『村方万事議定証(むらかたばんじぎじょうしょう)』(以下『議定証』とする)については「稲美町探訪(20)」で少し紹介していますので、お読みください。
この3月『元気まち ふるさと いなみ』(稲美町商工会)が出版されました。
それには、『議定証』について、読み下し分を添え詳しい説明があります。
再度『議定証』を紹介することにします。
きょうは、前回の『議定証』の続きで、『議定証②』としておきます。
(写真は、『議定書』の部分)
村方万事議定証
開発が大庄屋と3人の開発者の手で始まると西条組の百姓だけでなく近隣からも次々に移住してきました。
加古新村の開発が始まった万治2年(1659)から4年後の寛文3年(1663)には入村してきた人たちで一村ができあがりました。
この時149軒を数えました。
移住した百姓は、沢才兵衛・沼田喜平次・本岡治兵衛に誓約書をだしました。
これが『議定証』です。
稲美町郷土資料館に展示されていますので見学ください。
頭百姓の特権を認める
その誓約書は、次の5項目からなり、3名の百姓は、村内では「頭百姓(とうびゃくしょう)」として、特権的な地位を保証されました。
① 御公儀様より出された規則をよく守り、山林・竹林も勝手に取ったりしません。旅人に一夜の宿も貸しません。また、許可なく狩猟・漁業はしません。
② 家は、指図の図面どおり長さ5間、横3軒を守り、念を入れてつくります。
③ 田畑がまだ、開発されずになっている地は、検地までにかいたくし、年貢米は3年目より規則どおり納めます。
④ 加古新村の百姓になり、田畑を分けていただき感謝しています。その恩に報いるために、今後高に応じて村の諸役はもちろん、米銭の入用は、私たちが負担します。
もし、「私たちが困ったことがあっても、協力ください」というようなことは、決して申しません。
⑤ 旦那寺も頭百姓の旦那寺を同じとします。
第5項は、百姓は全て上西条・中西条・下村(いずれも現、加古川市八幡田町)の3か寺の檀家になるというものです。
そのため現在の稲美町加古には、今に至るまで寺院がありません。