ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町中津・河原探検(22) でっかい河川敷のある町:中津・河原

2021-08-24 09:54:54 | 加古川町中津・河原探検 

      でっかい河川敷のある町:中津・河原

 河原の土手にいます。

 時間は5時を少し過ぎです。

 昼間の暑い日差しも少し弱まったようで、涼しい風が吹いてきました。

 河原・中津の西には広々とし田河川敷が広がっています。

 子どもたちが野球をしていました。お母さんたちが応援をしています。

 中津・河原は、普段あまり意識しませんが、でっかい河川敷(グランド)のある町です。

 

 水管橋がありその向こうに升田山があります。素晴らしい景観です。

 その日は、でっかい太陽が西(竜山)の方に沈んでいきましたした。

 加古川にも、こんな素晴らしい風景があったんです。

 

 ここへは、散歩にたびたび来ます。

 幸い、河川敷の真ん中にテニスコートがあります。その横は駐車場ですからそこに車を止めて河原を歩ます。

 ここの散歩は疲れません。草名前を調べてり、復習をしながら歩きます。

 交通事故の心配もあません。

 おじいさんには最適な散歩(運動)の場所です。

 でも、利用されている人が少ないようです。もったいない。

 子どもたちはどうしているのでしょうね。スマホかな。

 もっと、この大自然の中で遊んでほしいです。(no5181

 

〈お知らせ〉

「ひろかずのブログ」では歴史探検シリーズで加古川・氷丘を取り上げましたが、このあたりで加古川町鳩里(きゅうり)地区の探検に出かけます。

*鳩里地区(粟津・稲屋・北在家・木村・友沢・西河原・備後・南備後)

 

 

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加古川町中津・河原探検(21) 河原墓地の石幢(せきとう)

2021-08-23 11:03:59 | 加古川町中津・河原探検 

     河原墓地の石幢(せきとう)塔身

 仏の中で、なんといっても私たちがもっとも親しみを持っているのは地蔵菩薩(じぞうぼさつ)でしょう。

 「お地蔵さん」と呼んでいる仏様です。

 この仏様は、大地の恵を表わしている仏で、世の中が乱れた末法(まっぽう)の時代に入ったとされる平安時代の末頃から庶民のあいだで広く信仰されるようになりました。

 また、お墓の入り口あたりで、よく六体のお地蔵さんを見かけますが、仏教では人間が死んだ後、生前の行いにより、それぞれ六つの世界へ生まれ変わるというのです。

 その六つの世界とは、天上(てんじょう)・人間(にんげん)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・餓鬼(がき)・地獄(じごく)であると言います。

 しかし、心配はいりません。どの世界に生まれかわったとしても、そこへお地蔵さんが現れて死者の相談になってくださいます。

 現代の言葉で言えば、彼岸のカウンセラーですね。

 この「六地蔵」の考えは、鎌倉時代から広がりました。

 六地蔵は、普通六体の地蔵として墓地の入り口などに安置されていますが、河原の墓地にあるものは六角柱の石幢(せきとう)に彫られています。

 銘はないのですが、形式から見て室町時代中期、おそらく永正の頃(造立であろうと思われます。

 この石幢は、墓地の六地蔵に隠れるようにしてあり、注意してみなくては分かりにくき場所にあります。(no5180)

 *写真:墓地の新しく造立された六地蔵の後ろにある石幢(せきとう)塔身

 

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加古川町中津・河原探検(20) 小学校のクスノキは戦前の精神教育の象徴

2021-08-22 11:21:44 | 加古川町中津・河原探検 

      小学校のクスノキは戦前の精神教育の象徴

 氷丘小学校の運動場にみごとなクスノキがあります。

 歴史の古い小学校には、クスノキがあります。

 小学校とクスノキについて書いてみます。

 戦前の教育は、天皇中心の教育でした。

 楠木正成は、天皇の忠実な家来として、歴史上の人物としてだけではなく、精神教育の面で大きな役割をはたしたしました。

 そのため、小学校では、楠木正成の精神をあらわす樹木としてクスノキが植樹されたのです。

 それも、多くの場合、複数のクスノキが植樹されました。

 播磨小学校(播磨町)では、もとは校庭にク・ス・ノ・キ・マ・サ・シ・ゲと8本のクスノキが植えられていました。

 「忠臣楠木正成」を表すために6本を植えたり、「楠木正成」と4本を植えられた例もありました。

 そのクスノキも戦後、児童数の増加やスポーツ熱のさかんになるにつれ、歴史の証として一本を残してほとんどが伐採された。

 氷丘小学校もそんな例の一つと思われますが、詳しくは分かりません。

 氷丘小学校の楠木は、かつては校舎の中庭にあったクスノキで、現在の校舎は当時の運動場でした。(no5179

 

