ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(192):細工所(25)・玉田村はどこ?

2011-12-28 08:36:42 |  ・加古川市東志方

細工所の大庄屋であった玉田家のルーツを尋ねてみましょう。

その前に「志方町探訪(186):細工所、細工所大庄屋・玉田家」を少し復習しておきます。

    大庄屋玉田家のルーツ

Art_3細工所の外八ヶ村が姫路藩を離れて幕府の直轄になったのは元和三年(1617)ことでした。 

以後、これら九ヶ村は天領でない時代もありましたが、幕府領・小田原領・一橋領として明治時代に至っています。

細工所は、これら9ヶ村の政治・経済の中心であり、その間玉田家が大庄屋を務めました。

『志方町誌』より、玉田家について引用しておきます。

玉田家は赤松の出で、正之はその妻・阿江氏(正之の妻・賀美は加古郡阿江阿江城主阿江三郎太夫の娘)の縁により一時飾磨郡玉田村に移り、その後永禄年間15581569に細工所へ来たために姓を玉田に改めました。

玉田正之の長男・正次は元和元年に父の業を継いで東志方9ヶ村の大庄屋となりましたが、長男正信(修斉)に大庄屋を譲っています。

この正行が野尻新村の開発に当たり、細工所の経営は後に弟の成紹に譲りました。

玉田家は、東志方の村々、とりわけ細工所・野尻を語る時、抜かすことはできません。

    玉田村はどこ?

先日、ある方(Tさん)と話をしました。話は玉田家が話題になり盛り上がりました。

Tさんは「姫路の玉田を知っている」といわれるのです。

そのはずです玉田は、「種類の異なった稲の穂で大きな絵を描いて有名な町」で、毎年新聞に大きく登場する姫路市夢前町玉田地区です。

そういわれると、私も毎年この記事を見ていながら、玉田家のルーツとは気が付きませんでした。

調べてみると、間違いなく玉田地区でした。

「玉田」という名前がより身近に感じられます。

写真は、HPにあった稲で描かれた姫路城です。

来年は、ぜひ見に行きたいものです。

志方町は幸い、コスモスの花畑で有名になっていますが、細工所でも玉田地区にタイアップして何かアイディアがないでしょうか。

*写真:玉田地区の田宴アート(HPより)

 今日の記事で本年度のブログをしばらく休ませていただきます。

新年度は16日から、「志方町を歩く」を再開させます。

この1年、拙文にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。

よいお年をお迎えください。

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志方町を歩く(191):細工所(24)・暴風雨

2011-12-27 08:44:02 |  ・加古川市東志方

Photo_3加古川市の平岡町中野に、寛政元年(1785)から始まり現在まで200年以上の長きにわたって書き続けられた『中野村坪刈記録』が残されています。

この『坪刈記録(大正七年)』は収穫状況だけでなく、その年の天候も記録しています。一部を読んでみます。

「・・・・(大正七年)稲作は植付後大暴風有り、其後天気順調二百十日後雨天続き度々風あり、・・・」

とあります。

当地方への大型の台風の襲来を記録しています。

この植え付け後の大暴風については、被害が大きく「細工所・書類綴込帳」にも記録があります。

    小学校講堂傾く

大正七年七月十三日     東志方村長   沼田一良

   細工所惣代御中

本月十二日、暴風雨のため伝染病院隔離病舎、亜鉛葺一棟転覆全滅し、大破損傷。

尚、尋常高等小学校(東志方小学校)講堂も西へ約七、八寸ほど傾き、校舎も大破損傷しました。

通知いたします。

    自然災害・病虫害そして伝染病

 細工所に残された、数冊の「書類綴込帳」を読んでいると、事実だけの報告がほとんどですが、病虫害・自然災害それに伝染病など様々な記録が多く、苦難の連続であったようです。

