ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(66):旧北条街道

2011-07-31 07:20:27 |  ・加古川市東志方

今回の「志方町を歩く」は、以前に「西神吉町探訪・旧北条街道」を少し手直ししたものです。

 円福寺の前の道は、志方町横山から続いた旧北条街道の一部です。

    旧北条街道

 014加古川市米田町平津の国道2号線の交差点からさらに、北へ道はのびています。

 この道は、西神吉町あたりで大池・新池の東を通り、志方町投松(ねじまつ)へぬけます。そして加西市北条へと伸びる幹線(主要地方道・北条高砂線)です。

 明治18(1885)に完成しました。

 それ以前の旧北条街道は、神吉村から西神吉町宮前の宮山の麓と大池の間を通っていました。

 作家の猪瀬直樹氏は、三島由紀夫伝『ペルソナ』の取材のため、三島の先祖の出身地である横山を訪れておられます。

 『ペルソナ』で、旧北条街道にも触れておられるので、少し引用が長くなりますが、読んでみます。

 この時、猪瀬は横山へ志方側から入っておられます。

 ・・・・道幅は狭いけど、かつて北条街道とよばれ人馬が盛んだった。坂は赤坂と呼ばれている。

 江戸時代から明治初頭、播州平野の奥から牛に引かせた車が米を積んで港へと向かった。その際、この赤坂を喘(あえ)ぎながら登ったところで一服した。

 モータリゼーションの時代でもドライブインやスーパーマーケット、土産物店等が固まっているような場所が必ずある。

 横山(志方町)は、江戸時代末期のそうしたスポットだった。『志方町誌』の記述に従えば、以下のようになる。

 「昔の北条街道は、この山の東を通り神吉(西神吉町)の大池の西へ出たもので、この街道にできた集落が横山で、上富木(かみとみき)の小字である。・・・道の東側に北から塩物屋、くすり屋、焼もち屋、綿打屋、植木屋、いかけ屋と商売屋がならんでいたそうである」

 三島由紀夫の祖父・平岡定太郎(さだたろう)が樺太庁長官となって故郷に錦を飾るというので、賑やかにみなで出迎えた。

 宝殿には駅が設置されておらず、加古川駅から人力車の列がならび、さながら大名行列のようだった。

 もう北条街道に新道(現在の北条・高砂線)ができていた。その道からやってきた。

・・・・

 旧北条街道は、主役の座を降りて久しくなりました。

 円福寺の前の道は、横山から続く旧北条街道です。そして、細工所へ・北条へとのびていました。

 *写真:旧北条街道(円福寺前より少し西あたり)

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志方町を歩く(65):円福寺⑥・境内の石棺

2011-07-30 06:54:46 |  ・加古川市東志方

   円福寺境内の石棺

円福寺本堂に向かって左隅に石棺の蓋と身(写真)があります。

説明を読んでおきます。

   (正面)

    古墳時代の家形石棺の蓋と身

    古墳時代後期6・7世紀

    凝灰岩(長石)製

   (側面)

蓋 長さ140センチ  幅 68センチ  高さ48センチ

身 長さ144センチ  幅 75センチ  暑さ24センチ

009この石棺は、この近辺で見つかり、円福寺で保管されているものでしょう。

加古川地方で造られた石棺はほとんど竜山石(高砂市)が使われています。

が、中には円福寺の石棺のように、長石(おさいし)で造られたものがあります。

円福寺の石棺は、特別な石棺でありません。

ただ、長石(おさいし)で造られています。

長石について説明しておきます。

   長石(おさいし)

加西市立善防中学校からあまり遠くない西の方向に笠松山があります。

笠松山の北東山麓は、古くからの石切場で、山体が大きく削り取られているので、すぐわかります。

現在も採石が続いていて、採石場付近は関係者以外立入禁止となっています。

ここの採石場の岩石は、今から約8000万年前(白亜紀後期)の火砕流によってできた凝灰岩です。

軟らかくて加工しやすく、また割れ目がほとんどないために、古くから「長石(おさいし)」として採石されてきました。

「長石」は、竜山石(高砂市)とともに古墳時代の石棺を製造しています。

現在でも石垣などの石材 として広く利用されています。

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志方町を歩く(64):円福寺⑤・北朝年号

2011-07-29 08:12:08 |  ・加古川市東志方

003円福寺(東志方高畑)の本堂に向かって右隅に、県指定文化財の宝筐印塔(ほうきょういんとう・写真)があります。

高さ、約195cmの花崗岩製の宝筐印塔です。相輪は後のものです。

読みにくくなっていますが、次の銘があります。

一結衆 白・敬

   康歴元年 巳・未 十月十日

康歴(こうりゃく)元年(1379)、この地方は赤松の支配下にありました。

    北朝年号(康歴元年)