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加古川町中津・河原探検(19) むかし、日岡神社は「日向社」

2021-08-21 09:10:45 | 加古川町中津・河原探検 

 「ひろかずのブログ・中津河原(8日)の一部をもう一度読んでみます。

 ・・・・日岡神社から南の鳥居へ歩きました。

 日岡神社から鳥居まで歩き、そこを右に歩くと大きな道(主要地方道加古川・小野線)と交差します。

 その道をさらに超えると、道は続いていないようですが、よく見ると駐車場の向こうに続いています。

 辺りをキョロキョロして、低い柵を乗り越えて、どんどん歩くと、中津(中条)の墓地に至り、その少し手前の三差路に常夜灯と道標がありました。

 日岡神社からここまで歩いてきた道は、当時(江戸時代以前)の一番の生活道路でであり、日岡神社への参道でした。

 左にある道標には、右 加古新田道、左 国かね三木」とあり、道は加古川の土手沿い、西之山・西条・国包・宗佐を経て三木へと続いています。

 この道は、高砂から加古川を経て三木へ抜ける古道です。

     むかし、日岡神社は「日向社」

 先日、この灯籠のところから墓地からに南へ歩きました。加古川バイパスの下をくぐり、やがて、JRに突き当り道は消えているようですが、江戸時代までは南北を結ぶ重要な道でした。

 戦国時代、三木城攻防戦では三木への兵糧を運んだ道でした。

 加古川バイパスから50メートルも歩くと用水そばに灯籠があります。

 常夜灯は、日岡神社への道であることを示しているのでしょうが、「正一位日向大明神」と刻んでいます。

 「日向社(宮)」は、明治の初めに名前を神社名を今の「日岡神社」と変えています。

 歩いてきたのは、狭い江戸時代の幹線道路でした(no5178)

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加古川町中津・河原探検(18) 三宝荒神

2021-08-20 09:44:35 | 加古川町中津・河原探検 

    三宝荒神

 荒神さんの由来は仏教尊像ではなく、日本仏教の信仰の中で独自に発展した尊像です。

 日本古来の荒々しい神の魂に、古代インドに源泉をもつ夜叉神の形態が取り入れられ、神道、密教、三学区信仰などのさまざまな要素が混交して成立した言われています。

 三宝荒神の像容は、三面六臂または八面六臂(三面像の頭上につの小面を持つ)です。頭髪を逆立てて眼を吊り上げた、暴悪を治罰せんとする慈悲が極まった憤怒の表情を示し、密教の明王像に共通するものがあります。

 不浄や災難を除去する神とされることから、火と竈の神として信仰され、かまど神として祭られることが多くあります。

 これは日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから俗間で信仰されるようになったものであり、仏像としての作例は近世以降のものがほとんどです。

