ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

別府町探訪:新野辺村(寛延三年)

2007-06-30 09:03:52 |  ・加古川市別府町を歩く

A5296df0_1   左の文書は、寛延三年(1750)の新野辺の明細帳の一部である。

 一 本百姓九拾軒

 一 水呑百姓百三拾七軒

 一 人数千七拾五人 内

           男 五百四拾四人

         女 五百三拾壱人 

  新野辺村の明細帳によれば、百姓家数227軒のうち本百姓90軒、水呑(農地を持たない百姓)137軒と水呑の割合が大変大きい。56e037dc

  その内、各地の酒屋への稼ぎについては、昨日のブログを参照ください。

  そのほか、大工24人・作間商人22人・農具鍛治3人・樽屋1人・医者1人と明細帳は記録している。

  新野辺村の水呑百姓の割合が多いのは、貧しい村人が多いのではなく、村が都市近郊の様相をていしており、港のある別府・高砂に近く、加古川の宿からも遠くない所にある村であったためであろう。

*『加古川市史(第二巻・第五巻)』参照

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別府町探訪:男たちの出稼ぎ(新野辺村・寛延三年)

2007-06-29 07:29:40 |  ・加古川市別府町を歩く

7cdb904c_2    右の文書は、寛延三年(1750)の新野辺村の明細帳の一部である。

一 男かせぎ耕作之間ニハ干鰯筵打候、又冬春作間ニ大坂酒屋米踏挊ニ九拾人斗りも参り候、尤五人組迄断参申候

一 女稼耕作之間ニハ妻子共干鰯筵縄又ハ浜之宮松林落葉山守とかきわけ浜辺草芝薪かせき木綿かせき致申候者も御座候

  「男かせぎ」の文書を先にみたい。

  寛延三年、新野辺村の男たちは農閑期に、大坂酒屋へ米踏挊(かせぎ)に90人も出稼ぎをしている。

  90人といえば、この村の人口の男544人の16%程度にもなる。

  大坂酒屋といっても大坂の酒造家へ米踏挊に出ているのではなく、大坂の町人の紹介で各地の酒造家のところへ出かけている。

  丹波(たんば・京都府北部)あたりは、一村から集団的に一酒造家に出稼ぎに出ているが、新野辺村の場合は、各地の酒造家のところへひとりずつ出かけている。

  詳しくは『加古川市史(第二巻)』p439~441を参照して欲しい。

  新野辺村から、このように多くの男が酒造りに出かけているが、その事情はわからない。

  また、「女稼ぎ」であるが、農閑期には新野辺村で筵・縄を作り、松林で芝を集め、木綿の仕事をしているようすをみることができる。

*『加古川市史(第二巻・第五巻)』参照

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別府町探訪:綿屋源四郎

2007-06-28 09:44:13 |  ・加古川市別府町を歩く

_030    きのうのブログで、新野辺の住吉神社を紹介したが、場所の問い合わせがあった。

  新野辺の住吉神社は、最近はあまり知られていないようだ。下の地図でj神社の場所を確認して欲しい。

  新野辺の住吉神社は、適切な表現ではないが、昆虫が羽と脚をとられているように見える。

  かつて境内には松が生い茂っていたという記録(社寺明細帳・天明二年)がある。

  今は、広い境内の一角にちょこんと本殿があるだけである。公園の賑わいもない。

  『加古川市誌(第二巻)』にある住吉神社の写真では、大きな拝殿があり、かつての姿をとどめている。39e22139_1

  社殿(本殿)の前に一対の常夜灯と宝暦十二年(1762)寄進の狛犬がある。

  そして、本殿の前に一対の灯籠がある。

  向かって左の灯籠の文字は、はっきり読むことはできなかったが、右の灯籠は、延享二年(1745)正月 綿屋源四郎寄進の灯籠である。

  江戸時代、加古川地方、特に浜手は綿の生産が盛んであった。