「康歴元年」は北朝年号で、この年、南朝年号では天授五年です。

赤松四代当主・義則が赤松家所領の五穀豊饒を願い、また「一結衆」とあるところから赤松一族の安寧祈願、さらに赤松一族の供養塔として造立したものと思われます。

円福寺の創建は、応永四年(1397)といいますから、それより18年以前のことです。

この宝筐印塔の「北朝年号」からもわかるように、赤松本家は、曲折はあったものの足利尊氏(北朝方)として活躍し、後醍醐天皇(南朝方)に敵対し時代を乗り切ります。

 その後、赤松家も様々な興亡を繰り返しています。

    円福寺は北朝方

 円福寺は、北朝側の寺でした。

 江戸時代までは、北朝側であろうが、南朝側であろうがあまり問題とならなかったのですが、明治時代となり突如「南朝正当論」が声高に叫ばれるようになりました。

そして、日本が戦争に突き進んでゆくほど、北朝を支持した赤松氏の逆賊度はますます高くなり、赤松氏は歴史の上、全く評価されなくなってゆきました。

赤松一族は、日本の歴史から追放されてしまったのです。

戦後、そんな歴史はおかしいと、学問的に足利尊氏・赤松氏の再評価がなされるようになりました。

でも、気になることがあるのです。それは、明治時代~戦前にかけて北朝支持を色濃く残す円福寺の立場は微妙であったと思います。

そのため、この時代、円福寺はあまり多くを語らず、背を丸くして若干小さくなっていたのではないかと想像するのです。

確かめずに書いています。

ともかく、円福寺の歴史は更に研究され、紹介され、志方地方の中世の姿を描き出したいものです。 

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志方町を歩く(63):円福寺④・満祐の思いとは

2011-07-28 13:28:02 |  ・加古川市東志方

008南北朝の説明は省きます。

赤松氏は、足利尊氏に忠誠を誓い、南北朝時代・北朝方として大きな役割を果たします。

建武三年(1336)、赤松氏の初代・円心(えんしん)は、播磨の守護につきます。

室町時代の守護所は、円心から四代・満祐まで姫路書写の坂本城におかれ、播磨だけでなく備前国・美作(みまさか)にも大きな支配下力を持っていました。

特に、印南郡は赤松の領地として強い結びつきがありました。

そんな赤松の領地に自分たちの影響を強める寺を建設するのは自然なことでした。

    円福寺の創建は応永四年(1397)か

以下、「志方郷(第48号)」の富永真光氏の研究をお借りします。

・・・当時、大豪族の習慣として後継者が元服すると同時に寺(寺領)をあてがうのが通例であったことから、円福寺創建は1397年(満祐15才・元服)当時であり、「円福寺護持ノ為寺領ハ高畑の田畑也」と寺伝に見えるのは事実であろう。・・・

以上の解説の後に、開山当時天台宗の寺院であったと書いておられます。

 ・・・・・

それにしても、寺院創建のため、満祐の名義による土地・財が高畑に与えられ、満祐名前を山号に、そして、戒名から寺の名を円福寺としたのは、満祐のこの寺に対して特別な思い入れが感じられます。

     満祐にとっての高畑は?

