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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(193):いなみ野フットパス(51)・三、四・・・八軒屋

2010-04-29 10:01:13 |  ・いなみ野フットパス

加古地区の地図を見ていると、三軒屋・四軒屋・五軒屋・六軒屋・七軒屋・八軒屋などの集落名が目につきます。

きょうは、これらの集落名について『稲美町史』を読んでみることにします。

  「三・四・五・六・七・八軒屋」は最初の入植者の戸数

Inamisho5_100 これは、この地に最初に入植した戸数のなごりと思われます。

もちろん、これらの集落名は、最初は非公式な名前であったのでしょうが、それが習慣化し公式な名前になったものでしょう。

  歴史家:稲見悦治氏の意見

加古新村の集落成立の状況は、一年前後の間に一挙に各が形成されています。

その戸数の変動も大きかったことから、「三軒屋、四軒屋などの集落名は、集落発生以前から台地開発当時に入植予定数をすでに計画していたのではないか」という、歴史家・稲美悦治氏の考えを記しています。

『稲美町史』を続けます。

この加古新村の形成は、たしかに寛文2年(1662)のほぼ1年間だけでほとんどできあがっています。

しかし、実際にはそれ以前、即ち姫路藩による公式許可の出た万治4年(1661)以前にすでに入植があったと考える方が、その後の急速な開発、集落形成を説明するのに無理がないようです。

そして、それらの入植者の戸数が、後に正式な集落名になったと考えられます。

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稲美町探訪(189):いなみ野フットパス(50)・鳴岡稲荷神社

2010-04-24 00:07:09 |  ・いなみ野フットパス

「稲美町探訪(183)・加古八幡社」の説明の中に「・・・加古八幡社は、加古地区の開発がはじまってから、約20年後の延宝8(1680)に現在の鳴岡神社に仮の社殿を設け、開発人らが氏神として祖先から崇敬してきた上西条八幡神社を勧請して村の守護神としたことに始まります」と書いておきました。

鳴岡稲荷神社を訪ねる

Inamisho5_041稲美町史』では、「鳴岡神社は、享保年中(17161735)に、姫路藩主・榊原政祐が家臣に命じて社殿を建立する」とあります。

ということは、加古八幡社の仮社殿がこの地に建立され、そして八幡社が今の地へ移転した後に京都の伏見稲荷を勧請して鳴岡稲荷神社がつくられたということです。

先日、鳴岡神社を訪れた日は、雨の後で鳥居が印象的でした。

旧参道に60㍍に亘って朱塗りの鳥居(写真)が林立していました。

旧参道に寝そべってみました。

雨あがりの青空を背景にした朱塗りの鳥居は見事な景観です。

「稲美町○○景」という企画があるなら、ぜひ入れて欲しい一風景です。

天気のよい日にお立ち寄りください。

できれば、参道にねそべって斜め上を見上げてください。

きっと感動の風景が見つかります。

  鳴岡稲荷神社の地面は鳴のか?

Inamisho5_037 また、『稲美町史』の説明に、次のような記述があります。

「・・・社殿の裏側の地面を強く踏めば音を立て、地下に空洞あるごとく感ぜられる。鳴岡の名称の由来である」

こんな記述を見ると無性に実践してみたくなります。

その日はさいわい、私のほかに誰も居られません。

66才のオッサンが地面を強く踏みつけました。

確かに音がするのですが、地中からの音とは思われません。

いろんな場所で試みたのですがダメでした。

どこかポイントがあるのかもしれません。

石造のお稲荷さん()が、こちらを睨んでおられました・・・

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稲美町探訪(187):いなみ野フットパス(49)・加古新村の一大ターミナル

2010-04-22 10:32:27 |  ・いなみ野フットパス

Inamisho5_085_2 加古の上新田集落の大きな木の下に道標(写真)があります。

この道標について『東播磨道標をたずねて(井原卓也著)』(神戸新聞総合出版センター)で次のように説明しておられます。

   道標は他の場所にあった?

