ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(429):加古を歩く(80)・大和守明矩の位牌を拝む

2011-02-28 10:45:23 |  ・稲美町加古

前号では、「姫路藩の財政は火の車」であることを紹介しました。

さらに、延享五年(1748)朝鮮使節の接待費などが重なりました。

朝鮮使節は、江戸への途中姫路藩の室津に立ち寄ります。

その接待費・二万両を姫路藩の町人・農民に負担させました。

悪いことは重なるもので、この年、猛烈な台風が襲いました。

さらに、寛延元年(1748十一月、明矩は急死しました。

嫡子は、10才とまだ幼く、転封のことが噂されました。

この知らせが、姫路に到着したのは、翌寛延二年(1749)元日でした。

藩主の死により、政治に空白ができました。

寛延元年(1748)もくれようとする十二月二十一日、印南郡の農民三千人が湧き出るように市川河原に結集した後、姫路城下へなだれ込む勢いをみせました。

この時は、かろうじて百姓の怒りは燃え上がらずに終わりました。

「間形村由来書送り之事」より③

     

位牌を拝む

017しかし、翌年(寛延二年・1749)早々のことでした・・・ 

一月二十二日、西条組大庄屋沼田平九郎宅を打ち壊すことで「寛延の大一揆」の幕は切って落とされました。

「間形村由来書送り之事」の日付に注目します。

日付は、「寛延元辰年十二月」です。

まさに、一揆の火が燃えあがろうとするときに出されています。

児玉正美氏は、『鹿児(67)』(加古川史学会)で、この文書について次のように解説されています。

「・・・“位牌を拝む”というこの文書の日付が寛延元年十二月ということ・・・この文書を作成した時点では各地では不穏な空気が藩権力と結びついた大庄屋などを脅かしてしただろう。直次郎らの狙いの一つは、減免を認めた藩主(大和守明矩)の位牌に百姓らを結集させることで、自らの権力の保全を図る、イデオロギー支配だったのではないだろうか・・・」

まさに、このような世論づくりの一環であったのでしょう。

   

確実な年貢の確保を

前号の宿題、「間形村の年貢が3割に減免された理由」に戻ります。

間形村の土地が「上がり地」となった理由は、別の史料によれば間形の百姓が石高分を生産しきれず、上がり地を願い出たようです。

とすると、藩としては、少なくなったとしても確実な年貢の確保を求めたのでしょう。

まとめておきます。

「間形村由来書送り之事」が語ることは、「①藩主の位牌に百姓を結集させ大地主の保身を図ったこと、②年貢が減少しても確実な年貢の確保を図ったこと」にあるのではないかと思われます。

*写真の碑「大和大明神」は、沼田家に保存されている「間形村由来書送り之事」の歴史を語り継ぐために現当主のお父さん(故)沼田利治さんが建立された碑です。

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稲美町探訪(428):加古を歩く(79)・なぜ免相(税率)が三割に?

2011-02-26 06:41:43 |  ・稲美町加古

 「間形村由来書送り之事」より②

    間形村:免相(税率)三割に

     *間形村:現、加古川市加古川町美乃利

Eccb34e8 間形村の税率(免相・めんあい)は、それまで6割6分だったものが、上がり地となり、元文二年(1737)、上西条の沼田直次郎と加古新村と沼田九郎太夫に下げ渡しとなり税率も5割6分となりました。

それでも村は安定せず、延享三年(1746)に3割の年貢率(免相)を藩主・松平明矩(あきのり)に願い出たところ認められました。(「間形村由来書送り之事」より)

姫路藩は、間形村の窮状から判断して免相・3割を認めたのでしょうか?

