ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(221) 官兵衛が駆ける(37)・中世の終わり

2018-06-30 07:55:36 | お爺さんが語る郷土の歴史

   「官兵衛が駆ける」終了

 加古川地方のお城は、秀吉側に味方した加古川城を除いて、全部潰されてしまいました。

 最後に加古川地方を支配下においていた三木城も秀吉軍に破られ、城主長治は自決しました。

 三木城の戦いについては、多くの著書に詳しい説明がありますので、それらを参照ください。ここでは省かせていただきます。

 おわりに、三木城の戦い(加古川地方の戦い)の意味を少しだけ考えておきます。

    中世の終わり

 播磨では天正八年(1580)正月、三木城が落城、そして九月には、秀吉による播磨検地が行なわれています。

 これら土豪たちが滅んだ天正八年という年が播磨にとって中世の終焉といっていいと思われます。

 

 「官兵衛が駆ける」をお読みいただきありがとうございました。

 天正八年(1580)加古川地方の中世はおわり、以後、近世ということになりますが、当地方の近世は、高砂を中心に展開されます。

 「お爺さんの語る郷土の歴史」は、現在の加古川市の歴史が中心になってしましました。

 今後の「お爺さんの語る郷土の歴史」は、高砂市を中心とした歴史散策をしましょう。

 今までに紹介した記述と多くの所で重なりますがお許しください。(no4504)

 *『播磨学講座2・中世(風は悪党の背に)』(姫路独協大学播磨学研究会編)参照

 *三木城主:別所長治像(兵庫県歴史博物館蔵)

 ◇きのう(6/29)の散歩(11.611歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(220) 官兵衛が駆ける(36)、高砂城の攻防

2018-06-29 06:29:31 | お爺さんが語る郷土の歴史

 野口城・神吉城・志方城と、加古川・高砂地方の三木城を支える城は、つぎつぎに落され、加古川・高砂地方で残っているのは高砂城だけにとなりました。

 『播州太平記』から高砂城の戦いを再現したいのですが、この本は物語性が多く、実態はよくわかりません。

 とにかく、高砂城は秀吉軍に敗れています。

   高砂城の攻防(『播州太平記』より)

 秀吉は、三木城を攻めようと、三木城の東にある平井山に陣を置いて、三木城を兵糧攻めにする準備にとりかかりました。

 高砂城がじゃまになります。      

  高砂城主・梶原景行は、別所氏とは親密な味方でした。

 景行は、毛利とひそかに連絡をとり、海上から加古川を登り、美の川を経て三木城へ兵糧を運びこもうとしました。       

 秀吉は、加古川の河口の今津(現在の尾上町)に軍と軍船を置き、海上を封鎖し、秀吉軍は、高砂城に攻めてきました。

 しかし、梶原景行は、落ち着いていました。

 やがて、毛利の援軍くることがわかっていたからです。

 秀吉軍は、高砂城に火をつけました。

 毛利の援軍が波をけたててやって来ました。

 天正六年(1578)十月十八日、秀吉軍の二回目の攻撃が始まりました。

 秀吉軍には油断がありました。

 秀吉の兵は、梶原軍と毛利軍に挟まれ、ほとんどが打ち取られ、残った兵は今津へ逃れたといいます。

    高砂城落ちる

 この大勝利に気をよくした毛利軍の吉川元春と小早川隆景は、「この勢いで、三木へ攻めよせ、秀吉軍をはさみうちにすればかならず勝てる」と大将で藩主の毛利輝元に進言しましたが、輝元は、そうしませんでした。

 「まず本国へ帰り・・・兵糧をととのえてから三木城へ運送する方がよかろう。兵糧さえあれば、守りの固い三木城のこと、攻めおとされることはない」と、毛利軍は、いったん帰国してしまいました。

 平井山の陣でこの知らせを聞いた秀吉は、くやしがりました。

 さっそく、室津・坂越(さこし)・網干・飾磨の港に番船をおいて、毛利軍の通路をたち切り、三たび高砂城を攻めました。

 高砂城は、毛利軍が帰国したばかりで余力はありません。

 景行は、長い籠城は望めないと判断し、一族を残らず三木城へつかわし、自分は髪をそり、龍庵と名を改め、鶴林寺にこもったといいます。

 その後の龍庵について知っている者はだれもいません。

   天正七年十月段階で秀吉側についたか?

