ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町旧鳩里村探検(7) 木村(7)・宮本武蔵の年譜

2021-08-31 10:47:35 | 加古川町(旧鳩里村)探検

 「宮本武蔵」について、あまり順序だった記述になっていません。流れがつかみにくいと想像します。

 武蔵の年譜を紹介しておきます。整理ください。

      宮本武蔵の年譜

 1584年  武蔵米田に誕生

 1588年  このころ田原家から新免家

        (作州大原)に養子に行く

 1596年  初めて、剣客と試合をして勝つ

 1600年  黒田氏に陣借りをして関ヶ原の合戦に参加

 1604年  京都・一乗寺で、吉岡一門との対決

        このころから、禅・絵画・作庭の研究

 1612年  巌流島で佐々木小次郎との試合に勝つ

 1617年  甥の伊織を養子とする

        このころ、新免造酒之助(みきのすけ)を養子とする

        明石小笠原家の客分となる

 1626年  養子官本伊織、小笠原家の家臣となる

 1634年  伊織を頼り、小倉に住み、小笠原家の客分となる

 1636年  伊織、島原の乱での軍功により、家老となる。武蔵も参加

 1640年  熊本藩主細川氏の知偶を得る

        熊本に住み、絵画・書・詩歌をたしなむ

 1645年  「五輪書」が成立

  〃    62才で死亡

 1653年  伊織、泊(木村)神杜を再建no5618

 *写真:米田の西光寺の武蔵と伊織の像(伊織は左、右は武蔵)

 

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加古川町旧鳩里村探検(6) 木村(6)・宮本伊織の生誕400年(2012年)式典

2021-08-30 06:41:31 | 加古川町(旧鳩里村)探検

    宮本伊織の生誕400(2012)式典

 この記事は、2012年10月21日、泊神社(加古川町)木村で挙行されたときの再掲です。

 宮本武蔵の養子、伊織の生誕400年記念式典の記事です。

 10月21日が伊織の誕生日で、主催者はこの日にこだわって開催されたそうです。

 プログラムは「鬼太鼓座(おんでこざ)」の元メンバーの太鼓、武蔵円明流の演武、それに旭堂南海さんの「宮本父子伝」の講談等が披露されました。

     伊織は明石藩の家老に

 武蔵の養子の伊織は若くして明石藩の家老になり、島原の乱鎮圧に侍大将として活躍しています。

 泊神社は伊織にとっての氏神で、彼は1656年、荒廃する社殿を再建しています。

     宮本伊織・14代目当主参列

 式典では、宮本伊織から14代目の当主の方(写真上)も小倉から参加されました。優しそうな方でした。

 なお、その少し前にNHKのBSで放映された番組でBSでは俳優・高橋弘樹さん・アナウンサーの渡辺真理さんが解説者とともに参加されていました。

 その時の解説者は、国際武道大学教授の魚住孝至さんでした。

魚住さんは、稲美町出身で加古川東高校から東大に進まれた歴史学者で、おもしろい番組でした。

     宮本伊織、泊神社に燈籠を寄進

 本殿裏の伊織寄進の石燈籠があります。説明を読んでおきます。

 ・・・武蔵の死後8年目の承応2年(1653)、伊織は武蔵の出身地・米田の氏神である泊神社の老朽化がひどく、田原家の祖先供養のために社殿を新しくし、石灯ろう(写真下)を奉納した。

 この本殿裏の二基の灯籠は、宮本伊織とその一族である田原正久が寄進したものです。

 二基とも花崗岩製で、承応二年(1653)三月に寄進したことが、銘文によって明らかです。

 宮本伊織のものは、全長297センチ、田原正久寄進のものは全長165センチです。(no5187

 *写真右:宮本伊織から14代目当主

 *写真左:宮本伊織寄進の灯ろう(二基の内、右側の燈籠)

 

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加古川町旧鳩里村探検(5) 木村(5)・泊神社と米田天神社