もちろんこれらは、細工所に限った問題でなく近隣の村々も同じでした。

伝染病(病気)については後日報告します。

ただ、村の記録には普通みられる「水争いの記録」がありません。

記録に残るような大きな水争いはなかったようです。

水については細工所は比較的恵まれていた地域だったようです。

これも詳細について調べてみます。

*写真:大正七年の大風のものではありません。

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志方町を歩く(190):細工所(23)・螟虫大発生

2011-12-26 08:26:38 |  ・加古川市東志方

Photo大正四年五月十九日の役場よ「目下小麦に白渋病(うどん粉病)発生蔓延致居候(まんえんいたしおりそうろう)・・・」と小麦の病気についての通達を出しています。

大正四年の「書類綴込帳」には、螟虫の発生の記事がしばしば見られます。

これは、東志方だけでなく兵庫県の播磨海岸部、淡路島で異常発生があったようです。

そのようすを細工所への通達文に見ておきます。

なお、当時の通達文は太字のように候文(そうろうぶん)のため、下記の通達文は書き改めています。

    螟虫大発生!

大正四年七月七日  東志方役場

      細工所村惣代御中

本年稲水田に螟虫が発生し、徐々に蔓延の兆があります。

はなはだしいものは枯死せるように見えます。

今、これをみすごしては、たとえ新芽が繁茂して一時被害を免れたように見えるとしても、後日被害を他の田に及ぼします。

救助法としては被害田全部苗を水際より少し下で切断し、水を落としたまま二三日放置するのが最良の策です。

これを周知されますよう、通知申し上げます。

*螟虫の通達は、上記のものだけではありません。繰り返し通達されています。

    虫 送 り

Photo_2むかしは、虫の害が大きかったようです。そのため各地では「虫送り」の行事が行われています。

夕方暗くなってから松明(たいまつ)をつけ、村の子どもたち総出で、虫送りの行事をしました。

火に誘われて来た虫を松明とともに焼き払うのです。

唱える言葉は、大体全国共通のようで「実盛(さねもり)さんのお通りじゃ。よろずの虫よ、お供せえ・・・!」とわめきながら歩いたようです。

稲の害虫に悩んだ東志方にも虫送りの行事があったと思うのですが、まだ調べていません。

志方町の虫送りの行事についてご存知の方はご一報ください。

*写真上:二化螟虫  写真下:二化螟虫の被害を受けた稲

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志方町を歩く(189):細工所(22)・細工所にあらず(2)

2011-12-25 08:33:02 |  ・加古川市東志方

東志方町細工所には、明治~昭和の綴りが数点残されています。

その内、いま明治32年、大正46年、昭和13年の村の書綴りから細工所の名称について見ています。

細工所村から細工所へ

58283787明治22331日まで細工所は細工所村で、それ以降は東志方村細工所となりました。

しかし、細工所の名称は一挙にはなくなりませんでした。

明治22以降も東志方村役場から細工所にだされた通知には、どうどうと「細工所村」と書かれています。

つまり、東志方村には東志方村のほかに細工所村があるような記述です。

各地でも若干の混乱があったようです。

そこで、大正二年四月二日、「本村大字名を左記の通り改称し・・・本月四月一日より実施することに相成・・・」という県からの通達が東志方村長・沼田一良を通して細工所にも通知されました。

「大字名(細工所村)を改称して細工所としなさい」という通達です。

東志方村の各地区にも同じ通達が出されました。

さすがに、大正七年以降、役場から旧村々への通達には、東志方村の文字が消え、「○○惣代御中」に代わっています。

    部落対抗リレー

Puaru_173かつての旧村落の名称を使わないとすると、こんどは様々な不便なことが起きてきます。

一例をあげます。年配の方は覚えておられると思いますが、小学校の運動会で最も燃えあがったのは「村対抗リレー」でした。

ここでも「村」の用語が使えません。「部落対抗リレー」といっていましたね。

このようにかつての村に代わって、集落を意味した「部落」の用語が使われました。

大正4年の「細工所村綴込書類」には「部落」の名称は一カ所あるだけで、ほとんど使用されていません。

大正6年以降、役所の通達には「細工所村」に代わりに「細工所部落」が多用されるようになります。

昭和13年の公的な書類でない書類綴りでも「細工所部落」(写真上)の名称が使われています。

*写真:「昭和十三年度 雑書類綴 細工所部落」(細工所町内会所蔵)

