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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(26) 加古川駅の空襲

2021-04-30 10:02:22 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

   1945年(昭和20)になり、米軍は中小都市への攻撃を強化しました。
 米田国民学校の日誌では、1945年7月の空襲警報発令は、15回に達し、日に11回発令されることも、稀ではなくなりました。
 この事態は、「小軍都」と化していた加古川地域にとって深刻でした。
      加古川駅の空襲
  そして、ついに恐れていた空襲が加古川地域を襲ったのです。
 『加古川市誌(第一巻)』に、月23日に、グラマン戦闘機が、加古川駅を機銃掃射したのに続いて、翌24日、米機3機が、小門口に爆弾を投下し、加古川駅に避難した急行列車を銃撃し、死者1、負傷の犠牲が出ました。
 しかし、加古川町の「昭和20年事務報告書」によれば、被害は、さらに大きかったようです。
 同報告書は、被害を死亡、重傷、全焼壊家屋1、半焼壊家屋2棟と伝えています。  「加古川小学校の学校沿革誌」も、「本町に始めて米機の機銃射撃並に小型爆弾投下あり、校舎児童共に被害なし」と記しています。
 また、氷丘小学校の「学校沿革誌」も、「空襲のため全日授業停止、加古川駅附近機銃掃射を受ける」と特筆しています。
 死者、重傷という数字は、数字だけ比べれば、神戸空襲などの悲惨さに遠く及びません。しかし、それは、一人の人間の一生を左右するのです。
 7月28日には、別府町が、米軍小型機の襲撃をうけました。
 さらに、月30日、加古川町は、二度目の空襲に見舞われました。加古川小学校の「学校沿革誌」は、「加古川町に、第二回日米機の来襲あり、被害軽微」と簡単に記しています。
 『加古川市誌』第一巻によれば、日毛加古川工場および寺家町三丁目に50キロ爆弾10数個が落下し、死者2銘、負傷者数名がでたと記しています。
 この日の空襲は、加古川町だけではなく、尾上小学校「学校沿革誌」によれば、「米艦爆機尾上村池田に小型爆弾投下、硝子25枚、講堂天井破損」と、尾上村への空襲の被害を伝えています。
 また、別府町にも、被害はなかったとはいえ、この日、前後四回、米機が機銃掃射を行なったといいます。
 加古川地域も、事実上、戦場化しつつあったのです。
 八幡小学校の「学校沿革誌」は、月の項で、以下のように記している。
 「空襲激化せしめた。初等科年以下児童のために毎に分教場を設置す」
 さらに、日にも、別府の沖合に停泊中の汽船に空襲による被害が出、加古川町でも、死者、重傷・軽傷の犠牲がありました。(no5074
 
*挿絵:グラマン機による加古川駅攻撃(挿絵を描かれた方を捜しています)

 *『加古川市誌(第一巻)』『加古川市史(第三巻)』参照

 

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(25) 加古川駅前の水害

2021-04-28 23:20:41 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

         加古川駅前の水害

 前号の続きとしてお読みください。

 加古川市広報(15号・昭和27年7月発行)は、加古川市内の水害を大きく取りあげています。

 以下は、「加古川市広報」からの抜粋です。(文字等一部変えています)

 写真は、昭和36年の加古川駅前通りの水害のようすです。

        根本的対策を急ぐ!

 (昭和27年)6月末から降り続いた雨は、月に入り熱帯性低気圧の影響を受けて、さらに、ものすごい豪雨となったため各河川は刻々と増水しはじめ、2日夜8時頃には徐々に低地から浸水し始め・・・・、日、ついに水は市街地へ浸水し、家屋への浸水.田畑の流失埋没等の被害があった。

 毎年、雨季に発生するこうした水害の原因は、加古郡天満村に源を発する「曇川(くもりがわ)」の最下流が、市内の灌漑用水を運ぶ五ヶ井水路に直結しているため、豪雨等によって増水し、曇川樋門を通じて加古川本流への放出が困難となった場合、この水が市内の水路で通水しきれなくなり、こうした浸水を引おすことになるのであります。

 この被害根絶の対策としては、曇川樋門の増設と、別府川に通ずる水路全体の改修工事の実施の外はないので、この点について県当局にもしばしば陳情してきたのでありますか、県財政の関係等で今日まで未解決となっているのであります。

