ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川の戦争(4)・皇紀2600年

2006-08-31 10:40:59 |  ・加古川の戦争

973b775a   2月11日は「建国記念の日」(建国記念日ではない)である。

  この日、初代の天皇・神武天皇は奈良の橿原で天皇になる儀式をしたという。

  昭和15年(1940)は、その式典から数えて2600年目(皇紀2600年)にあたるという。

  氷丘小学校の『創立80周年記念誌・くすの木』に、当時のようすを伝える1枚の写真が掲載されている。(この式典は、全国の学校で行われた)

  この年は、日独伊三国同盟・大政翼賛会の結成等、日本は着実に戦争準備を整えていた。

  皇紀2600年の式典も戦争に備えて、国民の意識を高め、団結を強める意味があった。

  昭和16年12月8日、日本は真珠湾を攻撃し、無謀な戦争へ突入した。

  少し付け加えておきたい。皇紀2600年の式典のあった、1940年をさかのぼること2600年前は、縄文時代であり、天皇は、もちろん存在しない。

  あくまでも神武天皇は、神話(伝説)の世界での人物である。

*写真は、氷丘小学校『創立80周年記念誌・くすの木』より

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加古川の戦争(3)・高射砲隊炎上

2006-08-30 16:50:12 |  ・加古川の戦争

_001   写真は、播磨化成(野口町水足)の西を流れる新井用水にかかる橋である。

  また、水足の土坂(どさか)にかかる橋には「連隊橋」とある。

  今は、播磨化成、陵南中学校のある場所に戦前は陸軍の高射砲隊が置かれており、これらの橋の名前は、当時、その高射砲隊から名づけられた。

  高射砲隊については、後日さらに調べたいが、今日は、この高射砲隊の火事について、『水足史誌』から引用したい。

   「・・・(昭和17年4月27日)当日は、部隊への応召による入営式があり、その者らを集めて担当将校が何か訓示を与えていたところ、入隊者の一人が、「教官殿、兵舎が燃えています」と指した。・・・兵舎の猛火は猛り狂い、火の粉は、特に屋根瓦下に敷かれた黒く厚い紙ルーフィングが、赤い熱火となって2~300mも離れた水足の民家に飛び散り、藁屋根に落下すると、吹きつける風にあおられて、瞬く間に屋根が燃え上がる。当時40軒ばかりあった藁葺きの家は次々と燃え盛っていた・・・」

  (高射砲隊は)軽油庫、弾薬庫、砲車庫等を残し、2階建ての連隊部棟、2階建ての兵舎2棟、その他ほとんどを全焼している。これ程の大事件も軍の機密保持のため、翌28日の新聞には、営舎火事は一切発表されず・・・」とある。

  *詳細については『水足史誌(水足町内会発行)』をご覧ください。

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加古川の戦争(2)・幻の鉄道

2006-08-26 10:40:46 |  ・加古川の戦争

5cbd52de_1   地図が見にくくて申し訳ないが、加古川駅から東に鉄道がまっすぐにのび、水足あたりで北へ向きを変えている。

  この地図は、昭和25年のものです。

  この鉄道について、水足の方に聞いてみました。

  「そうそう、懐かしいですね。汽車がありましたわ・・」と、この鉄道のことを思い出してくださいましたが、それ以上のことは、分かりません。

  以前に小林精男(故人・加古川線を播州鉄道といっていた時代、運輸部総務課長をされていた)に聞いた記録がある。

  「・・・日岡山にある刑務所は、戦前、神野倉庫と呼んでおり、今の加古川駅からこの鉄道で火薬を運んでいたんです。

  もともと、神野倉庫のあたりは山でしたので、その土を“尾上飛行場”に使ったんです・・・なにせ、あの広い場所が火薬庫でしたから、外に機密がもれると大変だったのでしょう、憲兵や秘密の警察による警戒が厳しくてね・・・」

(小林さんに聞き取りをしたのは1994年)

