住み、砂浜の開作をする者は、諸役を免ずる」というものでした。

 *なお、この通達文(池田輝政定)は、『高砂市史(第五巻・資料編(近世)』p154に解読文があります。詳しくは、それをご覧ください。
 中世に栄えた今津村(現:加古川市尾上町)も、この頃になると砂の堆積により、その機能を失ないつつあったのです。それも、予想を超える砂の堆積でした。

 藩主・池田輝政は、途中で方針をかえ、新たに右岸の高砂に城を築き、町場をつくることにしました。
 結果、加古川東岸の今津村は慶長・元和の頃に消滅しました。

 代わって、高砂に「今津町」ができたのです。

 「今津町」は、対岸の今津から村を挙げて移住した者を-はじめ、養田・池田・長田・安田等近在の農民があいついで移住をし、つくった町です。

  現在でも、加古川市尾上町に「今津」が通称名として残っていますが、「今津」は400年も昔に、この地から消えた地名です。(no4917)

 

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大河・かこがわ(206) 江戸時代(1) 近世の高砂(1)・今津町(1)

2020-03-26 08:09:03 | 大河・かこがわ

 1580年三木城は落城し、城主・別所治は自害しました。

 これが、東播磨の中世のおわりです。

 以後、高砂は急速に発展しました。

 高砂の話をしましょう。

      今津町(1)

  地図で、「今津町」を捜してください。

    中世の「今津」は、現:加古川市尾上町

 『近世の高砂』(高砂市教育委員会)に、次のような記述があります。(一部書き改めました)

 「・・・中世の高砂は、播磨五泊の一つに数えられ、内海の寄港地としての地位を固めていた。

 ところが、この中世の高砂の泊(港)は現在の高砂の地ではなく、「播磨名所巡覧図絵」でも「今津の浦口」とあるように、加古川左岸の池田(加古川市尾上町)付近をさしていた・・・」(『近世の高砂』より)

 つまり、中世の今津(現:加古川市尾上町池田)は、「今津千軒」とよばれ、内海の寄港地として大いに賑わっていました。

 しかし、加古川河口辺りでの海流は西から東へ流れています。

そのため、今津は加古川の東にあり加古川の運ぶ土砂の堆積作用をまともに受け、港は徐々に浅くなり、今津は停泊地としての機能を弱めました。

    中世の高砂は小さな漁村

 一方、現在の高砂の地は、古くは高砂御厨庄(朝廷へ鮮魚を奉納する村)として広く知られていました。

が、中世の高砂は、小さな漁村であったようです。

 それに、加古川河口あたりは、西岸にあたる高砂は左岸(東岸)より水害に悩まされました。

 記録は、江戸時代以前、高砂より東岸の今津(現加古川市尾上)の方が賑わっていたことを語っています。

 高砂が急速に発達するのは、姫路城主・池田輝政が高砂の町の建設にあたった江戸時代以降のことです。(no4916)

 *地図:慶長年間の絵図で、池田輝政の築いた高砂城・今津村が描かれています。

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大河・かこがわ(205) 加古川の中世 阿弥陀三尊来迎図(女人来迎図)

2020-03-25 08:26:44 | 大河・かこがわ

 秀吉・信長に攻められた神吉城跡は、現在の常楽寺です。

 常楽寺(東神吉町)に残る「女人来迎」を余話として紹介しておきましょう。

 当時(鎌倉・室町時代)、 女人は、男子より穢れており、「変成男子(へんじょうなんし)」という考えが一般的でした。

 女性は、成仏でるが、そのままでは無理で、いったん男性に変身して姿かたちが男性にかわり、その後極楽への往生が可能とされていたのです。

    阿弥陀三尊来迎図

       (女人来迎図)

 日本仏教説話では、死後初七日(しょなぬか)からはじまって33回忌まで、さまざまな冥界(めいかい)の王や仏に出会うといいます。

  まず、死ねば閥魔王(えんまおう)の裁きを受けるとされました。あの世があるならば「地獄」より「極楽」を願うのが人情です。

     女性の往生を描く

東神吉町にある常楽寺(浄土宗の寺)に、嫌倉時代末期から南北朝時代にかけてと推定される「女人往生図(にょにんおうじょうず)」(写真)が発見されました。

 右手下の建物に、いままさに死なんとする女人が手をあわせています。

 左上に阿弥陀仏、下に魂を入れる入れもの(うてな)を持った観音菩薩と勢至(せいしぼさつ)が迎えにきているところです。

 蓮如の師・親鸞、さらにその師・法然は女性の地位を認めています。が、絵画に描かれた例はほかにありません。

 発見された当時、朝日新聞一面トップにカラーで掲載されました。

 女人往生図が女性のまま往生できることを描いた絵画の発見は、日本でこの一例だけです。

 その意味で、 常楽寺の「女人往生図」は、日本の思想史においても一大発見となっています。もっと広く紹介されるべき作品です。(no4915)