大きな木のたもとにある道標。これも上部に仏が彫られている。

風化が激しく、それぞれ三面に書かれている文字は判読が難しいが、三木 高砂 西条などの字が読める。

かなり広範囲にわたって地名が書かれていることから、もともと大きな交差点などに置かれていたのではないだろうか。

以上が説明です。

著者は、他の場所に置かれていたものが、現在ここにあるのではないかと推測されています。

  ここは、加古新村のターミナル

でも、この場所は、旧加古新村にとって特別な場所です。

すでに述べたように才兵衛(現:加古川市八幡町中西条)・喜平次(同:上西条)・治兵衛(同、下村)の三人は、加古新村の開発に当たりました。

そして、寛文2年(1662)に最初の集落として上新田23軒がつくられました。

特に、沢兵衛は、中西条時代の姓は「加古」で、彼は自家の姓を村の名としたほどです。

この三名の百姓は頭百姓(とうびゃくしょう)として、加古新村では絶対的な影響力を持ちました。

3名の家は、この道標のすぐ近くで、道標を中心にして、それぞれ西・北・東にあります。

それに、少し北の北新田には、大庄屋の沼田家があります。

道標のあるこの場所は、まさに、加古新村の政治・経済の中心地でした。

人はここに集まり、散っていったのです。

そこに、この道標が設置されたのではないかと推測します。

  開拓者の道

「右 西条 わたし」の文字は、はっきり読めます。

先日、この道標の示す西条まで歩いてみました。江戸時代の新田~西条の道は、どの道かはっきりしなかったのですが、とにかく歩きました。

道標のある場所から真っ直ぐ北へ行くと「一号池」で道は突きあたりになりました。

一号池を西へ迂回し、加古北新田西を過ぎると下村への道は台地を一気に駆け降ります。坂を下ったところが下村です。

(66才のおっさん)の足で、30分ぐらいで下村に着きました。

「近い」。そして、下村の向こうは西条・国包の「わたし(渡)」へと続きます。

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稲美町探訪(186):いなみ野フットパス(48)、沢才兵衛・沼田家

2010-04-21 00:07:43 |  ・いなみ野フットパス

    上新田、沢才兵衛

Inamisho5_016 沢才兵衛は、もともと加古沢兵衛久次といい、中西条(現:加古川市八幡町)の庄屋でした。

26才の時、父の家系を継いで庄屋役を仰せ付けられましたが、まもなく次弟源太夫に譲り自分は、治兵衛(下村の庄屋)・喜平次(上西条の組頭)という二人の有力な協力者を得、また大庄屋の与次太夫という後援者を得て、この加古村の開発という大事業を成し遂げました。

その結果、3人と大庄屋の与太夫には、無税地が与えられ屋敷としました。

与次大夫は、開発人として、大庄屋として奉行に開発の許可を願いでましたが、3人とは共に加古新村へは出てきませんでした。

なお、才兵衛の家は、上新田の現在の沢陽三氏宅(写真上)です。

    北新田、大屋・沼田家

035 与次太夫は大庄屋として上西条に残り、その親の与次右衛門は、養子吉郎兵衛をともなって加古新村きて、先着の3人の屋敷地・上新田より北方、北新田の地を屋敷地としました。

北新田の沼田家は、加古大池のすぐ西に森で囲まれた北新田の沼田家(写真下)がそれです。

以上は『稲美町史』からお借りした内容です。

    新事実!

この3(平成22年)、沼田正毅氏は、沼田家に伝わる膨大な古文書を研究され、沼田家の歴史を『北新田沼田家 六百七十五年史』にまとめられました。

それによると『稲美町史』の内容と少し異なったところもあります。

後日新しい事実を紹介できるかもしれません。

江戸時代、大庄屋は、地域の村々の生活を左右する大切な役割を果たしていました。

稲美町、特に加古新村における沼田家の果たした役割を明確にする必要がありそうです。

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稲美町探訪(185):いなみ野フットパス(47)・加古大池記念碑

2010-04-20 00:07:23 |  ・いなみ野フットパス

きょうの話題は「稲美町探訪(15)~(20)」をあわせお読みください。

加古大池へ寄りました。管理棟への入り口に「加古大池記念碑」があります。

昭和27年に建立された記念碑(写真)には次のようにあります。

内容を変えず最初の部分をやさしく書いてみます。

   加古大池記念碑について

Inamisho5_046 加古村は元印南野(いなみの)といって、万治元年(1658)沢才兵衛、沼田喜平次、本岡治兵衛の3人の先覚者により開発され、加古新村と称しました。

その後、村民は近村から移住し、たゆまず開拓に努め、ついに現在にいたりました。

中でも、水には苦しみ万治元年大溝を築いて以来同じような水路をつくり(・・・以下略・・・)

