ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

野口を歩く(53):めずらしい青面金剛像(庚申信仰)

2012-11-21 07:12:17 |  ・加古川市野口町

庚申信仰(こうしんしんこう)

 004_2以前、稲美町で庚申信仰について調べたことがあります。

稲美町では、どの地区にも、かつて庚申信仰が盛んでした。

庚申信仰があったことをしめす青面金剛(しょうめんこんごう)と刻んだ石塔がたくさん残されています。

土地のお年寄りは、青面金剛を「コウシンさん・・・・」と呼んでおられます。

加古川でも庚申信仰の跡を見つけることができます。

しかし、江戸時代、ずいぶん盛んであった庚申信仰(こうしんしんこう)も現在では、すっかりその姿を消しました。

庚申信仰は、平安時代に中国から日本に伝わり、一般民衆の信仰になったのは、室町時代のことで、特に、江戸時代に盛んに行われた信仰です。

「コウシンさん」は、庚申の夜(六十日に一回)、人体に住むというサンシチュウという虫が、人の寝ている間に天に昇り、天上の神にその人の罪を告げに行くといい、そのため、庚申の夜は寝ずに、当番の家に集まり、庚申像を拝んだり、村の庚申さんにお参りに行くという行事です。

  Photo いつしか、この行事は人々が集まって、一晩中酒を酌み交わし、演芸を楽しむ行事のようになりました。

庚申信仰が盛んであったことを示す青面金剛の石塔が残っていますが、「青面金剛」の文字を刻んだ石塔がほとんどで、正面金剛の像を刻んだ石像はこの地方では、ほとんど見ることはできません。

加古川市・高砂市・明石市の範囲に限ってみても、青面金剛像(写真)を刻んだ石像は、野口町北野の稲荷神社にみられる一基だけです。

その北野の稲荷神社ですが、分かりにくい場所にあります。北野地区を北へ抜けるとバイパスの穴門(バイパスを横切るトンネル)につきあたります。そこから道は北へ比較的広い道路・北野線が伸びています。

その穴門をくぐって、バイパスに沿って東へ20㍍ぐらいのところに稲荷神社があります。車では見落としてしまいそうな小さな稲荷社です。歩いてお出かけください。

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野口を歩く(52):小作争議

2012-11-20 07:40:02 |  ・加古川市野口町

野口の小作争議

Photo1924年(大正13)の調査があります。加古郡の小作率は64.5%で、印南郡のそれは63.9%でした。

ものすごい小作率です。

大正1342日、加古川公会堂(現:加古川小学校近くの市立図書館)で日本農民組合東播連合会の創立大会が行われました。

「・・・生存の権利を持って対抗し、団結と組織をもって土地と自由を得るまで努力する・・・」とたからかに宣言しました。

団結した農民のエネルギーは、地主に小作料の減免を要求しました。

大正13年、野口の鵤(加古川市野口町長砂)では、大規模な小作争議が展開されました。

小作料の引き下げを求めました。これに対して地主は、成育中の稲を差し押さえ、小作人に、稲を刈り取らせないように対抗しました。

小作人は、「稲の刈り取りと運搬をさせて欲しい」と要求したのですが断られました。

ある朝、地主側が雇った人夫が稲の刈り取りをしているのを見つけ、こぜりあいとなり、突然、多数の警官があらわれ、多くの逮捕者を出しました。

逮捕された人々は、裁判にかけられました。

村人の要求は、ほとんど聞き入れられませんでした。

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野口を歩く(51):聖陵山古墳

2012-11-19 07:41:05 |  ・加古川市野口町

聖陵山古墳

 Photo 写真は、野口町長砂(加古川市野口町)の円長寺(昭和40年代の撮影か)です。

 この写真の右隅に少し高まった丘が半分写っているが、これが聖陵山古墳(せいりょうざんこふん)です。

 もともと、前方後円墳であったのですが、明治7年に前方部を平らにし、寺をここに移したため、現在の墳丘は円墳のようにみえます。

 また、寺伝は、天文12年(1544)に、この古墳から鏃(やじり)12本が出土した(今は7本が残っている)ことを伝えています。

 この鏃などから判断して、この古墳は4世紀後半の古墳と考えられています。

 また地形から、海とのかかわりを持つ豪族の墓と考えられています。ともかく、考古学では注目されている古墳です。

この古墳は、少なくとも2回の破壊を経験していますが、受難はさらにつづきました。

第二次世界大戦の末期、この古墳に横穴が掘られた。加古川飛行場の通信部隊が通信業務をおこなっていたといいます。

 なお、「加古川飛行場の飛行機が、この壕にかくされていた」という説があるのですが、これは間違いです。

いくらなんでも、この古墳の内部に飛行機は入りません。

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野口を歩く(50):寸倍石(ズンバイシ)

