経済都市・高砂
*高砂城を中心とした近世の高砂の町割りですが、「シリーズ:高砂神社」に含め紹介します。
近世の高砂の町を語るとき、必ずといっていいほど『近世の高砂(山本徹也著)』(高砂市教育委員会)にある右図が使われます。
高砂の町は、まさに人工の町割です。
政治町から商業・港街へ
高砂の町は、池田輝正の姫路への入部(慶長五年)後、ここに城(今の高砂神社の場所)が築かれ城下町として出発しました。
城下町は、まず政治・軍事都市であり、そして経済都市の性格をもちます。
しかし、高砂の町の性格を決定づけたのは、元和元年(1615)の武家諸法度の「一国一城令」です。
この幕府の法令により、高砂城は廃城となり、時の藩主・本多忠政により城郭は廃されました。
以後、高砂は政治・軍事都市から港町、つまり経済都市として整備を進めていくことになります。
この時、他の地域でも城下町から、その性格を変えた町は多くあります。
備前(岡山県)の下津井(しもつい)も城下町を形成していましたが、以後高砂の町と同じく港町として発展した例です。
高砂は、港町(商業町)として大きく変貌しますが、下津井と異なり広大な加古川上流の後背地を持っていました。
豊かな後背地と高砂の町は、大河・加古川により結ばれました。
物資は高砂に集まりました。
以後高砂の町は、江戸時代をつうじ飾磨港と共に姫路藩の港町として繁栄することになります。(no2813)