ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

八幡町探訪:清麻呂と猪(八幡神社の伝承)

2007-03-31 08:59:25 |  ・加古川市八幡町

Ef95b081  奈良時代、大仏開眼を頂点に、天平の繁栄は終わりを告げようとしていた。

  聖武天皇、光明皇后はあついで亡くなった。

  後を継いだのは、光明皇后の生んだ、ただひとりの娘の女帝・孝謙天皇(こうけんてんのう)であった。

  孝謙天皇は、信頼していた藤原仲麻呂(恵美押勝)にも裏切られ、悶々とした気持にあった。

  そんな時である。女帝(44才)の前に、英才の僧・道教が現れた。

  独身の女帝にとって道教は、初めての恋人であったとも言われている。

  彼は、呪術をもって女帝の病気を治してから、その寵愛を一心に受け、天皇の地位にも並ぶほどの「法王」の地位を授けられた。

  この時、朝廷を揺るがす大事件がおこった。

  「道教を天皇の位につかせたならば、天下は太平になるであろう」という、宇佐八幡宮(大分県)のお告げが朝廷にもたらされたのである。

  ことの真実を確かめるべく、和気清麻呂が宇佐へ使わされることになった。

  (挿絵は道教と和気清麻呂・戦前の教科書より)

  ここで、八幡神社(加古川市八幡町)の伝承が登場する。

  清麻呂は、都をたって播磨の国・望理里宗佐(まがりのさとそうさ)までやってきた。

  道教の差し向けた刺客たちが清麻呂を囲んだ。・・・その時、空がにわかに曇り、山から大きな猪が現れ、道教の放った刺客に襲いかかり、次々とけちらした。

  そして、清麻呂は無事宇佐に着き、宇佐の神のお告を確かめた。

  その内容は「わが国は、開闢(かいびゃく)以来、君臣が定まっている。道教のような皇族にあらざる人を皇位につけてはならない」というものであった。

*『日本史探訪・4』(角川文庫)参照

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八幡町探訪:八幡の厄神さん

2007-03-30 09:36:10 |  ・加古川市八幡町

_387_2   「八幡町探訪」で、まず取り上げなければならないのは「八幡神社」である。

  今日は、八幡神社の祭礼「八幡の厄神さん」のようすを紹介したい。

  八幡神社の祭りは「宗佐の厄神さん」ともいわれ、古くから播州名物の大祭りであった。

  『ふるさと・やはた』(昭和59)で、本岡豊二さんは、次のような手記を寄せておられる。

  一部、転載させていただきたい。

  ・・・古くは旧暦の1月18・9日が大祭日であったが、大正時代「いつまでも旧暦では」と現代のその日にもっとも近い頃の2月18・9日に定められた。

  ・・・当時の氏子の青年団は、自転車の預かり料が年間の大きな収入源になったそうである。・・・

  「厄神駅」からは、増発便で着いた参詣客が、後からあとからならんで、お宮まで約1.5キロの列が続いた。

  ・・・最高潮時には、石段から拝殿付近は人が溢れかえって歩けなかった。

  サーカスのジンタが高く耳に響いて、雰囲気をいっそう盛り上げていた。

  数百を数える露天商人の大半は「いわこし」(粟おこし)売りの店で、植木屋さんも多かった。

  八幡の厄神さんは、現在でも人手は多いが、昔を知るお年寄は「静かになった」と語っている。

*『ふるさと・やはた(加古川農業改良普及所)』(昭和59)参照、写真は「八幡神社」

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八幡町探訪:国包は、元加古川西岸の村

2007-03-29 09:27:41 |  ・加古川市八幡町

836962ce     右の図は、「元禄播磨図会(部分)読解図』から、さらに現代の八幡町付近を残したものです。

  郡堺が描かれている。

  国包(くにかね)に注目してほしい。

  国包は、加古川東岸にあるが八幡町ではない。不思議なことに加古川市上荘町に属している。

  その昔、郡堺が決められた時、「ここを加古川が流れ、印南郡と加古郡の堺にしたのではないか」と考える。

