ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町探訪:宝湯

2007-03-16 09:34:54 |  ・加古川市加古川町

_384  個人的な話からはじめたい。

  『近代の歴史遺産をたずねて』に「宝湯」(加古川市加古川町本町)の項をみつけた。

  「エエ、これが歴史遺産!」と思ってしまった。というのも子供の頃、ほとんど毎日「宝湯」を利用していた。

  少し、この本から引用したい。

  「・・・このお湯が、お目見えしたのは昭和4年。当時、JR加古川駅に近いこの辺りは一面、水田地帯で、その真ん中にポツンと建てられたと言う。

  二階は、かつて風呂あがりの客がよく利用した休憩用の畳敷き和室。・・・社交場の少なかった当時、行けば人の消息、動き、町の出来事がたちどころに分かるので、いつもにぎわっていた・・・」とある。

  私の知る「宝湯」(昭和27年ごろから30年代前半)は、二階の休憩所は、既に使われていなかった。

  とにかく、大人は風呂あがりに、よく牛乳を飲んでいた。子どもはお金がなく眺めるだけだった・・・

  昨年6月にはじめたブログも、今日で267回になりました。アクセス数に励まされて、何とかエンコすることなく続いています。

  今後も、続けたいと思いますが、明日からしばらく(10日間ほど)私用のため休みます。3月27日頃から再開しますのでよろしくお願いします。

  次回からは「八幡町探訪」を予定しています。

  なお、「加古川町探訪」で、鶴林寺を取り上げていません。少し勉強不足です。後日取り上げる予定です。

*『近代の歴史遺産を訪ねて』(神戸新聞出版センター)参照

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加古川町探訪:誓文払い

2007-03-15 08:38:06 |  ・加古川市加古川町

Eade9d65    加古川市に「誓文払い(せいもんばらい)」という、商店がこぞって参加する年末の大バーゲンセールがあった。

  狂おしいほどの賑わいであった。

  「誓文払い」は、もともと京都に始まった行事らしい。

  広辞苑は「・・・一年中、商売上の駆け引きで嘘をついた罪を払い、神罰の赦免を請う行事。この日、呉服店は特に安値の売出しをする・・」と説明している。

  もとの意味はともかく、姫路では12月1日から5日間、加古川ではその後日曜日を中心に5日間が「誓文払い」だった。

  地元商店だけでなく、遠くは大阪からも商人が大挙して押しかけるほどの大セールだった。

  寺家町・本町商店街は、写真のように満員電車なみの人混みとなった。

  そのはずである。三木・小野・西脇など東播磨一円から人が加古川に集まった。

 _380_2  (写真は、「人形の店・陣屋」から、10メートルほど西の本町商店街の「誓文払い」時の風景。西の方向を撮っている)

   それに、姫路・明石は空襲で焼け野原になったが、加古川はほとんど無傷で戦後から7・8年の盛況は今からは想像もできない。

  「誓文払い」が近づくと、我々悪がきもワクワクした。誓文払いと一緒にサーカスが町にやってきた。

  『新・かこがわ事典』は「・・・こまったことは公衆便所がすくなく、路地はどこもかしこも“臭い臭い小便路地”になっていた・・・今ではとても想像すらできないことですが、ご婦人方も結構立小便をされていた・・」と、こんな話も取り上げている。

  当時の、公衆便所(写真)が「人形の家・陣屋」の西の道のすぐ奥に現役で残っている。

  ・・・・寺家町・本町から「誓文払い」のザワメキが消えた。

  人は大型販店に押しかける。そして神戸・大阪へ買い物に出かける。

  時の流れとばかりで済まされない。「無策」という言葉が残る・・・

*『新・かこがわ事典(新・かこがわ事典編集委員会)』参照

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加古川町探訪:ニッケの労働争議

2007-03-14 08:32:08 |  ・加古川市加古川町

6c3eba48    おおいざ進めわが工手 正義のための戦いに・・・

  日本毛織労働組合・誠和会の組合歌の一節である。

  第一次世界大戦後の大正13年4月13日、日本毛織労働組合・誠和会は結成された。

  誠和会は、労資協調の穏健な労働組合であったが、会社側は組合の結成を頑として認めようとはしなかった。

  そればかりか、労働組合幹部全員に解雇を通告したのである。

  職工の会社側への不満は爆発した。

  その背景には、次のような労働の実態もあった。ある女工の証言である。

  「・・・朝六時から晩の六時まで、六時がなってやれやれと帰ってくる。風呂から帰れば七時を過ぎている。十時に就寝すると、我等の勝手に使用する時間は、二時間ばかり・・・・」