この碑には、開発にあたった3人の頭百姓の名前があります。

少し付け足しておきます。

喜平次(上西条)は、組頭で才兵衛(中西条)と治兵衛(下村)は庄屋です。

庄屋と組頭が開拓を池の築造を思い立ったとしても、それだけではことが運びません。もう一つ、大庄屋の意見・態度が重要になってきます。

西条組は、大庄屋の中でも有力な大庄屋が支配する沼田家の存在がありました。

沼田家の歴史に関しては、今年の3月に『北新田沼田家 675年史』(沼田正毅著)が出版されましたので、『稲美町史』で不明なところも、後に紹介できると思います。

ここで、一点だけ書かせていただきます。

大庄屋の沼田家は、加古村の開拓・大池の築造にあたり頭百姓の強力な応援をするとともに、計画を推し進める中心的な役割を果たしています。

加古大池の記念碑に沼田繁範(與次太夫)の名前がないのは、少し寂しい気がするんです。

*沼田家には、與次太夫の名が再三見られますが、沼田家13代の繁範は、二世・與次太夫です。

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稲美町探訪(184):いなみ野フットパス(46)・未完成の顕彰碑

2010-04-19 08:22:12 |  ・いなみ野フットパス

前号で紹介した加古八幡神社の()大鳥居の横に未完成の顕彰碑(弁慶の硯石)があり、説明がありましたのでお借りします。

   弁慶の硯石!

Inamisho5_014 この石は、ずっと昔から「弁慶の硯石」と呼ばれていました。

石の形が習字に使う硯石に似ているからでしょう。

しかし、この石がいつからここにあったのか、何だったのかわかりませんでした。

この疑問が調査の結果ようやくわかりました。

私たちの住んでいる「加古」は万治4年(1664)に中西条の加古澤兵衛(澤才兵衛と改名)、上西条の沼田喜兵次、下村の本岡治兵衛の三人が開発人となり、村づくりが始まりました。

そして、近隣の村々から多くの人たちが移り住むようになりました。

それから90年ほど過ぎたころ、開発人三人功績をたたえるために、顕彰碑を建てようということになったということです。

ところが、この顕彰碑のための石も磨き上げ、建てる場所も決め、碑文の草稿も宝暦2(1752)までにできていたということですが、碑文の草稿者の一人、清田孫蔵が死去したことなどがあり、顕彰碑が未完成のまま置かれてしまいました。

このようないきさつが判ってきた今、この碑石も先人の苦労を偲ぶものの一つとして、大切に保存したいものです。

  沼田与次太夫の銘は?

開発人三人(加古澤兵衛・沼田喜兵次・本岡治兵衛)の功績をたたえるための未完成の顕彰碑ということは分かりました。

「もし」という話を付け加えておきます。

もし、この顕彰碑が完成していたら、三人の名前の他に大庄屋・沼田与次太夫の名があったと想像します。

大庄屋の後援・影響力を抜きに開発は進まないからです。

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稲美町探訪(183):いなみ野フットパス(45)・加古八幡神社

2010-04-18 08:01:43 |  ・いなみ野フットパス

しばらくは、加古地区(「いなみ野フットパス・加古の道3」と、その周辺)を歩きます。

今までにも加古地区について、「稲美町探訪(15)~(19)」で少し書いていますので、あわせご覧ください。

 稲美町探訪(15):加古新村誕生①

   〃  (16):加古新村誕生②・開拓の許可おりる

   〃  (17):加古新村誕生③・才兵衛、加古新村と命名

   〃  (18):加古新村誕生④・加古大池

   〃  (19):大溝用水

   〃  (19):村方万事議定書  

以上の記事に付け足すことからはじめましょう。

    加古八幡神社

Inamisho5_001  加古大池の西にある加古八幡神社(写真上)について、神社の境内に説明がありますのでお借りします。

 加古八幡神社は、加古地区の開発がはじまってから、約20年後の延宝8年(1680)に現在の鳴岡神社境内に仮の社殿を設け、開発人らが氏神として祖先から崇敬してきた上西条八幡神社を勧請して村の守護神としたことに始まります。

