ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(95):足が痛くなる石(細工所)

2011-08-31 08:28:52 |  ・加古川市東志方

いま、安楽寺に来ています。安楽寺とその周辺の散策をしてみます。

以前に、「志方町を歩く(58)」で安楽寺の駐車場のすぐ南の道端にある「とんがり五輪」を紹介しました。

そこにある、「足が痛くなる石」の伝承をもつ石が「志方町誌」に紹介されていますので、読んでおきます。

     足が痛くなる石

002・・・(とんがり五輪塔の)北に続く田圃はだんだんに低くなっているが、その畔を二まちほど降りてゆくと、こうもりの羽のような形をした一反くらいの田がある。

その田の東北の隅に近いところに、ちょっとみると円形の白い石が顔を出している。

あぜに、はりついたような形で表をななめにして田をにらんでいるように見えるのである。

そばによると石は左右に耳が突き出て、顔の形である。

たて70㌢、よこ50㌢、扁平な石のようだが、下の形は分からない。

あぜとはいえ、この石がないほうがわかっているのだが、だれもこの石に触ることをきらって、昔からさわろうとしないのである。

「この石の上に上がってシコをふむと足が痛くなる」という伝説があるのだ。

「そんな馬鹿なことがあるものか」と笑うものもあるが、「そんなら試みにお前が石の上に上がってシコをふんでみよ」というと、しりごみしてだれ一人あがったものがない。

うっかり、この石の上にあがったために足が痛くなったという。

そして、死ぬ人も出てきた。

今ではその伝説だけが生きているようだ。

今、この石は耕地整理のため、元の場所から移されて、五輪塔と石地蔵の側に建てられている。(『志方町誌』より)

 *写真:足が痛くなる石

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志方町を歩く(94):青面金剛像(安楽寺・志方町細工所)

2011-08-30 08:49:50 |  ・加古川市東志方

004「(シリーズ)志方町を歩く」の前に、稲美町をずいぶん歩きました。

稲美町は、かつて「庚申信仰」が、さかんな地域で、どの集落でも庚申像にであいました。

庚申信仰では、ほとんどの場合「青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)」を庚申さんとして祀ったようです。

でも、ほとんどが石に「青面金剛」と文字が刻まれている庚申像ばかりでした。

青いお姿の庚申金剛と対面したことはありませんでした。

『陀羅尼集経第九』には、「・・・(青面金剛は)その身は、青色にして大張口、狗牙は上出す。目の赤きこと血の如くして三眼あり・・・」とあります。

先日、安楽寺(志方町細工所)の庚申堂で、青い(緑)の庚申さん(写真)とお会いすることができました。

加古川市・稲美町では初めて対面した青い(緑の)正面金剛像でした。

   庚申信仰

 青面金剛像を、人々は「コウシンサン・・・」と親しみをこめて、そう呼んでいます。

 江戸時代、ずいぶん盛んであった庚申信仰(こうしんしんこう)も現在では、すっかりその姿を消したようです。

 庚申信仰は、平安時代に中国から日本に伝わり、一般民衆の信仰になったのは、室町時代のことで、特に、江戸時代に盛んでした。

 コウシンさんは、庚申の夜(六十日に一回)、人体に住むというサンシチュウという虫が、人の寝ている間に天に昇り、天上の神にその人の罪を告げに行くといいます。

 そのため、庚申の夜は寝ずに、当番の家に集まり、庚申像を拝んだり、村の庚申さんにお参りに行くという行事でした。

    コウシンサンの夜

 いつしか、この行事は人々が集まって、一晩中酒を酌み交わし、演芸を楽しむと言う行事に変っていきました。

 東志方でも、庚申の夜のざわめきがあったようです。

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志方町を歩く(93):十王堂(安楽寺・細工所)

2011-08-29 06:50:20 |  ・加古川市東志方

  地獄絵と十王(安楽寺)

