ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

磐(加古川市平荘町)

2006-07-31 06:43:17 |  ・加古川市上荘・平荘町

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  今、平荘町磐(いわお)にいる。夏草の向こうに赤っぽく見える山がある。堂々とした岩山、紅山(べにやま)である。

  磐は、明治11年12月、寺谷新村と陰山新村が合併して誕生した。

  寺谷新村は元、里にあったが万治元年(1656)の水害で村が流失して、この地に移住をし開拓に当たっている。

  寺谷新村は、慶長17年(1612)、岸本市右衛門が開いた新田と記録にはある。

  ともかく、他の多くの新田村がそうであったように、江戸時代の初めの頃、その歴史をはじめた。

  その二村が、明治11年に合併することになるが、村の名前を紅山から「磐(いわお)」とつけた。単純なような気もするが、ここから眺める紅山は、どうどうとして、磐と名づけた村人の気持ちが分かる。

  最近、ミネラルをいっぱい含んだ天然水の噴出している場所がみつかった。遠くからも多くの人が来られる。お茶・コーヒーに最適だそうである。今日も、喫茶店の方がこられていた。  

*写真は紅山(べにやま)

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滝 瓢水(たきひょうすい)

2006-07-30 08:49:32 | 加古川市

_007  滝瓢水(1684~1762)は風変わりな俳人ある。彼は加古川の別府に生まれた。

  別府にある瓢水(ひょうすい)の生家は、叶屋(かのうや)という船問屋で、彼が家を継いだときは富商であったが、瓢水の代になって、急速に零落した。

  それもそのはずである。彼は、家業を人任せにして京・大阪に遊んだ。地所や持船は、いつの間にか、人手に渡り、親類からも見放されたという。

  しかし、俳諧には、ますますのめりこんだ。彼の俳諧には、底抜けの明るさと機智そして善意がある。ここでは、広く知られている彼の俳諧を三首紹介しておきたい。

       手に取るな やはり野におけ れんげ草

       * Don't pick chinese milk vetches. Since their bloom are more beautiful when left in the field. (He advices not to marry with geisha girl.)

     浜までは 海女も蓑着る 時雨かな

      * A woman diver also has a straw raincoat, and she takes care not to get wet in the rain as she goes to the beach.

      さればとて 石に布団は 着せられず

      * We cannot hang bedding on the gravestone.  (We should show filial piety while our parents are living.)

  彼のエピソードは多い。後日取り上げてみたい。なお、蛇足ではあるが、意味を下手な英訳にしてみた。読んでいただければ幸いである。

*写真は、別府の宝蔵寺にある瓢水の句碑。

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加古川線・中津駅

2006-07-29 07:43:04 | 加古川市

5ed71a3d  「播州鉄道」は、大正2年(1913)に加古川~西脇間で開業した。

  開業後、まもなく経営は困難になり、第一次世界大戦後の不況が、さらに追い討ちをかけた。

  大正12年(1923)、経営陣はかわり、名称も「播但鉄道」として、再スタートをきった。

  この頃から利用者も増え、経営も順調にのび、地域の重要な足となった。

  時代は太平洋戦争に突入し「播但鉄道」は国有化され、国鉄・加古川線となった。その後、民営化され現在にいたっている。

  「氷丘小学校60周年記念誌」に、播州鉄道の時代、氷丘小学校脇に中津駅があったことを取り上げている。

  「播鉄(播州鉄道)は、よく列車の故障がありました。当時、学校脇に中津駅というのがあって、学校の汐干狩の時だけ停車しました。この駅で降りるのは、氷丘小学校の先生二人だけだったんです」とA氏は話しておられる。

  当時の、のどかな風景が浮かぶようである。

  中津駅について、加古川駅に問い合わせところ、調べてくださった。駅があったことは確認できたが、それ以上のことは、分からなかった。さらに、調べてみたい。

*絵は娘が書いてくれた。

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井ノ口村(加古川市上荘町)

