ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川を歩く(14):加古川は暴れ川(1)

2008-04-30 11:24:44 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

Ec068bf7 シリーズ「加古川を歩く」は、高砂の町で話題が動かなくなっている。

 また、高砂の町を取り上げるが、この辺で話題を少し変えてみたい。

 加古川は暴れ川(1)

 上図は「慶長播磨国図絵(解読図)」一部である。

*慶長(1600~1615)

 1600年、姫路藩を支配した池田氏は、地図の場所に高砂城・高砂町の建設をはじめた。

 この時、現在の加古川本流は加古川の支流であり、本流は現在の高砂市の西部を流れていた。

942bc82c 下の絵図は、「正保播磨図絵(解読図)」の一部である。

 *正保(1644~1648)

 正保(しょうほう)播磨図絵では、平荘町池尻あたりから、ほぼ同じ大きさの二本の流れがある。

 東の流れは東加古川、西の流れは西加古川と呼ばれていた。

 このように、加古川は、現在の流れと同じではなく古代から幾度となく、洪水を引きおこし、その流れを変えた。

 加古川の周辺に住む人々にとって、加古川は恵の川であるとともに、同時に闘いの対象でもあった。

 明日は、元禄播磨図絵にある加古川の流れを見ながら、加古川の暴れ川のようすをもう少しみたい。

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加古川町探訪:(余話)イッペイが咲きました

2008-04-29 14:39:13 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

015 余話「イッペイが咲きました」をはさみたい。

 1908年(明治41)4月28日、移民船「笠戸丸」が神戸港を出航して始まったブラジル移民の歴史が、今年で100年となった。

 今、記念式典やフェスタ(祭)が神戸を中心として開かれている。

 加古川市は、ブラジルのマリンガ市(パラナ州)との姉妹都市でもあり、ブラジルからの使節団があり、セレモニーも行われた。

 これらの行事にあわせるかのように、今イッペイ(ブラジル国花)が、JR加古川駅の北側のロータリーで見事な花を咲かせている。

 イッペイ(写真)には、黄色の外に淡紅色の種類もある。

 私事で申し訳ないが、25年ほど前にマリンガ市へ行く機会があった。その時、イッペイの話を聞いた。

 春に、イッペイがマリンガの町を埋めるとも聞いた。

 イッペイは、ぜひ見てみたい花だった。

 2006年、加古川駅北のローターリーにブラジルから贈られたイッペイが植えられたが、この花にお目にかかったのは、今日(29日)が、はじめてである。感激・・・・・

 25年前の気分になっている。その時、マリンガで下手な詩をつくっている。

   マリンガは緑の中にある

   イッペイの樹がよくにあう町だ

   三角帽子の教会が空高く聳えている

   ・・・・・・・

   マリンガは、夏の真ん中にあった

   でも、光は夏のそれではない

   イッペイの葉っぱの中を通り抜ける風は心地よい

   ・・・・・・

   バスが、赤土の埃(ポエイラ)を郊外から運んで、通り過ぎた

   車体に、カンソン・ジ・マリンガ(歌の町・マリンガ)と書いてあった

   ・・・・・・

   マリンガは、歌の町である

   マリンガは、緑の町である

       

  

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加古川を歩く(13):十輪寺

2008-04-28 17:24:14 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

Kakogawawoyuku_058 法然は比叡山で学んだ。

 しかし、そこでの仏教は、貴族・僧などのための宗教であり、救いのためには厳しい修業が必要であった。

 法然は、庶民の魂の救いのために、「念仏を唱えれば誰でも浄土に行ける・・・」と言う、浄土宗をはじめた。

 当然のように、既成宗教から非難が巻きおこった。

 が、浄土宗は猛烈な勢いで庶民の間に広がった。

 やがて、浄土宗に緩がみられ、事件がおきた。

 この事件については『仏教の思想・Ⅱ(梅原猛著)』(集英社)を引用したい。

 「・・・法然の弟子に、往蓮、安楽という僧がいた。二人とも大変な色男で、しかも非常に声がよくて、・・・(省略)・・・多くの女性ファンを得たのです。

 宮廷の女官の中にもファンが出来る。

 ところが、後鳥羽上皇が熊野に参詣に行っている留守に、上皇が寵愛していた女官が往蓮、安楽のところに逃げてゆくという事件が起こる。

 これが後鳥羽上皇の逆鱗に触れて、そしてとうとう専修念仏の停止ということになるのです。

 既成仏教にとっては思う壺ですね。

 往蓮、安楽は死刑、法然は四国の土佐へ流罪になった・・・」(『仏教の思想・Ⅱ』より)