  記録によると、国包は元加古川の西岸の村であった。

  村が移動したのではない。

  嘉禄元年(1225)、この地を大洪水が襲った。そのため国包村は流され、あとは一面の河原となった。

  この洪水で、村の一部は川西へ移っている。

  古代より、加古川は暴れ川であり、嘉禄元年以前も、以後も加古川はしばしば流路を変えた。

  そのため、『風土記』の時代(奈良時代)、と嘉禄元年(鎌倉時代)の直前の風景は同じではないであろうが、古代の加古川の流れは、国包・八幡地区あたりで、大きく湾曲していたことは確かなようだ。

  昨日のブログの復習をしたい。

  『風土記』の時代(奈良時代)、八幡地区は望理里(まがりのさと)と呼ばれていた。

  つまり、郡堺が語るように美嚢川と加古川が交わるあたりから加古川の流路は、大きく湾曲して流れていた。

  望理里は、湾曲した加古川に沿った村々であった。

  国包には、洪水の時の避難所である築山(つきやま)が、今でも残っている。この地域は水害の歴史を刻んだ。

  築山については、昨年7月18・19日のブログをご覧ください。

*『加古川の流れ(建設省近畿地方局・姫路地工事事務所)』(1975)参照

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八幡町探訪:望理里(まがりのさと)

2007-03-28 10:23:40 |  ・加古川市八幡町

661d2871_1   『播磨風土記』が作られた奈良時代、八幡・神野地方は、望理里(まがりのさと)と呼ばれた。

  風土記の一部を読んでおきたい。

  ・・・景行天皇(けいこうてんのう)が巡幸の時、この村の川の流れが曲がっているのを見て「この川の曲がり具合は、はなはだ美しい」と仰せられた。それで、この地を「望理里」という・・・

  加古川は、今も美嚢川(みのがわ)と加古川が合流点あたりから、流れは西に弧を描きながら流れている。

  『播磨風土記』が書かれた奈良時代、この辺りの流れは現在の流れと大きく異なっていたようである。

  加古川は、宗佐(そうさ)の辺りから、国包(くにかね)の東を流れ、船町・下村のあたりから流路を変え、中西条の西に流れていたと考えられる。

  八幡地区は、加古川が大きく曲がった東岸の地域に広がった、まさに「曲がりの里」であった。

  山頂から眺めた望理里は、まさに絶景であったことであろう。

  景行天皇ならずとも感激したに違いない。

  「しかし」とその後を続けなければならない。

  古代より加古川は、暴れ川である。

  大きな台風、それに長雨の時など、加古川はきまって洪水を引きおこした。水は、まっすぐに流れようとする。

  望理里は、まさに洪水の直撃をくらう地域でもあった。

  そんな証拠が地図に残されている。明日のブログでは、それを見たい。

*『加古川の流れ(建設省近畿地方建設局・姫路工事事務所)』(1975)参照

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八幡町探訪:冊子『ふるさと・やはた』

2007-03-27 07:48:15 |  ・加古川市八幡町

55ba41de   「八幡町探訪」に出かけたい。

  明治22年、町村制実施に伴い、地図のように野村(野村新村と野村は、明治初年に合併し野村となる)・宗佐(そうさ)・下村・船町・上西条・中西条が合併して「八幡村」が誕生した。

  史料がないため、詳しくは分からないが、この地区にある「厄神・八幡神社」から、八幡を「やはた」と読ませ、村名にしたようである。

  今日から、加古川市の北東部に位置する「八幡町探訪」に出かけたいが、詳しいことは知らない。

  下記のメールに、お教え願えたらありがたい。

  幸い、私の手元に、「ふるさと・やはた」と言う冊子がある。

  下村・宗佐・中西条の高齢者の力作である。

  明治・大正・昭和の八幡町の歴史は、この冊子を紹介させていただきたいと考えている。

  冊子の「あとがき」に、「・・・編集者として20年・30年先には、おじいちゃん・おばあちゃんたちが書き残した貴重な財産になるようなものを作りたい・・・」と書かれている。