2006-07-28 08:28:33 |  ・加古川市上荘・平荘町

_097  上荘町の井ノ口に伝承がある。

  奈良の平城京に都が定められた頃、都では役人の衣を染める綺麗な水がなかった。

  そんな時に、播磨の「堤(村)」の井戸で、よい水が見つかり、綺麗に染めることができた。そして、清水が流れたところを水泥(みぬま)といった。

 *水泥・・・「みどろ」と読めないだろうか。

  元明天皇は、これを感謝して、「あい(藍)にあふ 井ノ口の清水 なかりせは 都の衣 いかて 染めまし」という歌をつくられたというのである。

  井ノ口の伝承では「井ノ口は清水が涌き出る地であり、堤(ツツミ)から都染(つそめ)が、また、ミヌマから見土呂(みとろ)と呼ばるようになった」としている。

  話としては、面白いが、井ノ口の「井」は、やはり井堰の井であり、井ノ口は川からの水の取り入れ口と考えるのが自然である。

  その「井ノ口」から取り入れた水が流れたところが深泥(みどろ)であり、水路のある場所か湿田そのものを意味したのではないだろうか。

  東神吉町にも「井ノ口」がある。明治の初めの頃までは、加古川に二つの井ノ口村があった。東神吉町の井ノ口村は明治11年7月に近隣の2村と合併し新しい井ノ口村になったが、上荘に同じ名前の井ノ口村があるため、翌年10月名前を西井ノ口村に変えている。

*写真は「都染の清水(井ノ口の清水ともいう)」のある場所。昨日(7月27日)行ってみたが、夏草に覆われ、清水は確認できなかった。写真の木がある所に井戸があるとのことである。近所のお年寄りに確かめると、現在、井戸の石の枠はあるのだが、井戸そのものは、土に埋もれているとのことである。草の枯れた冬にもう一度出かけてみたい。

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ボーダーの地域・加古川

2006-07-27 07:54:54 | 加古川市

_050_1   律令制度下で、直接に都の勢力が及ぶ範囲を畿内といった。

  大和(奈良)・河内・和泉・山城(京都)・摂津がそれである。

  播磨は摂津に接しているが、畿内ではない。播磨はボーダー(接点)の位置にあった。

  律令制度に先立つ古墳時時代、播磨の石棺や古墳からの出土品は畿内と似ており、明らかに西日本のものとは異なっていた。

  この時代は、播磨は畿内の勢力下にあったが、都からは周辺部である。

  この位置にある地域は、常に緊張した政治的状況にさらされていた。自らを維持するためには、湧き上がるエネルギーを必要としたのである。

  加古川地方は、古代より都の勢力と結びつきの強い地域でありながら、四国・吉備(岡山)の勢力と対峙する場所にあった。

  都にとって加古川地方は、自らの安全を守るための最前線であった。

  加古川地方の有力者は、自らの権威を高めておくために、また、戦闘の場合は援助を求めるために、中央との結びつきを求めたのである。

  加古川は、鄙(ひな)の場所では決してなかった。

*写真は加古川のながれ。古代より加古川あたりがボーダーの地域となった。

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石棺仏(せっかんぶつ)

2006-07-26 09:55:25 | 加古川市

_040   加古川には不思議な石仏がたくさんある。石棺に刻まれた仏像、石棺仏である。

  これらの石棺仏は鎌倉時代から、室町時代にかけて多くつくられたが、その後はプッツリと姿を消した。

  鎌倉時代は、水田の開発が盛んで、土地が新たに開墾された。この時、多くの古墳もこわされた。

  出土したした石棺は、「手軽な材料?」として仏像をつくる石材として再利用された。

  しかし、単なる廃物利用ではなさそうである。当時の人々も、この石材は、死者を葬った石棺であることを意識していた。

  これらの石棺仏は全国で120基ほど確認されてるが、その八割が加古川市、加西市に集中している。その理由は、分からない。後の2割も、この地方と関係がありそうである。

  加古川市・加西市では、普通に見られる仏像であるが、大変珍しいものである。

*写真は、戦国期の神木(こうぎ)構居跡(加古川市平荘町)にある石棺仏

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私説:志方城の戦い

2006-07-25 09:30:40 | 加古川市

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  戦国時代、加古川地方の城主は、ほとんど毛利に味方した三木方につき、信長・秀吉方と戦った。