 法然は四国への流罪の途中、高砂の浜に立ち寄り、漁民に法を説いた。

 安元元年(1175)、法然75歳の時であった。

 半年の後、法然は赦免された。

 高砂の漁師の指導者であろう、八田治部大夫は、法然を厚く信じ、四国へ迎えに行き、高砂の自宅にともなったという。

 以後、この地方に浄土宗が広がり十輪寺ができた。

*写真:十輪寺山門

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加古川を歩く(12):玉垣(高砂神社)の語ること

2008-04-26 14:09:13 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

Kakogawawoyuku_004   高砂の町が育てた人物を紹介しているが、きようは、少し話題をかえてみたい。

 写真の高砂神社の玉垣をみて欲しい。

 数多くの玉垣に、干鰯(ほしか)仲(写真)と刻まれている。

 その下に、欠落しているが仲間の「間」か、仲買仲間の「買仲間」の文字が入るのであろう。

 ともかく、干鰯を商っていた商人が神社に献金をし、玉垣にその名を残している。

 干鰯は、字のごとく鰯を干して、小さく砕いた肥料である。

 干鰯は、肥料として優れており、油粕と共に広く使われていた。

 とりわけ、加古川・高砂地方にとって、干鰯は重要な意味を持っていた。

 なぜなら、この地方は和泉・河内などとともに木綿の生産地であり、木綿づくりには肥料として多量の干鰯を必要とした。

 そのため、干鰯屋は、大いに繁盛した。

 明和五年(1768)、高砂の干鰯問屋は、藩に願い出て運上金(税金)を納めることと引き換えに、高砂での干鰯販売の独占権を認められた。

 当時、高砂には干鰯問屋が9軒、仲間19軒もあったという。

 伊保崎村・荒井村から別府村・池田村一帯は木綿づくりが盛んで、文政期(1818~29)から幕末の頃の状況をみると、高砂の綿作付率は、畑で95.2%、全田畑面積に対しても40.1%であった。

