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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

東播磨の中世石塔と文観(15) いま 加古川市の中世がおもしろい

2017-04-06 17:53:37 | 東播磨の中世石塔と文観

    

     いま 加古川市の中世が、おもしろいのですが!

 「文観は加古川に生まれた」ということを紹介したいために、山川均論文「東播磨の中世石塔と文観」をお借りして紹介しました。

 でも、残念な現象が見られました。

 「ひろかずのブログ」は、ここしばらくは、一日2000ほどのアクセスが続いていたのでしたが、文観を紹介するようになってアクセスが1000ぐらいに徐々に減ってしまいました。

 その原因は、もちろん私の文章のまずさ、わかりにくさ等があったと思いますが、何よりも「一般的に文観・後醍醐天皇、そして南北朝時代について、信長・家康のように予備知識がなく、したがって興味をお持ちの方が少ない」ということではないかと想像されるのです。

 教科書にもあまり登場しませんでした。

 『太平記』等を読んでも、人物が入り乱れて頭は混乱するばかりです。

 でも、南北朝時代は、日本の分水嶺(時代を二分した)の時代です。

 これからも、文観を通して加古川の中世の探検に出かけましょう。

 中途半端におわりますが、今、加古川市の中世の歴史がおもしろくなってきています。

 後醍醐天皇・文観について『異形の王権(網野善彦著)(平凡社の文庫本)を読み返しています。

 *『異形の王権』には、文観・後醍醐天皇は登場しますが加古川との関係の記述はありません。

    次回から「大庄屋・大歳家のはなし」です

 次のブログから、新しい話題に移ります。次の話題は、加古川市別府町新野辺にある、「江戸時代の大庄屋・大歳家」のはなしを計画しています。

 この話も、「興味を持って読んでいただけなくなるのでは」と心配しています。

 でも、大歳家は現在すごく傷んで修理が必要になっています。

 このまま放置すると貴重な加古川市の文化財が消滅してしまいます。

 そのことを皆さんに訴えたいために書くつもりです。

 引き続きお読みください。(no3536)

 今、加古川市の中世の歴史がおもしろくなってきています。

 *写真:伊派の層塔のある福田寺(春の中の福田寺)、福田寺については「東播磨の石塔と文観(12)」をお読みください。

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東播磨の中世石塔と文観(14) 分水嶺の時代

2017-04-06 10:25:01 | 東播磨の中世石塔と文観

            文観を追え  

 13世紀後半を想像しています。

 社会は、混乱の中にありました。

 とくに、南北朝の動乱は、その権威のしくみそのものが激変した時期だと考えられます。

 というのは、とうじ鎌倉幕府はまだ残り火があったと思われますが、後醍醐天皇が倒して新しい建武政府をつくりました。

     分水嶺の時代

 この建武政府は、極めて異様な政府でした。

 後醍醐は、天皇の権威と権力を極端にまで高めようとしたのです。

 それもわずか三年ぐらいでガラガラと音を立てて崩れさってしまいました。

 この建武政府の三年間は、極めて異様な事態をもたらしました。自らも倒壌します。

 つまり、当時の日本国を統合していた幕府と天皇の二つの大きな権威が、一挙に壊れてしまったのです。

 しかも、壊れ方が尋常でなかったのです。

 後醍醐天皇が、古代からの天皇制の伝統を背景にして、異様なほどに天皇の権力を強めようとしたのですが、そういう王権が一挙に崩れたわけですから、これは社会を統合する権威のあり方を大きく変えることにならざるをえませんでした。

 結果、13世紀後半から14世紀にかけての時期は時代の大きな転換期となりました。日本歴史の大きな分水嶺となりました。

 しかし一方、この時代は貨幣が社会に深く浸透・流通しはじめた時代であったことも忘れてはなりません。

 読み書き、計算の能力も庶民にひろがり、さまざまな社会的な発展がありました。

 つまり、南北朝時代は、日本史における大きな分水嶺の時代となった時代でした。

 この南北朝時代の主役は、まぎれもなく後醍醐天皇でした。そして、文観は後醍醐天皇のブレーンでした。

 いままで、加古川(市)と文観の関係ははっきりとしませんでした。

 その文観が加古川生まれということが石造物の研究から確実視されようとしています。

 後醍醐天皇・文観・西大寺の関係を「東播磨の中世石塔と文観(山川論文)」から常楽寺の宝塔(加古川市加古川町大野)・一乗寺の傘塔婆(加西市)・報恩寺の五輪塔(加古川市平荘町)・福田寺層塔(加古川市加古川町稲屋)を通してみてきました。

