ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(134) 文観を追え(11)・真言律宗の足跡(3)・道智は東大寺戒壇院の律僧

2018-03-31 07:53:16 | お爺さんが語る郷土の歴史

     常楽寺の宝塔

 常楽寺の墓地にある宝塔も材質(花崗岩)、様式等から伊派の手による石造物であることは確かです。

 この宝塔について少し説明を加えておきます。

 この宝塔について『加古川市の文化財(加古川市教育委員会)』(昭和55年)に次のような説明があります。(文章は変えています)
   (常楽寺宝塔)
  花崗岩製
  高さ   2.35メートル
  銘文  正和四年(1315)乙卯八月 日 
  願主  沙弥道智

 この塔は、通称・文観上人慈母塔と伝えられ、文観(もんかん)が常楽寺中興として存在の時、慈母をここ葬ったと『播磨鑑』は伝えています。

   道智は東大寺戒壇院の律僧

 『播磨鑑』の著者、平野庸脩(ひらのようさい)は何をもとにしてこの銘文を書いたのでしょう。

  また、塔身の銘文「願主道智」をどのように解釈すればよいのでしょうか。

   『播磨鑑』が書かれたのを元禄時代(1688~1704)としても、「文観慈母塔」の造られた正和四年(1315)とは、およそ400年を経ています。はっきりしたことは分からなくなっていたのでしょう。
 『播磨鑑』の説をそのまま信じるのは少し強引です。
 今まで宝塔の銘・願主「道智」は、謎の人物とされてきました。

 それは、道智は西大寺直属の律僧であると決めつけて研究されてきたようです。道智は見つかりませんでした。

 ところが、兵庫大学の金子先生(中世史)は,律宗は他の律宗系列とも関係しており、東大寺戒壇院の僧・凝然(ぎょうねん)の「円照上人行状」に道智を発見されています。

 そこには「・・・道智は、常陸の人、本(元)忍性上人之門人・・・」と書かれています。

 忍性の師は叡尊です。とすると、道智は、もと西大寺系の律僧だったようです。

 常楽寺の宝塔が造られた正和四年(1315)の文観は後醍醐天皇と大接近をしていた時でした。(no3412)

 *写真:常楽寺墓地宝塔(写真中央)

 ◇きのう(3/30)の散歩(11.057歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(133) 文観を追え(10)・真言律宗の足跡(2)・伊派石工集団

2018-03-30 08:54:05 | お爺さんが語る郷土の歴史

      伊派石工集団

 後に詳しくしょうかいしますが、常楽寺の墓地に立派な宝塔があります。

 加古川近辺は石の産地であり、石造物はそれらの石を材料とするのが普通です。

 近辺で産出する石は、凝灰岩でやわらかくて細工がしや石材です。

 したがって、安価で製作することができます。

 しかし、常楽寺の宝塔は、凝灰岩ではありません。硬い細工の難しい花崗岩を材料とした宝塔です。

 常楽寺の宝塔や報恩寺の層塔・五輪塔(写真)はも花崗岩で造られています。他所で完成させ、ここに運ばれたものと想像されます。

 これらの宝塔・十三重の層塔・五輪塔は、ともに西大寺の石工集団伊派の製作による石造物といわれているのです。

 当時、硬い花崗岩に見事な細工を加工する技術を持った石工集団は、西大寺の石工集団より他に見つけることはできません。

 報恩寺(加古川市平荘町山門)の五輪塔(写真)について、『加古川市史(第一巻)』を読んでおきます。

 ・・・・五輪塔の作者は大和伊派(いは)の名工、伊行恒(いのゆきつね)であるという、・・・・伊行恒は、大和を根拠地にしながら、摂津の御影を中心にその活躍が知られている。

 その伊派の石工たちたちが深く関係したのが、大和の西大寺の叡尊(えいぞん)・忍性であって、叡尊・忍性が「殺生禁断」の記念碑として各地に建立した十三重の塔は、すべて伊派の石工たちが刻んだものであったとこともよく知られている。・・・・(『加古川市史・第一巻』より)

 以上は、花崗岩でつくられた報恩時の石造の説明ですが、研究者によれば常楽寺の宝塔も、形式などからも伊派の石工による作品として間違いがないと指摘しています。(no3411)

 *写真:報恩寺の五輪塔

 ◇きのう(3/29)の散歩(12.172歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(132) 文観を追え(9)・真言律宗の足跡(1)・石造物にみる