*しばらく、「加古川の戦争」をとりあげたい。仕事の都合で、明日から3日間ブログを休みます。

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加古川の戦争(1)・高射砲隊

2006-08-25 12:25:15 |  ・加古川の戦争

  昭和11年のことである。水足(加古川市野口町)に高射砲隊の施設が、設置することに決定した。村人にとっては寝耳に水であった。

  しかし、住民の意見などが認められる時代でBbb0f4c_2 はなかった。相手は、なく子も黙る陸軍である。

  形ばかりの話し合いがもたれた。この場では、地元から水足村に決まった説明を求めている。主な理由は、次の3点であった。

  (1)既に活動している尾上飛行場との距離が近い。

  (2)工事が行いやすく、国道に近い。

  (3)土地の買収が一つの村で好都合である。

  土地の買い上げについては、軍も村の実情をくみとったのか若干高く買い上げている。しかし、これは地主に対しての配慮であり、小作には何の保障もなかった。

  水足経由で、加古川駅と神野倉庫(弾薬庫:今の加古川刑務所はその跡地)とを結ぶ鉄道も敷設され、村人も利用できるとのことであったが、その事実はなかった。

注:高射砲隊が設置された場所に、現在、播磨化成・陵南中学校・大規模スーパーマーケットがある。

*『水足史誌』参照、 写真は『加古川・高砂の100年』(郷土出版社)より

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加古川地方の綿作(5)

2006-08-24 21:14:25 | 加古川市

Ffc7ef00  江戸時代も終わりの頃、特に文化文政期(1800年代のはじめ)、加古川地方の綿作は、ずいぶん盛んだった。

  中でも海岸部の尾上地区がその中心であった。

  尾上の池田・養田(ようた)にその例を見ると、安政4年(1857)池田村では畑作の中で、綿作の占める割合は86%、(養田73%)を占めており、全田畑では池田66.8%、(養田66.3%)と、ずいぶん綿作がさかんだった。

  秋には、いちめんに真っ白な綿花のある風景が広がっていたことだろう。

  明治5年、学制が発布され、明治政府は教育の普及に努めた。この学制が実施された3年後の明治8年に、全国で24.225の小学校がつられた。

  池田村では、観音寺を小学校として利用し、「綿里小学校」と名づけた。まさに池田は綿の里だった。

*絵は綿の花

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加古川地方の綿作(4)・地主、大西家

2006-08-22 07:42:26 | 加古川市

9ac2fbbe_1   姫路藩が木綿の江戸積みをはじめてから、木綿問屋など村の富農層は、土地を集め、いっそう経営規模を拡大させた。

  反面、貧しい農民は土地を手放し、その格差は大きくなった。

  この傾向は明治になり、ますます広がった。明治14年のようすを見ておきたい。

  兵庫県下の平均小作率は44.5%と高率であったが、加古郡は55%、印南郡は53%と綿作のさかんな両郡とも県平均をはるかに上回る小作率であった。

  見土呂の大西家は、天保7年(1836)木綿取締役に就任してから、以前にもまして経営規模を拡大させ、毎年2,3万反の綿布を取り扱っていたようである。

  大西家は、木綿だけでなく、干鰯(ほしか)、呉服も商い、さらに酒、醤油の醸造などもおこなっていた。(挿絵は明治20年ごろの大西家の醤油製造所-「淡播農商工便覧」より)

  明治18年には、近隣に138町を有する県下、第4位の地主にまで成長した。

*訂正とお詫び:昨日のブログの「都染の大西家」は、「見土呂の大西家」の誤りです。訂正して、お詫びします。

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加古川の綿作(3)・木綿問屋、大西家

2006-08-21 11:20:56 | 加古川市

7bda8ef5   昨日のブログで、文政6年(1823)姫路藩の江戸への木綿専売が認められたことを書いた。

  右の図は天保7年、姫路藩の大阪や江戸積問屋へ売り渡す木綿の生産地問屋の所在を表している。

  ほとんどが加古郡・印南郡内に位置している。中でもその大半は、現在の加古川市域に含まれている。

  木綿のほとんどが、加古川地域で生産されていたのである。

  木綿を生産した農民は糸にし、反物に織った。木綿商人がそれを買い集め、生産地問屋から、姫路城下の江戸積問屋や大阪積問屋(一部、大阪積も認められていた)へ売り渡された。