そして2年後の、天和2年(1682)に現在の地に本殿を造営し、天和3年(1683)に内宮を完成させました。

   加古八幡宮の旧大鳥居

八幡神社の鳥居のすぐ右(東)に古い大鳥居が保存されており(写真下)、説明がありますので、その一部を引用させてもらいます。

Inamisho5_002 加古八幡宮が加古の地に勧請されたのは、延宝8年のことでした。

その時は、大鳥居を造る余裕もありませんでした。

大鳥居が建立されたのは、お宮が創建されてから56年後の元文元年(1736815日のことでした。

その4年前の享保17年(1732)には、西日本には「うんか」の被害があり、その翌年には多数の餓死者が続出しました。

加古新村でも多数の犠牲者が出たと想像されます

世にいう「享保の大飢饉」です。

このような時に、加古新村の200軒ばかりの村で大鳥居を建立することは大きな負担だったと思います。

苦しいからこそ、神に助けを求めたのかもしれません。

西の鳥居の柱には「播州加古郡加古新村開発人沼田喜平次、沢才兵衛、本岡治兵衛、沼田九郎太夫」の銘があります。

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稲美町探訪(170):いなみ野フットパス(44)・畑作の多い中一色村

2010-04-05 08:11:25 |  ・いなみ野フットパス

Inamimachi4_078 『播磨地種便覧』の数字を見ましょう。

同書の前書きに「一、戸数人口は明治14年1月御調ヲ以載ク」とあるので、明治14年の数字です。

 明治新政府は、明治6年(1873)から地租改正を行い、米を納める年貢をあらため、土地の所有者から貨幣で定額の地租を取ることにしました。

地租改正では、耕地の面積をはかりなおし、新たに地価を定め、その3%を地租としました。

一般的に、新政府の収入が減らないように高めに設定されたため、農民の負担は江戸時代と比べても軽くなりませんでした。

そのため、各地で「地租改正」に反対する激しい一揆が起こり、これに押された政府は、地租を地価の2.5%(明治10年)に切り下げました。

『地種便覧』は、各村の人口、家数、田、畑の面積ならびに地租の額等を記録した本です。

  <中一色村の人口、戸数、地租>

(明治141月調べ)

  戸数:88戸

  人口:390人

田方:30町8反9畝1歩(地租:480円37銭)

畑方:38町7反2畝5歩(地租:264円28銭1厘)

中一色村は、水が少なく田よりも畑作の多い村でした。

畑では綿作がたよりでした。

その綿も、開国以来急激に増加した廉価で良質な輸入に圧迫され、綿はもはや畑作の中心になりえなくなりました。

百姓はいっそう水田を求めるようになりました。

百姓の溜息が聞こえてきそうです。

・・・水が欲しい・・・

*写真は中一色天満宮(水・収穫の神を祀る)

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稲美町探訪(169):いなみ野フットパス(43)・平木橋移転

2010-04-04 07:55:18 |  ・いなみ野フットパス

9b29a96c 万歳池からは西へは加古川市になりますが、少し足を延ばし平木橋(加古川市野口町水足)まで散策することにします。

 地図で平木橋の元あった場所(赤丸印)を確認ください。

   

平木橋解体

 淡河川・山田川からの水の一部は、やがて練部屋(ねりべや)(神戸市西区神出町)に集まり、さらに印南野台地を潤しました。

 練部屋から分かれた支流(森安支線)は、最後は凱旋池から万歳橋を経て平木橋に流れます。そして平木池を潤おす予定でした。

 しかし、平木池は、山田疎水の一番末端に位置していたため、十分な水が得られません。

 そのため、平木池は昭和24年頃には放置されたままになり、昭和41年に埋め立てられてしまいました。

 それにともない、平木橋(大正4年9月に完成)も、やがて人々から忘れ去られ雑木林の中にうずもれていました。

  突然のことです。

 この平木橋のある場所を東播南北道路が通過し、平木橋が取り壊されることになり、がぜん注目が集まりました。

 土木工学においても貴重な築造物であることがわかり、平木橋は専門誌にも紹介されました。

  平木橋移転

247_3 平木橋は、水利の乏しい地域を象徴する建造物であり、土木学会からも「近代土木遺産」に評価されました。

このため、橋の保存について各方面から要望があり、橋の取り扱いについては地元・学識経験者が協議を重ね、保存されることに決まりました。

保存場所は、約1.1キロメートル西の水足(加古川市野口町)の「前の池」への移設です。

平成21331日、移築が完了しました。

写真は、現在(移設後)の平木橋の姿です。

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稲美町探訪(168):いなみ野フットパス(42)・水がきた!