 いま、加古川市の中世の歴史が熱くなってきました。ワクワクしてきます。

 今後、東播磨(加古川市)の中世・文観の研究が進み、さらに文観がさらに姿をあらわれてくると考えられますが、ここでいったん文観の話題をお休みします。(no3535

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東播磨の中世石塔と文観(13) 東播磨正和石塔群造立の背景

2017-04-05 07:03:47 | 東播磨の中世石塔と文観

    東播磨正和石塔群造立の背景

     山川論文「東播磨の中世石塔と文観」のまとめより

 八田洋子氏は、福田寺層塔の解説文の中で、「播麿地方には、正和の銘の入った石造物が四基ある・・・(中略)・・・これらは、中央の伊派の作晶であることが考えられる」という重要な指摘をされています。

 この四基の石造物とは、常楽寺宝塔・報恩寺五輪塔・一乗寺笠塔婆・福田寺層塔のことです。

 これらの石塔群を山川論文では「東播磨正和石塔群」と一括して紹介されています。

 この東播磨正和塔群のうち、常楽寺宝塔と福田寺層塔の基礎格狭問の形状が非常に類似する点は、先に紹介したように八田氏によって指摘されています。

 この他にこれらの石塔間の共通点を探るなら、石塔が造立さている場が、いずれも文観や西犬寺と関係の深い寺院であることです。

 一乗寺笠塔婆が後醍醐天皇(実際は即位前〉の「勅」よって、文観を中心に造立されたものである可能性を示唆されています。

 一乗寺の傘塔婆造立の一年数か月後に後醍醐天皇が即位しています。

 そして、鎌倉幕府打倒の計画、つまり「正中の変」と奈良の般若寺文殊像造立の関係(詳しくは、『異形の王権(網野善彦著)』を参照ください)から推測すれば、束播磨正和石塔群は、後醍醐天皇(尊治親王)の即位を祈願して造立されたものだという推測が成り立つようです。

 おそらく、その中心にいた人物は文観であり、石塔はその影響の強い場(寺院)において造立されたのであると考えられます。

 以上が、山川論文の要旨です。

 専門的な点を大幅に省いて山川論文を紹介しました。そのため内容が正確に伝わっていないのではないかと心配しています。

 山川均論「東播磨の中世石塔と文観」(「奈良歴史研究」第86号)をお読みください。(no3534

 *写真:宝塔(常楽寺・加古川市加古川町大野)

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東播磨の中世石塔と文観(12) 稲屋、福田寺の層塔

2017-04-04 08:42:56 | 東播磨の中世石塔と文観

      稲屋、福田寺の層塔

 自宅から1キロほど西へ行くと稲屋(加古川市加古川町稲屋)の集落があります。

 稲屋は、『日本書紀』に「鹿子の水門(かこのみなと)」が加古川の河口部にあったという場所です。

 研究者は、「鹿子の水門」は、現在の稲屋(加古川市加古川町稲屋)辺りで、当時は、このあたりまで海が迫っていたと推定しています。

 稲屋の近くにある泊神社は、地域の氏神であり、古代の港(水門・みなと)の守護神であったと考えられています。

 この稲屋に福田寺という古刹があります。「ふくでんじ」と読みます。

 福田寺の山門をくぐるとすぐ左(西側)に、現高355㎝の花崗岩製層塔があります。

 現在は十一重ですが、本来は十三重であったと思われます。

 塔身(初層軸)には、三面に如来像を浮き彫りされています。

 この反対の面の如来像両協に銘文があり、銘からこの層塔は、正和二年(1313)に、尼西河弥陀仏を願主として造立されたものであることがわかりました。

 大野の常楽寺の宝塔と比較すると格狭間の下端幅は福田寺噌塔の方が狭いことが判明していますが、研究者は、「この層塔の格狭間(こうざま)は、常楽寺宝塔の基礎格狭間と酷似しており、格狭問が入る区画の規模は両者でまったく共通し、かつ格狭間自体も酷似ている」と指摘されています。