  それに職工(ブルーカラー)の社員(ホワイトカラー)に対する不満もあった。また、男女差別の熱烈な叫びもあった。

  昭和2年、誠和会が結成されて3年目、会社側は第二組合を組織した。それに反対して、大規模なストライキに突入した。

  活動家は、ほとんど解雇された。結果は、組合の完敗であった。誠和会は解散した。

  その後、戦後まで日本毛織(ニッケ)に争議はなかった。

  そして、戦後の民主化の中で、昭和21年再びニッケに労働組合が結成された。右翼の青年が組合つぶしに加わったこともあった。

  組合の左右の対立が激しくなった。徐々に左派の影響は失われていった。

  誠和会については『加古川市史(第三巻)』に詳しい記述がある。

*写真はニッケの女子工員(大正末期)であるが、労働争議と直接関係がない。

 『目で見る加古川・高砂の100年』、『私たちの昭和史・上』(神戸新聞社編)、『加古川市史(第三巻)』参照

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加古川町探訪:日本毛織

2007-03-13 08:05:37 |  ・加古川市加古川町

80284f9e    日本毛織株式会社(以下ニッケとする)は、当初明石市で建設が着手されたが、明石は宮内省御用邸の候補地に選定されていたため急遽、移転先として加古川が選ばれた。

  理由は、加古川の水量・水質が工場に適していたこと、それに何よりも広大な土地の確保が可能であったことなどによる。

  明治32年(1899)、加古川工場(加古川市加古川町)がほぼ完了し、生産が開始された。

  この時期は、日清戦争後で軍用絨の需要が続いていた。

  生産が追いつかないほどであった。

  製品は、輸入品と比べて比較にならないほど劣っていたが、創業後まもなく輸入品に対抗できるほどになった。

  明治35年(1901)から翌年にかけて戦後恐慌が襲った。国内の毛織物業の倒産があいついだ。ニッケも生産量は減少した。

  こうした状況を打開するために、ニッケは政府需要へ依存する方針をとった。

  利潤は、少ないものの安定性はきわめて魅力的であった。

  ニッケにとって日露戦争は、まさに干天の慈雨となった。日露戦争は、日清戦争と比べて規模も大きく、ニッケへの軍需品(軍服・毛布など)の注文が殺到した。

  日露戦争後もこの傾向は続いた。

  ニッケは、いっそう、政府依存の傾向を強め、軍需品の需要の激増により市中向けの製造を中止して、軍需品の製造により全力を注いだ。

  日露戦争を契機に一層の飛躍をしたニッケは、その後も大規模な工場拡張を続けた。

  大正8年(1919)には、印南工場を建設した。

  加古川工場では、主に軍需品や官公庁向けの製品を生産したが、印南工場では第一次世界大戦景気の民間の需要にこたえるものであった。

  戦前、ニッケは、まさに戦争と共に工場の基礎を築いた。

 *『加古川市史(第三巻)』参照

  写真のニッケ加古川工場は『写真集・加古川』(玉岡松一郎)より

 

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加古川町探訪:トロッコ橋

2007-03-12 08:21:28 |  ・加古川市加古川町

894b6787    9日のブログ「旧加古川大橋(大正2年)」を取り上げた。

  さっそく、太子町のIさんから「昭和35年地形図には、加古川大橋とJR鉄橋の間に加古川をまたぐニッケの専用線があります(現在はない)。その史実が分かれば取り上げていただきたい・・・」とのメールをいただいた。

