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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(271) 近世の高砂(67) 新、工楽松右衛門物語(38)・嘉兵衛の拿捕

2020-05-31 11:27:46 | 大河・かこがわ

 松右衛門から話題はどんどん流されています。

 このあたりで、元に戻さなければいけないのですが、ゴローニンの逮捕に次いで、嘉兵衛の拿捕の話を付け加えてから、話を松右衛門に戻します。

 ゴローニンの逮捕・嘉兵衛の拿捕の事件は、日本とロシアの戦争に発展しかねない大事件でした。

 幕末の外交史の重要な一頁を飾っています。多くの教科書や歴史書にも紹介されています。詳しくは、それらをご覧くさい。

     嘉兵衛の拿捕

 ゴローニン少佐は、(日本に)とらえられました。

 翌年(文化9年・1812)のことでした。代って艦長になったリコルド少佐は、ゴローニンをとりかえすため、クナシリ島の南方海上を航行中でした。

 たまたま、航行中の高田屋嘉兵衛の船を拿捕しました。

 日本風にいえば、雲をつくような大男どもが、日本人の平均身長よりも低い嘉兵衛にいっせいにのしかかったのです。

 嘉兵衛は、体のわりには腕力がつよく、一人を突きとばしました。

 が、背後から、のしかかってくるやつには、どう仕様もありません。やがて押し倒されてしまいました。

 いやなにおいがしました。後でわかったことだが、牛脂(ヘット)のにおいでした。

 自由をうばわれた嘉兵衛は、怒りのために全身の血が両眼から噴きだすようであり、それ以上に、この男を激昂させたのは、ロシア人たちがかれを縛ったことでした。

 「何をするか」

 人間が、他の人間に縛られるということの屈辱感は、それを味わった者にしかわかりません。

 意識のどこかに、自分が鹿か猪といった野獣になってゆくような気がしたのです。(no4983)

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大河・かこがわ(270) 近世の高砂(66) 新、工楽松右衛門物語(37)・ゴローニン、クナシリ島で捕虜に

2020-05-30 09:53:01 | 大河・かこがわ

              ゴローニン、クナシリ島で捕虜に

 ゴローニンらは、薪水をもとめて、泊村に上陸すると、すぐさま日本の警備兵にとらえられてしまいました。

 ゴローニンの船が近づいたとき、日本側は多少の発砲をしましたが、ゴロ一ニンと接触したとき、日本側の責任者の一人が、発砲をわび、「先年、ロシア船二隻が乱暴なことをしたために、同様の者がきたかと思い、発砲したのである。

 しかし、あなたがたの様子を見るのに、先年きた者とはまったくちがっている。われわれの敵意はまったく消えた」と言ったようです。  

 そして、ゴローニンは、エトロフ島の長官と会い、りっぱな昼食のもてなしを受けました。

 やがて、ゴローニンは艦に戻りたいといって海岸へ去ろうとしましたが、ゆるされませんでした。

 沖合のディアナ号には副長のリコルドが鑑を指揮していましたが、彼は「ゴローニンは、日本に捕らえられた」と判断しました。

 この間、リコルドはゴローニンを救助するあらゆる努力をはらいましたが、ゴローニンを奪還できず、いったんカムチャッカに引き返しました。

 ゴローニンは、松前へ護送され、入獄の身となってしまいました。(no4982)

 *『北海道の諸路・街道をゆく15(司馬遼太郎著)』朝日文芸文庫参照

 *挿絵:ゴローニン

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大河・かこがわ(269) 近世の高砂(65) 新、工楽松右衛門物語(36)・『私残記』