     願成寺の荒神さん

 願成寺の荒神さん(写真)もそのような神であり、その他に虫おくりの火の源として、また村の鎮守としてあつい信仰がありました。

 先日、この荒神さんを探して願成寺におじゃましました。

 この荒神さんを紹介したパンフレット等には「境内に(三宝)荒神さんがお祀りされています」と書かれていますが、それらしきものは、見当たりません。

 お寺で聞いてみました。

 「荒神さんは、ずいぶん傷んだために昨年(平成2年)修理し、10月より荒神さんは本堂でお祀りしている」とのことでした。

 お願いして拝見させていただきました。

 色鮮やかなお姿で、想像していたより小ぶりの荒神さんでした。no5177



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加古川町中津・河原探検(17) 願成寺の鐘

2021-08-19 09:15:36 | 加古川町中津・河原探検 

         願成寺の鐘

 願成寺の境内(本堂の正面)の鐘楼に小ぶりの鐘があります。

 この鐘について『氷岡村実記(山脇重弘著)』で、次のように書いておられます。お借りしました。

 「・・・・お寺の鐘は約500年前の天文年間(西暦1540年ころ)の製作で、十円で購入している。

 戦時中、金属の供出で提出したところ、古いいわれのある有る鐘だとのことで返却されてきた。

 調べてみると、加東郡の神社のであった。

 このことが新聞の記事になり、神社から返却の要請があったが、戦国時代は陣鐘として使用され、徴発と寄進がり、転々と変えていったと考えられ、返還の必要がないということになった。・・・」

 鐘についてはよく似た話がたくさんあります。高砂市の生石神社の鐘・東神吉町升田の妙願寺の鐘の話はよく知られています。

 ここでは余話として妙願寺の鐘について付け加えておきます。

  余話:三木市慈眼寺に東神吉の妙願寺の鐘が

 三木市久留美(くるみ)に慈眼寺(じげんじ)があります。

 慈眼寺は道路からあまり離れていないのですが、山寺の雰囲気いっぱいの曹洞宗の寺です。

 山門を入ると左手に鐘楼があります。

 この梵鐘には、「延慶(えんぎょう)二年(1309)、播州印南郡益田村佐伯寺鐘」の銘がある。*妙願寺は元佐伯寺

 三木市で最も古く、県文化財です。

 この梵鐘は、もと加古川市東神吉町升田にあったが、言い伝えによると、1578年、秀吉による「神吉城」攻撃の際この鐘を奪い、三木城攻撃の折、慈眼寺山門の木にかけ、合図用として用いられたといいます。確かな証拠はありません。(no5176

 *鐘:願成寺の鐘

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加古川町中津・河原探検(16) 願成寺の阿弥陀石棺仏

2021-08-18 10:41:38 | 加古川町中津・河原探検 

      阿弥陀様の石棺仏

 加古川には、不思議な石仏がたくさんあります。石棺に刻まれた仏像、石棺仏です。

 これらの石棺仏は鎌倉時代から、室町時代にかけて多くつくられたが、その後はプッツリと姿を消しました。

 鎌倉時代は、水田の開発が盛んで、土地が新たに開墾されました。多くの古墳もこわされた。

 出土したした石棺は、「手軽な材料?」として仏像をつくる石材として再利用されたのです。

 しかし、単なる廃物利用ではなさそうです。当時の人々も、この石材は、死者を葬った石棺であることを意識していたようです。

 これらの石棺仏は全国で120基ほど確認されていますが、その八割が加古川市、加西市に集中しています。

 加古川市・加西市では、普通に見られる仏像であるが、全国的には大変珍しいものです。



 願成寺の石棺仏(写真)は、さらに数奇な運命をたどったようです。

 石棺仏の横にある説明文を読んでおきましょう。

(以下、説明板より)

 この石仏は、二体の阿弥陀如来様ですが、歯痛の地蔵様といわれ、おまいりされていました。

 昔、加古川の河川敷にうずもれていたものを、ここにおまつりしたと言われています。

 この石は石棺の一部で室町時代前期(約600年前)に石仏が刻まれたようです。(no5175



 

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加古川町中津・河原探検(15) 結界石

2021-08-17 07:06:08 | 加古川町中津・河原探検 

 加古川町河原の願成寺の山門にある石造物「結界石(けっかいせき)」の紹介です。

   結界石

 「不許葷酒入山門」と刻んだこの石塔(写真)は、願成寺の山門の「結界石(けっかいせき)」です。

 「クンシュ、サンモンニ、イルヲ、ユルサズ」と読みます。

 葷酒の「葷」は、ニラ・ニンニク・ネギなどの臭気がある食物や、カラシ・トウガラシなどの刺激性のあるもの、精力の出ると言われている食物、それに肉などを指しています。

 これらは、寺での修行(しゅぎょう)の妨げになるので、それらを食べて寺に入ってはいけない。

 また、酒も飲んで寺に入ってはいけない、と言う意味です。

 禅宗寺院の山門によくみられます。

 願成寺は、曹洞宗(禅宗)の寺です。

 ほとんどの結界石は、江戸時代に造られています。

 願成寺の結界石も江戸時代のものと思われます。

 

