ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(232) 高砂神社(3)・江戸時代の高砂

2015-05-31 08:28:46 |  ・高砂市高砂町

      経済都市・高砂

 *高砂城を中心とした近世の高砂の町割りですが、「シリーズ:高砂神社」に含め紹介します。

 近世の高砂の町を語るとき、必ずといっていいほど『近世の高砂(山本徹也著)』(高砂市教育委員会)にある右図が使われます。

 高砂の町は、まさに人工の町割です。

   政治町から商業・港街へ

 高砂の町は、池田輝正の姫路への入部(慶長五年)後、ここに城(今の高砂神社の場所)が築かれ城下町として出発しました。

 城下町は、まず政治・軍事都市であり、そして経済都市の性格をもちます。

 しかし、高砂の町の性格を決定づけたのは、元和元年(1615)の武家諸法度の「一国一城令」です。

 この幕府の法令により、高砂城は廃城となり、時の藩主・本多忠政により城郭は廃されました。

 以後、高砂は政治・軍事都市から港町、つまり経済都市として整備を進めていくことになります。

 この時、他の地域でも城下町から、その性格を変えた町は多くあります。

 備前(岡山県)の下津井(しもつい)も城下町を形成していましたが、以後高砂の町と同じく港町として発展した例です。

 高砂は、港町(商業町)として大きく変貌しますが、下津井と異なり広大な加古川上流の後背地を持っていました。

 豊かな後背地と高砂の町は、大河・加古川により結ばれました。

 物資は高砂に集まりました。

 以後高砂の町は、江戸時代をつうじ飾磨港と共に姫路藩の港町として繁栄することになります。(no2813)

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高砂市を歩く(231) 高砂神社(2)・高砂城址

2015-05-30 07:18:34 |  ・高砂市高砂町

     高砂城址

 慶応6年(1601)、姫路藩主池田輝政は、高砂城を中心に高砂の町の建設にとりかかりました。

 以後、高砂の町は猛烈な勢いで繁栄することになります。

 高砂城のあった所は、現代の高砂神社のある場所で、輝政は、ここに加古川を付け替え(流れを変え)現代の加古川本流河口の右岸(西岸)に、新たに港湾を整備しました。

 築城に伴い、そこにあった高砂神社を農人町(のうにんまち)へ移転させました。

 その後、一国一城制(元和元年・1615)により高砂城は廃城となり、高砂神社は、元あった現在の場所にもどされています。

 次号では、近世(江戸時代)の高砂の町についての話をしましょう。その前に江戸時代以前の高砂にあった「高砂の古城」について若干ふれておきます。

   蛇足旧高砂城(江戸時代時代以前の高砂城)

 高砂の古城は、秀吉の三木攻めで、その名を知られていますが、詳しいことは分かりません。

 『播磨鑑』『播州古城記』では「池田輝政は、梶原の城(旧高砂城)のあとに高砂城を築いた」と書いていますが、小松原城(高砂市荒井町小松原、神社三社大神社境内)であったとする説もあります。

 小松原(高砂市荒井町小松原)の三社大神社境内には、「小松原城址」という石碑があります。

 いずれにせよ、旧高砂城は小さな「要塞」にすぎなかったのではないかと想像します。(no2812)

 *写真:「高砂城址」を示す石碑(高砂神社境内)

 (注)石碑の後ろの銅像は池田輝政ではなく、工楽松右衛門です。

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高砂市を歩く(230) 高砂神社(1)・松右衛門の指先はどこを指す?

