ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

入ヶ池物語(30) おわりに

2015-02-05 08:14:35 |  ・稲美町 入ヶ池物語

     古い歴史を持つ入ヶ池・北山集落

  入ヶ池は、伝承によれば1.300年前に造られたといわれています。

  信じられないような古い歴史を持った池です。

  できた堤防が、曲がりくねり蛇の形に見えたところから、「お入さんの伝承」ができたのでしょう。

  曲がりくねった堤防は、堤防への圧力を分散させるための工夫でした。

  この技術は、渡来集団の技術かもしれません。

  とすると、1.300年の歴史は、あながち伝承とばかりとはいえないかもしれません。

   入ヶ池と共に生活した北山村

  ということは、水が「入ヶ池」に集まり、溝川をつくりその周辺は田畑として利用され、北山集落も入ヶ池と共に誕生した古い村といえます。

  長い間、北山集落は、入ヶ池の水と溝川周辺の田畑により生活を繰り返してきました。

  ただ、その溝川の周辺の水田土地はあまり広くはありません。それに、歴史が古いだけに、江戸時代までに殆どの土地が耕地化されていたと考えられます。

  そのため、北山集落が養える人口には限りがありました。

  江戸時代に、事情は一変します。

  北山集落の周辺に集落が誕生しました。水はたちまちに不足してきました。

  それに、江戸時代になり新しい産業が盛んになり、農村も徐々に消費生活に巻き込まれていきました。

  北山集落は、耕地が限られているため、支出が増えても、収入は大きく増えません。生活は苦しくなっていきます。

  なお悪いことに、入ヶ池をめぐる水事情は他村への分水などにより、ますます悪くなり、近辺の集落との水争いは絶えませんでした。

  そのためか、江戸時代の北山村の人口は減少しています。

  そんな、厳しい環境の中でも、先人はたくましく、入ヶ池とともに暮らしてきました。

  今年は、入ヶ池が誕生して1.300年目に当たります。

  日頃は、忘れがちな入ヶ池とその水について思いをはせてみましよう。

  この『入ヶ池物語(仮称)』が、発行される頃は、曇り川の桜も散っているかもしれません。さわやかな風を感じながら、お入さんのことに思いをはせて散策をしませんか・・・

  お読みいただき、ありがとうございました。(完)

  写真:北山集落の桜並木

 *お知らせ

 2か月の予定でまとめ始めた『入ヶ池物語』でしたが、予定の半分でなんとかゲラを書き終えることができました。

  そのため、土曜日までお休みして、8日(日)から、中断していました「(シリーズ」高砂を歩く」を再開させます。お付き合いください。

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入ヶ池物語(29) 入ヶ池の改修

2015-02-04 10:51:38 |  ・稲美町 入ヶ池物語

   老朽化した池

  話は一挙に戦後に飛びます。

 県下のため池の多くは、堤・取水施設等の老朽化ばかりでなく、洪水吐の欠陥もみられ、集中豪雨の際には安心できない状態となっていました。

 こうした老朽化した「ため池」の決壊を未然に防止するために、兵庫県は、昭和28年度から「老朽ため池補強事業」を制度化させ、順次改修工事を行うことになりました。この事業で対象になったのは、受益面積が40ヘクタール以上、①堤の高さ10メートル以上、または貯水量10万平方メートル以上、②総事業費が5.000万円以上、③決壊による予想被害額5.000万円以上、さらに関係住民100名以上の生命に危険が予想される池でした。

 この工事は、国60%・県20%%・地元20%の負担で行われました。

    入ヶ池の改修工事

 入ヶ池の堤防もいちじるしく侵食され、取水施設その他の諸施設も老朽化し、多量の漏水がみられました。

 洪水吐の欠陥もあり、集中豪雨の際には安心できない状態となっていました。

そのため、改修工事は、昭和52~56年に工事に実施され、屏風形の堤防もこの時なくなり現在に至っています。

 その受益面積は、80ha・受益戸数は255戸でした。

 *『入ヶ池郷土地改良区誌』参照

 *写真:改修前の旧樋管(左:中樋、右:底樋)

 

