東神吉小学校のプール開き
東神吉南小学校は、昭和59年に東神吉小学校から分離独立しました。
それまで、西ノ井口の児童は、東神吉小学校へ通っていました。
東神吉小学校のプールが竣工したのは、昭和39年7月13日ですから、西井ノ口の児童にとっては、写真は母校のプール開きです。
多くの地域の方が集まっての盛大なプール開きでした。(no2966)
東神吉小学校のプール開き
東神吉南小学校は、昭和59年に東神吉小学校から分離独立しました。
それまで、西ノ井口の児童は、東神吉小学校へ通っていました。
東神吉小学校のプールが竣工したのは、昭和39年7月13日ですから、西井ノ口の児童にとっては、写真は母校のプール開きです。
多くの地域の方が集まっての盛大なプール開きでした。(no2966)
小学校と周辺の風景(平成7年)
平成7年(1995)1月5日撮影の東神吉南小学校の写真です。
東神吉南小学校が東神吉小学校から分かれて11年目の写真です。
小学校付近の風景をご覧ください。
現在もこの辺りには少し田んぼが残っていますが、ずいぶん変わりました。
こら! 危ないゾ!
小学校道でみつけた自転車の二人乗り。
車は少なかったのですが、危ないよ!
西井口の少年です。
たぶん小学6年生です。 当時中学生は丸刈りでしたから。
誰かわかりますかな・・・・(no2965)
盆踊りの夜(2)
昭和61年8月23日の西井ノ口天神社の夜です。
みんな一緒に踊りました。
「おっちゃん」もシャツ姿で元気に踊りに加わりました。
未来の西井口のこどもたちも元気に踊りました。
もう写真の子供さんもアラフォー(40歳前)ですね。
みんな、もうお母ちゃんになられたことでしょう。(no2964)
盆踊りの夜(1)
昭和61年(1986年)8月24日。
その日、西井ノ口の盆踊り大会でした。
天神社では夜遅くまで踊りが続きました。
柴田さんは、この日の盆踊の様子をたくさん撮られています。
次号でも紹介しましょう。
疲れますが、楽しい盆踊りの夜でした。
裏方(写真下)も大変。やはり、ビールがたまりません。(no2963)
田んぼで、永井たかのぶ労働大臣挨拶挨
平成8年1月15日、西井ノ口少年団の行事「とんど祭」に、労働大臣に就任された永井孝信さんが駈けつけてくださいました。
労働大臣就任当時は、東神吉町神吉でしたが、現在は西井ノ口にお住まいです。
先日、加古川駅前の集会で「安保関連法案反対」を訴えておられました。
お元気です。
それにしても、田んぼで現職の国会議員、しかも大臣が挨拶されるお姿はいいですね。(no2962)
*写真上:挨拶をされる永井孝信氏、写真下:西井口町内の方がた
2枚の写真はともに平成6年4月8日の撮影です。
その日はすっかり春の陽気で、柴田さんもカメラを片手に散歩を楽しまれたようです。
たちばなし
21年前の写真です。どなたかわかりますか。
・暖かくなりましたね・・・
・みなさん、お元気ですか
・お陰さまで、でも病院通いが増えました。
・お互いにね。
楽しい「たちばなし」です。最近、こんな風景は、少なくなったと思われませんか。
地域の付き合いがうすくなったのかも・・・
お孫さんと一緒
核家族でしょうか、お孫さんと一緒のこんな風景もあまり見かけなくなりました。
何を話しておられるのですか。
お孫さんは当時1歳としますと、現在は22才。
きっと、元気なやさしい娘さんになられたことでしょうね。
おばあちゃんは、お元気でしょうか。(no2961)
柴田圓治さん
いま、「西井ノ口の写真集」紹介していますが、これらの写真のすべては。西井ノ口の柴田圓治さんの作品です。
柴田さんは、明治44年(1911)8月19日のお生まれで、平成21年(2009)9月19日、お亡くなりになりまし。享年99歳でした。
柴田さんは、西井ノ口はもちろん、加古川市の写真をたくさん残され、今となっては貴重な資料となっています。残念なことに、たくさんの写真は処分されたそうです。
「西井ノ口の写真集」は、残された柴田さんの作品を紹介しています。
1993年(平成5年)9月22日、神戸新聞は、これら写真集について大きく報じました。
以下、この記事の一部をお借りして、柴田さんの紹介とさせていただきます。
なお、柴田さんの半生については、西井ノ口町内広報「にしいのくち(107号)」に詳しく紹介されています。
わが町を撮り続けられた柴田圓治さん
「加古川市東神吉町の82歳(平成5年)になる現役アマチュアカメラマンが、「わが町」をとり続けた写真展を、23日から地元の公会堂で開く。
30年にわたって撮りためた写真は、身近な町の風景を如実にものがたっているようだ。
同町西井ノ口の農業柴田圓治さんがカメラと出会ったのは20歳のころ。
写真を撮ることに魅力を感じ、当時まだぜいたく品だったジャバラ式の中伴カメラを買って、身近な人や周囲を撮り歩いた。
本格的に始めたのは1963年(昭和38)ごろ。戦後復興を終え、高度成長下で生まれ育った町が急激な変貌を遂げていくのに驚き、身近な風景を記録に残しておこうと、暮らしを取り巻くさまざまなものに休まずレンズを向け続けたという・・・(神戸新聞より)」(no2960)
*写真:柴田さんの作品展を報じる新聞(1993年9月22日、神戸新聞)
建設中の「ながさわ宝殿店」
写真は、平成6年5月26日オープンの建設中のレストラン「ながさわ」です。
写真は、建設中の平成6年4月10日の撮影です。
個人的なことで申し訳ありません。
よく孫と、「ながさわ」へ出かけます。
そんな時、決まって「タイのアラダキ」とビール。そして、その他に料理一品です。
うまいですよ。
そして、孫と乾杯!