それは、何だったのでしょうか。高畑は個人的な思い出があった場所であったのでしょうか。

富永氏は「・・嘉吉の乱は、想定外の事件であったに違いない。

政界引退後の余生、満祐は髪をそり性具相全として円福寺に帰郷して平穏に最後をはずであった・・・」と書いておられる。

想像するしかないが、とにかく、高畑は満祐にとって特別な場所であったようです。

(仏教では戒名は生前に受戒式に出て、戒名を授かっておくのが本来のあり方としていますから、満祐が生前に戒名を授かっていても不思議ではありません)

 <蛇足>

満祐から土地と財をあてがわれ、高畑の氏寺を建造したことに対する高畑村の人々の感謝の印として、山号・寺名を付けたとも考えられなくはない。

そうであったとしてもやはり高畑は満祐にとって特別な地であったようです。

研究課題ができてしまいました。

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志方町を歩く(62):円福寺③・赤松氏復活

2011-07-28 07:50:03 |  ・加古川市東志方

今回も嘉吉の乱の続きで、東志方の話が登場しません。ご了承ください。

   千代丸急死、しかし

Photo_2  嘉吉の乱で、六代将軍・義教(よしのり)を謀殺した赤松満祐(あかまつ・みつすけ)弟・満雅の子・千代丸は城山城無事脱出しました。

それを確かめて、満祐は自害しました。

この時、千代丸は9才でした。

そして、千代丸は京都三条家の所領である近江の願成寺へ送り届けられました。

というのは、満祐の弟の満雅の妻は京都三条家の出だったからです。

そこで、かくまわれて10年あまり後、千代丸は還俗して時勝と名のりました。

やがて、「赤松家の血筋を引く方が生きておられ」というニュースは旧臣に勇気を与えました。

が、それもつかの間、康正元年(145523歳で、時勝は急死します。

   赤松政則の誕生そして赤松家復活

しかし、偶然にもその年、時勝の死の前に男子が生まれました。

次郎法師丸です。何ともドラマチックな話です。

彼は、後の赤松政則です。

家臣連中が次郎法師丸を担いで赤松家再興の動きに出ます。

南朝方が持っている三種の神器の一つである神璽を取り返して北朝に納めれば赤松氏の復活を認めるという将軍家との密約ができました。

 *神璽(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)

奇跡的に、この神璽奪回作戦に成功し、赤松家は復活を遂げます。

この神璽奪回作戦時に赤松方により皇族の人が数人殺されました。

そのため、赤松氏は逆賊だともいわれていますが、世はまさに下剋上の時代です。

そういう事件はたびたび起きています。

この一事を持って「赤松は逆賊である」と決めつけられないと思います。

 *絵:赤松政則像

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志方町を歩く(61):円福寺②・嘉吉の乱

2011-07-27 12:25:44 |  ・加古川市東志方

今回と次回の「志方町を歩く」は、嘉吉の乱の復習で志方町は登場しませんがご了承ください。

    満祐、義教(足利六代将軍)を殺害

Photo_2 「・・・新邸の池のカモの子がたくさん生まれました。水面をすべる様子がいかにもかわいく、ぜひともお運びくださるように・・・」

嘉吉元年(1441)旧・六月、義教(足利六代将軍)のもとへ、こんな招待状が届きました。

新邸の主(あるじ)は、赤松満祐でした。

義教は就任以来続いていた戦いに勝ち抜き満ち足りた気持ちのときでした。

義教と仲が悪くなっている満祐からの招待でしたが、喜んでこの招待を受けました。

六月二十四日(午後四時)、新暦ではちょうど今頃です。義教は多数の重臣とともに赤松邸に入りました。

庭先の猿楽は三番まで進み、酒はすでに五杯目。宴たけなわのころでした。

この時、明かり障子がドット開き十数名の武士が義教めがけて突進してきました。

義教は、叫び声もあげる間もなく首をかき切られたのです。

満祐は、その日の夜のうちに、京都二条にある屋敷を焼き払い、家臣たち700名を伴い、長刀の先に将軍の首を貫いたのを家臣に持たせ播磨の坂本城(姫路市)に引き上げました。

満祐に味方するものは誰もいません。

赤松満祐は、急ぎ合戦の準備をしました。

幕府軍は、坂本城を攻め、これを陥落させました。

満祐は、揖保郡にある城山城(きやまじょう)で最後の一戦をするものの、赤松軍はすでに五百騎あまり、九月九日に攻撃が始まり、九月十日、城山城はついに陥落しました。

満祐は、これまでと自害し、ここで赤松本家(前期赤松氏)はいったんほろびました。

しかし

しかし、赤松満祐の弟の子である千代丸がひそかに家臣によって城山城から脱出し、後に赤松氏を復興(後期赤松氏)させます。

もう少し、嘉吉の乱の顛末を続けます。

*絵:足利六代将軍(義教)