 梶原景行は、天正七年七月段階では三木・別所に属していました。

 ある記録によれば同年10月末には秀吉側に属しています。

 高砂市観光協会は、梶原一族の墓石の説明には「・・・天正七年、(高砂城の)最後の城主景秀公は、黒田官兵衛の紹介により羽柴秀吉に帰順した・・・」としています。

ともかくとして、高砂城の最後は、秀吉側についたようです。 

    高砂城は、どこ?

 高砂城の場所ですが、小松原(高砂市荒井町小松原、神社三社大神社境内)に、梶原氏の城があったと言われています。(no4503)

 *写真:小松原の三社大神社境内にある旧・高砂城跡を示す石碑

 ◇きのう(6/28)の散歩(12.059歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(219) 官兵衛が駆ける(35)、加古川城(2)・加古川城廃絶

2018-06-28 07:58:26 | お爺さんが語る郷土の歴史

     加古川城(2)・加古川城廃絶

 加古川城主・糟谷武則のその後を書いておきましょう。 

 前回も述べたように、加古川城主の糟谷武則は、賎ケ岳の戦後も秀吉方の武将として、数々の戦役に出陣しました。

 徳川家康と戦った小牧の役(天正13年)、小田原の役(天正18年)、そして朝鮮への侵略、世に言う「文禄の役」では晋州城攻撃にも参戦しました。

 武則は、秀吉の栄達とともに出世しました。

 が、関ケ原の合戦では西軍(石田三成方)に味方し、家康の関西における本拠地である伏見城を攻撃しました。

 「賎ケ岳七本槍」で活躍した武将たちは、武則をのぞき、みな東軍(家康方)に味方しています。

 そのため、七本槍の他の武将に比して、武則の事跡は、全くといってよいほど何も伝えられていません。

 幕府が編纂した『廃絶録』には、次のように書かれています。

   一万二千石、播州かこ川、糟谷内善正宗孝(三十四)、

   慶長七年(1603)、めし出され後断絶す 

 おそらく武則の息子・宗孝の代に廃絶されたのでしょうが、詳細はわかりません。 

 「もし…」の話ですが、「武則が家康側に味方しておれば、加古川地域のその後の歴史は、大きく変わっていたであろう」と思われます。(no4502)

 ◇きのう(6/27)の散歩(11.459歩)

 *写真:称名寺(加古川市本町・ここに加古川城があった)

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お爺さんが語る郷土の歴史(218) 官兵衛が駆ける(34)、加古川城(1)城主・糟谷武則

2018-06-27 06:15:57 | お爺さんが語る郷土の歴史

   加古川城(1)、城主・糟谷武則

  糟谷武則は、加古川城主・朝貞が妻と離別した後、その妻が志村某と再婚しできた子供です。

 そして、志村某が早く亡くなり武則が6才になったとき糟谷家に托して、また再婚したため朝正(城主)は自分の養弟として育て糟谷の姓を名のらせました。

 妻との離別には何らかの事情があったのでしょう。

   もと、糟谷(加古川城主)も三木方

 少し復習です。

 天正五年(1577)当時、加古川城も加古川地域の多くの城と同じく別所方でした。

 官兵衛は、三木城の武将の後藤基国(後藤又兵衛の父)に書を送り、朝正・武則らに「武則は、加古川館(城)へ帰えるよう」説得を依頼しました。

 「不幸にして三木城が破れると、別所家はもちろん、糟谷家も断絶いたします。糟谷家を末長く守るためには、武則様はぜひ加古川城へ帰って ください・・・」と。

 以後、兄・朝正は、三木に味方し、糟谷武則は、加古川城にもどり、秀吉側として行動をともにしました。

 加古川地方の城主は、ほとんど毛利方についたのですが、加古川城だけは信長・秀吉側につきました。

 後に、糟谷武則は柴田勝頼との賤ヶ岳(しずがだけ)の戦いでは「賎ケ岳七本槍」の一人として大活躍をしました。

 しかし、関ヶ原の戦いで、西軍(石田三成方)に味方し、家康の関西における本拠地である伏見城を攻撃しまのです。

 そのため、七本槍の他の武将に比して、武則の事跡は、全くといってよいほど何も伝えられていません。(no4501)

 *地図:加古川城の場所(現在、称名寺が加古川城跡だといわれている)

 ◇きのうの散歩(10.383歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(217) 官兵衛が駆ける(33)、志方城の戦い(2)・官兵衛からの働きかけが

2018-06-26 11:29:21 | お爺さんが語る郷土の歴史

  「ひろかずのブログ」今日、4500号!

