1945年(昭和20)になり、米軍は中小都市への攻撃を強化しました。
米田国民学校の日誌では、1945年7月の空襲警報発令は、15回に達し、日に11回発令されることも、稀ではなくなりました。
この事態は、「小軍都」と化していた加古川地域にとって深刻でした。
加古川駅の空襲 そして、ついに恐れていた空襲が加古川地域を襲ったのです。
『加古川市誌(第一巻)』に、7月23日に、グラマン戦闘機が、加古川駅を機銃掃射したのに続いて、翌24日、米機3機が、小門口に爆弾を投下し、加古川駅に避難した急行列車を銃撃し、死者1、負傷3の犠牲が出ました。
しかし、加古川町の「昭和20年事務報告書」によれば、被害は、さらに大きかったようです。
同報告書は、被害を死亡3、重傷3、全焼壊家屋1、半焼壊家屋2棟と伝えています。 「加古川小学校の学校沿革誌」も、「本町に始めて米機の機銃射撃並に小型爆弾投下あり、校舎児童共に被害なし」と記しています。
また、氷丘小学校の「学校沿革誌」も、「空襲のため全日授業停止、加古川駅附近機銃掃射を受ける」と特筆しています。
死者3、重傷3という数字は、数字だけ比べれば、神戸空襲などの悲惨さに遠く及びません。しかし、それは、一人の人間の一生を左右するのです。
7月28日には、別府町が、米軍小型機の襲撃をうけました。
さらに、7月30日、加古川町は、二度目の空襲に見舞われました。加古川小学校の「学校沿革誌」は、「加古川町に、第二回日米機の来襲あり、被害軽微」と簡単に記しています。
『加古川市誌』第一巻によれば、日毛加古川工場および寺家町三丁目に50キロ爆弾10数個が落下し、死者2銘、負傷者数名がでたと記しています。
この日の空襲は、加古川町だけではなく、尾上小学校「学校沿革誌」によれば、「米艦爆機尾上村池田に小型爆弾投下、硝子25枚、講堂天井破損」と、尾上村への空襲の被害を伝えています。
また、別府町にも、被害はなかったとはいえ、この日、前後四回、米機が機銃掃射を行なったといいます。
加古川地域も、事実上、戦場化しつつあったのです。
八幡小学校の「学校沿革誌」は、7月の項で、以下のように記している。
「空襲激化せしめた。初等科4年以下児童のために毎に分教場を設置す」
さらに、8月2日にも、別府の沖合に停泊中の汽船に空襲による被害が出、加古川町でも、死者2、重傷7・軽傷4の犠牲がありました。(no5074)
*挿絵:グラマン機による加古川駅攻撃(挿絵を描かれた方を捜しています)
*『加古川市誌(第一巻)』『加古川市史(第三巻)』参照