     山門を入れば、そこは聖域

 もともと仏教の寺では、葷酒を禁止しています。

 ですから、ことさら葷酒を結界石に刻んで他に示す必要はないとも言われており、これは俗人が寺内にこれら「葷」を持ち込むことを禁じる意味もあるといわれています。

 また、「葷」の造りの「軍」を支配者の意味とし、あわただしい軍乱の中で支配者が交代しても寺院の独立を守るとする説もあります。(no5174

 *『日本石仏事典(庚申懇話会)』(雄山閣出版株式会社)参照

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加古川町中津・河原探検(14) 加古川花火大会

2021-08-16 08:10:13 | 加古川町中津・河原探検 

   加古川花火大会

 明治時代、加古川はしばしば水害をおこし、その度に河川改修の要求が高まりました。

 明治43年は、全国的に大水害にみまわれ、多くの死者をだしました。

 国は、国の直轄事業として、すぐにでも工事を始めなければならない河川は全国に65あるとしました。

 そして、これらの河川のうち20を選び「第一期河川」としました。

 加古川は、利根川や木曽川とともに、第一期河川に組み入れられました。

 この時選ばれた第一期河川は、以下の20河川です。

 利根川(茨城・千葉)・信濃川(新潟)・淀川(大阪)・木曽川(三重)・吉野川(徳島)・九頭竜川(福井)・高梁川(岡山)・庄川(富山)・遠賀川(福岡)・荒川(東京)・北上川(宮城)・阿賀野川(新潟)・雄物川(秋田)・最上川(山形)・神通川(富山)・岩木川(青森)・富士川(静岡)・斐伊川(島根)・緑川(熊本)そして加古川(兵庫)

 1911年(明治44)9月4日、官報に告示されました。

 加古川は、国の直轄事業として本格的改修工事が前進することになったのです。 

 総改修費は、3分の2を国が負担し、残りの3分の1は兵庫県の負担でした。

 1933年、当初の計画(10年)を 大きく延長し、16年の長期にわたり加古川改修工事は難産の末に完成しました。

 竣工式は、11月19日午前9より加古川町大橋南の河原で挙行され、官民あわせて千人が参列しました。

 その日、加古川町内は美しく飾られ、旗行列や提灯行列などで大変な賑わいとないました。

 この長期にわたる工事は、600万円の巨費にものぼりました。

 そして、この間に要した延べ人員は120万人で、死傷者も321人を出しました。

 この大事業を記念して、改修工事完成を記念して、現在の「加古川まつり」の前進の「川祭り」を行うようになったのです。

 その日盛大な花火大会が、中津・河原の河川敷で行われます。

 二年続きで、コロナのため中止となりました。寂しかったですね。(no5173

 *写真:神戸新聞より

 

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加古川町中津・河原探検(13) 明治29年の水害

2021-08-15 07:41:17 | 加古川町中津・河原探検 

   明治29年の水害

 明治29・30年、中津・河原辺りたりは大きな水害の被害を受けました。

 大雨の時、加古川の水位は高くなります。

 そんな時は、加古川の水の取り入れ口から、大量に流れ込むことになります。

 そのため、取り入れ口の水門は閉じられます。

 しかし、困ったことがおきます。

 曇り川(神野町)に、それをみましょう。

 曇り川は、ふだんはあまり流れがありません。曇り川は、曇った時だけ水があるところから「曇り川」の名が付けれたという説まであります。

 しかし、長雨が続いた時には、ここに一挙に大量の雨が集まり濁流となり、こんな時は、加古川へ排水する水門は閉じられます。

 水の行き場がなくなります。

 曇り川の濁流は、曇り川が加古川に突き当たる加古川の水門辺りから流れを南へ変え、氷丘・加古川の町へと押し寄せ、水害をおこしました。

 最近の加古川の水害史のパターンは、この例がほとんどです。

 『加古川市史(三巻)』を引用します。

 ・・・・1896年(明治29)、1897年(明治30)の年、加古川流域では、水害により深刻な被害を被りった。

 明治29年には、8月から9月上旬にかけて前線性降雨や台風により水害が頻発しました。

 この時の状況について、例えば、9月10日付『神戸又新日報』は、次のように伝えています。

 *以下は、その記事の一部であるが書き変えています。詳しくは『加古川市史・三巻』をご覧ください。

 ・・・6日より、曇り川が氾濫し、加古郡西部加古川町・氷丘村・鳩里村等の各村一円は浸水し、氷丘村ごときは一村450戸のうち400戸が浸水し、茫々(ぼうぼう)たる湖の如し。

