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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(307):国岡の歴史(40)・稲美町の中心地に変貌

2010-08-31 07:56:23 |  ・稲美町国岡

85f8115d_2  昭和30年(1955331日、3つの村が合併して稲美町が発足しました。

町役場は、稲美町国岡の旧天満役場(国岡536番地の2)をそのまま充当することにし、加古・母里の旧役場をそれぞれ加古支所・母里支所としました。

その後人口の急増などにより、手狭になり、また庁舎が老朽化したため、新築移転することが決まりました。

移転先は、国岡135番地1で、昭和52年着工し、翌年53年(19878月に竣工しました。

新庁舎の位置は愛宕山の西部です。

庁舎の周辺では中央公民館・商工会館・有線放送農業共同組合などの施設がすでに建設されていて、その後、コミュニティセンター・中央公園・町民グラウンド等が建設され町の中心地となりました。

   稲美町の中心地に!

私はいま、大正12年測量の地図をながめています。

愛宕山から稲美町庁舎辺りには人家はほとんどありません。

昨日のブログをご覧ください。

このあたりは、高地で水がなく農業の適地ではなかったのです。

そのため、国岡新村ができた後も、開発の手が入らず、そのままの状態で、開発から残された場所でした。

時代は、変わりました。

稲美町は、衛星都市として人口が急増し、役場周辺はずいぶん変わりました。

*注:赤丸が稲美町旧役場

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稲美町探訪(306):国岡の歴史(39)・残された開発

2010-08-30 11:04:49 |  ・稲美町国岡

  水の流れ

Aef8e0f7 印南野台地は、大まかに言えば、雌岡山辺りを頂点にし、西にそして南に低い地形をつくっています。

これは、六甲山の変動(六甲変動)に伴う現象です。

この地形のため、雌岡山辺りに水があれば、水は印南野台地を自然に流れ下り、池に水をため台地を潤しました。

しかし、挿絵をご覧ください。

国岡あたりついてみて見ましょう。

印南野台地を流れ下った水は、愛宕山辺りの山塊に妨げられ、水は北へ、そして南へと分かれて流れました。

国岡(新村)は、この愛宕山を中心とする山塊の西部に広がっています。

そのため、国岡(新村)は水を得るためには、いったん「入が池」に集まった水を千波池に流し、利用しなければなりません。

入が池は、北山村所有の池のため解決しなければならない問題がたくさんありました。このことは、以前に紹介したとおりです。

  残された開発

それでも、千波池より高い場所には水が流れてくれません。

国岡新村は、寛文年(1662)に誕生しましたが、愛宕山あたりの高いところは手つかずのままでした。

その後も、愛宕山から現在の町役場あたりには、あまり開発の手が入っていません。森林のままで残されました。

この辺りに開発が進み、風景が一変するのは最近のことです。

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稲美町探訪(305):緊急報告②・オニバス(加古六軒屋池)が見ごろです

2010-08-29 12:08:07 | 稲美町

いま、稲美町六軒屋池で「オニバス」が見られます。

826日(木)の神戸新聞は、このオニバスについて「緑の傘、ため池を覆う」の見出しで、次のように報じました。

見学しにお出かけしませんか。

   六軒屋池のオニバス

Inamimachi7_139_2 (神戸新聞より・一部省略)

・・・・

オニバスはスイレン科の一年草で、環境省レッドリストで絶滅危惧Ⅱ類に指定されている。

5年前、環境保全のために池の水を入れ替えたところ、池を覆うように育ち始めたという。

今年の夏は、高温で雨が少ないため、葉は例年より少ない約100枚。

池の魚を日光から守るように大きな葉を広げ、所々で直径5センチほどの紫色の花を咲かせている。

葉は2メートルまで育ち、10月下旬ごろまで見られるという。

(以下略)