 したがって、「その地理的・時期的近さを考えると福田寺層塔と常楽寺の宝塔は同じ石工(集団)によって造立されたとみなしてよい」とされています。

 

 西大寺と後醍醐天皇は密接な関係を持っています。その西大寺で文観は一時籍を置いています。

 ここでも、西大寺・後醍醐天皇・文観の結びつきが浮かび上がってきました。(no3533

 *写真:福田寺の層塔

 *「東播磨の中世石塔と文観」(山川均論文)参照

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東播磨の中世石塔と文観(11) 法華山の一乗寺の傘塔婆

2017-04-03 08:48:44 | 東播磨の中世石塔と文観

 今日は、山川均先生の論文「東播磨の中世石仏と文観」をお借りして、一乗寺と傘塔婆の話です。

    法華山の一乗寺の傘塔婆

 文観が正応三年(1290)、一乗寺において慶尊律師の下で得度(とくど・出家)しました。

 文観13歳の時でした。

 ということは、文観が小僧として常楽寺(加古川町大野)に入ったのは10歳ごろだったのかもしれません。

 一乗寺の正門付近は、高さ290㎝の大型の笠塔婆(凝灰岩製)があります。

 文字は読みにくいですが、写真をご覧ください。

 塔身正面の上部に種子(梵字)「アーク(大日如来)」と彫り、その下に大きな字で「金輪聖王」、その下に少しあけて「自金堂一町」と彫られています。

 その下に、やや小さな字で「正和五 十二月廿一日」「依 勅造立之」と二行に分けて刻まれています。

 この笠塔婆は、正和五年(1316)十二月に造立されたものであることを知ることができます。

 「勅」というのですから、通常ならは天皇による命です。

 この傘塔婆の場合「金輪聖王」という表現に注目ください。

 文観は、よく知られているように後醍醐天皇のことを、しばしば「金輪聖王」と呼んでいます。

 一乗寺の笠塔婆銘文の「金輪聖王」も、後醍醐天皇を指す可能性は高いと考えられています。

 また、一乗寺と文観の関係を考えればその可能性はますます高まります。

 また、ある学者は、一乗寺の傘塔婆にある梵字・アーク(大日如来)の字体は文観の字体によく似ているといわれています。

 なお、この傘塔婆については、後醍醐天皇がこの場所で輿を降りられたので、その後はいかなる貴人もここで下乗するようになったという伝承があります。

 文観・一乗寺・後醍醐天皇は、強い糸でつながっているようです。(no3532

 *写真:一乗寺の傘塔婆

 *「東播磨の中世石仏と文観(山川均先生の論文)」参照

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東播磨の中世石塔と文観(10)  文観のご先祖は関東武士

2017-03-31 09:32:39 | 東播磨の中世石塔と文観

 老後を楽しんでいるお爺さんです。コーヒーを飲みながら勝手のことを史料もなく考えています。今日は、怪しげな余話です。

    素人(私)の想像・・・

 史料①で「・・・文観の弟子であった宝蓮が筆写した『瑜伽伝灯抄』によれば、文観は源雅信第十三代の子孫・大野源大夫重真の息子であるが、この重真は播州の人である」ということを紹介しました。

