ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川城主・糟谷武則(15):春日神社

2013-08-01 06:53:43 | 黒田官兵衛

「加古川城主・糟谷武則」の最後に加古川城主・糟谷氏の話をしておきたい。

国道2号線の加古川大橋の東詰近くに、ひときわ目につく公孫樹がある。

そこは春日神社(写真)の境内である。

春日神社 

Kasugajinnja江戸時代の幕府の正式な家系図によると。糟谷氏は相模国糟谷荘の在であった。

さらに、江戸時代の「糟谷(加須屋)氏文書」では、糟谷氏の祖先は、藤原(中臣)鎌足であるという。

やがて、祖先は宇治川の合戦で功績をあげ、加古郡雁南荘(かなんのしょう)を与えられた。雁南荘は、今の加古川市加古川町付近である。

室町時代、糟谷氏は赤松の支配下に入り、加古川城を造り城主になったと考えられる。

東播地方には鎌倉時代以降関東武士が多いが、関東武士については先に紹介した。

   春日神社は糟谷氏の氏神

なんと、糟谷氏の祖先は、藤原(中臣)鎌足というのである。

どうも怪しい。一般的に系図や家譜の信用度というものは、この程度のものである。

とにかく、時の雁南荘の糟谷有季(かすやありすえ)が藤原氏の氏神を文治2年(1186)ごろ、奈良の春日神社からこの場所に勧請したという。

加古川城主糟谷武則は、有季の子孫である。

春日神社は、糟谷氏の氏神である。

*写真は春日神社

KAKOGAWA』(伊賀なほゑ著)参照

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加古川城主・糟谷武則(14):加古川城廃絶

2013-07-31 07:56:37 | 黒田官兵衛

加古川城廃絶

Syomyoujitemmple_015糟谷武則のその後を書いておきたい。 

加古川城主の糟谷武則は、賎ケ岳の戦後も秀吉方の武将として、数々の戦役に出陣した。

徳川家康と戦った小牧の役(天正13年)、小田原の役(天正18年)、そして朝鮮への侵略、世に言う「文禄の役」では晋州城攻撃にも参戦した。

武則は、秀吉の栄達とともに出世したが、関ケ原の合戦では西軍(石田三成方)に味方し、家康の関西における本拠地である伏見城を攻撃した。

「賎ケ岳七本槍」で活躍した武将たちは、武則をのぞき、みな東軍(家康方)に味方している。

そのため、七本槍の他の武将に比して、武則の事跡は、全くといってよいほど何も伝えられていない。

幕府が編纂した『廃絶録』には、次のように書かれている。

 一万二千石、播州かこ川、糟谷内善正宗孝(三十四)、

慶長七年(1603)、めし出され後断絶す 

おそらく武則の息子・宗孝の代に廃絶されたのであろうが、詳細はわからない。 

仮定の話であるが、「武則が家康側に味方しておれば、加古川地域のその後の歴史は、大きく変わっていたであろう」と思われる。

 *写真:糟谷武則の墓(称名寺・加古川町本町)

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加古川城主・糟谷武則(13):晋州城の戦いに参戦

2013-07-30 09:41:04 | 黒田官兵衛

 武則・朝鮮へ

国内統一をした秀吉は、文禄元年(1592)3月朝鮮に出兵し、かねてからの念願であった大陸制覇の野望を進めた。

秀吉は、326日京都を発って28日加古川に泊まった。

この戦争に糟谷武則は片桐且元ともども二百人の手兵を引き連れて名護屋(福岡県)へ出兵した。

   晋州城(チンジュソン)攻防戦

E173114f晋州城(チンジュソン)攻めであるが、開戦以来苦戦を強いられていた。

翌二年(1593)(第二次)晋州城(チンジュソン)攻めに参加した。

晋州城の指導者の金時敏は名だたる猛将である。

このとき晋州城を攻めたのは主な武人は糟谷武則等の七人であった。。

本格的な攻撃は622日から開始され激しい戦いになった。

朝鮮軍は明軍の援軍を求めたが、援軍とはならなかった。

朝鮮軍は、しだいに追い込まれ、29日、黒田官兵衛は、息子の黒田長政、後藤又兵衛らに強攻を命じた。

又兵衛は、晋州城へ一番乗りを果たし、開戦以来最大の犠牲者を出した攻防は朝鮮側の全滅で終った。

この戦いで、金時敏も打ち取られ、首を塩付けにして秀吉の許に送ったという。

・・・・

以下、蛇足である。

黒田官兵衛は、朝鮮の役に関して「これは馬鹿げた戦争である・・・」と考えていた。あまり、戦場では熱心ではなかったようである。

*第二次晋州城攻防戦(「民俗記録画救国偉業」より)

