ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(241):国安・岡を歩く⑭、国安・岡村の数字

2010-06-30 00:55:53 |  ・稲美町国岡

『稲美町史』から国安・岡村の数字を拾ってみます。この数字から国安・岡村の様子を想像ください。

 <国安村の家数・人口、寛延3年(1750)>

家数 109軒  人口 618

<国安村の家数・人口、明治14年(1881)>

家数 74軒  人口 351

江戸時代と比べて、明治時代の国安村の人口・家数共に大幅に減少しています。

もちろん、人口家数が減っているのは国安村だけではないのですが、それにしても国安村の場合は、3割以上の戸数と45%にも及ぶ人口減です。

この数字をどのように説明したらよいのでしょうか。

もう一つ、延宝3年の国安村の数字をみてみましょう。

E1ab2fec <国安村百姓の石高、延宝3年(1674)>

この数字は、国安に残る名寄帳(なよせちょう)によるものです。

  11石以上7軒、10石以上5軒、  9石以上3軒

  8石以上7軒、 7石以上6軒、  6石以上5軒

  5石以上6軒、 4以上9軒、 3石以上3軒

  2石以上2軒、 1石以上2軒、 1石未満5軒

60軒のうち、なんと10石未満の百姓が8割を占めています。

また、江戸時代中期の寛延3年(1750)、10石に満たない百姓が91%に及んでいます。

 <岡村の場合>

さらに15年ほど後の宝暦14年(1764)の岡村の状況は、10石未満の百姓が93%にもなっています。

前号で紹介した出新村では26軒のうち3石が最高で、ほとんどが1石未満という状況でした。

<名寄帳>

耕地所有者別に石高・反別を書き上げ集計した書類

*写真:延宝3年の国安村の名寄帳(『稲美町史』p233より)

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稲美町探訪(240):国安・岡を歩く⑬、出新村

2010-06-29 12:36:31 |  ・稲美町国岡

蛸草新村の開発は、中村の大庄屋・五郎右衛門によって中村組傘下の村々の百姓によって進められたのですが、それより以前に、岡出新村(いでしん)の百姓により一部が開墾されていたことが古文書「乍恐返答言上」によって知ることができます。

古文書には、年貢について、もめ事があったことを記録しています。

   出新村(岡村の枝村)

Inamimachi7_025 岡村出新村は、天満大池の中央を東西に横切る県道平荘・大久保線(384号線)を天満大池から少し東へ行ったところです。

出新村は、十七丁新田と同じく岡村の枝村でした。

記録によると、万治元年(1658)に最初の検地が行われていますから、蛸草新村(元禄10年・1697)より少し前に開発が行われています。

出新村の開発が行われた時代、岡村は大忙しの時代でした。

というのは、寛文2年(1662)以来、国安村の庄屋・理平次と岡村の庄屋・庄次郎(後に九郎兵衛と改名)は、国岡新村の開発に主力を注いでいました。

当時、岡村は東へも北へも開発を進めていたのです。

 (国岡の村名は国安村の「国」と岡村の「岡」から「国岡新村」と名付けられました)

蛸草新村は、中村大庄屋・小山五郎右衛門、そして上西条(現:加古川市八幡町)・

沼田与次太夫が中心になって開発にあたった新田です。

当時、五郎右衛門、与次太夫は、共にこの地域に対して絶対的な政治力を持った人物です。

そのため、出新村の開発は一応完成したとはいうものの水利などで、その後の蛸草新村との関係では何かと難しい問題があったようです。

上記の年貢の一件もその一つです。

それに対し、岡村は十分な援助ができなかったようです。

     岡神社(出新村)

 先日、出新の岡神社(写真)に寄りました。

境内にクスノキは巨木でした。

岡神社の祭神は『稲美町史』によると、「約170年前(文化年間)紀州熊野権現社より勧請した」とありあます。

この時、クスノキが植樹されたとも考えられますが、とにかく巨木です。もっと古くからあったのではないかとも想像します。

このクスノキは、出新村の歴史をずっと見続けていたんですね。

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稲美町探訪(239):国安・岡を歩く⑫、十七丁新田と内ヶ池