年金生活者には贅沢はできませんが、至福のひとときで~す。(no2959)
通学路のアナモンに信号ができました(昭和42年)
「西井ノ口写真集(16)」でバイパスについて「集落と北の農地を二分しまし、農家にとっては、不便になります。田んぼへ行けません。そのため、バイパスにトンネル(アナモン)が造られました。
しかし、アナモンから側道に出るところは見通しが悪く、交通事故が起こりやすい場所になりました。・・・」と紹介しました。
そのため、昭和42年小学校の通学路になっているアナモンに信号ができ、交通祈願祭が行われました。
警察の方は「信号機ができましたが、アナモンを出る時は、必ず自動車に注意をしましょう・・・」と話されたんでしょうね。(no2958)
*写真:昭和42年夏
宝殿駅北口辺りの35年前の風景
前号で旧宝殿駅舎と宝殿駅北口建設中の2枚の写真を紹介しました。
今回も、その続きです。
これら2枚の写真も、昭和55年5月に撮影されています。
写真上は、宝殿駅北口から加古川バイパスの方へ伸びる道です。
下は、現在のバイパス付近から宝殿駅の方向を見た写真です。
建設中の宝殿駅北口の鉄骨が見えます。
わずか35年前の写真です。
風景は激変しました。(no2957)
宝殿駅改築と北口の完成
*写真上:旧宝殿駅(前の駅舎・昭和55年1月7日撮影)
*写真下:宝殿駅北口建設中(昭和55年5月撮影)
少しだけ西井ノ口を出て、宝殿駅まで散策します。
宝殿駅は、明治33年、山陽鉄道の駅として設けられました。
かつては、日本毛織の梱包所への引き込み線もありました。
この駅の欠点は、駅の北側に住む人たちは西側の踏切を渡って南口まで来るより他に方法はなく、ひじょうに不便でした。
北口ができたのは、橋上駅舎(今の駅舎)に改築された昭和56年のことです。(no2956)
2枚の写真は、ともに昭和56年1月15日に撮影された西井ノ口の一風景です。
上は、昭和住宅、下は鉄道側の嵯峨住宅です。
新しい住宅が、どんどん建設されています。
現、西井ノ口町内会長の粕谷氏は「いま、町内は1200戸に迫る勢いですが、当初(戦後すぐの頃)は、160戸あまりと聞いています。街の姿は変わりつつありますが、住んでいる人の心は、あの当時と同じだと思っています・・・」と話しておられます。
*写真:建設中の新しい住宅(no2955)
稲木(いなぎ)
稲木(いなぎ)は、稲などの穀物を取った後に束ねて天日に干せるようにする木材(写真)です。
稲を干すことによってアミノ酸と糖の含量が高くなり、また稲を逆さまに吊るすことで、藁の油分や栄養分、甘みが最下部の米粒へ降りて栄養と旨味が増すと言われています。
近年は、乾燥機により乾燥することが多く、収穫の季節になっても天日干しは手間がかかるため、稲木に干された稲の風景は、ほとんど見かけなくなりました。
昨年、升田でみかけましたよ。(no2954)
*写真:稲木小屋(昭和37年撮影)
灰屋(はいや)
「灰屋」は、すっかり死語になってしましました。
この言葉をご存知の方は、「ご年配」ですね。
灰屋は、化学肥料が普及する以前、良質な肥料となる焼却灰を作るため、農家が建てた写真のような土壁の小屋のことです。
今となっては、「灰屋」(I氏宅)の写真(平成6年撮影)は貴重なものとなりました。
写真の説明には「西井ノ口には二カ所の灰屋が残る」とあり、平成6年には役割を終えていたようです。
消えた日本農業史の記録です。(no2953)
西井ノ口消防団の花見
西井ノ口の消防のお仕事ご苦労様です。
春は、花見に限りますね。
天神様での花見でした。この花見は、平成6年4月3日で、あれから、21年が経ちました。
お子様は、元気ですか。
Sさんのお宅の庭で
写真(平成6年4月8日撮影)は、天神社の西のSさんのお庭で、神社の花を見ながらの一杯の会です。
ご親戚の方と一緒ですか。それとも、近所の方との花見でしょうか。
楽しそうです。美味しそうです。(no2952)