2015-05-29 09:08:33 |  ・高砂市高砂町

 高砂にはたまらなく好きな人物がいます。工楽松右衛門(くらくまつえもん)です。

 司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』にも登場します。

小説の主人公は、もちろん高田屋嘉兵衛ですが、もう一人の主人公が工楽松右衛門です。

詳しくは「ひろかずのブログ・工楽松右衛門物語」をお読みください。

   工楽松右衛門(くらくまつえもん)

 松右衛門について少し復習しておきます。

 江戸時代、高砂の町にはにぎわいがありました。豊かな経済力は、個性豊かな人物を多数輩出しました。その代表的人物が工楽松右衛門です。

 松右衛門が世に知られるようになったのは、船にとって重要な帆布の改良に取り組んだことです。
 船の帆は、古代から材料は麻布や草皮等を荒く織った粗雑なものでした。そして、当時の船は帆よりも櫓(ろ)にたよることが多かったようです。
 帆布が広く使用されるのは、江戸時代以降です。
 しかし、この帆は、薄い布を重ねあわせて使用したため、破れやすく雨水等を含んですぐ腐ってしまいました。
 そこで、松右衛門は高砂・加古川地方が綿の産地であることに目をつけ、現在のテント地のような分厚い丈夫な布を織り、帆にしました。
 それは、丈夫であるばかりか、操作も簡単で、風のはらみ、さらに、継ぎ目に隙間を開けたことで、つなぎ合わせた一枚の帆よりはるかに便利になりました。
 この帆は「松右衛門帆」として呼ばれ、またたく間に全国に広がり、彼は一躍大商人にのしあがりました。
   松右衛門像の右手の先ある物は?
 「松右衛門帆」により、当時、最も遠いとされた「蝦夷地(北海道)」との航海の日数も短縮され、松右衛門は、蝦夷地の海産物をあつかう廻船問屋も始めました。

 また、松衛門は、蝦夷地との廻船問屋の他にエトロフ島の開拓者としても知られている。

 エトロフ島では、紗那(シャナ)港を築いきました。

 そこで、今日の話題ですが、高砂神社境内の工楽松右衛門の右手の話です。

 あの右手の人差指はどこを指しているのでしょう。

彼の指は、エトロフ島を指しているといわれています。(no2811)

 *写真:工楽松右衛門像(高砂神社境内)

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高砂市を歩く(229) ある墓標

2015-05-28 07:48:23 |  ・高砂市高砂町

   多田留治の墓標

  延命寺の墓地を歩きました。

 意味ありげな墓碑を見つけました。

 墓碑には、つぎのような言葉が刻まれていました。

  なかまのことが

  思い出されて ならなぬ日だ

  晴れたまひるのサイレンの音

 墓碑の裏には「多田留治、1991年7月5日没 83歳」とあります。

 「多田さん」とはどんな人だろう。「思い出されてならぬ日」とは何だろうか。「サイレンの音」も気になります。

 調べてみると、多田留治は元兵庫県共産党委員長でした。

 サイレンの音は、「労働条件改善」「戦争反対」等を叫んだ共産党(員)への一斉検挙のサイレンの音かもしれません。

 『兵庫県党の歩み』に、多田さんは「二月の嵐」と言う一文を寄せられています。その一部を紹介します。

   三菱製紙でのストライキ

 ・・・・3・15事件の年からさかのぼる四年前、高砂の三菱製紙工場の労働者は、労働組合を結成した。

 (注)3・15事件:共産党に対する弾圧事件で、全国で1600余名の党員が検挙される事件

 しかし、「高砂工友会」の名称がしめすように、それは協調主義的、親睦団体的色彩のつよいものであった。

 だが、労働者はいったんなんらかの組織に結集すると、その組織を戦闘化せずにはおかない。

 高砂工友会結成一年を経過せぬうちに、早くも労働条件改善を要求して月余にわたるス

トライキをたたかう。

 このたたかいは私(多田)ひとりとしても、それまでの矮小な「天皇の臣民」から、現代の巨人、労働者階級の、階級の一員であることの自覚と誇りをもたらすものであった。

 ・・・・(no2810)

 *『兵庫県党のあゆみ』(日本共産党兵庫県委員会)参照

 *写真:多田留治の墓碑

 

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高砂市を歩く(228) 再・キリシタン燈籠にあらず

2015-05-27 07:52:16 |  ・高砂市高砂町

        キリシタン燈籠(延命寺)