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入ヶ池物語(28) 水争いの解決法

2015-02-04 09:45:34 |  ・稲美町 入ヶ池物語

  国岡との水争い(昭和4年)②

     国岡から北山への申し入れ

 国岡は北山に次のような協定事項を出しました。

①  秋分の日に入が池の樋門を閉じ、翌年7月末日の「分水式」終了までは、樋を抜かないという慣行を厳守するため、お互いに契約書を取り交わすこと。

②  秋分の日以降、雑魚とりのため、入が池の水を捨てないこと。雑魚とりは「分水式」の後、秋分の日前までに終了すること。これについても契約書を作ること。

③  「入が池」堤防は漏水がひどいので、コンクリート工事を施すこと。この工事の半額は国岡が負担し工事を国岡にまかせること。

 「嘆願書」は、以上の協定を実現できるよう、兵庫県知事・河港課長・耕地整理課長・農務課長・加古川警察署長・天満村長に斡旋陳情しました。

 嘆願書の内容は、昭和初期にいたっても水争いの性格は江戸時代のそれらとは、ほとんど変わっていません。

     水争いの解決法

 水争いの解決方法をみておきます。

 北山との水争いを解決するため、国岡は天満村村長(井上末光)と加古川警察署長に厳重注意を願い出ています。さらに、県知事(高橋守男)にまで水利協定の斡旋を陳情しました。

 この方法は、江戸時代ならば庄屋・大庄屋さらに代官に願い出る方法となんら変わりません。

 それは「権威のある仲裁者」の力を借り、自分たちの正当性を保ちつつ、自らの用水権を確かなものにしようとする姿勢です。

 「・・・何卒(なにとぞ)明察の上、右協定を実現せしむる様、御斡旋下さらむことを伏せて懇願する次第に候(そうろう)」という「嘆願書」の文面は、江戸時代の水争いの訴状と極めて類似しているといえます。

このように、旧近世村(国岡新村)の用水管理組織の水利秩序やそれを破る水利慣行の解決方法等は明治以降、昭和にまで引き継がれ、水争いの解決法もそれにそってなされました。

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入ヶ池物語(27) 国岡との水争い(昭和4年)①

2015-02-03 13:35:18 |  ・稲美町 入ヶ池物語

 話を、水争いにもどします。

      昭和まで続いた水争い

 明治時代以降も水利権は、それぞれの村落が引き継ぎました。

 昭和初期にいたるまで、周辺の村々との間で水争いが繰り返されました。

 とくに、大正末期から昭和初期にかけては旱魃が激しく、水争いが激化し、昭和3年から5年にかけて北山と国岡との間に激しい水争いがおきました。

 昭和4年(1929)の国岡と北山との「入が池」をめぐる水争いについては当時、国岡水利組合の委員長の福田次彦氏が「後日の参考に供する為」にと書き残された「陳情書」があります。

従って、以下の記事は、国岡側からの記録(陳情書)であることを念頭にお読みください。

    国岡との水争い(昭和4年)①

 北山の「入が池」では、秋分の日以降は樋門を閉じ、翌年の7月下旬に北山・国岡の水利委員立会いのうえ、南北の両分水所の土俵を合図により同時に切り放ち、分切石より上の水を双方へ5分5分に分けることが慣行となっていました。

田植えを目前に控えた(昭和4年)6月6日の夕方、北山は自分の村へ送水するために、入が池の樋門を抜き減水をはじめました。

 これに対して、国岡は「分水に先立って無断で樋門を開放するのは慣行違反である」と北山に抗議しました。

 そこで、国岡は、天満村の村長に交渉を依頼しました。

 北山は、6月11日午後7時ごろ、いったん樋門を閉じましたが、樋が開かれてから、およそ5昼夜の間に、入が池の貯水は7寸も減少し、国岡側は大量の水を奪われる結果になりました。