008細工所の安楽寺に来ています。

西の門から入ると鐘つき堂があり、その傍に「十王堂」があります。

この十王堂に、十七世紀後半の作と伝えられている「地獄極楽絵」と「十王像」が安置されています。

地獄絵図の右から地獄で苦しめられている人々、中ほどに救いの手を差しのべている地蔵菩薩、そして帳簿を見ながら判決を言い渡している「閻魔(えんま)さん」その左に極楽の絵と続きます。

   十王信仰について

十王とは罪を裁くために姿を変えている仏様です。

十王について少し説明しておきます

仏教では死者の生前の行いを裁く仏は「閻魔さん」だけではありません。

死者の前に十人の仏様が現れて、各仏様の前で審判を受けます。

その裁判の日は、初七日にはじまって、二十七日、三十七日、四十七日、五十七日、六十七日、七十七日、百ヵ日、一周年、三周年の十回といいます。

010そのうち、五十七日目の裁判官が「閻魔さん」です。

その仏様たちを十王と呼んでいます。

この十王の審判により「地獄行き」とか「天国行き」が決められといいます。

この十王の考え方は中国で生まれ、我が国においても平安時代から次第にその信仰が盛んになり、鎌倉時代に完成したといわれています。

安楽寺の「地獄絵」「十王像」は、寺の言い伝えによると万治三年(1660)とあり、傷みが激しく、平成四年に地獄絵・十王は修理されました。

近世の仏教観を知ることのできる貴重な仏たちと絵画です。お参りの時は十王堂へもお寄りください。

   十王の仏さま

十王とは王に姿を変えた仏様と紹介しました。

その王様の本当のお姿(仏様)を紹介しておきます。

・泰広王=不動明王    ・初江王=釈迦如来

・宗帝王=文殊菩薩    ・五官王=普賢菩薩

・閻魔王=地蔵菩薩    ・変成王=弥勒菩薩

・太山王=薬師如来    ・平等王=観音菩薩

・都市王=勢至菩薩    ・五道天輪王=阿弥陀如来

*写真上:十王堂内の十王と地獄絵

 写真下:絵図右の地獄の部分

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志方町を歩く(92):雑郷池の夜

2011-08-28 08:59:46 |  ・加古川市東志方

   印南野台地の池

2年ばかり、稲美町を歩き回りました。

稲美町にはとにかく池が多い。

それらの池は伸びやかで、広い空間の中にあります。

ときどき水鳥が、急に飛び立ちます。

でも、池は大きく水鳥は向こうの岸に場所を変えるだけです。

池は、整備され途中で休憩所のある池も多くあります。

山は遠くに、かすんでいます。

稲美町の池は風が吹き抜ける印南野がよく似合う池です。

    雑郷池

018今、雑郷池(ぞうごういけ)に来ています。

雑郷池は、中央で池を二分する堤防で加古川市と姫路市に分かれています。

雑号池はその奥の池で、周囲は山に取り囲まれ、その上を空が蓋をしたような池です。

この池のほとりでは、みな詩人になるようです。

『播磨のため池』(神戸新聞東播支社・北播支局編)でも、雑郷池の紹介の最後を「山肌に茜が届いた。

祖先たちが次の命に託して刻んだ水面が揺れる。

夜が明け始めた。」と詩的に結んでいます。

   雑文

*歴史でも、詩でも、民話でもありません。以下は雑文です。

・・・・

私も、今だけ詩人になりたい。

・・・・・

大藤山の水が雑郷池に流れ込んだ。

きれいな水である。

ここに、やんちゃな河童がいた。

月の明るい夜には、大藤山の動物たちがここに集をする。

やんちゃ河童も一緒に踊る。

夜も更けた。ある夜、雑郷の人が用事を終えて雑郷池の方へ急いでいた。

見つかるな・・・一斉に山散った。

 一瞬のザワメキがあった。

河童も池に身を隠した。半分だけ水面に顔を浮かべて。

あたりは元の静かさに戻った。

お月さまが池に写っているばかりだった。

お月さまは、ちいさく囁いた。

「あしたも、みんなここにあつまるかな・・・・」

雑郷池は、そんな夜のお月さまがよく似合いそうな池です。

  雑郷池

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志方町を歩く(91):シャングリ・ラ、雑郷(ぞうごう)