 「高砂市を歩く(164)・キリシタン燈籠」再考で、「高砂市教育研修所の前庭に織部燈籠・キリシタン燈籠はキリシタン燈籠ではない」と書きました。

 いま、十輪寺の隣の「延命寺」に来ています。ここでも、また「キリシタン燈籠の説明」にであいます。

 この織部燈籠は、一般的な燈籠に比べてやや小ぶりで、派手さを好まない点で、庭園等に好まれていたようです。

 形に特徴があり、竿の部分の上部が横に張り出しているため十字架のようにも見えます。

 そのため、大正末期から昭和の初期にかけて、一部の研究者や郷土史家によるキリシタン遺物の研究熱が高まりました。

 その折、織部燈籠に彫られた像がマントを羽織った宣教師に似ていることなどから、織部燈籠の一部を「キリシタン燈籠」と称するようになりました。

 くどいくなりますが、「高砂市を歩く(164)・キリシタン燈籠」を再掲します。

    キリシタン燈籠ではない?

 高砂市では、曽根町の入江家、高砂町の岸本家、そして、ここ延命寺にも「キリシタン燈籠」といわれている燈籠があります。

 江戸時代は、厳しいキリスト教の禁教の時代です。

 高砂は、経済の町で開明的な土地であるとはいえ、地域の豪商や寺などは、あえて見つかれば「あぶない」燈籠を堂々と設置したのでしょうか。

 考えられません。

 これらの「キリシタン燈籠」は、キリシタンとの関連が希薄であると考えられます。

 松田毅一氏は、『キリシタン史実と美術』(昭和44年)で、「キリシタン燈籠説」を否定されています。

 が、現在も「キリシタン燈籠説」が世間に流布されたままとなっているようです。(no2809)

 *写真:延命寺(高砂町)の「キリシタン燈籠?」

 

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高砂市を歩く(227) 月西寺(庵)

2015-05-26 09:21:23 |  ・高砂市高砂町

 前号から高砂町を歩いています。

 今日は月西寺(庵)を訪ねます。説明板の一部を読むことにします。

    月西寺(げっさいじ)

 月西和尚(げっさいおしょう)は、「江戸城を築城した太田道灌の末裔の子として寛永14年に生まれた」といわれています。

 正保2年(1645)9才で出家しました。

 その後、京都で修業を重ね「月西(げっさい)」の称号を授与されました。

 さらに、江戸増上寺でも修業を重ねました。

 上人は、常に名誉を捨て、日本諸国の旅に身を託して念仏三昧境地の生活を送りました。奥羽、佐渡を遍歴した後、高砂柴屋の船で高砂に来られました。

 時に、宝永4年(1707)2月28日でした。

 高砂では、法然上人の教化の跡地である、八田治部太夫(はったじぶだゆう)の住居跡に庵を結んで、庶民と共に念仏し、粗食に甘んじ寝食を忘れるほどの念仏に励みました。

 ある時、「私は柴屋で28日に往生を遂げる」と告げて、その日に往生しました。

 時に正徳6年(1716)2月28日、79才でした。

 庶民は、皆その徳を慕い集まりました。

 高砂は、念仏が盛んな地域でした。(no2808)

 上人の行状は、「往生記」「播磨名所順覧図絵」その他たくさんに紹介されています。

 *写真:月西寺(庵)

 

