ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

尾上町今福探訪(21):尾上村今福誕生(明治22年4月1日)

2009-09-23 23:41:11 |  ・加古川市尾上町

676a5ea4_3   「今福探訪」でイマフクのことを今福と書いたり今福村と書いたりしています。

 少し整理をしておきましょう。

江戸時代、現在の尾上地区には長田・口里・池田・安田・養田そして今福の6ヵ村がありました。

それらの村々は、明治2241日、新しい村制により合併し、尾上村が誕生しました。

 したがって、尾上と言う名称は、この時行政上の名称として使われるようになりました。

江戸時代、江戸時代、尾上村という名称はなかったのです。

 ですから、明治22年4月1日、今福村は、尾上村今福となり今福村はなくなりました。

今福村の名称は、この時なくなったのですが人々は今福のことを引き続き今福村と呼んでいました。

 なお、昭和25年6月15日、加古川町・神野村・野口村・平岡村そして尾上村が合併し、加古川市が誕生しました。

ここに明治38年の尾上村の人口調査がありますので掲載しておきます。

<尾上村(明治38年12月)

男:1612人 女:1610人 合計:3223人 戸数:552軒

図は、『兵庫県市町村合併史・上』(兵庫県総務部地方課)(昭和37)より

私用のため10月10日までブログを休憩します。

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尾上町今福探訪(20):今福村の生産は停滞していたか

2009-09-21 23:11:08 |  ・加古川市尾上町

C80e9899_2 近世(江戸時代)は、石高の時代でした。

田はもとより畑、屋敷も全て米の生産高に換算されました。

村々に課された年貢が、藩(天領の場合は幕府)の財政の基礎になりました。

ですから村高に関しては厳しく、厳密でした。

村高を調べることにより村の規模・生活状況等が想像されます。

今福村の年貢は六つ取(六公四民)で、「今福村の免相(めんあい)」で、紹介した五枚の年貢免状と天保七年(資料1)と明治二年(資料2)から今福村の江戸時代中期・後期の村高を復習しておきましょう。

下記の表にまとめておきました。

(資料1) 『播磨国村々名高帳(天保七年八月)』加西市西横田村横田家文書

(資料2) 『旧高旧領取調帳(播磨国―明治二年)』木村礎校訂

このように見てくると、江戸時代を通じて、今福村の年貢の増減はあまりありません。

「江戸時代を通して今福村はあまり変化のない集落だったんだな・・」と想像してしまいます。

でも、江戸中期・後期は綿作等米以外の生産もずいぶん盛んになりました。

史料(文書)の残っている新野辺村でも見られるように今福村でも耕作(作付け)状況はおおきな変化があり、田と畑の割合も大きな変化があったと思われます。

下記の表の数字と実態はかなり異なっていたと考えられる。

そんな状況を示す今福村の史料(文書)が欲しい。

 今福村の石高(単位:石高)

享保18年(1733) 631.50(外に新田高0.481石あり)

元文 元年(1736) 631.05(    〃        )

元文 5年(1740) 671.05(    〃        )

寛保 5年(1744) 622.75(    〃        )

宝暦12年(1762) 622.75(    〃        )

