ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

寺田池(加古川市平岡町)の歴史や環境など発表

2015-03-16 10:02:05 |  ・まち歩き

 きのう(15日)、兵庫大で寺田池協議会主催の「寺田池発表会」が行われました。

 基調報告「印南野台地とため池」のテーマで基調報告をさせていただきました。

 下記は今日(16日)の神戸新聞の記事からです。

   (余話)

  寺田池(加古川市平岡町)の歴史や環境など発表

 加古川市で最大のため「池寺田」 (同市平岡町)の環境維持を勧める住民団体の本年度最後の集会が15日、同市平岡町の兵庫大学であった。

 郷土史家や住民らが池の造成史や生物の多様性の重要性について語り、約130人が聞き入った。

 開催したのは住民団「寺田池協議会」(赤松輝雄会長)。

 老朽化した堤への対応をめぐり、「住民憩いの場」として池を見直す機運が高まり、2004年に発足した。

 改修後も、ウオーキングなどのイベントや清掃活動を展開する。

 集会では、郷土史家の飯沼博一さん(71)が明治時代、地租に苦しむ住民らが官製ぷどう園を誘致して印南野台地で水利開発を進めた経緯を総介し、「郡長が県令に物申すなどドラマがあった」と話した。

 近くの会社員江原賢一さん(33)は池周辺で見られるサギやカメなどの写真を披露。

 同じく秋山雅俊さん(53)は「寺田池の1周コース(1・5㌔)を地球の歴史に例えると、人類の誕生はゴールの1.5㍍手前、自然環境の悪化で生物の大量絶滅が始まった戦後は0・01㍉手前」と述べ、生態系を守る大切さを訴えた。  (安藤文暁) (no2731)

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「ひろかずのブログ」が2300号に

2013-12-16 08:31:00 |  ・まち歩き

  「ひろかずのブログ」が2300号になりました
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  8年ほど前に始めた「ひろかずのブログ」ですが、今日で2300号になりました。
内容はともかく、自分でも感心しています。
 ずいぶん、みなさんに拙文を押しつけたものです。
 ともかくも、続いている理由は、主な内容が「歴史」であったからです。
 歴史は、事実(史実)を並べ、少しだけ味付けをすればできあがります。
 エッセイとなると、事情は違ってきます。
 文章を考えなければできませんし、自分を前面に押し出さねばなりません。
 それに、第一、「文才」が必要です。荷が重すぎます。
   
「ひろかずのブログ(二部)さんぽ」を始めます
 加古川市・稲美町を中心にずいぶん歩きました。
 今後、播磨町・高砂市と範囲を広げればいいのですが、自信がありません。
 そこで、このあたりで、「ひろかずのブログ」を一部として少し、内容を変えてみます。
 以下、話を飛躍させます。大風呂敷です。
 最近、以前にまして司馬遼太郎の小説を読んでいます。かつて読んだ作品も読みなおしています。
 「街道をゆく」では、司馬氏の感想と余話が面白くて、ついつい引き込まれてしまいます。
 「街道をゆく」で、良質の安価な旅を楽しんでいます。
 しかし、残念なことに、司馬氏は明石市まで脚を運んでおられるが、加古川市へは来られていません。
 70才のおっさん(私)は、「ならば・・・」と、りきんでみました。
 「司馬さんのまねをして、加古川・稲美町を歩いてエッセイ風な文を書いてみよう」と。
 でも、「加古川をゆく」では、あまりにもおそれ多いので、「ひろかずのブログ」を材料として、散歩してみます。テーマを「ひろかずのブログ(二部)・さんぽ」とします。
 お付き合いください。
*写真:「ひろかずのブログ」が1700号で、神戸新聞に紹介された時の記事

<o:p></o:p>

 

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工楽松右衛門物語(78):工楽松右衛門の銅像修復完了

2013-10-26 18:47:50 |  ・まち歩き

先に「工楽松衛門物語」を書きました。
きょうの神戸新聞の東播版に、工楽松衛門の銅像が新しくなったことが取り上げられていました。
「工楽松衛門物語(77)」の続きとして、掲載させていただきます。
   