 「ひろかずのブログ」が本号で1600号になりました。ご感想・ご意見をお寄せください。

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志方町を歩く(188)細工所(21)・細工所村にあらず(1)

2011-12-24 08:07:59 |  ・加古川市東志方

「細工所村の名称」消える

「志方町を歩く(170)・細工所村消える」の初めの部分を再度読むことにします。

「・・・明治2241日、全国的に市町村の再編がおこなわれました。

この時、細工所村・高畑村・岡村・広尾村・野尻新田村・大沢村・行常村・大宗村・畑村・雑郷村・東飯坂村・東中村の12ヶ村が合併して東志方村が誕生しました。

従って、明治2241日より細工所村はなくなり、東志方村細工所となりました。

現在でも、細工所を「細工所村」と呼ぶ人がしばしばありますが、120年以前に「細工所村」は、なくなっています。(以上、「志方町を歩く(170)」より)

   

  細工所村から細工所へ(名称変更の県の通達)

97526d12_2太字の記述に注目ください。

つまり、明治22331日まで細工所は細工所村で、それ以降は東志方村細工所となりました。

しかし、ながい間の習慣は細工所だけでなく、一挙にはなくなりませんでした。

明治22以降も書類上でも旧来の村の名称が使われていたようです。

それにより、各地で若干の混乱もあったようです。

大正二年四月二日、「本村大字名を左記の通り改称し・・・本月四月一日より実施することに相成・・・」という県からの通達が東志方村長・沼田一良を通して細工所にも通知されています。

上記の「左記の通り」というのは、現今の大字名(細工所村)を改称して細工所とするという通達です。

東志方の各村々にも同じ通達が出されました。

しかし、この通達以後も役所の公式の文書では東志方村細工所が使用されるようになりました。

が、その他の所では「細工所村」の名称は根強く残ったようです。

現在も細工所を含めて、近隣の集落では「私たちの○○村」という言い方は広く使われているようです。

写真をご覧ください。通達が出た翌年の大正七年度の「書類綴込帳」には、依然として「細工書村」と書かれています。

*「書類綴込帳(大正七年度)」:細工所町内会蔵

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志方町を歩く(187):細工所⑳・火雷神社の灯籠

2011-12-23 09:29:53 |  ・加古川市東志方

    火雷神社灯籠の一件

F1913944 細工所公会堂のすぐ北に、火雷神社(かもどじんじゃ)があります。

この神社については、「細工所(167)」でも取り上げていますので、あわせてご覧ください。

きょうは、火雷神社の灯籠の話です。

灯籠には、次の文字が刻まれています。

表:献燈

裏:當村中

側面一方:大典記念

  一方:大正六年十月建之

何の変哲もない灯籠です。

普通、神社にある灯籠の中には時々石工の銘があるものの、それ以上の事は分かりません。

大正六年度細工所(村)の「書類綴込帳(細工所町内会所蔵)」に、この火雷神社の灯籠についての記載ありますので紹介します。

九月十七日と十八日に細工所村の水利委員会が行われ、この灯籠の件が話し合われました。

その内容の主な点は、①灯籠の費用は寄付とする、②石工(制作者)は、岡村の小林与之助とする、③費用は二基で五十一円とする等です。

十月六日の水利委員会では、寄付の状況と上記の「灯籠に記載する文字」が報告されています。

002 寄付については、三柳繁彦氏が十二円と飛びぬけて多額の寄付をされていることが報告されています。

     灯籠の完成予定図

比較的新しい灯籠とは言いながら、費用・制作者(石工)・寄付状況、それになによりも完成図(写真上)まで分かっている灯籠(戦後を除く)を知ったのは初めての例です。

なお、この話し合いが行われたのは水利委員会です。

昔は、水利委員長は村長(現在の町内会長)を兼ねている例がほとんど、水利委員会は村の決議機関でした。

水の問題は、村の最重要事項だったのです。

*写真上:灯籠の完成図(設計図)

