援軍は来らず、そして落城
先に紹介した「加古川評定」(天正五年・1577)の行われた時点では、加古川近辺の諸城は、自分たちだけで信長・秀吉との戦いを考えていなかった。
当然、毛利軍の援軍を頭に描いていた。三木城の援軍を思っていた。
三木方には、瀬戸内海を圧して進んでくる頼もしい毛利の援軍の光景があった。
三木方にとっての最大の不運は、毛利方には余裕がなかったこと、そして、何よりも毛利家は天下に覇を求めなかったことにあった。
「守る」と言うのが元就(もとなり)以来の家訓であった。
最後まで、強烈な毛利からの援軍はなかった。
神吉城は、三木方に味方する有力な城にもかかわらず、三木城方からも本格的な支援はなかった。
梶原冬庵
以下の梶原冬庵(かじはらとうあん)の話を付け加えておきたい。広く知られているが、多分に伝承の域を出ない。そのつもりでお読みいただきたい。
わずか、梶原冬庵(かじはらとうあん)等数名の援軍があっただけである。
冬庵は、身の丈六尺余り(182cm)の大男で、13才の時に親の仇討ちで大力の者を組み討ちして以来武勇が知れわたったという。
冬庵の館は、加古川市大野の中津居構跡がそれだと言われ、現在は権現神社が建っている。
冬庵の勇ましい活躍のようすは、『別所記』に詳しい。
冬庵の墓碑(写真)は、常楽寺のすぐ西の真宗寺の境内にある。
天保三年(1832)、井戸を掘ったとき、頭蓋骨・鎧の一部・鉄玉が出てきた。
これは冬庵の首であるとして五輪塔がつくられ、祀ったという。
いま、常楽寺には神吉城の遺構はまるでない。
落城してから200年後の安政四年(1775)、子孫たちが建立した墓碑があるだけである。
*『別所一族の興亡(橘川真一)』(神戸新聞総合出版センター)参照
<お礼>
今日は、12月29日です。このブログもしばらくお休みします。この一年、ブログをお読みいただきありがとうございました。
新年は、1月5日から「官兵衛がゆく」の続きを「志方城の戦い」から再開させます。
よいお年をお迎えください。