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志方町を歩く(60):円福寺(東志方・高畑)①

2011-07-27 08:40:58 |  ・加古川市東志方

    満祐山・円福寺

Ennfukuji_3歴史散策をしていて、ときどき「ものすごい」話題にぶつかることがあります。

「歴史上ホントのことだろうか」と思うことがあるのです。

いま、東志方町を歩いていますが、高畑の円福寺(写真)もその一つです。

円福寺の山号を「満祐山(まんゆうさん)」といいます。

ピンと来ないと方も多いと思います。

満祐は歴史書では「みつすけ」として登場する人物で、満祐の姓は赤松、つまり赤松満祐です。

もうひとつ、満祐が赤松満祐である証拠があります。

満祐の法号(戒名)は、「慈徳院殿性具円福大居士」です。

つまり、高畑の「円福寺」は、満祐の法号(戒名)から付けられています。

歴史上、満祐はあまりにも名高く「ウッソー!」とつい叫んでしまいました。

満祐は「嘉吉の乱」を起こします。

少し、長くなりますが「嘉吉の乱」の復習をしておきます

    くじびき将軍

室町時代の四代将軍・義持(よしもち)は42才で亡くなると、その子の義量(よしかず)は、五代将軍となりました。

ところが、彼は酒飲みであったため若死にしました。

その義量には子供がなく、後継ぎをめぐって大問題となりました。

結局、将軍候補者(義持の弟たち4人)の中から「くじ引き」で将軍を決めることになりました。

「くじ引き」で、次の将軍を引き当てたのが義教(よしのり)で、「くじびき将軍」と陰口されました。

当時、播磨・備前・美作(みまさか)の守護を兼ねる赤松家でも異変が起きました。

赤松家三代総領の義則(よしのり)が1427年に亡くなりました。

将軍・義教は、守護の力が大きくなることを嫌っていました。

守護の内輪もめをつくり、干渉し、多くの有力な守護を没落させたのです。

   次は赤松!

 義教は、赤松の追い落としを狙いました。

永享12年(1440)、満祐の弟の領地(摂津・西宮)をことごとく召し上げ、細川氏に渡せとの命令が出ました。

次は、満祐本人が狙われていることが確実な情勢となりました。

そこで、起きたのが世に有名な「嘉吉の乱(かきつのらん)」です。

「嘉吉の乱」については次号であら筋をおってみます。

 *写真:円福寺(東志方町高畑)

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志方町を歩く(59):東志方村誕生

2011-07-26 06:59:28 |  ・加古川市東志方

東志方村誕生

1ac74dcf  いま、東志方村を歩いていますので、「東志方村誕生」の経過を見ておきます。

明治2241日、全国的に市町村の再編がおこなわれました。

この時、細工所村・高畑村・岡村・広尾村・野尻新田村・大沢村・行常村・大宗村・畑村・雑郷村・東飯坂村・東中村の12か村が合併して東志方村が誕生しました。

そして、昭和298月1日、東志方村、西志方村、志方村が合併して志方村が誕生しました。

東志方村の各村(旧村)をみておきます。

  <東志方村の村々>

東志方村は、地図のように細工所村・高畑村・岡村・広尾村・野尻新田村・大沢村・行常村・大宗村・畑村・雑郷村・東飯坂村・東中村の12か村です。

役場は、細工所村に置かれました。

全部読めるでしょうか。チャレンジしてください。「加古川検定」に出題されるかもしれませんよ。(答は文末)

この内、広尾村は明治92月に吉村と柏村が合併して、お互いの一字をとり広尾村としました。

尚、これらの村々の江戸時代の経過をみておきます。

細工所村・高畑村・広尾村・岡村・野尻新田村・大沢村・行常村・大宗村を含む地域は、慶長5年(1600)姫路藩領、元和3年(1617)幕府領、寛永16年(1639年)姫路領、慶安元年(1648)幕府領、延宝6年(1678)相模国小田原藩領に、そして延享4年(1748)から121年間にわたって一ツ橋領(天領)でした。