(工楽松右衛門の)生涯描いた読み物増刷
                
神戸新聞東播版より

Photo高砂神社(兵庫県高砂市高砂町東宮町)の境内に建つ高砂出身の発明家・工楽松右衛門(1743~1812年)の銅像の修復作業が完了した。

市民有志が費用として集めた募金の一部が残ったため、市教委に寄付し、その生涯を描いた読み物「風を編む 海をつなぐ」の増刷費に充ててもらう。
先人の偉業を知ってもらおうと、4千部が市内の学校や公民館に配られることが決まった。(安藤文暁)

松右衛門像は長年の風雨で表面の銅がはがれるなど傷んでいたが、修復により、特殊な液体で磨かれ“肌つや”は見違えるほど良くなった。
市民や県内の帆布業者から寄せられた募金は目標額を上回り、銅像前に石碑を造っても余ったという。
「風を編む‐」は、市教委学校教育課の伊藤健介係長が松右衛門に関する文献を調べた上で物語風につづり、今年3月に刊行した。
すでに小学5、6年や中学1年の学級文庫用に2千部を配ったが、今回の寄付を受け、増刷分を他の学年や公民館にも置くという。
新たに設置された石碑には「この小さな町から『後の世のため』に尽くした工楽松右衛門という人物が出た」などと、「風を編む‐」の一文も刻む。
市教委に寄付金を届けた高砂商工会議所の渡辺健一会頭は「松右衛門の功績を市民が見直し、誇りを持つことにつながってほしい」と話している。

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余話・新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(15)・立野文一

2013-07-11 08:26:56 |  ・まち歩き

  立野文一氏

6e509096_2 時が過ぎ、水楼についての詳細は、ほとんどわからなくなっていた。

河合寸翁の研究家・藤戸孝純氏もあきらめかけておられた。そんな時であった。

藤戸氏は、多木化学社長の夫人から、生き証人というべき人のことを知った。

その人は、新野辺の水楼で生まれ、そこで青年期まですごしたという。

立野文一氏である。父が多木肥料の役員であった。

文一氏は、昭和3年に水楼で生まれている。

氏から水楼の話を聞くことができ、調査は急展開することになった。

立野氏のお父さんは昭和21年終戦後会社を辞められ萩市(山口県)に帰り、文一氏も水楼をはなれることとなった。

藤戸氏が、文一氏から取材した水楼の間取りは図のようである。

  「水楼」昭和56年ごろ消える

水楼は、その後多木農工具の従業員の厚生福祉施設として利用されたが、老朽化が進み結局、取り壊さざるを得なくなった。

歴史を秘めた仁寿山黌の水楼は誰に知られることもなく姿を消した。

昭和5657年の頃であったらしい。

    クマタカ図柄の軒瓦は残っていませんか

取り壊しの現場を知る唯一の証人は、学校法人多木学園の事務長であった伊藤文雄氏で、その跡地を学園の園児送迎用のバス駐車場として利用した由であるが、建物の軒瓦には「鳥が横を向いてマントを垂らしたような図柄」であったという。

当初「新野辺に仁寿山黌の迎賓館が」は4回で終わる予定であったが、関係のない余話も含め15回になった。

史実は、ひょんなことから急展開することがある。そんなことを期待して、このシリーズを終えたい。

読者の方で、耳寄りな話があればお知らせ願いたい。消えつつある貴重な歴史を残しておきたい。

それにしても、クマダカの図柄の軒瓦はどこかに残っていないだろうか。

*図:「旧水楼」の間取り図

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余話・新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(14):申義堂

2013-07-10 08:25:01 |  ・まち歩き

申義堂(江戸期・高砂の学問所)

Photo高砂の申義堂は、河合寸翁と深い関係がある教育施設であり紹介しておきたい。

申義堂は、寸翁が時の藩主・忠実に申し出て、町民一般の子弟の教育を目指して北本町に設置した。

申義堂は、仁寿山黌より古く、文化年間(18041818)の創立と推定できる。その建設および運営は高砂の岸本家の援助が大きい。

明治4年の廃校により閉鎖され、建物は岸本家に払い下げられた。

申義堂は、藩校「好古堂(こうこどう)」の支校の一つで、町民の子弟の教育場であった。

内容は、四書五経などが中心に行われ、教師陣は多彩で、美濃部達吉の父・秀芳や本居宣長の子・大平などがいた。

また、勝海舟・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)・梁川星巌(やながわせいがん)などが高砂に逗留中、講師として教壇たったこともあった。