-

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加古川城主・糟谷武則(12):賎ヶ岳七本槍

2013-07-29 07:32:09 | 黒田官兵衛

 武則のその後

その後の加古川城(加古川市加古川町)の城主・糟谷武則の話を書いておきたい。

三木合戦の最大の戦いである平井山の合戦で、兄の朝正は出陣し死んだ。

武則は跡目を継いで第10代の加古川城主となった。

以後も武則は常に秀吉の側近として活躍した。小牧・長久手の戦いにも側近として出陣した。

  賎ケ岳七本槍

Sizugadake天正10(1582)信長父子が本能寺で明智光秀に討たれた後、秀吉は高松城(岡山県)の水攻めを手際よく切り抜け、山崎の合戦で早々と光秀を敗死させた。

ここに秀吉は、信長の第一の家臣であった柴田勝家と対等の地位につき、また、信長の葬儀を主宰し、その力を徐々に拡大させていった。

ついに、柴田勝家と雌雄を決する戦いの火ぶたがきっておとされた。

これが、賎ケ岳の戦(しずがだけのたたかい)である。

この賎ケ岳の戦では、秀吉の機動力もさることながら、家臣の勇敢な戦いぶりも、勝利に導いた大きな要因となった。

特に、福島正則、加藤清正、片桐且元、脇坂安治、平野長泰、加藤嘉明、そして加古川城主の糟谷武則7人の活躍は目覚しく、後に秀吉から感謝状が贈られ、それぞれに三千石の加増があった。

糟谷武則に対する感状は次のようであった。

播州賀古郡内二千石、河州河内郡内千石、都合三千石事、目録別紙相副令畢(おわんぬ)永代全可領知候如件

     八月朔日             秀吉(花押)

      糟須屋助右衛門(真雄)殿

糟谷武則には郡内を含めて三千石が与えられた。

これら賎ケ岳の戦で活躍した七人衆は、後に「賎ケ岳七本槍(しずがだけひちほんやり)」とよばれた。

*図は、賎ケ岳合戦屏風(七本槍部分)・大阪城天守閣所蔵、左が秀吉軍

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加古川城主・糟谷武則(11):小説に描かれた武則の姉

2013-07-28 08:07:50 | 黒田官兵衛

まず、史実を書いておきたい。

糟谷武則の父朝貞(八代・加古川城主)の妻は、御着城主小寺政職の妹で、兄の朝正(九代・加古川城主)の妹は、三木城主別所長治の弟友の弟の治定の妻であった。

   賀相の妻は武則の姉ではない

津本陽の小説『下天は夢か』や徳永眞一郎『賎ケ岳七本鎗』に別所長治の叔父で三木城の姓を支配している賀相(よしすけ)叔父の別所賀相の妻は、武則の妹で武勇にすぐれた人物として描いている。

しかしこれは間違いなので、そのことを少し付け加えておきたい。

徳永眞一郎は『賎ケ岳七本槍』で、次のように描いています。

   

『賎ヶ岳七本槍』に描かれた武則の姉

D996525・・・(加古川評定)の席をけって退去した別所吉親(賀相のこと)の妻は、糟谷武則の姉であった。

天正七年(1579)夜、三木城では城の北方、大村坂に陣する秀吉軍に夜襲かけた。不意をつかれた秀吉軍は大あわて、丸裸のまま戦う兵もあって、大混乱。

この時、モミの鉢巻きに桜威しの鎧を着けて、みどりの黒髪内なびかせ、白芦毛の馬にうち乗り、二尺七寸余の陣太刀をふりかざして群がる秀吉軍の中に駈け入り、逃げまどう敵を馬のひずめにかけて斬りまくり、獅子奮迅の戦いぶりを見せる女性があった。

この女性こそ賀相の妻、すなわち(糟谷)武則の姉であった。・・・・

・・・・・

賀相(よしすけ)の妻は摂津国畠山上網守の娘で別人である。

(*年号は訂正した)