 さらに10日後、6月22日の朝、北山は再び大樋を抜き、北山の溜池への送水をはじめました。

 国岡は、再び天満村の村長に交渉を頼みました。

 天満村村長は、23日午前1時ごろ、真夜中にかかわらず北山水利委員長宅を訪問しました。

 その結果、北山側は、23日の夕方なって大樋を閉じました。

 この間に、入が池の水はおよそ1尺(約30センチ)も減少してしまいました。

 国岡では、「このような慣行無視の行動を今後しないように、北山に厳重注意をしてほしい」と加古川警察署長と天満村村長に願い出たところこれを了承され、北山の総代外5、6名を警察に呼び注意をしました。

 その後、国岡側は北山に例年通り7月の下旬に行われていた分水式を申し入れましたが、この年の分水式は行われませんでした。

 その年の国岡の用水は少なくなり、また、この夏は未曾有の大干ばつのため、村全体の稲はほとんど枯れ、大災害となりました。

 

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入ヶ池物語(26) 満溜池

2015-02-03 08:33:24 |  ・稲美町 入ヶ池物語

   満溜池

 北山村の歴史は古く、町内でも、もっとも早く開発が始まったとされています。

 それでも、明治初年にいたっても山林など未開拓地が、かなり残っていたようです。

 明治初年以来、それらの開発のための大きな溜池の築造が話題にのぼってきました。

 これは、地租改正による重い税負担に迫られたことも一因であったと思われます。

 明治16年8月、北山・中村の水利委員は話し合いを持ちました。

 明治18年には、淡河疎水の起工式があり、北山村でも、明治19年7月12日、新池の築造を兵庫県に願い出ました。

 さらに、明治21年、下流の村々と相談し、再度兵庫県知事に新池の築造を願い出ました。

   満溜池築造へ

 兵庫県から溜池築造の許可が下りました。

 次の問題は、土地を確保することです。国有地の払い下げを国に申請しました。

 この払い下げを申請した国有地は、長府池の西の谷状になった土地で、溜池を造るのには絶好の土地でした。

 国の許可はなかなかおりません。明治28年から29年にかけて、一時小休止の状態になってしましました。

 が、明治30年から農商務省に陳情を繰り返し、明治32年2月18日、官有林の払い下げの許可を得ることができました。

 この官有林の払い下げに奔走したのは北山村の井上得三郎です。

 明治32年3月、やっと着工の運びとなりましたが、おり悪しく長雨が続き工事は、はかどりません。

 竣工期限と決めた5月下旬にいたっても、ようやく半ばを終える状態でした。

 それに、6月を過ぎれば麦の収穫から田植えが始まり、村の人は工事を続けることができません。

 しかたなく、6月9日を以って、いったん工事を中断し、9月10日から工事の再着工となりました。

 9月に工事は再開されたのですが、またまた秋の長雨で工事が大幅に遅れてしまい、やっと竣工したのは、明治33年3月7日でした。

 その後も越水の破損などの問題がおきています。

 なお、満溜池は、明治41年増築工事が行われ、現在の溜池となりました。

 満溜池の越水の近くに、井上得三郎等当時の水利委員の功績をたたえた記念碑が建てられています。

 *写真:満溜池改修記念碑

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入ヶ池物語(25) 北山村若宮

2015-02-02 10:54:57 |  ・稲美町 入ヶ池物語

  北山の若宮(天満宮)の拝殿には次のような説明があります。一部を掲載させていただきます。

  ◇北山村若宮の由来◇

 田の水確保を祈願して創建された。

  (略)

 御祭神

  一、菅原道真公

    学問の神様

     天地水の神様

  一、大歳の神(池大明神)

  池水農耕の神様

  一、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)

  池を守る神様

 創建は不明であるが鳥居に記録のある享保五年(1720)かあるいはそれ以前であろう。

   (以下略)

