ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

円照寺の花たち(101) アジサイ「ケイコ」

2016-05-31 07:47:04 | 円照寺の花たち

 

        世界一みごとなアジサイ、「ケイコ」

 100号で、日本一と言われる「万華鏡」を紹介しました。

 きょうは、世界一と言われている八重咲きの希少なアジサイ、「ケイコ」です。

 アジサイの種類が多いのには驚きです。

 それぞれの好みがあるのですが、いま、人気急上昇中で、入手困難なアジサイが「ケイコ」です。

 ちなみに、ネットで「ケイコ」を注文しようとしてもできません。

 「在庫なし」ということです。それほどの人気ぶりです。

 円照寺の庫裏の前に一輪咲いています(写真)のでご覧ください。

 群馬県の「S園芸店」で作られた新品種のアジサイです。

 なんでも、「ケイコ」というのは、この紫陽花(アジサイ)を作った方の奥さんのお名前だそうです。いいですね。

 私でしたら、「孫」の名前を付けてしまいそう・・・・。(妻には内緒)
 こんなに素敵な紫陽花(アジサイ)に、自分の名前が付けられている奥さんは幸せですね。

 S園芸店では、「Keiko」 の他にも、新品種の素敵なアジサイがいっぱいあるそうです。アジサイというのは、土中の酸とアルカリの割合で色が変わるということが知られていますが、それにしても、きれいなアジサイです。(no3234)

 *写真:アジサイ「ケイコ」

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コーヒーブレイク  「親子ら蜂蜜採集体験」:東志方町広尾で

2016-05-30 09:41:56 |  ・コーヒーブレイク・余話

 「ひろかずのブログ」で、円照寺の花たちを取り上げている関係で、円照寺のある東志方町広尾によく出かけます。

 昨日(29日)の神戸新聞に「親子ら蜂蜜採集体験」のタイトルで広尾のニュースが掲載されていました。嬉しくなりました。

 広尾にまた新しい名物が加わりそうです。紹介しておきます。

 なお、写真・記事共に神戸新聞からの転載です.

   「親子ら蜂蜜採集体験」:東志方町広尾で

 天然肥料になる「ヘアリーベッチ」の花を使った養蜂を見学し、蜂蜜採取を体験するイベントが28日、兵庫県加古川市志方町広尾の畑で開かれた。ヘアリーベッチを活用し、ブランド米などの生産に取り組む志方東営農組合が企画し、子どもと保護者ら20人が参加した。

 ヘアリーベッチはマメ科の一年草。植物の生育に必要な窒素を空気中からため込み、雑草を抑える働きがあり、農薬や化学肥料の使用を減らすことができる。5~6月にかけて、ヘアリーベッチを植えた畑のそばにミツバチの巣箱を置き、週に1回、小野市の「俵養蜂場」が採蜜に来ている。

 この日は、同組合の黒田信行代表理事(77)や養蜂業者が、畑のそばに設置された巣箱を見せながら、ミツバチの生態や蜜を集める手順を説明。「蜜ぶた」を包丁で取り除いた巣を、採蜜機にかける様子を見学した。その後、子どもらは採蜜機のハンドルを力いっぱい回し、薄い黄金色の蜜を採取した。

 取れたての蜜を試食した女児(7)=加古川市平岡町=は「ぶんぶんと音を出すハチは怖かったけど、蜂蜜は甘くておいしかった」と笑顔だった。

 今年は雨が多く、例年より開花が遅れ、採蜜作業も遅くなっている。このため、農産物直売所「ふぁ~みんSHOP」での蜂蜜の販売開始は7月上旬を予定している。(津田和納)   (no3233)

 *写真記事とに神戸新聞(5月29日朝刊)より

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円照寺の花たち(100) 万華鏡(アジサイ)