町人らの子どもが早朝から正午まで学んだ。

しかし、明治4年廃藩置県により閉鎖された。

 「申義堂(江戸時代の学問所)」復元なる

申義堂が河合家に払い下げられた後のことを少し紹介しておきたい。

隆盛を誇った「申義堂」であったが、明治4年(1871)の廃藩置県と共に廃校となった。

その後、申義堂は明治12年に加古川市東神吉町西井ノ口に移築され、光源寺(姫路)の説教所として使われた。

戦後は、西井ノ口町内会の倉庫として利用され、もと申義堂であったことは人々の記憶から消えていった。

その後、専門家の調査により、貴重な申義堂の遺構であることが認められ、高砂市へ移築保存されることになり、2012年1月、申義堂は十輪寺の前に移築復元され、現在一般公開されるようになった。

*写真:復元された申義堂

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余話・新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(13)・軒瓦の鳥は鷹

2013-07-09 07:41:02 |  ・まち歩き

  A09b3465 軒瓦の鳥は?

前号で紹介したように、尊光寺(姫路市的形)に残る仁寿山黌の瓦は、東山焼であることが分かった。

次に、瓦にある「鳥」(写真上)の種類について知りたい。

この鳥について、河合寸翁の研究者の藤戸孝純は、著書『仁寿山校遺構顛末記』に、次のように紹介されている。

    瓦の鳥は「鷹」

この鳥は何であろうか。従来は雀であると想像されていたが、この鳥は雀ではなく鷹である。

その理由として、次のように考える。

    仁寿山黌は寸翁の私塾であり、これに何故無縁の「雀紋」を用いる必要があったのか。

6d6f662    旧水楼の説明に「屋根瓦ニハ総テ家紋鷹を付セリ」とある。

    雀にも見えるが、頭上に二本の羽のようなものが付けられており、雀にはこのようなものはない。

    河合家の紋は鷹羽であり、鷹をデザインしたものと考えられる。

藤戸氏は、日本鳥類学会の意見を求められている。

その答えも「これはクマタカである」とのことで、鷹と結論付づけておられる。

藤戸氏の研究により、従来仁寿山黌や河合家墓地の紋は「雀」と考えられていたが、現在では「鷹」というのが通説になっている。

なお、河合寸翁を祀る姫路神社の河合寸翁像にある河合家の紋(写真下)を紹介しておきたい。

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余話・新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(12):東山焼

2013-07-08 07:32:48 |  ・まち歩き

Kawai_273(姫路市)東山を歩いて、東山焼発祥の窯跡(写真下)に来ている。

再度、尊光寺(姫路市的形)の瓦について考えている。

「新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(1)」と合わせお読みいただきたい。

  尊光寺の瓦は、東山焼   

尊光寺(姫路市的形)の亀型の隅蓋(写真上)には「文政九戊年六月栄七 東山池田や」のヘラ書きがある。

東山は、東山焼発祥の地でもあり、(河合)寸翁とも深い関係があるのでふれておきたい。

東山での瓦製造は、ふるく天明時代にさかのぼり、製造者の屋号を「池田屋」と称した。

三代目瓦師となった永七は、藩主・酒井家の江戸屋敷新築の際、瓦製造や江戸への輸送に功があったため、藩主より苗字帯刀を許された。

永七には二人の弟があり、次弟は佐七、末弟が東山焼の始祖の一人である弥七である。

032 東山焼の起源は次のようである。

末弟の弥七は、文政五年(1822)頃より、東山村の庄屋の橋詰藤作(寛政九年・1797)を窯元として、ともに東山の興禅寺山の山裾に窯を築き、磁器をさかんに焼いた。

文政七年(1824)弥七は姫路城下の田中屋次郎右衛門家に養子に入ったが、その後も池田屋弥七として興禅寺窯で東山焼を焼いた。

尊光寺の山門の隅蓋(写真上)が作られた文政九年(1826)は池田屋弥七が東山でさかんに製陶を行っていた時期であり、「池田や栄七」は池田屋の有力な瓦工であったと考えられる。

その後、東山焼は藩窯となって世に名を高めたが、寸翁の死後はしだいに衰え、安政元年(1854)頃には御用窯から再び民窯となり、当初より弥七と苦労を共にした陶工橋詰藤作は、其後しばらくして作陶より身を引き、弥七も文久元年(1861)にその職を辞している。