2021-08-29 09:46:23 | 加古川町(旧鳩里村)探検

      泊神社と米田天神社
 現在、高砂市米田町の米田天神社と泊神社について少し触れておきます。

 『播磨鑑』の記述に「泊神社には4人の神官がおり、真言宗に属した神宮寺の僧と神人(みこ)一人がいた」とあり、かなりの大社であったようです。泊神社の氏子に注目します。
 泊神社の氏子は、地元の木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の五ヵ村が祭礼の世話をするのですが、さらに塩市・米田新・古新・米田・船頭など加古川右岸(西側)一帯に広がっています。
 現在、泊神社の氏子は、加古川の西岸にも広がっています。すこし不思議です。


       もと、加古川本流は米田村の西を流れていた
 江戸時代の絵地図で、加古郡と印南郡(いんなみぐん)の境界を見ています。

 「郡境」が、少しおかしい。「郡境」は川・海・山・道などを目印にするのが普通です。
 加古郡・印南郡の境界が決められた頃(奈良時代)、加古川の本流は、現在の加古川村(現在の本町)・木村・友沢村・稲屋村の東をながれていたと思われます。

 (上記の加古川村・木村・友沢・稲屋は明治2241日、加古郡に編入されました) 加古川は、暴れ川です。

 武蔵の時代、加古川の本流は米田の西を流れていたようです。しかも、 現在の加古川は、加古川の本流でなかったようです。

 とすると、米田の氏神である泊神社が現在の加古川本流の西あったこともることも理解できます。

 *蛇足  

 前号でみたように、泊神社には宮本武蔵・伊織(武蔵の養子)の影がちらつきます。吉川英治は、「宮本武蔵の宮本は、作州・宮本村からつけた」としています。吉川英治の小説「宮本武蔵」は、あまりにも有名になり、これが一般的に流布されています。

 泊神社の所在地を紹介しておきます。

 泊神社の所在地は、「兵庫県加古川市加古川町木村宮本」です。武蔵は、こちらの宮本から「宮本」と名付けたとしても不思議はありません。(no5186

*写真:米田天神社(宮本武蔵・伊織の高砂生誕説を裏付ける棟札が残る泊神社(加古川市)の分社で、承応2年(1653年)、伊織が泊神社を再建時、その旧社殿を移築したゆかりの神社)

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加古川町旧鳩里村探検(4) 木村(4)・宮本武蔵と泊(木村)神社

2021-08-28 11:13:16 | 加古川町(旧鳩里村)探検

        宮本武蔵と泊(木村)神社

 吉川英治の小説『宮本武蔵』の話をしておきましょう。

 吉川は、武蔵の生誕地を「作州大原(岡山県)」としています。

 そのため、一般に武蔵は作州人だと信じられています。

 近年、この説に異議が唱えられてます。つまり、「宮本武蔵は高砂市米田町生まれである」とする説です。

 その根拠になったのは、泊神社(加古川市加古川町木村)に宮本伊織(武蔵の養子)が奉じた棟札が発見されました。

 棟札を少し説明を加えながら紹介しましょう。

 ・・・・武蔵は赤松一族の出身である。武蔵誕生の250年ほど前のことである。

 赤松持貞は、こともあろうか将軍の側室に手をだしてしまった。持貞は切腹を命じられ、嫡男の家貞等一族は、印南郡の米田に追放になった。

 名も田原に変え、地侍として勢力を伸ばした。

 そして、家貞から五代目に名前も同じ家貞の時、二人の男子がいた。その弟の武蔵玄信は、作州・新免(しんめん)氏の養子になった。

 新免氏は、後に宮本と名を変えた。宮本武蔵の誕生である。

 武蔵にも子どもがなかったので、伊織を養子とした。・・・・



 武蔵は、明石藩の小笠原に仕えましたが、豊前の小倉に移ったので伊織もそれに従いました。伊織15歳の時でした。

 伊織は、小倉藩で家老にまで上りつめました。

 武蔵の死後8年目の承応二年(1653)、伊織は武蔵の出身地・米田の氏神である泊神社の老朽化がひどく、田原家の祖先供養のために社殿を新しくしました。

 発見された棟札には武蔵の出自を書いています。

 武蔵の生誕地「播磨の国・米田説」は、俄然説得力を持ってきました。

 武蔵は『五輪書』でも、はっきりと「生国播磨」と書いています。(no5185

 *写真:伊織奉納の棟札(泊神社)