2012-11-17 10:01:37 |  ・加古川市野口町

寸倍石

Photo北野新田(加古川市野口町)の公民館の庭に、「寸倍石」(写真)と呼ばれている不思議な石があります。

「ズンバイシ」と読よみます。この石には、こんな話があります。

「・・・弁慶が高御座(たまみくら)で弁当を食べていたら、飯の中に小石が混じっていた。

ポイと投げたら鳥が岡の林の中に落ちた・・・」と云うものです。

そのうちの一個が北野新田の公民館に置かれ、もう一個は、村人が水足の墓地に運こび、ズンバイシの台の部分を石碑の土台に利用したといいます。

この石は、北条郷(神野村)との境界を示す境界石(膀示石-ぼうじいし)であろうと言われています。

石見完治氏も、「これをスエイシと呼び、境界点に据えられた石であろう」と考証されています。

播磨鑑(宝暦12年-1762)に、次の説明があります。

俗に「ずんばいし」と云う。これ北条の郷の堺也。形鞠の如し・・・

*写真は北野新田公民館の寸倍石

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野口を歩く(49):新井用水

2012-11-16 08:24:10 |  ・加古川市野口町

新井用水

025加古川大堰のところから野口を流れ、古宮(播磨町)の大池に達する用水(新井用水)の話です。

承応3年(1645)の旱魃はひどく、太陽が大地を容赦なく照りつけました。秋の収穫は何もありません。

溜池に頼る24ヵ村の百姓は、種籾はもちろん木の実、草の根、竹の実を食べつくし餓死する者も少なくありませんでした。

寺田池の水も完全に干上がってしまいました。

それに比べて、加古川の水を利用している五か井郷(現在の加古川町・尾上町)は、ほとんど被害がなく、水田は夏の太陽をいっぱいに受け、むしろよく実っていました。

野口・平岡・播磨の村々の百姓は、食べるものがありませんでした。

五か井郷から食料と種籾を分けてもらって、やっと生活をつなぐありさまでした。

古宮村(播磨町)の大庄屋の今里伝兵衛は、加古川から用水を引きたいと考えました。

しかし、水は、川より高い土地には流れてくれません。

そのため、上流の城山(じょやま・神野町)のすぐ北の加古川(加古川大堰の左岸)から水を取る事を計画たてました。

しかし、問題は、「取水する場所は、五か井用水の取水口の近くになります。当然、五か井郷の村々は了解しないであろう。そして、他の村々の協力が得られるだろうか?」ということでした。

藩主・榊原忠次の協力を得ることができました。藩主の命令は絶対です。

難問は、ひとつ解決しました。新井用水の工事は明暦元年(1665)正月に始まり、翌年の3月に完成しました。

伝兵衛は新井の開通式に白装束で臨んだといいます。

*写真:新井用水(野口町水足あたり)

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野口を歩く(48):弾丸列車計画

2012-11-15 08:02:33 |  ・加古川市野口町

25481041戦前、壮大な計画がありました。

東京から大阪・神戸を経て、そして朝鮮海峡を越え、朝鮮半島に鉄道をつなげようとする、とてつもない計画でした。

まさに、軍備増強・植民地経営のための鉄道計画でした。

昭和13年、この弾丸列車の計画は国会で承認されました。

そして、用地の買収が始められ、昭和16年に一部建設工事がはじまりました。

しかし、戦局の悪化のため、この弾丸列車計画は、つかの間の夢と消えたのです。

用地買収も、東京~大阪間は96キロ、大阪以西は64キロにとどまっていました。

加古川地域は、用地の買収が比較的進んでいた地域でした。

東京~大阪間の用地は、昭和34年に着工した東海道新幹線の用地として、そのまま使用されました。

兵庫以西の土地はいったん売却されましたが、昭和35年、加古川バイパスの用地として再び買収され、10年後の昭和45年から国道2号線との暫定使用がはじまりました。

加古川バイパスが、このように短期間に、しかもまっすぐな道路になったのにはこんな裏話があったのです。

*写真:加古川バイパス予定地(加古川左岸・東岸)

*『加古のながれ(市史余話)』(加古川市史編纂室)参照

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野口を歩く(47):平木橋

2012-11-14 00:05:25 |  ・加古川市野口町

平木橋(ひらきばし)