東山焼は、明治維新によって陶器所は廃止され、明治9年(1876)に民営により再興を図ったが、6年で廃止、東山焼の歴史に終止符が打たれた。

*『仁寿山校遺構顛末記』(藤戸孝純著)参照

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余話・新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(11)・固寧倉

2013-07-07 07:01:21 |  ・まち歩き

Koneiso_011シリーズ「新野辺に仁寿山黌の賓館が」は、当初4回で終わる予定だった。

途中から河合寸翁の話に変わり、だらだらと続いている。

もう少しだけご辛抱願いたい。

固寧倉(こねいそう)

きょうの話題・固寧倉(写真上)も余話である。

5日(金)の午後、姫路市東山(ひがしやま)5705へ出かけた。

東山の名前から幕末に姫路で盛んであった「東山焼き(とうざんやき)のこと」かと、推測されるだろうが、この場所に、固寧倉がある。

河合寸翁と関係するので取り上げておきたい。

Koneiso_009江戸時代は、しばしば凶作に見舞われた。そのため、固寧倉は凶作の時、人々の生活を救うために米・麦・籾等を蔵に貯蔵しておく倉のことである。

姫路藩では、河合寸翁によって文化六年(1809)ごろから行われていた。

文政・天保のころまでに姫路藩では広く行われた。

倉は、切妻の平屋の土蔵造りで、入り口には、庇をつけ固寧倉の扁額(写真下)がかかげられていた。

加古川地方でも固寧倉は、たくさん造られていたが、西神吉町長慶に「固寧倉」の扁額が残るぐらいで、固寧倉そのものは残っていない。その実態もはっきりしない。

姫路市東山には固寧倉が修復され保存されている。

*写真上:固寧倉

 写真下:固寧倉の扁額

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コーヒーブレイク:幻の友栄町

2013-03-02 00:04:13 |  ・まち歩き

日本毛織の工場拡大路線!

明治32年(1899)、加古川工場(加古川市加古川町)がほぼ完了し、生産が開始された。

この時期は、日清戦争後で軍用絨の需要が続いていた。その後も、ニッケは政府需要へ依存する方針をとった。

政府需要の利潤は、少ないものの安定性はきわめて魅力的であった。

そして、日露戦争は、日清戦争と比べて規模も大きく、ニッケへの軍需品(軍服・毛布など)の注文が殺到した。

ニッケは、いっそう、政府依存の傾向を強め、軍需品の需要の激増により市中向けの製造を中止して、軍需品の製造により全力を注いだ。

日露戦争を契機に一層の飛躍をしたニッケは、その後も大規模な工場拡張を続けた。

ニッケは、この時期日の出の勢いであった。

     龍泉寺の場合

日本毛織(ニッケ)が、このように拡大路線を走っていた時である。龍泉寺は、ニッケに囲まれた。

ニッケは龍泉寺に対して立ち退きを要求した。

檀家の中には、「だいたい、後から来て立ち退けとはけしからん。そんな不見識なことはできん」と強力に反対する意見も多かった。

そんな時だった。龍泉寺は、庫裏を残し焼け落ちた。丁度、ニッケ創立十周年記念(明治44年6月12日)の夜のことだった。「ニッケによる放火だ」との噂もささやかれた。

龍泉寺はやっと意見がまとまり、大正5年8月7日に現在の場所(平野)に再建された。

幻の「友栄町」

029郷土史家の三浦幸一さんはブログで「幻の友栄町」について報告されている。面白い話なのでその一部を紹介したい。(文体を変えている)

日本毛織加古川工場は、大正時代には、更に工場を増設しなければならなくなり、敷地拡張の予定地として本町商店街の北側、旧北裏地域を候補地とした。

その地域には50数軒の民家があり、すべて移転の対象となった。だいたいの範囲は、現在のニッケ西門から東へ、西国街道(国道2号線)に沿った表筋の商店民家を残して、その北側の字北裏地域の住宅だった。

今の国道二号線の南側に敷地を確保することが出来た。移住した550数軒の住民はこの地を永住の地と定め、共に平和で楽しく隣人と友に繁栄を願って「友栄町」と名付けた。昭和2年の出来事である。