 

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加古川町旧鳩里村探検(3) 木村(3)・潮風の似合う神社(泊神社)

2021-08-27 10:17:35 | 加古川町(旧鳩里村)探検

     潮風の似合う神社(泊神社)

 木村探検は泊(木村)神社から始めましょう。

播磨鑑』の記述に「泊(木村)神社には4人の神官がおり、真言宗に属した神宮寺の僧と神人(みこ)一人がいた」とあります。

 かなりの大社であったようです。

 *神宮寺・・・神仏混交の考え方で、神社に奉仕するために建てられた寺。

 泊神社の氏子に注目します。

 泊神社の氏子は地元の木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の五ヵ村が祭礼の世話をするが、さらに塩市・米田新・古新・米田・船頭など加古川右岸(西側)一帯に広がっていました。

 そして、木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の村々は、明治22年まで印南郡に属していました。記録にはないのですが泊神社(木村)は、もともと加古川の右岸(西岸)にあったのでしょう。

 「泊」は港(水門・みなと)を意味します。

 『日本書紀』に「鹿子の水門(かこのみなと)」が加古川の河口部にあったと記録しています。

 研究者は、「鹿子の水門」は、現在の稲屋(加古川市加古川町稲屋)辺りで、当時は、このあたりまで海が迫っていたと推定しています。

 泊神社は地域の氏神であり、古代の港(水門・みなと)の守護神であったと考えられます。

 さらに、『加古川市史(第一巻)』は、「・・・紀伊の国懸(くにかかす)大神を勧請したり、境内社に熊野神社・住吉神社・島姫神などを祀っていることからも、当社が熊野衆、その他海賊たちと深い関わりを持っていたことが暗示していると思われる」と記しています。

 松林、港そして神社の風景が目に浮かびます。泊神社は潮風のにあう神社でした。(no5184

 *写真:泊(木村)神社

 

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加古川町旧鳩里村探検(2) 木村(2)・印南郡と加古郡の郡境

2021-08-26 10:48:52 | 加古川町(旧鳩里村)探検

 個人的な話で申し訳ありません。

 私は、小学校・中学校・高校と加古川町泊町二丁目で過ごしました。中学校時代、木村を毎日通り抜け加古川中学校への通学でした。

 木村にはO君をはじめ、友達もいました。小学生年生の担任のN先生も木村にお住まいで、先生の家の前を中学校へ通いました。

 (ブログ)加古川探検(旧鳩里地区) の探検を始めます。どこからでも良かったのですが、子ども時代の思い出もあって木村から始めてみます。

  印南郡と加古郡の郡境

 右の地図は、住宅地図を借用しています。

 加古川中央公民館と加古川市立図書館との間に、黒く塗りつぶした線を描きました。路地のような道路です。

 この道の左上をさらに北へ100メートルばかり歩きます。人形の店「陣屋」の隣に出ます。

 この道は、文(分)岸寺川(跡)なのです。

 何の変哲もない路地ですが、「文(分)岸寺川筋」であり、明治22年4月1日以前は、この狭い道を境にして南が印南郡木村であり、北が加古郡(寺家町)と分れていました。

    郡境は、奈良時代に決められた

 この郡境は、聖武天皇の神亀三年(726)に創設されています。

 郡境を決めるとき海・やま・川などがその基準になったと考えられます。

 当時(奈良時代)の「かこがわの本流」は、文(分)岸川のところを流れていたのでしょう。

 そして、「文(分)岸川」の左岸側(西側)は、印南郡に、右岸側(東側)は加古郡と決められました。かつて文岸寺川は、加古川の本流でした。

 なにせ「かこがわ」は、暴れ川です。幾度となく大洪水をおこし、しばしば流路を変えています。

 明治22年以前、現在の加古川中央公民館の土地は加古郡であり、すぐ南の加古川市立図書館(旧公会堂)の場所は印南郡でした。加古川小学校も、印南郡でした。

 こんなことを考えながら、散策をするのもまた楽しいものですよ。(no5183

 

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加古川町旧鳩里村探検(1) 鳩里(村)地区ってどこ?