*絶滅危惧Ⅱ類・・・現在の状態をもたらしている要因が引き続くばあい、近い将来に「絶滅危惧Ⅰ類へ移行することが確実な種

注:六軒屋池にお出かけの時は、オニバスが集まって見学できるのは、神社の反対側(北)の堤防の中央あたりです。

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稲美町探訪(304):緊急報告①・天満大池にアゾラ出現

2010-08-28 10:55:43 | 稲美町

 緊急報告① 天満大池にアゾラ出現

Inamimachi7_134 「国岡の歴史」を連載していますが、緊急報告を二つはさみます。

2007831日、あるところで次のような文を書きました。

・・・

・・・「野口(加古川市)農協」の東の道は、ふだんは空いているんですが、その日はなぜか渋滞していました。

横の「駅ヶ池」を見ると、なんと!水面が真っ赤でした。

きれいというより不気味な感じです。

よく見ると、ヒシをびっしりと小さな赤い水草が取り巻いています。

それも、池いっぱいに覆っています。

「何という水草でしょうか?」また、「害は、ないのでしょうか?」・・

・・・この文を読んだ友達が神戸新聞に投書してくれました。

そして、926日の夕刊のトップに大きく「外来シダ植物‐アゾラ‐猛威」と報じ、記事は「アゾラは池の水質を変えてしまうので、放置せずに、可能な限り早期に取り除くことがのぞましい」と結びました。

その後、大掛かりなアゾラの除去作業が行われ、以来「駅ヶ池」のアゾラの出現はとまっています。

  アサザ危うし!