  まず、野口の城が落城した。神吉城が信長方の大軍に押しつぶされた。その後、信長軍は志方城へ攻め寄せた。その時の様子は、よく分からない。  

  志方城主・櫛橋伊則(くしはしこれのり)は、戦わずして落城したという説がある。

  また、志方城には1.000余騎が立て籠もり、勇敢に戦い8月10日、小城にもかかわらず20日間も抵抗し降伏したという説もある。

  志方城に先立つ神吉城の戦いでは、織田方の30.000の軍勢に押しつぶされ、城主(神吉頼定)も討たれた。この時、近隣の城からも、三木方からの援軍もなかった。神吉城の戦いに先立つ、野口の戦いでも援軍はなかった。 *天正6年(1578)

  志方城の戦いでも援軍は期待できなかった。負け戦は確実であった。唯、戦うとすれば「勇敢に戦ったという事実を歴史に残す」という美学だけが支えの戦争になる。

  志方城がそんな美学だけで、戦ったとは思えない。第一に、城主・伊則の娘は、敵の知将・黒田官兵衛の妻である。当然のこととして、説得はあったと思える。

  志方城は、戦わず落城した可能性が大きい。もし、激しい戦があれば、歴史にその事実を残しているが、志方城については、そんな話はない。

  これは、私の勝手な解釈である。

*写真は、志方城のあった観音寺(志方町)。城であった痕跡は、ほとんどないが、観音寺の山門脇の石垣の前に内堀跡がある。

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加印地方(加古郡と印南郡)

2006-07-24 09:12:45 | 加古川市

5a8ac8fd   現在、加古川市の中学生が使っている社会科(歴史)の教科書の一部を読んでみたい。

  ・・・・(奈良時代)地方は国・郡などにわけられれ、国には都の貴族を国司として派遣し、郡には地方の豪族を郡司に任じて、人々を治めさせました。・・・(p30)

  加古川地方において、国とは「播磨の国」であり、郡は加古郡と印南郡(いんなみぐん)である。

  この時、郡の境は、加古川の流れを基準とされた。つまり、加古川の東側を加古郡、西側を印南郡としたのである。

  私たちの地方は、川を挟んで、加古郡と印南郡とからなっており、加印地方と呼ばれ、一つの文化的、経済的地域を形成してきた。

  しかし、加古川は天下の暴れ川であった。洪水は、幾度となく川の流れをかえ、郡境と加古川の流れが、その都度一致しなくなった。

  地図は元禄播磨絵図である。川東の加古川村・木村村・友沢村・稲屋村は印南郡に属している。なにかと不都合が生じた。

  明治22年2月22日、印南郡に属していた加古川町、西河原村、友沢村、稲屋村、木村の一町四村が、地理的な関係から加古郡に編入した。

  その、印南郡も昭和52年、印南郡に最後まで残っていた志方町が、加古川市と合併し、奈良時代に誕生したその郡名も消滅した。

*図の「元禄播磨絵図」には、西河原村が出てこない。そして、高砂町あたりの郡境は少し不自然である。この課題は、後に考えたい。

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加古川震える(南海地震)

2006-07-23 09:47:53 | 加古川市

D0209654   突然の地震は昭和21年12月21日の早朝に発生した。死者は、1、300人をこえた。

  潮岬の沖合いを震源とするマグニチュード8.2の巨大地震・南海地震である。

  この時期、日本は敗戦により占領されていおり、マスコミの自由な報道も禁止されていた。

  そのためか、地震の被害・規模が大きかったにもかかわらず詳しく報道されていない。

  ある新聞は、加古川地方のようすを次のように伝えている。

  「・・・21日早暁、突如、加印(かいん)地方(旧:加古郡・印南郡を含む地方)を襲った強震は空前のもので、何れも戸外に飛び出し、酷しい寒気と異常な恐怖に震えつつ夜の明けるのを路上に待ったが、調査の進むにつれ損害は意外に大きく、加古川町では居屋河原町(いやがわらちょう)の洗濯業・入江源栄さん(40)、寺家町一丁目小間物商・三木さんの隣家の白木栄太郎さんが見るも無残。・・・」