 そして、前号で、父の大野重真の名前「大野」から文観は地元・大野出身であると想像しました。

 もう一つ、想像が重なります。

 文観の先祖は「源雅信」と書いていることです。ということは、文観のどの時代かわかりませんが、元関東武士ではないかとも考えられます。

     関東武士

 平清盛の支配した五箇荘は、加古川市域・高砂市域をはじめ、明石市の林崎あたりまでも含む、とてつもなく大きな荘園でした。

 清盛は、播磨国に大巧田(だいこうでん)を賜りました。仁安2年(1167)のことです。

 功田(こうでん)というのは、律令制度の下で、国家に対して貢献した人に与えられる田地のことです。

 なかでも大功田は、代々子孫に伝えることができる特別の無税地です。

 しかし、平氏は滅亡しました。

 平氏の持っていた所領は全て没収されてしまいます。没収された平家の所領を平家没官領(もっかんりょう)と呼んでいます。

 この平家没官領に新しく関東から源氏系の武士が大量の流入してきたのです。このようにして、播磨の中世(鎌倉時代)は、はじまりました。

     余話:文観・後醍醐天皇
 永井路子さんは『歴史の主役たち』で次のような文章を書いておられます。
 ・・・「最近歴史ブーム」なのだそうだが、中で南北朝の一時期だけは、まったく人気がない。
 これは戦争中に日本人が、いやというほど叩きこまれた皇国史観の後遺症なのだろうが、私はいま、この時代に大いに興味を持ち始めている。
 単なる昔の歴史を懐かしむという意味ではなく、いや、むしろそれとは反対の意味でだが、むしろそこをはっきり見つめなくては、戦前戦後を含めた現代の日本の諸問題をみすえることはできないのではないかという気さえしているのだ。・・・
    
時代を変えた南北朝時代
 永井路子さんが上記の文章を書かれたのは1990年で、最近は、少し事情は異なり南北朝時代の研究も大きく進んでいます。
 当然です。南北朝時代は、日本の古い社会が終わり、近世の扉をこじ開けた時代です。
 日本史でこの時代は、ものすごい意味のある変革の時代でした。
 その南北朝時代の中心にいたのが後醍醐天皇であり、そのブレーンが文観でした。
 加古川市からもっと全国に後醍醐天皇・文観について発信したいですね。(no3529)

 *写真:後醍醐天皇(大徳寺蔵)

   〈お知らせ〉

   あす、城山ハイキング

      集合:円照寺(東志方広尾)

      時間:10:00~

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東播磨の中世石塔と文観(9) 文観は大野(加古川町大野)の人

2017-03-30 08:24:54 | 東播磨の中世石塔と文観

       文観は語らない

 それにしても不思議なことです。

 おいおい文観の経歴も紹介したいのですが、日本の歴史を大きく揺すった後醍醐天皇のブレーンとして歴史にその名を残しておきながら、自分の子供のころについては何にも語っていません。

 その文観が、加古川出身ということになれば、さらに若いころ、つまり加古川時代の文観ついて知りたくなります。 

 今回の内容は「歴史」ではありません。私の勝手な「物語」としてお読みください。

 前回の史料を手がかりに語ってみます。

 前回の史料①、・・・文観の弟子であった宝蓮が筆写した『瑜伽伝灯抄』によれば、文観は源雅信第十三代の子孫・大野源大夫重真の息子であるが、この重真は播州の人である。

 史料②、興福寺の衆徒が文観を「(文観は元)西大寺末寺、播磨国北条寺之律僧也」と述べている。

 特に①の資料に注目ください。史料にあるから事実であるとは限りませんが、この資料を手掛かりにします。

     文観は大野の人

 史料①は、名前からして武士のようです。

 それも、大野重真の子というのですから、祖先の出身地は定かではないのですが、大野に定住した武士だと想像します。

 この時代ですから、当然農業も兼ねていた武士のはずです。

 それもあまり高い位ではなかったかと想像するです。

 その武士の子が僧侶を選んで常楽寺の僧を選んだ理由はなんだったのでしょう。

 史料があっての話ではありません。後の文観から想像してみます。

 彼は、非常に聡明な人物で絵や文字の才能に恵まれた人物だったようです。

 才能に恵まれながら、地位のあまりない人物が世に出ようとすれば一番の近道は僧侶になることです。

 僧侶は、身分に比較的関係なく能力が認められる仕事です。

 田舎の武士の子文観も大望(野望)を持ち僧侶になることを選んだのではないかとは想像するのです。

 文観は、二男か三男であったのかもしれません。長男であれば家を継がなければなりません。

 大野に住んでいた文観です。大野の常楽寺を選んだのは自然のことのようです。(no3528)

 *写真:現在の常楽寺山門

   〈お知らせ〉

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東播磨の中世石塔と文観(8) 文観の若い時代の姿

2017-03-29 07:36:25 | 東播磨の中世石塔と文観

 今日は、文観が加古川出身であること、常楽寺に関係した僧であったことを復習しておきましょう。

    文観について

 ◇「・・・文観の弟子であった宝蓮が筆写した『瑜伽伝灯抄』によれば、文観は源雅信第十三代の子孫・大野源大夫重真の息子であるが、この重真は播州の人である」と記録しています。