   下:火雷神社に設置されている灯籠

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志方町探訪(186):細工所⑲、細工所大庄屋・玉田家

2011-12-22 09:02:50 |  ・加古川市東志方

    正之、玉田姓を名のる

014細工所の外八ヶ村が姫路藩を離れて幕府の直轄になったのは元和三年(1617)ことでした。

以後、これら九ヶ村は天領でない時代もありましたが、幕府領・小田原領・一橋領として明治時代に至っています。

細工所は、これら9ヶ村の政治・経済の中心であり、その間玉田家が大庄屋を務めました。

前号で、玉田正行(修斉)について紹介しましたが、細工所大庄屋玉田家について『志方町誌』の記述をお借りし、説明を続けます。

(*文体を変え、一部加筆しています)

・・・・

玉田家は赤松の出で、正之はその妻・阿江氏(正之の妻・賀美は加古郡阿江阿江城主阿江三郎太夫の娘)の縁により一時飾磨郡玉田村に移り、その後永禄年間15581569に細工所へ来たために姓を玉田に改めました。

 ・・・略・・・・

    細工所組大庄屋・玉田家

013正之の長男・正次は元和元年に父の業を継いで大庄屋となりましたが、病のため弟の直義に譲りました。

そして、直義からその長男正信(修斉)に大庄屋を譲られています。

この正行が前号で紹介したように野尻新村の開発に当たり、細工所の経営は後に弟の成紹に譲っています。

一方、正信の三男・定好は、細工所で別に玉田家を起こし、その後玉田家は、代々重太郎を称し明治維新まで大庄屋を務めました。

明治時代になり、明治23年の新町村制発布と共に玉田家の範威は東志方村の初代の村長として明治31920日、44才で没するまで在職しました。

玉田家は、東志方の村々、とりわけ細工所村を語る時、抜かすことはできません。

現在、大庄屋を務めた正之・正行・定義、そして明治時代初代東志方村の村長を務めた範威へと続いた玉田家は細工所では続いていません。

*写真上:玉田正之の墓標

   下:玉田定好の墓標

    なお、正信(修斉)の墓標は野尻にあります。

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志方町を歩く(185):細工所⑱・玉田正信(修斎)

2011-12-21 00:00:24 |  ・加古川市東志方

野尻新村は、玉田正信(修斉・しゅうさい)が、正保二年(1645)に姫路は藩主・松平忠弘の命を受け開墾に取りかかりました。

玉田正信(修斉)・野尻開拓にささげた生涯

010玉田正信(修斉)について『志方町誌』の記述をお借りします。(文体を変え、一部加筆しています)

 ・・・

(野尻新村)の基礎を築いた人は玉田正信で、18年の歳月を費やしてつくり上げました。

正信は、幼名を太郎作といい通称重太夫と号しました。

元和六年(1620)三月五日、直義の長男として細工所に生まれました。

玉田家は、もともと赤松氏の一族で、正信の祖父・正之が永禄年間(155869)に飾西郡置塩庄玉田村から細工所に来て、医を業として、かたわら農業を営み、すでにその頃から大庄屋を務めていた名門でしでした。

・・・略・・・

彼が父に代って大庄屋の庄屋の職についたのは寛永の末ですから、その時には祖父はもう他界していました。

祖父が没したのは寛永六年(1629)で、正信の10才の時に当たります。

おそらく、父は体が弱く、また正信がその職に耐えるだけの器量があったからでしょう。

223才の時、大庄屋を継いでいます。

正保二年(1645)、正信26才の時、姫路藩主松平忠弘から野尻の開拓の命がくだりました。

 ・・・略・・・

正保の頃、細工所は姫路藩の時代でした。(以上『志方町誌』より)