   志方城の戦い(2)・志方城の戦いはあった

 戦力だけでは判断できない要素もあります。

 「志方城(右図:木内内則作)の戦いは、確かにあった」と考えます。

 その理由として、播磨地域の情勢をみておきます。

 播磨は、浄土宗・浄土真宗の影響が強い地域です。

 信徒は「主君と自分とは現世だけの契りであるが阿弥如来との契りは未来永劫の契りである。主君よりも信仰の方が大切である」と考えます。

 もし、戦わずして信長方に敗北を認めるとなると、家臣・領民の支持を一挙に失いかねません。

 石山本願寺は、信長軍と壮烈な戦いをしています。志方地域からも多くの者が本願寺の支援に出ています。

 信長は、まさに仏敵であり悪魔でした。また、志方城から家臣たちも三木城を支援しており、三木城にも多く籠城しています。

最初から戦わず信長側につく雰囲気にはありません。

    官兵衛からの働きかけが

 一方、志方城の場合、娘(光)の夫・官兵衛から「信長方に味方をするように」との説得があったのは確実です。

 志方城の敗戦が目の前に、迫った段階で、城兵としても、敗者としてすべてを失い世に漂って生きるより、武士にとって最大の価値観である「家の存続」を選択したのかもしれません。

 『志方町誌』から志方城の戦いを見ておきます。

 まず、官兵衛とその妻の働きかけと、城内では赤痢が蔓延しています。何やら戦闘らしくありません。

 「志方城も、よく戦ったが、病魔にかてなかった」とでも言いたげです。何やら裏がありそうです。

 志方城主・櫛橋政伊は、命をゆるされました。そして、後に官兵衛はこの一族を家臣団に組み入れ、厚く遇しています。(no4500)

 *絵:志方城の図(木内内則作)

 ◇きのう(6/25)の散歩(11.545歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(216) 官兵衛が駆ける(32)、志方城の戦い(1)

2018-06-25 08:30:11 | お爺さんが語る郷土の歴史

      志方城の戦い(1)

 ついに、神吉城は落城しました。信忠(信長の長男)は、神吉城を叩き潰しました。

 引き続き、信忠は大軍を率いて城主・櫛橋政伊(くしはしまさこれ)の志方城へ攻め寄せました。

 先に述べたように、この時、官兵衛は加古川にはいません。

 したがって、官兵衛は自分の妻の実家・志方城を攻めるという苦痛から逃れることができました。

 守る志方の兵は1000人。

   志方城の戦いはあったのか?

 志方城の攻防についての詳細はよくわかりません。

 以前、あるところで「志方城の戦いはなかった」と言う説を紹介したことがあります。

 そう考えたのは、志方城に先立つ神吉城の戦いでは、織田軍に押しつぶされ、城主(神吉頼定)も討たれました。

 その時、近隣の城からも、三木の城からもほとんど援軍はありませんでした。野口城の戦いでも援軍はなありません。

 志方城の戦いでも援軍は期待できません。そうなると、最初から志方城の敗北は確実です。

 ただ、戦うとすれば「勇敢に戦ったという事実を歴史に記録する」という武士の美学だけが支えの戦いになります。

 志方城が、そんな美学だけで、一丸となって戦ったとは考えられないのです。

 志方城に「後世に名前を残す」という哲学があったなら、それなりの記録を残していそうなものである。記録はありません。(no4499)

 *挿絵:志方城主の娘(官兵衛の妻)てる姫のマスコット

 ◇きのう6/24の散歩(11.400歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(215) 官兵衛が駆ける(31)、神吉城の戦い(5)・落城