  この冊子の発行は、昭和59年3月であるから、発行から23年がたつ。

  「あとがき」にある、まさに「20年・30年先」になった。

  貴重な冊子である。冊子の存在を知る人も少ないであろう。

  八幡町の古いところは、『加古川市史』などを参考にして、八幡町を再現したい。

  もっとも、他の町の紹介と同様、かなりの独断と偏りを持った記述になると思うが、お付き合い願いたい。

  (Email)  qq7z6tn9@mist.ocn.ne.jp  宛名は「ひろかず」です。

*なお、10日間ブログを休んだが、チベットのラサに行った。ラサについても、別の機会に紹介したい。

  

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加古川町探訪:宝湯

2007-03-16 09:34:54 |  ・加古川市加古川町

_384  個人的な話からはじめたい。

  『近代の歴史遺産をたずねて』に「宝湯」(加古川市加古川町本町)の項をみつけた。

  「エエ、これが歴史遺産!」と思ってしまった。というのも子供の頃、ほとんど毎日「宝湯」を利用していた。

  少し、この本から引用したい。

  「・・・このお湯が、お目見えしたのは昭和4年。当時、JR加古川駅に近いこの辺りは一面、水田地帯で、その真ん中にポツンと建てられたと言う。

  二階は、かつて風呂あがりの客がよく利用した休憩用の畳敷き和室。・・・社交場の少なかった当時、行けば人の消息、動き、町の出来事がたちどころに分かるので、いつもにぎわっていた・・・」とある。

  私の知る「宝湯」(昭和27年ごろから30年代前半)は、二階の休憩所は、既に使われていなかった。

  とにかく、大人は風呂あがりに、よく牛乳を飲んでいた。子どもはお金がなく眺めるだけだった・・・

  昨年6月にはじめたブログも、今日で267回になりました。アクセス数に励まされて、何とかエンコすることなく続いています。

  今後も、続けたいと思いますが、明日からしばらく(10日間ほど)私用のため休みます。3月27日頃から再開しますのでよろしくお願いします。

  次回からは「八幡町探訪」を予定しています。

  なお、「加古川町探訪」で、鶴林寺を取り上げていません。少し勉強不足です。後日取り上げる予定です。

*『近代の歴史遺産を訪ねて』(神戸新聞出版センター)参照

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加古川町探訪:誓文払い

2007-03-15 08:38:06 |  ・加古川市加古川町

Eade9d65    加古川市に「誓文払い(せいもんばらい)」という、商店がこぞって参加する年末の大バーゲンセールがあった。

  狂おしいほどの賑わいであった。

  「誓文払い」は、もともと京都に始まった行事らしい。

  広辞苑は「・・・一年中、商売上の駆け引きで嘘をついた罪を払い、神罰の赦免を請う行事。この日、呉服店は特に安値の売出しをする・・」と説明している。

  もとの意味はともかく、姫路では12月1日から5日間、加古川ではその後日曜日を中心に5日間が「誓文払い」だった。

  地元商店だけでなく、遠くは大阪からも商人が大挙して押しかけるほどの大セールだった。

  寺家町・本町商店街は、写真のように満員電車なみの人混みとなった。

  そのはずである。三木・小野・西脇など東播磨一円から人が加古川に集まった。

 _380_2  (写真は、「人形の店・陣屋」から、10メートルほど西の本町商店街の「誓文払い」時の風景。西の方向を撮っている)