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加古川を歩く(11):布舟(ふしゅう)と一茶

2008-04-24 08:33:12 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

Kakogawawoyuku_054 俳人・松岡青蘿(まつおかせいら)については、昨年2月14日・15日のブログをご覧願いたい。

 青蘿は、蕪村などと共に「芭蕉中興の六人」に数えられている。

 青蘿の門人に、高砂の田中布舟(たなかふしゅう)がいた。

 きょうは、布舟と小林一茶との話題を取り上げてみたい。

 一茶は、長野の貧しい農家に生まれた。

 三才で実母をなくし、八才の時継母が迎えられた。そして、十才の時異母弟が生まれた。

 以後、一茶は次第に孤独をかこつようになった。

  我と来て 遊べや 親のない雀

 この句は、この時期の一茶のやるべない気持ちを詠んだものといわれている。

 十四才の時、大好きであった祖母も天国へいった。江戸へ奉公に出た。

 二十五才の時、小林竹阿について俳諧を学んでいる。

 三十才で、彼は西国行脚の旅に出た。俳諧修行の旅であった。

 この旅の途中(寛政七年・1795)、一茶は高砂の布舟邸を訪れている。

 一茶の俳諧の師であった、小林竹阿が晩年大坂におり、布舟との関係ができていたのかもしれない。

 おそらく、竹阿の勧めで布舟を訪れたと想像される。

 一茶は、三月八日、四国の丸亀から下津井に渡り、九日に岡山まで来た。

 十三日、高砂に入り、布舟邸に泊まった。

 さっそく翌十四日、布舟邸で句会が開かれた。

  蝶と共に 我も七野を 巡るかな

 句会での一茶の句である。

 一茶は、布舟邸に二泊して加古川へ向かった。

 旅から江戸に帰った一茶は、句集『たびしうゐ』を出版している。

 布舟の句「みるうちに 雪添う土手の 柳哉」がある。

  水鳥の かしら並べて 朝(あした)かな

 これも布舟の句である。

 美しい高砂の風景を詠んでいる。高砂から、こんな風景が失われて久しい。

*写真は、布舟の墓(十輪寺墓地)

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加古川を歩く(10):河合義一(かわいぎいち)

2008-04-23 08:29:13 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

B3b13e60 大正七年(1918)の米騒動は、日本の労働運動に大きな影響をあたえた。

 さらに、第一次世界大戦後、ロシア革命の思想的な影響もあって、多数の労働組合が組織された。

 農村においては小作争議が年ごとに激増した。

 大正十一年(1922)四月、神戸で賀川豊彦等により全国的組織・日本農民組合が結成された。

 その後、日本農民組合は各地にひろがった。

 県下では、最初に「農民組合東播連合会」が結成され、河合義一は会長に選らばれた。

 義一は、東京外語大学でフランス語を学び、卒業後は日本銀行に就職した。

 就職してまもなく発病(結核)し、神奈川県のサナトリウムで療養した。

 この不慮の発病が、彼のその後の進路を大きく変えた。

 また、東京外語時代キリスト教徒であった彼は、本郷教会へよく通った。この本郷教会の持つ環境が、彼のその後の方向を決定的にしたともいえる。

 本郷教会に集まった人々の中には、大正デモクラシーの指導的役割を果した吉野作造、社会主義者で、小説『火の柱』で有名な木下尚江、そして日本最初の労働組合「友愛会」の創始者、鈴木文治などがいた。

 高砂に帰った義一は、一時療養のため瀬戸内海豊島(てしま)へ移った。

 そこで、地主の圧制に苦しむ小作の生活を知った。

 高砂へ帰った義一は、農民運動をはじめた。

 これは、彼の足取りだけではなく、河合家に流れる義侠心がそうさせたように思えてならない。

 義一の祖父、義平の長男は、昨日のブログで紹介した新撰組の河合耆三郎である。幕末池田屋騒動でも活躍した。

 赤はちまき事件(大正13年12月)

 加古川小学校敷地拡大のため耕作者の了解もなく地主が町に売ってしまった。

 これに対して、小作者は耕作権を守るために立ち上がった。

 木村(加古川町木村)の農民は、牛の角に赤はちまきをつけ、畝作りをして麦を蒔き、耕作する権利を地主に求めた。

 この一件により、地主の所有権より耕作権が優先することが認められた。

 この「赤はちまき事件」で、義一ら四人は半年間留置された。

 昭和六年(1931)県会議員に当選し、戦後は衆議院議員として活躍した。

 義一の生涯は、まさに農民の友としての一生であった。

*写真の胸像は、同士が彼を尊敬してつくったが本人の希望により公開されなかった。

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加古川を歩く(9):河合耆三郎(かわいきさぶろう)