 

 市においては、7月4日、市長.助役及び市会関係議員等が、重ねてこれが根本的な封策について早急な実現を陳情した結果、県当局においては、この水害を重要視し、14日に現地察査等を実施の上、近く具体化することになりました。

 *現在、曇川樋門と別府川に通じる水路は完成されています。

 ちなみに、先の豪爾による被害は、次の通り

    家屋の床上没水          62

     〃 床下没水         1452

    田畑冠水                 8300

     〃流夫埋没             415

      道路の決潰           4ヶ所

      橋梁流夫                   3

      堤防決潰            7ヶ所

      その他                7        (no5073

 *写真:加古川駅前通りの水害(『加古川・高砂の昭和』樹林舎より)

 

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(24) 明治29年の水害

2021-04-28 10:37:28 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

   明治29年の水害

 最近の加古川駅前の水害の様子を見ておきたいのですが、その前に今回は予備知識です。

 大雨の時、加古川の水位は高くなり、水の勢いは増します。

 そんな時は、加古川の水の取り入れ口へ、反対に大量に流れ込むことになります。

 そのため、取り入れ口の水門は閉じられます。

 しかし、困ったことがおこります。

 曇り川(神野町)に、それをみましょう。

 曇り川は、ふだんはあまり流れがありません。曇り川は、曇った時だけ水があるところから「曇り川」の名が付けれたという説まであります。

 しかし、長雨が続いた時には、ここに一挙に大量の雨が集まり濁流となります。

 こんな時は、加古川へ排水する水門は閉じられます。

 水の行き場がなくなります。

 曇り川の濁流は、曇り川が加古川に突き当たる加古川の水門辺りから流れを南へ変え、大野・加古川・そして海岸部へと押し寄せ、水害をおこしました。

 最近の加古川の水害史のパターンは、この例が多いのです。

 『加古川市史(三巻)』を引用します。

 ・・・・1896年(明治29)、1897年(明治30)の両年、加古川流域では、水害により深刻な被害を被りました。

 明治29年には、8から9月上旬にかけて前線性降雨や台風により水害が頻発しました。

 この時の状況について、例えば、9月10日付『神戸又新日報』は、次のように伝えています。

 *以下は、その記事の一部ですが、少し書き変えています。。詳しくは『加古川市史・三巻』をご覧ください。

 ・・・6日より、曇り川が氾濫し、加古郡西部加古川町・氷丘村・鳩里村等の各村一円は浸水し、氷丘村ごときは一村450戸のうち400戸が浸水し、 茫々(ぼうぼう)たる湖の如し。

 人々は、寺院または高地に避難し、ことごとく地面は没した・・・・(no5072

 

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(23) 隅釜地蔵堂の地は篠原町の発祥の地か!

2021-04-27 09:15:13 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

    北篠原、隅釜地蔵尊

 おおきな招き猫の像が建物に沿って西へ10メートルほど行きます。そして、病院の集まったビルに沿って南へ少し歩き、最初の三差路を20メ―トルば西に行くと小さなお堂があります。

 そのお堂が、北篠原隅釜地蔵堂です。

 説明板には、隅釜地蔵会の説明があります。

 つまみ食いをして紹介会いましょう。

       隅釜地蔵堂の地は篠原町の発祥の地か!

 このお堂の地蔵尊三体のうち中央の両側に祀られている石仏尊は室町時代後期、天文2年(約450年前)のもので、当初は野佛と推察されます。

 地蔵堂の建立については不詳ですが、屋根の頂上の瓦には菊花の紋があり、なにやら由緒がありそうな地蔵堂です。

 人々は、霊験あらたかな地蔵尊にて諸願成就、特に子安、進学、安産の祈願をかけお授け戴いた人は多数ありました。

 当篠原町宇隅釜121番地は旧篠原村の発祥の地であり、また里道の終点で駅(うまや)跡です。

 当時この方面の米、麦、木綿、炭等を集荷して高瀬舟で年貢として上納した基点でした。

 地蔵堂の西軒下に祀られている五輪塔は一部修復していますが室町時代後期のものです。(*以上、隅釜地蔵会の概要)