    正信(修斉)野尻に眠る

開墾当時は、野尻新村は10町歩ばかりの村であったといわれています。

 正信(修斉)は元禄5年、野尻新村に小さな家を建て隠居しました。

そして、同12年、79才の生涯を野尻新田で閉じました。

まさに、野尻の開拓にささげた生涯でした。

彼は野尻に儒者・黙翁らとともに眠っています。

なお、玉田正信(修斉)については、「志方町を歩く(132)」でも紹介していますのでご覧ください。

*玉田正信(修斉)の位牌(細工所・安楽寺で祀られています)

なお、位牌の左の名前「栗」は、志方町竹中弥左衛門の娘で正信の妻です。彼に先立つ1年前(元禄11)に没しています。

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志方町を歩く(184):細工所⑰・桜

2011-12-20 08:13:58 |  ・加古川市東志方

Po20110416_0000_270年ほど前、城山に八十八ヶ所の霊場がつくられ、そこに十年ぐらいの桜の木を植えました。

安楽寺の桜は、世話人の方が「城山に関係の深い安楽寺にも」と、植えられた桜です。

ですから、現在の樹齢は80年余りと思われます。

その後、すくすくと育っていたのでしたが、高い枝が強風にあおられ、曲がり、ひび割れ、そして雨水が浸水し、一部が腐って枯れてしまいまいました。

低く横に伸びた枝は支柱に支えられています。

    安楽寺の桜

先日、安楽寺の近くのSさんが写真を送ってくださいました。

あまりにも見事な桜の写真です。

みなさんにも紹介します。

季節外れですが、「シリーズ・細工所」に取り上げました。

今年も残りすくなくなり、ますます寒さが厳しくなりますが、安楽寺の桜の写真を眺めながら春を思い、しばし忙しさと寒さを忘れることにしましょう。

安楽寺の境内の桜は、4月初めごろが見ごろで、10日ごろには散り始め、15日ごろにはすっかり花が散るそうです。

    陶淵明と玉田黙翁

桜の下で酒を誰かと飲んでみたいものです。

その時、柄にもなく次の陶淵明「漢詩」を思い浮かべます。

両人対酌(たいしゃく)すれば 山花(さんか)開く

一杯 一杯 復(また)一杯

我酔うて眠(ねむ)らんと欲す 卿且く(きみしばらく)去(さ)れ

明朝 意有らば 琴を抱いて来たれ

 細工所から出て、野尻新村を開拓した玉田修斉の孫の儒者・玉田黙翁(もくおう)を思い浮かべます。

黙翁は陶淵明(とうえんめい)の生活にあこがれを持ち学問にはげみました。

生活は、まさに陶淵明と重ね合わせることができる人生でした。

*写真:安楽寺の桜(S氏撮影)

 『志方郷(7号)』参照

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志方町を歩く(183):細工所⑯・厳しい生活でした

2011-12-19 08:19:01 |  ・加古川市東志方

189639fe村に調査で古文書が残されておれば、村の歴史は比較的容易に再現することができます。

が、志方町に関しては古文書類が残されている村は非常に少ないようです。

『志方町誌』も「・・・わずかに岡・東飯坂・行常・東中・山中・助永・西山を数えるだけである・・・」と記しています。

細工所も古文書類は今のところほとんど所在が分かりません。

そのため、「シリーズ・細工所」も、十分な細工所の紹介ができないまま、終わりそうです。

『加古川市史(第二巻)』に、「一橋藩徳川氏領明細帳」として、細工所の明細帳が紹介されていますから、取り上げておきます。

*(注)東志方の9ヶ村(大沢・行常・細工所・野尻新・岡・柏尾・吉弘・高畑・大宗の各村)は、相模小田原藩の領土でしたが、延享4年(1747)から一ツ橋領に組み込まれ幕末まで天領として続きました。