   それに、姫路・明石は空襲で焼け野原になったが、加古川はほとんど無傷で戦後から7・8年の盛況は今からは想像もできない。

  「誓文払い」が近づくと、我々悪がきもワクワクした。誓文払いと一緒にサーカスが町にやってきた。

  『新・かこがわ事典』は「・・・こまったことは公衆便所がすくなく、路地はどこもかしこも“臭い臭い小便路地”になっていた・・・今ではとても想像すらできないことですが、ご婦人方も結構立小便をされていた・・」と、こんな話も取り上げている。

  当時の、公衆便所(写真)が「人形の家・陣屋」の西の道のすぐ奥に現役で残っている。

  ・・・・寺家町・本町から「誓文払い」のザワメキが消えた。

  人は大型販店に押しかける。そして神戸・大阪へ買い物に出かける。

  時の流れとばかりで済まされない。「無策」という言葉が残る・・・

*『新・かこがわ事典(新・かこがわ事典編集委員会)』参照

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加古川町探訪:ニッケの労働争議

2007-03-14 08:32:08 |  ・加古川市加古川町

6c3eba48    おおいざ進めわが工手 正義のための戦いに・・・

  日本毛織労働組合・誠和会の組合歌の一節である。

  第一次世界大戦後の大正13年4月13日、日本毛織労働組合・誠和会は結成された。

  誠和会は、労資協調の穏健な労働組合であったが、会社側は組合の結成を頑として認めようとはしなかった。

  そればかりか、労働組合幹部全員に解雇を通告したのである。

  職工の会社側への不満は爆発した。

  その背景には、次のような労働の実態もあった。ある女工の証言である。

  「・・・朝六時から晩の六時まで、六時がなってやれやれと帰ってくる。風呂から帰れば七時を過ぎている。十時に就寝すると、我等の勝手に使用する時間は、二時間ばかり・・・・」

  それに職工(ブルーカラー)の社員(ホワイトカラー)に対する不満もあった。また、男女差別の熱烈な叫びもあった。

  昭和2年、誠和会が結成されて3年目、会社側は第二組合を組織した。それに反対して、大規模なストライキに突入した。

  活動家は、ほとんど解雇された。結果は、組合の完敗であった。誠和会は解散した。

  その後、戦後まで日本毛織(ニッケ)に争議はなかった。

  そして、戦後の民主化の中で、昭和21年再びニッケに労働組合が結成された。右翼の青年が組合つぶしに加わったこともあった。

  組合の左右の対立が激しくなった。徐々に左派の影響は失われていった。

  誠和会については『加古川市史(第三巻)』に詳しい記述がある。

*写真はニッケの女子工員(大正末期)であるが、労働争議と直接関係がない。

 『目で見る加古川・高砂の100年』、『私たちの昭和史・上』(神戸新聞社編)、『加古川市史(第三巻)』参照

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加古川町探訪:日本毛織

2007-03-13 08:05:37 |  ・加古川市加古川町

80284f9e    日本毛織株式会社(以下ニッケとする)は、当初明石市で建設が着手されたが、明石は宮内省御用邸の候補地に選定されていたため急遽、移転先として加古川が選ばれた。