017淡河川(おうごがわ)・山田川から分水された水は、各地を潤しながら、やがて練部屋(ねりべや・神戸市西区神出町)に集められ、さらに分水され、特に印南野台地(いなみのだいち)潤しました。

練部屋から分かれた一つの支流は稲美町の池に流れ、凱旋池(現在、埋め立てられ県立東播磨高校になっています)・万歳池(稲美町)・鳥が丘池に流れ、そして最後に平木池に到達しました。

しかし、平木池は山田疎水の末端に位置していたため十分な水が得られませんでした。

昭和24年頃には放置されたままになり、昭和40年頃に埋め立てられました。

平木池に水を運んだ平木橋も、やがて人々から忘れ去られて、雑木林の中にひっそりとたたずんでいました。

突然のことでした。

この平木橋のある場所に、東播磨南北道路が計画され、にわかに平木橋が注目を集めるようになりました。

平木橋には「HIRAKI AQUEDUCT BUILD SEP. 1915」、裏には『平木橋大正四年九月架之」、とありレンガの赤と御影石のコントラストが美しい橋です。

土木工学的にも貴重であることが分かり、平木橋は専門誌にも紹介され、訪問する人も増えました。

保存運動がたかまり、兵庫県と加古川市は、橋の移設保存工事に着手し、水足の公民館横の前ノ池(まえのいけ)に移転され保存されることになり、平成223月、工事は無事完了しました。
 *写真:現在(移転後)平木橋

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野口を歩く(46):空 襲

2012-11-13 08:32:46 |  ・加古川市野口町

空襲

011戦争も終わりの頃です。神戸・明石は大規模な空襲を受けました。

そして、73日(昭和20)、姫路が空襲を受け、加古川町も空襲が近いとの流説が飛び交い、疎開が続出しました。

ついに、723日にグラマン戦闘機が加古川駅を機銃掃射しました。

続いて、翌24日アメリカ機三機が、古門口(加古川町)に爆弾を投下し、加古川駅に停車中の急行列車を銃撃し、死者1名、負傷者3名の犠牲者がでました。しかし、実際の被害はさらに大きかったようです。

写真は、水足の集落の中心部にある歌碑です。注意してご覧ください。上部が欠けています。

この欠けた部分は、昭和20730日、連合軍の戦闘機が加古川地域を機銃掃射した時、弾丸が当たり欠けたものです。

この日の加古川小学校の沿革誌には、「加古川町に第二回目の米機の来襲あり被害軽微」と記していますが、日毛加古川工場および寺家町三丁目に50キロ爆弾十数個が落下し、死者2名・負傷者数名がでたといいます。

ともかく、加古川は神戸・明石・姫路等に比べ、幸いにも大規模な空襲を免れることができました。

加古川の空襲の詳細については『加古川市史(第三巻)』を参照ください。

*写真:(加古川市野口町水足)の米谷十三郎の歌碑。

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野口を歩く(45):幻の鉄道

2012-11-12 00:08:51 |  ・加古川市野口町

幻の鉄道

D4812abe_2地図が見にくくて申し訳ありません。

加古川駅から東に鉄道がまっすぐにのび、水足あたりで北へ向きを変えて鉄道が走っています。

確認ください。

この地図は、昭和25年のものです。

この鉄道について、水足の方に聞いてみました。

「そうそう、懐かしいですね。汽車がありましたわ・・・」と、この鉄道のことを思い出してくださいましたが、それ以上のことは、分かりません。

ずいぶん以前の話です。

小林精男(故人・加古川線を播州鉄道といっていた時代、運輸部総務課長をされていた)に聞いた記録があります。

「・・・日岡山にある刑務所は、戦前、神野倉庫と呼んでおり、今の加古川駅からこの鉄道で火薬を運んでいたんです。

もともと、神野倉庫のあたりは山でしたので、その土を尾上飛行場に使ったんです・・・なにせ、あの広い場所が火薬庫でしたから、外に機密がもれると大変だったのでしょう、憲兵や秘密の警察による警戒が厳しくてね・・・」

(小林さんに聞き取りをしたのは1994年)