2011-08-27 08:09:37 |  ・加古川市東志方

法華口から永室まで、お地蔵さんを訪ねて歩きましたが、話題を変えます。

お地蔵さんを訪ねて法華川谷川沿いを散策していると、200711月に雑郷(ぞうごう)を訪ねたことがなつかしく、久しぶりで雑郷へ寄ってみました。

再度、「雑郷」を取り上げます。

雑郷(ぞうごう)

  *20071124日の再掲です。(少し変えています)

013雑郷(ぞうごう)に来ています。

志方町出身でない方には、あまり馴染みのない地名だと思います。

地図で確かめて出かけたのですが、近くに来ていたのでしたが分かりません。

それらしい道を行ったのですが、対向車があったら「万事休す」の道です。

地図にある池(雑郷池)がみつかりました。

さらに木立をぬけると、小さな平地と数件の家が現れました。

どうやら雑郷(写真)に着いたようです。

雑郷は、収穫を終えているが棚田に囲まれた谷あいの村です。

周囲が山のせいか風がありません。近くを走る山陽自動車道の騒音もここまで聞こえてきません。

ここは、まさにシャングリ・ラ(ShangriLa)のような集落です。

 *シャングリ・ラ…桃源郷

農家の庭先に無断駐車をして写真を撮っていたら、お爺さんが出てこられ、しばらく話をしました。

雑郷は、「二軒が入船姓、一軒が大城戸姓の三軒だけで、いまは小学生も中学生もいない」とのことでした。

つまり、三軒の加古川市志方町東志方雑郷です。

雑郷について『志方町誌』は「・・・明治14年の調査によると、10戸・人口54人で、おそらくこの頃が一番栄えた時代であろう・・・」と書かれています。

 以上が2007年のブログの記事です。

 お聞きすると現在、あれから雑郷は一軒が減り、現在二軒の集落となったそうです。

*写真:現在の雑郷(824日撮影)

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志方町を歩く(90):赤い土

2011-08-26 00:05:30 |  ・加古川市志方町

   ここは赤坂!

019 地蔵盆に赤坂地蔵を訪ねましたので「赤坂」につて少し書いておきます。

地蔵堂のすぐ西隣は急な坂になっています。

この坂は、旧北条街道で江戸時代の終わりから、明治のはじめの頃までは、賑わいがありました。

この坂は「赤坂」(写真)です。

今はコンクリートで覆われた坂ですが、そのコンクリートをはがすと赤土が顔を出します。

この急な、粘土質の赤坂を人は行きかいました。

時には、大きな荷を牛にひかせて、喘ぎながら登りました。

登りつめた峠にはお地蔵さんが待っておられ、焼き餅屋がありました。

焼きもちを食べながら、冷たいお茶を飲みました。

時には、法華山に参拝された遠い地方の人もおられたと思います。

そんな時は、異国話に花が咲いたことでしょう。

赤い土

印南野台地、それに西神吉町の赤山の台地の土は赤から赤橙色をしています。

この「赤い土」の原因は、なんでしょうか。

神戸大学・名誉教授・田中眞吾氏は、次のように説明しておられます。

「・・・・もともと玄武岩は風化すると赤くなります。ブラジルのテラ・ロッシャもインドのイグールの赤土もこのためです。

加古川辺りの台地は玄武岩の風化したものではなく、他の原因を考えなければなりません。

今から67万年前からはじまる最終氷河期の前に、123万年前頃から始まった最終間氷期という温暖な気候下で、現在の、熱帯で見られるような風化作用を受けて、今見るような赤い色になりました。・・・」

「赤坂」の赤い土もこの時期にできたものです。

*『加古のながれ(市史余話)』(加古川市史編さん室)参照

(シリーズ「お地蔵さん」少し休んで、次の話題へ進みます。志方町のお地蔵さん・仏像の話は後日つづけます)

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志方町を歩く(89):お地蔵さん⑦・赤坂地蔵(志方町横山)