2020-05-29 08:07:07 | 大河・かこがわ

     『私残記』

 フォストフのシャナ(紗那)侵略により、南部藩の砲術師・大村治五平は捕虜になりました。彼は、後に『私残記』という著作を残こしています。

 *現在『私残記』(写真)は、中央文庫から出版されています。

 『私残記』は、子孫のために私的に残すという目的で書きのこされたエトロフ島防戦願末記です。

 『私残記』の稿は、盛岡の大村家に伝えられていましたが、昭和18年、盛岡在住の作家により現代語訳されて公刊されました。

 紗那(シャナ)の戦場においては、大村治五平は、戦場をすてました。もちろん逃げたのは大村治五平だけではありません。

 彼の職務は戦闘を指導すべき砲術師であり、さらに、一時ロシアに捕虜になりました。そのため、後に南部藩は戻ってきた治五平に対し藩は冷たかったのです。

 かれは藩における吟味の席上、「たしかに逃げたことは相違ない」とみとめつつも、「しかし、その理由は、軽傷とはいえ敵弾を足にうけたためだ」という意味のことをのべています。

 大村治五平は「全員が逃げた、責任のがれに私の指揮が悪く、私一人を悪者に仕立てあげたのである」と言いたかったのでしょう。

     松右衛門澗(まつえもんま)

 興味があるのは、この『私残記』は、彼がエトロフの紗那(シャナ)に勤務していたということであり、紗那についての自然や風景が描かれています。

 シャナを次のように書いています。

 「・・・紗那の港は美しい湾とは決して言えない。海岸は砂ではなく。

 大小の荒あらしい石でできていて、しかも遠浅である。

 遠浅であるために、大きな船が奥深く入って錨(いかり)をおろすことができない。

 ここに、船が停泊できるように工事をしたのは、嘉兵衛が、松右衛門旦那とよんで、尊敬している工楽松右衛門である・・・」と松右衛門について述べています。

 また、「・・船頭松右衛門という者が石船という舟をこしらえて、金毘羅(こんぴら)の前の海底の石を取り払って、船着き場をつくった。・・・・・また、この澗(ま:船が繋留できる場所)は、松右衛門澗(まつえもんま)と呼ばれた」とあります。

 金毘羅とあるのは海岸近くにたてられた金毘羅社のことで、嘉兵衛が建てたものです。

 シャナにはその他の宗教施設がたくさんあったが、すべてフォストフ隊の侵略により焼かれてしまいました。(no4981)

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大河・かこがわ(268) 近世の高砂(64) 新、工楽松右衛門物語(35)・フォストフ、シャナにあらわれる

2020-05-28 08:11:15 | 大河・かこがわ

     フォストフ、シャナにあらわれる

 フォストフの侵略に、幕府は大いにあわて、とりあえず南部・津軽の両藩に命じ、カラフト・エトロフへ出兵させました。

 文化4年(1807)4月、フォストフ船長は、ユノ号の外にいま一隻の武装商船を加え、艦隊を組んで、エトロフ島にまで入ってきました。

 4月24日、突然、ナイホの沖に現れました。

 (当時、エトロフの中心はナイホからシャナに移っていました)

       間宮林蔵、激怒

 29日の朝、2隻のロシア船が紗那(シャナ)沖に現れました。

 フォストフの艦隊には、60人ほどの人員がいました。

 そのうち、フォストフ以下17人が三隻のボートに分乗して浜にむかってきたのです。

 それを陸上から、シャナ駐留の200余人の南部・津軽藩のサムライどもが、ぼんやり見物していました。

 「なぜ機先を制して射撃しないのか」と、たまたま地理調査のために来島していた幕府の役人の間宮林蔵(まみやりんぞう)が、この島の会所の役人等に狂気のような声で怒鳴りました。が、彼等は動こうとはしません。

      江戸時代の武士は、軍人にあらず

 反対に、フォストフが選んだ16人の兵士というのは、勇敢でした。

 それだけの人数で200余人に戦いを仕掛け、射撃、突撃をくりかえしました。

 津軽藩は、よほどあわてたらしく、自らの陣屋に火をはなって焼いきました。

 夜に入って、紗那の役所の備品・物資をすべて捨て、全員山中に逃げ出してしまいました。

 紗那(シャナ)の筆頭の役人・戸田又太夫は責任を感じ、山中で自害しました。

 江戸期の武士というのは、組織が戦闘をするようにできていません。

 藩組織では命令系統があいまいな上に、西洋の軍隊のように常時戦闘の訓練がなされていないのでした。

     フォストフは有罪に

 フォストフの軍隊は、千島・カラフトの各地を荒しまわりました。

 しかし、この行為は、ロシア政府に認められた行動ではなかったのです。

 後に「フォストフらは、ロシアの国益に反する行動をおこなった」とされ、軍法会議にかけられました。

 というのは、「フォストフらの行動は、政府が認めたものではないし、もし、日本が報復のためにオランダ・フランスの援助を求めれば、ロシアとしては、北方に三隻の武装船しか持っていないので危険にされられた」というのです。