  今日は、橋の写真と思い出だけをとりあえず掲載させていただきます。詳しく分かれば後日再度取り上げたい。

  地図にある橋は、写真(上)のように加古川工場と印南工場(いんなみこうじょう)を結んでいた。

  このメールをいただいた時、懐かしい橋の風景が浮かんだ。

  F0353051_2 私の小学校卒業は昭和30年であるが、この時、この橋は既に使われていなかった。

  橋を覆っていたレールとレールの間の板は、所々なかった。もちろん通行禁止であった。

  それに、この橋の中央部の川の流れが速かった。川面が板の隙間から見えたので、そう感じただけかもしれない。

  私たち悪がきどもは、その流れを見ながら恐るおそる渡ったものである。

  渡り終えると、安堵感と満足感があったことを覚えている。注意されたことは一度もなかった。

  橋を渡りきった先はニッケ印南工場である。ニッケ印南工場は、大正8年(1919)に加古川工場と同規模の工場として建設された。

  (ニッケ加古川工場は、明治32年操業開始)

  トロッコ橋とよばれたこの橋は、大正10年頃に架設された。印南工場の建設と同時に計画されたらしい。(写真:下の対岸の工場が印南工場)

*写真は『写真で見る明治・大正・昭和初期の加古川』(加古川総合文化センター)より

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加古川町探訪:宮本武蔵

2007-03-11 08:19:13 |  ・加古川市加古川町

75ddbd3f    吉川英治の小説『宮本武蔵』は大好評をはくした。

  吉川は、武蔵の生誕地を「作州大原(岡山県)」とした。

  そのため、武蔵は作州人だと信じられている。

  近年、この説に異議が唱えられている。つまり、「宮本武蔵は高砂市米田町生まれである」とする説である。

  その根拠になったのは、泊神社(加古川市加古川町木村)に宮本伊織(武蔵の養子)が奉じた棟札の発見である。

  棟札を少し説明を加えながら紹介したい。

  ・・・・武蔵は赤松一族の出身である。武蔵誕生の250年ほど前のことである。

  赤松持貞は、こともあろうか将軍の側室に手をだしてしまった。持貞は切腹を命じられ、嫡男の家貞等一族は、印南郡の米田に追放になった。

 238e7c2_2 名も田原に変え、地侍として勢力を伸ばした。

  そして、家貞から五代目に名前も同じ家貞の時、二人の男子がいた。その弟の武蔵玄信は、作州・新免(しんめん)氏の養子になった。

  新免氏は、後に宮本と名を変えた。宮本武蔵の誕生である。

  武蔵にも子どもがなかったので、伊織を養子とした。

  武蔵は、明石藩の小笠原に仕えていたが、豊前の小倉に移ったので伊織もそれに従った。伊織15歳の時であった。

  伊織は、小倉藩で家老にまで上りつめた。

  武蔵の死後8年目の承応二年(1653)、伊織は武蔵の出身地・米田の氏神である泊神社の老朽化がひどく、田原家の祖先供養のために社殿を新しくした。

  よけいな説明を加えたが、発見された棟札には武蔵の出自を書いている。

  武蔵の生誕地「播磨の国・米田説」は、俄然説得力を持ってきた。

  武蔵は『五輪書』でも、はっきりと「生国播磨」と書いている。

*写真下:伊織奉納の棟札(泊神社)。なお、伊織奉納の灯篭が社殿の裏にある。

  

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加古川町探訪:泊神社

2007-03-10 08:08:18 |  ・加古川市加古川町

_283    『播磨鑑』の記述に「泊神社には4人の神官がおり、真言宗に属した神宮寺の僧と神人(みこ)一人がいた」とある。

  かなりの大社であったようだ。

*神宮寺・・・神仏混交の考え方で、神社に奉仕するために建てられた寺。

  泊神社の氏子に注目したい。

  泊神社の氏子は地元の木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の五ヵ村が祭礼の世話をするが、さらに塩市・米田新・古新・米田・船頭など加古川右岸(西側)一帯に広がっていた。

  木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の村々は、明治22年まで印南郡に属していた。記録にはないが泊神社(木村)は、もともと加古川の右岸にあったのであろう。

  (印南郡、加古郡そして加古川の流路については、2月8・9日のブログ・「分岸寺川」をご覧ください)

  「泊」は港(水門・みなと)を意味する。

  『日本書紀』に「鹿子の水門(かこのみなと)」が加古川の河口部にあったという。

  研究者は、「鹿子の水門」は、現在の稲屋(加古川市加古川町稲屋)辺りで、当時は、このあたりまで海が迫っていたと推定している。

  泊神社は地域の氏神であり、古代の港(水門)の守護神であったと考えられる。

  さらに、 『加古川市史(第一巻)』は、「・・・紀伊の国懸(くにかかす)大神を勧請したり、境内社に熊野神社・住吉神社・島姫神などを祀っていることからも、当社が熊野衆、その他海賊たちと深い関わりを持っていたことが暗示していると思われる」と記している。