2011-08-25 08:27:40 |  ・加古川市志方町

    室町時代のお地蔵さん

23日の地蔵盆の午後2時ごろ、志方町横山の赤坂の地蔵堂を訪ねました。

地蔵堂は、晴れやかな子どもの集まる出番を待っておられました。

地蔵堂の説明板(加古川市教育委員会)を読んでみましょう。

<赤坂地蔵>

018 舟形光背をもつ赤坂地蔵は、全長60㌢、巾25㌢、立像の高さ29㌢、肩幅9㌢のやや痩身の素朴なお姿である。

 世の移り変わりを一番知っておられるこの地蔵は、室町時代の初期の頃より坂の上の路傍に立たれ道行く旅人の安全と付近の人たちの、ささやかな願い事をかなえてくださったことだろう。

横山は、旧北条街道とともに栄え、塩物屋・薬屋・焼餅屋・いかけ屋・綿打屋などが軒を連ね、商売も繁昌していたが、新しく県道ができてからさびれ、今は屋号だけが残っている。

旧北条街道と赤坂地蔵

 旧北条街道については、再度次号で再度、紹介するよていです。

赤坂地蔵の西に添った道は旧北条街道です。

二子池の方(北側から)から赤土の急な坂(旧北条街道)を登って来た人は、このお地蔵さんある場所で一息をつき旅の安全を祈ったことでしょう。

焼餅屋で腰を下ろして、お茶を飲みながらお話もはずんだことでしょう。

楽しいだけでなく、ここは情報の集まる場所でした。

    

三島由紀夫の祖父の家は、地蔵堂のすぐ近く

地蔵盆の準備が一段落したところでした。

おばさんは、私の無駄話につきあってくださいました。

「平岡定太郎さん(三島由紀夫のおじいさん)のお宅はどこでしたか」とお聞きすると、「そこですよ。そこそこ・・・」とお堂を出て、教えてくださいました。

赤坂地蔵堂のすぐ5㍍ばかり南で、旧北条街道沿いです。

今も、「平岡さん」の家です。どなたか関係の方がお住まいのようです。

    地蔵堂完成(昭和51年)

少し横道へそれました。「赤坂地蔵」に話を戻します。

戦後周辺には町営住宅、雇用促進住宅そして団地が次々に建ち人口が急増しました。赤坂地蔵堂設立の話が起こり浄財が集まり、昭和51年4月に地蔵堂が完成しました。

現在は、18戸の会員で清掃・植木の手入れ等をされています。

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志方町を歩く(88):お地蔵さん⑥・子安地蔵は鎌倉時代末の作か?

2011-08-24 07:31:27 |  ・加古川市西志方

雨の中、長楽寺へ

025「志方町を歩く(87)」で「夕方、長楽寺にでかけます。できれば、明日(24)のブログで紹介します」と書いてしまいました。

五時半ごろ、孫と一緒に長楽寺へでかけました。

それまで遠くでゴロゴロとなっていた空が急に暗くなり、まさに豪雨となりました。

天気予報で、「バケツをひっくり返したような・・・」という表現を聞きますが、まさにそんな雨で、一時は車の前の風景がぼやけるほどでした。

でも、長楽寺に着くころには、雨はこぶりになり、しばらくすると止んでくれました。夜店は再開の準備、寺も準備再開で忙しそうでした。

それに、少し早いのか参詣の人もまだまばらで、おかげで駐車場もガラすきでした。

お祭り好きな孫も手持ち無沙汰。まさに、少し水を差されました。

水を差されたついでに、予定していた内容を変更して地蔵盆に水を差すような話をします。

*なお、昼間の行事は今日(24日)の神戸新聞に掲載があります。

    「子安地蔵」は鎌倉時代末期の作か?