2018-03-29 07:30:06 | お爺さんが語る郷土の歴史

    真言律宗の足跡(1)・石造物にみる(1)

 西大寺は、創建されたのは奈良時代ですが、当初は、興福寺や薬師寺を越える壮麗な寺院でした。

 しかし、称徳天皇が亡くなり、道鏡が東国へ左遷されると、西大寺に対する関心はうすれ、平安時代には衰退の一途をたどりました。

 鎌倉時代には、所有していたすべての荘園を失いました。これを再生したのが叡尊(1201-1290)です。

 叡尊は、当時の戒律を守らない、特に浄土系の僧侶・人々(庶民)のあり方に疑問をもちました。

 西大寺に住み、深く戒律を学びました。

 西大寺に住んで10年が過ぎたころ、叡尊は仲間とともに誓いを立てました。

 お釈迦さまの弟子として、生まれ変わっても、浄土へは行かず、かつてお釈迦さまがしたように、諸仏の救いからもれた人々を救いたい。

 そのためには、地獄の苦しみも忍ぼうと叡尊は述べています。

 真言律宗男寺院の活動は、多方面に及びました。

 第一は「戒律を守る」ことにあることは当然です。

 その他、貧民・人非・らい患者の救済にも取り組みました。

 また、幅広い技術集団を抱え、道路・橋・泊・港の整備などを行いました。つまり、当時のインフラ整備のエキスパート集団を抱えて活動しました。

 中でも西大寺系の石工集団は「伊派」とよばれ、優れた石造太を多く残しています。

 特に加古川近辺では数々の伊派の石造物が残されています。

 それでは、西大寺系の技術集団の足跡をたどることにしましょう。

 ここでも文観の影を垣間見ることができます。(no3410

 *写真:叡尊(西大寺蔵)

 ◇きのうの散歩(.12.037歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(131) 文観を追え(8)・西大寺の一大拠点・加古川

2018-03-28 07:00:32 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

    西大寺の一大拠点・加古川

前号の加古川地方の真言律宗の西大寺系の寺院をもう一度確認しておきましょう。

        ◇西大寺直参末寺

  加古川市加古川町大野  常樂寺 

  加古川市加古川町本町  常佳寺( 元は寺家町)

  加古川市平荘町山角   報恩寺

  加古川市尾上町     成福寺(不明)

    西大寺流寺院

  稲美町中村       円光寺(元は国安)

  加古川市加古川町稲屋  福田寺

 13世紀の半ば頃より西大寺を拠点とする律宗の活躍が活発になり、14世紀になると全国に西大寺の末寺が広まりました。

 西大寺は社会事業を活発に推し進めました。

 それらは、寺院の修復であり、道路や橋、泊、港の整備であり、庶民への布施でした。

 この真言律宗の活動については、次号から少し取り上げることにします。

 これらの活動により、西大寺系律宗がますます活動は広まっていったのです。

 なお、報恩寺のある平荘町は、当時、印南荘屏村といい西大寺の中でも重要な荘園でした。

 つまり、加古川地方は西大寺の一大拠点だったのです。

 文観は、西大寺に入り受戒しています。(no3410)

 *写真:報恩寺(加古川市平荘町山門)

 ◇きのう(3/27)の散歩(14.713歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(130) 文観を追え(7)・西大寺末寺

2018-03-27 06:50:43 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

     西大寺の末寺

 前号では、大野(加古川町大野)の常楽寺とのつながりを見ました。

 今日の報告は、1月27日の氷丘公民館地域学講座で報告された、兵庫大学の金子教授の報告からです。

 私たちの地域では、西大寺の末寺は常楽寺だけで張りません。

 西大寺の末寺帳には次の4寺が挙げられています。

  ◇西大寺直参末寺

 加古川市加古川町大野  常樂寺 播磨の筆頭末寺。播磨の末寺を管理する。

 *西大寺直参末寺の中でも、最も格が高いグルーブに入る。

 加古川市加古川町本町  常佳寺 元は寺家町

 加古川市平荘町山角   報恩寺

 加古川市尾上町     成福寺(不明)

 続けて、金子先生は西大寺流の寺院として次の2寺を指摘されています。

  ◇西大寺流寺院

 稲美町中村       円光寺(元は国安)

 加古川市加古川町稲屋  福田寺

 