2010-06-28 16:23:04 |  ・稲美町国岡

蛸草新村と十七丁新田の開拓は同じ時期に進められています。

草谷新村は、五郎右衛門が中心となり開発されました。

五郎右衛門については後に紹介しますが、中村の大庄屋で、この地域に強い影響力を持つ人物です。

五郎右衛門と岡村が同時に近くの地域を開発するのですから、その間に紛争があったようです。

   内ケ池の一件

Inamimachi7_035 宝永六年(1709)三月、岡村の庄屋・九郎兵衛から郡奉行にあてた「口上」にそのようすを見てみます。

岡村は新田開発に伴い新池の工事を始めました。

十七丁の開発に対して、五郎右衛門から「この土地は六ヶ村入会の場所であるから、手をつけてはならぬ」という抗議を受けました。

これに対して、岡村は「この十七丁の新開地の場所は岡村の地に紛れない土地であるので、ここに新池を造っても支障がない・・・」と主張しています。

岡村のこの要求は郡奉行の認めるところとなり、池が造られました。

この池は、内が池(写真)と考えられます。内ヶ池は十七丁新田の地を灌漑しました。

内ヶ池に関する文書はこれ以外になく、詳しいことは分かりません。

   草場の一件

正徳六年(1716)に十七丁の百姓六名が奉行にあてた「乍恐書付を以御願申上候(おそれながら、かきつけをもって、おねがいもうしあげそうろう)」という願書があります。

六名の百姓の名前は次のようです。

十七丁新田百姓 茂左衛門

         平左衛門

         宇右衛門

         十郎左衛門

         角兵衛

「十七丁新田百姓は、岡村庄屋九郎衛よりお願いしたように新田開発を進めていましたが、なかなか進みません。

だからといって、外の地域の人が開発しては、牛馬を飼育する草野がなくなり迷惑します・・・」と願い出ています。

この文書から当時、十七丁では牛馬による農耕が進んでいたことを示しています。

*『播州蛸草庄の水論(竹内卓爾著)』(日本古書通信社)参照

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稲美町探訪(238):国安・岡を歩く⑪、十七丁

2010-06-27 20:03:47 |  ・稲美町国岡

岡に「十七丁」というめずらしい地区があります。

十七丁は岡村の新田ですが、はっきりとした史料はありません。

江戸時代、岡村には、岡村が支配する出新村(いでしんむら)と十七丁(じゅうひっちょう)の二つの枝村(えだむら)がありました。

きょうは、そのうち「十七丁」を訪ねることにします。

   十七丁は岡村の枝村

蛸草新村の開発が進められた元禄の頃、岡村も十七丁の開発を始めたようです。

蛸草新村と相之山との間をぬうようにして開発された地域です。

現在の「相之山」は戦後開発された地域で、もとは印南地域から野際地域を含む広い地域をさしていました。

相之山については、後に紹介することにします。

新開の十七丁の集落は、独立した村ではなく岡村の枝村となりました。

つまり、十七丁は岡村の庄屋が兼ね岡村の支配する村でした。

  十七丁(じゅうひっちょう)

Inamimachi7_030 それにしても不思議な名称の集落です。

丁は面積の単位で町とも書きます。

蛸草新村は別名、六十丁とも呼ばれました。

開発当時、六十町歩の面積を持つ集落でした。

十七丁も開発当時、十七町歩の開発を進めた地域という意味でしょう。

 十七丁 天満神社 

 国安の天満神社には、向山、北山、中一色、森安、蛸草と十七丁に若宮があります。

 祭神は、もちろん国安天満宮と同じ池大神・菅原道真・弁財天です。 

 *写真は十七丁の天満神社(岡2615番地)