  図の21~23の生産地木綿問屋のあった場所に注目して欲しい。いずれも、都染で、それも大西家の一族である。こんな例は、他にない。

  鑑札をもって商売することは、競争相手が少なく安定した経営ができた。その上、大西家は一族4軒がその権利を持っていたのである。

  大西家は、この近辺では、跳びぬた、大き木綿の生産地問屋であった。

*図は「加古川市史(第二巻)」より

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加古川地方の綿作(2)・河合寸翁

2006-08-20 16:06:34 | 加古川市

303b8fb3   河合道臣(みちおみ-後の河合寸翁・すんのう)は姫路藩の家老である。

  藩主・酒井忠道(ただひろ)の文化5年(1808)、藩には、73万石の借金があった。

  彼は、木綿に着目し、姫路藩の財政改革に取り組み、みごと借金ゼロを成し遂げたのである。

  当時、姫路綿(布)の主な送り先は大阪であったが、買いたたきがひどかった。寸翁は、綿を藩の専売品として、江戸への直送する方法をとった。

  勿論、さまざまな妨害があった。これについては、小説「姫路城・凍って寒からず(寺林峻著)」(東洋経済)を読んで欲しい。

  幕府の方針もあり、直送は困難をきわめた。しかし、綿密な調査・江戸問屋や幕府役人への説得により、文政6年(1823)やっと江戸への木綿専売が認められた。

  これには、「藩主・忠学(ただひろ)の妻・喜代姫(きよひめ)が将軍・家斉(いえなり)の娘であったためでもあった」ともいわれている。

  ともかく、姫路綿の江戸での販売は好調で、藩の借金は、短期間に返済し終えた。全国的にも、珍しい例である。

  この、姫路木綿の原料の木綿のほとんどは、加古川地方で生産されていた。

 ◇明日は、加古川地方の木綿問屋について◇

*絵は河合寸翁(鈴木其一筆)

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加古川地方の綿作(1)

2006-08-19 15:49:13 | 加古川市

84fe82f1_1   綿が日本に伝わったのは古く、延暦18年(799)に三河伝えられたのが最初であるというが、栽培技術が伴わずその時は絶滅した。

  その後、綿作は、文禄の頃(1592~96)大和・河内・摂津に広まり、ほぼ同時に姫路地方も木綿産地になった。

  木綿は、それまでの麻と比べ、柔らかく、染めても美しく、それに何よりも暖かく、冬の寒さには大いに役立った。

  江戸時代、大阪・江戸等の巨大消費都市が生まれ、また交通も発達し、商品は大いに流通し、綿も商品作物として栽培されるようになった。

  姫路木綿は、品質がよかった。市川や加古川の水質が木綿を晒すには適していたのである。

  姫路木綿は「玉川さらし」、「姫玉(ひめたま)」と呼ばれ、江戸で大好評を得た。この姫路木綿の原料は、加古川地方が主な産地であったことは案外知られていない。

  *「玉川さらし」は、木綿商の天下原(あまがはら・加古川市東神吉町)の金川甚左衛門がつけた商標であり、玉川とは加古川のことである。

  江戸時代の終わりのころ。秋には、真っ白な綿のある風景が一面にひろがっていたのであろう。

  来週のブログでは、加古川地方の綿作について、取り上げたい。

*挿絵は「播州あたりにて綿を作る図」(綿圃要務)より

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国包村(加古川市上荘町)の商工業

2006-08-18 12:09:10 |  ・加古川市上荘・平荘町

_060_1   国包(くにかね)。それにしても読みづらい地名である。

  江戸時代の国包村のようすを見ておきたい。

  国包村は、湯乃山街道(ゆのやまかいどう)と加古川が交わり、美の川にも近く、交通の要所に位置していた。

  そのため、近在ではめずらしく、町場化が進んでいた。

  元文2年(1737)の同村の明細帳には、家数125軒の内、本百姓74軒、水呑50件と水呑(田畑を持たない小作)の割合が多い。

  具体的な職種として、大工4人、桶屋2人、医者3人、木挽6人、紺屋1人、材木屋3人、陸塩売4人、旅籠屋5人、川舟宿6人、殺生人(川漁師のこと)6人、蚕種商2人、そのほかに、高瀬船3艘、舟主2人と明細帳にある。