天保 7年(1836) 631.50

明治 2年(1869) 631.31

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尾上町今福探訪(19):今福村の免相②・減免なる

2009-09-21 09:38:27 |  ・加古川市尾上町

今福の免相(年貢賦課率)を示した五枚の文書を年代順に並べてみます。

① 享保一八年(1733)  本田  六つ   新田 五つ三分

② 元文 元年(1736)  本田  六つ   新田 五つ三分

③ 元文 五年(1740)  本田  六つ   新田 五つ三分

④ 享保 元年(1774)  本田  六つ   新田 五つ三分

⑤ 宝暦一二年(1762)  本田  五つ六分 新田 五つ五分

30782b45 ①~④は、いずれも本田に関しては六割の年貢で、新田は五割三分です。

宝暦十二年(1762)の年貢(図部分)は本田で五割六分に下がっています。

姫路藩の財政は余裕が出てきたのでしょうか。

実情は全く逆で、藩の財政は「火の車」でした。

それでは、なぜ年貢の減免がされたのでしょうか。

このことについては、さらに検討する必要がありそうです。

きょうは、次のように結論づけておきます。

寛延二年(1749)に姫路藩をゆるがす大一揆がおきました。一揆は鎮圧されましたが、この時の農民の怒りは凄まじいものがありました。

その後、藩としても農民の声を無視できなくなったのでしょう。

何らかの農民対策、つまり「年貢をまけろ」という農民の声に耳を傾けざるを得なかったのではないかと推測されます。  

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尾上町今福探訪(18):今福村の免相(税率)①・税は六割

2009-09-20 08:44:27 |  ・加古川市尾上町

D929a3d1  高砂市の郷土史家の船津重次さん(故人)が、今福村の貴重な文書を紹介くださいました。

文書は、今福村への五枚の年貢の割付状(免状)です。この項では、 

享保18年の年貢免状を紹介します。

文書の「免相(めんあい)」は、年貢の賦課率(税率)のことです。

江戸時代の文書なので、少し読みづらいと思いますので解読文をつけておきます。

(解読文)

丑年免相之事

一、 高六百三拾壱石五升

      内 八石三斗  永引

    残高 六百弐拾弐石七斗五升   六つ取

  一、高 四斗八升壱合  新田   五つ三分

  右之通相究候間来ル霜月中

  急度皆済仕可者也

   享保十八年十月十五日 竹内四郎右衛門  ?

              大河内五左衛門  ?

               今福村

               庄屋百姓中 

   

文書の「六つ取」に注目ください。

つまり、今福村の場合、年貢は本田分では取れ高、622石7斗5升の内の6割(373石6斗5升)を年貢として納めました。

「六つ取」は近隣の村々と比べても高い税率といえます。

収穫の少ない村からは六割もの税(年貢)は取れません。生活できなくなりますから。

今福村は、税率六割でもなんとか生活できる比較的裕福な村でした。

新田からの年貢はほとんどありません。

今福村は、古くから開けた土地で、江戸時代には、既に開発が既に終わっており、あまり拡大する土地がなかったのでしょう。

他の4枚の免相については、次回(今福村の免相②)で紹介します。

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尾上町今福探訪(17):伝承・コボネ(小骨)

2009-09-19 10:52:49 |  ・加古川市尾上町

B0c1a72c むかし、むかし今福村のはずれに小さいお堀がありました。

その小さなお堀に、いつの頃からか夏になると決まって、真っ白い、花がさびしげに咲くようになりました。

そんな時、「・・・・今年もコボネが咲いたな・・・」と村人は、悲しそうな顔をしたものでした。

江戸時代は現代と違って、百姓にとって、やりきれない毎日の連続でした。

「やれ、年貢を期限どおりに納めろ・・」だの「道普請(みちぶしん)に出て来い」だのと役人は、百姓をいじめているのではないかと思えるほどでした。

まるで、貧乏神と一緒に暮らしているようなものでした。

それでも、飯が何とか食べられる間はよかったのですが、誰かが病気やケガになった時、また飢饉の時など生活はたちまちにどん底になってしまいました。

誰もどうすることは出来ませんでした。

人知れず命を絶たざるを得なかった赤ちゃんも珍しくなかったようです。

「間引き」です。

そして、赤ちゃんの灰を、この堀に棄てるようになったといいます。

いつの頃からは小さい、かわいい手の形をした「コボネの花」が咲くようになったといいます。

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尾上町今福探訪(16):泉福寺の五輪塔②・旅するゴーリンさん