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高砂市を歩く(226) 配水塔

2015-05-25 09:08:00 |  ・高砂市高砂町

     配水

 写真の高い鉄脚上に立つ巨大な丸い鉄製タンクは、水道の配水塔です。

 昭和41年まで40余年にわたり、高砂市の飲料水を賄ってきた水道の"元締め"でした。

 高砂市文化会館駐車場内に在るこの塔は、高さ25.7メートル、貯水槽の直径6メートル、深さ8.8メートル、容量は204トン。6本の鉄脚で支えられています。

 完成したのは、大正12年(1923)10月26日。本体は、八幡製鉄所(現新日本製鉄)で鋳造した部材を川崎造船所(現川崎重工)で製造しています。

 大正期のものでは東京・駒沢に鉄筋コンクリート製が残りますが、作られたのが一年遅れただけで、高砂の上水道整備がいかに早かったかがわかります。

 現在は、国の登録有形文化財となっています。

 高砂市は、昔から豊かな水源の加古川や地下水から飲料水を取水してきたが、工場進出に加え、地下水の水質悪化が理由で、本格的な上水道、工業用水の整備を迫られました。

 大正8年、日本で最初の工業用水事業に着手、翌年には上水道整備を開始し、新たに浄水場を現在の文化会館がある朝日町一丁目に設けました。

 このころ塔が建設され、大正13年1月から給水が始まりました。

 高さ25メートルの落差を利用し、高砂町から荒井村遠方までスムーズに送水されました。

    昭和41年、給水塔は役目を終える

 昭和41年7月8日、新しい米田水源地が完成と同時に、朝日浄水場は閉鎖、この塔も役目を終えましたが、高砂市の水道史のシンボルとして、その姿はいつまでも生誕地のここに残こることになりました。(no2807)

 *『近代の歴史遺産をたずねて』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *写真:配水塔(神戸新聞より)

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高砂市を歩く(225) 中筋西(地蔵堂)の石棺仏

2015-05-24 08:38:04 |  ・高砂市伊保町

   中筋西の石棺仏

  中筋西の小さな地蔵堂に石棺石仏(向かって中央の地蔵像の左)があります。

 (石棺仏については、「ひろかずのブログ」で、既に紹介していますので検索ください)

 この石棺仏は、小形で彫りも深く像容もすんなりとしている阿弥陀仏です。

 阿弥陀仏は室町時代のものと思われます。

 地蔵堂の阿弥陀仏以外の数体の仏たちも、中央の地蔵を除いて同時期の石仏と考えられます。

 この地蔵堂のある場所は、時光寺のすぐ南ですが阿弥陀町ではなく伊保町中筋です。

 地域としては、伊保なのですが、時光寺とのつながりを考えてよいのでしょう。

    消えた古墳を証明?

 また、石棺仏ですから、古墳の石棺に刻まれた仏です。

 「高砂市を歩く(223)・時光寺古墳」で、「消えた古墳」の小見出しで、次のように書きました。

 「・・・たまたま、この地(時光寺の近辺)が、瓦やレンガの生産に適した土層であったことから、その地に築かれていた古墳は、その後の瓦生産や、また近代・現代の土取り工事で、破壊され消滅してしまったようです。・・・」

 中筋西に石棺仏があるということは、まさに、この辺りには時光古墳だけでなく、ほかにも古墳があったことを証明しているのでしょう。

 地図を片手に、中筋西の石棺仏を捜し回りました。

 やっとのことで、狭い路地で見つけました。

 ちょうど、近所の方がおられたので、この石棺仏についてお聞きしたのですが、ごぞんじありません。

説明板ぐらいは欲しいです。(no2806)

 *写真:中筋西の地蔵堂の石棺仏

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高砂市を歩く(224) 復習、朱印領の寺・阿弥陀の宿

2015-05-23 07:24:35 |  ・高砂市阿弥陀町

 阿弥陀町阿弥陀でずいぶん足踏みしています。そろそろ次の地域に移りたいのですが、その前に「時光寺」の続きとして「高砂市を歩く(95・96)」の抜粋を読んでおきます。