当時の姫路藩の財政事情をみておきましょう。

姫路藩の財政は火の車

「稲美町探訪(397)」の一部を繰り返します。

徳川家の親戚の大名・松平明矩(あきのり)が、奥州白河藩から姫路城の城主としてやってきたのは、寛保二年(1742)のことでした。 

その時、白河藩では、借金を踏み倒すなど、ひと騒が起こっています。 

姫路藩への国替えは、その苦境を救うため発令されたようなものでした。 

白河藩、姫路藩ともに十五万石ですが、実際の収入では米のほか、塩・木綿・皮等の産業をあわせると姫路藩の方がはるかに勝っていました。 

姫路藩への転封は、松平家にとっては喜ばしいことだったのですが、その費用をつくるため商人から多額の借金をしての姫路入りとなりました。 

明矩は、借金の返済は姫路で行うと約束して、やっとのことで姫路へ来ることができたのです。 

そのため、姫路藩入部早々、まず増税にとりかかりました。 

そのやり口はひどいものでした。 

大庄屋を通じて百姓衆が願い出たという形式をとっての増税でした。 

   間形村減税の理由は?

姫路藩の財政は火の車だったのです。

免相を6割6分から短期間に3割にまで下げることなど、とうてい考えられる状況ではありませんでした。

 でも、間形村の免相は3割が認められています。

 何がそうさせたのでしょう。

想像してみたい。

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稲美町探訪(427):加古を歩く(78)・間形村由来書送り之事

2011-02-25 07:43:39 |  ・稲美町加古

A0544aa5_3  先日、加古川市のある公民館の歴史講座でお話をしました。

講座の後、加古川町美乃利(間形)の沼田さんとお話をしました。

なんと沼田さんのご祖は加古新村の方で、沼田家に伝わる文書「間形村由来書送り之事」を拝見させていただきました。

写真はその一部です。

きょうは、その内容(口語訳)の紹介をします。

次号から、数回この文書が意味する当時の私たちの地域(史)について考えてみます。

なお、この「間形村由来書送り之事」も「(シリーズ)加古を歩く」の続きとします。*文書の口語訳は、内容が理解しやすいようにしたため、完全な直訳ではありません。

  間形村由来書送り之事(口語訳)

間形村というのは、溝ノ口村の枝村ですが、溝口村に家があるばかりで、間形の地には家が一軒もありませんでした。

姫路藩主・榊原式部守(政岑)の時代、元文元年(一七三六)に、七五石一斗五升が「上がり地」となり、次の年の二月十八日に残りの三一五石五升の全てが「上がり地」となり、取り上げられました。

その土地は、上西条の大庄屋・沼田直次郎と加古新村庄屋・(沼田)九郎太夫に下げ渡しとなりました。

免相(めんあい・税率のこと)は、六割六分だったものを「一つ」減じて五割六分となりました。

Ff7c5fda_2当時、平野村の兵左衛門が間形村の庄屋を兼ねていましたが、同年三月二十六日に、天王寺村(現、野口町良野)の庄屋・甚五郎が間形村の庄屋を兼ねることになりました。

しかし、それでも間形村の生産は安定しません。

延享三年(一七四六)に「間形の免相(年貢率)を三割に減らしてほしい、そして枝村ではなく、独立した間形村として認めてほしい」と藩主・松平明矩(まつだいらあきのり)に願い出たところ、なんとこれが認められました。

寛延元年(一七四八)十一月十七日、大和守明矩様は亡くなられました。

これによって、毎年十一月十七日の命日には、間形村の大恩人の明矩様に感謝して、村役人宅に集まり、その遺徳をしのび位牌を拝むことを決めました。

このように、大和守様(松平明矩)の遺徳をおろそかにせず、いつまでも守るように。

    寛延元年(一七四八)十二月 

 加古郡間形村  九郎太夫

この事を、今後も末永く村中へ折々読み聞かせるように。  

              西条組大庄屋  直次郎

   右証

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稲美町探訪(426):加古を歩く(77)・(余話)才兵衛

2011-02-24 08:05:52 |  ・稲美町加古

 加古新村の頭百姓(とうびゃくしょう)の(沼田喜平次・本岡治兵衛・沢才兵衛)それに、沼田与次太夫等やその子孫は、加古新田の開発だけではなく、周辺地区にも大きな影響を与えています。