2009-09-18 10:15:08 |  ・加古川市尾上町

墓地の五輪塔について『加古川市史(第七巻)』に詳しく説明しています。最後の部分を読んでみましょう。

「・・・五輪塔は東北約二五○メートルの延命寺という尼寺にあったものですが、昭和47年7月に墓地の移転にともない移建したという・・・・」

   旅するゴーリンさん

324985e0 上記の記述を別の機会に紹介したところ、今福のSさん(故人)は、次のようなお話をしてくださいました。

「・・・さあ、いつの頃に延命寺さんに来たかの忘れてしもうた。

確かに、小学校卒業時分(大正の終わりごろ)地図ののヶ所にあったのを覚えていますわ・・・何年といわれたらこまるのやが・・・」

さらに、次のような話もしてくださいました。

亡くなられたSさんのお父さんは、ふしぎと、この五輪さん(「ゴーリンさん」と呼んでいた)についてはよく話されたそうです。

「・・・むかし(明治の頃)、あの五輪塔はカモの山にあって、よく遊んだ。

そして、カモの山にはお薬師さんが祀ってあって、そこに「ゴーリンさん」がおかれていた」と。

また、Kさん(故人)も五輪塔がの場所にあったことを話してくださいました。

大正時代、カモの山は削られなくなってしまいました。

たぶんこの時にの場所に移動したのでしょう。

整理してみましょう。墓地の五輪塔は、(カモ山)、(延命寺)そして(現在の場所)へと旅をしています。

なお、カモの山については後に紹介します。

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尾上町今福探訪(15):泉福寺の五輪塔①

2009-09-17 10:16:15 |  ・加古川市尾上町

現在では、路傍の石仏や五輪塔の多くは、誰が造ったのかわかりません。

ましてや、美術品等と考えてつくられたのではありません。今日は泉福寺の五輪塔を訪ねてみましょう。

  五輪塔(ごりんとう)

Imafuku_005_2平安時代以前、仏教は主に貴族や豪族のためのもので、庶民にはまだ縁遠いものでした。

しかし、鎌倉時代に親鸞(しんらん)や日蓮(にちれん)等が新しい仏教をはじめ、またたくまに庶民の間に広まりました。

それまでは、金属や木で見事な仏像がつくられ、それを安置する立派な寺院も多く造られました。

鎌倉時代には、これらに代わって石の仏像や五輪塔が多く造られるようになりました。

石の方が雨ざらしでおけるし、場所をとらず、何よりも安くつくることができました。

五輪塔は、鎌倉時代や南北朝時代までは死者の冥福(めいふく)を祈る供養塔であっても、多くの場合、まだ個人のためのものではなかったのです。

これが、個人の墓塔に使われだすのは、次の室町時代を待たねばなりません。

生活に余裕のなかった当時の庶民は、数人で、また村全体で自分の祖先の魂(霊)を供養するために五輪塔を造りました。

ですから時代が新しくなるほど、一般的には五輪塔は小さく、また簡素なものが多くなります。

仏教では「私たちの住む世界の全ての物質と現象は、五つの元素(空気・風・火・水・土=地)の組み合わせにより成り立っている」としています。

五輪塔は、これら五つの元素を形にしたもので、それぞれ上から空輪・風輪・火輪・水輪・地輪と名前がついています。

  泉福寺の五輪塔・一結衆

泉福寺の五輪塔は、火輪の一部が破損していており、幅に対して高さがあり、やや不安定な形になっています。

   竜山石製     1.82メートル

   銘文       文和二年二月二五日

            一結衆

文和二年・・・1353

 銘文の一結衆(いっけつしゅう)に注目ください。

 五輪塔の造立者は一人で造立するには負担が多すぎたのでしょう。同じ信仰で結ばれた講を組織して、多数の願いで造っています。

 泉福寺の五輪塔は、同じ信仰を持つ講衆、つまり今福村全体で造立したと考えられます。

 この五輪塔について『加古川市史(第七巻)』は「・・・もともとこの場所にあったのではなく、現在の公会堂のあるところに泉福寺の支配下の薬師堂・延命寺(えんめいじ)があり、そこに置かれていました。それが昭和477月、現在の場所に移されました・・・」と書かれています。

 若干間違いがありそうです。『加古川市史(第七巻)』の説明について、明日の「今福探訪」で、訂正します。

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尾上町今福探訪(14):墓地の石幢(せきとう)