  松林、港そして神社の風景が目に浮かぶ。泊神社は潮風のにあう神社であった・・

*『加古川市史(第一巻)』参照。「鹿子の水門」については、1月4日のブログをご覧ください。

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加古川町探訪:旧加古川大橋(大正2年)

2007-03-09 09:15:58 |  ・加古川市加古川町

_377     加古川の大橋(国道2号線)のすぐ北の川面に転々と橋げたの土台の部分(写真右)が続く。

    今日は、この橋げたの土台の話をしたい。

  加古川は、古代から流路を何回も変えた暴れ川だった。

  そのため技術的な問題もあったが、江戸時代は、何よりも姫路城の防衛のため加古川には橋が架けられなかった。

  明治以後、幾度となく橋が架設されたが、流失している。この経過を『加古川市誌(第一巻)』にみたい。

 明治7年  粗造の木橋を架設  

     明治12年5月11日流失(再建されるが14年再び流失)

 明治16年8月31日  新しく架設

     明治25年7月24日流失

 明治27年3月31日  新しく架設

     明治29年以降毎年の洪水のため破損がひどくなる

 大正2年6月 本格的な鉄の新橋架設

 大正13年8月15日、現在のもとになる加古川大橋完成

Ffaff4f5   大正2年、毎年のように発生する洪水のため兵庫県は、やっと本格的な鉄の橋を建設した。それまでは木の橋であった。

  写真(下)は、大正2年完成の橋であり、写真(上)は、その時の橋げたの土台部分の跡である。

  個人的な話で申し訳ないが、中学生の頃、この橋げたの土台あたりが、私の水泳場所だった。

  もっぱら、セルビン(セルロイドの大きめの魚を取る道具。焼きぬか・さなぎ粉を入れるとよく魚が入った)を仕掛けた。川底の深いところも良く覚えている。

  40年以上も昔の話になった・・・

*写真(下)は『写真集・加古川』(玉岡松一郎編)より

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加古川町探訪:加古川駅(人馬引継問屋場)

2007-03-08 08:23:37 |  ・加古川市加古川町

A6f63c1a_1    JR加古川駅は、すっかり装いを変えた。新しくなる前の駅舎の入り口に向かって少し左に、比較的大きな「加古川駅」(写真)があった。

  この標柱の南面に、次の文字が刻んである。

   西国街道播磨国

   加古郡加古川駅

  加古川駅ができたのは、明治21年(1888)で、標柱はこの加古川駅のものではない。

  西国街道と言うのであるから、江戸時代のものである。

  (現在、この標柱は工事のため移動して保管されている)

  江戸時代、加古川の駅(人馬継立問屋場)は、陣屋の東隣にあった。

  とすれば、この標柱は、そこから北のどこかにあったことになるが、元あった場所は分からない。

  寺家町から日岡神社へ向かう中津(加古川市加古川町中津)あたりの道沿いにあったのではないかと想像する・・・

  7世紀、奈良と九州の大宰府を結ぶ山陽道が整備された。

  山陽道は加古川を通り、野口には「賀古の駅(かこのうまや)」がおかれた。(賀古の駅については、昨年9月29日のブログを参照ください)

  鎌倉時代には交通の要所としての駅は、野口から寺家町へ移ったようである。

E50bfbf7   特に、江戸時代、加古川の宿の人馬継立問屋場(といやば)、つまり加古川の駅は大いに栄えた。

  大がかりの輸送業務が重なったときには、戦場のような大騒ぎになったという。

  *「問屋場の風景」は、加古川宿サロンの岡田義治氏作制の「文(分)岸寺慕情図絵」より、問屋場で荷駄の引継ぎをする人足。

◇お詫び◇  昨日のブログで常住寺がプラザ・ホテルの場所から現在の場所に移ったのは昭和29年と書いたが、59年の誤りです。(今朝、誤り気がつき訂正しました)