 沼田家と蛸草新村や印南新村については、それぞれの地区を探訪した時に紹介します。

きょうは才兵衛のエピソードです。

 *「稲美町探訪(188)」の再掲です。

福沢(加古川市神野町)

「福」は福留の福、「沢」は才兵衛の苗字から

Photo沢才兵衛は、加古新村の開発にあたりましたが、それだけではありませんでした。

福沢新村(現:加古川市神野福沢)の開発に携わりました。

才兵衛は、福留(現:加古川市神野町)の忠右衛門、石守の嘉兵衛らとともに新田の開発に努めました。

その地は、開発人の一人忠右衛門の出身地・福留の『福』と才兵衛の苗字「沢」をとって「福沢」と名づけられました。

嘉兵衛は、石守の庄屋でしたが、ここに移り住んで福沢新村の庄屋となりました。

    西谷は高畑の西の谷

また、才兵衛には次のようなエピソードがあります。

高畑(現:加古川市平岡町)と新在家の間に広い野がありました。

高畑村、新在家村は共にこの地の開発を願ったのですが、その地がどちらの村に属するのか分からなかったために許可が下りませんでした。

Photo_3この時、高畑村から奉行に「加古新村の才兵衛という人が、何事もよくご存知ですから、お確かめください」と申し出がありました。

奉行はさっそく才兵衛を呼び出して意見を聞きました。

才兵衛は、「その土地はもともと西谷(加古川市平岡町)と呼んでいたから高畑のものに違いない。

新在家のものならば東谷とよぶはずである」と申し述べました。

これで、その土地は高畑のものになり、そこは西谷新村と呼ぶことになりました。

才兵衛は、その功により西谷の土地に屋敷を割り当てられました。

彼は、その屋敷地に加古新村の八幡社を勧請して(西谷)八幡社(写真)を建てました。

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稲美町探訪(425):加古を歩く(76)・どちらの説がほんと?

2011-02-23 07:43:18 |  ・稲美町加古

どちらの説がほんと?

 稲美町探訪(389)で、加古の八幡神社の「弁慶の硯石」を紹介しました。

「弁慶の硯石」は、鳥居をくぐり神社に向かってすぐ右手の茂みにあります。

「弁慶の硯石」と呼ばれたのは、石の形が習字に使う硯石に似ているからでしょう。

  説1. 「弁慶の硯石」は、江戸時代の未完の顕彰碑か

Inamicho12_018この石がいつからここにあったのか、何だったのかわかりませんでした。

この疑問が調査の結果ようやくわかりました。

私たちの住んでいる「加古」は、万治四年(1664)に中西条の加古澤兵衛(沢才兵衛と改名)、上西条の沼田喜平次、下村の本岡治兵衛の三人が開発人となり、村づくりが始まりました。

そして、近隣の村々から多くの人たちが移り住むようになりました。

それから90年ほど過ぎたころ、開発人三人の功績をたたえるために、顕彰碑を建てようということになったということです。

ところが、この顕彰碑のための石も磨き上げ、建てる場所も決め、碑文の草稿も宝暦二年(1752)までにできていたということですが、碑文の草稿者の一人、清田孫蔵が死去したことなどがあり、顕彰碑が未完成のまま置かれてしまいました。(以上、説明板より)

 説2. 「弁慶の硯石」は、明治時代の未完の顕彰碑か

Inamicho12_017この説明を疑うことなく、紹介したのですが、加古土地改良区で内容の異なる研究を見ることができました。

・・・加古新村は、明治時代になり比較的安定期に入り、明治30年代の中ごろ村は開発者たちの功績をたたえ顕彰碑の建立に取りかかっていました。

ところが、たまたま、村と開発者の遺族との間に争いが起こり、やがて訴訟にまで発展しました。

そのため、顕彰碑の建立の話も中止になりました。

 訴訟は、明治39年に解決されましたが顕彰碑建立の話は、再び起こりませんでした。そのため、建設中の碑石は工事半ばで放置されたままとなりました。

やがて草に隠れ、人目につくこともなくなってしまいました。

昭和60(1985)、神社境内の公園化の工事中に、この未完成の石碑が再び姿を現したのです。

碑文の原稿などは、残っていません。

これら「弁慶の硯石」の二つの説明は、違った内容です。加古土地改良区の説の方に真実味がありそうです。何より時代が近く記録がはっきりしています。

 真相を探ってみましょう。

 