2010-04-03 07:00:48 |  ・いなみ野フットパス

今日の報告も「平成12年度:東播磨ふるさと歴史学習・ウォーキング資料」を引用させていただきます。

   淡河川疎水は完成したが・・・                                   

Inamimachi4_088_2 「稲美町探訪(167)」の地図をご覧になりながらお読みください。

明治24年に淡河川からの揚水を取る工事は完成しました。

この水路を「淡河川疎水(おうごがわそすい)」といいます。

しかし、この時の疎水工事では、中一色の高台への疎水計画はありません。

この辺りは、依然として水が乏しくて水田にならない土地ばかりでした。

   水が来た

県立東播磨高校の西の凱旋池から万歳池に続く土手(写真上)をご覧ください。

 *写真は西から東の方向を撮影

淡河川疎水の工事では、この辺りの土地への用水計画はありません。

したがって、これらの土手もまだありません。

そのため、ポンプによる揚水が計画され、工事は、明治406月に完成しました。

その後、明治44年に工事が始まり、大正8年に完成した山田川疎水事業によって、中一色の高台にも淡河川と山田川から揚水が送られてくるようになりました。

それにともない、凱旋池から西へのコンクリートやレンガを用いて作った支線水路がつくられました。

しかし、凱旋池には、もともと漏水があり、水が十分にたまるということはあまりなかったようです。

昭和28年になると、この辺りでは、さく泉(井戸)を掘って地下水を汲み上げて農業用水に使うという方法が用いられるようになりました。

Inamimachi4_085  取水について、まとめます。

この地域(高地)では次の3つの方法で取水しました。

       ポンプ揚水で曇川の水を取水

       疎水路から淡河川と山田川の水を取水

       さく泉で地下水を取水

サイフォン跡

凱旋池から万歳池に真っ直ぐに高さ約2.5mの水路が伸びています。

水路の頭頂にはコンクリートによる水路も残されています。

凱旋池のすぐ西に、一色村から南へ道路が水路を横切っています。

この水路と道路の交差部分はサイフォンになっており、道の両側にサイフォン跡(写真下)を見ることができます。  

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稲美町探訪(167):いなみ野フットパス(41)、凱旋池・万歳池・明治の圃場風景

2010-04-02 00:08:42 |  ・いなみ野フットパス

今、中一色周辺を歩き回っています。

中一色村は、『稲美町史』によれば、江戸時代初期(17世紀のはじめ)からの開拓地と考えられています。

「一色」という呼称から、それ以前にも、この辺りにはすでに小規模の村があったのかもしれません。

ともかく、この辺りは農業用水の確保には苦労した地域でした。

明治時代になって「淡河疎水」が完成した後も、疎水の末端であったために、用水の不足は解消されませんでした。

   二つのため池と水揚げ場

34d80c17 水不足を解消するために日露戦争後になって、ため池を築く計画ができました。

ため池により、それまでの山林や畑を水田に変えようとしました。

明治38年には万歳池、凱旋池のため池が完成しました。

「万歳池」・「凱旋池」の名称は日露戦争に勝利にちなんで付けられた名称だといわれています。

もっとも、万歳池は池の形が六角形で亀の甲羅に似ており、おめでたいので「万歳池」とつけられたという説もあります。

これらのため池を造った後も用水は十分ではありませんでした。

そのため、明治38年の12月には蒸気機関式のポンプを据えた水揚げ工事が始まりました。

曇川からの取りいれた水を、ポンプで上げ、高低差約6~7mある万歳池・凱旋池に送水する計画でした。

この工事は明治406月に完成し、ポンプで汲み上げた水は万歳池が7割、凱旋池3割という比率で分配されました。

揚水場については「稲美町探訪(109110)」でも紹介しましたので、合わせてご覧ください。

なお揚水場のあった場所は、地図(昭和428月調べ)に加筆しています。

先日、地図を片手に揚水場の跡を捜したのですが、みつかりませんでした。

近の人に確かめたのですが、どなたもご存知ありません。現在、その跡は全く残っていないそうです。

   明治時代の圃場整備

Inamimachi4_110 淡山疎水(淡河・山田川疎水)の完成と同時に、水路沿いの圃場整備事業も行われました。

凱旋池から万歳池にかけての疎水の北側の高台の農地(写真)は、現在の圃場整備事業による水田よりも小さいサイズです。

この辺りの水田は、明治時代の圃場整備事業の水田が残る貴重な水田風景となっています。

*「平成12年度:東播磨ふるさと歴史学習・ウォーキング資料」参照

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稲美町探訪(166):いなみ野フットパス(40)・オマーン国王夫人