 人々は、寺院または高地に避難し、田面はことごとく没した・・・・(no5172

 

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加古川町中津・河原探検(12) 戦争で神戸肉の生産ストップ

2021-08-14 08:59:30 | 加古川町中津・河原探検 

   戦争で神戸肉の生産ストップ

 ・・・戦前から「神戸ビーフ」は有名でしたが、戦争のため生産は減量やストップの危機に面しました。

 加古川町は、神戸に代わる肉の生産地にとなりました。

 その一拠点が志方ともう一か所河原が加古川肉の生産拠点でした。

 場所は、現在のシルバーセンター(加古川市加古川町)のある周辺です。

     肉は、加古川で生産

 当時(戦後間もないころ)は、農業が中心で、農家は労働力の大切な一部として、たいてい牛を飼っていました。

 ですから、容易に牛肉の生産はできました。

 業者が農家から牛を買い、それを処理場に持って行き、製品にして神戸を中心に送り出しました。

 もちろん、食をあずから大切な仕事ですから、処理場には専属の獣医さんが常駐して、牛の健康状態、製品の品質、等級の分類など厳格に行われていました。

 当時の方に聞いた話では、処理場に連れてこられた牛は、自分の運命を察してか、処理場の入口に来ると「モー、モー」と声を出して鳴き、なかなか入ろうとしなかったそうです。

 業者の方たちが処理場の入口に慰霊塔を建立し年に一度供養祭を行っていました。(no5171

  *写真:戦後間もないころの加古川での放牧風景(前方の高い山は高御位山)

 

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加古川町中津・河原探検(11) 三木道(県道:加古川・高砂線)

2021-08-13 09:32:51 | 加古川町中津・河原探検 

        三木道(県道:加古川・高砂線)

 

 高砂から三木へ抜ける三木道(滝野~加古川町)・高砂道(高砂港~加古川町)は、昔から繋がっていましたが、明治22年4月高砂道は、やや東方に移転しました。

 現在の中津・河原を抜ける三木道(県道加古川・高砂線)も方向をやや東にとり、河原・中津を抜け国包村を通り三木・滝野に伸びました。

 しかし、町内を曲がった道部分が多く、大正13年9月14日町会で路線を直通とし、道幅を拡張し、工事費の3分の2を負担することを決め県に上申しました。

 この案件は認められ、大正14年、改修費の3万6千を負担して工事が行われました。

 しかしながら、なお道幅が狭く、曲がったところが多いため、大正15年道幅5間として高砂道・三木道の改良工事をしました。

 加古川駅は新しくなりました、そして駅北も大変貌をとげています。

 加古川駅辺りから北の交通量も増え、加古川・高砂線(旧高砂道・三木道)も大きく変わり、町も大変貌を遂げています。(no5170

*写真:拡張なった現在の三木道(加古川・高砂線:昨日12日撮影)

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加古川町中津・河原探検(10) 「加古川驛への石柱」

2021-08-12 10:23:56 | 加古川町中津・河原探検 

  「加古川驛への石柱」

   以前紹介した「加古川驛(人馬継立問屋場)」の石柱のことです。

 この石柱(写真)は「加古川驛」の文字を刻んでいます。

         西国街道播磨国

     南

        加古郡 加古川驛

 加古川駅ができたのは、明治21年(1888)ですから、標柱はこの加古川駅のものではありません。

 西国街道と言うのであるから、江戸時代のものです。

 江戸時代、加古川の駅(人馬継立問屋場)は、陣屋の東隣にありました。

 とすれば、この標柱は、そこから北のどこかにあったことになりますが、元あった場所は、はっきりと分かりません。

 以前「きっと、寺家町から日岡神社へ向かう中津(加古川町中津)あたりの旧道沿いにあったのではないかと思われます」と紹介しました。

 そこで、昨日(810日)、この人馬継立問屋場のあった場所から河原・中津を経て日岡神社へ歩いてみました。

 