2008-04-22 09:19:59 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

Kakogawawoyuku_038_2 文久三年(1863)の夏のある日、一人の若者が高砂の町から姿を消した。

 彼の家は、この地方では誰知らぬ者のない蔵元(くらもと)であり、秋の収穫期になると威勢の良い現場監督として活躍していた。

 その彼が、突然豊かな暮らしをなげうって姿を消した。

 やがて、京の新撰組に入りサムライになったことを土地の人は風の便りに聞いた・・・

 彼の名は、河合耆三郎で、武士として活躍したいと常々考えていた。

 新撰組のできたことを知った。いてもたってもいられなく、ついに高砂を飛び出したのである。

 彼は、蔵元の息子で、銭の勘定に明るいことを買われ、新撰組では勘定方(会計係)についた。

 新撰組の規則は、他に例をみない厳しいものであった。

 慶応二年(1866)二月二日の朝のことであった。

 前夜、タンスの中に入れていた五十両の大金が消えていた。

 タンスに近づけたのは、新撰組の幹部だけであった。

 これが表面に出れば深刻な内輪もめになる。

 彼は、そっとして、この五十両の穴埋めのために国もとの高砂へ早飛脚をだした。

 折り悪く、父親は商用で外に出ていた。

 この間に、新撰組で五十両が必要になった。

 「耆三郎がその金を盗んだ・・」と疑がわれた。

 今となっては誰も信用してくれない。二月十二日、耆三郎の打ち首が決まった。

 刑は、新撰組の道場横で行われた。時間は、午後八時をまわっていた。小雨交じりの寒い夜であったという。

 処刑の三日後、彼が待ちにまった五十両がとどいた・・・

 この金は、近藤勇が遊女を身請けするための金であったらしい。

 耆三郎については、下母沢寛の小説『新撰組三部作・新撰組物語』(中央公論社・中公文庫)に詳しいが、たぶんにフィクションがある。でも、紹介しておきたい話題である。

*写真は、堀川沿いの江戸時代の高砂の倉庫群跡。内容とは直接関係がない。

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加古川を歩く(8):天竺徳兵衛(てんじくとくべえ)

2008-04-21 08:19:06 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

037  徳兵衛の最初の航海は、寛永三年(1626)の秋であった。

 397名を乗せた船は長崎を出帆。目指すは、はるか南天竺のシャム(現在のタイ)。

 この時の航海は140日で、1年ほど滞在して長崎に帰ってきた。

 寛永七年(1630)再びシャムに渡った。この時、山田長政に会ったという。

 徳兵衛は、小さい頃からよく本を読み、読み書きに優れていた。

 15歳の時、朱印船の「書き役」として雇われた。鎖国になる10年ほど前のことである。

 当時、朱印船は全国に9艘しかなく、したがって外国のようすを知る者は、ほとんどいなかった。

 朱印船の行き先は、台湾・マカオ・ルソン(フィリピン)・ベトナム・カンボジア・シャム(タイ)・マレー等で、当時これらの国々は天竺と呼ばれた。

 徳兵衛は、航海で見聞きしたことを『天竺物語』・『天竺渡海物語』に書き残し、人々を驚かせた。

 これらの物語で、南十字星がきれいで感動したこと、山田長政にあったこと、米を1年に3度も作ること、ヤシの水が旨かったこと等、当時の日本人にとって信じられないことをたくさん書いる。

 その後、徳兵衛は渡航の経験を生かし、大坂で外国商品を商う店を開いた。

 晩年、頭を剃って「宗心」と号し、83才で没したという。徳兵衛は、1610年代に高砂に生まれ、1700前後に没したというが、詳しいことは分からない。

 徳兵衛の墓は、高砂市高砂町横町の善立寺の境内(写真)にあり、墓石には元禄八年(1695)八月七日と刻まれている。

 徳兵衛が、天竺から持ち帰ったというベーダラ(芭蕉の葉に書いた経文)が十輪寺に保存されている。

 徳兵衛が、世に知られるようになったのは、彼の死後のことで、講談師が彼の見聞記を面白おかしく語り、歌舞伎にも取り上げられたためである。

 ことに、鶴屋南北(つるやなんぼく)の書いた『天竺徳兵衛韓噺(いこくばなし)』は大当たりをした。

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加古川を歩く(7):美濃部達吉

2008-04-20 09:42:42 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

Kakogawawoyuku_045 美濃部達吉は、現在の高砂市高砂町の医者の次男として生まれた。

 彼は、高砂小学校6年の過程を4年ですませた。よほどの神童であったのだろう。

 遊ぶことの少ない、もの静かな少年だったという。

 やがて、小野中学(現在の県立小野高校)から東京大学へ進んだ。

 東京大学法学部を卒業後、一度内務省の官吏になったが、すぐに大学に復帰した。

 1899年(明治32)ヨーロッパへ留学し、ほとんどドイツで学んだ。

 特に、ハイデルベルグ大学で学んだイエルネックの憲法学説が後の達吉に大きな影響あたえた。

 「天皇機関説」事件

 彼の憲法学説は「天皇機関説(てんのうきかんせつ)」と呼ばれいる。

 この説は、「主権は天皇にあるのではなく、国家にあり、天皇は国家の一機関である・・・」とする学説で、絶対的な天皇制国家の下で、政党と議会の役割を高めようとする学説であった。

