加古地区の地図を見ていると、三軒屋・四軒屋・五軒屋・六軒屋・七軒屋・八軒屋などの集落名が目につきます。
きょうは、これらの集落名について『稲美町史』を読んでみることにします。
「三・四・五・六・七・八軒屋」は最初の入植者の戸数
もちろん、これらの集落名は、最初は非公式な名前であったのでしょうが、それが習慣化し公式な名前になったものでしょう。
歴史家:稲見悦治氏の意見
加古新村の集落成立の状況は、一年前後の間に一挙に各が形成されています。
その戸数の変動も大きかったことから、「三軒屋、四軒屋などの集落名は、集落発生以前から台地開発当時に入植予定数をすでに計画していたのではないか」という、歴史家・稲美悦治氏の考えを記しています。
『稲美町史』を続けます。
この加古新村の形成は、たしかに寛文2年(1662)のほぼ1年間だけでほとんどできあがっています。
しかし、実際にはそれ以前、即ち姫路藩による公式許可の出た万治4年(1661)以前にすでに入植があったと考える方が、その後の急速な開発、集落形成を説明するのに無理がないようです。
そして、それらの入植者の戸数が、後に正式な集落名になったと考えられます。