2021-08-25 11:12:38 | 加古川町(旧鳩里村)探検

 「加古川町探検」不十分ですが、加古川・氷丘を探検をしました。

 当然、大切なことで抜けているとことは、たくさんあると思います。その都度、付け加えます。

 ひとまず、氷丘・加古川を終えて、残る加古川町の歴史探検で「鳩里地区」を歩いてみます。

   鳩里村(地区)を歩く

      鳩里地区ってどこ? 

 「鳩里村の名称は、わずかに「鳩里小学校(きゅうりしょうがっこう)」、「鳩里保育園(はとのさとほいくえん)等にわずかに残っているだけです。

 そのため、鳩里地区と言われても、「鳩里地区ってどこ」という人も多いのではないでしょうか。なじみの薄い地名になってしまいました。

 鳩里地区探検の前に「鳩里(きゅうり)村」について少しだけ説明をしておきましょう。

 右の地図は。「元禄播磨絵図(部分)解読図」から、さらに現在の加古川市加古川町の部分だけを残したものです。

 地図の加古川村・木村・友沢村・稲屋村とその他の村との間に境界線(郡境)があります。

 左側(西)は印南郡、右側()は加古郡です。

 その昔、郡境が決められた奈良時代、ここを加古川が流れ、両郡の境になっていたのでしょうが、なにせ加古川は暴れ川です。幾度となく大洪水をおこし流路を変えました。

 流路が現在のように定まってからも、加古川町(まち)・木村・友沢村・稲屋村は印南郡のままでした。

 しかし、これらの村々は印南郡に属しているとは言うものの地理的な関係から、加古川東岸の村々との結びつきを強めていきました。

 明治22222日に印南郡加古川町(まち)・西河原村・友沢村・稲屋村・木村が地理的な関係から加古郡に編入、同年41日に粟津村・木村・西河原村・稲屋村・北在家村南備後村の8ヵ村が加古郡鳩里村となりました。

 そして、昭和4年に鳩里村(きゅうりむら)が、昭和12年に氷丘村がそれぞれ加古川村と合併し、現在の加古川町が誕生しました。

 

 では、どうして鳩里(きゅうり)という地名なのでしょうか。

 これは、この地域に名刹、鶴林寺があったからです。

 刀田山鶴林寺は、「班鳩寺」とも呼ばれていました。

 その「鳩」の一字をもって村の名前としました。

 その鳩里村も、大正4年3月20日、鳩里村は加古川町(かこがわちょう)に編入し、行政地名から消えていきました。(no5182

 

 

 

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加古川町中津・河原探検(22) でっかい河川敷のある町:中津・河原

2021-08-24 09:54:54 | 加古川町中津・河原探検 

      でっかい河川敷のある町:中津・河原

 河原の土手にいます。

 時間は5時を少し過ぎです。

 昼間の暑い日差しも少し弱まったようで、涼しい風が吹いてきました。

 河原・中津の西には広々とし田河川敷が広がっています。

 子どもたちが野球をしていました。お母さんたちが応援をしています。

 中津・河原は、普段あまり意識しませんが、でっかい河川敷(グランド)のある町です。

 

 水管橋がありその向こうに升田山があります。素晴らしい景観です。

 その日は、でっかい太陽が西(竜山)の方に沈んでいきましたした。

 加古川にも、こんな素晴らしい風景があったんです。

 

 ここへは、散歩にたびたび来ます。

 幸い、河川敷の真ん中にテニスコートがあります。その横は駐車場ですからそこに車を止めて河原を歩ます。

 ここの散歩は疲れません。草名前を調べてり、復習をしながら歩きます。

 交通事故の心配もあません。

 おじいさんには最適な散歩(運動)の場所です。

 でも、利用されている人が少ないようです。もったいない。

 子どもたちはどうしているのでしょうね。スマホかな。

 もっと、この大自然の中で遊んでほしいです。(no5181

 

