嘉吉の乱で、赤松家いったん滅ぶ
「嘉吉の乱」により赤松本家は、いったん滅びます。
その結果、赤松の支配した播磨・美作・備前は、いずれも山名の支配下に入りました。
赤松を残そうとした一部の赤松一族は「赤松満祐の行為は、一部の跳ね上がりであり、赤松全体の考えではないない・・」との理由のもとに、やむなく幕府側に加わりました。
が、彼らの気持ちは複維でした。
播磨国の支配者となった山名に対して、滅ぼされた赤松満祐の家臣達が抵抗を開始しました。
赤松正則の時代、繁栄を取り返すが・・・
「嘉吉の乱」の際、赤松満祐の弟の子である千代丸は密かに家臣によって城山城から脱出し、母の実家である公家の三条家で養育されていました。
千代丸を中心として、赤松満祐の家臣達は、赤松家再興を目指します。
家臣達は、満祐の妻の三条家の力を借りてお家復興を計画にたちあがりました。
南朝の正当性を主張する者達が天皇の神璽(しんじ・まがたま)を奪う事件が起きましたが、この神璽を取り返すのを請け負ったのが赤松旧家臣でした。
一度は失敗しましたが、1458年奪いかえすことに成功しまていたいす。
その成功により、八代将軍義政(よしまさ)は赤松氏の再興を千代丸の子「法師丸」に許しました。
法師丸は、元服してからは政則(まさのり)と名乗り、かつての赤松家の取り戻すきっかけをつかみました。しかし、油断がありました。
山名との戦い(真弓峠の戦い)で、ていたい敗北を喫しました。
この時は、一族の結束で山名を退け、赤松家は、以前にも勝る勢いをと取返しました。
一族の繁栄は、いつまでも続くようにも思われるようになりました。
が、歴史のいたずらです。赤松の不幸は、突然にやってきました。
政則は、鷹狩のために滞在していた加西郡坂井庄の長円寺で、心臓発作のためあっけなく他界してしまったのです。
明応五年(1496)のことでした。
その後、赤松本家は、義村・晴政・義祐と続き、政則の死後、赤松の勢力は徐々に衰え、最後に則房が阿波の加島城へ移り播磨を離れました。
則房は気づかないまま病んでいました。慶長3年(1598)、初夏の暑い日でした。則房は亡くなり、赤松一族の栄光の歴史は、ここにその幕を閉じます。
赤松一族につて、詳しくは他書に譲ります。
次回から、「城山(中道子山)」の歴史に戻ることにします。(no3225)
*写真:政則の築いた置塩城のあった置塩山。「嘉吉の乱後の赤松一族については、小説『花影の城(寺林俊)』(神戸新聞総合出版センター)をご覧ください)