 フォストフは、軍法会議にかけられ、投獄されました。

 その後、彼は、監獄を脱出して逃走。途中あやまってネバァ川に落ち、溺死しています。(no4980)

 *挿絵:フォストフ、シャナを攻撃

 

 ◇「升田山を歩く」をお読みください◇

https://docs.google.com/document/d/1YyEgGxvRrO0bGCBVU50JyMz0SblbJxF4/edit?fbclid=IwAR1EcCyGQTviMbt0hzOLaR3doRDvnzMqK1kMSMSDQIH6X3dgL8Nk4tqz2_s

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大河・かこがわ(267) 近世の高砂(63) 新、工松右衛門物語(34)・レザノフ・食料を求めて

2020-05-27 09:03:10 | 大河・かこがわ

      レザノフ・食料を求めて

 18世紀、ロシアの南下政策が千島を圧迫しました。

 ロシアの南下政策は、本音のところでは、日本から食料を得ることでした。

 彼らのもっぱらの関心ごとは、毛皮の確保であり、対日貿易の目的は、シベリア・沿海州・その他の島々で働く毛皮会社の隊員の食糧の確保が主な目的でした。彼らはいつも餓えていました。

 野菜も少なく、病気も多かったのです。

 ロシアは、とにかく広く、人家もまばらで、本国から食料を運ぶとすると、とてつもなく高くつきました。

 何としても、食料は現地が必要でした。そのためにロシアは日本に開国を求めたのです。

       レザノフ来航

 日本への通商を求めてレザノフ(写真)が、長崎に来ました。

 レザノフが、日本を開国させるべく、文化元年(1804)長崎に来ましたが、鎖国を盾に交渉は、はねつけられました。

 レザノフは、これを侮辱と感じ、帰路、部下のフォストフ大尉に、「日本にロシアの武力を見せてやれ。そうすれば修好する気になるのではないか」と相談を持ちかけたのです。

 レザノフという若い貴族は、力ムチャッカ、その他に根拠地をもつ巨大な毛皮会社を経営したことで知られる人物です。

 レザノフの日本との交渉は、まさに自分の会社の利益確保を目的としていたようなものでした。

レザノフは、長崎での交渉の後、一端カムチャッカに行き、フォストフ大尉らと別れて陸路、シベリアにかえりました。

 以下は、余話です。

 レザノフは、橇で西へ向かううちにシベリアは冬になりました。これをおかして進むうち、ついにアルダン川の河畔でたおれ、クラスノヤルスクまでたどりつきましたが、1807年3月病没しました。43歳でした。

       フォストフは海賊に

 フォストフは、官制の海賊になりました。本国の命令のないままに日本を攻めたのです。

 フォストフは、帆船ユソ号を操って文化3年(1806)9月、カムチャツカを出、11月に樺太のオフイトマリに上陸し、小銃を放ってアイヌのをおそいました。

 二日後、クシュンコタンに上睦し、日本の運上屋を襲い、倉庫を破って米六百俵外、多く物品をうばい、弁天の祠を焼き、番人4人を捕らえて連れ去りました。人は殺していません。

 次いで、フォストフの一団は、エトロフの松右衛門が港を築いた紗那(シャナ)へ押し寄せてきたのです。(no4979) 

 *挿絵:レザノフ 

 

 ◇「升田山を歩く」をお読みください◇

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大河・かこがわ(266) 近世の高砂(62) 新、工楽松右衛門物語(33)・松右衛門は、嘉兵衛の師