小説ではあるが、通説の戦いの場面も少し異なる。少し気になるので、訂正しておきたい。この話はあくまでも『賎ヶ岳七本槍』の記述である。

以下は復習である。

糟谷武則は、朝貞が妻と離別した後その妻が志村某と再婚してできた子供で、志村某が早く亡くなり武則が六才になったとき糟谷家に托して、また再婚したため朝正は自分の養弟として育てて糟谷の姓を名乗らせた。

武則が糟谷に引取られたときは朝正の父朝貞は未だ存命中であり妻との離別は何らかの事情があったものと思われる。

*図:谷大膳が守る大村の位置(「三木城包囲の秀吉の配置図・部分」より)

 大村の戦いの場所を確認ください。

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加古川城主・糟谷武則(10):武則の初陣・野口城の戦い

2013-07-26 06:28:36 | 黒田官兵衛

    糟谷武則の初陣

22a278aa野口城攻めは、秀吉の家臣となった糟谷武則にとって初陣となった。

そのため、野口戦について少し触れておきたい。

はじめ、秀吉は三木城を攻めたが大崩れになったこともあった。

三木城は、美嚢川(美濃側)に張り出した台地上の要害の地にあり、攻撃が容易でなかった。

そのため、秀吉は三木城を取り巻く城を攻撃し、城を裸にしてしまう作戦をとった。その最初の目標にされたのが野口城であった。

印南野台地は水の少ない所であるが野口城は、水の集まる処にあり、付近に沼や湿田が多く、城はそれらを囲(めぐ)らし、わすかに乾いたところにあった。

     野口城落ちる

秀吉は土木工事を得意とした。沼地のような湿地はたいした問題ではなかった。

彼にすれば「埋めればいい」のである。

秀吉軍の攻撃が始まった。城主・(長井)政重は櫓で指揮をとった。

勇敢に戦ったが切れ目のない激戦に兵は、徐々に疲れ、多くの兵は倒れた。

最初から、野口軍600の兵だけでは、3000の秀吉軍と勝てるとは考えていない。

三木城からの援軍があり、中と外から秀吉軍を攻めようと考えていた。

しかし、三木方からの援軍はなかった。

三日目であった。「援軍が来たらしい」と城内には一瞬生気がよみがえった。

が、援軍と思われたのは、秀吉側に加わった加古川城の糟谷武則の兵であった。

政重は決断した。「これ以上の兵の死は無駄である・・・」と。

自分の死と引きかえに残る兵の助命を願い出た。

「野口城の戦い」は、あっけなく三日間でおわった。

秀吉は、城主をはじめ降伏した兵士らの命を助けた。

野口城はもちろん、隣接した教信寺も炎上した。

*図:野口城の比定地(広報加古川6月号より)、確かな城址は分かっていない。

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加古川城主・糟谷武則(9):武則は、秀吉の家臣に

2013-07-25 07:34:01 | 黒田官兵衛

7acefbb8  武則は、秀吉の家臣に・・・

加古川評定は、決裂した。

秀吉方は、三木城攻略の軍議を開いた。

席上、黒田官兵衛(孝高)が進み出て秀吉に申し出た。

「当国の輩は、残念ながら別所に従いて敵となりました。目だった者はおりません。

ただ一人豪の者が、別室に控えております。ご対面を願います」と郎党に命じて連れて来させたのが、糟谷武則であった。

官兵衛は、武則の出処、三木城に籠ったことなど、詳しく説明した。

秀吉は武則を近くへ招き寄せ、その骨柄をまじまじ眺めた。

骨太く、色浅黒き大男で、人相よろしき人柄と感じ入り、官兵衛の縁者(官兵衛の妻の従弟)であるので、丁寧に接し国光の太刀一振を与えた。

これにより、武則は秀吉の家来として正式に仕えることとなった。

以後、武則は、秀吉の播磨平定の参謀である黒田官兵衛の手足となって働くようになった。時に十六才であった。

   武則の初陣・野口の戦い

さて、加古川における軍議の後、三木城攻囲が始まったのは329日であり、4月3日には、三木城を取りまく諸城の攻撃の火蓋が切って落されました。

先ずは、長井四郎左衛門、380騎の守る野口城の攻撃であった。

43日の早朝より攻撃が始まりまったが、城兵はよく戦い、戦況は一進一退であった。