従って、「一橋藩徳川氏領明細帳」は、延享4年以降の数字です。

  細工所の明細帳から

   戸数116軒、村高約520石の村

村高 520石289合  41104.5歩 

   除地 3ヵ所42.3

戸数 116軒

人口 532人

牛  25疋

鉄砲 1挺

小物成(雑税)  金納

酒造株 1 酒造米高300石 冥加銀(その税金)が40匁5分

百姓持林 3ヵ所 752畝

余業 男 薪取り・草刈・縄俵こしらえ 

   女 木綿織

津出し  芝村まで2里・・加古川川下げ3里半・・高砂・・船出し

 上記の太字の数字を少し検討しておきます。

細工所は、村高(米の収穫)が520石289合の村です。

戸数が116軒ですから一軒当たり約4石845合となります。

ここから年貢が引かれたのですから、絶望的な生活ということになります。

牛の数は25疋ですから、4.64軒に一疋です。少ない。

これらの数字だけが生活の糧ではないのでしょうが、とにかく苦しい農民の姿が浮かんできます。

そのため、農業の合間には男は薪取り・草刈・縄俵こしらえに励み、女は木綿織に精を出したことが明細帳から知ることができます。

津出し(港からの荷物の積み出し)に関しては、「志方町(181)・細工所⑭」をご覧ください。

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志方町を歩く(182):細工所⑮・細工所野尻口の道標

2011-12-18 09:55:48 |  ・加古川市東志方

022昔、旅人は道標をたよりに旅を続けました。

現在、道標はその役目をすっかり終え、そこがかつての交通の要所であったことを語っているだけのようです。

     ここは交通の要所!

細工所の道標は、あまり大きな道標ではありません。

細工所から野尻へ行く十字路のすぐ東にあります。

四面とも地名があり、施主もあり、建立年代は嘉永五年(1852)壬子(みずのえね)五月とあります。

江戸時代も終わりの頃に建てられています。

  背面  すぐ 高砂 加古川

  右面  東 ありま道

  利右ヱ門

正面  北条た志ま  施主  利吉

           つま

 左面  ひめじ□みね  (*□不明)

いまでは近くに住む人だけがこの道標を知っておられるだけでしょう。

    昔の風景を想像してみましょう

嘉永五年の、このあたりの風景を想像してみたくなりました。

いま机上に、明治26年測量(明治38年修正)の地図があります。

嘉永五年から50年ばかりが過ぎた頃の地図です。

細工所の町並みは道路標識のあたりにまで伸びていません。

細工所をとおる高砂・北条線は明治18年に造らましたから、この道路も消してみます。

そうすると、道は北条から高砂に通じる細い(旧)北条街道で、あたり一面は水田でした。

近くに西川に架かる細工所橋がありますが、ここは橋ではなく、飛び石であったといいますから、荷車の往来もなく人以外では牛馬が、わずかに川をバシャバシャと渡る程度であったのでしょう。

西川は勿論素掘りでした。魚がいっぱいおり、夏にはホタルが湧くように飛び交ったといいます。

子どもたちの歓声があったことでしょう。

*写真:細工所野尻口の道標

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志方町を歩く(181):細工所⑭・伊能忠敬測量隊がゆく(2)

2011-12-17 07:35:04 |  ・加古川市東志方

加 西 道

前号の伊能測量隊一行の測量コース(前号の地図)を再度復習しておきます。

<加古川市史(第二巻)より>

「・・・法華山一乗寺のある坂本村の庄屋宅・百姓家に宿泊し、三口から高砂道を南下して、大沢・細工所・同村安楽寺門前を通り、岡村字田中・下条・中才を通り、吉広・柏尾(以上志方町)・一本松新・小畑・西山・山角(以上加古川市平荘町)・小野・薬栗・見土呂を通り、滝野川(加古川のこと)を渡って国包(以上加古川市上荘町)にいたる。