先日、天満大池へ出かけました。枯川(喜瀬川)から天満大池への取水口の近くに、アゾラが広がっていました。

駅ヶ池のような鮮やかな色のアゾラではなく、くすんで少し目立たないアゾラです。

それが、絶滅危惧種のアサザを育てているエリアにも侵入しているんです。

アサザ危うし!・・・

写真:天満大池に出現したアゾラ

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稲美町探訪(303):国岡の歴史(38)・虫送り

2010-08-26 21:14:53 |  ・稲美町国岡

今日の記事も『稲美町史』から多くをお借りしています。

・・・・

愛宕神社の夏祭りです。

愛宕神社には常任の宮司はいませんが、元、高松国三郎、厚見弥惣松の両人が先祖から引き続いて奉仕していました。

祭日には、「野谷屋嘉右衛門池尻中」と書いた二本の幟を立てて、また提灯を釣って飾り、山伏を呼んで護摩を焚き祈祷をしました。

余興として村芝居をしたり福引をしたりしました。

屋台店も多く出て賑わいました。

   虫送り

C5067d3 祈祷が終わった後、夕方暗くなってから残り火を松明(たいまつ)につけ、村の子どもたち総出で、国岡と中村の村境まで虫送りをしました。

火に誘われて来た虫を松明とともに焼き払うのです。

唱える言葉は、全国共通のようで「実盛(さねもり)さんのお通りじゃ。よろずの虫よ、お供せえ・・・!」とわめきながら歩きました。

虫送りの挿絵は『東播磨の民族(石見完次)』(神戸新聞出版センター)から借りしましたが、挿絵の先頭を行くのは、藁で作った実盛の人形です。

また、虫除けのお札を作り、各自の耕作畑、村中で1300筆に虫除けのお札をたてました。

*筆(ひつ)・・・土地の一区画を言うときの単位

雨乞いと同じく、この虫除けの行事も昭和に入ってから、あまり行われなくなり、殊に戦後はまったく絶えてしまいました。

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播磨町探訪(302):国岡の歴史(37)・福田春耕

2010-08-26 00:22:21 |  ・稲美町国岡

Inamimachi7_129 国岡の城の池(じょうのいけ)の南に小さな墓地に、立派な碑(写真)があります。

これは福田健次、号は春耕の碑で、その門人達が明治22年(1889)に建てたものです。

この碑(文)の略解が『稲美町史』(p786788)にありますのです、お借りします。

福田健次

福田健次(号:春耕)先生は国岡村の人です。

お父さんは、嘉左衛門といい、先生は二男でした。

幼児より学問が好きで、天保10年(183910月、姫路の仁寿山荘で学び、後に明石藩の儒者・梁田綱介について学びました。

熱心に6年間勉強をし、国岡に帰ってきました。この時、25才でした。

父の嘉左衛門も学問が好きで、村の若い者を長年教えていましたが、春耕は父の後を継ぎました。

丁寧に教えたので、遠くからも多くの人が集まり、家塾は門人で満ち溢れていました。

明治になり、政府は学校制度を充実し、幼い子どもに勉強を教えるようになりました。

国岡でも雙寿校という学校をつくり、春耕をこの学校の先生として迎えました。

明治10年には学区を改め、加古新村・北山村及び国岡村をひとつの学区として「鳴岡校」が置かれました。

その時、春耕は、鳴岡校の先生となりました。

春耕は、優しく、喜びや悲しみを表面に表すような人でなく、生徒は先生によく懐き、10年前後教員として勤めました。

そして、明治14年に、先生は国岡の戸長(村長)に選ばれました。

俳句も嗜みました。

<msnctyst w:st="on" address="『播磨町" addresslist="28:『播磨町;"></msnctyst>

 『播磨町史』は、彼の次の辞世の句を紹介しています。

落栗や 風邪に吹かれて 遂ころび

先生の61才を祝い、教えを受けた者たちが先生に感謝して、明治222月に建立しました。

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稲美町探訪(301):国岡の歴史(36)・旅の道しるべ

2010-08-25 00:11:00 |  ・稲美町国岡

  旅の「道しるべ」

Inamimachi7_126_3 この道標(写真上)は、主要地方道「宗佐・土山線(84号線)」の国岡北の交差点を100メートルばかり西へ行き、道の北側で旧道の入り口にあります。

注意して見るとすぐに見つけることができます。

道標は、おそらく道路工事により、引っこ抜かれてこの場所に移されたのでしょう。

裏側(写真下)を見ると、そのことがわかります。

道標の文字は次のようです。

右 北山大の日向社

             道

左 別府北在家

Inamimachi7_125 少し、補足しておきます。

「右 北山」は、現稲美町天満町北山でしょう。

「大の日向社(ひゅうがしゃ)」は、現加古川市加古川町大野の日岡山にある「日岡神社」のことです。

日岡神社は、明治3年(1870)、その名前を「日向社」から現在の「日岡神社」と変えています。

「左 別府北在家」の「別府」は松の名所で、特に別府の「手枕の松(たまくらのまつ)」は当時の観光の人気スポットでした。

また、「北在家」は鶴林寺のあるところで、鶴林寺もまた人気の観光地です。

この道標は、銘がないので建てられた年代は分かりませんが、江戸時代の後期のものと想像されます。

江戸時代の農民は貧しくて楽しみがなかったと思いがちですが、時にはお寺参り・神社参拝などを兼ね、近在への旅行に出かけたようです。

この道標は、まさにそのための「道しるべ」だったのです。

旅人の、楽しい賑わいの声が聞こえてきそうです。

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稲美町探訪(300):「稲美町探訪」が300号に

2010-08-24 10:16:04 | 稲美町

 「稲美町探訪」が300号になりました

Aca957a3 「稲美町探訪」が300号になりました。

内容に若干偽りありで、290号から299号は「国岡の歴史」として、いままでの記事の再掲とさせていただきました。

ともかく、300号としておきます。

「稲美町探訪」が100号になったとき、次のように書きました。

・・・

今日で「稲美町探訪」も100号になりました。・・・

書いている私は100号分だけ稲美町を知ることができました。

・・・「300号になったら、いっぱしの専門家面をして、稲美町についての話を誰かに押し付けているかもしれません」・・

300号になったのですが、専門家面なんてできる状態ではありません。

でも、誰かに「稲美町につての話」を話してみたいという気持ちが少しわいてきました。

ブログを続けている間にも、稲美町について、3回お話をする機会をつくっていただきました。

9月には、あつかましくも、水を中心にした「国岡の歴史」を国岡(稲美町天満)で話す機会をもっていただけるようです。

水利委員(専門家)の方もこられるそうです。

まさに「身のほど知らず」の行為です。

「稲美町探訪」はもう少し続きそうです。とりあえず400号を目標に続けますので、もうしばらくお付き合いください。

  余話:夏休みは宿題のお手伝いに?