2020-05-26 10:16:20 | 大河・かこがわ

     松右衛門は、嘉兵衛の師

 松右衛門は、寛政2年(1790)から寛政7年(1795)にかけて、彼の持ち船の八幡丸で、数回にわたって、エトロフ島の紗那(しゃな)の有萌湾(ありもえわん)まで航海しています。

 したがって、松右衛門は当然、魔の海峡・クナシリ水道の航海技術をすでに心得ていました。

 以下の話は、記録にはない、勝手な想像です。でも、きっとそんな会話があったことでしょう。

 この話を冬の夜で場所を兵庫の松右衛門の家と設定しておきます。嘉兵衛がエトロフ航路を見つける以前です。

      ある夜の会話

 ・・・・ 松右衡門は、嘉兵衛と一献交えていました。

 酒はお互いに嗜んだが、二人共飲みつぶれるような飲み方はありません。

 話は、エトロフへの航路、つまりクナシリ水道の潮になりました。

 

 松右衛門:嘉兵衛よ。わしがクナシリ水道を初めて渡った時は、ここは地獄の入口かとおもえたゾ!

 潮は早いし、急に流れを変えるかと思ったら、次には霧が出てくる。

 まさに、「地獄の入口」ようじゃった。

 幸いなことに、その時は大きな船だったので乗り切ることができたが、アイヌの小さい船ではあの潮に飲み込まれたか、転覆したか、それとも、どこぞ知らぬ土地に流されてしまっていることであろう。

 嘉兵衛:クナシリ水道とは、そんな恐ろしい所でございますか。

 松右衛門:恐ろしい。わしは、大きな船をつかったが、潮はすさましいばかりじゃった。だが、決まった流れがあるのではないかとおもうた・・・それを見つけることが大切じゃ・・・

 それに、エトロフのアイヌは貧しい生活をしとる。クナシリ水道の潮は彼らの小船じゃ渡れない。

 小さい船でも渡れる潮の流れを見つけることが大切じゃ。

 そうしたら、エトロフの魚もクナシリ・蝦夷地へ運べるし、蝦夷地の物もエトロフに運ぶことができる。アイヌの生活は、ずっとましになるし・・・

 その夜、松右衛門の話は、いつ果てるともなく続きました。

 嘉兵衛は、すべての話を、ただ驚きをもって聞いていました。

 この夜の話が、後の嘉兵衛の「三筋の潮」の発見に繋がったのかもしれません。

     松右衛門は、嘉兵衛の師

 松右衛門は、師弟関係でもなく、しかも同業者で、本来ライバルでもある26才年下の嘉兵衛を、あたかも自分の息子のように支援しました。

 歴史に名前をとどめたという点については、松右衛門の名は、嘉兵衛の長年にわたる北方における華々しい活躍のかげで薄れただけです。(no4978)

 *挿絵:ある夜の会話

 

 「升田山を歩く」をお読みください◇

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 「升田山を歩く」をお読みください。

2020-05-25 09:02:20 | 散歩をしましょう

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    「升田山を歩く」をお読みください。

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大河・かこがわ(265) 近世の高砂(61) 新、工楽松右衛門物語(32)・松右衛門、紗那(シャナ)港をつくる