2018-06-24 07:35:48 | お爺さんが語る郷土の歴史

     神吉城落城

 激戦も大詰めを迎えました。信長側の記録である『信長公記』を読んでおきます。

    神吉城落城(『信長公記』より)

 ・・・7月15日夜、淹川一益・丹羽長秀両軍の攻め口から神吉城東の丸へ突入し、16日には中の丸へ攻め込みました。

 (信長軍は)敵将、神吉則実を討ち取り、天守に火をかけました。

 敵味方入り乱れて火花を散らし、その間に天守は焼け落ち、敵(神吉)方の将兵過半数が焼死しました。

 西の丸は荒木村重が攻めました。ここには、城主の叔父の神吉藤太夫が立て寵もっていました。

 藤太夫が降参の申し入れをしてきたので、佐久間信盛・荒木村重の二人が斡旋し、信長はこれを聞き届けた。藤太夫は赦免され、隣の志方の城へ退去しました。・・・

 城主・頼定の叔父(神吉藤太夫)が内応して、落城したと記しています。

  神吉城落城は、頼定の叔父神吉藤太夫(神吉貞光)のうらぎりか?

 『信長公記』は、以上のように「神吉の落城は、城主・頼定の叔父(神吉藤太夫)が内応して落城し、頼定はその場で切られた」と記しています。

 広く知られているこの神吉城は叔父・藤太夫の内応のために敗れたとする伝承について、『加古川市史』は、史実ではないとしています。

 地元では、三木城の攻防をさまざまに語り継いでいます。

 敗因も神吉城主・頼定を『信長公記』にあるように、藤太夫一人を悪者にしています。

 「負けるはずのない戦いだったのに・・・」と言いたかったのかもしれません。

 負け戦の後には決まって、制裁がまっています。

 信長の関係した戦の場合は、磔等の極刑がしばしばありました。神吉城の戦いではそれがありません。

 神吉城の合戦は、加古川最大の合戦であり、圧倒的な大軍で囲まれた戦いでした。

 三木戦を前にして、よけいな緊張をつくりたくなかったのかもしれません。(no4498)

 *絵馬:神吉戦のようすを描いた絵馬(東神吉町・常樂寺)

 ◇きのう(6/23)の散歩(12.452歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(214) 官兵衛が駆ける(30)、神吉城の戦い(4)・激しい神吉城攻めの理由とは?

2018-06-23 14:12:00 | お爺さんが語る郷土の歴史

    激しい神吉城攻めの理由とは?

 信長が、なぜ、こうまでして大部隊を神吉城(右図・木内内則作)攻めに投入したのでしょう。

 実は、権力者の体面に関わる事件が、播州で続いたのが、その主な理由でした。

 これまで友好関係にあった別所が、突如信長にそむき、毛利に走りました。

 また、尼子一族の上月城が、毛利の大軍に囲まれましたが、圧倒的な武力を誇る信長軍でも三木城(東播州)と上月城(西播磨)の二方面作戦を強いられるため、尼子一族を見捨てたことです。

 さらに、秀吉が三木城外で、東播磨の連合軍の夜襲を受け、見るも無残な惨敗を被ったこの三点が神吉城へ、大軍勢を投入した主な理由でした。

 これらの屈辱に信長の怒が爆発しました。

 (織田)信忠は何の戦果を挙げることなく、手ぶらで播州を引き上げるわけには行きません。

 見せしめのためにも神吉一族を抹殺することで、信長の体面を保ち、織田の戦力を毛利に誇示する必要が生まれたというのが本音であったのでしょう。

 ところか、父信長への手土産にと、信忠(信長の嫡男)が、気軽に攻撃した神吉城で、予想もしなかったひどい、反抗を受けることになりました。

     頼定の苦悩

 敵(織田軍)は、大軍団です。

 いたずらに時が過ぎては、神吉軍に勝ち目はありません。このまま寵城して、しばし、城は守れても、長引けば、やがては攻め落とされます。しかし、降伏はできません。

 信長に屈すれば、先例にならって、一族、家臣、領民までも虐殺を免れないかもしれないのです。

 それにしても小三郎(別所長治)より、未だ援軍の知らせがありません。

 「どうしたことか、なぜ援軍はないのか・・・」と頼定はなやみました。

 「三木や毛利は必ず来る」と、心中で繰り返すのでした。(no4497)