「稲美町探訪」をはじめるまえは、加古川市の各町の探訪をしていました。

それも含めると現在1100号を数えています。

気候の話ではありませんが、この夏ちょっとした異変が起きています。

8月にはいり、毎日ブログへのアクセスが普段より100以上も増えているのです。

先日、ある高校生(女子)からメールをもらいました。彼女は私のブログをヒントに夏休みの宿題をしているそうです。

8月になってアクセスの増えた犯人は、どうやら宿題のためのようです。

理由は何でもいいんです。

若者が地域に目を向けてくれるヒントになっていたことは大満足です。

*写真:国岡の風景(昭和30年当時か)、内容と直接関係がありません。

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稲美町探訪(299):国岡の歴史(35)・殉難

2010-08-23 08:51:33 |  ・稲美町国岡

広谷池の「亀の石碑」から「入ヶ池郷の道3」を入ヶ池まで歩きました。

距離が適当で、ゆるい下りになっていたためかあまり疲れない散策でした。

散策の途中の下棒池でおきた出来事を紹介しておかなくてはなりません。

『稲美町史』でも紹介されています。

   殉難之碑

180 昭和35130日のことでした。

国岡土地改良区の事業として堤防改修中に、その事故はおきました。

国岡の庄司猪三次さん49才と同じく厚見丈作さん45才は、下棒池の内側の堤防のコンクリートの壁の工事をされていました。

突然、コンクリート壁が二人の上に倒れてきました。

そのまま二人は亡くなられました。

国岡の人々は、池完成の蔭に起きた痛ましい出来事を後世に伝えるため、また民の哀悼の情をあらわすために、昭和437月「殉難之碑」(写真)を愛宕神社の境内に建立しました。

愛宕神社に参詣された時は、是非お参りください。

「殉難之碑」は、神社の本殿に向かって右手(東側)の木の下にあります。

<一口メモ>

  棒池の築造は江戸時代の寛文年間です。

古地図を見ると一つの池であり、<新池>と呼ばれていました。

<棒池>と呼ばれるようになったのは明治時代からです。

*『稲美町探訪(131):いなみ野フットパス・殉難』より

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稲美町探訪(298):国岡の歴史(34)・国岡開祖300年記念碑

2010-08-23 08:40:53 |  ・稲美町国岡

国岡新村は寛文2(1662)に誕生

・・・・姫路藩でも17世紀から水利施設や新田開発が盛んに行われるようになりました。

1660年前後に、一つのピークを迎えています。

国岡新村も、この時期に開発された新田村です。

さいわい、国岡新村には「明細帳」等の古文書が多数残されており、当時の国岡新村のようすを知ることができます。

    村創設300年記念碑(昭和34年建立)