それ以外の4村は、他の志方と同じく姫路藩に属していました。

答:さいくじょ・たかはた・ひろお・おか・のじりしんでん・おおざわ・ゆきつね・おおむね・はた・ぞうごう・ひがしいいざか・ひがしなか

*『兵庫県市町村合併史(上)』(兵庫県総務部地方課)・『かこがわま万華鏡』(岡田功)参照

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志方町を歩く(58):とんが五輪

2011-07-25 07:47:50 |  ・加古川市東志方

安楽寺(東志方細工所)の山門の前の道から岡に抜ける道を少し東へ行くと立派な五輪塔が目につきます。「とんが五輪」(写真)です。

    とんが五輪

014次のように説明がありました。

  ・・・この五輪塔を「とんが五輪」と呼んでいます。

とんがは「殿が」音転ではないかということである。

伝説では武士の供養塔であろうということである。(以下略)・・・

五輪塔について少し調べておきます。

五 輪 塔(ごりんとう)

現在では、路傍の石仏や五輪塔の多くは、誰が造ったのかわかりません。

ましてや、美術品等と考えてつくられたのではありません。

 平安時代以前、仏教は主に貴族や豪族のためのもので、庶民にはまだ縁遠いものでした。

しかし、鎌倉時代に親鸞(しんらん)や日蓮(にちれん)等が新しい仏教をはじめ、またたくまに庶民の間に広まりました。

それまでは、金属や木の見事な仏像がつくられ、それを安置する立派な寺院も多く造られましたが、鎌倉時代には、これらに代わって石の仏像や五輪塔が多く造られるようになりました。

石の方が雨ざらしでおけるし、場所をとらず、何よりも安くつくることができます。

五輪塔は、鎌倉時代や南北朝時代までは死者の冥福(めいふく)を祈る供養塔であっても、多くの場合、まだ個人のためのものではなかったのです。

これが、個人の墓塔に使われだすのは、次の室町時代を待たねばなりません。

生活が苦しかった当時の農民は、数人で、また村全体で自分たちの祖先の魂(霊)を供養するために五輪塔を造りました。

ですから時代が新しくなるほど、一般的には五輪塔は小さく、また簡素なものが多くなります。

  「とんが」は「とんがり」か?