<お詫び>

退職の身で普段は暇なのですが、ここしばらく急な用事ができ「ブログ」をお休みにしました。

また、再開しますのでお付き合いください。

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稲美町探訪(237):国安・岡を歩く⑩、秋祭りの屋台

2010-06-18 07:09:23 |  ・稲美町国岡

   

秋祭りの賑わいが聞こえる

966c2161  国安の天満宮の神輿について『稲美町史』は、次のように書いています。

「・・・祭には、神輿と天狗が興を添える最大のもので、・・・・天満神社で言うと、毎年10年ごとに回って来る当番の村が、子供から大人まで総出で神輿舁(か)きに奉仕した。

舁くのは大人で、子供は近寄れないが、大人と同じ装束で周囲を走り回った。

神輿渡御(とぎょ)の責任ある舁きては大体20才から30才くらいの者16人が選らばれ、これを16人方といった。

他と区別して、いずれも赤はちまきを締め、お旅所への渡御の往復に奉仕した。

・・・16人方以外の者は白鉢巻であるが、舁き手の多い村では団体ごとに青鉢巻、白鉢巻などと区別した。

8650be3b ・・・16人方以外の者は思う存分練り回って楽しんだが、16人方は常に舁き手の中心となって、最後に神輿庫に納めるまで気が許せなかった。

神輿は社殿の周囲を三回めぐるその途中と最初に舁きはじめた時と都合三回、大池のほとりまで行ってみこしを水に沈める。

大池は天満地区の農地の半ば以上の用水池であるから、その満水祈願の信仰からこの行事を行うのであった。

3c6af52e 参詣の人々はこれを見ようとして、池の西と北の堤に黒山のように群がり集まる。

・・・お旅所へ渡る頃はもう短い秋の日は西に傾いている。・・・舁きてはもう練りくたびれて、ほとんど16人方だけに担がれてお旅所へ向かう。

池の西南端のお旅所で式があって、再び本殿の方に帰ってくる頃はもう薄暗くなっている。

   

むかしの屋台 

太鼓屋台も古くは10ヶ村1台ずつあった。(注:岡村は、岡西・岡東そして岡村の3台)その先頭は国岡と定まっていた・・・(p830831

御輿渡御行列の順番を記録した1688年(元禄元年)~1703年(元禄16年)頃の絵図が天満宮に残されています。

絵図から岡村(上)・岡村東・岡村西(中)・国安村(下)の屋台を見ておきます。

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稲美町探訪(236):国安・岡を歩く⑨・祭礼神式の絵図(円光寺蔵)

2010-06-17 07:34:13 |  ・稲美町国岡

『稲美町史』は、天満神社の説明の一部に円光寺について次のように説明しています。

「明治5年までは別当円光寺が境内地の近くにあって、社事等の一切を取り仕切っていたが、この年神仏分離令が出され円光寺は現在の中村に移り神社は神官によって差配されることになった」(p691

そのため、天満神社関係の史料の一部は円光寺に残されています。

 

祭礼神式の絵図

Esairei1_2  絵図は、「祭礼神式の絵図」(円光寺蔵)です。

江戸時代 後期 元治元年(1864)八月に各村の屋台置き場所を取り決めた記録で江戸から明治時代にかけて12台もの布団屋台の存在していたことを証明しています。

右上より 国岡、幸竹、中村、蛸草、国安、十七丁、岡西、岡東、中央に 六分一、左下に森安、北山、中一色と決められたようです。

神仏分離令の時、祭礼に関する資料のほとんどが消滅したとされており、この「祭礼神式の絵図」は、現存する貴重な資料の一つとなっています。

*HP「播州稲美天満秋祭」を参照させていただきました。詳しくはそちらをご覧ください。

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稲美町探訪(235):国安・岡を歩く⑧、地蔵山の墓地は旧円光寺の墓所

2010-06-16 09:03:24 |  ・稲美町国岡

Inamimachi7_013_2 円光寺について続けます。

『稲美町史』によると円光寺について、「寛政元年(1789)国安八坂神社の東隣にありましたが、天満宮の境内地に移された」と記しています。

また、「もと光明院と言い、国安八坂神社の東隣にあった」と書いていますが、「もと」とは何時の時代をさしているのでしょう。

「いつ」円光寺に寺名を変えたのでしょう。  

いつの頃か、旧円光寺と墓地は現在の地蔵山墓地に移されたのでしょうか?