2010-04-01 07:25:41 |  ・いなみ野フットパス

 県立東播磨高校のすぐ東の高堀を調べました。横の墓地の「オマーン国王夫人」の墓碑にお参りしましょう。

 *墓碑の国名は「オーマン」となっています。

 8209e658  オマーンの歴史

オマーンはブ・サイド家が支配するイスラム教の国で、アラビア半島の東南端の一角に位置し、面積は日本の4分の3ほどの小さい国です。

ホルムズ海峡に続くオマーン湾やアラビア海に面したオマーンは、古くからインド・アフリカ東海岸諸国との貿易の要衝でした。

 オマーンは、イスラム教を中心としていますが、スンニ派やシーア派でもなくイバーディ派と呼ばれる宗教が国民の多数を占めてします。

イバーディ派は、指導者を世襲としていません。

そのことはよいことなのですが、新しい指導者の出現には、しばしば混乱と分裂を招きました。

オマーンは、衰え15071649年までポルトガルに支配されました。

オマーンが、再度統一を回復したのは1749年のアハマド・ビン・サイードによってでした。

 しかし、サイード国王の死後、オマーンは再び衰え、国王のタイムールは息子のサイードに追放され(1932)1965年にインドのボンベイで客死するまで30年余をアジア各国で過ごしています。

タイムールは一時、日本にも滞在し、そのとき日本女性との間に女の子をもうけます。ブサイマ王女です。

その後、父親を追放して第7代国王となったサイード(在位193270)は、イギリスとの通商条約を結び、イギリスを後ろ盾に父・タイムール旧勢力と対峙しました。

その後も争いは絶えませんでした。

1970年、サイード国王の息子のカブースは父を退位させ第8代国王に即位しました。

なお、父親のサイードは追放された2年後ロンドンで亡くなっています。

オマーン国王夫人・稲美町の墓地に眠る

 Inamimachi4_069 太字の部分に注目ください。

息子に追放されたタイムール国王は一時、日本にも滞在し、その時日本女性との間にブサイマ女王を出産します。

この日本女性は稲美町の方で、墓碑(写真)が県立東播磨高等学校前の墓地にあります。

数年前、ブサイマ女王が母の墓参にこられたということを聞きました。

話してくださった方は亡くなられ、当時の詳細はわかりません。

さらに、オマーン国王について知りたいのですが、詳細をお知りの方はお知らせください。

 (写真:オマーン国王夫人の墓碑)

   <墓碑>

  南面  昭和拾四年拾壱月拾日卒

      前オーマン国王夫人 清子アルサイド

                享年二十三歳

  東面  昭和拾五年五月

      タイムルFファイサム・アルサイド建之 

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稲美町探訪(165):いなみ野フットパス(39)・高堀②

2010-03-31 07:28:39 |  ・いなみ野フットパス

Inamimachi4_067 東播磨高校のすぐ東の橋は弁天橋です。

寺田用水の最大の難工事は、この弁天橋の下の谷のような溝を見ると容易に想像できます。

  高堀とは?

「高堀」について整理しておきます。

ここに立ち谷を見ると「堀が深く掘られているので高堀であろう」と、みょうに納得してしまいます。

でも、歴史用語として高堀は、高い堀(深い堀)の意味ではありません。

石見完次氏は『東播磨の民俗(加古郡石守村の生活誌)』(神戸新聞出版センター)で高堀を、次のように説明しておられます。

・・・「高堀」は固有名詞ではなく、村高または、百姓各戸に応じて課役によって工事をした溝の意味で、近世、検田では石守村(現:加古川市神野町)六百石、水足村(現:加古川市野口町)が六百四十四石であるから、両方この割合で人夫または費用の負担をうけたのであろう。

つまり「高」によって、造られた掘割のことである。

・・・・

Fc2361ed_2 高堀とは「用水を利用する村々の高によって人夫・費用を分担して造った掘割のことである」と説明されています。

  寺田用水は自普請で

寺田用水は自普請でした。

自普請というのは工事の費用等は自分たちで負担するという意味です。

これに対して御普請というのは、工事の費用を藩が負担するという意味です。

この寺田用水は自普請であり、溝も当然「高堀」となりました。

*写真:弁天橋から北の高堀を見る

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稲美町探訪(164):いなみ野フットパス(38)・高堀①