 上記の説明で、次のことが気になりました。

 ・地蔵堂の地は、篠原町の発祥の地である。

 ・ここは里道の終点で、駅跡(うまやあと)である。

 ・この地方の年貢の上納の起点であった。

 記録がないので、さらに確かめなければなりませんが、史実を含んでいるように思えてきました。(no5071

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(22) 木村一夫選手(2度のオリンピック6位入賞)

2021-04-26 08:21:03 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

        木村一夫選手(2度のオリンピック6位入賞)

 写真(右)がよくなく申し訳ありません。

 左から西田周平、織田幹雄そして、木村一夫選手です。

 昭和3年8月2日、新聞はオリンピック・アムステル大会で織田幹雄選手の「三段跳び優勝」を大きく報じました。

 そして、昭和7年のロサンゼルス大会では、南部忠平選手の三段跳びを「大日章旗上がる中に感激の君が代は轟く」と大きく報じています。

 この両、オリンピック大会に、氷丘小学校出身の木村一夫選手(加古川町溝之口)がいました。

 種目は走り高跳びで、188メートル、194メートルと両オリンピックとも6位入賞でした。

 関西学院中学部に進学した木村一夫さんは、昭和2年、第8回極東選手権大会の走り高跳びに出場、1・82メートルを跳び2位に入賞しています。

 この時の表彰状は、張学良の名で発行されています。時代を感じます。

 当時、中学生(今の高校生にあたる)が国際時代に出場することは、非常にめずらしいことでした。

 関学中学から早稲田大学に進学した彼は、2度のオリンピックの他、数々の国際試合に出場し活躍しています。

 一方、国内大会の成績は、もちろん素晴らしく、全日本学生選手権大会では、全国最高記録で4年連続優勝するなど、当時日本の第一人者として活躍しました。(no5070

 

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(21) 幻の鉄道

2021-04-25 10:49:14 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

    

   幻の鉄道

 地図で、不思議な鉄道を探してください。

 加古川駅から溝ノ口を通り東に鉄道がまっすぐにのび、水足あたりで北へ向きを変えている鉄道です。

 この地図は、昭和25年のものです。

 この鉄道について、水足の方に聞いてみました。

 「そうそう、懐かしいですね。汽車がありましたわ・・」と、この鉄道のことを思い出してくださいましたが、それ以上のことは、分かりませんでした。

 以前に小林精男(故人・加古川線を播州鉄道といっていた時代、運輸部総務課長をされていた)に聞いたことがあります。

 「・・・日岡山にある加古川刑務所は、戦前、神野倉庫と呼んでおり、今の加古川駅からこの鉄道で火薬を運んでいたんです。

 もともと、神野倉庫のあたりは山でしたので、その土を“尾上飛行場”建設に使ったんです・・・なにせ、あの広い場所が火薬庫でしたから、外に機密がもれると大変だったのでしょう、憲兵や秘密の警察による警戒が厳しくてね・・・」

(小林さんに聞き取りをしたのは1994年)(no5069



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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(20) 天之御中主神社

2021-04-24 08:15:03 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

    天之御中主神社 

 JR加古川駅のすぐ北にあるピカピカの神社に寄りました。

 「天之御中主神社(あめのみなかみぬしじんじゃ)」です。

 溝ノ口(加古川町溝ノ口)の人は、この神社を「妙見さん」と呼んでおられる。

 私の知っている溝ノ口の「妙見さん」は、古くて、壊れそうな神社でした。

 以前ここを訪ねたのは、もう約30年もまえになります。

 加古川駅の再開発にともない、ピカピカの神社に変身しました。

 これが人なら、つい「まあ!ずいぶん若く、綺麗になって・・・・」と言ってしまいそうです。

 神社も、周りの風景もまるで、変わってしまいました。

 溝ノ口に住むNさんは、子供のころの思い出として、次のように話してくださった。

  (以下、30年ほど前に取材した時の記録です)

 ○春・夏の祭の頃は、小学生の子どもが太鼓をかついで、その後を数人がゾロゾロ歩き、「妙見さんの祭」であることを村中にふれてまわりました。

 ○夏祭りの「湯立て」では、その湯がかかると「あせも」ができないと、神主さんがササでかける湯を浴びました。

 ○毎年6月の終わりごろ、虫送りがあり、「たいまつ」を燃やして、あぜ道を間形の権現さんまで行きました。

 ピカピカ」の神社の周りから、春・夏の太鼓の音が消えました。そして、「湯立て」の人々のざわめきも、虫送りの松明(たいまつ)の光も消えてしまいました。

 「溝ノ口探検(10)・溝ノ口」を合わせてお読みください。

 車だけが、排気ガスを残して走り去ります。(no5068)

 *写真:新しくなった 「天之御中主神社」



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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(19) 古代・播磨の軍団の駐留地は、溝ノ口?