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加古川町探訪:加古の松

2007-03-07 07:44:35 |  ・加古川市加古川町

D703cb71    『加古郡史』から、常住寺の縁起を少し拾ってみたい。

  「・・・殷賑をきわめた常住寺は、嘉禄のころ(1225~7)加古川の氾濫により堂塔・記録類は残らず流されてしまった。

  ただ、薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将だけが松の木に留まり残った。

  この松が、加古の松である」

  縁起はともかく、『播州名所巡覧図絵』にも、みごとな「加古の松」(右絵図・部分)が描かれている。絵図の常住寺の境内の大きな松がそれである。よほど立派な松であったようだ。

*図絵(部分)の制作は、加古川宿サロンの岡田義治氏。

  『加古川の昔と今(加古川の文化を語る会)』(昭和57年発行)で、M氏は、昔の思い出として「・・残っていたのは二代目です。その枝が常住寺さんから出とったんです。大きなもんでした」と語っておられる。

_373_1   二代目の「加古の松」のあった常住寺は、ブログ(本陣:2月7日)の絵図にあるように、寺家町の本陣の北の西国街道沿いにあった。

  それが、昭和26年「日本毛織」の拡張に伴い、現在のプラザ・ホテルの場所に移り、三代目の松が植えられた。

  その後、昭和59年、加古川駅前の再開発に伴い、現在の場所(加古川市加古川町本町・加古川消防署の近く)に移転した。

  常住寺は、曹洞宗の堂々とした寺院である。

  山門の横に「鹿兒枩」(加古の松)の石柱(写真)がある。その横に枝振りのよい四代目の「加古の松」が育っている。

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加古川町探訪:分岸寺川界隈

2007-03-06 08:04:16 |  ・加古川市加古川町

Fb4b559e_5

    今日も、昨日に続き、「加古川宿サロン」の岡田義治さんの絵(一部)をみたい。

(絵:文岸寺川慕情図絵)

  江戸時代の陣屋界隈の風景である。

  ブログ(本陣:2月7日、分岸寺川:8日、陣屋:12日、山陽巡行:13日)の復習をしたい。

  この絵図とあわせ、ご覧ください。

(図中の数字)

  1 人馬継立の問屋場   2 御高札場   3 陣屋   

  4 文(分)岸寺川の石橋  5 唐人薬師堂  6 芝居小屋

  なお、数字「3」の陣屋以外の施設は現在残っていない。陣屋(加古川市加古川町寺家町)は、現在の「人形の店・陣屋」ではなく、その奥にある樹悳堂(じゅとくどう)がそれである。

  なお、明治22年まで、加古郡と印南郡は、絵図の文(分)岸寺川で分かれていた。右:加古郡、左:印南郡。

  説明は以上である。余分な説明はイメージを壊す。

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加古川町探訪:加古川の渡し

2007-03-05 09:11:18 |  ・加古川市加古川町

B9a440f3_8    「加古川町探訪」は氷丘地区で足踏みをしている。少し話題を変えたい。

  江戸時代、西国街道を陣屋(寺家町)辺りからさらに西へ行くと、加古川の渡場に着いた。

  姫路城防衛のため、加古川には橋が架けられていない。渡河には渡し舟を使った。

  『加古川市史(第二巻)』に「十二景詩歌」より、加古川の渡し場の風景がある。

  なお、今日のブログの絵は「加古川サロン」(加古川市加古川町本町)の岡田義治さんが「十二景詩歌」をもとに描かれたものである。(紙面の都合で、絵はその一部)

  渡し場のそばに粗末な小屋があり、馬子や駕籠かき、そして何人かの商人が描かれている。

  この絵から、当時(江戸時代後期)の加古川の渡し場の風景が想像できる。

加古川の渡しは、あまり賑わいのある渡し場ではなかったようである。

*岡田義治さんは、外にも「加古川の宿」を描かれている。引き続き紹介したい。

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加古川町探訪:同笵鏡(どうはんきょう)