2009-09-16 13:47:46 |  ・加古川市尾上町

Imafuku_001 仏の中で、なんといっても私たちがもっとも親しみを持っているのは地蔵菩薩(じぞうぼさつ)ではないでしょうか。

ふだん、「お地蔵さん」と呼んでいる仏様です。

この仏様は、大地の恵を表わしている仏で、世の中が乱れた末法(まっぽう)の時代に入ったとされる平安時代の末頃から庶民のあいだで広く信仰されるようになりました。

また、お墓の入り口あたりで、よく六体のお地蔵さんを見かけますが、仏教では人間が死んだ後、生前の行いにより、それぞれ六つの世界へ生まれ変わるというのです。

その六つの世界とは、天上(てんじょう)・人間(にんげん)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・餓鬼(がき)・地獄(じごく)であると言います。

しかし、心配はいりません。どの世界に生まれかわったとしても、そこへお地蔵さんが現れて死者の相談になってくださいます。

現代の言葉で言えばカウンセラーですね。

この「六地蔵」の考えは、鎌倉時代から広がりました。

六地蔵は、普通六体の地蔵として墓地の入り口などに安置されていますが、泉福寺の墓地にあるものは六角柱の石幢(せきとう・写真)に彫られています。

銘はないのですが江戸時代の初期の石幢と思われます。

尾上町では、同じような石幢が池田の観音寺の本堂の西側にあります。

泉福寺墓地の石幢は、もとは大角(おおすみ)の墓地(今福の北西角、字:大角)にあったのですが、墓地の移転に伴い現在の場所に移されました。

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尾上町今福探訪(13):今福誕生②

2009-09-16 07:08:24 |  ・加古川市尾上町

004 今福の記述のある石清水八幡宮の文書(もんじょ)は、当時の地方のようすがわかる貴重な史料であり、『兵庫県史』でも紹介しています。

『兵庫県史』では、さらに建久元年十二月、八幡宮の願いがかなえられたことも記述しています。

建久元年は1190年のことです。

鎌倉幕府の成立は1192年です。

今福の記述のある石清水八幡宮の文書の承安元年(1171)、建久元年(1190)は鎌倉幕府の始まる直前です。

もっとも、記録にある平安時代の末期に今福の集落が誕生したのではありません。

当然、それよりも以前に集落は存在していたはずです。

とするといつの頃でしょう。

今福には、奈良時代の条里制の跡もあります。おそらくは奈良時代には既に、この地に集落ができていたのでしょう。

でも、今福と言う名称ではなかったと思います。

また、「今福弥生遺跡」でみたように、今福には弥生時代にすでに人々が住んでいたことが確かめられています。

弥生時代、古墳時代、奈良時代、そして平安時代を通じてずっと今福の地には集落があったと考えられます。

ただ、その地を「今福」と命名されたのは平安時代のようです。

「今福八幡社の祭神」(今福探訪・5)で、「今福八幡社(写真)と石清水八幡宮は、どんな関係があったのでしょう」と書いておきました。

もうお分かりだと思います。

「今福八幡社」は、京都の石清水八幡宮の荘園であり、今福が荘園になったとき、石清水八幡宮の祭神を勧請したのでしょう。

*以下、今福誕生①・②の要点を英語にしておきました。

Imafuku-Sho (A Medieval Manor in Imafuku Village)

In the Heian period, aristocrats, temples and shrines in Kyoto expanded their private lands.

In the Heian period, private lands belonging to the Todai-ji temple in Nara were located in the Kakogawa district.

We want to discuss the private land in Imafuku.

Imafuku Hachimangu Shrine is located to the east of the Sanyo Onoeno-Matsu Station and enshrines the same deities as those in Iwashimizu Hachimangu shrine in Kyoto.

There was an old document in the shrine, written in 1171 which has the following description.

“The government officials managing the Kakogawa district are failing to collect taxes from the private lands of Iwahsimizu Hachimangu shrine”. It expresses the situation of the time well.

That is, the power of the central court was becoming weak and that of local clans was increasing.