 この神社は江戸時代、水(農耕)の神として、国安八幡神社の神を勧請しています。

 江戸時代以前は近隣にはあまり集落はなく、北山村は入ケ池から下沢までの曇川の水を独占的に使ってきましたが、江戸時代になり事情は急変しました。

 北山新村でも荒地の開拓をしました。たちまち水が不足するようになりました。

 近隣の村々とも水をめぐって争いがおきました。

 北山の天満神社は、そんな水事情の中で創建されたのでしょう。

   菅原道真は農業(水)の神

 若宮の神・菅原道真は、学問の神様であるとともに、百姓にとっては農業の神様でした。

 菅原道真についての詳細な物語は、ここでは省きますが、道真は、藤原氏による冤罪のために延喜3年(903)、失意のうちに大宰府で亡くなります。59才の人生でした。

 道真の死後、京都では天変地異がしきりにおきます。

 旱天・流星・大地震、そして疫病などが続き、貴族たちは道真の怨霊が京の空に舞い戻って来たのではないかと噂し、動揺ははなはだしいものがありました。

 しかし、農民にとって雷は雨もたらし、菅原道真は農業の神として全国にひろがりました。

*写真:若宮(北山)

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入ヶ池物語(24) 北山村の綿作

2015-02-02 08:12:02 |  ・稲美町 入ヶ池物語

    北山村の綿作

 北山村のようすを人口と池郷にみました。綿作のようすもみておきます。

 以下の文章は、数字等は史料から引用ですが、北山村の風景はたぶんに想像で描いています。

    綿 作

 姫路領内では文化年間(1804~17)以来、畑地に綿の栽培が奨励されていました。

 それにともない、北山村でも木綿の栽培が盛んに行われるようになりました。

 この綿栽培は、同時に木綿織等の副業をもたらしましたから、綿は米に匹敵する大切な作物となりました。

 江戸時代の北山村の夜を想像してみます。

 村の薄暗い路地を歩いていると、どの家からもほのかな光が洩れています。

 そして、コトン・コトンというリズミカルな音が遅くまで聞こえてきます。・・・

 夜なべで、女の人が村の畑で収穫した綿で布を追っている機織りの音です。

 静かな夜です。お月さまだけが見ています。

 ・・・・・

   畑地の80%で綿作

 北山村の畑地の綿栽培は、明治4年5月の田畑の作つけ状況は『稲美町史』(p419)から知ることができます。

 これによると、北山村の綿の作つけ状況は、水田29.67haで畑は18.85haでした。

 畑の18.85haのうち木綿が14.92ha、大豆その他が3.92haです。

 この時期すでに輸入綿の影響を受け始めているにもかかわらず、実に畑作物の約80%に綿が栽培されていました。

 綿作は、肥料として干鰯(ほしか)を使います。高くつきました。儲けも多くなかったのですが、機織りなどの副業をもたらしました。

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入ヶ池物語(23) 北山村・人口の減少

2015-02-01 10:15:49 |  ・稲美町 入ヶ池物語

   北山村・人口の減少

  <北山村の家数および人口>

  元文2年(1737)   家数 124軒  人口751人

  明治14年(1881)  家数 117軒  人口497人   

 上の数字をご覧ください。

 北山村では江戸時代の戸数、人口より明治期のほうが少ないという減少化の傾向があらわれています。

 ・・・

 北山村の場合では、江戸時代中期より戸数で一割たらず、人数で三割以上もの減少がみられます。

 古くからいわばこの稲美町域、とくに天満地区の中心的な村であった北山、国安両村はともに人口が減少しています。

 一戸あたりの家族数を調べてみると、江戸時代では北山村が最も多く、6.1人で、その次に5人台として野寺・国安・岡・印南新とつづきます。

 そして一番少ないのが加古新村の3.7人で、新村ほど少ない傾向がみられます。

  北山村は家数・人口ともに大きく減少