2010-03-30 09:09:01 |  ・いなみ野フットパス

68be9d6a 今「いなみ野フットパス・天満の道」の●印の場所にいます。

県立東播磨高校のすぐ東の橋の上です。

この橋の下は高い谷になっています。この谷は寺田用水で、この部分は高堀です。高堀の話をしましょう。

*今回の文章・内容は「稲美町探訪(108):曇川⑫・寺田用水」と重なります。合わせてご覧ください。 

高堀(たかぼり)①

Inamimachi4_065 江戸時代の初めのころ、寺田池(加古川市平岡町)の水源一帯に幸竹新田などの村々が誕生し、多くの池が造られました。

そのため、平岡地区の重要な水源である寺田池に十分な水が集まらなくなり、新しい水源が求められたのです。

寺田用水です。

寺田用水は曇川の上流(国安川)から水を引き、寺田池・平岡方面へ、そして野口方面へも水を送りました。 

しかし、曇川の水を寺田池・野口方面まで引くとなると、途中の高い丘(東播磨高校の東あたり)を越えなくてはなりません。 

曇川は約26㍍のところを流れています。その南にある東播磨高校のあたりは約38㍍です。 

水は、この高い丘を水は越えなければなりません。 

そのために、曇川の上流(国安川)の比較的高いところに堰を造り、東播磨高校の前あたりに深い堀(高堀)を掘りました。 

深い高堀の跡(写真)が残っています。

万治元年(1656)、曇川に井堰を設けて用水(寺田用水)づくりがはじまり、寛文3年(1663)、水は高台を越えました。

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稲美町探訪(163):いなみ野フットパス(37)・二つの燈籠

2010-03-29 06:57:58 |  ・いなみ野フットパス

003 ・・・かつて、中一色村の入り口に長い石材を並べただけの橋があり、その橋の袂に燈籠が一基立っていました。(写真上)

いま、その橋は100メートルばかり西に移されて、コンクリートのしっかりした橋となっています。

燈籠も、この橋の傍らに移されています。

燈籠の正面には「池大明神」、側面には「文政六年四月建立」と彫られています。

中一色の伝承によれば、昔、中一色村から国安天満宮に燈籠一対を奉納しましたが、その後、村内に病魔の絶える間がなかったところから、返還してもらって一基は村の入り口に、他の一基(写真下)は中一色の天満宮に移したといいます。

この話の真偽はともかく、両者の燈籠の制作年代は、中一色天満宮の方は安政九年(1780)、村の入り口の方は文政六年(1823)43年もの隔たりがあります。(『稲美町史』p698~p699

少し、付け足します。

村の入り口の燈籠には道標としても利用されています。

側面に「西加古川、東野口」と彫られています。

おそらく、塔籠ができた後に「道標」として文字が刻まれたのでしょう。

   二つの燈籠は一対か?

Inamimachi4_076 『稲美町史』の記述を読んでいて二ヶ所が気になります。

一点目は、この燈籠は一対のものであったといわれていますが、『町史』でも指摘しているように、制作年代が43年も隔たっています。

制作年代が43年も隔たった燈籠を一対と考えるには、少し無理があるのではないでしょうか。

  一色村の入り口の燈籠は、

病気退治の願かけの燈籠か?

二点目は、橋の傍らの燈籠が製作されたのは、文政6年(1823)です。

文政6年は、江戸時代の終わりのころといいながらも、村人は神の存在を100%信じていた時代です。

この燈籠は、「病気退治の祈願の為に、天満神社から返還してもらった」といいます。

となると、単なる燈籠ではないはずです。

そんな、「願いのこもった燈籠に“右加古川、東野口”と文字を彫り込んで道標とするだろうか」ということです。

ちょっと考えられません。

となると、この二つの燈籠は一対のものではなく、その目的も病気退治の祈願ではなく、特に中一色の村の入り口の燈籠は、国安の天満宮か、中一色の天満宮への道沿いに奉納された燈籠と考えた方が無難のようです。

伝承を壊して申し訳ない。

かつて、中一色村に病気がはやったのでしょう。

これは、そんな口承がこの燈籠と結びついて生まれた伝承かもしれません。

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