  理由は、加古川の水量・水質が工場に適していたこと、それに何よりも広大な土地の確保が可能であったことなどによる。

  明治32年(1899)、加古川工場(加古川市加古川町)がほぼ完了し、生産が開始された。

  この時期は、日清戦争後で軍用絨の需要が続いていた。

  生産が追いつかないほどであった。

  製品は、輸入品と比べて比較にならないほど劣っていたが、創業後まもなく輸入品に対抗できるほどになった。

  明治35年(1901)から翌年にかけて戦後恐慌が襲った。国内の毛織物業の倒産があいついだ。ニッケも生産量は減少した。

  こうした状況を打開するために、ニッケは政府需要へ依存する方針をとった。

  利潤は、少ないものの安定性はきわめて魅力的であった。

  ニッケにとって日露戦争は、まさに干天の慈雨となった。日露戦争は、日清戦争と比べて規模も大きく、ニッケへの軍需品(軍服・毛布など)の注文が殺到した。

  日露戦争後もこの傾向は続いた。

  ニッケは、いっそう、政府依存の傾向を強め、軍需品の需要の激増により市中向けの製造を中止して、軍需品の製造により全力を注いだ。

  日露戦争を契機に一層の飛躍をしたニッケは、その後も大規模な工場拡張を続けた。

  大正8年(1919)には、印南工場を建設した。

  加古川工場では、主に軍需品や官公庁向けの製品を生産したが、印南工場では第一次世界大戦景気の民間の需要にこたえるものであった。

  戦前、ニッケは、まさに戦争と共に工場の基礎を築いた。

 *『加古川市史(第三巻)』参照

  写真のニッケ加古川工場は『写真集・加古川』(玉岡松一郎)より

 

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加古川町探訪:トロッコ橋

2007-03-12 08:21:28 |  ・加古川市加古川町

894b6787    9日のブログ「旧加古川大橋(大正2年)」を取り上げた。

  さっそく、太子町のIさんから「昭和35年地形図には、加古川大橋とJR鉄橋の間に加古川をまたぐニッケの専用線があります(現在はない)。その史実が分かれば取り上げていただきたい・・・」とのメールをいただいた。

  今日は、橋の写真と思い出だけをとりあえず掲載させていただきます。詳しく分かれば後日再度取り上げたい。

  地図にある橋は、写真(上)のように加古川工場と印南工場(いんなみこうじょう)を結んでいた。

  このメールをいただいた時、懐かしい橋の風景が浮かんだ。

  F0353051_2 私の小学校卒業は昭和30年であるが、この時、この橋は既に使われていなかった。

  橋を覆っていたレールとレールの間の板は、所々なかった。もちろん通行禁止であった。

  それに、この橋の中央部の川の流れが速かった。川面が板の隙間から見えたので、そう感じただけかもしれない。

  私たち悪がきどもは、その流れを見ながら恐るおそる渡ったものである。

  渡り終えると、安堵感と満足感があったことを覚えている。注意されたことは一度もなかった。

  橋を渡りきった先はニッケ印南工場である。ニッケ印南工場は、大正8年(1919)に加古川工場と同規模の工場として建設された。

  (ニッケ加古川工場は、明治32年操業開始)

  トロッコ橋とよばれたこの橋は、大正10年頃に架設された。印南工場の建設と同時に計画されたらしい。(写真:下の対岸の工場が印南工場)