〈お知らせ〉

「ひろかずのブログ」では歴史探検シリーズで加古川・氷丘を取り上げましたが、このあたりで加古川町鳩里(きゅうり)地区の探検に出かけます。

*鳩里地区(粟津・稲屋・北在家・木村・友沢・西河原・備後・南備後)

 

 

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加古川町中津・河原探検(21) 河原墓地の石幢(せきとう)

2021-08-23 11:03:59 | 加古川町中津・河原探検 

     河原墓地の石幢(せきとう)塔身

 仏の中で、なんといっても私たちがもっとも親しみを持っているのは地蔵菩薩(じぞうぼさつ)でしょう。

 「お地蔵さん」と呼んでいる仏様です。

 この仏様は、大地の恵を表わしている仏で、世の中が乱れた末法(まっぽう)の時代に入ったとされる平安時代の末頃から庶民のあいだで広く信仰されるようになりました。

 また、お墓の入り口あたりで、よく六体のお地蔵さんを見かけますが、仏教では人間が死んだ後、生前の行いにより、それぞれ六つの世界へ生まれ変わるというのです。

 その六つの世界とは、天上(てんじょう)・人間(にんげん)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・餓鬼(がき)・地獄(じごく)であると言います。

 しかし、心配はいりません。どの世界に生まれかわったとしても、そこへお地蔵さんが現れて死者の相談になってくださいます。

 現代の言葉で言えば、彼岸のカウンセラーですね。

 この「六地蔵」の考えは、鎌倉時代から広がりました。

 六地蔵は、普通六体の地蔵として墓地の入り口などに安置されていますが、河原の墓地にあるものは六角柱の石幢(せきとう)に彫られています。

 銘はないのですが、形式から見て室町時代中期、おそらく永正の頃(造立であろうと思われます。

 この石幢は、墓地の六地蔵に隠れるようにしてあり、注意してみなくては分かりにくき場所にあります。(no5180)

 *写真:墓地の新しく造立された六地蔵の後ろにある石幢(せきとう)塔身

 

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加古川町中津・河原探検(20) 小学校のクスノキは戦前の精神教育の象徴

2021-08-22 11:21:44 | 加古川町中津・河原探検 

      小学校のクスノキは戦前の精神教育の象徴

 氷丘小学校の運動場にみごとなクスノキがあります。

 歴史の古い小学校には、クスノキがあります。

 小学校とクスノキについて書いてみます。

 戦前の教育は、天皇中心の教育でした。

 楠木正成は、天皇の忠実な家来として、歴史上の人物としてだけではなく、精神教育の面で大きな役割をはたしたしました。

 そのため、小学校では、楠木正成の精神をあらわす樹木としてクスノキが植樹されたのです。

 それも、多くの場合、複数のクスノキが植樹されました。

 播磨小学校(播磨町)では、もとは校庭にク・ス・ノ・キ・マ・サ・シ・ゲと8本のクスノキが植えられていました。

 「忠臣楠木正成」を表すために6本を植えたり、「楠木正成」と4本を植えられた例もありました。

 そのクスノキも戦後、児童数の増加やスポーツ熱のさかんになるにつれ、歴史の証として一本を残してほとんどが伐採された。

 氷丘小学校もそんな例の一つと思われますが、詳しくは分かりません。

 氷丘小学校の楠木は、かつては校舎の中庭にあったクスノキで、現在の校舎は当時の運動場でした。(no5179

 

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加古川町中津・河原探検(19) むかし、日岡神社は「日向社」