 加古川地域は、真言律宗西大寺とつながりが特に強固な地域でした。

   次号から、真言律宗が私たちの地域に果たした役割を見ていきたいのですが、私たちの地域では天台律僧も活躍もしています。

 天台律僧の活躍については、さいわい『室町お坊さん物語(田中貴族子著)』(講談社新書)がありますのでご覧ください。

 律僧(鎮増)の目を通した加古川地方(米田)の水害のようすなども書かれています。(no3409)

 *写真:西大寺

 ◇きのう(3/26)の散歩(11.223歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(129) 文観を追え(6)・ 常楽寺は西大寺系の真言律宗の寺院

2018-03-26 08:15:48 | お爺さんが語る郷土の歴史

     新仏教と旧仏教

 鎌倉時代、地震・飢饉・戦争は引き続きおき、その上に重い税金が課せられたのです。

 人々の生活は、厳しさを増し、まさに末法の世のようでした。

 人々は、仏様に救いをもとたくなります。

 この時代、法然・親鸞といった新しい考えの宗教家がキラ星のように誕生しました。そして、「浄土(極楽)」の教えを広めようようとしたのです。

 それも、厳しい修行は必要でなく、一心に仏様にすがれば、極楽に往生できるという教えでした。

 この浄土教の教えは、すさまじい勢いで広がろうとしました。

 当然、既成の宗教と争いがおきました。

    常楽寺は西大寺系の真言律宗の寺院

また、旧仏教側にも反省が起きました。 

 「お釈迦さまが一番大切にされたのは戒律(かいりつ)を守ることである。もう一度、いまの時代に呼び興こそう」という声が高まりました。

 信者は「戒律」を守ってこそ人ば救われるとする教団が真言宗・天台宗を中心にして創設されました。

 特に、真言宗から規律(律)を大事にする声が上がり、奈良の西大寺を再興した、叡尊(えいぞん)を中心にして真言律宗がつくられました。

 真言律宗は、中学校の歴史にはあまり登場しませんが、時代に大きな影響をあたえました。

 永仁3年(1295)、文観は西大寺に入り受戒(真言律宗の僧としての戒名をもらう)しています。

 この時の戒名は「殊音」でした。

 大野(加古川町大野)の常楽寺は、この西大寺系の真言律宗の寺としてさかえていったのです。

 ここに、文観(殊音)・西大寺・常楽寺のつながりができてきました。(no3408)

 *写真:常楽寺

 *きのう(3/25)の散歩(11.095歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(128) コーヒータイム:文観を紹介していますが・・・

2018-03-25 07:13:12 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

       コーヒータイム

     文観を紹介していますが・・・

 いま、「文観(もんかん)」をとり上げていますが、このあたりで、少しコーヒー・タイムにしましょう。

 

 文観って誰という人がほとんどではないかと思います。

 歴史上、文観、後醍醐天皇の影の人として活躍しています。

 そして、日本の歴史を大きく動かしました。

 でも、不思議なことに、いままで文観と加古川のつながりに関してはほとんど紹介されていません。

 最近ようやく明らかになりつつあります。

 また、文観については、「分からないっことだらけ」でした。

 「ひろかずのブログ」でも、文観を紹介したいのですが、何せ歴史学者でも困難な仕事を素人が手に負える課題ではありません。

 出来ることは、研究者の成果をかじり、それに想像を加えて紹介する方法です。

 当然とんでもない、間違いをしでかすとおもいかす。でも、私には強みがります。

 「素人」ということです。それも、誰も知らない素人です。

 したがって、あまり影響力がありません。間違っていたところで「ごめんなさい」とあやまればよいと居直ることができます。

 専門家(学者)であれば、そうはいきません。

 そのつもりでお読みください。

 とはいうものの、出来るだけのことはして、あとは皆さんに訂正していただきたいと考えています。

 そして、少しはましな文観像を作り上げ、加古川発の歴史として広く紹介したいのです。

 すっきりした筋ににはならないと思いますが、ご了解ください。(no3407

 *挿絵:文観のつもり

 ◇きのうの散歩(11.235歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(127) 文観を追え(5)、文観・加古川で誕生(2)

2018-03-24 08:47:29 | お爺さんが語る郷土の歴史

 文観は、北条の法華山一乗寺の僧侶であり、そこから奈良の大寺に移り後醍醐天皇の保護のもとで大活躍した人物であり、当然、北条で誕生した人物であると思い込んでいました。