地蔵山墓地は旧円光寺野墓地に間違いないことを墓碑(写真)から確かめましたが、元の円光寺の場所(八坂神社に東隣)と地蔵山墓地が少し離れすぎています。

分からないことが増えました。

   地蔵山墓地は旧円光寺の墓所

Inamimachi7_015_2  先日は、地蔵山の墓地について、自信がないものですから「応安と明徳の14世紀の年号が刻まれている五輪塔・宝篋印塔と側の地蔵菩薩立像等は旧円光寺の石造群であろうといわれています」とあいまいな書き方をしました。

後日再度、地蔵山墓地に立ち寄りました。

墓地はきれいに清掃されています。

歴代の僧の墓碑も数基残されていますので、その墓碑の文字を読みました。

その一基の墓碑に「明覚山 圓光寺」とあり、裏面に宝永四年(1707)の文字をはっきり読むことができました。

地蔵山墓地は、確かに旧円光寺の墓地であることは確かめられましたが、今のところそれ以上の詳細は知りません。

この夏の宿題とします。

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稲美町探訪(234):国安・岡を歩く⑦、円光寺(中村)は天満宮の別当寺

2010-06-15 07:49:19 |  ・稲美町国岡

前号で円光寺は元天満神社にあり、神社に付属した寺であったことを紹介しました。

その物証のために天満神社に残る「祭礼神事図」の“別当寺”に注目しました。

   明覚山円光寺(中村)を訪ねる

Inamimachi7_004 一昨日は雨で、気象庁は梅雨入りを宣言していました。

昨日(14日)は、予想に反して一転して朝から快晴。

読みかけの小説を中断して、午後円光寺の写真を撮りに出かけました。

再建され、まだ木の香りが残るすばらしいお寺でした。

そして、いきなり円光寺に来た目的がかなってしまいました。

   梅の紋の瓦

Inamimachi7_005 山門を見上げました。

天満神社の象徴である「梅の紋の瓦」(写真)のオンパレードです。

「円光寺には何か天満神社と関係を示す物証がないものか」と出かけたものですからとにかくビックリでした。

いきなり天満神社の出現です。

雨の後の洗われた青空をバックにした円光寺、そして梅の模様の甍はいっそう輝いていました。

ゆっくり境内を歩きながら、「静かな夏の一日、本堂でセミの声を聴きながら、しばし寝転びたいな・・・」とフラチなことを考えてしまいました。

円光寺は、かつて国安天満神社の別当寺でした。

(蛇足)

そうであるなら、欲が出ます。「将来、梅に埋まった円光寺であったらすばらしいのに・・・」と想像してしまいました。

    円光寺については、「中村」を散策する時、再度紹介します。

きょうは、瓦の「梅の紋」に注目ください。

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稲美町探訪(233):国安・岡を歩く⑥、神仏混交

2010-06-14 07:32:26 |  ・稲美町国岡

 国安天満宮

8fe2e41f_2  天満神社のはじめ白雉4年(653)、王子権現という錫杖地蔵を勧請して創建されたと伝えています。

寛平5年(893)社殿を現在の場所に移し、池大神を祀りました。この場所は元の社のお旅所であったため、その後お旅所を現在の場所(大池の南西隅)に移しました。

また、明徳元年(1390)には弁財天を祀り、永禄8年(1565)に社殿を改築し、この時、主神は天満神社(菅原道真公)となりました。

   円光寺(中村)