 *絵:神吉城の図(木内内則作)

 ◇きのう(6/22)の散歩(110.483)

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お爺さんが語る郷土の歴史(213) 官兵衛が駆ける(29)、神吉城の戦い(3)・『信長公記』みる神吉戦

2018-06-22 13:00:54 | お爺さんが語る郷土の歴史

 ここで、神吉城攻撃について、信長側の記録『信長公記』から神吉戦をみておきます。

   『信長公記』みる神吉戦

 6月27日、(信長軍は)神吉の城を攻めたてた。

 北から東の山へかけて、織田信忠(信長の長男)・織田信孝(信長の三男)・細川藤孝等が前後左右何段にもなって陣を布き、神吉城の北の志方の城に対しては、織田信雄(信長の二男)が陣取った。

 また、丹羽長秀等は、備えとして西の山に陣を布いた。

 滝川一益・稲葉一鉄・筒井順慶・明智光秀・荒木村重らは神吉の城へ激しく攻めよせ、たちまちに外構えを攻め破って裸城にした。

 そして、神吉城の堀へ次々と飛び込み、塀を突き崩して攻めたてた。

 織田信孝は、足軽と先を争って戦ったが、苦戦であった。負傷・戦死が若干あった。

 一挙に攻略できそうにもなかったので、この日は攻撃をゆるめ、また翌日、銃弾よけの竹束を持って、本城塀際まで詰め寄り、埋め草で堀を埋め、築山を築いて攻めたてた。

 神吉城の攻撃は、南の方が手簿であったので織田信包(のぶかね・信長の弟)が軍勢を投入した。

 神吉方の動きが止まった。そのため、丹羽長秀らが城攻めに加わり、東方の攻め口を受け持った。

 まず、最初に櫓(やぐら)を二つ高々と組み上げ、大砲を撃ち込み、堀を埋め、築山を築いて攻めた。

 滝川一益は南から東へかけての攻め口で、坑夫に隧道(トンネル)を掘らせ、櫓(やぐら)を築き、大砲を撃ち込んで塀・矢蔵を破壊し、矢蔵へ火を放って焼き落とした。

 このほかの諸勢もそれぞれ櫓・築山を築き、昼夜の別なく攻めたてた。

 神吉側からは、種々詫び言をいって和陸を申し入れたが、信長から厳命があり聞き入れなかった。(『信長公記』より)

    2000 対 30000の戦い

 神吉軍も、信長軍をよく攻めたことが分かります。

 しかし、なにせ信長軍は、神吉軍の15倍の数での攻撃です。それに、信長軍の攻撃はいままで一度も経験をしたことのないものすごい城攻めでした。

 神吉城は、よく戦いましたが、信長側は、あまりにも大勢力でした。(no4496)

 ◇きのう(6/21)の散歩(12.169歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(212) 官兵衛が駆ける(28)、神吉城の戦い(2)・ゲリラ戦

2018-06-21 06:14:47 | お爺さんが語る郷土の歴史

   神吉戦はじまる :天正6年6月25日(旧暦)