179_2 国岡新村は、寛文2年(1662)、国安村の庄屋・彦太郎と岡村の庄屋・安右衛門が中心となり開発されました。

そのため、国岡という村名は両者の村名の頭文字からつけられたといわれています。

そして、先ず村の安泰と発展を願って、現在の地に愛宕神社を勧請しました。

安右衛門が、堂守になっています。

ただ、なぜ「山城国(京都府)の愛宕神社(あたごじんじゃ)を勧請したのか」、その理由がはっきりしません。

その後、水をめぐっての争い・飢饉等数々の試練を経ながら、村は発展し現在に至っています。

国岡新村と愛宕神社の300年を記念して式典を行いました。

その記念碑(「国岡開祖三百年記念碑:昭和34224日建立」・写真)が、「稲美町探訪(131)・殉難」で紹介した「殉難の碑」の横にあります。

神社参拝の時にご覧ください。

なお、2012年は「国岡誕生350年」にあたります。

何か記念行事をして祖先の苦難の歴史を偲びませんか。

なお、先に書いたように国岡には古文書が多数残されていますので、昔の国岡の姿をさらに詳しく知ることができると思います。

*『稲美町探訪(145):国岡の昔・国岡開祖三百年記念碑』より

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稲美町探訪(297):国岡の歴史(33)・この建物は何でしょうか?

2010-08-22 05:26:58 |  ・稲美町国岡

この建物は何でしょうか?

C893fc1b この建物を覚えておられませんでしょうか。

国岡町内会からお借りしたアルバムにあった写真の一枚です。

この建物も他の写真と同じく昭和3035年ごろに撮られたものと思われます。

民家にしては、やや大きな造りです。

集会所のようにも思えますが、はっきりとしません。

建物・場所・時期等をご存知の方は一報ください。

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稲美町探訪(296):国岡の歴史(32)・昔の写真・資料を提供ください

2010-08-22 05:16:57 |  ・稲美町国岡

城ノ池の南あたりの風景 

Becaa4d6 この写真をご覧になっても、ほとんどの人は場所の特定できないと思います。 

それほど国岡の景色は、激変しました。 

写真に大きな木が見えますが、いまは、その木もありません。 

この写真の近くでお生まれになったSさん(59才)は、懐かしそうに話してくださいました。 

「写真の後ろの方にある林の向こうは城ノ池です。ですから、この写真の場所は城ノ池の南(国岡6丁目)あたりです。 

確かに、写真にある木は覚えているのですが、名前は知りません。 

昭和30年ぐらいの写真だと思いますよ・・・ 

野菜(キャベツ)の共同出荷の時に撮られたのではないですかね・・」と。 

    稲美町の写真・史料をお知らせください 

それにしても、激変です。ここ40~50年ほどの前の国岡の風景とは想像ができません。 

子どもたちは、こんな風景の中を駆け回っていたんですね。 

その頃の楽しい思い出を聞かせていただけませんか。 

今週は、国岡町内会のご好意で昔の国岡の写真をお借りすることができました。 

ありがとうございました。 

稲美町の他の町内会や個人の方で、お借りできる昔の写真がありましたらお知らせください。よろしくお願いします。

*『稲美町探訪(138):国岡の昔・昔の写真・史料を提供ください』より

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稲美町探訪(295):国岡の歴史(31)・出征兵士家族慰安会

2010-08-21 15:46:31 |  ・稲美町国岡

56091949  昭和1718 

昭和16128日、日本軍はマレー半島コタバルに上陸し、その直後ハワイの真珠湾を奇襲し太平洋戦争がはじまりました。 

緒戦は、日本軍の圧倒的勝利のうちに進みました。 

その後、準備を完了したアメリカ軍の反撃が始まり、日本軍はミッドウエイの海戦(昭和176)で敗北します。 

この海戦をさかいに、日本軍とアメリカ軍との太平洋における海軍力は逆転します。 

中国大陸でも中国の交戦意思をくじくことができません。 

南方では、昭和177月、日本軍はソロモン諸島のガダルカナル島に飛行場を建設しました。 

オーストラリアとの補給線を遮断されることを恐れたアメリカ軍は、8月にガダルカナルに上陸し、これを占領します。 

それから半年間、同島をめぐって死闘が展開されました。 

この戦いは日本軍の完全な敗北で終わりました。 

昭和178年は、第2次世界大戦、とりわけ太平洋戦争での戦局を大きく転換した年でした。 

もちろん、このような戦局は、国民には知らされていません。 

「戦死」の知らせだけが家族に届きました。 

   出征兵士家族慰安会 

2b4c87e1 国岡からも多数の兵士が出兵しました。 

出征兵士の家族は、肉親の安全を祈りました。 

昭和17327日、国岡では出征兵士の家族のための慰安会が開かれました。 

その日の演目のメインは、村人による「まぶたの母」(写真上)で、婦人会による「手踊り・鹿児島小原節」(写真下)等も披露されています。 

(写真:国岡町内会提供)

