昭和37年10月31日の神戸新聞・東播版に「ふるさとの先人」として、野尻の開拓者・玉田正信(修斉)を取り上げている。
修斉については、このブログでも取り上げたのでご覧ください。
神戸新聞の記事の最初の部分に「野尻」についての印象があります。
野 尻
・・・四方を山に囲まれた印南郡志方町野尻は、いわば袋小路に似た山村である。
小野市と加西市の境界線が村の背中までせまっており、同細工所から小野市へ抜けるつづら折りの細道が、村に文化の香りを伝えるただ一つの交通路だった。
村の子どもたちは、学校へ通うのに朝六時半から家を出るというから、辺境ぶりも想像できよう。・・・
おそらくこの記事を書いた記者F氏は、都会の住人らしく、野尻がよほど辺境の地と映ったようです。
この記事を読んで、数年前に書いた私の拙文を思い出しました。
愚説(拙文「愚考・日本人の考え」より)
空を眺めていたら、たわいもない考えが浮かんだ。でも、「大発見かも知れない」とひそかに思ったりもした。
日本の空は外国(今、アメリカ・ヨーロッパ・オセアニアを念頭においているが他意はない)と比べて低く感じる。晴れた日も湿気のためか、白っぽい。抜けるような、あの青い、高い空が少ないようである。
有史以来、無意識のうちに、低い空の下で日本人は生活を繰り返してきた。日本人の意識に影響を与えない道理がない。
日本人の気質は島国と比較してよくいわれるが、低い空の下で生活してきた影響の方が大きいのではないか。日本の町は、平野にあっても、すぐに山で閉ざされてしまう。
深い無意識のうちに、周囲を山で閉ざされ、上を低い空で締め切った缶詰のような世界で、生活を繰り返してきたのが日本人では、なかっただろうか。
もっとも、これは外国との比較の問題であるが、そこから生じる思考は想像以上に、細やかな、内向きの感情を育んだのであろう。世界を対象にした思考を育てにくい環境にあった。
空が大きければ、相対的に地上の風景は小さくなる。先月、マウント・イーデンの丘(ニュージランドのオークランド市)から市街を眺めたときにそれを感じた。反対に空が低いと、地上の風景が大きく見える。近くの事柄に感心が向く、悪くすると外に対して無関心と排斥の感情を育てやすい。
この思考回路の一因は「空」にあるのかもしれない。(以上・拙文より)
玉田黙翁を育んだ環境
野尻の集落が狭い空間にあり、大きな考え方が生まれにくかったということを言っているのではありません。
野尻が開発された江戸の初めから戦前の野尻を想像しています。
まさに、野尻には神戸新聞の記者の言うような鄙(ひな)の時代が長く続いたと想像されます。
とすると、野尻は市内でも純粋な農村として、外の世界との接触は比較的すくなく、山間の農村として、伝統的(内向き、細やか)な思考が凝縮された集落だったのでしょう。
野尻は、こんな環境にあったからこそ「玉田黙翁」のような学問と生活を誕生させたのかもしれません。
*写真:現在の野尻の西部