瓢水の母(参)の墓碑③
瀧 恒 春?
「さればとれ 石にふとんは きせられず」と瓢水が詠んだ句の石(墓)に間違いないと思うのです。
文化財として認定し、世に広く知られて保存につながると考えます。
しかし、この墓石は文化財とは認められていません。
それには、2つの理由があります。
第一は「明治十八年の書類では、だれの墓か不明」としています。
他の理由は、「瀧瓢水研究(6)」をご覧ください。
この墓を建てたのは四代恒春とあります。
四代は瓢水ですから、瓢水が建てたということには問題がありありません。
問題になるのは「恒春」です。
瓢水は、有恒・新之丞・自得・新右衛門・富春斉・半括坊等その外にも多数の名前を持っていますが「恒春」は一度もでてきません。
瓢水の本名は有恒です。
そのため『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)には、「・・・四代目は瓢水ではなく、この墓を建てた恒春であり、五代が瓢水である・・・」とやや強引な記述まであります。
そして、この記事を書かれたH氏は、別のところで、やはり四代は瓢水、五代は富春とみとめながらも、恒春にこだわり、墓を建てたのは「七代の恒春」とされました。
七代の瀧恒春は天明八年(1788)ごろに生まれ、明治五年(1872)に亡くなっています。
くりかえします。瓢水の母・参がなく亡くなったのは、享保十八年(1733)です。
「時代があまりにも違います。そのため、この墓は瓢水が建てたものではない」と結論づけておられます。
文化財審議委員の方にお願いです。もう一度、調査をお願いできないでしょうか。
恒春は瓢水の名前
「恒春」は誤刻かとも考えたりしますが、母の墓碑の自分の名前の誤刻に気がつかないことはないと思います。
「恒春」は母の墓碑にただ一回限りに使った瓢水の名前であったと考えたいのです。
瓢水と母・参との心の結びつきは強よかったようです。母の死に「人目もはばからず涙した」といわれています。
ある想像!
生前、母と二人きりの時、次のような会話もあったのではないかと想像するのです。もちろん史料があっての話ではありません。
・・・有恒(瓢水の本名)・・お前もずいぶんと俳句にのめりこんでしまいましたね。お母さんも苦労しますよ。・・・
名前がよくなかったのかね。初代は元春、二代は清春、三代は亡くなったお父さんの仲春、そして四代目がお前の有恒。お前だけが「春」を継いでいないね・・・
恒春の方が良かったのかね・・・。
そんな話の時、瓢水はだまって苦労かけている母の小さくなった背を見つめるばかりでした。
以上の母との語りは、もちろん史料があっての話ではではありません。勝手な想像です。
『ふるさとの文化財(第二巻)』の著者・木戸正氏は、「・・母からは恒春と呼ばれ、(恒春は)母と子の間の最も深いつながりのある名前であった・・・」と推測されています。
図:母・参の墓碑の復元図(『ふるさとの文化遺産』木戸正より)