 この時期、日本は戦争に向かって暴走をはじめていた。

 軍部は、特に学問の自由は危険思想の温床であるとして容赦のない一撃を加えるようになった。

 1935年(昭和10)、達吉の「天皇機関説」にも攻撃がかけられた。

 当時、貴族院議員にもなっていた達吉の学説を、ある右翼議員が、彼の説は「謀反」「反逆」として攻撃したことに端を発して「天皇機関説」排撃運動がはじまった。

 そして、全国の大学・高等学校から機関説は排除され、達吉も議員を辞職した

 この事件(天皇機関説事件)以後、政治・経済のあり方についての研究の自習はできなくなった。

 政府・軍部は、国民のいっさいの非難を許さず、戦線を中国全土に広げた。Kakogawawoyuku_050

 1945年(昭和20)、8月15日、敗戦。

 戦後、新しい憲法がつくられ、達吉は新憲法に関する著書を出版した。

 達吉の新しい活動が始まろうとしていた1948年(昭和23)、達吉は75歳の生涯を終えた。

 *達吉の生家は高砂町の堀川の近くで工楽松右衛門家の一軒隔てた北隣にあった。

 現在は、倉庫になっており達吉の生家であることを知る人も少なくなってきた。説明板ぐらい欲しいものである。

 達吉の生家の場所に倉庫の建設の話が持ち上がった時、保存運動はなかったという。

*写真上:高砂公民館玄関にある「美濃部親子文庫の碑」

 写真下:美濃部達吉の生家跡(現在は倉庫になっている)