2020-05-25 08:18:34 | 大河・かこがわ

         松右衛門、紗那(シャナ)港をつくる

 寛政2年(1790)5月、松右衛門は、自分の持ち船・八幡丸でエトロフへ出発しました。エトロフの冬は早く、10月いったん兵庫港へ引き返しました。

 翌、寛政3年(1791)三月、十分な準備をして再びエトロフ島に向けて出航しました。

 その年は、天侯にも恵まれ、工事は順調に進みました。

 あらかた紗那(シャナ)港は完成させ、10月に帰航しました。

 以後も、松右衛門は数回にわたってエトロフ島に渡航し、寛政 7年(1795)に工事を終了させています。

 なお、松右衛門が築港したこの場所は、江戸時代には恵登呂府島(エトロフ島)といい、戦前のエトロフ島西北部紗那郡の有萌湾(現:ナヨカ湾)です。

     松右衛門は、エンジニア

 松右衛門は、湾底に散らばる大きな岩を取り除き、船舶の接岸、碇泊に支障のないよう、船の澗(ま)をこしらえて大船を繋留するようにしました。

 埠頭をつくったのです。

 のち島民は松右衛門の徳をたたえて、ながく「松右衛門澗(港)」と呼んだといいます。澗(ま)とは、小さな錨地の意味です。

 その「松右衛門澗」のことは、ロシア船がエトロフ島に来航して、幕府会所を襲撃するという、「エトロフ事件」があった文化4年(1807)当時、エトロフ鳥の警備をしていた南部藩の火業師(砲術)・大村治五兵が書きのこした『私残記』に記されています。

 それには、「このシヤナ(紗那)の港は、石があらく、その上遠浅で、大船が入るには、実に危険なところです。

 そこで船頭・松右衛門が石船をいう船をこしらえて、海底の石を取り払って、船の係留する所をつくった・・・・」と書きのこしています。

 松右衛門の技術が、いかんなく発揮されています。

 そして、エトロフでは、予想をはるかに超えた鮭の豊漁がありました。 

     「工楽」の姓をたまわる

 後に、幕府は、この松右衛門のこの紗那港づくりに対し、享和2年(1802)、三十石三人扶持を与え、松右衛門は「工楽」の姓をたまわり、帯刀を許されました。(no4977)

*挿絵:エトロフでの豊漁

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升田山を歩く

2020-05-24 20:06:35 | 散歩をしましょう

「升田山を歩く」をお読み頂ける方は、下記のURLをご参照願います。

 

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大河・かこがわ(264) 近世の高砂(60) 新、工楽松右衛門物語(31)・松右衛門エトロフヘ

2020-05-24 06:52:49 | 大河・かこがわ

 嘉兵衛がクナシリ水道の「三筋の潮」を発見し、クナシリからエトロフへの安全な航行を可能にしました。

 その後、嘉兵衛のすすめにより、工楽松右衛門は箱館・エトロフの港の建設に当たると話が進みました。

 この時のエトロフ港をつくった功績により、松右衛門は享和2年(1802)に幕府から「工楽(くらく)」の姓をもらっています。

 この辺りの事情を若干整理しておきます。

      松右衛門エトロフヘ

 その頃、ロシアの南下があり、蝦夷地はにわかに騒がしくなってきました。幕府は危険なものとして警戒に当たるようになりました。

 寛政2年(1790)2月、幕府は国防のためエトロフ島に築港を計画しました。

 そして、「択捉島(エトロフ島)ニ廻船緊場ヲ検定シ、築港スヘシ」と兵庫問屋衆に幕命が下りました。

 兵庫湊の北風荘右衛門は、優れた航海技術と築港技術を持つ松右衛門を推挙しました。

 この時、松右衛門は既に50才に近かったが、荘右衛門の要請に応じた。

 エトロフへの船は、松右衛門の持ち船・八幡丸をあてた。

 準備を整え、その年(寛政2年・1790)の五月、乗員20人と共に、兵庫津を出ました。

 八幡丸に、多くの日章旗をはためかした華やかな船出でした。

 八幡丸は、順調に東蝦夷まで航海し、エトロフ島のほぼ中央で、オホーツク海側の有萌湾(ありもえわん)に上陸し、さっそく湾底の大石除去工事に着手したが、10月になり急に寒気がきびしくなってきました。

 これ以上の継続は不可能となり、松右衛門は、一旦兵庫港に帰ることにしました。

 その年の12月、幕府は松右衛門の労を慰するため、30両をあたえました。

 その文書が残っています。

  申渡

  一 金参拾両  兵庫佐比恵町 松右衛門

     右其方儀恵登呂府波戸築立為御用彼地

     迄モ罷越骨折相勤候二付書面通為取之

    戌 十二月

 (意味)

  申し渡し

  一つ、金三十両 兵庫サビエまち 松右衛門

   右、その方の儀、エトロフ港築のため、かの地迄もまかりこし、骨折り、あい勤候に付き、書面の通りこれをとりなす

      戌(いぬどし) 十二月

 