志方町の人からおしかりを受けそうな話です。長楽寺の伝承です。

「治承二年(1178)年、高倉天皇の中宮建礼門院(清盛の娘)が難産のために全国の神社仏閣に安産祈願を行いましが、霊験が現れません。

こんどは、丹波の坂の地蔵様にお願いしたところ難産であった中宮に子どもが生まれました。

そのことを喜んだ高倉天皇はお地蔵様を66体つくり、日本の66州、一体ずつ安置させました。

その一つが長楽寺の地蔵様であるといわれています」

水を差すのは、以上の部分です。

高倉天皇の天皇在位は仁安三年(1168)~治承三年(1180)です。伝承ではこの間に地蔵様を全国66州に安置させたことになります。

歴史家は、お地蔵様がつくられたのは、鎌倉時代~南北朝時代であろうとしています。

それに、右ひざを曲げて、肘を立て、耳を手で受け、左ひざをのばし、錫杖もった形式の地蔵様が現れるのは鎌倉時代後期からです。

鎌倉時代は、学校で覚えたように1192(いいくに)以後です。

とすると、高倉天皇の在位と地蔵がつくられた鎌倉~南北朝時代が重なりません。

伝承と歴史とがあわなくても、問題はありません。素晴らしいお姿の地蔵様です、

大正七年(1918)、「子安地蔵」は伝承に関係なく国宝に指定され、昭和二十五年の法の改正により国の重要文化財に指定されました。

志方町でただ一つの重要文化財です。

もう少し続けます。

天正六年(1578)、秀吉の兵火により、長楽寺は全焼しましたが、この時住職がこの地蔵様を抱いて助永(すけなが)へ運び難をまぬがれました。

そして寛文三年(1663)に現在の場所に常行念仏堂を建て、後に本堂・阿弥陀堂・庫裡等が築かれ現在にいたっています。

 注:助永(すけなが)

長楽寺のある永室ですが、明治九年に助村と比村が合併して永室村となりました。

*写真:雨の後(600ごろ)の長楽寺

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志方町を歩く(87):お地蔵さん⑤・延命子安地蔵(長楽寺)

2011-08-23 08:26:39 |  ・加古川市西志方

きょうは地蔵盆

2007117日のブログに掲載した記事を少しだけ書き直しました。

きょうは地蔵盆です。長楽寺(志方町永室)のお地蔵さまを紹介しておきます。

長楽寺のお地蔵さんは近在では「子安地蔵」としてよく知られ、多くの書籍でも紹介されています。

詳しくは、それらをお読みください。

 長楽寺のお地蔵さん

Jizoきょうの夕方、長楽寺にでかけます。できれば、明日のブログで紹介します。

・・・・・

(200711・7、ブログより)

志方町永室の長楽寺に来ています。

集落から少し離れているためか音がありません。

先ほど、寺の前に車が着いたのかエンジンの音があっただけです。

この寺に素晴らしい地蔵様が安置されています。志方町で唯一の重要文化財です。

「延命子安地蔵」と呼ばれ、ふだんは安産祈願のため、多数の参拝の方があります。

この地藏は、様式から鎌倉時代から南北朝時代の作といわれ、座高71.7㌢で、台座をいれれば120.㌢の地蔵です。

ふつう、お地蔵さんは声聞形(しょうもんぎょう)、つまり坊さんの形です。

お地蔵さんは、民衆の苦しみをいやすことを専門業とする仏様あり、それも、生者の苦悩だけでなく、死者の苦悩もいやす仏様です。

地蔵崇拝は、貴族よりも民衆に、中央よりも地方に多いといわれています。

長楽寺の地蔵は、左足を台座より垂下して、蓮華を踏み、右足は台座上に膝をたて、その上に右手を置き、軽く右頬にそえておられます。

今は、左手の持物(じぶつ)はないのですが、もともとは錫杖を持っておられました。

何をお考えなんでしょう。

旅の途中でのひと休みのお姿でしょうか・・・

<蛇足>

お地蔵様の「旅」は、もちろんレジャーではありませんよ。悩める人を訪ねての行脚です。

*『加古川市史(第七巻)』参照

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志方町を歩く(86):お地蔵さん④・ささやきの地蔵

2011-08-22 08:10:40 |  ・加古川市東志方

東飯坂の話です。

   わしは谷の地蔵じゃ!