円光寺について『稲美町史』から引用します。

円光寺は、天平15年(743)の創建とされ、国安の八坂神社の東隣にありましたが、寛政元年(1789)天満宮の境内地に移されたとされています。

先に紹介した地蔵山墓地の応安と明徳の14世紀の年号が刻まれた五輪塔・宝篋印塔と側の地蔵菩薩立像等は旧円光寺の石造群であろうといわれています。

   神仏習合

さて、円光寺と天満神社の関係ですが、いま、天満神社の保存されている祭礼図の神輿行列に描かれた「別当寺」という文字(絵図)に注目してください。

「別当寺」とは、神仏習合が認められていた時代に神社に付属して設けられた寺のことです。

神社の祭礼を仏式で行う者を「別当」と呼びます。

また、円光寺の檀家と天満神社の氏子の範囲がほぼ重なっています。 

このことから、円光寺は天満宮の別当寺としての役割を果たしていたと考えられます。

円光寺は、明治初年の神仏分離令により中村の地に移りました

*祭礼神事順図(部分)

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稲美町探訪(232):国安・岡を歩く⑤、明治の地租(史料として)

2010-06-13 11:39:08 |  ・稲美町国岡

7ba06922_2 『播磨地種便覧』(明治15年12月発行)に、実施された地租の数字がありますので史料として紹介しておきます。

この地租(租額)は、江戸時代と比べても重税になり各地で「地租改正」に反対する激しい運動がおこり、これに押された政府は明治10年に地租を地価の2.5%に切り下げています。

『播磨地種便覧』の岡村・国安村の地租の数字は、地価の2.5%です。

 岡村・国安村は、稲美地域では古くから発達した集落でした。

 岡村は、その規模においてひときわ大きな村です。

 地図(大正12年)は、記事と直接関係はないのですが、岡村・国安村あたりです。   

 『播磨地種便覧』(明治15年)より

 岡村   

戸数  238

人口  1173

合計  地価 115084786

        地租  28771

  1011824歩   地価  75507506

                     地租   1887707

畑 99956歩   地価  33410145

             地租  835265厘 

 (以下略)

国安村

戸数   74

人口   351

合計   地価     4407489

  地租    100438

5115畝9歩   地価  32831931

                 地租    82080銭3

344717歩      地価  943666銭8

                 地租   235921厘  

  (以下略)

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稲美町探訪(231):国安・岡を歩く④・天満神社の秋祭り

2010-06-12 08:15:01 |  ・稲美町国岡

次の説明は、ウィキペディアからお借りしました。

民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレ(晴れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、(褻)はふだんの生活である「日常」を表している。また、(褻)の生活が順調に行かなくなることをケガレ(気枯れ)という。

 ハレの一日

Sisimai 写真は、昭和初期の天満神社の秋祭りの風景です。

獅子舞を見ているんですね。この写真を見ていると、「ハレとケ」の言葉が浮かびました。

ハレは儀礼や祭り、年中行事などの特別の日で、その日に着る着物をが晴れ着(ハレギ)です。

その日は天満の秋祭りの日です。都会に出ていた人も帰ってきました。

みんな晴れ着です。

女の子は「ねえ・・あの人かっこいいね」

男の子は「あの娘(こ)、いい奥さんになるよ・・・」

年配の人は、「今年の稔りは、まあまあですかね」

お年よりは「チョッと疲れたね・・・、帰って鯖寿司でも食べますか。孫は甘酒が好きでね・・・」

人々の喜びとざわめきが聞こえてきそうです。

老いも若きも、男も女もみんなハレの日をめいっぱい楽しんでいるようです。

こんな人々の高揚した空間は、少し消えてしまったようです。

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稲美町探訪(230):国安・岡を歩く③、地蔵菩薩立像(国安地蔵山墓地)

2010-06-11 00:11:27 |  ・稲美町国岡

きょうも国安地蔵山墓地の古い石造物(地蔵菩薩)の紹介です。

地蔵菩薩立像(稲美町有形文化財)