 慰労金として、金30両は少ないようですが、松右衛門にとっては不足を感じませんでした。

 むしろ、幕府からの仕事に誇りを感じるのでした。(no4976)

   *地図:エトロフ島

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大河・かこがわ(263) 近世の高砂(59) 新、工楽松右衛門物語(30)・松右衛門が港を造りましょう

2020-05-23 08:53:43 | 大河・かこがわ

    松右衛門が港を造りましょう

 箱館の港の話になり、話は、一挙に具体的になりました。

 ・・・・・

 三橋藤右衛門が「嘉兵衛、築港はできるか」と、たずねたのです。

 「箱館の浦をいまのままにしておけない」と、三橋藤右衛門はいいました。

 箱館がいかに「綱知らず」といわれたほどの天然の良港であっても、今後、三十艘、五十艘という大船を碇泊させるには十分ではありません。

 「港」は、長碕ですら荷を小舟に積みかえて荷揚げしていました。

 箱館が、長崎と同じように、幕府の直轄港になった以上、とりあえずそれをつくる必要があります。

 その時、嘉兵衛は、御影屋松右衛門(後の工楽松右衛門)の名前を出してしまいました。

 その日、話は、続きました。

 ・・・・

 「ナイホ(エトロフ中西部の地名)にも港をつくらねばならんな」と、三橋藤右衛門はいいました。

 ナイホの築港の必要については、嘉兵衛がすでに近藤董蔵に上申していました。

 それらについて、「嘉兵衛は、御影屋松右衡門を御用にお召し遊ばせば非常な功をなすと存じます」と言い、この「松右衡門帆」の発明者が、あらゆる工学的分野で異能の人であることもあわせて述べました。

 ・・・・

 「その松右衛門とやらは、箱館に来てくれるのか」 と三橋藤右衛門は尋ねました。

 嘉兵衛は、「松右衛門が蝦夷地と松前を往来する廻船業の人だから、名を指しておよびくだされば、やや齢はとっているとはいえ、よろこんで参りましょう」と答えたのでした。

 ・・・・

 嘉兵衛は、松右衛門はこの話を、きっと引き受けてくれる自信がありました。

 松右衛門は、新しいことに挑戦する人、子供の心を持つ人でした。(no4975)

 *挿絵:箱館にて(マンガ)『北海を翔ける男(クニ・トシロウ著)』(実業之日本社)より

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大河・かこがわ(262) 近世の高砂(58) 新、工楽松右衛門物語(29)・嘉兵衛、箱館へ帰る

2020-05-22 08:04:34 | 大河・かこがわ

      嘉兵衛、箱館へ帰る

 嘉兵衛は、エトロフへ渡りました。

 嘉兵衛の安全なエトロフ航路発見は、たんに幕府の「資金面で幕府の潤いになる」という面ばかりではありません。

 北からはロシア人の南下という問題がありました。

 エトロフから帰ったクナシリの浜には、近藤重蔵が出迎えました。

 嘉兵衛は、ハシケが腹を砂にこすりつけるのを待ちかねて、渚にとびおります。

 重蔵も、渚の水を蹴って嘉兵衛の手をとりました。

 「よくやってくれた」

 嘉兵衛は、重蔵に報告するために、砂の上にしゃがむと、砂を両掌に盛って、クナシリ島とエトロフ島のかたちをつくりました。

 さらに両島のあいだのクナシリ海峡(水道)をつくり、砂に指を突こんで、北から南へ切るように潮が流れているさまを示しました。

 次ぎに、さらに線をえがき、これらがたがいに絡みあいつつヱトロフ島西南端のベルタルベ岬に激突する状態を説明しました。

  そして、アッケシにたちより箱館へかえりました。

 箱館役所から呼び出しがありました。

 このとき、三橋藤右衛門から、「蝦夷地の公儀御用をつとめてもらえないか」と、懇願されたのです。

 三橋藤右衛門のいうところは、「エトロフ島開発のためのあらゆる物資(官物)を運ぶ船頭になってほしい」ということでした。

 運賃かせぎだけで、荷をかせぐことができなくなるのです。

 商いとしては、まことにつまらぬものになります。

 「嘉兵衛・・・」、三橋藤右衛門は、親しみをこめ、名でよびました。

 「そこもとの力がほしい」

 「とんでもござりませぬ」

  ・・・・・

 嘉兵衛は、決心してしまいました。

 とっさの決心というものが、何やら酒に似たものでした。(no4974)