  これらは専業ではなく、百姓の兼業が含まれていると思えるが非農業的な職業が多いく、全体に加古川の舟運に係わる職業が多いのが特徴である。

*写真は加古川の堤防から見た国包

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里村(加古川市平荘町)の騒擾

2006-08-16 05:50:47 |  ・加古川市上荘・平荘町

_134   江戸時代も後半になると、村では農民と庄屋の対立がしばしばおきている。里村(加古川市平荘町)にその様子をみてみたい。

  宝暦10年(1760)、明和5年(1768)に里村の庄屋・彦九郎に対し10か条の訴えが藩に出された。二件ともほとんど同じ内容である。

  紙面の都合で一つだけ紹介したい。

  (農民)・・・「村方諸入用はなるだけ簡略にしてもらいたい」と庄屋に願ったが、全く聞いてくれない。

(庄屋)・・・村方の諸入用については年々増額しているが、随分倹約している。村では、7・8人が徒党を組んで、「庄屋が使い込んでいる、生活の困窮しているものに返せ」と偽りを触れ、村方をそそのかしている。

  この騒擾の詳細は「加古川市史(二巻)」p442~9を参照されたい。

  享和元年(1801)にも庄屋は農民から追求を受けている。里村では、庄屋と農民の騒動が40年も続いている。

  この騒擾から、庄屋の仕事内容、村政と農民の生活、そして農民の関心ごとなどを知ることができて興味深い。

《里村》

  天文元年(1532)の「報恩寺文書」に里村の名前がある。それより以前にできた古い村である。観音寺(写真)には石棺仏、家型石棺の蓋がある。

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八紘一宇(はっこういちう)の碑

2006-08-15 11:21:28 |  ・加古川の戦争

_075   今日は、61回目の終戦記念日である。今朝、小泉首相が靖国神社へ参拝したことが、マスコミで大きく取り上げられている。

  今日は、八紘一宇(はっこういちう)の塔(写真)を取り上げたい。

  この塔は、加古川市西神吉町辻から志方への抜ける峠の頂上部にある。

  最初、この塔を見つけた時、「こんな塔が、まだ残されているのか・・・」と奇異に感じた。

  若い人は、この文字すら読めないのではないか。勿論、意味はわからないだろう。注釈を加えておきたい。

  まず「はっこういちう」と読む。意味は、全世界は天皇(日本国)の下に一つの家とするという意味で、「八紘」とは四方つまり世界のこと、「宇」は家のことである。

  まさに、日本軍のアジアへの侵略をスローガンであった。

  宮崎市に、昭和15年、八紘一宇の碑が建設され、大東亜共栄圏を理想とする東アジア侵略の大義名分として利用された。

  それが、戦後、場所は「平和公園」に、塔は「平和の塔」として生まれ変わっている。戦争のシンボルと平和の塔は、どうしても結びつかない。我々日本人のあいまいさを感じる。

  最近、若者を中心にプチ・ナショナリズムが勢を強めている。この塔(写真の塔)が復活して、平和のシンボルにならないことを願う。    終戦の日に・・・・

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加古川の漁業権(江戸時代)