 

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稲美町探訪(424):加古を歩く(75)・加古新村のターミナル

2011-02-22 10:36:55 |  ・稲美町加古

    加古新村のターミナル

Photo_2道しるべのある場所(●地図参照)は、旧加古新村にとって特別な場所です。

すでに述べたように才兵衛(現:加古川市八幡町中西条)・喜平次(同:上西条)・治兵衛(同、下村)の三人は、加古新村の開発に当たりました。

そして、寛文二年1662)に最初の集落として上新田23軒がつくられました。

特に、沢兵衛は、中西条時代の姓は「加古」で、彼は自家の姓を村の名としたほどです。

この三名の百姓は頭百姓(とうびゃくしょう)として、加古新村では絶対的な影響力を持ちました。

3名の家は、この道標のすぐ近くで、道標を中心にして、それぞれ西・北・東にあります。

それに、少し北の北新田には、大庄屋の沼田家があります。

道標のあるこの場所は、まさに、加古新村の政治・経済の中心地でした。

人はここに集まり、散っていったのです。

そこに、この道標が設置されたのではないかと推測します。

     開拓者の道

C741e09b「右 西条 わたし」の文字は、はっきり読めます。

先日、この道標の示す西条まで歩いてみました。

江戸時代の新田~西条の道は、どの道かはっきりしなかったのですが、とにかく歩きました。

道標のある場所から真っ直ぐ北へ行くと「一号池」で道は突きあたりになりました。

一号池を西へ迂回し、加古北新田西を過ぎると下村への道は、台地を一気に駆け降ります。坂を下ったところが下村(頭百姓、治兵衛の故郷)です。

(67才のおっさん)の足で、30分ぐらいで下村に着きます。

「近い」。

そして、下村の向こうは西条・国包の「わたし(渡)」へと続きます。

*地図:『東播磨の道標をたずねて』参照

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稲美町探訪(423):加古を歩く(74)・鳴ヶ岡神社

2011-02-22 08:04:33 |  ・稲美町加古

加古八幡神社の「加古八幡神社の由来」です。

・・・

このお宮は、加古地区の開発が始まってから約20年後の延宝20年(1680)、現在の鳴ヶ岡神社境内の地に仮設を設け、開発人らが氏神として祖先から崇拝してきた上西条八幡神社を勧請し、村の守護神としたことから始まります。

年後の天和二年1682)五月、現在地に本殿を造営、正遷宮し、よく年、内宮の正遷宮をしました。(境内の説明板より)

鳴ヶ岡稲荷神社を訪ねる 

Photo稲美町史』では、「鳴ヶ岡神社は、享保年中(17161735)に、姫路藩主・榊原政祐が家臣に命じて社殿を建立する」とあります。 

ということは、加古八幡神社の仮社殿がこの地に建立され、そして八幡神社が今の地へ移転した後に京都の伏見稲荷を勧請して鳴ヶ岡稲荷神社がつくられたということです。 

鳴ヶ岡神社を訪れた日は、雨の後で鳥居が印象的でした。 

旧参道に60㍍に亘って朱塗りの鳥居(写真)が林立していました。 

旧参道に寝そべってみました。 

雨あがりの青空を背景にした朱塗りの鳥居は見事な景観です。 

「稲美町○○景」という企画があるなら、ぜひ入れて欲しい一風景です。 

天気のよい日にお立ち寄りください。 

できれば、参道にねそべって斜め上を見上げてください。 

きっと感動の風景が見つかります。 

   鳴ヶ岡稲荷神社の地面は鳴のか? 

