報恩寺の奉加帳
以下の文章は2009年3月11のブログ「報恩寺の奉加帳」を若干書き直したものです。
報恩寺は、加古川市平荘町山角(やまかど)にあり、中道子山城の近くです。
つまり、播磨地域は赤松氏の影響の強いところですが、とりわけ中道子山周辺は、赤松氏の支配下にある地域であったといえます。
そうであるからこそ、下記のような奉加帳(県指定文化財の三冊の奉加帳)が報恩寺に残されているのでしょう。
三冊のうち、第一帖の奉加加者の名前に驚いてしまいます。
◇第一帖の奉加者◇
左大臣 花押
右京大夫 花押
尾張守 花押
治部大輔 花押
性具 花押
これでは誰か分からないのですが、左大臣は足利義教、右京大夫は細川持之、尾張守は畠山満家、治部大輔は斯波義淳、そして性具は赤松満祐です。
嘉吉の乱(1441)で、殺された義教と殺した赤松満祐の名が並ぶ貴重な奉加帳です。
この奉加帳には年号を記していないが、1432年から翌年に書かれたもののようです。
この奉加帳には趣意文がないので何のための奉加帳なのか不明なのですが、当時の報恩寺の再興のための奉加帳であったと思われます。
第二帖には伊豆守、つまり赤松貞村の名があります。
貞村の娘が将軍義教の側室であり、その関係から、貞村はこの奉加帳面を義教のところへ持ち込んだのかもしれません。
きょうの報告は、この地方が奉加帳が書かれた時代は赤松氏の支配下にあったことを云いたかったのです。