秀吉軍は、3000の兵を以て攻めたて、3日にわたる攻撃で木戸を打ち破ったので城主長井四郎左衛門は遂に降服いたした。

この戦いで武則は、加古川城の兵をもって搦手よりの攻撃に参加した。

武則の初陣であった。

武則は先日まで、三木城に籠城していた。兄はこの時三木城にいる。兄の妹は三木城主・長治の弟の弟である。

そのため、秀吉は、武則の戦いぶりを注目していたはずである。武則も当然それを意識していた。

疑いをもたれないためにも、みごとな戦いぶりを発揮したに違いない。

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加古川城主・糟谷武則(8):加古川評定(4)・決裂

2013-07-24 08:14:25 | 黒田官兵衛

・・・信長は秀吉に対し、もし別所がそむくなら討て、と暗喩したかもしれない。秀吉は、その種の事をあまり好まぬ男だったが、信長に仕える以上、荒事が出来(しゅったい)するのもやむをえないとひそかに覚悟していたに違いない

以下、加古川評定の会場からの中継である。『播磨灘物語』から引用したい。

加古川評定

 C0407a75・・・いよいよ秀吉が広間にあらわれ、評定がはじまった。当然ながら秀吉は正面にいる。

 播州者は、みな秀吉をあるじであるがごとくに秀吉にむかい、はるかに下がって居ならんでいる。

 「なぜ、我々はみな羽柴ごとき者を主のように仰がばならぬ・・・・」と、どの男も、この位置関係に不満を持ち、別所賀相のごときは「ちょっと、厠に・・・・」とつぶやき、ゆっくり腰を上げて、そのまま部屋を出て小一時間帰ってこなかった。

 評定も進みつつあった時である。賀相に言わせれば、「下郎上がりが、何を間違えて、かかる座にすわっておるのか・・・」と言いたかったところであろう。

 「厠に・・・」といったが賀相は、そのまま門前に出、そこで待たせてあった供の者を連れ、その辺を一巡し、ひまをつぶした。

 ・・・・この後、もとの席に帰り、重臣の三宅に長々と戦法を講釈させた。

たまりかねた秀吉は「よく承った・・・」と長談義を中断させ、「・・・戦のかけひきは、大将である自分(秀吉のこと)がそれを仕る。各々方は、わが指図のとおり動いて下さればよい」・・・(『播磨灘物語』より・一部文章を変えています)

 賀相は、三木に帰り、この評定のようすを城主・長治や重臣たちに伝えた。「・・・秀吉の態度は、まことに無礼であった・・」と。

三木(別所)は、毛利へ走った・・・

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加古川城主・糟谷武則(7):加古川評定(3)・それぞれの思惑

2013-07-23 11:32:12 | 黒田官兵衛

  それぞれの思わく

19282098官兵衛は、加古川評定にかけていた。

なんとか、別所氏が信長方につくことを願っていた。

(別所)長治に「加古川まで来ていただきたい」と願い出た。

しかし、播州最大の勢力を持つ別所氏は、評定に先だって毛利への加担を決めていたようである。

評定の当日、秀吉は会場になる加古川館の奥の間で別所氏を待った。

「別所どのご来着でございます」と玄関から秀吉に知らせがあった。

秀吉は「長治(別所城主)殿か・・・」と問い返した。

「別所殿は、ご家老の賀相(よしすけ)様と三宅様・・・」と聞いて、秀吉は失望し、この時点で新たな戦略に切り替えたのかもれない。

「別所が信長にそむくのなら、それもよし、力で播磨をねじ伏せるまで・・・」と、考えたのであろう。

信長も、「秀吉に、もし別所がそむくなら討て」と命令していたのかもしれない。秀吉も、その場合はやむをえないと考えていたようである。

来るべき毛利軍との戦いの途中で態度を急変させられてはかなわない。

そのため、この評定では、別所氏に対し妥協をしなかったようである。

しかし、この評定をまとめたい官兵衛にとって三木城主・別所長治が評定に来なかったことには、泣きたい気持であったと想像される。

官兵衛は、秀吉の気持ちもよくわかった。

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加古川城主・糟谷武則(6):加古川評定(2)・賀相 vs 重棟