  この時の南海地震のエネルギィーは、すべて放出されていないとのことである。最近、さらに大きな、次の南海地震が近いと、さかんに報道されている。

*挿絵:娘が描いてくれたもの

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首都・加古川(幻の遷都論)

2006-07-22 07:45:45 | 加古川市

67265c44   大正12年(1923)9月1日、東京を中心に未曾有の大震災がおきた。政府の一部に、壊滅した首都を東京以外の場所に移そうとする遷都論がおきた。

  「今村均・回顧録」(当時の参謀本部少佐、後に陸軍大将)によれば、国土防衛上の観点から首都移転を極秘に検討し、加古川の地を候補地の一つに挙げている。

  加古川が候補にあげられたのは、第一に災害が少ない地域であるということであったが、その他に「中国大陸への侵略に備え、日本の首都を西に移すべきである」との考えがあったようである。

  候補地として、加古川の他に八王子(東京都)はともかく、ソウル(韓国)が、あげられている。

  「遷都(八幡和郎著)」」(中公新書)では、加古川への遷都の理由を次のように述べている。

  「・・・(首都の候補地は)兵庫県加古川の平地である。歴史上、大地震にみまわれたこともなく、水資源も量・質ともに条件がよい。防空という観点からも理想的である。商工業都市としての機能は、阪神に任せ、皇室、政府機関、教育施設のみを移し、ワシントンをモデルに設計する・・・」

  この遷都論は、やがて各方面にもれ、動揺が起こり、立ち消えになった。

  加古川の地は、他にも一度首都の候補にあがったことがある。後日紹介したい。

*写真は、関東大震災での、日比谷の惨状

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養老(加古川市平荘町)

2006-07-21 11:19:24 | 加古川市

302921cd   右の地図で、「養老(ようろう)」を探して欲しい。江戸時代「養老村」はなかった。

  明治10年に新しく誕生した村である。村名のつけ方が、珍しい。

  「かこがわ万華鏡」(岡田 功著)から、引用してみたい。

  「明治10年12月、印南郡芝村と同郡中村が合併に伴い新しく設定した地名である。命名にあたって芝村の有力者・滝氏にちなんでいる。・・・・」

  それにしても、個人の名前にちなんだ村名とは珍しい例である。

  最近は、あまり語られなくなったが、昔は滝といえば華厳の滝、那智の滝と並んで、養老の物語が、すぐに思い浮かんだものである。

  「・・・貧しい百姓の孝行息子は、父に酒を飲ませたかったが、買う金がなかった。ある日、苔むした岩から(養老の)滝つぼに転落した。気がついたら滝の水が酒に変わっていた。老父は、この不思議な酒を飲み、すっかり若くなった。奈良の都の元正(げんしょう)天皇は、この話を聞き、年号を養老とした」という物語である。

  中村・芝村の人は、こんな親孝行と滝家を重ねて村の名前にしたのかもしれない。

*地図は、「兵庫県市町村合併史」参照

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山陽鉄道(現:JR山陽線)開通

2006-07-20 09:05:58 | 加古川市

7c9dd1dd   明治21年に開通した山陽鉄道(現:JR山陽線)は、最初から加古川を通るように計画されていたものではない。

  当初は、東二見(明石市)・高砂・飾磨(姫路市)・網干(姫路市)の海岸線を通過する予定であった。

  高砂は、当時海運業を中心に発展した町で、彼らを中心に「鉄道敷設」に反対した。理由は、鉄道が敷かれること海運が衰えるというのが主な理由である。

  その結果、海岸に予定されていた鉄道は、加古川の町を走ることになった。

  そして、大正2年(1913)加古川線・高砂線が開通し、今まで高砂に集まっていた物資が、加古川の町に集まるようになった。

  鉄道を拒否した高砂の町の商業の衰退は決定的になった。町は、工場誘致に活路を見つけることになる。

  ここで注目したいのは、「一般的に高砂への工場誘致の条件は企業側に有利に進められた」ということである。

  やがて、高砂の町からの浜は企業のものになっていった。海岸については、加古川も他人事ですまされない・・・・

*写真は最初の加古川駅(大正8年に改築された)。「加古川・高砂の100年」(郷土出版社)より

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築山(その2)