 ◇興福寺の衆徒が文観を「(文観は元)西大寺末寺、播磨国北条寺之律僧也」と述べている史料があります

 中世史の専門学者である網野善彦氏は、『日本中世史像の再検討』(山川出版社)で、はっきりと、「文観は、播磨常楽寺(現加古川市加古川町大野)の僧侶であった」と断言されています。 

    常楽寺について

 ◇『西大寺諸国末寺帳』のうち明徳二年(1391)に作成された「明徳末寺帳」には「播磨国」の西大寺のとして筆頭に常楽寺」の名があり、傍注には「北条」と記されています。

 (北条は、江戸時代の集落名では大野村・大野新村・中津村・平野村・河原村・溝ノ口村・間形村・篠原村・寺家町を含む地域です)

◇伝承も含んでいますが『大野史誌』を読んでおきます。
 「・・・(常楽寺は)正嘉(しょうか)二年(1258)八月、後深草天皇のとき、暴風雨のため堂宇は破壊され、一字だけ残る。
 その後、小野文勧(文観)僧正(1278~1357)によって復興され、堂宇は古(いにしえ)のように造営された。
 末寺18ヵ寺、僧坊は56宇、寺領は三百石であったという。
 また、常楽寺は正嘉二年(しょうか・1258)八月、後深草天皇のとき、暴風雨のため堂宇は破壊され、その後、小野文勧(文観)僧正(1278~1357)によって復興され、堂宇は古(いにしえ)のように造営された。

 ◇『信仰の美術』(加古川文化センター)は、「・・・・現在の加古川町大野付近は、中世には播磨国賀古郡北条郷(かこぐんほうじょうごう)として栄えており、その中心寺院であるこの北条常楽寺は、叡尊(えいぞん、1201~90)にはじまる西大寺の真言律宗との関わりが最も注目されるところである。・・・・ 常楽寺は西大寺の系列の寺、つまり真言律宗の寺であると断定してよいと思われます。

少しだけですが、文観と常楽寺の歴史が浮かび上がってきました。(no3527)

 *挿絵:文観のつもり

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東播磨の中世石塔と文観(7) 真言律宗の寺々

2017-03-28 07:55:28 | 東播磨の中世石塔と文観

 今日のブログの内容は、多くを山川均論文「東播磨の中世石塔と文観」からお借りしています。

 詳しくは「東播磨の中世石塔と文観」(奈良歴史史学会)をお読みください。

    やはり文観は、加古川出身者

 文観(12781357)は、殊音とも称する真言律宗の僧侶です。

 ここでは、文観の調べてみましょう。

 「・・・文観の弟子であった宝蓮が筆写した『瑜伽伝灯抄』によれば、文観は源雅信第十三代の子孫・大野源大夫重真の息子であるが、この重真は播州の人であった。

 また、常楽寺は加古川町大野に所在する。

 こうした点より、文観の出生地については、常楽寺近辺とする説が有力である・・・」

    真言律宗の寺々

 また、『西大寺諸国末寺帳』のうち明徳二年(1391)に作成された「明徳末寺帳」には「播磨国」の西大寺のとして筆頭に常楽寺」の名があり、傍注には「北条」と記されています。

 そして、現在の加古川市にある西大寺の律宗の寺院として、以下寺院をあげています。

    (北条)常楽寺

   (オノヘ)成福寺(*場所その他詳細は不明)

   (平)報恩寺

 *北条(郷):大野村・大野新村・中津村・平野村・河原村・溝ノ口村・間形村・篠原村・寺家町(大野新村と間形村は、明治22年合併して美乃利村となりました)

 そして、興福寺の衆徒が文観を「(文観は元)西大寺末寺、播磨国北条寺之律僧也」と述べている史料があります。

 「北条寺」は常楽寺の別称なので、文観の原点はやはりこの寺にある可能性が高いといえます。

 先に紹介した常楽寺の宝塔は、伝承通り文観の母の墓塔とすることに関しては鵜呑みにはできないのですが、この寺が文観の出自と深く関わっていることは間違いがなく、ひいてはその時代性を考慮すれば、常楽寺宝塔も文優と関わるものである可能性もあります。(no3526