今では、友栄町の境界を確定できないが、友栄町の経緯を記録した石碑「友栄町移転口之序」(写真)が建てられている。場所は、加古川橋東詰から下って3本目の道路を右にまがって最初の十字路にある。

三浦氏はブログで住民は、ニッケに積極的に協力したとされているが、この時も龍泉寺の時と同じように住民の不満があったが、工場に押し切られたのはないかと疑いたくなる。史料があっていっているのではない。

 *写真:友栄町移転口之碑

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コーヒーブレイク:きょうで2000号に

2013-02-27 07:40:51 |  ・まち歩き

  「ひろかずのブログ」が2000号になりました

2000きょうで「ひろかずのブログ」が2000号になりました。

厳密にいうと、そうはなっていません。

最近は、既に書いた二つの記事を一つにして紹介したり、シリーズで書くことが多くなりましたので、かつて書いた記事を再掲したりしています。

でも、とにかく2000号です。

この間にいろいろありました。一番うれしかったことは、昨年、稲美町の国岡が開村350年になり、地区の歴史を纏めたいという話があり、「ひろかずのブログ」をもとに『国岡開村350年記念誌・国岡の歴史』をまとめることができました。そして地区1200戸に配布していただきました。

こんな活動が、他の地区でも続きそうです。

今、加古川のある地区の歴史を纏めています。6月に発刊の予定です。

それが終われば、ほかの地域からも冊子づくりのお話がありそうです。

自分の住んでいる地域を知りたいと言う人が最近増えているように思います。

「チョットだけ協力できているかな・・・」と、一人嬉しがっています。

     たくさんの読者ができました

「ひろかずのブログ」を始めた2006年の頃は、一日に10~20のアクセスでしたが、最近は、平均して約400のアクセスがあります。まだ増えそうです。

こうなったらやめられません。

つかれて、発刊を休んだ日には「なぜか忘れ物」をした気分になります。旅行・病気等で発刊できない日以外は、「(私の)生きている証」として続けようと思っています。

    3000号まで続きそうです

         お付き合いください

いままで、訪ねた地域は加古川市各町と稲美町です。

播磨町をまだ訪ねていません。

いまのシリーズ(「かこがわ100選)」を終えたら、播磨町の歴史散策に出かけようとひそかに計画しています。そうすると。3000号までは続きそうです。当分、遊べそうです。

もうしばらく、押し売りをしますのでお付き合いください。

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コーヒーブレイク:加古川検定のための講座(2月3日の神戸新聞より)

2013-02-03 12:35:11 |  ・まち歩き

今朝、家内が「お父さん、新聞にお父さんの顔があるで・・・」の声でおきだしました。

「何も悪いことしてへんのに」と思っていたら、きのうの加古川検定の記事でした。

掲載させていただきます。(神戸新聞 NEXTより)

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コーヒー・ブレイク:「ひろかずのブログ」が1900号になりました

2012-11-22 07:32:31 |  ・まち歩き

 「ひろかずのブログ」が、きょうで1900

きょうで、なんとか「ひろかずのブログ」が1900号になりました。

「なんとか」と書いたのは、気づかれた方もあると思いますが、最近の「野口を歩く」では、「野口」について、ある事情でまとめる必要があり、今までバラバラに書いた文章の文体を統一し、少しだけ訂正して多くを繰り返し掲載しました。

そのため、を1900回というのは若干ごまかしがあります。

それに「野口を歩く」では、一番掲載しなければならない「賀古の駅(かこのうまや)」について紹介していません。

「賀古の駅」ついては、現在、加古川市観光協会のHP「かこがわ探求記・ぶらり野口編」で兵庫県立考古博物館の学芸員で、直接「賀古の駅」の発掘にあたられた中村広氏が今、楽しい文章で「賀古の駅」を紹介中です。

後日、ずうずうしくその研究のエッセンスをお借りしようとたくらんでいます。

ともかくも、今日で「ひろかずのブログ」1900号になりました。

夕食の時に「発泡酒」で乾杯をします。

「野口を歩く」は、中途半端になりますが、後日「賀古の駅」を付け加えることを約束して、次の話題に移ります。

 「官兵衛がゆく」をはじめます(24日・土から)