2013-07-23 08:55:38 | 黒田官兵衛

 賀相 vs 重棟

79ea6f0f糟谷武則であるが、「加古川評定」について紹介しておかねばならない。

三木・別所氏の内情に触れておきたい。

三木城主・別所長治(べっしょながはる)の父の別所安治は、若干39才で病没しました。その時、長治はまだ12才であった。

そのため、三木方の政治は、安治の次弟・賀相(よしすけ)と三男・重棟(しげむね)が長治の後見をしていた。

この別所長治の二人の叔父は、ことごとく対立し、三木城にあってそれぞれの派閥をつくっていた。

城主・別所長治のより近くにいたのは、一番家老の賀相であり、二番家老の重棟は早くから織田方に近づいていた。

『播磨灘物語』から引用したい。

・・・重棟は、兄の賀相とは違い、早くから織田に接近し、今度の「加古川評定」においても、秀吉のそばにあって、その支度方(したくがた)をつとめている。

ほとんど秀吉の家来のようであるといってよい。 ・・・(略)・・・ 

「あの馬鹿が」と賀相(よしすけ)は重棟のことをいう。「織田誇り(おだぼこり)をしおって」

織田の天下になれば、当然、早くから織田に接近している重棟の方が別所家における大勢力をつくることになり、賀相の勢力は転落せざるをえない。

「たれが織田につくものか」という賀相の肚の中で黒煙りを立てて渦巻いている感情は、打算的には家中の一向宗(浄土真宗)を抱き入れておかねばならないという理由の外に、その理由を凌ぐほどの、重棟に対する感情があった。賀相に露骨にいわせるとするならば、「自分の目の黒いうちは別所の家を織田に味方させぬぞ」ということであったであろう。・・・・(以上『播磨灘物語』より

 浄土真宗の事である。播州は浄土真宗(真宗)が多く、当時信長は真宗の石山本願寺を攻撃していた。信長は、門徒衆(真宗の信者)にとって仏敵であった。

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加古川城主・糟谷武則(5):加古川評定①・加古川に集まれ

2013-07-22 07:18:19 | 黒田官兵衛

 加古川評定(1) 加古川に集まれ・・

天正五年(1577)秀吉は、岡山との境の上月・福原の小さな山城を陥落させた。 

陥落させた上月城には、毛利に攻められ、お家再興を目指す尼子衆700を入れた。

秀吉は、信長への報告のために、いったん近江安土に帰ったのである。十二月の中旬であった。

秀吉が播州を留守にしている間に、播州の諸豪族の間に不穏な動きが生じていた。

年が明けてしばらくすると播州勢のほとんどが毛利方に翻るという事態になった。

毛利の工作のためでもあるが、主に播州という土地柄にも原因があった。

秀吉軍は、福原・上月城を陥落させたが、播州の諸豪族は「これもつかの間で、やがて、毛利が奪還するであろう・・・」と考えていたし、播州は浄土真宗の影響が強く、本願寺に敵する信長を「仏敵」として、門徒衆が信長方に味方することを許さない地盤であった。

その上に、播州の諸豪族は、家門の上下・家柄という意識に縛られていた。信長・秀吉という筋目のない者の下に着くことをよしとしなかった。

   この時、糟谷武則は?

C0407a75この情勢に官兵衛は、秀吉に早期の播磨入りを要請した。

秀吉は、急ぎ播磨入りを決め、加古川で評定(会議)を開くことの触れを出した。

司馬遼太郎は、加古川評定の行われた加古川を『播磨灘物語』で次のように書いている。

『・・・場所は姫路ではない。姫路では西に寄りすぎる。加古川ということにした。加古川は播州の海岸線のほぼ中所(なかどころ)にあり、どの地方からやって来るにしても便利であった・・・』と地理的な利便性をその理由としている。

