「官兵衛が駆ける」終了
加古川地方のお城は、秀吉側に味方した加古川城を除いて、全部潰されてしまいました。
最後に加古川地方を支配下においていた三木城も秀吉軍に破られ、城主長治は自決しました。
三木城の戦いについては、多くの著書に詳しい説明がありますので、それらを参照ください。ここでは省かせていただきます。
おわりに、三木城の戦い(加古川地方の戦い)の意味を少しだけ考えておきます。
中世の終わり
播磨では天正八年(1580)正月、三木城が落城、そして九月には、秀吉による播磨検地が行なわれています。
これら土豪たちが滅んだ天正八年という年が播磨にとって中世の終焉といっていいと思われます。
「官兵衛が駆ける」をお読みいただきありがとうございました。
天正八年(1580)加古川地方の中世はおわり、以後、近世ということになりますが、当地方の近世は、高砂を中心に展開されます。
「お爺さんの語る郷土の歴史」は、現在の加古川市の歴史が中心になってしましました。
今後の「お爺さんの語る郷土の歴史」は、高砂市を中心とした歴史散策をしましょう。
今までに紹介した記述と多くの所で重なりますがお許しください。(no4504)
*『播磨学講座2・中世(風は悪党の背に)』(姫路独協大学播磨学研究会編)参照
*三木城主:別所長治像(兵庫県歴史博物館蔵)
◇きのう(6/29)の散歩(11.611歩)
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