 つまり、稲美町域の江戸時代~明治時代初年における人口は、ほとんどが増加していますが、その中にあって、北山村は国安村と共に家数・人口共に大きく減少しています。

 国安・北山村は歴史も古く、この地域の中心となってきた村です。

 古い村ですから、村内には開拓できるところは少なく、大きな増収(発展)は見込まれなかったのでしょう。

 そのため、開拓のため村を離れた百姓も多かったと想像します。

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入ヶ池物語(22) 北山村・年貢率4割5分

2015-02-01 09:57:23 |  ・稲美町 入ヶ池物語

 北山村と国岡新村はしばしば水をめぐって争いがありました。江戸時代の北山村の生活を見ておきます。

    北山村・年貢率:4割5分

 『稲美町史』は、北山村の『元文二年(1737)の明細帳』から、北山村の稲作を次のように紹介しています。

 灌漑の関係からか、概して早中稲の栽培が多かったようです。

 その頃の反収は、降雨に恵まれた年は1石2斗、ないし1石5斗の収穫が得られたようですが、ふつうは8斗から1石程度にすぎませんでした。

 姫路藩では、毎年8月(旧暦)ごろに、その年の出来高を測り、年貢率を決める検見(けみ)が行われました。

 北山村の年貢率は、「本田畑・年貢率4ッ5分、新田畑・3ッ9分」でした。

 *(年貢率4ッ5分・・・収穫の4割5分が税金という意味)

 印南野台地の村々は、毎年のように干ばつが続き、村人は窮乏していました。

 学校の社会科(歴史)の授業で、江戸時代の村の年貢率は、五公五民(収穫の半分が税金)が一般的であったと習ったと思います。

 が、稲美地区では年貢率はそれよりも低く、五公(5割)も税金を取られると生活ができない地域でした。

 それに、比較的水が少ない土地でも育つ綿作が盛ん栽培されるようになると、その肥料の干鰯(ほしか)代を差し引くと、手元にはいくらも残らなかったようです。

    北山村に救助米

 苦しい生活のために藩から、救助米がありました。

 北山村の場合、安政6年(1859)から明治4年(1871)の年貢高と救助米がありました。(詳しくは、『稲美町史』(p417)をご覧ください)

 なお、北山村は、この地方では比較的水に恵まれた地域でした。

 慢性的な水不足に悩まされていた稲美台地上の他の村々の状況が想像されます。

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入ヶ池物語(21) 入ヶ池郷

2015-01-31 13:13:02 |  ・稲美町 入ヶ池物語

 北山村と国岡新村の水争いについてみていますが、江戸時代、この二つの集落はともに入ヶ池郷(いけごう)です。

 現在の入ヶ池郷は江戸時代と少し異なっていますので、「入ヶ池郷」について、少し調べておきましょう。

      入ヶ池郷(いけごう)

 「・・・江戸時代には同じ川筋、あるいは水源を同じくする流れによって溜池をつくり、用水をとる村々を川郷(かわごう)といいます。

 一つの池を大きな用水源とする村々を池郷(いけごう)というのと同じです・・・

 太字のヵ所に注目ください。

 江戸時代、国岡村と北山村は同じ(入ヶ池の)池郷でした。

 明治時代周辺の開発が進み、新たに水を確保するために、長府池・満溜池がつくられました。

 菊徳(中村)・下沢(中村)・金守(北山)もこれらの水を使用するようになりました。

 ですから、現在、北山・国岡・菊徳・下沢・金守は同じ入ヶ池郷として、入ヶ池、長府池、満溜池、そして水路の維持管理を共同して行っています。

 長府池・満溜池については後に、もう少し説明をしましょう。

 現在、入ヶ池郷の内、緑に彩色したカ所の池および水路の管理は「入ヶ池郷土地改良区」が行っており、赤く彩色した地区は北山水利が単独で行っています。

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入ヶ池物語(20) 国岡新村との水争い(3)・話し合いで解決を