2021-04-23 07:58:41 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

            古代・播磨の軍団の駐留地は、溝ノ口?

古代山陽道は駅ケ池の南岸から西進して加古川平野を横切り、現在のJR宝殿駅前あたりまでを直線で結ぶ大きな道路がありました。

およそ1300年前に設けられた古代山陽道です。

(もっとも、先に紹介したように、加古川三角州通過する古代山陽道は川筋が安定せず、野口から北へ日岡・升田・中西・岸へのバイパスがよく利用されたようです)

このような幅の広い直線道路は全国七道にわたって敷設され、その最大の幹線道路が古代山陽道でした。

賀古駅は、先に紹介したように馬数の多い日本一大きな駅でした。

こうした駅路は、平時の交通だけが目的だったのでしょうか。

その最大の目的は、軍事であったと考えられます。

律令制の軍事組織として諸国に軍団が置かれました。播磨国ではその実在がまだ立証されていません。

歴史学者・今里幾次はその有力候補地として加古川市加古川町の溝ノ口遺跡を考えておられます。

まず遺跡としては、古代山陽道の北側一キロそこそこに立地し、加古川の河口にも近く、多くの掘立柱建物が群在し、中には瓦葺きらしい例があります。

遣物としては、硯や銅製・石製の帯金具があり、官人が駐在した官衙(かんが・中央政府の役所)的性格が推察されます。

播磨国府系瓦に属する古大内式軒丸瓦などの出土により世紀の後半を中心とするころに、播磨国司の傘下に置かれたことなどが想像されるのです。

特に、「大毅」と読み取れる墨書土器が見付かっていることは重要です。

「大毅」(だいき)は、国司のもとで軍団を統率した指揮命令官の名称です。軍毅(大毅・少毅)以下の駐留があったと考えられます。(no5067

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(18) 溝ノ口遺跡(3)・日岡豪族と溝ノ口遺跡

2021-04-22 08:20:32 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

       日岡豪族と溝ノ口遺跡

 以下は、『加古川市史(第一巻)』の記述を、大幅に借用しています。

 日岡山には図のように多くの古墳があります。

 図中の古墳名は、次のようです。

 ①勅使塚、②南大塚、③西大塚、④北大塚、⑤狐塚、⑥西車塚(①・②・③・④は前方後円墳、北大塚は前方部が削りとられているが、もとは前方後円墳)

 これらの古墳群は4世紀にさかのぼり、被葬者は日岡山の南に広がる平野を約200年にわたって支配していたと考えられます。

 平野部には、南西約2キロメートルの溝ノ口遺跡をはじめ、北在家・粟津などの弥生遺跡があり、早くから開けていました。

 中でも「溝ノ口弥生遺跡」は、弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡で、古墳時代の住居跡も発見されています。

 この辺りは、加古川の氾濫原の中にあって比較的安定し、しかも水利に恵まれた場所でした。『市史』に、次のような面白い指摘があります。

 ・・・日岡山古墳群の現存する5基(前述の4基と稲日大郎姫の御陵)の前方後円墳は、すべて前方部を南に向けています。

 前方後円墳については、必ずしも定説があるわけではありませんが、前方部を平野側に向けている場合が多い。それらは、被葬者が支配した土地とみなしてよさそうです。

 したがって、日岡山古墳群の方向と平野部の遺跡との関係は大変興味深い・・・

 つまり、溝口遺跡は、日岡豪族が支配していた村であったと指摘しています。

「溝口弥生遺跡」は、複合遺跡なので「溝ノ口遺跡」が正しいでしょう。(no5066

*地図:『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)より

 

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(17) 溝ノ口遺跡(2) ・弥生を中心にした複合遺跡

2021-04-21 07:25:51 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

 

  溝ノ口遺跡(2)