また、『稲美町史』の説明に、次のような記述があります。 

「・・・社殿の裏側の地面を強く踏めば音を立て、地下に空洞あるごとく感ぜられる。鳴ヶ岡の名称の由来である」 

こんな記述を見ると無性に実践してみたくなります。 

その日はさいわい、私のほかに誰もいません。 

66才のオッサンが地面を強く踏みつけました。 

確かに音がするのですが、地中からの音とは思われません。 

いろんな場所で試みたのですがダメでした。 

どこかポイントがあるのかもしれません。 

石造のお稲荷さん()が、こちらを睨んでおられました・・・ 

後日、鳴ヶ岡神社をお祭りしている人とお会いして、鳴るという所を教えていただいたのですが、やはり・・・

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稲美町探訪(422):加古を歩く(73)・オニバス

2011-02-21 07:49:48 |  ・稲美町加古

  オニバスの花(六軒屋池)

Photo昨年の912日、水辺ネットワーク主催の現地見学会に参加しました。

茨池でガガブタを見学した後、六軒屋池のオニバスの花の見学へ回りました。

ちょうどオニバスは、紫のきれいな花(写真上)をつけていました。

でも、花の周りは、まるでオニヒトデの食指のようで不気味です。

そして、花の色は紫。

「無法者の兵士に取り囲まれた高慢ちきな女王様」とでも表現したいような花でした。

オニバスの花

オイバスについてインターネットで調べてみました。

「・・・オニバスの花には開放花と閉鎖花とがあり、開放花とは通常の花のように花びらを開いて咲く花のことです。

オニバスは紫色の美しい花を咲かせます。

それに対して、閉鎖花とは花びらを開かないまま自家受粉によって結実する花です。

Photo_2場合によっては、花がまったくみえない場合もあります。・・・」

さいわい、六軒屋池のオニバスは、写真のようなみごとな開放花をつけていました。

      オニバスの葉の裏

水面を覆うオニバスの葉の表面は見ることができますが、裏側(写真下)はあまり見ることはありません。

葉脈が血管のように走り、とげがいっぱいです。まさに鬼に形相です。

この葉の裏側の写真は、インターネットからのもので六軒屋池のオニバスのものではありません。

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稲美町探訪(421):加古を歩く(72)・ガガブタ

2011-02-20 09:37:44 |  ・稲美町加古

「(シリーズ)加古を歩く」の続きとして

Fd161bfd 昨年の912日、兵庫・水辺ネットワーク主催の現地見学会とセミナーに参加しました。

これは10月に名古屋市で開催される生物多様性条約第10会締約国会議(COP10)が開かれるのを前に企画された行事でした。

午前中は、ガガブタが群生する茨池(いばらいけ・稲美町加古)とオニバスの生育する六軒屋池(ろっけんやいけ・同)で観察会が行われました。

きょうのブログは、その時のガガブタの報告(再掲)です。

なお、写真は前号で紹介した沼田敏彦さん(83)の撮影された作品です。

*いままでにも稲美町加古についてバラバラに書いていますが、今週はしばらく「(シリーズ)加古を歩く」の続きとしてまとめてみます。

    ガガブタ(茨池)

まだ午前1030だというのにとにかく暑い日でした。

それでも、空だけは秋のようです。堤防から少し向こうにガガブタが白い花をいっぱいつけて広がっています。

Be921276 ガガブタとは面白い名前です。

インターネットで調べてみると、「ガガは影の転化で鏡の意味で、ガガブタは鏡の蓋を意味する。漢字で鏡蓋と書く」とあります。

そう説明されると、なんとなく納得してしまいそうですが、現地説明の方に確かめると「はっきりとした定説はない」とのことでした。

「ひょっとして(何かを意味した)古代語の名残ではないでしょうか」と、つけ加えられました。

 古代語の名残説の方が面白い・・・

 ガガブタが小さな白い花をつけ、群生している様(写真)は実にみごとなものでした。

この花は今日限定の花で、午後にはしぼんで、明日は新しい花だそうです。

それに、絶滅が危惧されている花と聞くと見ておきたくなりませんか。

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稲美町探訪(420):加古を歩く(71)・加古大池のヤドリギ