 天正6年(1578)6月25日の早朝、戦闘がはじまりました。

 総大将(織田)信忠が、軍配を反しました。

 織田勢は、大国集落と岸集落のニヵ所から仕掛けてきました。

 大国地区に結集した織田軍は、我先にと川に水しぶきを上げました。

 続々と騎馬武者が川中に突入し、さらに水しぶきを巻き上げ、中洲に乗り上げ、突進しました。

 これを迎える神吉勢は、恐怖で顔は引きつり、壁に身を沈め、必死に恐怖を押しのけ、銃口を突き出しました。

    神吉城のゲリラ作戦

 織田軍の騎馬武者か荒井川に乗り入れました。

 騎馬が突進した浅瀬の中ほどは、人の膝下まで水嵩があって流れは早い。

 それでも、騎馬武者は先を競って押し寄せてきます。

 一群の騎馬隊で、荒井川か黒く塗りつぶされました。

 川の半ばを越え、突進した先頭の騎馬が、グラッと傾き、よろけながら人馬とも水中に投げ出されました。

 これは、神吉が仕掛けた川の中の罠のせいでした。雑賀川の戦いで学んだゲリラ作戦です。

 さらに、多くの騎馬武者勢が、水煙をあげて転倒します。

 この時を待っていたとばかりに、神吉城の鉄砲隊は火を吐きました。

 信長軍にとっては、思いもしなかた銃撃に驚ろきました。

 これを見た神吉軍の引きしぼった矢が一斉に弦を放れたのです。

 多くの兵が落馬します。

 このように、織田勢が多数の死者を出したのは、小城一つと敵を甘くみて、ただ突進すれば打ち破れるとみた常勝軍団の思い上がりにありました。(no4495)

 *地図:当時の神吉城の近隣の地図

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お爺さんの語る郷土の歴史(211) 官兵衛が駆ける(27)・神吉城の戦い(1)

2018-06-20 08:16:42 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

    信長軍、神吉城(奈幸子城)を攻撃

 *「神吉城」は、当時「奈幸子城(なこうしじょう)」呼ばれていました。

 天正6年(1578)6月25日、野口城攻撃の後、信長は神吉城攻撃を命じました。

 神吉の風景と政治情勢を確認しておきます。

 当時の風景です。神吉城の南(現在の神吉町と西井ノ口の間)を、加古川の支流の荒井川南西の方向に流れていました。

 政治情勢は、この時、信長は、秀吉を但馬(竹田城)に左遷しました。

 その理由は、播州経営の失敗でした。

 従って、秀吉・官兵衛は、いったん姿を消し、神吉戦に秀吉・官兵衛の姿はありません。

   信長軍は、どの方向から攻めてくるか?

 神吉城として大問題は、「どの方角から織田軍が神吉城を攻めて来るか」ということでした。

 大方の予想は、加古川を北上し、日岡山を過ぎた池尻辺りの浅瀕を渡河するという意見でした。

 とすれば、南側の荒井川方面での備えは無駄になるばかりか、一戦も交えず敵の攻撃を受けます。神吉城には、二方面に備える兵の余裕がありません。

 そのため、兵を城内に留め、敵が、何れの方角から攻め来るとも戦える策をとることになりました。

 信長軍は、加古川城の糟谷武則の案内があったのでしょう、「賀古の渡し」を難なく渡河し、神吉に押し寄せてきました。

 その軍勢は、北陸へ進駐している柴田勝家、それに但馬に左遷された秀吉を除く、ほぼ織田全軍の侍大将たちの大軍でした。

 大将は、信長の長男で、織田信忠で、次男の信雄、それに三男の信孝らも加わりました。

 神吉城に迫った軍勢は、なんと三万余を数えました。

       神吉兵は2000

 織田軍が三万になった理由は、毛利・宇喜多勢が、突如、上月城(兵庫西部)へ攻めかかりました。

 そのため、信長軍は毛利攻・三木攻の第二面作戦を強いられることになりました。そのため軍は三万に膨れあがったのです。神吉城兵は2000でした。

 しかし、結果は、信長の指示もあって止むを得ず、上月城を見捨てました。

 この結果、急きょ、この三万の軍勢が神吉城の攻撃に向けられることになったのです。

 2.000の兵が30.000の信長軍と神吉城で激突したのです。(no4494)

 ◇きのう(9/19)の散歩(10.845歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(210) 官兵衛が駆ける(26)、余話:鶴林寺の禁制

2018-06-19 08:04:59 | お爺さんが語る郷土の歴史

     鶴林寺の禁制

 時代は、戦国時代の終わりの頃、天正6年(1578)です。

 東播磨地方が、信長・秀吉の支配に入るか、それとも中国地方に勢力を持つ毛利の勢力下に入るかを決する戦 が、加古川地域で展開されまあした。

 当時、東播磨の領主は、三木・別所氏の支配下にありました。

 加古川城(加古川市加古川町)の糟谷氏のみが、秀吉方に味方していました。

 しかし、野口・神吉・高砂・志方城の結束は強く、三木方に味方をしました。

 秀吉は、勢力を持つ寺院等も調略しました。

 ここに一枚の書状「禁制」(写真)が鶴林寺にのこっています。

 内容は、次のようです。

     鶴林寺のうちでは、次のことを禁ずる

     軍勢が一般人に乱暴を働くこと

     陣を構えたり、放火したり、竹や木を伐採すること

     田畑を荒らすこと

     これらに違反するものは速やかに厳罰に処す

       天正六年三月二五日  筑前守(*秀吉のこと) 