     弥生を中心にした複合遺跡

 「溝ノ口弥生遺跡」(加古川市加古川町溝口)の発見は、昭和42年、加古川バイパスの工事中、地元の中学生が多量の弥生土器を見つけたのがきっかけでした。

 調査は、昭和43~44年にかけて行われ、弥生中期(3世紀中ごろ)を中心とする遺跡であることがわかりました。

 その後の調査により溝ノ口遺跡は、広範囲に広がっていることがわかり、3回に分けて調査が行われました。

 第1回目は、平成26年12月9日から12月26日まで。

 第2回目は、平成27年8月10日から11月24日まで。

 3回目は、その北の美乃利地区(美乃利遺跡)の調査が実施されました。

 美乃利遺跡については、後日報告しましょう。

 調査の結果から、これらの遺跡は、弥生時代から平安時代の複合遺構であることが確認されました。

 今回は、溝ノ口遺跡の発掘現場と遺物の一部を見ていただくことにします。(no5065

 *写真上:溝ノ口遺跡の発掘現場

 *写真下:溝と遺物の一部(写真上・下は共に『溝之口発掘調査報告書Ⅳ(加古川市教育員会)』)より

 

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(16) 溝ノ口遺跡(1) ・市内最大の弥生遺跡 

2021-04-20 09:16:44 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

     溝ノ口遺跡(1)

 「溝口弥生遺跡」(加古川市加古川町溝口)の発見は、昭和42年、加古川バイパスの工事中、地元の中学生が多量の弥生土器を見つけたのがきっかけでした。

 調査は、昭和43~44年にかけて行われ、弥生中期(3世紀中ごろ)を中心とする遺跡であることがわかりました。

 多数の出土品がありました。

 これら出土品の一部は、加古川市文化センター(平岡町)に展示されています。

 溝口遺跡は、JR加古川駅から東へ約1キロメートルの場所で、少し高くなっており、当時の加古川の東岸の「自然堤防」上にあったと想像されます。

 また、調査により溝口弥生遺跡は、弥生遺跡だけでなく、古墳時代・奈良時代の住居も含まれている複合遺跡であることが確かめられました。

 市内最大の複合遺跡です。

 しかし、溝口弥生遺跡は、調査後埋めら、その上に加古川バイパスがつくられました。

 遺跡は、現在バイパスの下で眠っています。(no5064

 *写真:市域の弥生中期遺跡と生活圏(『加古川市史・第一巻』)より

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(15) 「溝ノ口」って、どのあたり

2021-04-19 06:20:25 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

      「溝ノ口」って、どのあたり

 *以下は、『加古川万華鏡(岡田功著)』を参照させていただいています。

 

 「溝ノ口」は江戸時代初期に間形村(まがたむら)を分村しています。

 

 昭和42年加古川バイパス建設工事中に地元の中学生により溝ノ口遺跡が発見され、昭和43~4年にわたって、発掘調査がなされ、弥生時代から奈良時代にかけての住居址等の遺構、タコつぼ・石鏃などが多数出土しました。

 この調査から北は日岡山、南は粟津・北在家の北部、東西は加古川・別府川氾濫原までが遺跡の範囲であることが分かりました。

 これら溝ノ口遺跡については、このシリーズ「溝ノ口探検」でも詳しく紹介しましょう。

 

 最近、溝ノ口は、加古川駅の近くであり、新しい建物が次々と建ち、加古川の顔として、激変している地域です。(no5063

*地図:溝ノ口

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(14) 篠原町って、どのあたり

2021-04-18 08:18:04 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

 篠原町探検を始めましたが、「篠原町ってどんな町」「範囲はどこ」という疑問があります。

 ここでグーグルマップにより篠原(町)・溝ノ口の場所を確かめておきましょう。

 そして簡単に篠原町・溝ノ口の歴史をみておきます。

 今回は篠原町です。溝ノ口につては次回に見ることにします。

   篠原町って、どのあたり

 以下は、『加古川万華鏡(岡田功著)』を参照させていただきました。

 

 「篠原村」の地名が初めて見えるは、天正12年(1515)の鶴林寺文書です。

 篠原村は、名前からも想像できますが、もと加古川の三角州の湿地帯で「篠の野原」あったといいます。

 それが激変したのは、明治21年、山陽鉄道(現JR)の明石~姫路間の開通でした。
 大正12年、鈴木自動車が山陽電車(山電)の委託で、加古川駅前~電鉄尾上間の営業を開始しました。