*写真は『写真で見る明治・大正・昭和初期の加古川』(加古川総合文化センター)より

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加古川町探訪:宮本武蔵

2007-03-11 08:19:13 |  ・加古川市加古川町

75ddbd3f    吉川英治の小説『宮本武蔵』は大好評をはくした。

  吉川は、武蔵の生誕地を「作州大原(岡山県)」とした。

  そのため、武蔵は作州人だと信じられている。

  近年、この説に異議が唱えられている。つまり、「宮本武蔵は高砂市米田町生まれである」とする説である。

  その根拠になったのは、泊神社(加古川市加古川町木村)に宮本伊織(武蔵の養子)が奉じた棟札の発見である。

  棟札を少し説明を加えながら紹介したい。

  ・・・・武蔵は赤松一族の出身である。武蔵誕生の250年ほど前のことである。

  赤松持貞は、こともあろうか将軍の側室に手をだしてしまった。持貞は切腹を命じられ、嫡男の家貞等一族は、印南郡の米田に追放になった。

 238e7c2_2 名も田原に変え、地侍として勢力を伸ばした。

  そして、家貞から五代目に名前も同じ家貞の時、二人の男子がいた。その弟の武蔵玄信は、作州・新免(しんめん)氏の養子になった。

  新免氏は、後に宮本と名を変えた。宮本武蔵の誕生である。

  武蔵にも子どもがなかったので、伊織を養子とした。

  武蔵は、明石藩の小笠原に仕えていたが、豊前の小倉に移ったので伊織もそれに従った。伊織15歳の時であった。

  伊織は、小倉藩で家老にまで上りつめた。

  武蔵の死後8年目の承応二年(1653)、伊織は武蔵の出身地・米田の氏神である泊神社の老朽化がひどく、田原家の祖先供養のために社殿を新しくした。

  よけいな説明を加えたが、発見された棟札には武蔵の出自を書いている。

  武蔵の生誕地「播磨の国・米田説」は、俄然説得力を持ってきた。

  武蔵は『五輪書』でも、はっきりと「生国播磨」と書いている。

*写真下:伊織奉納の棟札(泊神社)。なお、伊織奉納の灯篭が社殿の裏にある。

  

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加古川町探訪:泊神社

2007-03-10 08:08:18 |  ・加古川市加古川町

_283    『播磨鑑』の記述に「泊神社には4人の神官がおり、真言宗に属した神宮寺の僧と神人(みこ)一人がいた」とある。

  かなりの大社であったようだ。

*神宮寺・・・神仏混交の考え方で、神社に奉仕するために建てられた寺。

  泊神社の氏子に注目したい。

  泊神社の氏子は地元の木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の五ヵ村が祭礼の世話をするが、さらに塩市・米田新・古新・米田・船頭など加古川右岸(西側)一帯に広がっていた。

  木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の村々は、明治22年まで印南郡に属していた。記録にはないが泊神社(木村)は、もともと加古川の右岸にあったのであろう。

  (印南郡、加古郡そして加古川の流路については、2月8・9日のブログ・「分岸寺川」をご覧ください)

  「泊」は港(水門・みなと)を意味する。

  『日本書紀』に「鹿子の水門(かこのみなと)」が加古川の河口部にあったという。

  研究者は、「鹿子の水門」は、現在の稲屋(加古川市加古川町稲屋)辺りで、当時は、このあたりまで海が迫っていたと推定している。

  泊神社は地域の氏神であり、古代の港(水門)の守護神であったと考えられる。

  さらに、 『加古川市史(第一巻)』は、「・・・紀伊の国懸(くにかかす)大神を勧請したり、境内社に熊野神社・住吉神社・島姫神などを祀っていることからも、当社が熊野衆、その他海賊たちと深い関わりを持っていたことが暗示していると思われる」と記している。

  松林、港そして神社の風景が目に浮かぶ。泊神社は潮風のにあう神社であった・・

*『加古川市史(第一巻)』参照。「鹿子の水門」については、1月4日のブログをご覧ください。

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加古川町探訪:旧加古川大橋(大正2年)

2007-03-09 09:15:58 |  ・加古川市加古川町

_377     加古川の大橋(国道2号線)のすぐ北の川面に転々と橋げたの土台の部分(写真右)が続く。

    今日は、この橋げたの土台の話をしたい。

  加古川は、古代から流路を何回も変えた暴れ川だった。

  そのため技術的な問題もあったが、江戸時代は、何よりも姫路城の防衛のため加古川には橋が架けられなかった。

  明治以後、幾度となく橋が架設されたが、流失している。この経過を『加古川市誌(第一巻)』にみたい。

 明治7年  粗造の木橋を架設  

     明治12年5月11日流失(再建されるが14年再び流失)

 明治16年8月31日  新しく架設

     明治25年7月24日流失

 明治27年3月31日  新しく架設

     明治29年以降毎年の洪水のため破損がひどくなる

 大正2年6月 本格的な鉄の新橋架設

 大正13年8月15日、現在のもとになる加古川大橋完成

Ffaff4f5   大正2年、毎年のように発生する洪水のため兵庫県は、やっと本格的な鉄の橋を建設した。それまでは木の橋であった。

  写真(下)は、大正2年完成の橋であり、写真(上)は、その時の橋げたの土台部分の跡である。

  個人的な話で申し訳ないが、中学生の頃、この橋げたの土台あたりが、私の水泳場所だった。

  もっぱら、セルビン(セルロイドの大きめの魚を取る道具。焼きぬか・さなぎ粉を入れるとよく魚が入った)を仕掛けた。川底の深いところも良く覚えている。

  40年以上も昔の話になった・・・

*写真(下)は『写真集・加古川』(玉岡松一郎編)より

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加古川町探訪:加古川駅(人馬引継問屋場)