 秀吉は、鶴林寺の調略に成功し、鶴林寺に攻撃しないことを約束しました。

 この禁制の日にち(三月二五日)に注目してください。そして、四月に野口城の戦闘は始まりました。

 結果、野口城、そして共に戦った教信寺は全焼し、寺そして宝物等のほとんどは焼失し、略奪にあった。

 一方、鶴林寺は、秀吉軍攻撃から守られ、寺院および多くの宝物を今日に伝えています。(no4493)

 *写真:鶴林寺に残る秀吉の禁制

 ◇きのう(6/18)の散歩(12.113歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(209) 官兵衛が駆ける(25)、野口状の戦い(3)・教信寺炎上

2018-06-18 07:41:19 | お爺さんが語る郷土の歴史

    野口城の戦い(3)・教信寺炎上

 野口城の攻防では、野口城の兵はもちろん、教信寺の僧たちも共に戦いました。

 しかし、三木方からの援軍はなく、野口城は落城し教信寺も炎上しました。

 この時、教信寺の多くの宝物も焼失してしまいました。

 本尊の阿弥陀如来像(写真)など数点が奇跡的に残っただけです。

 野口城の戦いでは、教信寺だけではなく近在の多くの寺も焼き打ちにあい、貴重な寺宝が失われています。

 教信寺(常住院)の小杉隆道氏は『教信(四)・涅槃』で、背う説ですが教信寺の宝物の焼失時の状況を次のように描いておられる。

 『教信(四)』から一部をお借りします。

     教信寺炎上

 ・・・・戦場荒しのこの雑兵どもは、重く閉ざされた扉を破って宝蔵の内部に侵入し、寺僧を切り捨て、手当たり次第に収蔵する品々を引きだした。

 清和帝の詔書、崇徳帝の祈願文、五深草帝宸筆(しんぴつ)等帝、上皇の親書、勅額の外縁起(えんぎ)、過去帳,資材宝物帳や多くの古文書、記録簿冊類が経書とともに投げだされ、宝蔵の外には見る間におびただしい反故(ほご)の山となった。

 だが、この種の品々は、雑兵(ぞうひょう)どもには無用のものだった。

 金銀の類が手に入らないと見ると、狼にも似た男どもは、腹いせに無法な行為に出た。破り捨てた文書の山を点在する書堂の前に積み上げると、次々に火をつけた。

 火焔は瞬く間に堂塔をなめ、殿堂諸門一棟も残さず焼き尽くし、仏器、宝物ことごとく灰になった。・・・(以上『教信(四)』より)

    残った阿弥陀如来像立像!

 天正6年(1578)4月、教信寺のすべての諸堂が灰燼となりましたが、わずかな仏具・仏像が奇跡的に残りました。

 そのうち阿弥陀如来立像(写真)を紹介しておきます。

 この像は、戦国期前期から教信寺本尊であったと考えられています。

 頭部を除いて大きく修理されてますが、全体のお像は損なわれていません。

 台座、後背、脇侍は江戸時代後期に修理されています。

 台座の銘文から弘化三年(1846)に現在の台座と光背が整えられたのが確かめられています。(no4492)

 *『仏と神の美術(中世いなみ野の文化財)』、『小説・教信(四)』参照

 *写真:阿弥陀如来立像(「平安~鎌倉時代、12~13世紀」の作)

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お爺さんが語る郷土の歴史(208) 官兵衛が駆ける(24)、野口城の戦い(2)・なぜ野口城が最初に狙われたか?

2018-06-17 07:32:36 | お爺さんが語る郷土の歴史

   野口城の戦い(2)

     なぜ野口城が最初に狙われたか?   