  綿屋源四郎は、どんな人か確かめることはできないが、綿を商う商人で、商売繁盛のお礼の印に灯籠を奉納したのであろう。

*『加古川市誌(第二巻)』参照

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別府町探訪:新野辺の伝承

2007-06-27 07:29:04 |  ・加古川市別府町を歩く

5097b097    別府の新野辺(しのべ)には、こんな話がある。

  新野辺はもともと、「シノベ」に「篠部」の文字をあてていた。

  室町時代の中ごろ、この付近には篠竹(しのだけ)が茂り、隠れ住むには都合がよかった。

  嘉吉の乱(かきつのらん)に敗れた一族がここに隠れ住んだとも伝えている。

  文禄のころ(1592~96)、この付近に大洪水があり、田畑一面土砂に覆われ、丘のようになってしまった。

  大洪水の後、雑草が生い茂り、マムシが住みつき村人は大変困っていた。

  村人は神に頼むことにした。

  阿閇(現:播磨町)の宮から住吉神社を勧請した。これが新野辺の住吉神社である。

  以後、不思議なことに新野辺からマムシがいなくなり、五穀は実り、村人は住吉神社をますます信仰するようになった。

  なお、昔はマムシが嫌ったという紺色の衣類をつけて草取りに出かけたという。

*『加古川市誌(第二巻)』参照

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別府町探訪:多木争議

2007-06-26 17:42:20 |  ・加古川市別府町を歩く

95d9d4a6    昭和6年(1931)12月、大恐慌のさなかに激烈な争議が加古川地域におこった。

  別府町の「多木争議」である。

  多木製肥所は、5年になる勤続者を解雇し、若い人を新しく使い、年をとった者を首にしようとした。

  この解雇への不安が労働組合を結成させた。

  未曾有の不況の中での解雇は、労働者にとって生活の根底をゆるがすものであった。

  会社は、この解雇の方針を変えなかった。

  12月16日、会社側は、水杉重一他32名に「五ヵ年の労働契約が切れた」と解雇を通告した。

  組合は、生活防衛のため、直ちにストライキに突入した。

  17日から、警察の暴力的弾圧も加わり争議は激しい様相をていした。

  そして、22日、争議団は会社に会見を求めたが、会社はこれを拒否した。

  警察側は、明石署にも応援を求めた。

  翌23日、警察署員と争議団は衝突した。

  争議団の水杉重一は、屋上から落下して死亡。岡田小市も投石により頭部を裂傷し死亡に至るという凄まじい衝突になった。

  争議団員149名が検束収容された。

  かくして大恐慌下、しかも満州事変という日本全体のファッショ的な雰囲気の中で、会社側は、187名の解雇を強行した。

  解雇手当2万円、争議費用5000円を支払うことで決着させた。

  争議は、労働側の惨敗に終わった。

*『加古川市史(第三巻)』参照

 写真は、多木製肥所全景:『写真集・加古川(玉岡松一郎編著)』(国書刊行会)より

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別府町探訪:九郎兵衛と蛇塚

2007-06-25 08:56:56 |  ・加古川市別府町を歩く

Df440628   金沢新田は、完成した。

 その後、村人は「九郎兵衛と蛇塚」の話を語り伝えた。

  ・・・・ 

  金沢新田の開発中のことである。

  新田に大蛇を葬ったという大きな塚があった。

  村人は、これを「蛇塚」と呼んでいた。

  「もし、牛がこの塚の草をたべると発熱するし、人がその塚の草を踏んだだけで熱病する」と恐れられていた。

  金沢新田の開発は進み、蛇塚を掘り起こし、水路を造らなければならなくなった。

  ところが「大蛇のたたり」を恐れて、誰も塚を掘ろうという者がいない。

  九郎兵衛は、家人に「新田開発も後は蛇塚を残すだけとなった。