 *図:阿弥陀三尊来迎図(兵庫県指定文化財)

 

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大河・かこがわ(204) 戦国時代(20) その後の加古川城主・糟谷武則

2020-03-24 09:44:06 | 大河・かこがわ

    その後の加古川城主・糟谷武則

 志方城落城後、秀吉軍は三木城を攻め立てます。そして、三木城は陥落し、三木城主・別所長治は自害します。

 加古川城主・糟谷武則は、加古川地方の城主としては、唯一、織田(豊臣)方として戦いました。 

 その後の糟谷氏の運命を紹介しておきましょう。

 加古川城主の糟谷武則は、賎ケ岳の戦後も秀吉方の武将として、数々の戦役に出陣しました。

 徳川家康と戦った小牧の役(天正13年)、小田原の役(天正18年)、そして朝鮮への侵略、世に言う「文禄の役」では晋州城攻撃にも参戦しました。

 武則は、秀吉の栄達とともに出世しました。

 が、関ケ原の合戦では西軍(石田三成方)に味方し、家康の関西における本拠地である伏見城を攻撃しました。

     加古川城廃絶

 「賎ケ岳七本槍」で活躍した武将たちは、武則をのぞき、みな東軍(家康方)に味方しています。

 そのため、七本槍の他の武将に比して、武則の事跡は、全くといってよいほど何も伝えられていません。

 幕府が編纂した『廃絶録』には、次のように書かれています。

   一万二千石、播州かこ川、糟谷内善正宗孝(三十四)、

   慶長七年(1603)、めし出され後断絶す 

 おそらく武則の息子・宗孝の代に廃絶されたのでしょうが、詳細はわかりません。 

 「もし…」の話ですが、「武則が家康側に味方しておれば、加古川地域のその後の歴史は、大きく変わっていたであろう」と思われます。

      春日神社

 国道2号線の加古川大橋の東詰近くに、ひときわ目につく公孫樹があります。

 そこにある小さな神社は、春日神社です。いまは、そこが、糟谷氏の氏神であることを知る人もほとんどありません。(no4914)

 *図:賎ケ岳合戦屏風(七本槍部分)・大阪城天守閣所蔵、左が秀吉軍

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大河・かこがわ(203) 戦国時代(19) 高砂城の攻防

2020-03-23 08:28:44 | 大河・かこがわ

       高砂城の攻防

 高砂城の話です。

 『播州太平記』から高砂城の戦いを再現します。が、この本は物語性が多く、実態はよくわかりません。とにかく、高砂城は秀吉軍に敗れました。

 ・・・秀吉は、三木城を攻めようと、三木城の東にある平井山に陣を置いて、三木城を兵糧攻めにする準備にとりかかりました。高砂城がじゃまになります。      

  高砂城主・梶原景行は、別所氏とは親密な関係にありました。

 景行は、毛利とひそかに連絡をとり、海上から加古川を登り、美の川を経て三木城へ兵糧を運びこもうとしました。       

 天正六年(1578)十月十八日、秀吉軍の攻撃が始まりました。

 秀吉軍は、高砂城に火をつけました。

 その時、毛利の援軍が波をけたててやって来ました。

 秀吉の兵は、梶原軍と毛利軍に挟まれ、ほとんどが打ち取られ、残った兵は今津(現:加古川市尾上町)へ逃れたといいます。

     高砂城落ちる

 毛利軍の吉川元春と小早川隆景は、「この勢いで、三木へ攻めよせ、秀吉軍をはさみうちにすればかならず勝てる」と、大将で藩主の毛利輝元に進言しましたが、輝元は「まず本国へ帰り・・・兵糧をととのえてから三木城へ運送する方がよかろう。守りの固い三木城のこと、やすやすと攻めおとされることはない」と、毛利軍は帰国してしまった。

平井山の陣でこの負け戦を聞いた秀吉は、三たび高砂城を攻めました。毛利軍が帰国した高砂城には余力はありません。

     天正七年十月段階で秀吉側についたか?