B3fed47aつぎの話題ですが、2014年のNHK大河ドラマは「黒田官兵衛」に決まりました。

NHKは、ドラマで九州をどのように扱うのかわかりませんが、その多くの舞台は姫路市・加古川市・三木市、そして西播地域になると考えられます。

官兵衛門については、知られているようで、案外知られていないのが実態です。私の知識も小説『播磨灘物語』(司馬遼太郎著)を出ません。

そこで、学生時代に戻ったつもりで、調べながら加古川市を中心に官兵衛と一緒に歩いてみようと考えています。

少しはボケ防止になるかもしれません。

テーマは、張り切って「官兵衛がゆく」としました。どんな風になるか分かりません。

とにかく、あす「官兵衛がゆく(1)」の原稿を書いてみます。明日のブログは、お休みとして、「官兵衛がゆく」は、24日(土)から始めます。

ご批判をお待ちします。

 *写真:黒田官兵衛(福岡市博物館蔵)

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コーヒー・ブレイク:神戸新聞を読んで(7面)

2012-11-18 10:07:26 |  ・まち歩き

きょうの神戸新聞7面(社説のある面)に、私の113回目の拙文があります。ご批判ください。

難解用語、もっとわかりやすく

<「神戸新聞を読んで」より>

 B37c73f8最近、丁寧に記事を読んでいます。感度の鈍った頭でも理解できます。ただし「理解できます」というのも程度の問題で、新聞はやはり一般的に難しい内容や用語が多いようです。

 このところ「TPP」が記事によく登場します。12月16日投開票となる衆院選の選挙公約にもTPPへの対応が挙がるでしょう。一方で、TPP=環太平洋連携協定とは何か、知らない読者もいるのではないでしょうか。

 新聞記事を読むとき、ある程度の基礎知識が求められるのは当然と思います。とはいえ、もう少し広く読者層を巻き込むために、重要な用語が持つ意味・影響を、やさしく読める工夫があればいいのに、と考えます。

 というのは、ある所で若者に聞いてみました。驚きました。ほとんどの者が「新聞を読んでいない」のです。

 「パソコンやテレビがあるじゃないか」という声も聞こえてきます。しかし、新聞記事の速報性と内容の深み、そして、読むことで理解する能力を育てるという点は、ほかの手段に代えることができません。

 いま、さまざまな分野について、やさしく解説する池上彰氏の多くの著書がベストセラーになっています。ということは、知識・情報を求める要求は根強いという証しです。

 繰り返します。いま、新聞に求めたいのは「よくわかる報道記事」と「新聞社の主張」です。これらを合わせ持たせる紙面作りは難しいことになると思いますが、お願いしたい。

 ところで、アメリカの選挙のニュースに注目してきました。「医療保険制度は国民の自由を阻害する」といった金持ちの論理を、二大政党のうちの一方が主張し、まかり通っているアメリカ社会は納得できません。もっともアメリカ国民は、そういった主張のロムニー氏よりも、ちょっとだけではあるが、庶民の生活を重視するオバマ氏を予想よりも大差で選択しました。

 日本はといえば、急速に「アメリカ式の自由」を主張する社会へと進んでいます。しかし新聞で知る限り、アメリカには議論の風潮が伝統的にあります。日本の場合、アメリカ式格差社会が、議論のないまま定着するのではないかと心配してしまいます。ただ、原発の問題では、日本でも初めて手づくりの行動と議論が生まれています。

 衆院選が近づきます。選挙に向け、原発やTPP、経済格差などについて各地域(私の場合、東播)の実態に切り込んだ報道を期待します。そんな記事を読むとき、「なるほど…」と記事の内容を理解することができます。

 これが報道記事を「やさしく」するということかもしれません。地域から日本を、そして世界を読んでみたい。そう願っています。

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コーヒー・ブレイク:神戸新聞を読んで・「原発問題 地域の視点で」