 *挿絵:文観のつもり

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東播磨の中世石塔と文観(6) 伊派石工集団

2017-03-27 08:00:09 | 東播磨の中世石塔と文観

    伊派石工集団

 常楽寺の墓地に立派な宝塔があります。

 この近辺は石の産地であり、石造物はそれらの石を材料とするのが普通です。

 近辺で産出する石は、凝灰岩で、やわらかく細工がしやすく、従って、安く作ることができます。

 常楽寺の宝塔は、凝灰岩ではありません。硬い細工の難しい花崗岩を材料とした宝塔です。

 先に紹介した、報恩寺の四基の五輪塔も花崗岩です。

 そして、報恩寺には見事な花崗岩の十三重の層塔があります。

 常楽寺の宝塔や報恩寺の層塔・五輪塔は、他所で完成させ、ここに運ばれたものと思われる。

 これらの宝塔・十三重の層塔・五輪塔は、ともに西大寺の石工集団伊派の製作による石造物といわれています。

 当時、硬い花崗岩に見事な細工を加工する技術を持った石工集団は、西大寺の石工集団より見つけることはできません。

 報恩寺の五輪塔について、『加古川市史(第一巻)』を読んでみます。

 ・・・・五輪塔の作者は大和伊派(いは)の名工、伊行恒(いのゆきつね)であるという、・・・・伊行恒は、大和を根拠地にしながら、摂津の御影を中心にその活躍が知られている。

 その伊派の石工たちたちが深く関係したのが、大和の西大寺の叡尊(えいぞん)・忍性であって、叡尊・忍性が「殺生禁断」の記念碑として各地に建立した十三重の塔は、すべて伊派の石工たちが刻んだものであったとこともよく知られている。・・・・(『加古川市史・第一巻』より)

 以上は、報恩寺の花崗岩でつくられた報恩時の石造の説明ですが、研究者によれば常楽寺の宝塔も、形式などからも伊派の石工による作品として間違いがないと指摘されています。(no3524)

 *写真:報恩寺(加古川市平荘町山角)の十三重の層塔

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東播磨の中世石塔と文観(5) 常楽寺は真言律宗の寺

2017-03-26 07:33:11 | 東播磨の中世石塔と文観

 文観を追っています。その前にしばしば登場する確認してほしい用語があります。

 それは「真言律宗」と「伊派石工集団」です。

 ここで学習しておきましょう。きょうは「真言律宗」です。

    常楽寺は真言律宗の寺

 鎌倉時代、世の中は乱れました。

 人々は、新興の仏教(浄土宗・一向宗・日蓮宗など)に救いを求めました。

 新興の仏教は、「念仏を一心に唱えれば浄土は約束されている・・・」と説いたのです。

 鎌倉仏教は、庶民の間に急速な広がりをみせました。

 しかし、「念仏さえ唱えれば、他は何をしてもよいんだ」という風潮さえひろがりました。

 つまり、修行を怠り破戒をあえてするものまで続出したのです。

 当然、このような風潮を嘆く声もうまれました。

 真言宗の信者であった叡尊(えいぞん)は、そんな宗教をみて衰えた戒律を復興するために、西大寺に入り新しく真言律宗を唱えました。

 叡尊の唱えた真言律宗は、大いに広がりました。

 (余談になるのですが、日本史の教科書では、真言律宗・叡尊についての記述がほとんどありません。もっと評価されべき人物です)

 叡尊は、たんなる南都の律宗(奈良仏教)の復興ではなく、・らい患者に対する救済、各地の土木事業の遂行、その他社会福祉にも取り組みました。

 西大寺の真言律宗は、播磨地方へもひろがりました。

 加古川関係では「西大寺末寺帳」に西大寺の末寺に、常楽寺(現:加古川市大野)・報恩寺、そして成福寺(場所は不明)が見られます。

 常楽寺は、西大寺の真言律宗の影響下にあった寺でした。(no3523)