2016-05-30 08:41:23 | 円照寺の花たち

 今、円照寺の境内のアジサイは、いっぱいつぼみをつけて出番を待っています。

 もう一週間もすれば、一挙に開き、円照寺はアジサイで埋まります。

 アジサイは、種類が多くその色・形等を楽しむことができます。

 「アジサイは、少し寂しそうな花」という人がいますが、梅雨の時期にアジサイがなかったら、どんなにか寂しい風景になるでしょう。

 円照寺の、アジサイが咲き始めたら住職に大いに語ってもらうことにしましょう。

 アジサイは、1週間もしたら、その見事な姿を披露しますが、一部のアジサイで、すでにその盛りを終わろうとしている種類もあります。

 とり急ぎ紹介しましょう。

    万華鏡

 そのアジサイは、「万華鏡」です。

 ネットの説明をお借りします。

 アジサイにはたくさんの品種があるのですが、今、最も注目を集めているのが「万華鏡」です。

 島根県が開発した品種で、花びらの真ん中がピンクや青で縁どりが白い華やかなアジサイです。

 島根県農業技術センターで育成したあじさいの県オリジナル品種'万華鏡'が花卉(かき)の新品種コンテストである「ジャパンフラワーセレクション」(鉢物部門)で「フラワー・オブ・ザ・イヤー」(最優秀賞)を受賞しました。

 種苗メーカーや個人育種家の出品が多くを占める中で、公設研究機関が育成した品種が最優秀賞を受賞するのは初めての快挙でした。

 万華鏡の紹介が少し遅れました。本堂横で頑張っています。

 住職によると「日本一」のみごとなアジサイだそうです。(no3232)

 *写真:万華鏡

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円照寺の花たち(99) ギボウシ

2016-05-29 09:12:41 | 円照寺の花たち

 

       ギボウシ

 花(木)について音痴な私も、なぜか昔から「ギボウシ」については、知っていました。

 そのためか、円照寺で見たとき、「ああ・・・ギボウシがあるな・・・」ぐらいに、あまり気に留めませんでした。

 調べると、ギボウシは「橋の欄干の柱頭などにつける宝珠の飾りを擬宝珠(ぎぼうしゅ、ぎぼうし、ぎぼし)といい、花の形が、これに似ているのでこの名前がつけられている」とあります。

 なんと、ギボウシの名は、葉の形ではなく、花が擬宝珠の形をしているところから名付けられた植物」と説明しています。

 そして、ネットでは、ギボウシの花も紹介しています。

 が、ギボウシの花は、あまり「擬宝珠」似ているとは思えませんし、目立ちません。あまり、こだわることでもないのですが・・・

 ギボウシは、なんといっても、葉と葉の模様を楽しむ植物なんですね。

 今、円照寺の本堂の左手にギボウシの葉がみごとです。(no3231)

 *写真上:ギボウシ 同下:擬宝珠

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円照寺の花たち(98) スモークツリー(煙の木)

2016-05-28 07:10:28 | 円照寺の花たち

   

    スモークツリー(煙の木)

  こんな木もあるのですね。「スモークツリー」を初めて見ました。

  モコモコとした花穂です。

  まさに、スモークツリー(煙の木)です。

  でも、「スモークツリー」は、大人がつけた名前でしょうね。

  それも、西洋人が。

  スモークでもよいのですが、あまりにもストレートな命名です。さらに夢が広がりません。

  日本の子供がこの花を見たらどんな名前をつけたでしょう

  きっと「綿菓子が咲いている」と言うかもしれません。「綿菓子の木」ですね。

  円照寺は、もう一週間もすれば、アジサイで埋まります。

  それが終われば、夏です。

  子供たちは、夏まつり(盆踊り)で食べた甘い綿菓子を思い浮かべるのかもしれません。

  孫に、この花の感想を聞いてみます。なんと言うだろう。

  スモークツリーは、ぼや~っとした、ふんわりとした、そして美味しそうな花です。

  ネットには「葉は緑葉もありますが、赤紫になる品種も多い」とあります。

  円照寺の本堂の裏に赤紫のスモークツリーもあります。

  この種類は、やがてみごとな色に変身するそうです。

  その時、再度そのスモークツリーを紹介しましょう。

  花は、円錐状に咲き、あまり目立ちません。(no3230)

  *写真:スモークツリー

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円照寺の花たち(97) 私説・城山物語(13) 落城は弘治元年(1550)の頃か

2016-05-27 06:56:17 | 円照寺の花たち

 私説と言いながら、このまま「城山物語」を続けるととんでもない袋小路に陥りそうです。

軌道修正します。

 いま、上月昭信氏が書かれた『広尾と円照寺の歴史』を読んでいます。

 一部を紹介させていただきます。

   中道子山城の拡張・改築は嘉吉の乱後

          落城は弘治元年(1550)の頃か

 ・・・『赤松盛衰記 嘉吉年間録』に「嘉吉の乱(1441)のとき、赤松満祐のもとに集まった武将の中に、印南郡中道山城 志方弾正佐衛門尉顕茂という記述がみられ、嘉吉の乱の頃に志方顕茂が城主であった」ことを紹介されています。

