五ヶ井用水の成立は戦国時代か?
五ヶ井用水の伝承はともかく歴史は古い。
加古川下流の左岸(東岸)は、右岸(西岸)と比べて、流れがゆるやかで早くから安定し、聖徳太子の伝承が引き合いにだされるほど古い。
奈良時代には、条里制が発達し開発が進んでいた。
この頃、加古川の旧流路を利用して「五ヶ井溝」が使われていたようである。(「五ヶ井用水を歩く・4」参照)
また、「五ヶ井用水」は、北条郷・加古之庄・岸南(雁南)之庄・長田之庄・今福之庄という五ヶ井郷(庄)の用水であるところからの名称である。
これらの名称からも推測できるが溝は古くからあった。
が、五ヶ井郷が一体の井組として成立したのは郷村制の解体しきっていない時代、つまり室町時代(戦国時代)のことと考えられる。
というのは、庄という名称から荘園が盛んな平安時代に「五ヶ井郷」という井組が成立したと想像できるが、次のような理由から戦国時代ではなかろうかと推測される。
加古川は暴れ川
加古川は大河であり、暴れ川であった。古代より幾度となく洪水を引きおこした。
こんな大河の締め切り工事をし、洪水の時にも崩れない堤や樋門を築き、大川から安定して取水できるようになるのは、技術の進歩を待って後のことである。
すなわち、これらの土木技術の発達は戦国時代をまたねばならない。
戦国時代を生きぬいた人は、優れた武人であると同時に,すぐれた治水土木家でもあった。
それに、五ヶ井用水は多くの村々を貫く大きな用水である。
これらの用水を一体のものとして利用するには、利害の対立する地域いちえんを支配する領主の出現を待たなければならない。
天正六年(1578)三木城は、秀吉軍に敗れたが当時、加古郡は三木城の支配下にあった。
以下は蛇足である。
「若干飛躍し過ぎる」と、お叱りを受けそうであるが、三木・別所氏の支配の後、この地方を秀吉・信長が支配することになる。
秀吉は、土木技術に無類の手腕を発揮した人物である。
もっとも、「五ヶ井用水を推進したのが誰であった」かについては記録はないが「秀吉の意向があったのではないか」と想像してみるのも一考である。
その後、江戸時代は戦争のない平和な時代であり、江戸時代の初めの頃、戦国時代に発達した土木技術が農業に転用され、一大農業開発の時代を迎えた。
今日の農村の原風景は、江戸時代のはじめのころにつくられた。
*写真は神野町二塚で、五ヶ井用水が曇り川に流れ込む手前の橋のプレート。