 昭和2年、神姫自動車が(現神姫バス)が加古川尾上間を買収して、翌年本社を加古川に置きました。

 加古川は、交通の中心になりました。

 つまり、加古川駅の開通により篠原(町)はにぎやかになり、大正5年町制を実施し、篠原村は、篠原(まち)となり、その後「しのはらちょう」と呼ばれるようになり発展することになりました。(no5062

 *地図:篠原町

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加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(13) 姉妹都市マリンガ(3)・イッペイ(ブラジルの国花)の花が咲きました 

2021-04-17 09:09:55 | 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検

   イッペイ(ブラジルの国花)の花が咲きました

 イッペイ」の花が咲いています。

 もともとイッペイの木は暖かい気候を好みます。そのためかイッペイの木は元気がなくなっているようです。

 沖縄では、1970年ごろから植樹された沖縄市のイッペイ(黄色)並木は有名とのことです。

 あまり、聞きなれ知られていない木ですが、1954年にブラジルの木として選定され、ブラジルを代表する樹木です。

 ブラジルでは、桜のような木に成長します。

 そして、春には黄、淡紅紫、そして白い花を咲かせます。

 沖縄では、月頃から少しづつ咲き、3・4月が盛りです。

 JR加古川駅北側のロータリーのイッペイは、マリンガ市と加古川市の友好の印として平成17年に植樹されました。

 マリンガ市は、緑いっぱいの都市です。春には、イッペイが街にいろどりをそえるそうです。

 私事ですが、30歳代の終わりごろマリンガ市を訪問しました。

 その時、イッペイの季節ではなかったため見ることはできませんでした。

 いつか、イッペイの花に埋まったマリンガ市を見てみたいものです。

 加古川駅北ロータリーのイッペイは年々、元気がなくなっているようです。きのう、写真を撮りにでかけましたが、やはり桜のように見事に咲いていません。

 チラホラ・・・です。でも、珍しい花です。加古川駅の近くに行かれた時は、ご覧ください。(no5061

 *写真:イッペイの花(加古川駅北側)ロータリー・5/16撮影)

 

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(史料として)高砂 『愛称の道』と『愛称名』出版(愛称の道調査隊)

2021-04-16 11:19:30 |  ・コーヒーブレイク・余話

  (416日・金、神戸新聞より)

   高砂 『愛称の道』と『愛称名』出版

 兵庫県高砂市内で古くから使われている地域特有の道について呼び名を調べてきた歴史愛好家グループが、現地へ足を運び、住民から聞き取った成果を冊子「高砂 『愛称の道』と『愛称名』」にまとめた。63カ所の道だけでなく、地名と地蔵の愛称も併せて紹介。阿弥陀、荒井など地区ごとに分け、一覧表と経路が分かる地図を写真付きで掲載している。(若林幹夫)

 グループは「愛称の道調査隊」。高塚洋さん(77)=高砂市、清水敏男さん(73)=同市、亀野忠重さん(73)=同市の3人で、実測の日本地図を作った伊能忠敬の足跡についても研究してきた。今回は、市立図書館の市民向け講座「市史ゼミ」のテーマとして2019年に調査を始め、市内7地区を2年かけて順に巡った。

 冊子の冒頭では調査背景として、暮らしに根差して使われてきた道や地名の呼び名が「殆(ほとん)ど語り継がれる事も無く死語となっている」と指摘。現地調査や地域の歴史に詳しい高齢者から聞き取った内容を「一次資料」として積み重ね、「後世への遺産として遺(のこ)しておくことが出来た」とつづる。

 阿弥陀地区でかつて採石運搬に使われた砂利道「馬力道」、旧国鉄高砂線跡を舗装した高砂地区の遊歩道「グリーンロード」など、新旧問わず紹介している。雨乞い祈願の行列が通った「雨乞い道」、葬列が通った細道「野辺送りの道」「せんど道」などは各地に残されているが、地区ごとに由来の特徴を示し、丹念な調査の跡がうかがえる。

 高塚さんら3人は「情報を集めるのは大変だったが、高砂以外でも民俗文化の掘り起こしとして取り組んでほしい」と話す。

 冊子はA4判85ページ。500冊作製し、東播地域の学校や図書館、同市内の公民館にも置いている。希望者には有料で配るが、送料を含めて要相談。(no5060

 

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