説明板によると「ある武士の供養塔ではないか」ということですが、このような大きな五輪塔は、一般的に「村で自分たちの祖先の霊の供養のために造られたのが普通でした。

 おそらく「とんが五輪」も、村人の祖先の供養のために造られたと想像します。

 横に「先のとがった(とんがった)石材」の地蔵様があります。かってな想像をします。

 村人は「とんがったと地蔵」の横の五輪塔を「とんが五輪」と呼ぶようになったのではないかと想像するのですが・・・

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志方町を歩く(57):行常の悲劇④・断頭場

2011-07-24 07:41:28 |  ・加古川市東志方

     断 頭 場

027行常の墓地に竹内九郎太夫の墓があります。

 その右面には次のように刻まれています。

   天明八戌申六月十八日 終焉

   行年 六十二  *天明八…1788

 旧暦の六月は、今の暦ではちょうど今頃(七月)です。

『志方郷(第45)』で、松本光明さんの書かれた文の一部をお借りします。

「・・・六月十八日、朝八時、大坂より連れ戻した九郎太夫をば、行常裏山において、獄門に処した。

現在、行常村では「断頭場」(写真)を称する広場があるのはこの場所に他ならぬ。

・・・」

 先日、この「断頭場」に立ってみました。

 連日の暑さは嘘のように、涼しい風が吹いていました。

 行常の集落が眼下に広がっています。

 九郎太夫の目には、最後の行常の景色はどう映ったのでしょう。

    なぜ「麦」を要求したのだろう

ここから、少し蛇足を書いておきます。

 歴史的に確かめられた解釈ではありません。

      ◇麦 秋

456月の3ヶ月は、冬作麦の刈り取りの時期に当たります。

特に5・6月ごろは麦の収穫期で、この時期を「麦秋(ばくしゅう)」と呼んでいます。

麦秋というと、どこか「ロマンチック」にさえ感じる言葉です。

が、麦秋の頃は、食料の端境期に当たるため飢えの季節です。

さらに、この時期は梅雨のために疫病が流行する時期です。

農繁期の過酷な労働と飢えと疫病とが重なって農民たちにとっては厳しい季節でした。

死者が多かったのもこの季節でした。

この夏の飢えを乗り切るための食料が、特に56月に収穫する麦でした。

つまり、飢えを乗りきるため麦を要求したのではないでしょうか。

    幕府のあせり

幕府代官領(天領)の場合、最小限の事務官僚を持っているだけで、普通、武力といったものを、ほとんど持っていません。

そのため、天明時代に先立つ、元禄~享保時代以降、それまで藩(私領)中心におきていた農民一揆は、軍事力の弱い天領で多く発生するようになりました。

幕府には「あせり」が厳しい処罰になったと思えるのです。

行常の厳しい弾圧は、「見せしめ」のためであったと思えるのです。

 それにしても、どうして竹内九郎太夫が播磨一ツ橋領六郡の百姓の惣代となり「強訴」をしたのでしょうか。

 ご存じの方は、ご教示ください。

*写真:断頭場(行常)

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志方町を歩く(56):行常の悲劇③・九郎太夫獄門

2011-07-23 08:43:14 |  ・加古川市東志方

    行常の一件③

018打ち続く不作の上、天明七年(1787)は麦も凶作でした。

行常の(東志方)の庄屋・(竹内)九郎太夫は大坂の川口役所に一人麦三斗の支給を願いでました。

九郎太夫は、一村ずつの嘆願では要求は通らないとみて、播磨一ツ橋領六郡の惣百姓として訴えを起こそうとしました。

まず、一乗寺の山門(「志方町を歩く・55」の写真をご覧ください)に張り紙をし、また「・・・法華山に参集しなければその村へ押しかける・・・」という趣旨の廻文を村々へ廻しました。

この文章は、九郎太夫から依頼された西阿弥陀村(現:高砂市)の百姓・清左衛門が清書したといわれています。

この結果、一乗寺に村々の百姓惣代が集まり、さらに加古川河原でも集会をした上で、九郎太夫が各村の願書をまとめて大坂川口番書へ提出しました。

九郎太夫は獄門!

この動きを幕府は強訴(ごうそ)と認定しました。

そのため九郎太夫は、獄門(斬首され、首をさらす)という刑になりました。

つけ加えておきます。

一乗寺の門に、張り紙をした行常村の三太夫は所払(追放)、九郎太夫に協力した行常村の三郎左衛門は遠島、廻文を清書した西阿弥陀村の清左衛門は軽追放を言い渡されました。

もっとも、三郎左衛門と清左衛門は、刑が決まる前に獄死しています。

よほど厳しい取り調べだったのでしょう。

その外、庄屋や村の主だった百姓に対しても高100石につき二貫文が課せられています。

厳しい処罰でした。

この事件の中心になった、九郎太夫の墓碑(写真)が行常の墓地にあります。

命をかけた義民・九郎太夫の悲劇について、現在はあまり語り継がれていないようです。

*写真:竹内九郎太夫の墓(行常の墓地)

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志方町を歩く(55):行常(東志方)の悲劇②

2011-07-22 08:12:28 |  ・加古川市東志方

 天領と警察権力

510万石の領地を持つ大名の場合、もし彼が5万石の場合1000人程度、10万石で2000人程度の武士を抱えていました。

彼らは、軍事・警察の役割を果たしました。

しかし、幕府代官領(天領)の場合、最小限の事務官僚を持っているだけで、普通、武力といったものを、ほとんど持っていません。

そのため、暴徒が10人、20人程度なら、なんとか鎮圧することができたのですが、それ以上の場合どうにもなりません。

まとめてみます。

    天領とか旗本領の場合は、ほとんど武士がいなく、警察権力が著しく弱い。

    江戸時代、藩・天領・旗本領等は、各々の警察権力が独立しており、他に及ばない。

そのため、天明時代に先立つ、元禄~享保時代以降、それまで藩(私領)中心におきていた農民一揆は、軍事力の弱い天領で多く発生するようになりました。

    行常の一件②

026  志方の一ツ橋家領でも、天明期に百姓の怒りの炎が燃え上がろうとしていたのです。

 前号を復習しておきます。

ある記録によれば「去る(天明元年・1781)十一月六日、一ツ橋領印南郡細工所村御陣屋へ御領分惣百姓ごうそう(強訴のこと)を起こし、済口(すみくち・結果のこと)の義未夕(いまだ)相知れ不申候(あいしれもうさずそうろう)」とあります。