    朱印領の寺 高砂市を歩く(95)より抜粋

 西阿弥陀村の時光寺は、高砂町の十輪寺と共に浄土宗西山派の寺院です。寺領の点では十輪寺より多い20石を所持していました。

 また、慶安元(1648)8月、徳川家光から朱印状を拝領して以降、引き続き寺領の朱印状を拝領する寺院としての寺格は十輪寺より上にありました。

 しかし、時光寺は、西山派教団内の寺格面では十輪寺の下位でした。

 寺格の昇進には由緒や伝統に加え、本山への多額の献金が必要であり、こうした点で時光寺は劣っていたためではないかと考えられています。

 十輪寺には、高砂町の富裕な町衆(壇家)の経済力がありました。

   阿弥陀の宿(しゅく) 高砂市を歩く(96)より抜粋

 天正5年(1577)10月19日で、秀吉はざっと4000人で播州に向かいました。

 当時の寺光寺(高砂市阿弥陀町)のあたりの風景を『播磨灘物語』からお借りします。

    秀吉、時光寺に

 「官兵衛がもっとも待ちかねているであろう」と秀吉は思った。・・・官兵衛は、秀吉を出迎えるべく、阿弥陀ケ宿という在所の道路わきまで出ていた。

 阿弥陀ケ宿とは、(姫路から)8キロばかり東へ行ったところにある。宿場である。

 街道のまわりは、5分も佇んでいれば退屈するほどの平坦な野で、ところどころに岩肌の丘陵がある。阿弥陀ケ宿は宿場といっても粗末な伏屋(宿屋)が十軒ばかりある程度で、路傍に馬をつなぐ杭、馬の足を洗う溝が流れているのが、かろうじて宿場の設備といっていい。

 宿場の南側に、時光寺という小さい寺がある。この境内に阿弥陀堂がある。そのために、この地名が興ったという。

 官兵衛は、供を50人ばかり連れて、この寺で秀吉の軍列の来るのを待っていた。

 「筑前どのの御人数に馳走せよ」。・・・ やがて、筑前どのの御人数、見えたり、と呼ばわり声があがり、官兵衛はすぐさま騎走して宿場の東のはずれまで出た。秀吉は、中軍にある。・・・(no2805)

 *『播磨灘物語(司馬遼太郎)』参照、*『高砂市史(第二巻・通史編近世)』参照

 *写真:時光寺

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高砂市を歩く(223) 時光寺古墳

2015-05-22 07:04:55 |  ・高砂市阿弥陀町

 時光寺は、浄土宗の著名なお寺としてではなく、古墳中期(5世紀)ごろの古墳があることでも知られています。

   時光寺古墳

 寺光寺の裏手に小高い丘があります。

 そこに、径46メートル・高土6.6メートルの円墳・周溝を持った二段の古墳があります。

 墳頂部には方形埴輪列と、外周に円形埴輪列、この墳頂周辺からは、甲冑・盾・靭(ゆき:矢を入れて背負う筒状の道具)・家・鶏形埴輪の断片が相当量出土しました。

 段部にも円筒埴輪がめぐっていたようです。

 崩れ落ちていましたが、この段の部分には馬形埴輪があったようです。

 墳頂のほぼ中心部には写真にあるように、石棺が東西に直葬されています。

 蓋の形は、かなり背の高い半円形に近い蒲鉾状断面形で、両長辺にそれぞれ二個の縄掛突起を持っています。

 全体に丁寧な作りで、石棺蓋全長は228センチメートル、幅は85センチメートル、突起を含めると123センチメートルです。

 長持形石棺とすれば小形の棺です。

 この棺は、蓋が露出されただけで、それ以上の発掘は行わないまま埋め戻されました。

 ただ、盗掘は受けていたようで、その盗掘のためか、蓋石が僅かにずれており、下に棺身が存在したことは確かであったようです。

    消えた古墳群

 たまたま、この地が、瓦やレンガの生産に適した土層であったことから、その地に築かれていた古墳は、その後の瓦生産や、また近代・現代の土取り工事で、破壊され消滅してしまったようです。

 この時光寺の古墳に続く時期の埴輪があり、中には人物埴輪などもあったようです。

 時光寺古墳の主やそれを支えた人々の後裔たちの古墳が、この地に作られていたかもしれません。

 また、すでに失われてはいても、同様の古墳が、地蔵院辺りにもあり、そうした中に、地蔵院本堂前庭の石棺も埋葬されていたのかもしれなません。(no2804)

 *写真:時光寺古墳頂上部発掘状況(梅原章一氏撮影・『高砂市史・第一巻』より

 *『高砂市史(第一巻)』参照

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高砂市を歩く(222) 播州善光寺(時光寺)