2012-11-11 09:44:18 |  ・まち歩き

<神戸新聞(1111日・日の5面)より>

 原発に問題 地域の視点

Ebcf9d8fこの欄を担当することになり、今まで見出しか見なかった記事にも目を通すようにしています。

いま、少々憂鬱になっています。尼崎の殺人事件、選挙目当てばかりが目立つ与野党間の駆け引き、不景気等など暗いニュースが、あまりにも多すぎます。

新聞記事は、その社会の反映であり仕方のないことかもしれません。

例年なれば、阪神ファンにとってタイガースの話題が、いっぷくの清涼剤ですが、今年ばかりはそれもありません。

 そうした中、社説を注目して読んでいます。

神戸新聞の社説を読んでいると元気になります。というのは、気がつかなかった問題点の指摘があり、論調が「まさに正義の味方」と感じるからです。

原発の問題を例にします。

1025日の社説では、「・・・大飯原発は応急的な津波対策だけで運転している状態であり、福島の教訓を反映した周辺住民の避難計画も出来ていない。いったん停止すべきである。そもそも電力予測が過大だっただけでないか。節電期間が終わった後にそんな疑問を抱いた人も少なくないだろう・・・」と、現状での原発の停止をきっぱりと訴えています。

読者としては、頼もしく読みました。一読者としてエールを送りたい。

原発の問題は、今まで経験をしたことのない性格の問題であり、これからも気が遠くなるような長期間付き合わなければならない問題です。

また、昨年の311以来、阪神淡路大震災の経験を生かし、東北の被災地といろんな協力・支援・交流が積極的に為されているようすが継続して掲載されており、神戸新聞に共感を強く感じます。

さらに、期待したいことは、「地域に根差す視点」で、さらに現地・福島の現状について、地方版(私の場合・東播版)を見ているような身近に感じられる記事を期待したい。特に子どもの声を聞きたい。

 ところで、11月の神戸新聞では、ぜひ取り上げておかなければならないのは「神戸新聞NEXT(ネクスト)でしょう。私も早速申し込みました。

最近目が悪なりました。拡大して、本紙と合わせ読んでみます。

青年の頃にお世話になった地方の話題も懐かしく感じられる歳になりました。

学校を卒業しての最初の赴任地は淡路の津名郡(現:淡路市)富島にある淡路農業高校(現:淡路高校)でした。

懐かしい思い出の地域の記事を楽しみにしています。知っている人も多くいます。懐かしい人の活躍を見つけたら電話でもしてみます。

「お元気そうですね・・・」と。

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コーヒー・ブレイク:ベッサメ・ムーチョ

2012-11-07 12:14:49 |  ・まち歩き

きょうのブログで百人一首から和泉式部の歌を紹介しています。

あらざらむ この世のほかの思ひ出に

            いまひとたびのあふこともがな

この一首を読む時いつもラテン音楽の「ベッサメ・ムーチョ」を思います。

「なぜ!」とお思われますが、ベッサメ・ムーチョの元の意味は下記のようです。

「ひろかずのブログ」では歴史を中心に書いていますが、今回のみは全くの「コーヒー・ブレイク」です。

読み飛ばしてください。

   ベッサメ・ムーチョ

Bf8cadf1ラテンの曲「ベサメ・ム-チョ」は、年配の方であればどなたもご存知の曲だろうと思います。

昭和16年(1941)に発表された曲だそうです。

その時、日本は戦争の真っ最中で、この曲が日本でヒットしたのは昭和25年以降の事です。

「ベッサメ・ムーチョ」は日本語にすると「もっとキスして」となります。

きわめて有名な曲なのですが、この曲は不名誉なことに、わが国ではそれこそチーク・ダンス向きの安っぽいキャバレー・ソングの代表のように見られています。

日本では「も一度、またも一度、もゆるあのくちづけ……」という歌詞がつけられ、ごく甘ったるく唄われたから、ますますそういうイメージが定着したようです。

でも、どこか「へん」なんです。

元の歌詞では、「今夜が最後の夜であるかのように・・・」とか「明日はたぶ                                     ん、ぼくは遠くに、きみからうんと遠いところにいるだろう」という歌詞となっています。

メキシコで、この曲の作曲者が女ともだちの夫か婚約者を病院に見舞ったときの話が元になっているそうです。

なんと彼氏は、いまわの際にあり、今生のわかれに彼女に口づけをせんがんだという話から作曲されています。

そうすると、日本での「ベサメ・ムーチョ」の歌詞と全く違った意味合いを持ちます。

以上が、私が和泉式部の和歌を読んだ時に「メッサメ・ムーチョ」を思い出す理由です。

次に「ベッサメ・ムーチョ」を聞かれるとき、そんな意味を思い浮かべながらお聞きください。

*絵:『ラテン音楽名曲・名演・名唱ベスト100(竹村淳著)』(講談社)より

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