この事件の済口(結果)は、はっきりとしません。

    行常の九郎太夫たつ(天明七年・1787

 行常の庄屋・九郎太夫の強訴について、ある文書は、次のように記録しています。

強訴の中心となったのは印南郡行常村の庄屋・九郎太夫で、打ち続く不作の上、天明七年は凶作だったので大坂の一ツ橋役所に一人三斗の麦支給を要求しました。

大坂の役所に願いでたのは、細工所の陣屋(役所)は、天明五年にその役目を終え、大坂の川口役所がその仕事を引き継ぎました。

こんなひどい飢饉の時には、藩の場合、相応の「お救い米」の支給があるのが普通でした。

九郎太夫は、各村のばらばらの嘆願では要求が通らないとみて、播州一ツ橋領の惣百姓として訴えを起こそうとしたのです。

「内容は年貢減免で、法華山へ集まらない村へは押しかける」という廻文を各村々にまわしました。

この廻文は、西阿弥陀村の百姓・清左衛門が清書をしました。

村々の百姓総代は法華山一乗寺にあつまり、さらに加古川河原で集会をしました。

そして、九郎太夫が願書をまとめて、大坂川口役所に提出しました。

 *写真:法華山一乗寺東門

<お詫び>

 『志方町を歩く(22)・高御位山物語(11)』で、高御位山の火祭りを紹介しました。

お祭りが721日なので22日のブログで、当日の様子を紹介することを約束しました。

昨日の午後、高御位にでかけたんです。が、お祭りは20日でした・・・お詫びいたします。

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志方町を歩く(54):行常(東志方)の悲劇①

2011-07-21 06:53:17 |  ・加古川市東志方

今回は、「天明の大飢饉」を復習しておきます。志方の一ツ橋領と関係してきます。

    天明の大飢饉

696ba00天明三年(1783)は、春から夏にかけて晴天の日が少なく、冷気に覆われました

このため、稲は穂を出さず立ち枯れ、特に関東地方から東北地方にかけては歴史上まれな大飢饉となりました。世に言う「天明の大飢饉」です。

なお、天明の飢饉は冷害によるものですが、火山学者や気候学者の指摘によれば、飢饉は、天明三年の浅間山の噴火と強い関係があるということです。

大量の火山灰が数年の間、日光の照射を妨げ、冷害を引き起しました。

重い年貢を課せられ、じゅうぶんに食料を蓄えていない多くの農民は、たちまちに死と直面しました。

藩は、こんな時にこそ年貢米の放出をしなかったのでしょうか。

ほとんどの藩は、大商人から多額の借金がありました。大量の米を飢饉の救済にまわすと、藩経済を破綻させてしまいます。

藩は、大商人にたいして頭が上がらず、商人の米の買い占めなども厳しく取り締まることができませんでした。

天領とても同じでした。

     百姓の怒り

一ツ橋家領にも、その影響がのしかかってきました。

天明二年(1782)は和泉、天明三年は甲斐・関東が大凶作、天明五年は関東領を中心に一ツ橋領では、領内十万石のうち、四万四千石が被害を受けました。

年貢米が半減しても不思議でない状態となりました。

しかし、年貢米の減収にはなりませんでした。

その原因は、何だと思われますか?・・・・

答えは簡単です。「厳しい年貢の取りたて」です。

当然、農民は、年貢の徴収にあたる「代官」に対して恨みを募らせます。

この時代、各地で一揆がおこっています。

志方、一ツ橋領での一件①

 志方の一ツ橋家領でも、天明期に強訴の動きがありました。

ある記録によれば「去る(天明元年・1781)十一月六日、一ツ橋領印南郡細工所村御陣屋へ御領分惣百姓ごうそう(強訴のこと)を起こし、済口(すみくち・結果のこと)の義未夕(いまだ)相知れ不申候(あいしれもうさずそうろう)」とあります。