・・・・」

測量隊のたどった細工所から平荘の養老()の河岸(かし・川の港)までの道は、昔は加西道とよばれていました。

この道は、また東志方の一ツ橋領(大沢・細工所・野尻・岡・吉広・柏尾・高畑・大宗・行常)の各村から年貢を納めるための道でもあったのです。

二つの経済・生活圏

1_042いまの、志方町は志方町・西志方・東志方は一つの政治・経済圏をつくり、まとまりのある地域となっていますが、江戸時代は、今の西志方・志方が一つの政治・経済圏であり、東志方は、細工所を中心にした、他の一つの政治・経済圏をつくっていたと考えてよいようです。

江戸時代は原則として、物資は水を動き、人は陸を動きました。

東志方の生活物資は加西道を通り、加古川の養老()の河岸に集まりました。

伊能測量隊が通った道で運ばれた東志方の物資は養老()の河岸に運ばれたのです。

そして、高砂へ運ばれた物資は大坂・江戸など全国へと運ばれました。

もちろん、全国から高砂に集まった生活物資の一部は養老()に集まり、東志方へと運ばれました。

ということは、東志方の人々の経済圏は、今の志方・西志方ということではなく、目は岡・広尾、そして加古川の河岸に延びる地域に注がれていたようです。

ましてや、東志方の多くの村々は西志方・志方町が姫路藩に属していたのに対し、江戸時代の後半は一ツ橋藩の天領でした。

その上に、大藤山から延びた山塊が志方八幡神社のある宮山へと繋がり、途中志方大池で谷をつくるものの再び高畑へと続き、東志方と西志方・志方との間に山塊が塀のように立ちはだかっています。

 「志方はひとつ」といいたいのですが、もともと志方は二つの経済圏・生活圏から成たっていた地域と考えてよいようです。

*写真:写真中央の山塊の向こうが志方・西志方、手前が東志方(城山から撮影)

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志方町を歩く(180):細工所⑬・伊能忠敬測量隊がゆく(1)

2011-12-16 08:20:47 |  ・加古川市東志方

文化八年1811)、伊能忠敬の測量隊(別働隊)が細工所を測量しています。

もちろん、正確な日本地図の作成のためです。

まず、伊能忠敬の測量図で加西の坂本をお探しください。

測量隊は法華山のある坂本から二手に分かれ一隊は社から立杭方面の測量をしています。

そして、別働隊が三口から南下して、志方細工所方面の調査をしています。

この日は、晴天であったようです。

その様子を『加古川市史(二巻)』に見てみます。

  

   伊能忠敬測量隊(別働隊)、細工所を測量

D8a9f6fc「・・・伊能の測量は、主な街道の距離の測量をするかのように見えるが、正確な地図を作成するには実はそれよりも大切なのは、主な山・島で方位を測量すること、夜間に宿泊で行う天測によってその地点の緯度を算定することにあった。

・・・・・

(測量隊一行は)文化八年(1811)には法華山一乗寺のある坂本村の庄屋宅・百姓家に宿泊し、別働隊は三口から高砂道を南下して、大沢・細工所・同村安楽寺門前を通り、岡村字田中・下条・中才を通り、吉広・柏尾(以上志方町)・一本松新・小畑・西山・山角(以上加古川市平荘町)・小野・薬栗・見土呂を通り、滝野川(加古川のこと)を渡って国包(以上加古川市上荘町)にいたる。・・・」

水が温む35(旧暦)、伊能忠敬の測量隊一行は安楽寺門前を測量しています。

日程から推測して、昼ごろだったと思われます。

測量隊のたどった細工所から平荘の養老の河岸(かし・川の港)までの道は、昔は加西道とよばれていました。

養老の河岸を起点としたこの道は、細工所で北条街道とつながる4.1㎞の道でした。

加西郡と印南郡の一ツ橋領(大沢・細工所・野尻・岡・吉広・柏尾・高畑・大宗・行常)の各村から年貢を納めるための道でした。

また、この道は多くのものが加古川の河岸と志方の間を動いた大切な道でした。

広尾村:明治92月に吉村と柏村が合併して、お互いの一字をとり広尾村として誕生)

