ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

新ひろかずのブログ(2) 渋沢栄一と高砂(2)・今市札(藩札)

2020-12-31 09:49:21 | 新ひろかずのブログ

   ◇渋沢栄一と高砂(2)・ 今市札(藩札)

 前回(渋沢栄一と高砂・1)の続きです。まず、藩札の「播州今市」に注目ください。

  渋沢は、売買の便利をはかるために木綿預手形(今市札・藩札)を発行しました。

 この木綿手形の背景には当時金相場が高騰して、正貨である幕府貨幣の流通が滞っていたという事情がありました。

 人々は正貨の代替物を求めていたのですが、それには「信用」がなによりも大切でした。

 といっても、どこの藩(天領を含む)台所は火の車でした。

 一橋家も十分な引替準備金はありません。

 そこで、渋沢は裕福な者から借銀をして準備金を用意することを考えました。

 この出資者は、揖東郡日飼村(たつの市)堀彦左衛門(2500)、加東郡垂水村(加東市)藤浦常八(1250)、多可郡下比延村(西脇市)広田傳左衛門(800)のほか地元・今市村伊藤長次郎(600)、同村入江十郎(300)、同村鈴木又蔵(200)両、同村入江亀太郎(150両)、その他一人(120)、四人(200両)両ずつ、一人(60)で、総額6330両を集めました。利息は年8朱で10年返済でした。

 これらの出資者は、すべて産物会所及び引替所の役職に就いています。

 一橋家の発行する手形は、大きな信用を作りあげることに成功しました。

 そのため、一橋家領の木綿預手形は一匁のものはいつでも一匁と額面通り流通したといいます。

 今市村の商は、大いに繁栄しました。

 *写真:今市札、『高砂市史(伊保篇)』(注:『旧高砂史』)より

 *挿絵:今市札(『高砂市史・伊保篇』より)

 

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新ひろかずのブログ(1) 渋沢栄一と高砂(1)

2020-12-30 13:34:44 | 新ひろかずのブログ(1):

 11月に体調を崩し、寝込んでしまいました。「新ひろかずのブログ」も急停止し、その後、体調は回復しましたが、ブログはお休みのままになってしまいました。

  

 その間、短い文章のフェイスブック(FB)は続けました。

 FBは、章が短く簡単です。ということは読んでいただきやすいようです。

しばらくは、簡単で読みやすい「新ひろかずのブログ」を不定期便で続けていました。

 新しい年が始まります。もうひと頑張りします。お時間のある時に、お付き合いください。よろしくお願いします。

 

 

 いま、来年のNHK大河ドラマの主人公「渋沢栄一」について、読んでいます。なんと、渋沢栄一と高砂市との接点があるのですね。

  

 ◇渋沢栄一と高砂(1)◇

 渋沢栄一は、若い幕末のころ、一時一橋家に仕え、高砂市と関係を持っています。

 彼は、一橋家の経済を立て直すためにいろいろと手を打ちます。

 一橋家の財政立て直しのための一つに、播磨の特産品である木綿や菜種油に注目します。

 姫路藩の木綿専売制は有名でした。

 東志方や加古川下流の今市(いまいち)・中島・曽根の村々は、一橋藩領でした。

 渋沢栄一は、「一橋家領の木綿は、姫路藩のようにまとめて大坂・江戸で売るならもうかるだろう」と考えました。

 彼は行動の人です。慶応元年(1865)に細工所村(加古川市東志方町)へ出張し、8月28日から1ヵ月間、今市村に逗留して一橋産物会所(役所)の開設を準備しました。

 今市村に役所を置いたのは、今市には資産家が多く、家屋や土蔵などの設備もあり、なにより水運が便利だったからでした。
*写真:新一万円札の渋沢栄一

 

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