  塚を掘ると大蛇のたたりで死ぬかもしれない。それで、他の者に任せてはかわいそうである・・・」と、九郎兵衛は自ら塚に鍬を入れた。

  幸い、何事もおこらなかった。

  塚のあとから、蛇の骨のような物が二個出土した。

  一つを自宅(加古川市東神吉町砂部)に持ち帰った。他の一つは、観音寺(加古川市尾上町池田)に奉納した。

  ある夜のことである。九郎兵衛の夢枕に大蛇があらわれた。

  「私の祠を建てて祭ってくれたら金沢家を守護するであろう」と、いって姿を消した。

  金沢家では祠を建てて祭っているという。

    ◇金沢新田①(6月23日)・金沢新田②(6月24日)のブログをあわせてご覧ください。

*『加古川市誌(第二巻)』参照

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別府町探訪:金沢新田②

2007-06-24 06:48:35 |  ・加古川市別府町を歩く

134710f5   金沢新田は、近藤亀蔵をスポンサーに、開発願主は、金沢九郎兵衛で「金沢新田」は完成した。

  今から170年ほど以前のことである。

  金沢家に残る天保11年(1840)の文書によると新田は、59町2反20歩3畝で、開発当時の総反別(84町4反21畝)よりも、著しく減少している。

  これは、一部のか所で地味が悪く、水稲が十分生育しなかったためであろうと思われる。

  そのためであろう、天保11年から5ヵ年の年貢の減免が許されている。 

  安政5年(1858)にも同様の措置がとられた。新田経営は、順調に進んだとはいえないようである。

  20年を経過した明治10年(1877)の調査記録によると田地・宅地・畑および未開発地を合わせると85町6反2畝5歩と記されており、開発当時の規模に回復している。

  その後、はっきりしないが新田の所有権は近藤家から一時は米沢家に移り「米沢新田」と呼ばれたこともあったという。

  第二次世界大戦の頃、金沢新田のほとんどは、多木一族が所有していた。

  戦後は、農地解放により当時の耕作者へ譲られた。

*『加古川市誌(第二巻)』参照 

 写真は、昭和30年代の金沢新田(『加古川市史・第二巻)』より)

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別府町探訪:金沢新田①・金沢九郎兵衛

2007-06-23 07:38:58 |  ・加古川市別府町を歩く

42b87565   右の地図(国土地理院発行・大正12年)をご覧願いたい。

  赤く塗った部分が、「金沢新田」である。

  この低湿地帯にはじめて開墾の鍬を入れたのは印南郡砂部(いさべ)村(現在:加古川市東神吉町砂部)の金沢九郎兵衛であった。

  金沢家に残る文書等から判断して、「金沢新田」は、天保四年(1833)ごろからはじまり、天保八年(1837)に完成したと思われる。

  金沢家に残る別の文書では、天保九年に完成となっている。

  これに関して、地元(別府町)の研究家は、「・・・天保八年完成したが、同年には新田の名前も決めず、準備している中に、その年がすぎてしまい、天保九年になってから字名を金沢新田と決め、役所に届けたのであろう・・・」としている。

  この時の新田は84町4反21畝であった。

  開墾費用は、銀854貫85匁五分と莫大で、九郎兵衛にそんな金はなかった。スポンサーは加東郡太郎太夫(たろうだゆう)村の近藤亀蔵であった。

  少し余話を書いておきたい。

  ・・・・神戸電鉄の市場(小野市市場町)から西へ少し行くと太郎太夫というところがある。昔、太郎太夫に近藤亀蔵という大金持ちがいた。

  「市場亀蔵、阿弥陀か釈迦か、お門通れば後光さす・・」と、当時の俗謡にも歌われるほどであった。

  享保年間にはじまる『日本長者鑑』という長者番付が出たとき、東西の横綱として上げられたのは、東が出羽の本間の財産40万両で、西は播磨の近藤60万両であり、近藤家は日本一の金持ちだった。