 (細工所の安楽寺に「寺の創建と転用」の伝承があります。上記の志方弾正の城は、寺に少し手を加えた程度のものと思われます)

 そして、まとめとして「・・・嘉吉の乱(1441)の頃、城主は志方弾正佐衛門尉顕茂と思われ、その後、孝橋新五郎が城主の時、城の改築と拡張を行い、4代秀光の時(1550頃)落城もしくは佐用郡に移転したということである」と思われ、また、別のところで、「中道山城は1555年の落城後、櫛橋氏によって使用され、1580年火をかけられ落城した」と推論されています。

 ・・・・

 とにかく、中道子山城の歴史は、謎だらけのお城です。

 近年「赤松一族」の研究は、進んでいますが、まだまだ不明なところが多く、特に、東播磨における「赤松氏」研究は遅れています。

 史実が明らかになった時、どんな中道子山城の歴史が飛び出すのか楽しみです。

 「私説・城山物語」を、ここで一端お休みにしておきます。新しいことが分かれば、紹介することにしましょう。

 「円照寺の花」も夏の衣替え急いでいます。次回から「円照寺の花たち」を再開しましょう。(no3229)

 *『広尾と円照寺の歴史』(上月昭信著)参照

 *写真上:中道山城、城門跡 写真下:同、井戸跡

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円照寺の花たち(96) 私説・城山物語(12)  孝橋新五郎は、大河内満直か?

2016-05-26 07:30:50 | 円照寺の花たち

  前号で、独断と偏見により、「赤松氏は、志方とも関係があったので、赤松が関係した館は志方に当然あったと思える。そして、満直が飾西郡の天神城から志方の天神城(現:志方町西飯坂)への移動である」と推理してみました。

    孝橋新五郎は、大河内満直か?

 話を、「孝橋氏」に戻します。

 『印南郡史』の、中道子山上の築城者は赤松氏則とするは置くとして、中道子山の築いたのは孝橋繁広としています。伝承はさらに続きます。

 「後に、赤松満直は、加西郡善防山城の孝橋氏の養子になり孝橋を名のった」というのです。

 伝承は、事実ではないかもしれません。

 でも一部どこかで真実を伝えているものです。

    志方は、赤松地盤(円福寺が語ること)

 また、満直が志方庄へ移った時、もともと志方は赤松の地盤であり、赤松を支える勢力はあったと考えられます。

 東志方高畑に赤松満祐の戒名を寺号(満祐山)円福寺があります。

 地元の富永真光氏の研究では、「・・・当時、大豪族の習慣として後継者が元服すると同時に寺(寺領)をあてがうのが通例であったことから、円福寺創建は1397年(満祐15才・元服)当時であり、「円福寺護持ノ為寺領ハ高畑の田畑也」と寺伝に見えるのは事実であろう・・・」

 とすると、寺院創建のため、高畑の土地が満祐の名義として与えられ、満祐の戒名を「寺号」にしたのではないかと想像します。

 (注:なお、仏教では、戒名は生前に受戒式に出て、戒名を授かっておくのが本来のあり方としていますから、満祐が生前に戒名を授かっていても不思議ではありません)

 赤松と志方庄は、強い結びつきのある特別な地であったようです。(no3228)

  *写真:円福寺(東志方町高畑)

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円相寺の花たち(95) 私説・城山物語(11) 大河内満直は志方の天神山へ

2016-05-25 06:42:47 | 円照寺の花たち

    大河内満直は志方の天神山へ

 天神山城を築いた初代・満則は神崎郡大河内庄をもらって姓を大河内と変えていますが、父は円心の三男が赤松則祐です。

 ですから、天神山城主の大河内家は、赤松の支流といいながら、赤松本家・則裕の次男が継いだ準本家の家柄です。

 その天神山の大河内家は、こともあろうに嘉吉の乱後、赤松一族を幕府軍の一員として攻撃しています。

 赤松一族の中で、大河内満政だけが幕府の意をくんで満祐追討を仕掛けたのです。そのため新しい守護として乗り込んできた山名も天神山の大河内家だけには露骨な干渉を控えていました。