004「・・・ずっと昔の冬のある日、坂に西の方から、山沿いに一人の六部さんが歩いて来た。

(注、六部さん:書写した法華経を全国六十六所の社寺へ納めるために遍歴する行脚僧)

 日が暮れて間もない頃であったが、もう、その顔立ちや風体などは見分けられなかった。

大きなふろしき包みを大事そうに背負っていた。

いかにも疲れたらしい足どりで坂を下ってきて、村へ入ると道端の石の上に腰をおろして休んだ。

村の人が一人その前を通ったが、声もかけなかった。

しばらくすると、少々元気を回復したように腰をあげて、東の方へ歩いて行った。

もうとっぷり日は暮れていて、暗闇の中に呑みこまれるように、消えてしまった。

そのあくる日から不思議なことが起こった。

その六部さんが休んでいった日暮れの頃になると、例の道ばたの石の前を通る人の耳に、どこからともなく『わしは谷の地蔵じゃ』という、ささやくような声が、聞こえるのである。

日が経つにつれ『わしもその声を聞いた』『わたしも聞いた』という人が、だんだん多くなっていった。

そして、だれ言うとなく『あの六部さんが腰をおろした石が、ものを言うらしいぞ』ということになった。

すると、『あの六部さんが背負っていたのは、谷の地蔵さんにちがいない』という人もあって、噂は噂を呼んだ。

そして、何れにしても、これは谷の地蔵さんが、この村に教化をたれるためにちがいない。

あの六部さんは谷の方から来て、どこともなく消えていったが、あの石に地蔵さんがのり移られたのだ、ということに皆の意見が一致した。

それ以来、そのゆかりの石を谷の地蔵さんの分身としてお祭りすることになった。

毎年八月二十三日、四日は村中の年中行事として、地蔵盆を勤めている」

   うっと峠の頂上で祀られる

 「志方郷(第42号)」で磯野道子さんは、この話を『志方町誌』より紹介されています。

そして「平成の世に、石を祀ったお堂が壊れたので、石造りの小さなお堂を造ったが、石が大きくてお堂に入らなかった。

それで石の周りに柵を作った」と付け加えておられます。

石のある場所は、東飯坂の「うっと峠」をのぼりつめたところで、中央消防署志方分署のすぐ南で、お堂の前の道に面した所です。

明日は、八月二十三日、地蔵盆です。谷の地蔵さんへお参りしてきます。

「うっと峠」については後日紹介の予定です。

写真:ささやきの地蔵

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志方町を歩く(85):お地蔵さん③・仁王門地蔵

2011-08-21 09:11:53 |  ・加古川市東志方

002法華口を過ぎると、法華谷川は大きく向きを変えます。

そのあたりに仁王門地蔵堂(写真上)がありあります。

安置されている地蔵様は仁王門地蔵というのですから、ここに仁王門があり、ここから一乗寺までは仏の世界であったのでしょう。

仏や神の世界は、人の手の加えられないのが普通ですから、昔のこのあたりには大きな自然が残っていたと想像されます。

豊かな森から流れてくる冷たい清流は、もっと豊かで、初夏にはホタルが群れて飛んでいたっことでしょう。

「志方郷(第31号)」に、栗山玉枝さんは、子どもの頃を思い出しておつくりになった俳句をのせておられます。

  川ぶしん ホタルの宿が また消える

  山椒魚 棲むせせらぎに 鍬洗う

 そして、かつてこのあたりにオオサンショウウオがいたことも紹介しておられます。

「・・・夏休みに、この川をプールのように子どもたちが水泳をしたのを思い出しました。

 細い支流が合流するあたりにオオサンショウウオが見つかったのはいつの頃だったのでしょうか・・・」

オオサンショウウオが棲んでいた豊かな夢の世界だったんです。

仁王門地蔵さんは、遠い昔からそんな人々の生活を見てこられたんですね。

    