 天正月6年4月3日、三木城を取りまく諸城の攻撃の火蓋が野口城の攻撃から始まりました。

 早朝より攻撃が開始され、秀吉軍は、3000の兵で攻めたてました。

 この戦いで糟谷武則は、初陣でした。

 それにしても、「なぜ野口攻めから始まったのか?」と言うことが疑問です。

 理由として考えられるのは、①街道筋の城である、交通も発達しており経済に豊かな土地である。②城の規模が比較的小さく、比較的攻めやすく成果を上げるのに適当である、と考えていました。

 いま、木内内則氏の作成された「野口城の復元図」を見ています。

私も地元ですから、この辺りは何回も歩きました。この「野口城」の図を作成された木内さんはよく歩かれていることと、その熱意が伝わって来ます。

 挿絵をよくみてください。東西(東西)に並んだ屋並みの向こうあたりに川が流れています。

 この川は、加古川の大きな支流と考えられます。少し横道になりますが、次の話題を付け加えておきます。

     (余話)野口と後醍醐天皇

 後醍醐天皇は、正中(せいちゅう)元年(1324)、元弘元年(1331)に討幕の計画をしましたが、ともに失敗に終わりました。

 後醍醐天皇は、隠岐島(おきのしま)に流されることになります。

 京都を出発した一行は、7月12日に教信寺(加古川市野口町)の前の旧山陽道を通り、加古川の宿(守護所:後の加古川城)に入りました。

  <増鏡の一部>

 12日、後醍醐天皇が加古川の宿に着いたとき、讃岐(四国)に流される子供の宗良(むねなが)が少し遅れて加古川の東の野口に着きました。

 「増鏡」の「加古川の東の野口に着いた」という記述に注目してください。

 この川は勿論、加古川の大きな支流のことです。

 とすると、当時は、加古川は後醍醐天皇の宿舎であった今の加古川町と野口の間に大きな支流が考えられます。

 つまり、野口城は川東にあり川を通じて三木と直結する位地にあったのです。秀吉にしても目の上の「たんこぶ」だったのでしょう。

 秀吉が、まず野口城の攻撃を命じたことが理解されます。(no3491)
 *挿絵:野口城の図(木内内則作)

 ◇きのう(6/16)の散歩(10.543歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(207) 官兵衛が駆ける(23)・野口城の戦い(1)

2018-06-16 09:10:05 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

       野口城の戦い

 秀吉軍は、三木城の勢力を、簡単に考えていたようです。

 しかし、三木城攻撃の初戦(鳥町の戦い)で手痛い敗北を喫しました。

 秀吉は、三木城をとりまく城を攻撃し、城を裸にしてしまう作戦に変更しました。

 最初に狙いを定めたのが野口城でした。

 野口城の城主は、長井四郎左衛門政重です。

 そこへ、秀吉軍は手持ちの兵3000人で攻めたてました。

 対抗する野口方は、軍勢380人に近在の農民、教信寺の僧兵を加えた600人が城にたてこもったといいます。

     落 城

 秀吉は、土木工事を得意とし、沼地のような湿田は、たいした問題ではありません。

 彼にすれば「埋めればいい」と、当然のごとく考えていたのかもしれません。

 城主・長井政重は櫓で指揮をとりました。勇敢に戦いましたが、切れ目のない激戦に兵はバタバタと倒れました。

 最初から、野口軍600の兵だけで、3000の秀吉軍と勝てるとは考えていません。

 三木城からの援軍があり、中と外から秀吉軍を押しつぶそうと考えていたのです。

 しかし、三木城からも、近隣の他の城からの援軍はありませんでした。

 三日目でした。

 「援軍が来たらしい」と城内には一瞬生気がよみがえりました。

 が、援軍と思われたのは、秀吉軍に加わった加古川城の糟谷武則の兵でした。

 政重は決断しました。「これ以上の兵の死は無駄である・・・」と。

 自分の死と引きかえに残る兵の命を願い出ました。

 野口城は、三日間で落城しました。

 ともに戦った教信寺も全焼してしまいました。(no3490

 *地図:朱で彩色した稲荷社辺りに野口城のあったか? 

 ◇きのう(6/15)の散歩(10.060歩)

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