 嘉吉の乱の後、何とか力を温存できたのは、天神山系の大河内家だけとなりました。

 そのため、一族の内で助けを求めてきた者もありました。

 しかし、赤松一族でありながら満祐追討にまわったのを激しくする者もありました。

 先にも書いたように、大河内家が満祐を攻めた本心は、「赤松満祐が、将軍を殺害したのは、赤松全体の本意ではなく、一部の跳ね上がりである」と主張し、赤松家を少しでも温存することにありました。

 その天神山系の大河内家も嘉吉の乱の後、勢力を弱めざるをえませんでした。

四代の(大河内)満直は、享徳三年(1454)志方庄の城へ移っています。

 この時、中道子山城は、まだありません。とすれば、志方のどこへ移ったのでしょう。

 このあたりは、まったくの独断と偏見で書いています。まさに「私説」です。そのつもりでお読みください。

 赤松氏は、志方とも関係がありましたから、赤松が関係した館は志方に当然あったと思えます。満直が移ったのは、「志方(現:志方町西飯坂)の天神山の館ではなかったか」と想像するのです。

 飾西郡の天神山城から、志方の天神山城への移動です。

 名前「天神山」の一致が偶然過ぎると思いませんか。

 満直は、移り住んだ志方の山を、大河内家の城のあった「天神山」の名をつけたのではないでしょうか。

 もちろん、天神さんをお祀りして・・・(no3227)

 *写真:志方の天神山(前号と同じ写真です)

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円照寺の花たち(94) 私説・城山物語(10) 孝橋新五郎が築城者では?

2016-05-24 06:33:44 | 円照寺の花たち

 

          赤松氏則(円心の4男)は、志方天神山城主か?

 城の築城者は、はっきりしているのが普通ですが、「中道山子城」(志方の城山)の場合は、はっきりしません。謎だらけの城です。

  先に『志方町誌』の説を紹介しました。

 「・・・赤松氏則(円心の四男)が、天神山城(志方町西飯坂)に入ったのは至徳年間(1384~86)、あるいはそれ以前で、天神城(志方町西飯坂)を築いて、しばらく、そこにいて後、その後、中道山子山城を築いて入ったものと思われる・・・」と書いています。

 円心の子供の内、氏則だけは、南朝方として戦い至徳三年(1368)自刃しています。

 嘉吉の乱のとき、彼はすでにいません。

 「氏則が天神山城の城主として君臨していた」という説も経過からして怪しくなります。

 ましてや、中道子山城を築いたとする説は、さらに無理がありそうです。

 この辺の歴史は、独断です。まさに私説です。

   孝橋新五郎が中道子山城の築城者では?

 とすると、『播州諸城交替連綿記』がいうように、孝橋新五郎が、中道子山城を築いたのでしょうか。

 二書とも「中道子山城の築城者は赤松氏則か、孝橋新五郎」と考えられるとしていますが、赤松氏則に若干分が悪いようです。孝橋新五郎をもう少し追うことにしましょう。

(no3226)

 *写真:天神山城のあった天神山(志方町西飯坂)

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円照寺の花たち(93) 四つ葉のクローバー

2016-05-23 06:34:55 | 円照寺の花たち

 きょうは、「城山物語」をお休みとします。ひと休憩です。

 城山物語は、次回からもう少し続きますのでお付き合いください。

     四つ葉のクローバー

 どうでもよい出来事なのに、はっきり覚えていることがあります。

 それも20年ほど前の午後のことでした。

 その日は、加古川の西岸の堰の写真を撮りに行っていました。

 ひとしきり歩いたものですから、クローバーに寝ころんだんです。

 すると、顔の周りに「幸運を運んで来る」という四つ葉のクローバーがありました。

 そうすると、その横にまたまた四つ葉のクローバを見つけました。

 出来事は、ただそれだけのことです。

 四つ葉のクローバーを見つけたのはそれが初めての経験でした。

 それ以後も、注意して探すのですが、見つけることができていません。

 幸運は、とっくにどこかへ逃げて行ってしまったんですね。

        円照寺の四つ葉のクローバー

 先日、孫と円照寺へ出かけました。自宅の周りで、先日一緒に四つ葉のクローバーを探していましたので、「おじいちゃん。三つ葉と四つ葉とゴツバのクローバーがあるよ・・・」というので見ると、なんと四つ葉のクローバーのオンパレード。それに孫(小2)が「ゴツバ」といった「五つ葉(いつつば)」のクローバーも混じっています。