*写真:現在の西大寺

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東播磨の中世石塔と文観(4) 常楽寺のはなし

2017-03-25 09:09:18 | 東播磨の中世石塔と文観

        常楽寺のはなし

『大野史誌』から、その歴史を見ておきます。
 「・・・(常楽寺は)正嘉(しょうか)二年(1258)八月、後深草天皇のとき、暴風雨のため堂宇は破壊され、一字だけ残る。
 その後、小野文勧(文観)僧正(1278~1357)によって復興され、堂宇は古(いにしえ)のように造営された。
 末寺18ヵ寺、僧坊は56宇、寺領は三百石であったという。
 永禄年間(1558~1570)、三本城主・別所長治の祈願所となって繁栄していた。
 しかし、天正六年(1578)、羽柴秀吉の兵火にかかり、堂宇すべて焼失した。
 延宝二年(1674)徳川家綱のころ、一字を創立する。寺領五石である。
 その後、多聞院・吉祥坊・安養坊・南の坊の四ヵ寺であったが明治三年(1870)三ヵ寺を廃止して、南の坊をのこし、常楽寺と名づけた。・・・」(以上『大野史誌』より)
  『西大寺末寺帳』に常楽寺は、播磨国の筆頭に記されており、西大寺との関係の深い寺院であったようです。

     常楽寺の再興
 また、「常楽寺は正嘉二年(しょうか・1258)八月、後深草天皇のとき、暴風雨のため堂宇は破壊され、その後、小野文勧(文観)僧正(1278~1357)によって復興され、堂宇は古(いにしえ)のように造営された」とあります。

 『大野史誌』は、「その後、文勧(文観)により再興された」と伝えています。

 常楽寺には、西大寺系(伊派)の石工が造った宝塔があります。

 再建は、この塔の造立された正和四年(1315)ごろではないかと想像されます。当時、文観は37才でした。
 文観は、すでに西大寺の実力者として活躍していました。
  
  常楽寺は西大寺の末寺 
 『信仰の美術』(加古川文化センター)の記述をお借りします。
 「・・・・現在の加古川町大野付近は、中世には播磨国賀古郡北条郷として栄えており、その中心寺院であるこの北条常楽寺は、叡尊(えいぞん、1201~90)にはじまる西大寺の真言律宗との関わりが最も注目されるところである。
 明徳二年(1391)本をはじめ『西大寺末寺帳』には、播磨国の筆頭に記載されており、中世を通じのその寺格の高さが知れる。・・・・」
 常楽寺は西大寺の系列の寺、つまり真言律宗の寺であると断定してよいと思われます。(no3521) 

 *写真:現在の常楽寺(加古川市加古川町大野)

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東播磨の中世石塔と文観(3) 伊派の石造物

2017-03-24 09:57:19 | 東播磨の中世石塔と文観

   伊派の石造物
  報恩寺(平荘町山角)の五輪塔の話です。

  報恩寺の境内の奥にみごとな4基の五輪塔(県指定文化財・写真)があります。この一基から金銅製の骨臓器がみつかりました。

 正和五年(1365)の造立であることも明らかになりました。

 これらの五輪塔は、報恩寺の僧の墓塔であり、作者は、大和の名工・伊行恒(いのゆきつね)であることもわかりました。

 これと常楽寺五輪塔を比較すると、両者の規模は同じ六尺塔(約180㎝)ですが、その形状には差があります。

 また、論文「東播磨の中世石塔と文観」は「・・・具体的にいえば、常楽寺五輪塔は地輪が幅に比して高く、火輪の軒反りがかたく、法恩寺の五輪塔は花崗岩製で、常楽寺の方は凝灰岩と異なります。

 制作時期の問題は、近在に報報恩寺五輪塔以外の適当な比較材判がないので明確にできないのですが、少なくとも宝塔と五輪塔を製作した石工は異なる人物だと考えた方がよさそうです」と述べておられます。

 報恩寺の五輪塔は、硬い花崗岩製です。

 製作には高度な技術を必要としました。

 伊行恒は、大和(奈良)を根拠地としながら摂津の御影を中心にした活動で知られています。
 伊派の石工たちが深く関係していたのが、奈良・西大寺でした。
 報恩寺は、もともとは西大寺の真言律宗寺院です。
 鎌倉末期には西大寺流の律宗が、ここ加古川の地にも伸びていたと考えらます。
(no3520)