2011-02-18 19:37:28 |  ・稲美町加古

 

  加古大池のヤドリギ

F403e537加古大池の東岸の一角に水生植物園があります。

その辺りの土手に、ヤドリギがあります。

昨年の秋の歴史探索で案内の方から教えていただいたヤドリギです。

その時の説明では、「例年より小さくて、元気が無いように思われる」との感想をお聞きしました。

先日、加古川市の間形(まがた)にお住まいの沼田敏彦さん(83)をお訪ねしました。

沼田さんは、ご先祖が稲美町加古とご縁のある方で、後日紹介します。

沼田さんは、退職後「野草の研究」を続けておられます。

ぼう大な加古川市近辺の野草をカメラに収め、分類の作業を進めておられます。

それら一枚一枚の写真は、まるで芸術写真です。

その日は、偶然に加古大池のヤドリギが目にとまりました。

さっそく、写真をお借りしてスキャナーにかけたのですが、やはり若干ボケます。

元の写真を紹介できないのが残念です。

Ed7d5df6_2沼田さんとご縁ができましたので、稲美町の植物も作品から紹介できると思います。

楽しみにしてください。

写真のヤドリギは、三年前に撮られた一枚だそうです。

稲美町は万葉の里です。

ヤドリギを詠んだ万葉歌を紹介しておきましょう。

あしひきの 山の木末(こぬれ)の

ほよ取りて 插頭(かざ)しつらくは

千年(ちとせ)壽(ほ)くとぞ

                                               万葉集(184136

二行目の「ほよ」がヤドリギのことです。

 (意味)

山の梢の寄生木を取って插頭(かざ)したのは、千年の長寿を祝ってのことよ

『万葉集注解・巻十八(沢潟久孝著)(中央公論社)より

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稲美町探訪(419):加古を歩く(70)・加古大池の大改修

2011-02-18 10:05:01 |  ・稲美町加古

67b91add_2  江戸時代もはじめの寛文年間(1660年代)、加古新村の開拓と同時に北池・南池・跡池・中池・五軒屋池の5つのため池は造られました。

現在では、それらの池はつながり加古大池と呼ばれています。

 5つの池については図をご覧ください。

各池は、明治24年の淡河川(おうごがわ)疏水完成と共に加古支線を通じて分水を受け、大正14年(1925)完成の河原田井の改修と相まって、水は安定して供給されるようになりました。

淡河川疎水については「稲美町探訪(水を求めて)」をご覧ください。

     加古大池の大改修

しかし、ため池の老朽化が進み、堤からの漏水量が多くなり、用水に不足をきたすようになりました。

2f601cd0 そのため、村をあげて対策に奔走しました。

ついに、県営事業として、旧5ヵ所のため池を統合した大池(加古大池)として大改修を行うことが決まりました。

工事が始まったのは、戦争のたけなわの昭和16年2月でした。

激しい戦争の影響をまともに受け、労力・資材の乏しい中での改修工事となりました。

そして、8ヵ年を費やして昭和24年3月、県下最大のため池・「加古大池」が完成しました。

その後も、さまざまな改修を重ねましたが、平成13年(2001)・加古大池の多目的活用のための工事(平成の大改修)を竣工させ、現在の姿になっています。

*図、文章ともに『兵庫のため池』(兵庫県農林水産部農地課発行)参照

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稲美町探訪(418):草谷川物語・雁戸井用水

2011-02-17 20:16:26 |  ・稲美町加古

Photo母里地区の荒内の集落を北へ行くと、草谷川に架かる橋(福来橋)にでます。

そこに「雁土井用水」の取水口(写真)があります。

場所は、下の地図をご覧ください。

「雁土井用水」は、加古と接する八幡町(加古川市)の池を潤す用水ですが、雁土井用水について紹介しておきます。

*この記事は、「稲美町探訪(150)」の転載です。草谷川物語の続きとします。

草谷川物語⑮  雁戸井用水(がんどいようすい)