*『稲美町探訪(137):国岡の昔・出征兵士家族慰安会』より

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稲美町探訪(294):国岡の歴史(30)・小池あたりの風景

2010-08-21 15:33:33 |  ・稲美町国岡

4a42a1e8 (おじさん、オジサン・・そんなに道の真ん中を歩いて大丈夫ですか。)

車ですか?・・・

今しがた、自動車がすぎていきましたが、普段、自動車はあんまり通りません。

(のんびり散歩ですか?)

のんびり!・・・冗談じゃないですよ。

こんなに暑いし、それに道の土ぼこりが大変でね。

ちょっと、タンボの水具合でも見に行ってきます。

(そうですか。じゃあ気をつけて・・・)

*これは、もちろん架空の会話です。

県道宗佐・土山線の

   小池あたりの風景

「おじさん」が歩いている場所は、小池の側を走る県道宗佐・土山線です。 

小池は国安ですが、写真中央の家も柳の木も国岡に属しています。

小池から流れ出す川が国安川であり、国安川の源流です。

国岡の方にこの写真を見ていただき、いつごろの風景か聞いてみました。

記憶をたどりながら、「そうですね、中学生の時(昭和30年ごろ)この辺りでよく遊びました。

でも、その頃はもう少し家があったようです。

ですから、この写真は、昭和30年より前の昭和20年代の写真ではありませんか」との返事でした。

(写真:国岡町内会提供)

    『稲美町探訪(136):国岡の昔・小池付近の風景』より

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稲美町探訪(293):国岡の歴史(29)・激変

2010-08-21 15:23:25 |  ・稲美町国岡

国岡新村の開発は、古文書によれば寛文2年(1662)のことです。 

国岡新村の開発者は岡村の安右衛門と国安村の彦太郎でした。 

そのため、開発者の出身地の頭文字から村名を国岡したと記録があります。 

新村は、普通50100名で出発しています。 

国岡新村も開発当時は、その程度の人口であったのでしょう。 

開発から87年後の寛延3年(1750)の明細帳によれば、国岡新村は、家数99軒、人口523人(男274人、女249人)の村に発展しています。 

その後、江戸時代の国岡新村の人口・戸数は、大きな変化はなかったと想像されます。 

   国岡村激変 

57ee9c25 参考のために天満村の明治以降の人口をあげておきます。 

明治22年の人口は、江戸の終わりのころの人口と考えてよいでしょう。 

天満村については「稲美町探訪(1)・天満村誕生」をご覧ください。 

<天満地区の人口の動向> 

明治22年     5,254人    

大正 9年     6,294人    

昭和15年     7,087人    

昭和25年     8,556人    

昭和30年     8,743 

昭和40年     9,364 

昭和45年    11,130 

昭和50年    12,778 

昭和55年    16,715 

国岡村の数字があればよいのですが、ご辛抱ください。 

明治以降もゆっくりとした人口の変化でした。村の風景も、ゆっくりとした変わりようでした。 

天満村が、風景を大きく変えるのは、昭和40年以降です。 

国岡は、特に激変しました。前号に続き、今日も国岡の農村風景です。 

この写真は、千波池(せんばいけ)の土手から西の方向(上条:かみじょ)を撮影しています。 

人口急増期前の昭和30年前後の国岡村の風景だと思われます。 

それにしても、畑の作物は何でしょうか。教えてください。

(写真:国岡町内会提供)

*『稲美町探訪(135):国岡の昔④・激変(昭和40年以降)』より

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