「志方町を歩く(60):円福寺(東志方・高畑)①」を読み返しています。
満祐山・円福寺
歴史散策をしていて、ときどき「ものすごい」話題にぶつかることがあります。
「ホントだろうか?」と思うことがあるのです。
東志方町高畑の円福寺(写真)もその一つです。
円福寺の山号を「満祐山(まんゆうさん)」といいます。
ピンと来ないと方も多いと思います。
満祐は歴史書では「みつすけ」として登場する人物で、満祐の姓は赤松、つまり赤松満祐です。
もうひとつ、満祐が赤松満祐である証拠があります。
満祐の法号(戒名)は、「慈徳院殿性具円福大居士」です。
つまり、高畑の「円福寺」は、満祐の法号(戒名)から付けられています。
歴史上、満祐はあまりにも名高く「ウッソー!」とつい叫んでしまいました。
満祐は「嘉吉の乱」を起こします。・・・
詳しくは「志方町を歩く(60)」をお読みください。
前回の報恩寺(加古川市平荘町)でも赤松氏とこの地域の結ぶ付きを紹介しました。高畑の円福寺でも赤松との関係が見られます。
簡単な歴史の復習
平清盛は加古川~明石の広い地域に大功田を与えられました。やがて、平家はほろびます。
そして、平氏の領地は源氏が没収し、関東から源氏が大挙して押し寄せてきました。
中世の播磨は、平氏の滅亡とともにはじまりました。
加古川地方について、少しふれておきます。
それでも、姫路地域では旧勢力の影響は強く、源氏はなかなか姫路地方に進出できなかったようです。
そのため鎌倉時代、播磨の政治の中心地の守護所は、姫路ではなく加古川に置かれました。
やがて、鎌倉幕府は滅亡し、鎌倉武士は力を失っていきます。
建武の新政をへて足利幕府の支配する社会が出現しました。
赤松氏は、足利氏と結びつき勢力を伸ばしていきました。
その赤松氏は、軍用道路として湯の山街道を整備します。
湯の山街道は志方を貫いています。
赤松氏と志方地方の強い結びつきがありました。