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野口を歩く(44):高射砲隊が炎上

2012-11-10 07:57:47 |  ・加古川市野口町

高射砲隊が炎上

7abc4687写真は、播磨化成(野口町水足)の西を流れる新井用水にかかる橋です。

また、水足の土坂(どさか)にかかる橋には「連隊橋」とあります。

今は、播磨化成、陵南中学校のある場所に、戦前は陸軍の高射砲隊が置かれており、これらの橋の名前は、その高射砲隊から名づけられました。

きょうは、高射砲隊の火事について、『水足史誌』から引用します。

「・・・(昭和17427日)当日は、部隊への応召による入営式があり、その者らを集めて担当将校が何か訓示を与えていたところ、入隊者の一人が、「教官殿、兵舎が燃えています」と指した。・・・兵舎の猛火は猛り狂い、火の粉は、特に屋根瓦下に敷かれた黒く厚い紙ルーフィングが、赤い熱火となって2300mも離れた水足の民家に飛び散り、藁屋根に落下すると、吹きつける風にあおられて、瞬く間に屋根が燃え上がる。

当時40軒ばかりあった藁葺きの家は次々と燃え盛っていた・・・」

(高射砲隊は)軽油庫、弾薬庫、砲車庫等を残し、2階建ての連隊部棟、2階建ての兵舎2棟、その他ほとんどを全焼している。

これ程の大事件も軍の機密保持のため、翌28日の新聞には、営舎火事は一切発表されず・・・」と記録しています。

 *詳細については『水足史誌(水足町内会発行)』をご覧ください。

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野口を歩く(43):高射砲隊

2012-11-09 07:57:06 |  ・加古川市野口町

高射砲隊

Fa61d61 昭和11年のことでした。

水足(加古川市野口町)に高射砲隊の施設が、設置することに決定しました。村人にとっては寝耳に水でした。

しかし、住民の意見などが認められる時代ではありません。

相手は、なく子も黙る陸軍です。

形ばかりの話し合いがもたれました。この場では、地元から水足村に決まった説明を求めました。主な理由は、次の3点でした。

  (1)既に活動している尾上飛行場との距離が近い。

  (2)工事が行いやすく、国道に近い。

  (3)土地の買収が一つの村で好都合である。

土地の買い上げについては、軍も村の実情をくみとったのか若干高く買い上げています。

しかし、これは地主に対しての配慮であり、小作には何の保障もありませんでした。

水足経由で、加古川駅と神野倉庫(弾薬庫:今の加古川刑務所はその跡地)とを結ぶ鉄道も敷設され、村人も利用できるとのことでしたが、その事実はありませんでした。

注:高射砲隊が設置された場所に、現在、播磨化成・陵南中学校・大規模スーパーマーケットとなっています。

*『水足史誌』参照、写真は『加古川・高砂の100年』(郷土出版社)より

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野口を歩く(42):富田雅次

2012-11-08 08:44:47 |  ・加古川市野口町

 「野口を歩く」を野口全体に広げます。きょうは野口水足出身の富田雅次氏です。

富田 雅次(とみたまさじ)

加古川市野口町水足から偉大な人物が誕生しておられます。

富田雅次(とみたまさじ)です。彼の略歴を紹介して置きます。

  明治22年  野口村水足に生まれる。

  大正3年  京都帝国大学(現:京都大学)医学部卒業

 187c148e  〃 9年  ドイツ・アメリカ等に留学

  〃  12年  長崎医科大学教授

  昭和10年  ドイツ自然科学々士院会員

  〃 11年  胎生科学の研究

  〃 16年  台北帝国大学医学部長 

  〃 19年  山口県立医専校長

  〃 33年  日本学士院会員

雅次は、生命とは何かを探求しつづけました。

大学での講義中の彼の口癖は、「Morgen, Morgen, nichit Heute. (今日だけではない、また明日があるじゃないか)」で、学生をはげましました。

彼は、戦後まもない頃、当時無医村であった野口村に、村立診療所を創設し、自ら院長として2年間勤めました。

その後、診療所は発展的に解消して加古川市民病院となりました。

昭和421220日、逝去。72歳。

*写真は富田雅次氏

今「ひろかずのブログ」では加古川市野口町を取り上げています。

はじめは野口の教信寺の界隈のみを書こうと計画したのですが、ついでに野口全体を散策することにします。

そして、一週間に2~3回、かっこよく題を「官兵衛がゆく」として、『播磨灘物語の世界(加古川市を中心として、三木合戦)』の跡を歩いてみようと思います。

昨日は、三木市の平井山の秀吉の本陣跡と竹中半兵衛の墓へ行ってきました。疲れました。

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野口を歩く(41):和泉式部

2012-11-07 07:48:11 |  ・加古川市野口町

次の百人一首を読んでみましょう。声に出してお詠みください。

 和泉式部の詠んだ歌です。

あらざらむ この世のほかの思ひ出に

          いまひとたびのあふこともがな

  (訳)