2021-08-21 09:10:45 | 加古川町中津・河原探検 

 「ひろかずのブログ・中津河原(8日)の一部をもう一度読んでみます。

 ・・・・日岡神社から南の鳥居へ歩きました。

 日岡神社から鳥居まで歩き、そこを右に歩くと大きな道(主要地方道加古川・小野線)と交差します。

 その道をさらに超えると、道は続いていないようですが、よく見ると駐車場の向こうに続いています。

 辺りをキョロキョロして、低い柵を乗り越えて、どんどん歩くと、中津(中条)の墓地に至り、その少し手前の三差路に常夜灯と道標がありました。

 日岡神社からここまで歩いてきた道は、当時(江戸時代以前)の一番の生活道路でであり、日岡神社への参道でした。

 左にある道標には、右 加古新田道、左 国かね三木」とあり、道は加古川の土手沿い、西之山・西条・国包・宗佐を経て三木へと続いています。

 この道は、高砂から加古川を経て三木へ抜ける古道です。

     むかし、日岡神社は「日向社」

 先日、この灯籠のところから墓地からに南へ歩きました。加古川バイパスの下をくぐり、やがて、JRに突き当り道は消えているようですが、江戸時代までは南北を結ぶ重要な道でした。

 戦国時代、三木城攻防戦では三木への兵糧を運んだ道でした。

 加古川バイパスから50メートルも歩くと用水そばに灯籠があります。

 常夜灯は、日岡神社への道であることを示しているのでしょうが、「正一位日向大明神」と刻んでいます。

 「日向社(宮)」は、明治の初めに名前を神社名を今の「日岡神社」と変えています。

 歩いてきたのは、狭い江戸時代の幹線道路でした(no5178)

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加古川町中津・河原探検(18) 三宝荒神

2021-08-20 09:44:35 | 加古川町中津・河原探検 

    三宝荒神

 荒神さんの由来は仏教尊像ではなく、日本仏教の信仰の中で独自に発展した尊像です。

 日本古来の荒々しい神の魂に、古代インドに源泉をもつ夜叉神の形態が取り入れられ、神道、密教、三学区信仰などのさまざまな要素が混交して成立した言われています。

 三宝荒神の像容は、三面六臂または八面六臂(三面像の頭上につの小面を持つ)です。頭髪を逆立てて眼を吊り上げた、暴悪を治罰せんとする慈悲が極まった憤怒の表情を示し、密教の明王像に共通するものがあります。

 不浄や災難を除去する神とされることから、火と竈の神として信仰され、かまど神として祭られることが多くあります。

 これは日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから俗間で信仰されるようになったものであり、仏像としての作例は近世以降のものがほとんどです。

     願成寺の荒神さん

 願成寺の荒神さん(写真)もそのような神であり、その他に虫おくりの火の源として、また村の鎮守としてあつい信仰がありました。

 先日、この荒神さんを探して願成寺におじゃましました。

 この荒神さんを紹介したパンフレット等には「境内に(三宝)荒神さんがお祀りされています」と書かれていますが、それらしきものは、見当たりません。

 お寺で聞いてみました。

 「荒神さんは、ずいぶん傷んだために昨年(平成2年)修理し、10月より荒神さんは本堂でお祀りしている」とのことでした。

 お願いして拝見させていただきました。

 色鮮やかなお姿で、想像していたより小ぶりの荒神さんでした。no5177



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加古川町中津・河原探検(17) 願成寺の鐘

2021-08-19 09:15:36 | 加古川町中津・河原探検 

         願成寺の鐘

 願成寺の境内(本堂の正面)の鐘楼に小ぶりの鐘があります。

 この鐘について『氷岡村実記(山脇重弘著)』で、次のように書いておられます。お借りしました。

 「・・・・お寺の鐘は約500年前の天文年間(西暦1540年ころ)の製作で、十円で購入している。

 戦時中、金属の供出で提出したところ、古いいわれのある有る鐘だとのことで返却されてきた。

 調べてみると、加東郡の神社のであった。

 このことが新聞の記事になり、神社から返却の要請があったが、戦国時代は陣鐘として使用され、徴発と寄進がり、転々と変えていったと考えられ、返還の必要がないということになった。・・・」