2007-03-08 08:23:37 |  ・加古川市加古川町

A6f63c1a_1    JR加古川駅は、すっかり装いを変えた。新しくなる前の駅舎の入り口に向かって少し左に、比較的大きな「加古川駅」(写真)があった。

  この標柱の南面に、次の文字が刻んである。

   西国街道播磨国

   加古郡加古川駅

  加古川駅ができたのは、明治21年(1888)で、標柱はこの加古川駅のものではない。

  西国街道と言うのであるから、江戸時代のものである。

  (現在、この標柱は工事のため移動して保管されている)

  江戸時代、加古川の駅(人馬継立問屋場)は、陣屋の東隣にあった。

  とすれば、この標柱は、そこから北のどこかにあったことになるが、元あった場所は分からない。

  寺家町から日岡神社へ向かう中津(加古川市加古川町中津)あたりの道沿いにあったのではないかと想像する・・・

  7世紀、奈良と九州の大宰府を結ぶ山陽道が整備された。

  山陽道は加古川を通り、野口には「賀古の駅(かこのうまや)」がおかれた。(賀古の駅については、昨年9月29日のブログを参照ください)

  鎌倉時代には交通の要所としての駅は、野口から寺家町へ移ったようである。

E50bfbf7   特に、江戸時代、加古川の宿の人馬継立問屋場(といやば)、つまり加古川の駅は大いに栄えた。

  大がかりの輸送業務が重なったときには、戦場のような大騒ぎになったという。

  *「問屋場の風景」は、加古川宿サロンの岡田義治氏作制の「文(分)岸寺慕情図絵」より、問屋場で荷駄の引継ぎをする人足。

◇お詫び◇  昨日のブログで常住寺がプラザ・ホテルの場所から現在の場所に移ったのは昭和29年と書いたが、59年の誤りです。(今朝、誤り気がつき訂正しました)

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加古川町探訪:加古の松

2007-03-07 07:44:35 |  ・加古川市加古川町

D703cb71    『加古郡史』から、常住寺の縁起を少し拾ってみたい。

  「・・・殷賑をきわめた常住寺は、嘉禄のころ(1225~7)加古川の氾濫により堂塔・記録類は残らず流されてしまった。

  ただ、薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将だけが松の木に留まり残った。

  この松が、加古の松である」

  縁起はともかく、『播州名所巡覧図絵』にも、みごとな「加古の松」(右絵図・部分)が描かれている。絵図の常住寺の境内の大きな松がそれである。よほど立派な松であったようだ。

*図絵(部分)の制作は、加古川宿サロンの岡田義治氏。

  『加古川の昔と今(加古川の文化を語る会)』(昭和57年発行)で、M氏は、昔の思い出として「・・残っていたのは二代目です。その枝が常住寺さんから出とったんです。大きなもんでした」と語っておられる。

_373_1   二代目の「加古の松」のあった常住寺は、ブログ(本陣:2月7日)の絵図にあるように、寺家町の本陣の北の西国街道沿いにあった。

  それが、昭和26年「日本毛織」の拡張に伴い、現在のプラザ・ホテルの場所に移り、三代目の松が植えられた。

  その後、昭和59年、加古川駅前の再開発に伴い、現在の場所(加古川市加古川町本町・加古川消防署の近く)に移転した。

  常住寺は、曹洞宗の堂々とした寺院である。

  山門の横に「鹿兒枩」(加古の松)の石柱(写真)がある。その横に枝振りのよい四代目の「加古の松」が育っている。

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