 住職に聞くと園芸種であるとのこと。

 でも、これだけの四つ葉のクローバーをみると、いっぱいの幸をもらえそうでした。(no3229)

 *写真:四つ葉のクローバー(撮影・堀江)

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コーヒーブレイク  450年前の石垣保存へ 

2016-05-22 09:26:23 |  ・コーヒーブレイク・余話

 今朝(22日)の神戸新聞に、調査に出かけた記事がありまので掲載させていただきます。

      450年前の石垣保存へ 加古川・神吉八幡神社

 兵庫県加古川市西神吉町宮前の神吉八幡神社境内にある、最後の神吉城主、神吉頼定(よりさだ)の父頼経(よりつね)が寄進したとされる約450年前の石垣の一部保存が進んでいる。同神社は来年5月の国恩祭に向けた改修で解体を検討したが、郷土史家らが重要性を確認。計画は変更された。(津田和納)

 石垣は昨年11月、地域の歴史に関心を持ち調べている籠谷(かごたに)ツルヱさん(66)=高砂市北浜町=が確認した。神吉八幡神社の元総代、神吉省象さん(88)と偶然出会い、話をするうち、石垣の存在を知り、夫の照弘さん(69)と石垣の場所に向かった。松などが、うっそうと茂る雑木林の中に縦7メートル、横15メートルにわたって周辺の石垣と石の色や形が異なる一部分に行き当たった。ひときわ大きな石に文字が掘られていることに気付き、後日、解読のため、郷土史家の飯沼博一さん(72)=加古川市尾上町今福=を伴って再び訪れた。

 石には「此石垣天文年中神吉城主、中務少輔神吉頼経公之所築、也恐後世矢願主之名茲記之」と記されていることが判明した。「この石垣は天文年中(1532~1555年)に、神吉城主の中務少輔神吉頼経公によって築造され、後世失われることを恐れ、その名をここに記す」という意味だという。

 飯沼さんによると、石垣について記した書物などは1632年、同神社が落雷で火災に遭った際、焼失したとみられる。このため頼経によって石垣が築造されたとする証拠は、石に刻まれた銘文と伝承しか存在していないという。神吉城は現在の常楽寺(同市東神吉町神吉)が立つ場所にあったとされる。神吉八幡神社は神吉城とも近く、地域の守り神として信仰されていたため、神吉一族と同神社には密接な関係があったと推測される。

 同神社の喜多山一洋宮司(61)は「この土地で育まれてきた歴史を次の世代にも伝えたい」と話している。籠谷さんは「石垣は『歴史の証人』。ロマンのある物語を、大勢の人に興味を持ってもらえるよう、発信したい」とほほ笑んだ。

 改修工事は9月末までの予定。

 【神吉頼経】 1543~70年に神吉城の第4代城主を務めた。織田信長軍勢との神吉城の攻防で知られる神吉頼定の父に当たる。(no3228)

 *写真上:銘文が刻まれている石

  写真下:改築中の石垣の前に立つ宮司と発見者の籠谷ツルヱさん

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円照寺の花たち(92) 私説・城山物語(9) 孝橋新五郎は?

2016-05-22 06:33:07 | 円照寺の花たち

      赤松本家は、円心の三男・則祐系

 少し人脈がややこしくなりますが、整理しながらお読みください。

 赤松円心の三男は則祐(そくゆう)です。

 そして、則祐の子・義則の長男が、嘉吉の乱で歴史のその名を残している赤松満祐です。

 乱後、満祐は守護所の坂本城(姫路市)で幕府軍を迎え撃ちましたが、府軍は坂本城を攻め、これを陥落させました。

 満祐らは、少なくなった部下とともに揖保郡にある城山城(きやまじょう)で最後の一戦をするものの城山城は陥落、満祐の首は長刀(なぎなた)の先に貫かれ、京都で見聞されました。

 ここに、赤松一族は、いったん没落しました。

    孝橋新五郎は?