 加古の大池から西の城山(じょやま・加古川市神野西条)の方向に、舌のように台地が伸びています。

 ここは水が得にくく、ほとんどが山林のままでした。

 それでも、明治30年頃から開墾がはじまりました。

102bf705_2 しかし、土地は平坦でなく、水源がとぼしく依然として開墾は進みませんでした。

 明治38年、耕地整理法が、改正されたのを契機に開発の機運が高まり、明治39年に「雁戸井水利組合」を発足させました。

 「雁戸井用水(がんどいようすい)」というのは、加古郡稲美町母里(もり)の通称、雁戸井に堰(写真)を設け、そこから水を引いたためです。

 水路と非灌漑期に水を貯めておく三つの溜池(一号池・二号池・三号池)工事は、明治45年にはじまり、工事は大正5年にほぼ完了しました。

 が、三号池は、土質の関係上、特に保水力が弱く、三つの池は完成しましたが、毎年一号池のみの満水さえ十分ではありませんでした。

 二号池は、下村と上西条(共に加古川市八幡町)の境界に揚水場を定め、モーターで揚水しました。

 その後も改修を繰り返し、146へクタールの水田が得られた。

 現在、三号池は埋め立てられ、高岡住宅となっています。

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稲美町探訪(417):加古を歩く(69)・水利権

2011-02-17 07:35:13 |  ・稲美町加古

今回の「広谷川水利事件」ついても、田中和美氏の修士論文(神戸大学)「水利組織と村落構造」をお借りします。

*図中の河原田井堰の場所を確認ください。

 草谷川物語⑭ 明治政府は「旧水利慣行(水利権)」追認

 102bf705明治29(1896)に、(旧)河川法が制定されました。

河川法は、河川は私権の対象とならず「公水」であることが規定されました。

つまり、河川に工作物を設置しようとする場合、および河川の敷地や流水を占用する場合には、河川管理者(国・県など)の許可を得なければならないことになりました。

しかし、次の赤字のカ所に注目ください。

「河川法施行規則は、河川の敷地・流水の使用は法によって国・県等の許可を得なければならないが、法の施行時(明治29年すでに)現存していたものは法により許可を受けたものとみなすとしました。

「慣行の水利権」は、「法の施行時に現存していたもの」として、法的に認められました。

反面、そのためには、旧河川法(明治29年)以前から水利権を持っていた事を証明する必要が出てきました。

このように近世(江戸時代)以来の水利権が法的に認められたためには、明治29年以降の水争いの調停・和解においては、江戸時代と同様に慣行が尊重され、それを証明する古文書(こもんじょ)が重視されました。

この、明治政府の(旧)河川法は、江戸時代からの水利慣行を法的に認定し、国・県の河川管理から水利権を放棄しています。

水利権は、明治時代以降も天満村・母里村等のように、新しい村に引き継がれることなく、旧加古新村・旧国岡新村等々野ように旧集落に引き継がれました。

そのため、水利に関しては、国家・県等の影響力は弱まりました。

もちろん藩は消滅していますから、水利権は加古・国岡・北山等々の旧村々がまもり、運営しなければならなくなりました。

ですから、いったん水利事件が発生すれば、国や県の強制力が弱まっており、問題解決には旧村々の責任となり、解決が長引く事になりました。

その典型的な例が「広谷川水利事件」でした。

解決に10年もかかり、それも完全な解決に至りませんでした。

広谷川水利事件は、県・天満村の村長・警察等から調停・和解の勧告がありました。

この解決方法は、江戸時代の場合の藩・大庄屋が和解による問題解決を図った構図とあまり変わっていません。

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稲美町探訪(416):加古を歩く(68)・広谷川水利事件