 梶原一族の墓石には「・・・天正七年、(高砂城の)最後の城主景秀公は、黒田官兵衛の紹介により羽柴秀吉に帰順した・・・」記しています。

      高砂城は、現在の高砂神社の場所か!

 さて、高砂城の場所ですが、松原(高砂市荒井町小松原、神社三社大神社境内・写真)に、梶原氏の城があったと言われています。

 が、高砂神社に伝えられたている古文書に「輝政は、神社の北西にあった古い城跡(小松原城)が地の利が悪いので今の場所(高砂神社のある場所)に城を築いた・・・」とあります。はっきりとしません。 (no4913)

 *写真:小松原の三社大神社境内にある旧・高砂城跡を示す石碑

 

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大河・かこがわ(202) 戦国時代(18) 志方状の戦い(2)・志方城の戦いはあった

2020-03-22 08:54:01 | 大河・かこがわ

    志方城の戦い(2)・志方城の戦いはあったが  

 戦闘には、戦力だけでは判断できない要素もあります。 

 「志方城(右図:木内内則作)の戦いは、確かにあった」と考えます。

 その理由として、播磨地域の情勢をみておきます。

 播磨は、浄土宗・浄土真宗の影響が強い地域です。

 信徒は「主君と自分とは現世だけの契りであるが阿弥如来との契りは未来永劫の契りである。主君よりも信仰の方が大切である」と考えます。

 もし、戦わずして信長方に敗北を認めるとなると、家臣・領民の支持を一挙に失いかねません。

 石山本願寺は、信長軍と壮烈な戦いをしています。志方地域からも多くの者が本願寺の支援に出ています。

 信長は、まさに仏敵であり悪魔でした。また、志方城から家臣たちも三木城を支援しており、三木城にも多く籠城しています。最初から戦わず信長側につく雰囲気にはありません。

    官兵衛からの働きかけが

 一方、志方城は、官兵衛の妻の実家であり、夫・官兵衛から「信長方に味方をするように」との説得があったのは確実です。

 志方城の敗戦が目の前に、迫った段階で、城兵としても、敗者としてすべてを失い世に漂って生きるより、武士にとって最大の価値観である「家の存続」を選択したのかもしれません。

 『志方町誌』から志方城の戦いを見ておきます。

 まず、官兵衛とその妻の働きかけと、城内での赤痢の蔓延をきしています。何やら戦闘らしくありません。

 「志方城も、よく戦ったが、病魔にかてなかった」とでも言いたげです。何やら裏がありそうです。

 志方城主・櫛橋政伊は、命をゆるされました。そして、後に官兵衛はこの一族を家臣団に組み入れ、厚く遇しています。(no4912)

 *絵:志方城の図(木内内則作)

 

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大河・かこがわ(201) 戦国時代(17) 志方城の戦い(1)

2020-03-21 07:05:27 | 大河・かこがわ

       志方城の戦い(1)

  神吉城は落城しました。信忠(信長の長男)は、神吉城を叩き潰しました。

 引き続き、信忠は大軍を率いて城主・櫛橋政伊(くしはしまさこれ)の志方城へ攻め寄せました。

 この時、官兵衛は加古川にはいません。

 したがって、官兵衛は自分の妻の実家・志方城を攻めるという苦痛から逃れることができました。

 守る志方の兵は1000人。

      志方城の戦いはあったのか?

 志方城の攻防についての詳細はよくわかりません。

 以前、あるところで「志方城の戦いはなかった」と言う説を紹介したことがあります。

 そう考えたのは、志方城に先立つ神吉城の戦いでは、織田軍に押しつぶされ、城主(神吉頼定)も討たれました。

 その時、近隣の城からも、三木の城からもほとんど援軍はありませんでした。野口城の戦いでも援軍はありませんでした。

 志方城の戦いでも援軍は期待できません。

そうなると、最初から志方城の敗北は確実です。

 ただ、戦うとすれば「勇敢に戦ったという事実を歴史に記録する」という武士の美学だけが支えの戦いになります。

 志方城が、そんな美学だけで、一丸となって戦ったとは考えられないのです。

 志方城に「後世に名前を残す」という哲学があったなら、それなりの記録を残していそうなものである。記録は、ありません。(no4911)

 *絵:官兵衛の妻・光姫(てるひめ)のキャラクター

 

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大河・かこがわ(200) 戦国時代(16):450年前の石垣保存へ 