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加古川を歩く(6):工楽松右衛門②

2008-04-19 08:44:36 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

D9d75eeb 工楽松右衛門②:エトロフヘ

 天明期から寛成期にかけて蝦夷地は、にわかに騒がしくなってきた。

 ロシア船の出没があった。

 一時は、ロシアによる蝦夷地の占領の噂も流れた。

 そんな雰囲気の中で、幕府から兵庫の問屋衆に難題がくだった。

 「・・・エトロフ島を調査し、港をつくれ・・・」

 兵庫の問屋衆は何度も、なんども話しあった。堂々巡りが続いた。

 そんな時である。めっきり白いものが多くなった松右衛門が「・・・・皆さんのご異議がなければ、その御役目をお引き受けしたいと存じます・・・」と、発言した。

 もとより反対する者はなかった。

 松右衛門に感謝とねぎらいの言葉があった。この時、松右衛門は50才に近かった。

 エトロフについての知識は持ち合わせていなかった。

 幕府からの工事費の一部は下された。

 松右衛門は、船頭や大工を選び、資材を・食料の準備にあたり5月(1790)、20名の乗組員と共にエトロフへ向かった。

 エトロフに着いた。短い夏は駆け足で過ぎ去った。冬将軍がどんどん迫っていた。

 彼は、ひとまず兵庫へ引き返し、翌年の3月再びエトロフを目指した。

 その年の9月、あらかた港を完成させた。

 その後も、幾度となくエトロフに渡った。

 港は後年、紗那(シャナ)と名づけられた。

 彼は、60才を過ぎて兵庫の店を息子に譲り、郷里・高砂に帰った。

 郷里・高砂の町は賑わっていた。さらに発展できると考え、私財を投じ高砂港を改修し、現在の堀川を完成させた。

 この功績により享和二年(1802)、彼は「工楽(くらく)」の苗字をゆるされた。「工楽」とはまさに工事を楽しむというという意味である。

 文化九年(1812)、秋風が肌にしみる日だった。松右衛門は、波乱にとんだ生涯を終えた。

*地図で紗名(シャナ)の場所を確認ください。

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加古川を歩く(5):工楽松右衛門①

2008-04-18 09:53:44 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

Kakogawawoyuku_008  近世の高砂の町は賑わいがあった。

 豊かな経済力は、個性豊かな人物を多数輩出した。

 今日は、工楽松右衛門(くらくまつえもん)を紹介したい。

 松右衛門については、小説『菜の花の沖(司馬遼太郎)』(文春文庫)二巻で「松右衛門」として紹介されている。

  松右衛門①

 松右衛門が世に知られるようになったのは、船にとって重要な帆布の改良に取り組んだことである。

 船の帆は、古代から材料は麻布や草皮等を荒く織った粗雑なものであった。

 瀬戸内を縦横に活躍した水軍も、遣唐使船も多くはムシロの帆を使ったと記録されている。

 そして、当時の船は帆よりも櫓(ろ)にたよることが多かったようである。

 帆布が広く使用されるのは、江戸時代初期からである。

 しかし、この帆は、薄い布を重ねあわせて使用したため、破れやすく雨水等を含んですぐ腐ってしまった。

 そこで、松右衛門は高砂・加古川地方が綿の産地であることに目をつけ、現在のテント地のような分厚い丈夫な布を織り帆にした。

 その帆は、丈夫であるばかりか、操作も簡単で、風ものはらみもよくなった。

 さらに、継ぎ目に隙間を開けたことで、つなぎ合わせた一枚の帆よりはるかに便利になった。

 この帆は「松右衛門帆」として呼ばれ、またたく間に全国に広がり、彼は一躍大商人にのしあがった。

  蝦夷地へ

 「松右衛門帆」により、当時、最も遠いとされた「蝦夷地(北海道)」との航海の日数も短縮された。

 松右衛門は、蝦夷地の海産物をあつかう廻船問屋も始めた。

 内地に運ばれたのは、塩鮭・干鮭・にしん・かずのこ・ほうだら・にしんかす・昆布・ふのり等であった。

 特に塩鮭・にしん・昆布の三品が圧倒的に多かった。

 これらの移入で、当時の食生活も随分変化があったといわれている。

 また、塩鮭は保存のため塩からく、鮭の本来の味が損なわれた。

 そのため冬の期間は、塩を薄くした「あらまき」を江戸や大坂に直送した。

 「あらまき」は、松右衛門の発明品である。

 *明日のブログも松右衛門について続ける。

  松右衛門像(高砂神社境内)。松右衛門の右手は、はるか蝦夷地を指している。

 