2015-01-31 08:57:17 |  ・稲美町 入ヶ池物語

   国岡新村との水争い(3)話し合いで解決を

 北山村は、享保7年(1722)の新しい基準の「にらみ石」よりも下の水は北山村のものであり、国岡新村には、すこしも与えることができないと主張しました。

 それに対し、国岡新村は新しい「にらみ石」から「入が池」の元の分切石のところまでは、1尺3寸5分もあり「にらみ石」の位置は納得できないと主張しました。

 国岡新村は、この件について、代官所に現地の検分を行うよう求めました。

 以上が宝暦十三年(1763)の国岡新村側の訴状の内容です。

 この訴訟は何度も話し合われたのですが、双方の意見が合わず、解決は困難をきわめました。

 代官所は「近年は水不足が続き、生活は困難な状況が続いているが、水利問題はよく話し合い解決するように・・・」と命じるばかりでした。

 近隣の西条組野村および大野組の大野新村・六分一村の庄屋が中に入り、問題解決に当たりました。

 そして、水利問題が発生を経て宝暦13年8月ようやく目途がつき、代官所に関係代表者が呼び出され、詰めの話し合いが行われました。

 国岡新村の百姓代・平兵衛が差し出した文書からこのようすをみることにします。

   平兵衛の出した「差上申口上書之事」より

 入が池の水争いの一件について、一昨日19日、国岡新村の者からお呼び出しがあり、解決のための文書(済口証文)を見せていただきました。

 村に持ち帰り、村中で話し合いました。

 文面によると、草谷の新流(大溝用水のこと)を分水していないように読み取れますのですが納得できません。

 国岡新村の主張を取り入れて解決するように取りはかるようお願いします。

 やっと、宝暦十四年(1764)、関係村々との話し合いが成立し調印されました。

残念ながら、その解決内容の書かれた文書が残っていないのではっきりしませんが、国岡新村の意見が認められたようです。

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入ヶ池物語(19) 国岡新村との水争い(2)・国岡新村への分水を止める

2015-01-30 12:21:34 |  ・稲美町 入ヶ池物語

  「にらみ石」が高い位置に据えられたので、享保十四年(1729)に国岡新村から申し立て、郡奉行の取調べが行われました。

 さすがに、この時は、元の分切石の通りにするよう仰せつけられ、以後、国岡新村と北山村は、この決まりを守っていました。

   国岡新村との水争い(2)・堰をして分水を中止

 ところが、宝暦十一年(1761)、5月のことでした。

 国岡新村と北山村の間で、入が池の水を分水していたところ、分ける水が残っていましたが、北山村は、堰をして分水を中止し、北山側のため池へ送水するために樋を抜いてしまいました。

 そこで、国岡新村側は、この樋を止め大庄屋へ届けましたが、あいにく大庄屋は姫路へ出張中で留守でした。

 国岡新村は、これを止めることはできませんでした。

 国岡新村は、村に水がこなくなってしまったので、堰を切るという実力行使にでました。

 北山村から大庄屋へ「国岡新村の不法」を大庄屋に訴え、訴訟に発展したのです。

 

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入ヶ池物語(18) 国岡新村との水争い(1)・にらみ石 

2015-01-30 10:02:00 |  ・稲美町 入ヶ池物語

 以下の「国岡新村との水争い」の文章は、国岡新村に残る古文書を参考にしています。そのため、少し国岡新村に加担した記述になっているかもしれません。

    国岡新村との水争い(1)・にらみ石

 新しく水についての取り決めができあがると、すべての問題が片付いたわけではありません。

 水利の取り決めができた後は、藩の強力な水利権に対する指導は減少し、基本的には、当事者間で新しい水利秩序を守り、問題を解決するのが原則とされました。

 というのは、裁判となると訴訟費用、日数がかかり、それに当事者どうしの解決の方が、双方の納得が得られ、あとあと実際に効果があったためです。

 それに何よりも、藩が複雑な水利訴訟を解決するためには、担当役人は各地の細かな水利慣行に習熟する必要があります。

 役人に、それを求めることは無理でした。

 藩が判決を出しても、訴訟の再発がおこり藩は権威を失うこともおこります。

 そのために、水争いは当事者の話し合いを優先させました。

 このことも水争いがしばしばおきた原因です。

 当事者で解決できなくなることもしばしばおこりました。そんな時は、代官所に訴えました。

      にらみ石

 宝暦十三年(1763)7月、国岡新村から代官所に出された訴状の水争いの原因は、国岡新村と北山村が「入が池」の分水の目安として据えた新しい石(にらみ石)の位地にありました。

 先に説明したように、国岡新村は、地形の関係上、この用水を直接自分の村に引くことのできなく、北山村の「入が池」を改修し、この溜池を経由して自分の村に(大溝)用水の水を取り入れることにしました。

 そして、元の池の水の容量を示すところに「分切石(ぶきりいし)」と呼ばれる石を溜池の東に据え、この石より 下の水は北山村のもの、この石より上の水は国岡新村と北山村が5分5分に水を分けることが取り決められました。