この事件の済口(結果)は、はっきりとしません。

しかし、志方一ツ橋領にも百姓の怒りの炎が燃え上がろうとしていたのです。

*絵:天明の浅間焼け(『将軍列伝』チチング)より

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志方町を歩く(53):一ツ橋領の綿作

2011-07-20 07:58:08 |  ・加古川市東志方

 以前に取り上げた話題ですが、一ツ橋領(天領)を歩いていますので、復習をしておきます。

一ツ橋領の木綿藩仲間と姫路藩の専売制度

354fc29f姫路・加古川地方の木綿(栽培)は、さかんでした。

加古郡・印南郡で生産される白木綿を「長束木綿(ながそくもめん)」といいました。

姫路木綿は、二つのルートを通じて江戸・大坂へ出荷されていました。

一つは、姫路周辺の木綿・綿布で、国産木綿問屋をとおして、他は長束木綿問屋を通して行われたのです。

姫路城周辺の木綿問屋は、江戸積に積極的でした。

しかし、長束木綿問屋は、今までの取引の関係もあり、必ずしも江戸積み一本にまとまっていませんでした。

莫大な借金を抱える藩としても、江戸積みだけに頼るわけにはいけない事情もあったのです。

藩側は、江戸積み重視の立場から、幅・長さ等の規格を厳しくしました。

つまり、規格外の商品もできてしまいます。しかし、「規格外の商品は、江戸積みとして認めない」というのです。

藩主・酒井忠道(ただひろ)の文化五年(1808)、藩には73万石の借財があり、家老の河合寸翁は、播磨地方が木綿の産地であることに着目して、綿布の姫路藩の専売にしました。

さまざまな妨害がありました。

特に、江戸直送には、大坂商人の妨害もありました。それまでの商の慣習を壊すのですから当然です。

しかし、綿密な調査・江戸問屋や幕府役人への説得により、文政六年(1823)江戸への木綿専売が幕府に認められました。

これは、「藩主・忠学(ただひろ)の妻・喜代姫(きよひめ)が将軍・家斉(いえなり)の娘であったためでもあった」ともいわれています。

ともかく、姫路綿の江戸での販売は好調で、藩の借金は、短期間に返済し終えることができました。

一ツ橋領は、姫路藩にあらず

一方、規格外の商品の大坂への積み出しも増えました。

藩は、規格を守るように取締りを強めたのですが、取り締まれない事情があったのです。

印南郡の一部は、一ツ橋領(天領)で姫路藩ではありません。

姫路藩としても、一ツ橋領の取り締まりはできません。

そんな事情で、一ツ橋藩の商人は姫路藩では認められない綿布なども取り扱ったのです。

とりわけ、細工所の木綿商人より、今市・中島・曾根(現:高砂市)の村々の木綿商人にこの傾向は大きく、彼らはひと儲けをしたというわけです。

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志方町を歩く(52):一ツ橋領細工所陣屋役人の墓碑

2011-07-19 00:08:52 |  ・加古川市東志方

008  宮永半治氏(志方町細工所)は生前、細工所に置かれていたという、一ツ橋公の「細工所陣屋跡」を調べておられます。

 しかし、陣屋跡は古老の口伝によると「旧東志方郵便局及び細工所公会堂を中心にあったという・・・・」という程度で、はっきりしません。

陣屋に関する記録もありません。

そんな中で、安楽寺に一基の陣屋に縁のある人の石碑を発見されています。

代官・元締・手代・書記のものかはっきりしませんが、戒名の院号や碑文から細工所陣屋でかなりの地位のあった役人のものと思われます。

墓碑の裏側の文字は、小さい字で、その上に埃が覆っており、読みにくくなっています。

宮永氏は、写し取られますので、それをお借りします。

 

(碑文)

表 円説院定岳教伝禅居士

裏 教禅代山崎諱教公称新蔵其の先江州人也

而後住於遠州矣迎住干江府住

  一橋公官干播州也 

  天明元年丑年閏五月廿一日罹病

絡終後干播州細工所村之官署葬干同

  安楽寺之北蛍年六十四

    嗣子孝政建焉

簡単な訳をつけておきます

              生前、戒名「円説院定岳教禅居士」は、生前、山崎新蔵といいました。

元、滋賀の人です。

    その後、遠州(現静岡県)に住み、播州の一ツ橋公領の官吏でした。

    天明元年(1781)五月二十一日、播州細工所の官舎で病気のため亡くなり、安楽寺に葬られました。

    行年 六十四才でした。

       息子の孝政がこの墓を建てる。

一ツ橋公陣屋跡については、わからないことばかりですが、宮永半治氏が発見された墓碑から確かに陣屋が細工所に置かれており、そして一時、山崎新蔵という官吏が勤めていたことがわかります。

写真:宮永氏が発見された墓碑(安楽寺本堂裏の墓地)

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