2020-03-20 09:00:38 | 大河・かこがわ

 以下は、2016年9月23日の神戸新聞の記事です。余話として掲載させていただきました。

     450年前の石垣保存へ 

      加古川・神吉八幡神社

 兵庫県加古川市西神吉町宮前の神吉八幡神社境内にある、最後の神吉城主、神吉頼定(よりさだ)の父頼経(よりつね)が寄進したとされる約450年前の石垣の一部保存が進んでいる。同神社は来年5月の国恩祭に向けた改修で解体を検討したが、郷土史家らが重要性を確認。計画は変更された。(津田和納)

 

 石垣は昨年11月、地域の歴史に関心を持ち調べている籠谷(かごたに)ツルヱさん(66)=高砂市北浜町=が確認した。神吉八幡神社の元総代、神吉省象さん(88)と偶然出会い、話をするうち、石垣の存在を知り、夫の照弘さん(69)と石垣の場所に向かった。松などが、うっそうと茂る雑木林の中に縦7メートル、横15メートルにわたって周辺の石垣と石の色や形が異なる一部分に行き当たった。ひときわ大きな石に文字が掘られていることに気付き、後日、解読のため、郷土史家の飯沼博一さん(72)=加古川市尾上町今福=を伴って再び訪れた。

 石には「此石垣天文年中神吉城主、中務少輔神吉頼経公之所築、也恐後世矢願主之名茲記之」と記されていることが判明した。「この石垣は天文年中(1532~1555年)に、神吉城主の中務少輔神吉頼経公によって築造され、後世失われることを恐れ、その名をここに記す」という意味だという。

 飯沼さんによると、石垣について記した書物などは1632年、同神社が落雷で火災に遭った際、焼失したとみられる。このため頼経によって石垣が築造されたとする証拠は、石に刻まれた銘文と伝承しか存在していないという。神吉城は現在の常楽寺(同市東神吉町神吉)が立つ場所にあったとされる。神吉八幡神社は神吉城とも近く、地域の守り神として信仰されていたため、神吉一族と同神社には密接な関係があったと推測される。

 同神社の喜多山一洋宮司(61)は「この土地で育まれてきた歴史を次の世代にも伝えたい」と話している。籠谷さんは「石垣は『歴史の証人』。ロマンのある物語を、大勢の人に興味を持ってもらえるよう、発信したい」とほほ笑んだ。

 改修工事は9月末までの予定。

 【神吉頼経】 1543~70年に神吉城の第4代城主を務めた。織田信長軍勢との神吉城の攻防で知られる神吉頼定の父に当たる。(no4910)

 *写真上:銘文が刻まれている石   写真下:宮司と籠谷さん

 

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大河・かこがわ(199) 戦国時代(15) 神吉城の戦い(5)・神吉城落城

2020-03-19 07:50:03 | 大河・かこがわ

 激戦も大詰めを迎えました。信長側の記録である『信長公記』を読んでおきます。

     神吉城落城(『信長公記』より)

 ・・・7月15日夜、淹川一益・丹羽長秀両軍の攻め口から神吉城東の丸へ突入し、16日には中の丸へ攻め込みました。

 (信長軍は)敵将、神吉則実を討ち取り、天守に火をかけました。

 敵味方入り乱れて火花を散らし、その間に天守は焼け落ち、敵(神吉)方の将兵過半数が焼死しました。

 西の丸は荒木村重が攻めました。ここには、城主の叔父の神吉藤大夫が立て寵もっていました。

 藤大夫が降参の申し入れをしてきたので、佐久間信盛・荒木村重の二人が斡旋し、信長はこれを聞き届けた。藤大夫は赦免され、隣の志方の城へ退去しました。・・・

 城主・頼定の叔父(神吉藤大夫)が内応して、落城したと記しています。

  神吉城落城は、頼定の叔父神吉藤大夫のうらぎりか?

 『信長公記』は、以上のように「神吉の落城は、城主・頼定の叔父(神吉藤大夫)が内応して落城し、頼定はその場で切られた」と記しています。

 広く知られているこの神吉城は叔父・藤大夫の内応のために敗れたとする伝承について、『加古川市史』は、史実ではないとしています。

 地元では、三木城の攻防をさまざまに語り継いでいます。

 敗因も神吉城主・頼定を『信長公記』にあるように、藤大夫一人を悪者にしています。

 「負けるはずのない戦いだったのに・・・」と言いたかったのかもしれません。

 負け戦の後には決まって、制裁がまっています。

 信長の関係した戦の場合は、磔等の極刑がしばしばありました。神吉城の戦いではそれがありません。

 神吉城の合戦は、加古川最大の合戦であり、圧倒的な大軍で囲まれた戦いでした。

 三木戦を前にして、よけいな緊張をつくりたくなかったのかもしれません。(no4909)

 *写真:常楽寺(神吉城跡)にある神吉頼定の墓

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大河・かこがわ(198) 戦国時代(14) 神吉城の戦い(4)・激しい神吉城攻めの理由とは?