それだけとも思えない。

この時、糟谷武則はまだ加古川城の城主ではない。城主は兄の朝正である。そして、加古川評定の時は朝正、息子の友員(ともかず)そして、武則は三木城にいた。

ということは、加古川評定の時は加古川城の主人はいない状態になっていたのである。

秀吉としては、使いやすいことがその第一の理由であったと思われる。

秀吉は、7500人を率いて加古川の糟谷の館(加古川城)向かった。天正六年(1578)二月二十三日のことである。

この会議の焦点は、播州最大の勢力を誇る三木城主・別所氏がどちらに味方するかにかかっていた。

三木・別所氏が信長方に味方すればすんなり、他の領主もそれに倣ったであろうが、この加古川評定の始まる前に、別所氏は毛利氏への加担を決めていたようである。

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加古川城主・糟谷武則(4):武則加古川城へ戻る

2013-07-21 08:12:37 | 黒田官兵衛

(糟谷)武則は、異父兄の糟谷朝正と共に育てられて成長した。

武則は糟谷姓を名のり、後に朝正はその子(友員:ともかず)と共に武則を伴って三木城に籠城した

天正五年(1577)、友員11才、武則15才のことであった。

  後藤基国(後藤又兵衛の父)の説得

73c9c492天正五年(1577)当時、加古川城も加古川地域の多く城と同じく別所方であった。

官兵衛は、三木城の武将で信頼を置く後藤基国(後藤又兵衛の父)に書を送り、朝正・武則らに「武則は加古川館(城)へ帰えるよう」説得を依頼した。

余談であるが、後藤基国は、三木城と運命を共にしたが、息子の後藤又兵衛は官兵衛に引き取られ、後に黒田家の家臣として活躍した。

ともかく、後藤基国の説得により武則は、加古川館(城)に帰った。

ここで、官兵衛の信頼する後藤基国の言葉を想像しておきたい。

  武則殿は加古川城へお戻りを・・・

<後藤基国の説得> 以下の文は想像である。

・・・・

武則殿は、ぜひ加古川城へお戻りください。

この度は、はからずも三木方と秀吉方は、お互いに敵として戦うことになりそうです。どちらに利があるかわかりません。

もし、不幸にして三木城が破れますと、別所家はもちろん、糟谷家も断絶いたします。

糟谷家を末長く守るためには、武則様はぜひ加古川城へお戻りください。

今の段階では間に合います。

朝正殿は、妹様が別所家に嫁がれ別所殿と固い約束がございましょうが、武則殿には恩義がすくのうございます。そこをよくお考えください。

ここは、糟谷家存続のために、まげて武則様は、加古川城へお戻りください・・・」

「糟谷家を守るために・・・」

    糟谷武則は秀吉軍に

 加古川評定は決裂し、三木別所・毛利軍と信長・秀吉の対立は決定的となった。

秀吉は、三木攻撃の軍議を開いた。

 その時、官兵衛は進み出て秀吉に申し出た。

「三木に仕える者では目立った人物はおりません。唯一人豪の者がいます。いま、控えておりますので、ご面識をお願いいたします・・・」と武則を秀吉に対面させた。

秀吉は、武則を近くへ招き、たいそう気にいり、国光の太刀一振を与えた。

この時、武則は正式に秀吉軍に仕えることとなった。

時に16才であった。

*挿絵:後藤又兵衛(父の基国の挿絵が見つからなかったので、息子の又兵衛から想像願いたい)

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加古川城主・糟谷武則(3):武則の誕生

2013-07-20 08:21:50 | 黒田官兵衛

   

  武則の出生

B7cffdff時代は一挙に飛ぶ。

加古川城主・武則の出生について書いておきたい。

武則の父(第八代加古川城主)朝定(ともさだ)の妻は、官兵衛が仕えた御着城主、小寺政職(まさもと)の妹である。

官兵衛の妻の光(てる)は小寺政職の姪であるから、小寺家・黒田家・糟谷家は血のつながった親戚ということになる。

長男・朝正が誕生した。

その後、朝定と妻の間に何があったのかを知ることができないが、離婚して朝定の妻は、清水某と結婚した。

その清水某との間に生まれたのが(清水)武則である。

不運は続いた。やがて武則の父・清水某は亡くなった。

武則の母は、武則が6才の時に加古川城の糟谷氏に託して再婚した。

武則の姓も「糟谷」に戻った。

八代加古川城主・朝定の子・朝正と武則は父が違う兄弟として加古川城で育つことになった。

  