お地蔵様には子どもが似合う

004地蔵堂横を流れる法華谷川に架かる橋は「地蔵橋」でした。

地蔵橋の欄干には写真のようなレリーフ(写真下)が4枚はめてあります。

やはり、お地蔵様は子どもがよく似合う仏様です。

帰りに法華山西の総門の地蔵様の近くの大日堂地蔵、畑の穴地蔵、畑の村はずれの「しものはし地蔵」にもお参りしてきました。

法華口から畑の法華谷川沿いにはお地蔵さんが沢山いらっしゃいます。

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志方町を歩く(84):お地蔵さん②・胴切れのお地蔵さん

2011-08-20 07:57:56 |  ・加古川市西志方

    六地蔵

地蔵様は道端の草の中に、子どもの遊ぶ所に、亡き人を葬った場所に安置されています。

お地蔵さまは、人間と一緒に生活しておられます。

法華山一乗寺の裏参道にある墓地に「六地蔵」(一体は亡くなっている)があります。

お墓の入り口で、六体のお地蔵さんを見かけますが、仏教では人間の死後、生きていた時の行いにより、それぞれ六つの世界へ生まれかわるといいます。

その六つの世界とは、天上(てんじょう)・人間(にんげん)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・餓鬼(がき)・地獄(じごく)です。

あなたは、天国ですか?それとも、地獄ですか。

心配はいりません。

どの世界に行こうとも、そこへお地蔵さんが現れて死者の相談になってくださいます。

   胴切れの地蔵さん

021 そのため、六地蔵は、墓地の入り口などに安置されていますが、先日、「巡礼墓」(志方町を歩く・81をご覧ください)を訪ねたときです。

帰りに、巡礼墓の一角のすぐ西隣の墓にも寄りました。

六地蔵の一体がなくなり、五体のお地蔵さんでした。

お地蔵さまの像は、しばしば荒神谷(かつて一里塚のあった場所)の地蔵様や加古川町平野のお地蔵さんのように胴の部分が二つに割れ、多くはそれにちなんだ伝承をもっています。

ここの(五体の)六地蔵さんのすべては、胴や、首のところで二つになったお姿でした。

もちろん、民話・伝承なるものもありありません。

 何も語らず、必死に亡き人の霊を必死で弔ってくださっておられるお姿のようでした。

 そこには木をゆする風の音と、ときどき、一乗寺へお参りをする自動車の通り過ぎる音が聞こえるだけでした。

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志方町を歩く(83):お地蔵さん①・法華山西総門傍のお地蔵さん

2011-08-19 07:54:38 |  ・加古川市東志方

   地蔵盆の頃

016地蔵盆が終わると、夏休みも残り1週間ぐらいです。

宿題の残りが気になりだします。

あんなにうるさかった蝉の声はいつのまにか聞こえなくなります。

空には入道雲から秋の雲に変わりつつ、夏の終わりの寂しさだけが残ります。

でも、今年は、823日の地蔵盆の頃にも入道雲は頑張っていそうです・・・

二年ほど、稲美町を歩き回りました。

その時は、「稲美町では庚申さんの像が多いな・・・」と感じました。

2ヶ月ばかり前から志方を散策しています。今度は「地蔵さんが多いな・・」というのが実感です。

   お地蔵さん
「地蔵菩薩」ではしっくりきません。この仏ばかりは「お地蔵さん」と読んでみたくなります。

志方町では、村の入り口、町の角、田畑のすみ、峠の頂上、お墓などお地蔵さんはどこにでもおられます。

ともに遊んだ仏様です。ともに悲しんでくださった仏様です。

これほど、みんなに親しまれた仏は外にありません。

全国的に一番たくさん作られたのはお地蔵様でしょうが、志方町では特に、かつて、お地蔵さまと一緒の生活があったようです。

8月23日は地蔵盆です。

少し、志方町・お地蔵さんについ考えてみましょう。

法華山西の総門の地蔵さん

17日(木)、一乗寺へ出かけました。

法華山西の総門の傍にお地蔵さん(写真)が道行く人を見守っておられます。

A子:お地蔵さん、お元気ですか。

地蔵:暑くてたまりません・・・

A子:じゃ、この帽子をかぶりなさいね。

地蔵:遠慮なく、いただきます。たすかります。

こんな会話ができそうなのがお地蔵さんです。

お地蔵さんは帽子をかぶっておられました。

だれがかぶせてあげたのでしょう。

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志方町を歩く(82):法華口の道標

2011-08-18 07:54:19 |  ・加古川市東志方

      西国三十三観音霊場めぐり

Sarah_and_054西国三十三観音霊場めぐりは、平安時代中期ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねるようになりました。