2015-05-21 07:45:25 |  ・高砂市阿弥陀町

 時光寺の山門(写真上)を見上げています。

 見事です。雄大です。

 山門は、高砂市の指定文化財だそうですが、教育委員会の説明を読んでおきます。

    時光寺山門

 三間一戸の楼門(ろうもん)で、屋根形式は、入母屋造本瓦葺。

 門の両脇には四天王がまつられている。

 棟札から江戸時代後期、寛政3年(1791)年にたてられたことがわかる。

   播磨の善光寺

 時光寺は「播磨の善光寺」と呼ばれていますが、次のような理由のためです。

 ・・・約400年前、兵庫の浦に熱心な念仏の老行者がいて、毎年欠かさず信濃の善光寺に参っていました。

 が、ある時老齢で遠路参拝するのを哀れと感じた善光寺如来が、時光寺は当山と分身一体の阿弥陀であるということから、以後は時光寺へ参るように告げられました。

 そのことから「時光寺への三度の参詣は、善光寺への一度の参詣に当たる」といわれました。

 長野の善光寺のお参りは、少し遠いです。

 時光寺(阿弥陀町)へ出かけられませんか・・・願いがかないますよ。(no2803)

 *写真上:時光寺の山門

   写真下:山門に掛けられた「播州 善光寺」の札

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高砂市を歩く(221) 時光上人の墓か?

2015-05-20 07:30:06 |  ・高砂市阿弥陀町

    時光寺九層塔

 高砂市教育委員会の説明文を読んでおきます。

    時光上人の墓か?

 南北朝時代後期(14世紀末ごろ)の九層塔で、相輪(そうりん)と下から6層目の笠が欠落している。

 最上層には別の五輪塔の火輪(かりん)が載せられている。

 時光上人の墓と伝えられる。竜山石製。

 *時代:南北朝時代 高さ:318cm 材質:凝灰岩

 以下は、層塔を紹介する時に掲載するいつもの話題で申し訳ありません。

   奇数・偶数(陽数・陰数)

 昔、中国では奇数を偶数(陰数)に対し、陽数つまり、良い数字とし、そして月と日が重なる日を特に縁起の良い日としました。

 3月3日(ひな祭り)、5月5日(子供の日)、7月7日(七夕)とみごとに奇数のオンパレードです。

 奇数のうちでも9は最高の「陽数(ようすう)」であり、9月9日(重陽)は、1年中でもっとも縁起の良い日とされました。

この時光寺の層塔も例外ではなく笠の数は9重と奇数です。

が、層塔にはなぜか十一重の層塔は見当たりません。(no2802)

 *写真:時光寺の層塔(時光寺境内)

 

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高砂市を歩く(220) 宝篋印塔には北朝の年号

2015-05-19 06:29:52 |  ・高砂市阿弥陀町

 写真は、時光寺山門前の宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。説明を読んでおきます。

    時光寺宝篋印塔

 県指定文化財(昭和62年3月31日指定)

 花崗岩製の宝篋印塔で、刻銘により南北朝時代の康暦(こうりゃく)2年(1380)に観阿らによって造立されたことが明らかである。

 龍山石の基壇の上に複弁を刻んだ蓮座(れんざ)を置き、基礎は各面とも格狭間(こうざま)を彫り、その中央に開花蓮華を浮彫りしている。

 塔身は、月輪(がちりん)の中に梵字を彫る。

 笠の隅飾突起には覆輪を付け、中央に円形を彫り残し、中に各々梵字を刻む。

 相輪は、新しいが他は保存もよく、造りも丁寧でこの地方の代表的な作例である。

   宝篋印塔には北朝の年号が   

 宝篋印塔には北朝の年号14世紀、およそ60年間にわたって、日本の朝廷が北の京都、南の吉野と二つに分裂し、それにともない多くの人々が日本列島を駆けめぐった未曾有(みぞう)の動乱の時代がありました。

 いわゆる南北朝時代です。

 まさに、ひとつの天下に二人の天皇が並び立つ異形の動乱の時代でした。

 南北朝は、古い時代と新しい時代と日本史を大きく二つに分けた時代でした。

 その意味で、「南北朝」はもっと研究され、関心を寄せるべき時代です。

    高砂地域は北朝方

 「高砂を歩く(209)・大日寺の五輪塔」で紹介した五輪塔は、南朝の忠臣・児島範長の墓とされていますが、「暦応」という北朝の年号が刻まれています。

 南朝方の忠臣の墓ではないようです

 これら北朝方の年号からみて、阿弥陀地域(高砂地域)は、南北朝時代・北朝の支配下の地域であったようです。

 さらに、南北朝時代を地域から追ってみたい。(no2801)