  糟谷朝定(武則の兄)の妹は、

三木城主・別所長治の弟(友之)の弟(治定)の妻

次ぎに兄の朝定(九代加古川城主)についても紹介しておきたい。

三木城主・長治には三人の男兄弟があった。

長治(本人)・友之・治定である。

糟谷朝定の妹は、別所長治の弟は友之であるが、その弟の治定の妻であった。

したがって、加古川城としても三木城との深い縁で結ばれていた。

「毛利方に味方するか、それとも信長・秀吉方に味方するか」を決める加古川評定が加古川城で行われ、加古川評定の後、加古川地方のほとんどの城主・豪族は三木城に味方、つまり毛利方に味方することになった。

それまでに、加古川城の朝正をはじめその嫡子・友員(ともかず)そして、武則も三木城に入城した。

評定に先立ち、黒田官兵衛は、糟谷武則が加古川城へ戻るよう説得した。

次回は、その話をしたい。

*絵:たけのりくん(K氏製作)

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加古川城主・糟谷武則(2):平家没官領(へいけもっかんりょう)

2013-07-19 08:09:06 | 黒田官兵衛

加古川城主・糟谷家の続きである。

   糟谷氏は関東武士

平清盛の支配した五箇荘(ごかのしょう)は、加古川市域・高砂市域をはじめ、明石市の林崎あたりまでも含む大きな平氏の荘園であった。

清盛は、播磨国に大巧田(だいこうでん)を賜った。

仁安2年(1167)のことである。すこし、説明がいる。

  平氏没官領(もっかんりょう)

Kakogawasiro功田(こうでん)は、律令制度の下で、国家に対して貢献した者に与えられる田地のことで、なかでも大功田は、代々子孫に伝えることができる特別の田地であった。

しかも、大功田は無税地であった。

現在の加古川付近は、平氏の支配する五箇荘に属していたが、砂城が崩れるように平氏は歴史から消えた。

平氏の持っていた所領は、全て源氏に没収されてしまった。

没収された平家の所領を平家没官領(もっかんりょう)と呼んでいるが、この平家没官領に新しく関東から源氏系の武士が大量の流入があり、播磨の中世(鎌倉時代)は、はじまったのである。

 この源氏武士の中に加古川城主の糟谷氏もいた。前号で書いたように加古川城主・糟谷氏の祖先は、相模国大住郡糟谷荘と言われている。

糟谷氏の祖先が、承久3年(1221)年、宇治川の合戦で戦功があり、加古郡雁南荘(かなんのしょう)を与えられ、今の加古川町本町の称名寺のあたりに館を構えたのは鎌倉時代初期のことだと考えられている。

*図:加古川城比定地付近の小字名(赤く彩色したところが加古川城跡と推定される)

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加古川城主・糟谷武則(1):糟谷家のルーツは相模

2013-07-18 08:48:41 | 黒田官兵衛

加古川城主・糟谷武則(かすやたけのり)について書いてみたい。

まず、糟谷家のルーツである。

   糟谷氏の祖先は、相模から加古川へ

056糟谷氏について、『加古郡誌』は、江戸時代の文献の「御領中組々書留」によると、「糟谷家の祖先は筑前国(福岡県)糟屋郡に住んでいた」と書いている。

しかし、江戸時代の幕府の正式な家系図の寛政重修家譜(かんせいちょうしゅうかふ)によると、現在の神奈川県のほとんどを占める相模の国の大住郡糟谷荘とされている。

一般的に、平家滅亡の後、加古川地方に関東から多くの武士の移入があった。

糟谷氏も相模糟谷荘からの移入と考えるのが妥当であろう。

承久三年(1221)、糟谷氏の先祖が宇治川の合戦で功績をあげ、加古郡雁南荘(かなんのしょう)を与えあれたのが始まりという。

加古郡雁南荘は、今の加古川町付近なので、その中に館をつくったのが鎌倉時代初期のことと考えられる。

鎌倉時代の播磨国守護所は、今の「称名寺」(写真)付近であったという。

元冠のあと、弘安七年(1284)以後、播磨国守護職は六波羅探題の担当となっている。

この変化により、地頭などの勢力が地元に根付くきっかけになった。

鎌倉時代、地方の政治の中心であった播磨の国の守護所は姫路ではなく、加古川に置かれた。

その守護所の実権は糟谷氏などの手におち、室町時代には赤松氏の家臣となり、やがて加古川城が造られたのではないかと考えられる。

少し、社会科の教科書を読んでいるような内容になってしまった。

 *称名寺:ここに糟谷館(加古川城)があった。

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