2006-08-14 07:25:56 | 加古川市

_054   「加古川市史」を読んでいると、面白い記述に出会うことがある。「加古川市(二巻)」にある「加古川の漁業」もその一つである。

  正保3年(1646)、上荘の井ノ口村の上流から高砂までの漁業権(加古川の魚をとることのできる権利)が都染(上荘)の松尾五郎兵衛に与えられた。

  松尾は、姫路藩からこの権利を得て、年々運上銀200匁を上納している。

  松尾五郎兵衛とはどんな人物であろうか。調べてみたい。

  彼は升田新田(出河原)から・中津までを直接とりしまり、それより下流から高砂までを寺家町の川西友三郎に任せた。

  この二人で、運上銀200匁を藩に納めたのである。

  加古川でとれる魚は、鮎(漁期は5月から翌年1月)、鯉(同12月から翌年3月)、鱸(8・9月)、鯔(いな、同7月から翌年3月)であった。

  加古川で川漁を希望するものは、松尾・川西に10匁を納め鑑札を受けなければならなかった。その上に魚種により異なった額の入漁料を毎年納めることになっていた。

  松尾らにとっては、うまみのある漁業権であった。

  秀吉の時代は、升田の者に川漁業の権利が認めれられており、平荘・上荘村の者には認められていなかった。

*写真は、最近の加古川の流れ。。

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報恩寺(加古川市平荘町山角)

2006-08-13 06:52:40 |  ・加古川市上荘・平荘町

_091   平清盛は大きな功績があったということで、天皇から、播磨の地、500町を賜った。

  やがて、平氏は鎌倉方に敗れ、北条本家筋が播磨の守護になると、それらの土地は北条家に引き継がれた。

  神戸大学の石田先生(故人)は、さまざまな資料から、北条氏が平氏から得た播磨の土地は五箇荘(ごかのしょう)であったと推測されている。

  奈良・西大寺領の印南荘(いなみのしょう)(平の荘は印南荘の一部)も五箇荘に含まれていたようである。鎌倉時代、五箇荘は、現在の加古川市・加古郡のほとんどの地域を含んでいたようだ。

  現在、報恩寺は真言宗の寺で、高野山に属しているが、鎌倉時代は奈良・西大寺の真言律宗の寺であった。というのは、北条氏が真言律宗と深い関係があったためと考えられる。

《報恩寺の奉加帳》

  報恩寺には、県の文化財にも指定されている奉加帳がある。いろいろな書物にも取り上げられている有名なものである。

  この奉加帳(1432?)には、将軍・足利義教(よしのり)、管領・細川持氏それに赤松満祐(みつすけ)の名前がある。

  驚かれたと思う。1441年に大事件がおこった。将軍・足利義教が赤松満祐に殺されたのである。世に言う、嘉吉の乱である。

  そして、この乱を管領として処理をしたのが細川持氏であった。

  これら3人が同じ奉加帳にあるのは珍しく、早くから注目されていた。

  この奉加帳をまわしたのは赤松貞村で、赤松円心(満祐の祖父)の次男のひ孫にあたる人物で、幕府で影響力をもっていた。

  赤松氏が、この五箇荘を赤松家のものにしようと狙っていのであろう。

*写真は報恩寺(加古川市平荘町山角)

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小畑村(加古川市平荘町)

2006-08-12 05:29:49 |  ・加古川市上荘・平荘町

22033d70   万治元年(1658)、姫路藩は、藩をあげての升田堤(升田から船頭にかけての堤)の大工事をおこなった。

  途中、工事が大方完成した時だった。この地方一帯は、暴風雨に見舞われた。

  雨は数日降り続き、濁流は苦心の堤防を押し流してしまった。この工事は藩の威信をかけた工事であり、厳しい命令が出た。少しの遅れはあったものの工事は完成した。

 *升田堤の完成により洪水は減ったが、その後もしばしばこの地方は洪水の被害に悩まされ続けた。

  この時の洪水は上流の村々も直撃した。特に、「中島新田」は洪水をまともに受け、村は壊滅した。

  中島新田のあった場所は、今の養老の一部である。江戸時代芝村の一部であった。村を失った人々は小畑(こばた)に移住し、新たに新田を開発した。

  翌年から、中島新田の近隣の人々は中島新田へ入植し、再び村の開発に当たり2年後、中島新田を復活させた。

  それから、14年後のことであった。またも、この地を洪水が襲った。村は再び壊滅した。

  中島新田の6家族は蔭山新田(現:磐)に移住し、新しい村の開発に当たったのである。

*図は「KAKOGAWA-加古川とその周辺の歴史」(伊賀なほゑ著)より

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