 *写真:報恩寺(平荘町山角)の五輪塔

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東播磨の中世石塔と文観(2) 常樂寺の宝塔は、文観慈母塔ではない

2017-03-23 09:45:23 | 東播磨の中世石塔と文観

    常樂寺(加古川市加古川町大野)の宝塔は、

         文観慈母塔ではない

 加古川市と文観の関係を述べる場合、なんといっても常楽寺の宝塔から始めなければならないようです。

 常楽寺は、加古川市加古川町大野の高野山真言宗の古刹です。

 山門への石段の前を流れる新井(しんゆ)用水路を少し西へ行くと、大きな五輪塔に挟まれた立派な花崗岩製の宝塔と凝灰岩性の五輪塔があります。

 まず、宝塔について調べてみます。 

    常楽寺宝塔について
 この宝塔について、墓地の説明版によると次のようです。

   花崗岩製
    高さ   2.35メートル
    銘文   正和四年(1315)乙卯八月 日 
    願主   沙弥道智

 この塔は、通称・文観上人慈母塔と伝えられ、文観(もんかん)が常楽寺中興として存在の時慈母をここ葬ったと伝えています。
 が、この宝塔の願主は文観でなく道智です。

 さらに、いまとなっては確かめようもないのですが、『播磨鑑(はりまかがみ)』には、塔下三尺(約90㎝)×六尺(約181cm)石箱を埋め、さらに中に壺と黄金の器とを重ねて三重にし、それには「宝生山常楽寺院主大僧正菩薩比丘広信(こうしん)為母遺骨納之」の銘文があったといいます。
 *広信(こうしん)は文観のこと
 『播磨鑑』が書かれたのを元禄時代(1688~1704)としても、「文観慈母塔」の造られた正和四年(1315)から、およそ400年を経ています。はっきりしたことは分からなくなっていたようです。

 文観の母親は、建武元年(1334)5月に亡くなっています。

 それは、常楽寺宝塔造立の19年後のこととなます。したがって『播磨鑑(はりまかがみ)』の記載をそのまま信じることはできません。

 願主は道智であり、宝塔造立当初の願意が悲母供養ではなかったことは明らかです。

 それでは、この宝塔は文観と結び付かないのでしょうか。(no3519)

 *写真:常樂寺の宝塔と五輪塔

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東播磨の中世石塔と文観(1)  文観を追え

2017-03-22 09:02:51 | 東播磨の中世石塔と文観

     文観(もんかん)を追え

 先日(17日・日)の神戸新聞は、加古川市教育委員会は、同市加古川町大野の常楽寺にある「石造十三重塔」を市文化財に指定したことを報じました。

 以下の記事はその一部です。

 ・・・過去の記録によると、(石造十三重塔の)塔身には制作年代を示すとみられる銘文が刻まれていた。

 判読できるのが一部分のみだったため、文安2(1445)年とする説もあるが、形式などから正中2(1325)年の建立の可能性が高いという。

 同寺は、後醍醐天皇に重用された真言宗僧、文観ゆかりの寺で、文観が正和4年(1315)に建立したとされる石造塔(県指定文化財)などもある。・・・(神戸新聞より)

   論文「東播磨の中世石塔と文観(山川均)」を紹介

 不思議なものです。時を同じくして、昨日(21日・火)、石造物を研究されている山川均先生の論文「東播磨の中世石塔と文観」(奈良歴史研究・第86号)を読むことができました。

 文観と加古川地方の石造物について書かれています。

 私たち加古川人としては、必読の論文です。

 いままで文観の前半生はほとんど知られていません。日本の歴史を動かした文観が、ほぼ加古川の人ということを証明されています。

 まさに痛快です。

 私一人が、ほくそ笑んで読んでいては、あまりにももったいない内容です。

 そのため、山川先生に叱られるかもしれませんが、やさしい文章に少しだけ変えて、ブログで紹介します。ぜひお読みください。

 そして、お隣の人にお話しください。(no3518)

 *写真:常楽寺(加古川市大野)の石造十三重塔

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