2011-02-16 07:35:08 |  ・稲美町加古

「広谷川水利事件」については、田中和美氏の修士論文(神戸大学)『水利組織と村落構造‐兵庫県加古台地の事例を中心に‐』にまとめておられます。

その論文をお借りしました。

    草谷川物語⑬ 広谷川水利事件

B3ccf421草谷川は、水源より広谷村までを広谷川、現・稲美町草谷に入り草谷川と呼んでいます)

水争いは、江戸時代だけではありません。

昭和の時代までつづきました。

その内、最大の事件が大正14年の「広谷川水利事件」です。

加古新村、国岡新村は延宝八年(1680)以来、非灌漑期に限り、草谷川より大溝を通じて引水していました。

しかし、水不足は毎年のようにおこり、宝永七年(1710)大溝の取水口より少し上流にある広谷地区への灌漑用の「河原田井」の余水を直接に大溝用水へ落とすように広谷新村との契約ができました。

その後、「河原田井」の水は加古新村、国岡新村にとって重要な水源でした。

前号で紹介したように、明治9年には、河原田井の水路・堰の改修が行われました。

さらに大正1314年には、河原田井の取水口を、円形から角形に拡大するとともに水路の改修も行いました。

この改修に対して、草谷郷八ヵ村から「これは従来の慣行を破り、八ヶ郷の水利権を侵すものである。直ちに元にもどすよう」と加古新村へ申し入れがあり、水利権をめぐる紛争となりました。

紛争は次第に大きくなり、実力行使にまで事態は発展しました。

警戒に当たった警官も明石・加古川の両警察だけでは対応できず、全県から300余名の警察が動員されました。

また、連日新聞紙上をにぎわし、大正147月には、ついに法廷に持ち込まれました。

なかなか決着がつかず、紛争ますます拡大しました。

法廷では、和解勧告が幾度となく行われました。

事件発生後11年がたち、昭和10年ようやく和解が成立しました。

この事件は、その後々まで感情的なわだかまりを残すことになりました。(つづく)

*挿絵は小説「赤い土」からです。広谷川事件を描いた挿絵ではありませんが、よく雰囲気が出ているのでお借りしました。

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稲美町探訪(415):加古を歩く(67)・鐘を売る

2011-02-15 15:01:40 |  ・稲美町加古

大正12年、草谷川より引水する八ヶ郷(母里村の草谷、下草谷及び下流の現・加古川市八幡町の野村、下村、宗佐、船町、上西条、中西条)と国岡新村・加古新村の間に水利をめぐり大事件が起きました。

世にいう「広谷川水利事件」です。

この事件については、次回から紹介することにします。

その前に、この事件に関係する前史を紹介しておきましょう。

  草谷川物語⑫ 広谷川水利事件前史

D4afa2b5前号(稲美町探訪・413)で、宝永七年(1710)に、大溝用水を補強する河原田井(堰)の建設について紹介しました。

時代は江戸時代から明治時代とかわり、長年使っていた井堰・用水溝も古くなり、明治9年(1876)に改修しました。

その改修の主な点を『兵庫県加古土地改良区誌』にみておきます。

 ・・・河原田井用水溝の延長は430余間で、取り入れ口は元2尺であったが4尺としました。

 釣鐘堂の石をもって明治9年に改修しました。

 河原田井からの取水期間は、制限がありません。・・・

 広谷村の意見を聞くと、明治9217日、2尺の幅の溝を加古新村・国岡新村の依頼により広谷村が4尺幅とし、その工事費用は加古新村・国岡新村の負担として水を流す契約をしました。

     鐘(加古・八幡神社)を売る

 少し付け加えておきます。

上記の「釣鐘堂の石」に注目してください。

この釣鐘堂は、加古新村の八幡神社の釣鐘堂のことです。

『稲美町史』は、加古八幡神社の説明に「釣鐘、明治九年売却され、広谷川・河原田井堰改修に充当される」とサラリと書いています。

八幡神社の鐘が、明治9年の河原田井(堰)の改修費に当てられました。

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