Inamimachi6_040 教科書風に説明すると、「製作年代は不明であるが、南北朝時代の錫丈地蔵(しゃくじょうじぞう)と見られ、円形の後背を持っている。花崗岩に刻まれている。稲美町の有形文化財である」という文で事足りてしまいます。

   地蔵菩薩

そのため、今回は地蔵菩薩の説明を少しつけ加えておきます

理由ははっきりしませんが、天平時代(奈良時代)までは地蔵菩薩に対する信仰がなく平安時代に突如として現れてきました。

大地は万物を生じさせ、種子を蒔けば成長して葉・花・実をつくり出すように地は偉大なる功力をもっています。

これと同じく、「地蔵」は全ての生きる者を救済する偉大な功力を持つ土地のようなところからその名がつけられています。

さらに、観音信仰は、生ける者のご利益を説いていますが、地蔵菩薩は過去に死去した人の救済も説いています。

そして、地蔵菩薩は御厨子(ずし)の中でおさまっている仏様ではありませんでした。

錫丈をついて、どこにでも行き、庶民の苦しみ救い幸福をもたらす仏様でした。

地蔵山墓地の地蔵菩薩も錫杖地蔵です。

特に、南北朝は先の見えない混沌の時代でした。人々は政治の圧制に絶望しました。

また、中世は子供の死亡率が非常に高い時代でした。

子を失った親はどのような感情を持ったのでしょうか。

しきりに悔恨の思いが心を掠めた事でしょう。

その上に間引きが重なっています。

現世の救いと、死者に対する痛恨の嗚咽が、庶民は地蔵に救いを求めたのでしょう。

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稲美町探訪(229):国安・岡を歩く②、宝篋印塔(国安地蔵山墓地)

2010-06-10 07:31:35 |  ・稲美町国岡

 宝篋印塔(地蔵寺山墓地)

Inamimachi6_004 この宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、前号の五輪塔と同じ国安地蔵山墓にあります。

それにしても難しい漢字とその読みです。

墓地の説明版には、南北朝の石造物とあります。

宝篋印塔は、鎌倉時代に始められたと言われています。

名前の由来は「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」を納めた塔ということです。

「宝篋印陀羅尼経」を唱えれば、地獄に居る祖先は極楽に行き、病気・貧困の者も救われるといい、この塔は墓地に置かれました。

地蔵寺墓地の宝篋印党派の基礎輪郭に「明徳元年(北朝1390)」の銘があります。

これも、稲美町の銘のある石造物としては最古級のものです。

   南 北 朝

9b86855b 南北朝時代は、争乱の先の見えない混沌の時代でした。

南北朝の争乱は、後醍醐天皇が鎌倉幕府に対抗して隠岐(島根県)に流された(1332)辺りからはじまり、途中鎌倉幕府の滅亡などを経て、やがて足利尊氏が擁立する北朝によって南北朝朝が合一されるまで60年の間の混沌の時代をいいます。

南北朝が統一されるのは、明徳3年(1392)ですから明徳元年は南北朝時代の終わる2年前です。 

明治時代から終戦の時まで、学校では「南朝が正しい」と教育されましたが、この宝篋印塔が造られた時代、南朝は全く勢いがありません。

北朝が断然優勢でした。

そのため、この石造物にも北朝の使った年号が記されています。

もっとも、北朝の政権も武士にささえられた時代で、南北朝時代は、混沌の中で武士の時代へと確実に歯車を回転させた時代でした。

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稲美町探訪(228):国安・岡を歩く①、五輪塔(国安地蔵山墓地)