2020-03-18 09:25:12 | 大河・かこがわ

            激しい神吉城攻めの理由とは?

 信長が、なぜ、こうまでして大部隊を神吉城(図・木内内則作)攻めに投入したのでしょう。

 実は、権力者の体面に関わる事件が、播州で続いたのが、その主な理由でした。

 これまで友好関係にあった別所が、突如信長にそむき、毛利に走りました。

 また、尼子一族の上月城が、毛利の大軍に囲まれましたが、圧倒的な武力を誇る信長軍でも三木城(東播州)と上月城(西播磨)の二方面作戦を強いられるため、尼子一族を見捨てたことです。さらに、秀吉が三木城外で、東播磨の連合軍の夜襲を受け、見るも無残な惨敗を被ったこの三点が神吉城へ、大軍勢を投入した主な理由でした。

 これらの屈辱に信長の怒が爆発しました。

 (織田)信忠は何の戦果を挙げることなく、手ぶらで播州を引き上げるわけには行きません。

 見せしめのためにも神吉一族を抹殺することで、信長の体面を保ち、織田の戦力を毛利に誇示する必要が生まれたというのが本音であったのでしょう。

 ところか、父信長への手土産にと、信忠(信長の嫡男)が、気軽に攻撃した神吉城で、予想もしなかったひどい、反抗を受けることになりました。

     頼定の苦悩

 敵(織田軍)は大軍団です。

 いたずらに時が過ぎては、神吉軍に勝ち目はありません。このまま寵城して、しばし、城は守れても、長引けば、やがては攻め落とされます。

 かなわぬなら降伏するしかありません。降伏はできません。

 信長に屈すれば、先例にならって、一族、家臣、領民までも虐殺を免れないかもしれないのです。

 それにしても小三郎(別所長治)より、未だ援軍の知らせがありません。

 「どうしたことか、なぜ援軍はないのか・・・」と頼定はなやみました。

 「三木や毛利は必ず来る」と、心中で繰り返すのでした。(no4908)

 *絵:神吉城の図(木内内則作)

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大河・かこがわ(197) 戦国時代(13) 神吉城の戦い(3)・神吉城は反撃するも

2020-03-17 10:43:23 | 大河・かこがわ

     神吉城は反撃するも

 6月27日、(信長軍は)神吉城を攻めたてました。

 北から東の山へかけて、織田信忠(信長の長男)・織田信孝(信長の三男)・細川藤孝等が前後左右何段にもなって陣を布き、神吉城の北の志方の城に対しては、織田信雄(信長の二男)が陣取りました。

 また、丹羽長秀等は、備えとして西の山に陣を布きました。

 滝川一益・稲葉一鉄・筒井順慶・明智光秀・荒木村重らは神吉の城へ激しく攻めよせ、たちまちに外構えを攻め破って裸城にしてしまいました。

 織田信孝は、足軽と先を争って戦い、苦戦で、負傷・戦死が若干ありました。

 しかし、一挙に攻略できそうにもなかったので、この日は攻撃をゆるめ、翌日、銃弾よけの竹束を持って、本城塀際まで詰め寄り、埋め草で堀を埋め、築山を築いて攻め立てました。

 神吉城は、南の方が手簿であったので織田信包(のぶかね・信長の弟)が軍勢を投入しました。

 神吉方の動きが止まりました。

 滝川一益は南から東へかけての攻め口で、坑夫に隧道(トンネル)を掘らせ、櫓(やぐら)を築き、大砲を撃ち込んで塀・矢蔵を破壊し、矢蔵へ火を放って焼き落としました。

 このほかの諸勢もそれぞれ櫓・築山を築き、昼夜の別なく攻めたてました。

 神吉側からは、種々詫び言をいって和陸を申し入れてきたが、信長から厳命があり、聞き入れませんでした。(『信長公記』より)

      2000対30000の戦い

 『信長公記』の太字のか所を見てください。神吉軍も、信長軍をよく攻めたことが分かります。

 しかし、なにせ信長軍は、神吉軍の15倍の数でした。

 信長側は、あまりにも大勢力でした。(no4907)

 *絵馬:神吉戦の様子を描いた絵馬(常楽寺)

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