 *挿絵:エトロフ航路の発見(マンガ『北海を翔ける男』(クニトシロウ著)」より

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大河・かこがわ(261) 近世の高砂(57) 新、工楽松右衛門物語(28)・ クナシリ海峡(水道)

2020-05-21 07:44:00 | 大河・かこがわ

     クナシリ海峡(水道)

 嘉兵衛は、幕府が用意した宜温丸でクナシリ島の東海岸をアトイヤ岬(クナシリ島の北端)まで航海してきました。

 いよいよ、クナシリ水道です。北岸で停泊しました。

 次の日、さっそく、嘉兵衛は、山頂に立ちました。クナシリ水道の潮を確かめるためです。

 山頂の東側は急斜面になって東海岸へ落ちこんでおり、山の西側の斜面はゆるやかで海岸線にこぶ(小さな岬)をつくっています。

 山頂に立つと、ぜんたいの地形がおもしろい。

 嘉兵衛は、とほうもなく巨大な船に乗っているような気分になりました。

 この日は、めずらしく晴れていました。

 クナシリ水道を揉にもんで流れている潮のかなたに、エトロフ島のベルタルべ山がそそり立っています。

      三筋の潮  

 嘉兵衛は、全身を目玉にするようにして潮を見つづけました。根気が要りました。

 早朝から日没ちかくまで見つづけました。

 そのあいだに、小さな海峡の潮目が幾度か変わりました。

嘉兵衛は、疲れると岩の上に腰をおろしました。しかし、目だけは休ませるっことはできません。

 吹きつづける風のために、ともすれば目玉が乾きました。目をしばたたくと涙が出るのでした。

 「見えた!・・・」

 信じがたいほどのことですが、この二つの島のあいだを上下しているのは、一筋の潮ではなく、三筋の潮流が、相せめぎあって落ちあっているのです。

 「まことに、三筋か」

 ひらめきを事実としてかためてゆくのに、さらに数日の観察を要しました。

 「まぎれもない」と確信しました。

 気づいてみると、二刻(四時間)のあいだ風のなかで立ったままでした。(以上『菜の花の沖』より文体・表現を少し変えています)

 北からリマン海流・千島海流の二筋、そして南から対馬海流が、この狭い海峡でぶつかり砕けているのです。

 嘉兵衛は、エトロフ航路を頭に描きました。後は、こぎ出し確かめるだけでした。(no4973)

 *挿絵:クナシリ海峡(水道)を観察する嘉兵衛(マンガ『北海を翔けた男(クニ・トシロウ著)』(実業之日本社)より

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大河・かこがわ(260) 近世の高砂(56) 新、工楽松右衛門物語(27)・嘉兵衛、エトロフ渡航を決める