2010-06-09 08:15:52 |  ・稲美町国岡

「(シリーズ)国安・岡を歩く」を計画してみました。

史料があっての計画ではありません。そのため、どんな結果になるか若干不安です。

きょうは、国安地蔵山墓地の五輪塔(写真)を訪ねてみましょう。 

Inamimachi6_006    古い石造物

平安時代以前、仏教は主に貴族や豪族のためのもので、庶民にはまだ縁遠いものでした。

しかし、鎌倉時代に親鸞(しんらん)や日蓮(にちれん)等が新しい仏教をはじめ、庶民の間に広まりました。 

それまでは、金属や木で見事な仏像がつくられ、それを安置する立派な寺院も多く造られました。 

鎌倉時代には、これらに代わって石の仏像や五輪塔が多く造られるようになりました。 

石の方が雨ざらしでおけるし、場所をとらず、何よりも安価につくることができました。 

五輪塔は、鎌倉時代や南北朝時代までは死者の冥福(めいふく)を祈る供養塔であっても、多くの場合、まだ個人のためのものではなかったのです。 

これが、個人の墓塔に使われだすのは、次の室町時代を待たねばなりません。 

生活に余裕のなかった当時の庶民は、数人で、また村全体で自分の祖先の魂(霊)を供養するために五輪塔を造りました。 

ですから時代が新しくなるほど、一般的には五輪塔は小さく、また簡素なものが多くなります。 

2a7f2452 仏教では「私たちの住む世界の全ての物質と現象は、五つの元素(空気・風・火・水・土=地)の組み合わせにより成り立っている」としています。 

五輪塔は、これら五つの元素を形にしたもので、図のようにそれぞれ上から空輪・風輪・火輪・水輪・地輪と名前がついています。

 国安地蔵山墓地の五輪塔(ごりんとう)

 地蔵山墓地は、天満神社の前の道を北へ少し行った道沿いにあります。

地輪部に「応安元年戌申(北朝1368)」の年号記銘があり、この年号は稲美町内にある石造物としては最古級のものです。

ただ、空・風輪部は元々のものとは違うもので補われています。

稲美町は、江戸時代に誕生したというイメージがつよいのですが、国安・岡の辺りは古くから賑わいのあったところです。

しばらくは、国安・岡の集落の辺りの散策してみましょう。

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稲美町探訪(227):稲美町の文学碑⑧・菅公碑(天満神社)

2010-06-08 09:13:04 |  ・稲美町文学碑

  東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花

      主なしとて 春なわすれそ

Inamimachi4_044 天満神社の祭神の池大明神は大池を神格化したもので、伝承では大池の歴史は古く、天満大池は、白鳳3年(675)に築造されたといいます。

その後、寛平5年(893)社殿を今の地に移しました。 

この地域を開拓した人々にとって、池(水)はまさに命でした。そのため、大池は池大神として祀ったのでしょう。

祭神、菅原道真についての詳細な物語は、ここでは省きますが、道真は藤原氏の讒訴(ざんそ)にあい、突如大宰府に流されました。

伝承では、その途中二見港に立ち寄ったとき、池大明神の梅が花盛りであったので道真をここへ案内したといいます。延喜元年(9012月のことでした。

こんな伝承の関係で、後に京都の北野天満宮から勧請して、池大明神の右側に奉納するようになりました。 

道真の話は、あくまで伝承としておきます。 

道真は、延喜3年(903)、失意のうちに大宰府で亡くなりました。

59才の人生でした。 

道真の死後、京都では天変地異がしきりに起きます。 

旱天・流星・大地震、そして疫病などが続き、貴族たちは道真の怨霊が京の空に舞い戻って来たのではないかと噂し、動揺ははなはだしいものがありました。 

このため、朝廷は神社を建立して道真の霊を慰めようとしました。 

道真の怒りが雷神として現れたと信じた藤原貴族たちには恐怖でしたが、農民にとって雷は雨と水をもたらし、稲の稔りをもたらす神として全国にひろがりました。

天満神社は、こんな歴史を持つ神社です。

天満神社には菅原道真を祀る関係から、彼の有名な4メートルもある歌の碑(写真)が建立されています。

揮毫は、菅原道真36代の後裔である太宰府天満宮西高辻(菅原)信貞宮司によるものです。   

    万葉の森には3基の『万葉の森賛歌碑』がありますが、これらについては後日紹介します。

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