人々は病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えると、お礼のために、また亡き人の供養のために、罪を犯した者は滅罪のために、さらには自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音めぐりにでかけました。

第一番の札所、那智山西岸渡寺(和歌山県)から最後の谷汲山華厳寺(岐阜県)までの旅は、現在と違い苦行そのものでした。

江戸時代になり治安も確立し、交通機関も整備され、三十三所めぐりも比較的やりやすくなり、かつての苦行巡礼は、今で言うレクレーション的な性格さえ持つようになりました。

     法華口の道標

010姫路方面からの巡礼者は、野深池の近くで「左 ほっけ山」(写真上)の道標に出あいました。

ここから少し行くと法華口で「直 法華山道」(写真下)の大きな道標に出会います。

巡礼者は、この道標を見た時、法華山に着いたと安堵したことでしょう。

もうすぐ行くと一乗寺(二十六番札所)です。

この二㍍もある道標にはいろいろな情報が書き込まれています。

建立は文政四年(1821)で、願主・世話人は地元・畑村の薬屋十兵衛です。

昔から法華山は薬草の宝庫いわれていました。

「志方郷(第38号)」で磯野道子氏が、この界隈について書いておられるので、お借りします。

「法華口には昔から宿屋が六軒もあった。

書写山(姫路方面)から歩いてきて宿をとった人、法華山へ参ってとまった巡礼もあったという。

しかし、最後は剣坂屋・ふじ屋という二軒の宿屋が残っていたことを覚えている・・・」(志方郷・28より)

巡礼が歩いた道は広くなりました。やがて、コンクリートの道になり車の往来が多くなりました。

バス、自家用車での巡礼が増えました。やがて、このあたりからにぎわいが消えました。

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志方町を歩く(81):巡礼墓

2011-08-17 07:53:40 |  ・加古川市東志方

Sarah_and_047「志方郷(第18号)」で、池本寅男氏が「法華山無縁墓地(写真上)の清掃奉仕」という記事を書いておられます。

最初の部分を読んでおきます。

「知っている人は少ないと思うが、無縁墓地を私たち金正寺(投松・ねじまつ)仏教壮年会と仏教婦人会数十人で清掃奉仕をしている・・・」

池本氏の文を読んだ時、40年ほど前にここを訪ね、簡単な調査をしたことがありました。

懐かしく、さっそく出かけました。

場所は、すぐ思い出しました。

 *場所:志方町畑字北山1089番地(一乗寺墓地の奥に隣接しています)

半ズボンとスリッパで出かけたものですから、たちまち蚊の襲来に出あいました。冬にでも、もう一度出直します。

そして、ゆっくり調査をしてみます。

    巡 礼 墓

Sarah_and_049ここの多くの墓は「巡礼墓」です。

江戸時代、諸国を往来する人・巡礼の旅に出かける人は「往来手形」を持って出かけました。

一乗寺は、西国二十六番札所で昔から大勢の方のお参りがありました。

途中で体を悪くし、途中で亡くなられる人もありました。

「往来手形」の文言は大体決まっており、「・・・万一急病などにて死去いたし候節は、その場所の御作法をもって宜敷く(よろしく)お取りおきくださるべく候。

もっとも国元へお届けにおよび申さず候。・・・」という文言も含まれていました。

池本さんの仲間が墓標を調べられた結果、宝永六年(1709)から文政十三年(1830)の墓標であることが分かりました。

また、被葬者は関東地方が大多数で、近くは三重・岡山の巡礼墓もあることが判明しました。

*写真下の巡礼墓

 (文化十二年(1815) 甲州八代郡 定右エ門の銘がある)

詳しい調査結果は「志方郷(18号)」に掲載されていますのでご覧ください。

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