 『加西郡誌』を読んでみます。

   文観、『加西郡誌』より

 *以下は、文観を説明した個所の最初の部分の記述です。

  文観僧正は、我が郷土(加西市)から出た人物中の傑物である。

 ・・・・また、その革命家的素質はよく後醍瑚天皇を助けて、北條氏からの政権奪還の計画を(一時)成功させました。

 そして、鎌倉末期の仏教美術家として絶大の手腕を揮うたことは、遺品によって明らかに証明されています。

 文観僧正については多くの書物で見ることができます。

 太平記には「文観僧正は、元は播磨国、法華寺(一乗寺)の住僧で壮年の頃より、醍醐寺に移つり、東寺の長者、醍醐寺の座主に任命され・・・」と書いています。(文は、少し読みやすくしています)

          文観・加古川に生まれる

 どこにも、北条(加西)生まれと書いていません。

 最近の網野善彦氏を中心とする研究では、文観の生まれは加古川市大野であるしています。

 「北条」の件ですが、中世、大野あたりは北條郷でした。「北条」と言えば加西の北条がよく知られているため加西と思い込みがちですが、加古川の北條郷を指していました。

 最近では、文観は加古川の北條で生まれたとされています。

 『真言立川流(黒須紀一郎著)』という大衆小説でも「文観加古川誕生説」で書かれています。

 小説ですが、少しだけ読んでみます。

 ・・・播磨加古郡国氷村大野(兵庫県加古川市大野)は、加古川に沿ってひらけた村である。川はやがて播磨灘に注ぐ。

 文観は、この村で生まれた。弘安元年(1278)のことである。・・・

 再度のお断りですが、上記の記述は小説です。

 それにしても、文観加古川誕生説は広く認識されてきているようです。(no3406)

 *写真:北条の一乗寺

 ◇きのう(3/23)の散歩(11.143歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(126) 文観を追え(4)、文観・加古川で誕生(1)

2018-03-23 07:00:02 | お爺さんが語る郷土の歴史

     文観は、加古川の大野で生まれる

 以前、私は「文観」というとチョットいかがわしい怪僧であり、てっきりその生まれは、「加西」で、一乗寺で研鑽をした僧侶ぐらいに思っていました。

 そしてそれ以上に深く考えませんでした。

 

 それが入門書ばかりですが、中世史の碩学、網野善彦先生の著書を読んでいると、「文観は加古川市加古川町大野の出身で、大野の常楽寺で研修を始めた」と思えてきました。

   文観の誕生日:弘安元年(1278 )1月11日

 また、昭和29年度氷丘公民館地域学講座(1/27)で、兵庫大学教授の金子哲教授が「日岡の文観」で講義をされました。

 その講義からきょうは、次の史料を紹介します。大切な史料ですから掲載させていただきますが、少し読みづらいので飛ばしていただいてもかまいません。

  (史料1)

 宝連 「瑜伽伝灯商省」第九巻第二十九法務大僧正弘真条

 第廿九伝法務大僧正弘真  号小野僧正一長者座主 酉酉座主

 左大臣雅信公十三代後胤大野源太夫重貞孫也、播州人也、弘安元年

 戊寅正月十一日乙未鬼宿金曜辰初分誕生、非母可生孝子、祈誓如意

 輪白衣二尊、(後略)

  〈史料1〉からわかること

 この史料は、文観の直弟子の宝蓮の書いたもので、史料は信ぴょう性が高いと思われます。

 ◇「弘真」は、文観のこと。

 ◇お爺さんは、大野源太夫重貞、

 ◇文観の誕生は、弘安元年(1278 111日。(母に関しては、「非母可生孝子」と記しています。何か事情があるようですが、今のところはこのままにしておきます。父に関しては不明です。)

 ◇名前から想像されることは元関東(武士)だったようです。

 ◇文観は播州の人

 史料によれば文観は「播州の人」であり、名前を「大野」であるところから、加古川の大野の人であることが推察されます。

 でも、今日の史料だけでは、正確なことは分かりにくいのです。 

 が、少し文観の輪郭が現れ出したようです。(no3405

 *写真:常楽寺山門

 ◇きのう(3/22)の散歩(10.453歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(125) 文観を追え(3)、文観ってだれ?