A history of Kakogawa City  Ed. by Hirokazu Iinuma

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尾上町今福探訪(12):今福誕生①

2009-09-15 08:37:16 |  ・加古川市尾上町

「自分の住んでいる町は、いつごろ誕生したのだろうか」

 最近できた団地や江戸時代に成立した新田等から発達した町の場合は、史料からルーツをたどることができます。

しかし、古い歴史の地域は、多くの場合はっきりとしません。

さて、今福の場合ですが、近隣の地域と比較しても古い歴史を持つ集落であったようです。

学校の歴史の授業で「荘園」について学習されたと思います。

京都の石清水八幡宮(写真)の荘園の記録に今福が登場します。

石清水八幡宮は、「石清水八幡宮の荘園である播磨の国の今福荘を天皇の命令(権力)で守ってください」と天皇に願いにでているのです。

承安元年(1171)のことです。

   石清水八幡宮・別院宝塔院領「(播磨)今福荘」

14a52fab 次の文章は、『加古川市史(第一巻)』からの抜粋です。文章が若干難しいのですが、今福の歴史を語る時、抜かすことはできません。

資料のつもりで転載します。

・・・

承安元年(1171)十二月の「官宣旨(かんせんじ)」にみえる。

石清水八幡宮の別院・宝塔院領十二荘の一つに「播磨今福荘」が見える。

今福の地名が遺存しており、加古郡におかれた荘園であったと考えられる。

この宣旨は、宝塔院の院主であった法印成清の訴えを受けて出されたものであるが、その訴えには次のように見える。

・・・

伊予・播磨・備中等の九ヵ国に散在する十二荘は宝塔院の名はあるものの、これを私領とする領主らが院家(石清水八幡宮の宝塔院)の命令に従わず、年貢を未納し、院家のための雑役も勤めない。