2006-07-19 15:06:44 | 加古川市

_052   今週は、激しい雨が降り続いている。午前中、兵庫県南部に大雨警報がでていた。昔なら、こんな時は、洪水の心配をした。

  特に、国包のあたりは、しばしば大洪水を経験している。

  特に、鎌倉時代の嘉禄(かろく)元年(1225)の大洪水は、すさまじく、国包村の東を流れていた加古川が村を全滅させ、河原にしてしまった。

  昨日、このブログで取り上げた、ムクとエノキが目立つ場所は、高さ3メートルあまりの小高い丘になっている。

  地元では「国包の築山(くにかねのつきやま)」と呼ばれ、洪水の時の避難場所である。

  築山(つきやま)は、宝暦6年(1756)、国包出身の長浜屋新六郎という人物が、加古川の洪水で毎年のように被害にあっていた住民の避難場所として私財を投げ出して築いた丘だと伝えられている。

  大正から昭和にかけて行われた加古川の大規模な改修以来、この地域は、やっと大きな洪水からまぬがれている。

  昔は、洪水の避難場所であったが、今は子供の遊び場所であり、信仰の場所として、社(築山神社)におまいりに来る人も多い。

* 写真は築山とエノキ・ムクノキ

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築山(その1)  エノキ・ムクノキ

2006-07-18 16:08:27 | 加古川市

_176   築山に来ている。この人工の小山は、上荘町国包(くにかね)にある。上荘町というのであるから当然、昔は加古川の西にあったのであろうが、洪水によって加古川の流れが変わり、一部が加古川の東岸に上荘の名を残こすことになった。

  江戸時代、洪水の避難場所として、この築山は築かれた。築山については、明日あらためて、このブログで取り上げたい。今日は、この築山にある大木の話である。

  近くから見ると、一本のように見えるこの木は実は二本のエノキが一本のムクノキを両脇から包み込むような形で成長している。

  三本あわせた木の周囲は約7メートルにもなる。がっちりと築山をつかむ根の一部が地上をはい、頼もしく見える。

  樹齢は240年ほどで、市内では唯一の天然記念物に指定されている。

  三本の木を築山の中心部に植えた理由はわからない。しかし、洪水の時、目印になったことは確かであろう。あるいは、この築山まで水がきた時に、つかまれるように植えられたのかもしれない。

  ムクノキとエノキは築山にある築山神社の神木ではない。あくまで、実利から植えられているようである。

  戦前まで、この木を囲んで盆踊が行われたという。

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間形(まがた)・美乃利

2006-07-17 09:06:27 | 加古川市

F5967b69   右の地図は、元禄播磨国絵図(部分)を分かりやすく書き直した地図である。

  この地図で、大野新村と間形(まがた)を見つけて欲しい。

  大野新村は名前が示すように、大野から分かれて独立した村である。正保播磨絵図には出ていない。

  別の史料では、明暦2年(1656)に大野新村は、大野村から独立したとしている。大野新村は、一般的に「しむら」と呼ばれていた。

  時代は明治に代わり、多くの村で合併が行われてた。明治9年(1876)、大野新村は、この時、理由は分からないが大野村と合併せず、間形と合併し、村名を「美乃利(みのり)」とした。

  従って、行政的には、大野新村・間形村の呼称はこの時消え、美乃利となった。

  しかし、昭和45年・加古川バイパスが美乃利の中心を通り、美乃利を南北に分断した。そのため、バイパス南部の住民は、間形の名前を盛んに使うようになった。

  くりかえずが、行政的には現在、間形は存在しない。

*正保時代(1644~1648)

*元禄時代(1688~1704)

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