  ともかく、近藤一族をスポンサーに、開発願主は九郎兵衛で、金沢新田は完成した。

  お気づきと思うが、基本的に金沢町は金沢新田の上につくられており、そこから名づけられた町名であり、そのもとになったのは九郎兵衛の姓である。

*『加古川市史(第二巻)』・『加古川市誌(第二巻)』参照

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別府町探訪:加古川市との合併④・合併決まる

2007-06-22 07:06:50 |  ・加古川市別府町を歩く

D46e8127_1   高砂町との合併は、高砂町を中心にしたものであり、はじめから別府町としては気乗りがしなかった。

  二見町は、袂をわかって明石市へ去った。

  そして、阿閇村は孤立路線を選択した。

  別府町としては、孤立路線をとるか、加古川市との合併話を進めるかの選択肢が残されるだけとなった。

  こうした中で、突然の転機が訪れたのである。

  別府町は、かねてから国や県に別府港の改修を陳情していた。それが認められることになった。

  しかしである。総工費は三億円と見積もられた。地元負担は二割五分である。

  別府町の負担は、7500万円となる。別府町単独では至難の事業であった。

  この時、加古川市長から別府町に「・・・合併を考慮にいれずとも、地方発展のため相互援助を期し、税外収入の道を計り、極力協力したい・・・」との申し出があった。

  この「別府港改修問題」をきっかけに、加古川市との合併問題は急展開した。

  なお、両市町村は、阿閇村に対しても合併の話しかけを行ったが、阿閇村は加古川市との合併を選ばなかった。

  かくて、別府町は、加古郡の他の町村に遅れること1年余、昭和26年(1951)10月1日加古川市と合併した。

*『加古川市史(第三巻)』参照。  写真は合併調印式

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別府町探訪:加古川市との合併③・土山駅前問題

2007-06-21 08:20:48 |  ・加古川市別府町を歩く

_017   「世論調査の投票」(拘束力を持たない)の結果は、別府町と加古川町の合併は反対となった。

  結果、今度は阿閇村(現:播磨町)との合併が現実的な協議にはいった。

  事態は、加古川市制実施予定の6月1日に向けてますますの緊迫してきた。

  町長・町議会とも最終的な態度を決めなければならなくなった。

  そのため、今度は拘束力のある「決戦投票」の結果にゆだねることを決めた。

  投票は、昭和25年5月6日に実施され、結果は次のようになった。

    加古川町との合併賛成     1250 票

      〃          合併反対     1164 票 

  *この投票には、「外国人(在日朝鮮人を指す)は投票せしめない」との注意書きがある。

  結果は、加古川町との合併が賛成が反対を上回ったが、その差はわずかに86票であった。

  一部の議員からは「町長リコール」・「分村してでも・・・」という言葉まで飛び出した。

  ◇土山駅前問題◇

  このようなもたつきの中、二見町は明石市との合併を決めた。

  そして、阿閇村では「土山駅前問題」が発生した。

  土山駅前は加古川町・阿閇村・魚住村・二見村が入り組んでいる。

  その内、阿閇村に属している土山駅前商店街が、加古川町への合併を強力に推し進めようとした。

  阿閇村はさまざまな思惑と利害が対立し、村内がまとまらなくなった。

  そのため合併の是非を問う住民投票を実施した。

  その結果は次のようで、はっきりと合併を拒否した。

      現状維持  2548 票

    合併賛成  1502 票

  二見村は明石市と合併し、阿閇村は明確に合併を拒否した。

  別府村は、投票の結果、加古川町との合併を決めたが、なにせ小差であった。新たな情勢で別府町は、最終判断を迫られた。

*『加古川市史(第三巻)』参照、写真は土山駅前(6月20日撮影)

      