2018-03-22 07:34:15 | 中道子山城(志方の城山)

 最近読んだ本に、いずれも入門書ですが『日本の中世に何が起きたか』(日本エディタースクール出版部)、『日本の歴史をよみなおす』(ちくま学芸文庫)、『異形の王権』(平凡社)があります。いずれも網野善彦氏の著作です。
 それに、『歴史の主役たち(永井路子著)』(文芸春秋)も読みました。
     文観(もんかん)ってだれ?
 中世に関する本を読みだしたのは、郷土の歴史散策をしていて、虫歯が急にうずくように「文観」のことが気になりだしたからです。
 文観は、加古川市出身らしいのです。
 文観は、日本史を動かした後醍醐天皇のブレーンです。

 でも正直なところ、「文観ってだれ?」といわれる方も多いと思います。
 文観・後醍醐天皇について、もう少し紹介しましょう。
     文観・後醍醐天皇

 永井路子さんは『歴史の主役たち』で次のような文章を書いておられます。
 ・・・・「最近歴史ブーム」なのだそうだが、中で南北朝の一時期だけは、まったく人気がない。
 これは戦争中に日本人が、いやというほど叩きこまれた皇国史観の後遺症なのだろうが、私(永井路子さん)はいま、この時代に大いに興味を持ち始めている。
 単なる昔の歴史を懐かしむという意味ではなく、いや、むしろそれとは反対の意味でだが、むしろそこをはっきり見つめなくては、戦前戦後を含めた現代の日本の諸問題をみすえることはできないのではないか。という気さえしているのだ。・・・・
   
時代を変えた南北朝時代
 永井路子さんが上記の文章を書かれたのは1990年で、最近は、少し事情は改善され南北朝時代の研究も進んでいます。
 当然です。南北朝時代・応仁の乱の時代は、日本の古い社会こわし、近世の扉をこじ開けた時代でした。
 日本史でこの時代は、ものすごい意味のある変革の時代でした。
 その南北朝時代の中心に居たのが後醍醐天皇であり、そのブレーンの一人が文観です。

その文観が加古川市と関係をもっているとすれば、住民としては興味をもたざるを得ません。
 この詳細を全国に発信せざるを得ません。(no3404)
  *写真:後醍醐天皇(京都・大徳寺蔵)

 ◇きのう(3/21)の散歩(10.817歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(124) 文観を追え(2)、内藤湖南

2018-03-21 07:40:12 | お爺さんが語る郷土の歴史

    内藤湖南

 以下は、大正時代、京都大学の内藤湖南市の発言です。彼の著作『日本文化史研究』(講談社学術文庫)のなかに読むことができます。

 

 「・・・今日の日本を知るために、日本の歴史を研究するためには、古代の歴史を研究する必要はほとんどありません。

 応仁の乱以後の歴史を知っておればそれでたくさんです。

 それ以前のことは外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませんが、応仁の乱以後は、われわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これを本当に知っておれば、それで日本の歴史は充分だと言っていいのであります・・・」という一節です。

 

 これはよく知られている発言で、「当時(大正時代〉としてはかなり思い切った発言であったと言ってよい)と思います。

 当時、内藤さんのこの発言がどの程度一般の方の間に浸透していたかはわかりませんが、ともあれ、日本の歴史全体を問題にする場合、「応仁の乱以前と以後」とは非常に大きな違いがあること、応仁の乱以前の歴史というのは、当時から考えてみても、まったく外国の歴史と同じような意味しか持たないのだ」

と主張されています。

 現在の歴史とのつながりだけを考えるとき、内藤氏の歴史観は間違いがないと考えられます。

 私たちは時代をいくつかに区分します。例えば「戦前・戦後」という分け方などはそれです。

 それでは、日本の歴史を二つに分けるとしたら、どこで線を引くのでしょうか。内藤氏が言うように、南北朝・応仁の乱前後を歴史の分水嶺にしてよいと思われます。

 南北朝・応仁の乱はそれほど社会を大きく変化させました。

 その歴史(観)については、「この文観を追え」でも、できるだけ取り上げます。

 この大きな歴史の引き金を引いたのは、後醍醐天皇です。

 そして、彼のブレーンが文観です。

 その文観が加古川出身であるとすると俄然興味がわいています。

 これは奇をてらう日本史の話はありません。 

 最近の歴史学会では、徐々にその研究が進んでいます。(no3403

 *写真:内藤湖南氏(19344月)9日撮影

 ◇きのう(3/20)の散歩(11.195歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(123) 文観を追え(1)、常楽寺(加古川町大野)