生きてはいないかも知れない。死後のあの世での思い出のために、もう

   一度、あなたにおあいしたいものです

Snake_006 この時代(平安時代)に、こんなにも自分の気持をそのままに表現した歌人は他にはありません。

彼女は病床にあったのです。病気にいためられた心と肉体でありながら、この多情な歌人の歌は現代人の心にも迫るものがあります。

彼女は多情な人、軽薄な人といろいろ悪口を言われてきました。

しかし紫式都、清少納言とならんで平安時代の代表的な文学者です。

彼女は平安中期10世紀から11世紀にかけての歌人ですが、生まれた年、また没した年は分かっておりません。

彼女の代表作「和泉式部日記」が書かれたのは寛弘元年(1004)で恋愛生活の歌を中心に書きつづっています。

当時、式部は、20才前後であったと思われます。

旧山陽道筋(教倍寺の前を走っている道)に沿って坂元の北側の宝篋印塔(ほうきよういんとう)が和泉式部の墓だと伝えられています。

これは、地元としては楽しい話なのですが、彼女の墓は全国各地に多く存在しています。坂元の墓がそれだという確かな証拠はありません。

また、彼女がこの地を訪れたことがあるかもわかっていません。

夢を壊した様で申し訳ありません。

*写真:和泉式部の墓だと伝えられている宝篋印塔(野口町坂元)

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野口を歩く(40):後醍醐天皇と野口

2012-11-06 07:39:29 |  ・加古川市野口町

野口と後醍醐天皇

Godaigo正和5年(1316)、北条高時が執権につきました。

幕府の支配体制の乱れは著しものがありました。

この機を見た後醍醐天皇は、正中(せいちゅう)元年(1324)、倒幕を計画しました。この時は、事前に機密が漏れ不成功におわりました。

しかし、後醍醐天皇は、天皇には珍しく、それであきらめるような「やわ」な人物ではありません。

元弘元年(1331)に兵を挙げましたが、この時も失敗に終わってしまいました。

後醍醐天皇は、隠岐島(おきのしま)に流されることになりました。

京都を出発した一行は、712日に教信寺(加古川市野口町)の前の旧山陽道を通り、加古川の宿に入りました。

加古川での宿は、播磨の守護所(場所は現在の称名寺-加古川町)でした。

その時のようすが「増鏡(ますかがみ)」にあります。

残念なことに、後醍醐天皇一行は確かに教信寺の前の道を通り加古川の町で宿をとっているのですが、野口を通過した時の記録は残していません。

少し残念です。

<増鏡大約>

12日、後醍醐天皇が加古川の宿に着いたとき、讃岐(四国)に流される子供の宗良(むねなが)が少し遅れて加古川の東の野口に着きました。

後醍醐天皇は宗良に会いたかったのですが、警護の武士は、それを許しませんでした。その夜は、後醍醐天皇はもんもんと一夜を過ごしました。

・・・・

「増鏡」の加古川の東の野口に着いたという記述に注目してください。

この川は勿論、加古川のことです。

とすると、当時は、加古川は後醍醐天皇の宿舎であった今の加古川町と野口との間を流れていたことになります。

加古川は、いくどとなく流れを変えた暴れ川でした。

*絵:後醍醐天皇

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野口を歩く(39):高射砲道

2012-11-05 10:18:08 |  ・加古川市野口町

高射砲道

035昭和12・13年頃、水足に高射砲隊ができました。

同じ頃、尾上に加古川飛行場(尾上飛行場)が、そして今の加古川刑務所の場所に、神野弾薬庫が建設されています。

加古川駅と神野弾薬庫は、弾薬を運ぶために水足経由で鉄道が敷かれました。

そして、水足の高射砲隊と尾上の加古川飛行場は道路で結ばれました。

その道は、現在「播磨化成」の西を、まっすぐ南へ伸びる道です。

浜国道をこえて、飛行場につながっていました。

いまでも、年配の方は、この道を「高射砲道」と呼んでおられます。

現在、この道は「県道野口尾上線(386号線)」で、海岸部と中部を結ぶ重要な産業道路としての役割を果しています。

加古川は「小軍都化」していました。

「もし」戦争がもう少し長引いていたら、加古川も大規模な空襲を経験することになっていたことだろうと思われます。

なお、上記の高射砲隊・神野弾薬庫への鉄道・加古川飛行場・神野弾薬庫については、「ひろかずのブログ」で別に紹介し絵地ますので参照ください。

 *注、例えば加古川飛行場を調べる場合、「ひろかずのブログ・加古川の戦争・加古川飛行場」と検索ください。 

 *写真:県道野口尾上線(高射砲道)

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