細工所の大庄屋であった玉田家のルーツを尋ねてみましょう。
その前に「志方町探訪(186):細工所⑲、細工所大庄屋・玉田家」を少し復習しておきます。
大庄屋玉田家のルーツ
細工所の外八ヶ村が姫路藩を離れて幕府の直轄になったのは元和三年(1617)のことでした。
以後、これら九ヶ村は天領でない時代もありましたが、幕府領・小田原領・一橋領として明治時代に至っています。
細工所は、これら9ヶ村の政治・経済の中心であり、その間玉田家が大庄屋を務めました。
『志方町誌』より、玉田家について引用しておきます。
玉田家は赤松の出で、正之はその妻・阿江氏(正之の妻・賀美は加古郡阿江阿江城主阿江三郎太夫の娘)の縁により一時飾磨郡玉田村に移り、その後永禄年間(1558~1569)に細工所へ来たために姓を玉田に改めました。
玉田正之の長男・正次は元和元年に父の業を継いで東志方9ヶ村の大庄屋となりましたが、長男正信(修斉)に大庄屋を譲っています。
この正行が野尻新村の開発に当たり、細工所の経営は後に弟の成紹に譲りました。
玉田家は、東志方の村々、とりわけ細工所・野尻を語る時、抜かすことはできません。
玉田村はどこ?
先日、ある方(Tさん)と話をしました。話は玉田家が話題になり盛り上がりました。
そのはずです玉田は、「種類の異なった稲の穂で大きな絵を描いて有名な町」で、毎年新聞に大きく登場する姫路市夢前町玉田地区です。
そういわれると、私も毎年この記事を見ていながら、玉田家のルーツとは気が付きませんでした。
調べてみると、間違いなく玉田地区でした。
「玉田」という名前がより身近に感じられます。
写真は、HPにあった稲で描かれた姫路城です。
来年は、ぜひ見に行きたいものです。
志方町は幸い、コスモスの花畑で有名になっていますが、細工所でも玉田地区にタイアップして何かアイディアがないでしょうか。
*写真:玉田地区の田宴アート(HPより)
今日の記事で本年度のブログをしばらく休ませていただきます。
新年度は1月6日から、「志方町を歩く」を再開させます。
この1年、拙文にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
よいお年をお迎えください。