2018-03-20 08:13:11 | お爺さんが語る郷土の歴史

      文観を追え(1) 常 楽 寺

 ここにいう「常楽寺」は、日岡神社の東隣にある常楽寺(加古川町大野)のことです。

 突如として文観が説明のないままに登場しました。

 これから、真言律宗、西大寺、後醍醐天皇、文観等が何回となく登場します。説明をしながら話を進めますが、整理をしながらお読みください。

    常楽寺の盛衰 

 (常楽寺は)正嘉二年(しょうか・1258)八月、後深草天皇のとき、暴風雨のため堂宇は破壊され、一字だけ残りました。
 その後、小野文勧(文観)僧正(1278~1357)によって復興され、堂宇は古(いにしえ)のように造営されました。
 末寺18ヵ寺、僧坊は56宇、寺領は三百石であったといいます。

    大野は洪水に見舞われやすい所
 鎌倉時代です。
 加古川にしっかりとした堤防を造るということは経済的にも、技術の面からいっても正嘉当時は、十分ではありません。
 そのため、大野辺りは、しばしば洪水に見舞われたと思われます。特に洪水の多い場所に位置していました。
 というのは、「(大野の北側を流れる)曇川は、曇ったときだけ水がある」といわれるのですが、いったん大雨の時は、曇川の大量の水は加古川に流れてくれません。
 水は、堤防の外(東側)と日岡山の間を大野に向けて一気に押し寄せ、大野はしばしば洪水に見舞われました。
 それにしても、正嘉二年の暴風雨の時は、特に大規模な加古川本流が引き起こした大洪水であったようです。
 常楽寺は、一宇を残して流されたと伝えてられています。
      常楽寺の再興
 この後、繁栄を誇っていた常楽寺の再建は、さすがに進まなかったようです。
『大野史誌』は、「その後、文勧(文観)により再興された」と記しています。
 常楽寺には、西大寺系の石工が造った宝塔があります。

 「文観慈母塔」の伝承を伝えていますが、銘には願主・道智とあり、文観の慈母塔ではないようです。
 が、この頃、西大寺の僧・文観の援助で、この寺を再建したのではないかと想像されます。
 再建は、それもこの塔の造立された正和四年(1315)ごろではないか、と想像してみます。当時、文観は37才でした。
 まだ、後醍醐天皇との関係は薄かったのですが、すでに、西大寺の実力者として活躍しています。(no3402)

 *写真:現在の常楽寺
 ◇きのう(3/19)の散歩(11.161歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(122) 鎌倉時代(13)、浄土系仏教の広がり

2018-03-19 08:47:15 | お爺さんが語る郷土の歴史

  浄土系仏教の広がり

 時代は、鎌倉時代とうつりました。が、地震・飢饉・戦争は引き続き起りました。その上に重い税金が追いかぶさってきました。

 人々の生活は、ますます厳しさを増し、まさに末法の世のようでした。

 こんな時代では、人々は仏様に救いをもとたくなります。

 そんな時に法然・親鸞といった新しい考えの宗教家がキラ星のように誕生しました。そして、「浄土(極楽)」の教えを広めようようとしたのです。

 それも、厳しい修行は必要でなく、一心に仏様にすがれば、極楽に往生できるという教えでした。

 この浄土教の教えは、すさまじい勢いで広がろうとしました。

     既成宗教との軋轢(あつれき)

 当然、既成の宗教と争いがおきます。

 規制宗団側は「念仏一つで極楽へ行けるとする怠け者の念仏衆などぐうの音(ね)も出なくなるしてやろう」

 「そうよ。末法(まっぽう)も極まったいまは、お釈迦さまが一番大切にされた戒律(かいりつ)を、もう一度、いまの時代に呼び興すことじゃ」

 「戒律」・・・・

 「自分には、なんの規律も課さず、修行もせず、それでいて極楽にいけるようなら、もう仏法なんていらないではなか。ちょっと虫がよすぎる・・・」

 