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別府町探訪:加古川市との合併② 町長・木下収

2007-06-20 09:05:33 |  ・加古川市別府町を歩く

5c889e10      三つの合併構想により別府町内の意見は分裂した。

  そんな中にあって、町長・木下収は終始加古川市との合併を積極的に呼びかけ、町内の意見のとりまとめを図った。

  彼は、「シャープ勧告、保健衛生、産業発達計画、教育文化に関す問題、住宅建設・失業対策等の社会問題、警察と消防、農業問題から見た合併問題、徴税方面から見て、総司令部の意見は・・・」と多方面にわたり町民に加古川市との合併の必要性を訴えた。

  彼の意見は『加古川市誌(第二巻)』・『加古川市歴(第三巻)』に詳しく述べられているので参照されたい。

  町内の合意形成を目指した木下町長であったがまとまらず、昭和25年(1950年)2月4日、町議会が開催され「(加古川市との合併に対する)世論調査の投票」を行うことが決定した。

  昭和25年2月9日、投票は実施され、結果は次のようであった。(投票率 87.11%)

    投票総数 2745票 (他に外国人 80票)

    有効投票 2723票 (他に外国人 71票)

          賛成  1165票

          反対  1558票 

  結果は、加古川市との合併反対が賛成を393票も上回るというショッキングな結果であった。

  木下町長は、即日辞職願を提出した。町議会で彼の辞職願は留意され撤回されたが、ここに加古川市との合併は一頓挫した。

*『加古川市史(第三巻)』参照

  写真は、別府町役場。別府町役場は、大正14年、多木久米次郎が新築し、町に寄付した。

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別府町探訪:加古川市との合併①・三つの合併構想

2007-06-19 07:58:31 |  ・加古川市別府町を歩く

D46e8127    別府町は、昭和26年(1951)10月1日、難産の末、結果的には加古川市と合併した。

  そのようすを『加古川市史(第三巻)』でみてみたい。

  別府町は海運船舶業がさかんで、別府町との合併は「臨海工業都市への発展」を秘めた極めて魅力的な青写真であった。

  そのため、別府町への合併の誘いは、加古川市だけではなかった。

  ◇三つの合併構想◇

  加古川市から別府町へ合併の申し入れがなされたのは、昭和24年(1949)だった。

  当時、加古川市との合併以外に、別府町には二つの選択肢があった。

  一つは、加古郡別府町、阿閇村・二見町が合併する、東播臨海都市建設構想である。

  神戸新聞は「・・・・(阿閇村・二見町との合併は)あらゆる面で共通した条件を持つものの団結で、将来の発展を期したいという提案があり、全員が大体賛成の意向を示したのでちかく関係町村によって正式の合併相談が行われる模様である・・・」(昭和24年11月17日)と報じた。

  今にも、別府と阿閇・二見との合併が実現しそうな雰囲気である。

  もう一つは、加古郡別府町、高砂市、尾上村、荒井村、印南郡伊保村との合併構想である。

  高砂・尾上・荒井・伊保、そして別府を加えて一海岸都市を構想していた。

  高砂市長のこの構想は、高砂・伊保を中心とする構想であり、別府町にとっては少し面白くない構想であった。

  ともかく、合併の利害が対立し、別府町内は分裂状態となった。

*『加古川市史(第三巻)』参照・写真は、別府町・加古川町の合併式

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別府町探訪:神戸製鋼所加古川市へ進出 ③

2007-06-18 08:50:47 |  ・加古川市別府町を歩く

Aa22de7b  『加古川市史(第三巻)』の次の指摘に注目したい。

  ・・・(埋め立てにより)かつての浜辺での海水浴や潮干狩りの楽しさを奪われたのであり、「埋め立て造成」の名の下に、景観の強制的な変更とその受け入れを余儀なくされてしまったのである。

  このことの持つ意味を、私たちはもう一度よく考えてみないといけないのではないだろうか・・・・_001_1

  以下は「広報かこがわ」からの引用である。

・・・このしゅんせつにより遠浅の浜辺がなくなり、潮干狩り、海水浴場が姿を消し、昔の面影は一変し、壮観な工場群が建設されようとしている。(「広報かこがわ」1967年4月15日号)