 問屋場の場所は、現在の人形の店(陣屋)のすぐ東隣です。そのあたりから北へ伸びていた道は、現在ニッケ(ニッケパークタウン)の敷地で道は無くなっています。

 その北のJRから北へ延びる道を歩きました。4時ごろでした。太陽が、まだ高く暑い歴史探訪になりました。

 篠原町・河原・中津へ通じる日岡神社に至る旧街道です。

 幸い、道端は家・家・家で日陰になり助かりました。

 でも、旧街道を想像できる雰囲気は、まったく見当たりません。新しい現代風の住宅がびっしり立て込んでいます。

 30分ばかり歩くと、先日紹介した。十王石仏のある中津の墓地と灯籠・道標のある三叉路にでました。

 そして、西から、東から来た旅人は、この場所で「もう少しで加古川の町・・・」と「加古川の驛」の道標を眺めながら、一休みしたでしょうね。

 記録はありません。歩いてみて、そんな「怪しげな確信」をもちました。(no5169

 

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加古川町中津・河原探検(9) 河原村は室町時代にできた村か?

2021-08-11 09:24:26 | 加古川町中津・河原探検 

     河原村は室町時代にできた村か?

 河原村のことです。

 古くは川原村と書き(正保郷帳)、加古川左岸(東岸)に沿いの三角州中にあった集落(加古郡誌)です。

 そのため、田は米作にはて来ていません。

 裏作の麦作にたよった村のようでした。

 応永十六年(14099月付のある文書には「播磨国河原」として登場していますから、村ができたのは室町時代のことと思われます。

 その後、慶安二年(1649)に願成寺が創建されています。

 河原村の北にあるのは中津ですが、中津村は中州村が転化したといいます。これらの集落は、ともに米作には適さない集落であったようです。

 しかし、江戸時代になり、稲作も増え村は大きくなってきました。

 

 時代は、一挙に飛びますが、明治十五年(1882)発行の『播磨の国地種便覧』によれば、河原村の戸数・人口は次のようでした。

   河原村  戸数 53戸    人口 222名  (no5168

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加古川町中津・河原探検(8) 中津の常夜灯と道標

2021-08-10 08:47:34 | 加古川町中津・河原探検 

       中津の常夜灯と道標

 先日、日岡神社から南の鳥居へ歩きました。

 それも、お昼の3時ごろでした、汗だくだくの散歩になりました。

 鳥居まで歩き、そこを右に歩くと大きな道(主要地方道加古川・小野線)と交差します。

 その道をさらに超えると、道は続いていないようですが、よく見ると駐車場の向こうに続いています。

 辺りをキョロキョロして、低い柵を乗り越えて、どんどん歩くと、前号で紹介した中津(中条)の墓地に至ります。その少し手前の三差路に常夜灯と道標があります。

 その常夜灯と道標の紹介です。

 常夜灯の前に石碑があります。

 この道標は、もとはここにあったのではなく少し移動させられたそうですが、「右 大野宮道」と刻んでいます。

 日岡神社からここまで歩いてきた道は、当時の一番の生活道路でもあった日岡神社への参道です。

 

 そして、左にある道標には

     右 加古新田

             道

     左 国かね三木

とあり、道は加古川の土手沿い、西之山・西条・国包・宗佐を経て三木へとつづきました。

 目的地はもうすぐです。

 この道を急いだ人は、このあたりで腰を下ろし一息を衝いたことでしょうね。

 

 実をいうと、この場所は以前に何回も来たことのある場所です。でも、30年以上前のことです。

 久しぶりで撮影に来ました。

 まるで、初めて来た場所のように思えたんです。

 灯籠も道標も同じ場所にあるのですが、周囲のようすがまったく変わっているのです。

 近くの十王石仏墓地の墓地も民家にうずもれてました。(no5167) 

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