これは代々の院主が、まるで私領のように勝手に自分の子孫に処分してきたためである。

このような状態は国家のためには、はなはだよくないことなのであり、天皇の綸旨(りんじ・天皇の命令)によらなければ院領を回復することはできない。

どうか十二荘を院家に対する宣旨を下していただきたい、と。

・・・・

   今福は承安元年(1171)には、確実に存在していた

平安時代も末期になると下級の領主の荘園に対する支配力が強まり、貴族や寺社の権利が侵害されるようになりました。

石清水八幡宮も支配力が弱まり、石清水八幡宮に従っている下級の領主が独立性を強め年貢などを納めなくなりました。

それに対して、石清水八幡宮は天皇に助けをもとめています。

その文書に今福が登場しています。

ということは、この記録から今福は、承安元年(1171)には確実に存在したことを知ることができます。

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尾上町今福探訪(11):好字「今福」

2009-09-14 09:58:01 |  ・加古川市尾上町

好字「今福」

F1c974fe 『続日本記』(しょくにほんき)には、和銅6年(713)に「郡・郷名には好字を用いなさい・・・」という命令が出されたことが記されています。

また、延喜式にもよく似た命令「凡そ(およそ)、諸国郡内部・里等の名、ならびに二字を用い必ず嘉名をとれ・・・」とありあます。

「縁起のよい二文字で地名・郡名を記せ・・・」という命令なのです。

「好字を持つ土地は栄える」と信じられたようです。

これは遣唐使などにより、中国から持ち込まれたハイカラな新知識が採用されたためです。

やがて、この伝統は定着し一般化します。

「今福」は、平安時代の末期、建久元年(1190)の、石清水八幡宮の文書の中に「播磨の国今福」として登場します。

石清水八幡宮と今福の関係は後に見ることにしましょう。

    い ま

今福の「いま」は「新しい」と言う意味で、今福は「新しく誕生した福(幸運)に恵まれた集落」と言う意味でしょう。

 「今・いま」のつく地名は、今山・今木・今川・今宮・今堀・・・と多くあります。

もちろん、今福という好字を持つ地名は全国にたくさんあります。

兵庫県では尼崎市の今福がよく知られていますが、尼崎市の「今福」は、尾上の今福より新しく中世になり見られる地名です。

今福の地名について調べたついでに「尾上(おのえ)」についても少し考察しておきましょう。

尾上は、元「尾江」と称していました。

尾上は、加古川の河口近にあり、洲が尾のように長く伸びたところに発達した所という意味でしょう。

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尾上町今福探訪(10):蛍の里・今福

2009-09-13 17:47:12 |  ・加古川市尾上町

前回、フケの川(五ヶ井用水)をとりあげました。

城山三郎氏の小説『部長の大晩年』に、今福の「フケの川」あたりの記述があります。

余話としてとして紹介しておきましょう。

なお、モデルになった今福出身の俳人・永田耕衣さんについては後日あらためて紹介します。

文中の「水を引き込んだ水路」とは、フケの川(五ヵ井用水)のことです。

  蛍の里・今福(『部長の大晩年』朝日新聞社)より

75dadd09 目を遮るものない平野。耕衣の家から東へ二里のところに、三重の塔のある鶴林寺の森が見える。

聖徳太子の命で創建された由緒ある寺で、境内も広く、日ごろ各地から参詣者があるが、寺の行事のときには、芝居や見世物が出た。

・・・そのあたり(今福村)、加古川の豊かな水を引き込んだ水路には、鮒(ふな)、泥鰌(どじょう)、鯰(なまず)などが多く、林蔵()が鯰を好むので、耕衣はとくに鯰を狙った。

岸辺の水草や藻をつついて追い出したのを、タモですくったり、小さなかえるを縛り付けて針でつり上たり。

そうした鯰や川蝦(えび)を父子で火に焼いて食べた。

・・・・

初夏には蛍が特に多いところで、無数の蛍が群れて、いくつもの光の玉、光の雲のようになり、輪を描きながら、夜空を低く舞う・・・

・・・・(小説『部長の大晩年』より)

Sさん(故人)に取材したことがある。もう10年も前のことです。

Sさんが少年の頃(戦前)、「フケの川には蛍は涌くようにいた」と話してくださった。

*城山氏は小説で「鶴林寺を耕衣の家から東へ二里」と書いているが、直線にして東へ1キロもない距離のところにあります。

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尾上町今福探訪(9):フケの川(五ヶ井用水)

2009-09-12 14:09:51 |  ・加古川市尾上町

フケの川(五ヶ井用水)

『日本書紀(にほんしょき)に、次のような話があります。

・・・

(今から1300年以上も前のことです)聖徳太子は、叔母君の33代・推古天皇(すいこてんのう)のために法華経(ほけきょう)の講義をしました。

これを聞かれた推古天皇は、大いに感動され、その労をねぎらうために、播磨の国の良田、500町歩を聖徳太子に与えました。

太子はこれをありがたくお受けして、斑鳩寺(揖保郡太子町)と鶴林寺に分け、それぞれ361町、139町を分け与え荘園としました。

・・・・

D96d23ec そして、鶴林寺の田畑を潤すために造られたのが「五ヶ井用水」だというのです。

しかし、加古川の本流に堰(せき)を築き、洪水の時にも崩れない、しっかりとした堤と水門をつくり加古川から取水するためには、それだけの技術の進歩が必要となります。

聖徳太子の時代には、まだそれだけの技術の発達はありません。

それに、何よりもひろい地域を一体的に支配する権力者が出現し、村々の代表の結びつきができなければ、ひろい地域の灌漑施設できません。

このようなことから考えて、現在の「五ヶ井用水」は、戦国時代以降とみてよいようです。

それ以前の水路は、加古川の古い流路を利用していたと考えられます。

   なぜ「五ヶ井用水」

五ヶ井用水の名称は、昔の①北条郷(大野・美乃利・平野・中津・寺家町・篠原・溝口)

②岸南庄(加古川‐現在の本町・木村・友沢)、③長田庄(長田・安田・新野辺・口里・北在家)、④加古庄(粟津・備後・植田)それに⑤今福庄の五つの地域と集落に水路が引かれているところからつけられた名称です。