 事実、念仏さえ唱えさえすれば極楽に行ける」と考えるものも生まれました。

 既成宗団では、規律(律)を大事にする声が上がり、「真言律宗」等が誕生しました。

 やがて、奈良の西大寺が、真言律宗を中心となっていきます。

 この「真言律宗」が、特に、私たちの地域と深い関係を持ってきます。

 次回からもこの「真言律宗」とわたしたちの地域のかかわりを見ていきます。(no3401

 *写真:西大寺

 ◇きのう(3/18)の散歩(11.203歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(121) 鎌倉時代(12)、一遍上人と教信

2018-03-18 06:50:33 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

        一遍上人と教信 

 今日の「お爺さんの語る郷土の歴史」は、その「no90~no93」をまとめたものです。重複しますが、お読みください。

     野口念仏

 一遍の念仏踊りが最初に行われたのは、信州の佐久、小田切という場所で念仏を称えていときの事でした。

 この時、念仏が自然に踊りになり、やがて踊りの輪は、急激に広がりました。

 ある者は鉢を叩き、あるものはそれに合わせて手足を動かすのでした。

 まったくの乱舞でした。

 一遍の生きた時代は、旱魃・水害の自然災害が人々を襲いました。そして、戦乱は続きました。その上に、元軍が攻めてくるという社会不安も重なりました。

 人々は神様・仏様に助けをもとめました。

       一遍の死と教信寺

 一遍の死は近づいていました。

 一遍は、野口の教信寺で眠りたいと考えていました。

正応2 年(1289)季節は夏を迎えようとした頃です。一遍は、讃岐の善通寺へ向かいました。

 そして、阿波の国から淡路島へ渡り、そして岩屋への旅でした。

    教信寺で眠りたい・・・

 夏の太陽は、一遍の病躯を容赦なく照りつけました。一遍は、ここで、このまま行き倒れるのだろうかと思いました。でも、明石へゆきたい。

 そして、野口へ行き、心をよせている教信の墓の傍で眠りたいと思うのでした。幸にして、七月十八日(正応3・1289)に、ようやく対岸の明石の浜辺につくことができました。

 明石から、印南野の教信寺までは、すぐ目と鼻の先です。

 一遍は、体力の衰えたその瞬間も、ひそかに心に期していました。

「念仏を信じ、念仏をとなえ生涯を終えた教信のそばで眠りたい」と・・・早い秋の雨が、海辺をぬらしていました。

     真光寺へ

 明石についた一遍の一行を待っていたのは兵庫からの信者の出迎えでした。

生きて野口に行く体力の自信をなくしていました。

 一遍は、兵庫の真光寺へ向かい、真光寺で静かに51 歳の生涯を終えました。

 この時、一遍にもう少し体力が残っていたなら、きっと一遍は教信寺の教信の五輪塔の傍で眠っておられたことでしょう。(no3400)

 *写真:一遍上人(神奈川県立歴史博物館蔵)

 *きのう(3/17)の散歩(10.571歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(120) 鎌倉時代(11)、親鸞の目標は教信の生き方

2018-03-17 06:50:10 | お爺さんが語る郷土の歴史

教信については、「お爺さんが語る郷土の歴史(90~93)」で紹介していますので合わせお読みください。

 鎌倉時代の新仏を語る時、まず取り上げられるのが親鸞です。

 加古川の野口で活躍した教信の生き方が親鸞(写真)に影響を与えています。

      親鸞の目標は教信の生き方

 親鸞も20年くらい比叡山に上り、また奈良仏教の寺院で自ら学びましたが、どうしても悟り(確信)が持つことができずませんでした。

 そして、親鸞は法然(ほうねん)上人の専修念仏に身を投じ、阿弥陀仏の救済を信じながら非僧非俗として公然と妻帯したことでも知られております。

 教信は、まさに世俗にあって念仏往生を説く(非僧非俗)生き方を選んでいます。

 親鸞聖人がこの教信沙弥について述べていたことが、曾孫の覚如上人が『改邪鈔』に書き残しています。
 親鸞は、「我は、是加古教信沙弥の定なり」と常に言っておられたと『改邪抄』で聖人の曾孫にあたる覚如上人は記しています。
 親鸞が教信沙弥を目標にしていたことは明らかです。

 親鸞の有名な「非僧非俗」という言葉は、結婚され妻子や地に働く民衆とともにお念仏の大道を歩まれた教信沙弥の生き方に共感しての言葉だといわれています。

 なお一遍と教信についてもすでに紹介しましたが、再度次回に復習として紹介しておきましょう。(no3399)

 *写真:親鸞

 ◇きのう(3/16)の散歩(14.515歩)

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