 *写真:時光寺の宝篋印塔

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コーヒー・ブレイク  「ひろかずのブログ」が2800号になりました

2015-05-18 08:37:13 |  ・コーヒーブレイク・余話

    「ひろかずのブログ」が2800号になりました

 2006年6月14日、「ブログをはじめました」と題して、次のように書いています。

 ・・・昼から、「ブログに挑戦してみよう(NHK)」を参考に、悪戦苦闘の末ブログを立ち上げました。よろしくお願いします。

 当面、「まち歩き」で、見たこと感じたことを投稿します。今日はその1です。・・・・」

 以来約9年になりましたが、なんとかブログは続いています。

 第1号で、「当面、まち歩き」で、見たこと感じたことを投稿します」と宣言して始めたのですが、すぐ書くことがなくなり、地域史中心の投稿になってしましました。

 そのブログも、今日で2800号になりました。

 これからどんな内容になるのか私も分かりません。

 「当初の町歩き」にもどして、もう一度加古川市から歩いて、そしていままで書いた文章をもとに、その上に歴史を少しふりかけた文(エッセイもどきの文章)をお届けしたいな・・・」とも考えています。

 でも、6月で72歳になります。耳も少し遠くなり、足腰も弱くなりました。なによりも物忘れがひどくなりました。

気軽なエッセーが書けるか自信がありません。

 その前に高砂市の歴史散歩・「高砂市を歩く」をもうしばらく続けます。

 押し付けになりますが、お付き合いください。(no2800)

 *写真:加古川河口のハマヒルガオ(5月15日:金に撮影、もう少しみることができます。記事とは関係がありません)

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高砂市を歩く(219) 高砂市の浄土宗寺院と西山派

2015-05-17 08:51:23 |  ・高砂市阿弥陀町

 法然は晩年、75歳で四国に流罪になりました。

 ところが法然は、流罪になっても少しも動揺しませんでした。

 「地方へ行って念仏の教えを説くのもいいじゃないか。いままで都会でしか念仏を説けなかったけれども、流罪は田舎の人たちに念仏の教えを説くいい機会である」と考えました。

 そして、80歳で都に呼び返されて、いまの知恩院のあるところで亡くなりました。

 この法然の教団が浄土宗です。

    高砂市の浄土宗寺院と西山派

 法然の弟市の内に、親鸞・証空(しょうくう)等の6人は、各個に浄土宗の宗派を形成して、法然の教えを中世社会に定着させていきました。

 思想的には法然の教えの修正や変更とみられるものもあるのですが、門弟たちは都はもとより各地に展開していく過程で、思想を取捨選択しながら法会、儀式などを整備して広げていきました。

 証空の宗派を浄土宗西山派といいます。

 と言うのは、証空は、健保元年(1213)に慈円(じえん)から西山善峰寺の往生院(後の三鈷寺・さんこじ)を譲り受けたので、証空の宗派を西山派と呼んでいます。

 市内にある時光寺は、鎌倉時代以来の浄土宗西山派の寺院として知られています。

 時光は、摂津国浄橋寺(現:西宮市)にいた証空を訪れ、浄土宗の僧となったといいます。

 証空の浄土宗西山派は、時光のような人物の影響を受け次第に播磨国、特に高砂に広がっていったのです。

 高砂は浄土宗の盛んな町となりました。阿弥陀町地蔵院を除いてすべて西山派浄土宗の寺院です。

 地蔵院も元は時光寺に属していましたが、「高砂市を歩く(215)・地蔵寺は時光寺から独立」で紹介したように何らかの理由で、西山派を離れ浄土宗鎮西派(本山:知恩院)の寺となっています。(no2799)

 *『高砂市史(第二巻)通史編近世』参照

 *写真:時光寺

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