前号では、「姫路藩の財政は火の車」であることを紹介しました。
さらに、延享五年(1748)朝鮮使節の接待費などが重なりました。
朝鮮使節は、江戸への途中姫路藩の室津に立ち寄ります。
その接待費・二万両を姫路藩の町人・農民に負担させました。
悪いことは重なるもので、この年、猛烈な台風が襲いました。
さらに、寛延元年(1748)十一月、明矩は急死しました。
嫡子は、10才とまだ幼く、転封のことが噂されました。
この知らせが、姫路に到着したのは、翌寛延二年(1749)元日でした。
藩主の死により、政治に空白ができました。
寛延元年(1748)もくれようとする十二月二十一日、印南郡の農民三千人が湧き出るように市川河原に結集した後、姫路城下へなだれ込む勢いをみせました。
この時は、かろうじて百姓の怒りは燃え上がらずに終わりました。
「間形村由来書送り之事」より③
位牌を拝む
一月二十二日、西条組大庄屋沼田平九郎宅を打ち壊すことで「寛延の大一揆」の幕は切って落とされました。
「間形村由来書送り之事」の日付に注目します。
日付は、「寛延元辰年十二月」です。
まさに、一揆の火が燃えあがろうとするときに出されています。
児玉正美氏は、『鹿児(67)』(加古川史学会)で、この文書について次のように解説されています。
「・・・“位牌を拝む”というこの文書の日付が寛延元年十二月ということ・・・この文書を作成した時点では各地では不穏な空気が藩権力と結びついた大庄屋などを脅かしてしただろう。直次郎らの狙いの一つは、減免を認めた藩主(大和守明矩)の位牌に百姓らを結集させることで、自らの権力の保全を図る、イデオロギー支配だったのではないだろうか・・・」
まさに、このような世論づくりの一環であったのでしょう。
確実な年貢の確保を
前号の宿題、「間形村の年貢が3割に減免された理由」に戻ります。
間形村の土地が「上がり地」となった理由は、別の史料によれば間形の百姓が石高分を生産しきれず、上がり地を願い出たようです。
とすると、藩としては、少なくなったとしても確実な年貢の確保を求めたのでしょう。
まとめておきます。
「間形村由来書送り之事」が語ることは、「①藩主の位牌に百姓を結集させ大地主の保身を図ったこと、②年貢が減少しても確実な年貢の確保を図ったこと」にあるのではないかと思われます。
*写真の碑「大和大明神」は、沼田家に保存されている「間形村由来書送り之事」の歴史を語り継ぐために現当主のお父さん(故)沼田利治さんが建立された碑です。