「加古川城主・糟谷武則」の最後に加古川城主・糟谷氏の話をしておきたい。
国道2号線の加古川大橋の東詰近くに、ひときわ目につく公孫樹がある。
そこは春日神社(写真)の境内である。
春日神社
江戸時代の幕府の正式な家系図によると。糟谷氏は相模国糟谷荘の在であった。
さらに、江戸時代の「糟谷(加須屋)氏文書」では、糟谷氏の祖先は、藤原(中臣)鎌足であるという。
やがて、祖先は宇治川の合戦で功績をあげ、加古郡雁南荘(かなんのしょう)を与えられた。雁南荘は、今の加古川市加古川町付近である。
室町時代、糟谷氏は赤松の支配下に入り、加古川城を造り城主になったと考えられる。
東播地方には鎌倉時代以降関東武士が多いが、関東武士については先に紹介した。
春日神社は糟谷氏の氏神
なんと、糟谷氏の祖先は、藤原(中臣)鎌足というのである。
どうも怪しい。一般的に系図や家譜の信用度というものは、この程度のものである。
とにかく、時の雁南荘の糟谷有季(かすやありすえ)が藤原氏の氏神を文治2年(1186)ごろ、奈良の春日神社からこの場所に勧請したという。
加古川城主糟谷武則は、有季の子孫である。
春日神社は、糟谷氏の氏神である。
*写真は春日神社
『KAKOGAWA』(伊賀なほゑ著)参照