(見出し) 「来春完成めざし  埋め立て始まる  尾上町・別府町地先の公有水面」

  ・・・現在約十隻のしゅんせつ船がか動しており、排砂管より勢よく土砂が吹き出している、日々海岸が変ぼうしております・・・(「広報かこがわ」1968年5月15日号)

  かくして、別府・尾上町から海岸線が消えた。市民のウオーターフロントはなくなった。

*『加古川市史(第三巻)』参照

 写真上は、昭和30年代の別府浜の海岸線、写真下は同場所の現在の風景

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別府町探訪:神戸製鋼所加古川市へ進出 ②

2007-06-17 07:12:16 |  ・加古川市別府町を歩く

_012_4    加古川市が神戸製鋼所の有力候補地として白羽の矢がたったのは、昭和34年のころであった。

  そして、建設計画が示された。

  これに対して加古川市議会は積極的に動いた。

  昭和35年1月の市議会は、「・・・目標が神戸製鋼所と決まった以上・・・(中略)・・・神戸製鋼所誘致に本市の運命を賭けるべきであろうと考えるのであります。

  地元各位のご協力はもちろん、全市かって一丸となって、これが目標完遂のために、当議会においても、強力な神戸製鋼所誘致特別委員会の設置を提案する次第であります」

  まるで、戦時中の演説かと見まがうほどの雰囲気の中で、全会一致で特別委員会設置が決まった。

  この間、市民の声があまり聞こえてこない。

  そして、昭和43年(1968)厚板工場の操業を手始めとして、その後着実に銑鉄一貫工場体制による新鋭製鉄所は完成した。

  加古川製鉄所は、環境保全を最優先する基本理念を持って進められたはずであったが、「神戸製鋼所第三高炉建設をめぐって推進派と反対派の市民多数が傍聴に押しかけ乱闘(1974・12)」や「ばい煙公害に悩まされている農民が、第三高炉反対を訴えて市役所に直訴(1975・5)」といったできごとが起きた。

  最近では、大気汚染防止法など基準値超過の際、記録の中止・データーの改ざんなどを行い、大きな社会問題ともなった。

*『加古川市史(第三巻)』参照

 写真は、明姫幹線より神戸製鋼所正門にいたる高架橋から神戸製鋼所をのぞむ。

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別府町探訪:神戸製鋼所加古川市へ進出 ①

2007-06-16 08:26:28 |  ・加古川市別府町を歩く

Faeffcf3_1    加古川市の財政は火の車であった。

  昭和36年(1961)2月、3億8000万円の赤字を抱えて、地方財政再建準備団体の指定を受けるまでにいたった。

  この時(昭和37年)甘いささやきがあった。

  東は明石から西は赤穂にいたる地域が「播磨工業地帯」として指定を受けたのである。

  そして、昭和37年、加古川市・兵庫県・神戸製鋼所は、神戸製鋼所加古川工場建設に関する協定書に調印し、加古川市は工業都市に向けて一歩をふみだした。

  神戸製鋼所が本格的創業を始めた昭和45年(1970)頃から、加古川市の財政は徐々に改善された。

  この意味ではある程度評価できる。

  「・・・第二次産業の中で素材産業が大きなウエイトを占める加古川市の産業構造は不安な状況にあり、今後活力ある街づくりを推進するためには、バランスのとれた産業構造を確立し経済活動を活発化することが必要である。・・・」と『平成二年度商工概要』(加古川市経済部商工労政部)は指摘するが、傾聴にあたいする。

  また、ご多分にもれず、水質汚濁や大気汚染といった公害とも無縁でなかった。別府・尾上から海岸が消えた。

  加古川市の景観は一変した。

*『加古川市史(第三巻)』参照、

 写真は、昭和30年代の写真と神戸製鋼所進出予定線

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