 北山村としてもできるだけ多くの水を確保する必要がありました。

 北山村は、享保七年(1722)分切石より高い所に、新たに基準になる石(にらみ石)を据えました。

 大変です。国岡新村にとって、このままでは水は少なくなってしまいます。

 

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入ヶ池物語(17)  分切石(ぶきりいし)

2015-01-29 08:18:29 |  ・稲美町 入ヶ池物語

     分切石(ぶきりいし)

 国岡新村は地形の関係上、直接自分の村に水を引くことができません。

 やむなく北山村の「入が池」を改修し、この溜池を経由して自分の村に水を引くことにしました。

 それにより、「入が池」の堤を高くする工事費は国岡新村の負担です。

 そして「入が池」の水をめぐり、二村は取り決めをしましたが、水をめぐり国岡新村と北山村の水争いは絶えませんでした。

 例えば、宝暦13年(1763)7月、国岡新村から北山村に出された訴状には、水争いの原因は、国岡新村と北山村が「入が池」の分水の目安として据えた石(分切石)の位地にあったようです。

 分切石とは、入ヶ池の元の池の水の容量を示すところに据えた目印になる石のことです。

 この石より下の水は北山村のもの、この石より上の水は国岡新村と北山村が5分5分に水を分けることが取り決められていました。

 この分切石について『稲美町史』は「・・・このたびの池の改修工事の間、昭和53年2月、南堤中樋付近より分切石(写真)および敷石1個が発掘された。

 これは享保7年(1722)6月の古文書によれば、当時の18個、敷石9個を27名の村民が下西条(現在の加古川市神野町西条)より運び来って据えたという。その中の各一個であろうと推定される・・・」と書いています。

 また、別の古文書には「・・・大石のため運ぶのが難しく石は2つに変更した・・・」と補足しています。

 入が池の分切石(ぶきりいし)は、享保7年(1722)頃のものと推定され、「享保七寅年 御願申 忌之分切」と刻まれています。

 北山村と国岡新村の水争いについては後に、詳しくみることにします。

 *写真:入ヶ池の分切石(ぶきりいし)

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入ヶ池物語(16) 国岡新村の水は、入ヶ池から

2015-01-28 08:49:45 |  ・稲美町 入ヶ池物語

   国岡新村の水

 江戸時代以前、加古新村も国岡新村も、まだ誕生していません。

 その時代、入ヶ池の水は、北山村が独占的に使うことができ、入ヶ池からの溝谷の周辺で耕地を拡大していました。

 しかし、江戸時代の初期は、戦国・織豊時代における土木技術の発達により、事態は一変しました。

 当初、新しくできた加古新村・国岡新村は、藩に願い出て風呂谷池(草谷)の水路の改修を行いました。この溝は「四百間溝(しひゃっけんみぞ)と呼ばれました。

 しかし、新田の開発が進むと、四百間溝の水だけでは灌漑用水は不足するようになり、「大溝用水」を完成させました。

   国岡新村の水は、入ヶ池の水で 

 北山村の地形は、北と東に高く、水は北からそして東から集まりました。

 が、北には加古新村が、東に国岡新村ができると、北山村に入ヶ池の水利権があるというものの十分な水とはいかなくなりました。

 特に、北山村にとって国岡新村の開発は、大きな問題となりました。

 国岡新村への水は、地形的に「入ヶ池」を越えなければ国岡新村に流れてくれません。

 国岡新田の開拓にあたり姫路藩は、「入ヶ池」の水の一部を国岡新村に分けることを許可しました。

 加古大池に流れる大溝用水の水を途中から国岡新村分として入ヶ池に取水し、その水を国岡新村に再度流すというのです。

 国岡新村は、姫路藩の命令(指導)で、北山村の所有の「入が池」から、用水の一部を得ることができるようになりました。

 北山村としても藩の命令となれば反対するわけには行きませんが、新しい水利秩序が必要です。問題は簡単に片づいたわけではありません。

 *写真:(旧)大溝用水の分水所(右:入ヶ池へ、左:加古大池へ)

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