 地図で、天神山城を確認ください。

 天神山城を築いた初代・満則は神崎郡大河内庄をもらって姓を大河内と変えていますが、父は円心の三男が赤松則祐です。

 ですから、天神山城主の大河内家は、赤松の支流といいながら、赤松本家・則裕の次男が継いだ準本家の家柄です。

 その天神山系の大河内家も嘉吉の乱の後、勢力を弱め3代の満直は志方に移っています。

 そして、善坊城(加西市)に移り、名前も孝橋新五郎(たかはししんごろう)と改め、この孝橋新五郎が、中道子城を築いたというのです。

 中道子山と善坊は目と鼻の先です。

 もう少し、説明したいことがありあります。

 天神山の大河内家は、嘉吉の乱で赤松一族を幕府軍の一員として攻撃しています。

 これは、表面では「満祐の行動は、赤松家全体の意思でなく一部の跳ね返りが起こしたのである」と主張し、「赤松家を何とか残す方便であった」と言われています。

 事実、大河内家は何とか生き残り、その後必死に赤松家再興を目指し行動しています。(no3227)

 *地図:『花影の城(寺林峻)』(神戸新聞総合出版センタ)、天神山城の場所を確認ください。

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円照寺の花たち(91) 私説・城山物語(6) 城主は誰?

2016-05-21 08:00:18 | 円照寺の花たち

 中道子山城(以下、城山とします)は立派な山城です。

 それでは、①誰がこの城を築いたのか、②その時期はいつか、③いつまで続いたのか、ということが知りたくなります。

 まず、①の城を築いた人物を考えてみましょう。

    城主は誰?

      赤松氏則(赤松円心の四男)か、孝橋新五郎か

 城の築城者は、はっきりしているのが普通です。

 でも、志方の城山の場合は、はっきりしません。謎だらけの城です。

 書物から調べてみます。

    ◇『中道山城跡発掘調査報告書』より

 「・・・中道子山城跡の城主は、二つの城主説が考えられてきている。

 その一つは赤松氏則築城説であり、もう一つは孝橋(新五郎)繁広(たかはししげひろ)説である・・・」

 (注)考橋新五郎(たかはししんごろう):1441年の「嘉吉の乱」のあと、赤松満政の子「満直」という説と地元・櫛橋繁広の満直の養子となったとする説がありあります。その後、加西郡善防山城主・孝橋氏の養子になったので孝橋姓を名のったといわれますが、はっきりとしていません。

     ◇『志方町誌』より

 「・・・中道子山は俗になまって「ちゅうどうさん」と呼び、城山と呼ばれる場合が多い。(中略)『志方荘古城図附註』のみは、「至徳中、赤松円心の四男氏則(うじのり)、始めて之を築く」としているが、その他の諸書はみな、孝橋新五郎繁広の築くところとして天正の頃まで四代相続したとしている。(中略)

 氏則がこの城に入ったのは至徳年間(1384~86)あるいはそれ以前で、天神城(志方町西飯坂)を築いて、しばらくそこにいて後、この中道山子山城を築いて入ったものと思われる。

 (中略)至徳から応仁までの80年間の城主については詳しくはできないが、おそらく赤松の一族のたれかれが、たちかわり住したと思われる。

 孝橋新五郎、この人が、中道子山城を築いたという記録は『播州諸城交替連綿記』以下諸書の一致するところである・・・」

 二書とも「中道子山城の築城者は赤松氏則か、孝橋新五郎」と考えられるとしていますが、赤松氏則に若干分が悪いようです。この二人を追うことにしましょう。(no3226)

 *写真:城山山頂の「赤松城址」と刻む碑

 

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円照寺の花たち(90) 私説・城山物語(5) 嘉吉の乱③ 嘉吉の乱で、赤松家はいったん滅ぶ