*図:伊能忠敬の地図(播磨部分)・・・赤い線が伊能測量隊の測量した行程

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志方町を歩く(179)・細工所⑫・志方東公園

2011-12-15 08:37:46 |  ・加古川市東志方

志方東公園(細工所字野尻谷)

026志方東公園は細工所から野尻に抜ける城山と七つ池に挟まれた所にある公園です。

いぜんに来たのは夏の終わりの頃でした。

吹く風の気持ちよかったのを覚えています。

その時は、子どもたちがアスレチックを楽しんでいました。

志方東公園には野球場もあります。

テニス場もあります。

野球場には照明灯も備えられています。

そして、バードウォッチングもできる公園です。

メジロ・ホオジロ・ウグイスなどがエサを啄むのを観察できます。

   

   志方東公園・昭和59年5月に開園

志方東公園は、昭和54年加古川市と合併の頃に計画され、昭和5951日に開園されました。

最近は「まち懇」の人たちの努力で桜が植樹され、春には桜の名所ともなっています。

また、このあたりは市内で唯一の「ギフ蝶」の生息地となっており、「ギフ蝶」との出会いがあるかもしれません。

先日(11月の終わりの頃)、志方東公園を紹介するために、孫と写真を撮りに出かけました。

日曜日の夕方でした。小春日和の一日でしたが、さすがに少し寒さを感じます。

子どもの声はありません。

でも、志方東公園は晩秋の燃えるような輝きの中でした。

遊具を独り占めにした孫(3才)は、大きな声ではしゃぎまわっていまます。

いきおいが少し過ぎたようです。

膝をすり少し赤くなりました。

でも、おお喜びで輪くぐりにチャレンジをしました。

桜の頃に訪ねてみませんか。弁当を持って。

*『志方郷(23)』参照

 写真、晩秋の志方東公園(夕方撮影)

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志方町を歩く(178):細工所⑪・モチの木がよくにあう

2011-12-14 08:19:50 |  ・加古川市東志方

今日の話題は、歴史でもありません。随筆でもありません。

駄文で、細工所を歩きながら見つけた「モチの木」の話です。

「志方町を歩く」に含めておきますが、読み飛ばしてください。

   モチの木

018いま「志方町を歩く」を書いていますが、志方町の前は「稲美町」を紹介していました。

その時、はじめて稲美町の町の木が「モチの木」(花はコスモス)であることを知りました。

次の「モチの木」説明は、『稲美町誌』からお借りしています。

・・・・常緑の高木で雌雄異株、雌株には深紅のかわいい実がすずなりに生え、大変美しいので植木として親しまれている。

多肉のなめらかな樹皮をもつ、たくましい木で、樹皮から「とりもち」をつくったのでこの名がある。

 同属のくろがねもちは、町内(稲美町)の山林に多数自生するので町木として愛育していくのにふさわしい。

 ・・・

以来、ブログの取材の途中で見つける「モチの木」は、私にとって親しみを感じる木となりました。

   細工所には、モチの木がよく似合う

最近、細工所をよく徘徊します。

特に旧北条街道沿いの大きな民家でよくモチの木をみかけます。

「もちの木」の密度からいえば稲美町より多いようです。

「モチの木のある家は、金モチになる」という縁起いい伝承があります。

そんな目で見ていると、なるほど大きな家にモチの木は多いように思えてきます。

いまの時期、モチの木はきれいに剪定され、塀の上から頭を出している姿はどこかユーモラスです。

「モチの木」は細工所によく似合う!

*写真:モチの木(細工所で撮影)

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