2007-03-04 10:15:30 |  ・加古川市加古川町

5cd7d567    日岡山の古墳から3枚の神獣鏡(しんじゅうきょう)が出土している。

  これら神獣鏡は「同笵鏡(どうはんきょう)」である。

  耳慣れない言葉であるが「同笵鏡」とは同じ鋳型でつくられた鏡のことで、この「笵同鏡」を研究している歴史学者は、次のように結論づけている。

  力を持った豪族が、同盟関係を結んだ印として他の豪族に与えたものである。

  従って、同笵鏡の分布状態を調べることにより当時の勢力関係が分かる。

  日岡山の豪族は、どうやら大和の豪族からこの鏡を与えられたようである。

  そうすると、4・5世紀の頃、日岡豪族は大和の豪族の勢力下にあった。

  日岡豪族にとっては、大和の豪族と同盟関係をむすぶ必要があった。

  というのは、自分たちと大和の豪族が結びつくことにより権威を高めることができる。

  そして、何よりもこの地方が攻撃を受けた時、大和から援軍を求める必要があった。

  加古川地方は、大和とそれに対する出雲・吉備地方との接点にあり、絶えず自らの軍事力を必要とした。

  日岡山の伝説には、天皇の話がしばしば登場する。これはこの地方が大和と強く結びついていたためだろうと考えられる。

*写真は東車塚古墳(加古川市加古川町大野)出土の三角縁三神二獣鏡。

 東車塚古墳は、現在の加古川刑務所内にあったが、戦前ここに弾薬庫(神野倉庫)が建設され、それにともない壊された。

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加古川町探訪:氷丘村役場

2007-03-03 07:43:57 |  ・加古川市加古川町

32fb91d0   昨年、7月8日のブログ(日岡 VS 氷丘)の一部を読んでおきたい。

  ・・・明治22年4月1日、中津村・河原村・溝ノ口村・美乃利村・平の村が合併して「ヒオカ村」が誕生した。

  この時、「日岡山」にちなみ村の名前も決められた。なぜか「氷丘」の文字を採用した。

  当時の記録は残っていない。理由は分からない・・・

  氷丘村役場は中津(右図の赤く塗った場所:中央の広い道は、県道加古川・小野線)におかれた。

  残念なことに、記録類が全く残っていない。村名が決められた経過だけでなく、その他の詳細もわからない。

  村役場の写真は、『大野史誌』(大野町内会発行)にある。

  昭和12年(1937)、加古川町と合併するまでに7人が村長を勤めた。

_351   二代村長の吉田喜代松は、明治29年から38年の間、村長をつとめ、その後県会議員に転進した。

  大野村は、彼の功績をたたえ、大正6年3月に銅像を建立した。

  しかし、昭和18年(1943)、太平洋戦争の戦事用金属として彼の像は供出され、銅像跡(写真)だけが常樂寺(加古川市加古川町大野:日岡神社の東隣)の境内に残っている。

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加古川町探訪:天之御中主神社(溝ノ口)

2007-03-02 09:56:03 |  ・加古川市加古川町

_370_1    先日、JR加古川駅のすぐ北にある神社に寄った。

  「天之御中主神社(あめのみなかみぬしじんじゃ)」(写真)とある。

  溝ノ口(加古川市加古川町溝ノ口)の人は、この神社を「妙見さん」と呼んでいる。

  私の知っている溝ノ口の「妙見さん」は、古くて、壊れそうな神社である。

  以前ここを訪ねたのは、もう約20年もまえになる。

  加古川駅の再開発にともない、ピカピカの神社に変身していた。

  これが人なら、「まあ!ずいぶん若く、綺麗になって・・・・」と言ってしまいそうである。

  神社も、周りの風景もまるで、変わってしまった。

  溝ノ口に住むNさんは、子供のころの思い出として、次のように話してくださった。

  (*以下、20年ほど前に取材した時の記録である)

  ○春・夏の祭の頃は、小学生の子どもが太鼓をかついで、その後を数人がゾロゾロ歩き、「妙見さんの祭」であることを村中にふれてまわった。

  ○夏祭りの「湯立て」では、その湯がかかると「あせも」ができないと、神主さんがササでかける湯を浴びた。

  ○毎年6月の終わりごろ、虫送りがあり、「たいまつ」を燃やして、あぜ道を間形の権現さんまで行った。

  ピカピカ」の神社の周りから、春・夏の太鼓の音が消えた。「湯立て」の人々のざわめきもない。そして、虫送りの松明(たいまつ)の光も消えてしまった。

  車だけが、排気ガスを残して走り去る。

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