2020-05-20 10:58:39 | 大河・かこがわ

          嘉兵衛、エトロフ渡航を決める

 もし、ここ(クナシリとエトロフの間の水道)で安全な航法を発見すれば、幕府の蝦夷開発が、資金面でそれなりの潤いを得ることができるというのです。

 重蔵に課せられた任務は、とりあえずはそのことでした。

 こんどの嘉兵衛の水路調査は、とりあえず幕府が開発を求めていたのです。

 「大船を持ってゆけば、わけはありませんが・・・」と、嘉兵衛は辰悦丸のことを思いつつ言いました。

 重蔵は、かぶりを振りました。

 「小さな漁り舟ぐらいでも渡れる方法を考えてもらいたい。でなければ、操業のたすけにはならない」というのです。

 クナシリで働いているのは、小さな漁り舟か、蝦夷舟、もしくは5~60石程度の運び船で、今後、クナシリを基地にエトロフ稼ぎをしたかったのです。

 大船で渡ってしまっても、あと何の役にもたちません。

 嘉兵衛は、重蔵の依頼を、いとも簡単に引き受けました。やってみたかったのです。

     クナシリにて

 エトロフへ一挙に話を進めたいのですが、ここでクナシリに少し寄り道をします。

 というのは、30数年前、ある事情でクナシリ島に「ビザなし渡航」ができました。

 宿舎は、フルカマップ(古釜布)の「むねおハウス」で、数日お世話になりました。

 その時のクナシリの風景を思い出しています。なつかしい。

 ・・・・ 話を戻します。

 (クナシリ島は)島内の森林の相は貧弱ではありません。

 噴火口のあとがところどころ湖や湾になっているということは、嘉兵衛は近藤重蔵から聞いていました。

 「うつくしい山ですな・・・」と、嘉兵衛がその山を指さしつつ近藤をかえりみて、山の名を聞きました。

 「ラウシ(ラウス)山だ」と、近藤はいうのです。

 山の高さは、大坂の町から見える生駒山よりすこしは高そうだったが、低い裾野がながながと続いているために山容に優しさがあります。

 山の前面が岬になっています。岬の名も、「ラウシ(ラウス)」です。

 クナシリ島には、錨地が多くあります。

 最良の錨地は、なんといっても、フルカマップというみごとな湾入部がある泊りです。

 嘉兵衛は、そこへ船を入れ、一泊し、翌日、さらに島に沿って船をすすめました。進むにつれて、いくつも錨地があります。

 ・・・・

 またまた、私の思い出話です。

 クナシリは、火山の島で至る処に温泉がわいています。

 フルカマップの人に、川の中に沸いている温泉の名前を尋ねてみました。

「ここはなんという温泉ですか」と。

 特別の名前はないようで、単に「温泉です」と、だけの返事でした。もったいない。(no4972)

 

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大河・かこがわ(259) 近世の高砂(55) 新、工楽松右衛門物語(26)・嘉兵衛、アッケシで重蔵と出会う

2020-05-19 07:28:46 | 大河・かこがわ

              嘉兵衛、アッケシで重蔵と出会う

 嘉兵衛が、アッケシの運上屋で近藤重蔵と出会ったのは、嘉兵衛31才、(近藤)重蔵29才のときでした。

 重蔵は、既にエトロフに「大日本恵登呂府」という大きな標柱をたてていました。

 重蔵は、嘉兵衛に話しかけました。

 ・・・クナシリ島までは安全にゆける。しかし、クナシリ島からエトロフ島にゆくには、急潮でしかも風浪、霧のすさまじい海峡がある。「身の毛がよだつよう」な危険が伴う。

 「この人(近藤重蔵)は、何の目的でこういう話をするのか」と思いました。

    エトロフへの安全な潮路の発見を!

 「嘉兵衛、どうであろう」と重蔵は、ひざを正しました。

 決意を問うためでした。

 彼にとって嘉兵衛をよんだのは、近藤重蔵が嘉兵衛にクナシリ島とエトロフ島のあいだの安全な水路の開拓を依嘱することでした。

 両島の間に、幅5里の水道(クナシリ水道)が流れており、北はオホーツク海、南は北太平洋が広がっています。

 「この狭い水道に濃霧がしばしば湧き、さらには両洋から落ちてくる潮流は速く、風浪は相せめぎあい、なんともすさまじい難所である。

 魔の海で、そのあたりの海になれた蝦夷人(アイヌ人)も、ここばかりは近づかない」と近藤重蔵は言うのでした。

 もっとも、最上徳内(もがみとくない)は、すでに三度、この両島のあいだを往来していますが、三度のエトロフ渡海は、安全といえるものではありませんでした。まさに命をかけた冒険でした。

 エトロフは「捨てられたままの海産物の宝庫」でした。

 嘉兵衛への依頼は、「蝦夷人の使う小さな船でも渡れる安全な潮路を見つけてほしい」ということでした。 (no4971)

 *写真:「大日本恵登呂府」の標柱(エトロフ島カムイワッカ)

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