2016-05-20 06:28:49 | 円照寺の花たち

     嘉吉の乱で、赤松家いったん滅ぶ

  「嘉吉の乱」により赤松本家は、いったん滅びます。

 その結果、赤松の支配した播磨・美作・備前は、いずれも山名の支配下に入りました。

 赤松を残そうとした一部の赤松一族は「赤松満祐の行為は、一部の跳ね上がりであり、赤松全体の考えではないない・・」との理由のもとに、やむなく幕府側に加わりました。

 が、彼らの気持ちは複維でした。

 播磨国の支配者となった山名に対して、滅ぼされた赤松満祐の家臣達が抵抗を開始しました。

   赤松正則の時代、繁栄を取り返すが・・・

 「嘉吉の乱」の際、赤松満祐の弟の子である千代丸は密かに家臣によって城山城から脱出し、母の実家である公家の三条家で養育されていました。

 千代丸を中心として、赤松満祐の家臣達は、赤松家再興を目指します。

 家臣達は、満祐の妻の三条家の力を借りてお家復興を計画にたちあがりました。             

 南朝の正当性を主張する者達が天皇の神璽(しんじ・まがたま)を奪う事件が起きましたが、この神璽を取り返すのを請け負ったのが赤松旧家臣でした。

 一度は失敗しましたが、1458年奪いかえすことに成功しまていたいす。

 その成功により、八代将軍義政(よしまさ)は赤松氏の再興を千代丸の子「法師丸」に許しました。

 法師丸は、元服してからは政則(まさのり)と名乗り、かつての赤松家の取り戻すきっかけをつかみました。しかし、油断がありました。

 山名との戦い(真弓峠の戦い)で、ていたい敗北を喫しました。

 この時は、一族の結束で山名を退け、赤松家は、以前にも勝る勢いをと取返しました。

 一族の繁栄は、いつまでも続くようにも思われるようになりました。

 が、歴史のいたずらです。赤松の不幸は、突然にやってきました。

 政則は、鷹狩のために滞在していた加西郡坂井庄の長円寺で、心臓発作のためあっけなく他界してしまったのです。

 明応五年(1496)のことでした。

 その後、赤松本家は、義村・晴政・義祐と続き、政則の死後、赤松の勢力は徐々に衰え、最後に則房が阿波の加島城へ移り播磨を離れました。

 則房は気づかないまま病んでいました。慶長3年(1598)、初夏の暑い日でした。則房は亡くなり、赤松一族の栄光の歴史は、ここにその幕を閉じます。

 赤松一族につて、詳しくは他書に譲ります。

 次回から、「城山(中道子山)」の歴史に戻ることにします。(no3225)

 *写真:政則の築いた置塩城のあった置塩山。「嘉吉の乱後の赤松一族については、小説『花影の城(寺林俊)』(神戸新聞総合出版センター)をご覧ください)

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円照寺の花たち(89) 私説・城山物語(4) 嘉吉の乱② 赤松満祐、義教(六代将軍)を殺害

2016-05-19 05:07:24 | 円照寺の花たち

   ≪嘉吉の乱②≫

       赤松満祐、義教(六代将軍)を殺害

 「・・・新邸の池のカモの子がたくさん生まれました。水面をすべる様子がいかにもかわいく、ぜひともお運びくださるように・・・」

 嘉吉元年(1441)旧・六月、義教(足利六代将軍)のもとへ、こんな招待状が届きました。

 新邸の主(あるじ)は、赤松満祐(みつすけ)でした。

 義教は、就任以来続いていた戦いに勝ち抜き満ち足りた気持ちのときでした。

 義教と仲が悪くなっている満祐からの招待でしたが、喜んでこの招待を受けました。

 義教は、多数の重臣とともに赤松邸に入りました。

 庭先の猿楽は三番まで進み、酒はすでに五杯目。宴たけなわのころでした。

 この時、明かり障子がドット開き十数名の武士が義教めがけて突進してきました。

 義教は、叫び声もあげる間もなく首をかき切られたのです。

 満祐は、その日の夜のうちに、京都二条にある屋敷を焼き払い、家臣たち700名を伴い、播磨の坂本城(姫路市)に引き上げました。

 満祐に味方するものは誰もいません。

 赤松満祐は、急ぎ合戦の準備をしました。

 幕府軍は、坂本城を攻め、これを陥落させました。

 満祐は、揖保郡にある城山城(きやまじょう)で最後の一戦をするものの、赤松軍はすでに五百騎あまり、九月九日に攻撃が始まり城山城はついに陥落しました。

 これは、円心から四代続いた赤松氏の滅亡でした。

 この段階で、赤松氏再興を見通したものは誰もいなかったとおもわれます。(no3224)

 *写真:加東市東条町安国寺にある足利義教の供養塔。(『兵庫探検(続歴史風土編)』(神戸新聞出版センター)より

 満祐は、播磨・坂本城へ帰る途中、この寺で義教の葬儀を盛大に行ったといわれています。

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