五ヶ井用水は、幾筋にも分かれていますが、今福を通る五ヶ井は、神鋼々線のグランドに沿って流れる用水です。

中谷理髪店のところを西にカーブし、新幹線とまじわり流れる養田川がそれです。

昔はホタルが飛び交い、水遊びの子どもの歓声があったといいます。

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尾上町今福探訪(8):今福古代寺院

2009-09-11 14:19:38 |  ・加古川市尾上町

5e7f5269 奈良時代以前の古代寺院が、史料として書き残されている例は、多くありません。

地方ではほとんどなく、加古川市内においても、古代寺院のあったことの研究は考古資料にたよらざるを得ません。

  古代寺院の古瓦の出土地

 手がかりになるのが古瓦の出土地です。

 現在のところ、次の場所で古瓦が採集されています。

 ① 八幡町上西条古堂(字:池尻)

② 神吉町西条北山

 ③ 神野町石守(字:丸山)

 ④ 平岡町新在家横蔵寺

 ⑤ 尾上町今福(字:中村)

 ⑥ 加古川町溝之口

 ⑦ 加古川町北在家鶴林寺

 ⑧ 野口町野口(字:宮の東)

 ⑨ 野口町古大内(字:中畑)

 ⑩ 東神吉町中西(字:堂垣内) 

 ⑪ 平荘町山角(平荘小学校付近)

幻の今福古代寺院

仏教が日本へ伝えられた頃(6世紀)です。

まばゆいばかりの仏様をみて、その教えは、はっきりと分からないものの、寺院や仏像のまばゆさに驚き、恐れました。

やがて、仏教は日本の各地にどんどん広がっていきました。

加古川地方にも伝えらました。

それも比較的早い時期であったようです。

白鳳時代(大化の改新:645~奈良時代のはじめ:710)には既に伝わっています。

古瓦が見つかった場所が、即、「古代寺院跡か?」というと、さらに研究が必要のようです。

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 加古川市の場合、上記のように②西条、③石守、⑧野口、⑩中西、⑪山角に古代寺院のあったことは確認されています。

今福の場合、古瓦の出土はあったものの、寺院があったのかについては、確定していません。

奈良時代も、都を少し離れると、そこには茅葺の家々が、わずかにあるばかりでした。

そんな、風景の中に今福に古代寺院が聳えていたのでしょうか。

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尾上町今福探訪(7):今福にみる条里制

2009-09-10 12:11:58 |  ・加古川市尾上町

 奈良時代、天皇に権力が集まりました。中央・地方のしくみも整ってきました。

 地方には国司(こくし)・郡司(ぐんじ)・里長(さとおさ)等の地方官が置かれました。

これらの地方官の主な仕事は治安と農民から年貢を確実に取ることでした。

この税を確実にするための土地制度が条里制(じょうりせい)です。

   条里制

524b43de 条里制は、たぶん7世紀の末には始まっていただろうと思われます。

その仕組みを簡単に説明しておきましょう。

6町四方(43ヘクタール)の大区画を縦横6等分し、36の小区画に分けました。

そして、その一つをさらに36等分に分け、それぞれに一の坪、二の坪、三の坪・・・・三五の坪、三六の坪のように番号をつけました。

現在でもこのような坪名が小字として各地に残っています。

よく知られているものに大阪市の「十三(じゅうそう)」があります。

これは「十三の坪」からの地名です。

   加古川市に残る条里制

市内では図のように五の坪(加古川町西河原)、九の坪(加古川町溝の口)、五の坪(尾上町養田)、十二の坪(尾上町長田)、五の坪(八幡町中西条)等に小字名として残っています。

現在、長い歴史の中で坪名も消えて復元するのが難しいのですが、今福でも条里制が実施されていたようです。

   今福に残る「三の坪」

045_2 今福の字(あざ)を再度「尾上町今福探訪(6):今福の字名」で、「三の坪」を探してください。

岡田昭夫さんのお宅がある一角(写真)です。

この外、今福には「梅が坪・久」の小字がありますが、これらの小字名が条里制と関係があるのかについては今後の研究が待たれます。

今福に、このような条里制に関係した字が残っているということは、今福は少なくとも奈良時代には耕作された田畑が広がっていたことを示しています。

おそらく集落もあったのではないかと想像します。

今福はずいぶん古くから開けた土地のようです。

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