 鐘についてはよく似た話がたくさんあります。高砂市の生石神社の鐘・東神吉町升田の妙願寺の鐘の話はよく知られています。

 ここでは余話として妙願寺の鐘について付け加えておきます。

  余話:三木市慈眼寺に東神吉の妙願寺の鐘が

 三木市久留美(くるみ)に慈眼寺(じげんじ)があります。

 慈眼寺は道路からあまり離れていないのですが、山寺の雰囲気いっぱいの曹洞宗の寺です。

 山門を入ると左手に鐘楼があります。

 この梵鐘には、「延慶(えんぎょう)二年(1309)、播州印南郡益田村佐伯寺鐘」の銘がある。*妙願寺は元佐伯寺

 三木市で最も古く、県文化財です。

 この梵鐘は、もと加古川市東神吉町升田にあったが、言い伝えによると、1578年、秀吉による「神吉城」攻撃の際この鐘を奪い、三木城攻撃の折、慈眼寺山門の木にかけ、合図用として用いられたといいます。確かな証拠はありません。(no5176

 *鐘:願成寺の鐘

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加古川町中津・河原探検(16) 願成寺の阿弥陀石棺仏

2021-08-18 10:41:38 | 加古川町中津・河原探検 

      阿弥陀様の石棺仏

 加古川には、不思議な石仏がたくさんあります。石棺に刻まれた仏像、石棺仏です。

 これらの石棺仏は鎌倉時代から、室町時代にかけて多くつくられたが、その後はプッツリと姿を消しました。

 鎌倉時代は、水田の開発が盛んで、土地が新たに開墾されました。多くの古墳もこわされた。

 出土したした石棺は、「手軽な材料?」として仏像をつくる石材として再利用されたのです。

 しかし、単なる廃物利用ではなさそうです。当時の人々も、この石材は、死者を葬った石棺であることを意識していたようです。

 これらの石棺仏は全国で120基ほど確認されていますが、その八割が加古川市、加西市に集中しています。

 加古川市・加西市では、普通に見られる仏像であるが、全国的には大変珍しいものです。



 願成寺の石棺仏(写真)は、さらに数奇な運命をたどったようです。

 石棺仏の横にある説明文を読んでおきましょう。

(以下、説明板より)

 この石仏は、二体の阿弥陀如来様ですが、歯痛の地蔵様といわれ、おまいりされていました。

 昔、加古川の河川敷にうずもれていたものを、ここにおまつりしたと言われています。

 この石は石棺の一部で室町時代前期(約600年前)に石仏が刻まれたようです。(no5175



 

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加古川町中津・河原探検(15) 結界石

2021-08-17 07:06:08 | 加古川町中津・河原探検 

 加古川町河原の願成寺の山門にある石造物「結界石(けっかいせき)」の紹介です。

   結界石

 「不許葷酒入山門」と刻んだこの石塔(写真)は、願成寺の山門の「結界石(けっかいせき)」です。

 「クンシュ、サンモンニ、イルヲ、ユルサズ」と読みます。

 葷酒の「葷」は、ニラ・ニンニク・ネギなどの臭気がある食物や、カラシ・トウガラシなどの刺激性のあるもの、精力の出ると言われている食物、それに肉などを指しています。

 これらは、寺での修行(しゅぎょう)の妨げになるので、それらを食べて寺に入ってはいけない。

 また、酒も飲んで寺に入ってはいけない、と言う意味です。

 禅宗寺院の山門によくみられます。

 願成寺は、曹洞宗(禅宗)の寺です。

 ほとんどの結界石は、江戸時代に造られています。

 願成寺の結界石も江戸時代のものと思われます。

 

     山門を入れば、そこは聖域

 もともと仏教の寺では、葷酒を禁止しています。

 ですから、ことさら葷酒を結界石に刻んで他に示す必要はないとも言われており、これは俗人が寺内にこれら「葷」を持ち込むことを禁じる意味もあるといわれています。

 また、「葷」の造りの「軍」を支配者の意味とし、あわただしい軍乱の中で支配者が交代しても寺院の独立を守るとする説もあります。(no5174

 *『日本石仏事典(庚申懇話会)』(雄山閣出版株式会社)参照

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