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加古川を歩く(4):経済都市・高砂

2008-04-17 09:48:13 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

E5d04ca 近世の高砂の町を語るとき、必ずといっていいほど『近世の高砂(山本徹也著)』(高砂市教育委員会)にある右図が使われる。

 高砂の町は、まさに人工の町割である。

 高砂の町は、池田輝正の姫路への入部(慶長五年)後、ここに城が築かれ城下町として出発した。

 城下町は、まず政治・軍事都市であり、そして経済都市の性格をもつ。

 しかし、高砂の町の性格を決定ずけたのは、元和元年(1615)の武家諸法度の「一国一城令」である。

 この幕府の法令により、高砂城は廃城となり、時の藩主・本多忠正により城郭は廃された。

 以後、高砂は政治・軍事都市から港町、つまり経済都市として整備を進めていくことになった。

 この時、他の地域でも城下町から、その性格を変えた町は多い。

 備前(岡山県)の下津井(しもつい)も城下町を形成していたが、以後高砂の町と同じく港町として発展した例である。

 高砂は、港町として大きく変貌するが、下津井と異なり広大な加古川上流の後背地を持っていた。

 豊かな後背地と高砂の町は、大河・加古川により結ばれた。

 物資は高砂に集まった。以後高砂の町は、江戸時代をつうじ飾磨港と共に姫路藩の港町として繁栄することになった。

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加古川を歩く(3):高砂城

2008-04-16 11:05:28 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

Kakogawawoyuku_007  昨日のブログで、中世の高砂は、今津(加古川市尾上町池田付近)であることを確認した。

 慶応6年(1601)、姫路藩主池田輝正は、高砂城を中心に高砂の町の建設にとりかかった。

 以後、高砂の町は猛烈な勢いで繁栄することになる。

 高砂城のあった場所は、現代の高砂神社ある。

 輝正は、ここに加古川を付け替え(流れを変え)現代の加古川本流河口の右岸(西岸)に、新たに港湾を整備した。

 ここを「今津町」と名づけた。

 築城に伴い、高砂神社は農人町(のうにんまち)へ移転させられた。

 その後、一国一城制(元和元年・1615)により高砂城は廃城となり、高砂神社は、元あった現在の場所にもどされ現在にいたっている。

 もう少し、江戸時代の高砂の町について続けるが、その前に江戸時代以前の高砂にあった「高砂の古城」について若干ふれておきたい。

 高砂の古城は、秀吉の三木攻めで、その名を知られているが、詳しいことは分からない。

 この城は、現在の高砂市荒井町小松原辺りであろうといわれているが、場所は定かでない。

 城は、『近世の高砂』(高砂教育委員会)では、城下町・港・漁村が有機的に結合しているように記述されているが、「塞」にすぎなかったのであろうと想像される。

*写真:高砂城跡を示す石碑(高砂神社境内)

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加古川を歩く(2):高砂は寒村だった

2008-04-15 08:36:20 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

586ecf42_2  加古川の河口にある高砂の町の散策からはじめたい。

 昔、時間はゆっくり流れていた。

 そのため、高砂の町も長い年月をかけ、徐々に成長した町と想像してしまう。

 しかし、高砂の町は、江戸時代の初めの頃に急成長した人工的な町である。

 一昨年(2006年)、10月3日のブログ(中世の高砂は今津)の一部をもう一度読んでみたい。

  中世の高砂は、播磨五泊(室津・飾磨・福泊・高砂・江井崎)の一つに数えられ、内海の寄港地としての地位を固めていた。

 ところが、この中世の高砂の泊(港)は、現在の高砂ではなく、『播磨名所巡覧絵図』でも「今津の浦口」とあるように、高砂の左岸(東岸)の池田(現:加古川市尾上町)付近を指していた・・・

 つまり、中世の今津(現:尾上町池田)は、「今津千軒」とよばれ、内海の寄港地として大いに賑わっていたのである。

 その後、今津は加古川の堆積作用により、港は徐々に浅くなりその機能を弱めた。

 その頃(江戸時代以前)、現在の高砂は、小さな漁村にすぎなかった。

 なお、当時加古川の本流は升田・平津から荒井を経て瀬戸内海に流れ、その河口に魚崎(現:高砂市)の港があった。

*図は慶長播磨絵図による加古川の流れ

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加古川を歩く(1):組曲「加古川」

2008-04-14 08:04:12 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

Kakogawawoyuku_023 今日から、第3部「加古川を歩く」を始めます。

 加古川の河口辺りから、上流へ気ままな散歩をしてみたい。

 内容は、「加古川の流れと、その界隈に住んだ人・事件を追ってみようかな」と思っている。

 特別な構想があるわけではない。

 どんな結末になるか、私も楽しみにしている。

 今年のある新年会で、坂田月代さんから、一冊の詩集『天使の素足(はだし)』をいただいた。

 その詩集に、組曲「加古川」がある。

 加古川の流れを歌った、この素晴らしい「詩」の序章「播磨の川よ」を読むことから、散歩をはじめたい。

 序章に続く、「組曲」は別の機会に紹介したい。

  播磨の川よ

(一) 一本の川は いくすじの涙のあとのように

    蛇行し 歴史を刻み今に至る

    なつかしき その西光は水面を遊び

    静かに静かに微笑む その名は加古川

(二) 山から海へ いくすじの狼煙のあとのように

    流をかえて 未来をみとおす

    いとおしき その明日は危ぶまれて

    眩しく眩しく光る その名は加古川

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