ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町探訪:草場をめぐる争い②・郡堺論争

2007-11-30 06:21:30 |  ・加古川市志方全般

47eedd3e_2    昨日のブログで、「草場をめぐる争いは元禄期になると“ある理由”でさらに多発するようになった」と書いた。

  「ある理由」とは、次のようである。

  文禄四年(1595)の太閤検地や姫路藩の検地では、村々の田畑は計測され村ごとに登録された。

  そのため、平野部では村と村との境界は、おのずとはっきりした。

  しかし、山林原野での境となると、はなはだあいまいなままであった。

  延宝五年(1677)におこなわれた延宝検地で、はじめて山林原野の面積も登録するように指示された。

  といっても、正確なものではなく、適当に報告されただけである。

  ところが、元禄十年(1697)、幕府は全国の大名と寺社に対して「国絵図」等を作成して提出するように命令した。

  この絵図の作成を機に、各地に郡堺論争がおきることとなった。

  その一つが、志方と加西の郡堺論争である。

  志方側は、地図の北にある黒い線を郡堺と主張したが、加西側は従来の慣習どおり、奥の池の南、野尻を通る道あたりまでを主張した。

  話はまとまらなかった。

  京都町奉行所にもちこまれ、志方側の主張が認められ決着した。

  現在の志方町と加西市の境界はこの時に決まった。

  しかし、京都町奉行所は加西の田原村・倉谷村に対して、両村が主張した南の線まで入りこんで山草を刈ってもよいとする「大岡裁判」とした。

  この論争では、樹木の書かれていない所が草場であり、双方の争奪の場となったのである。

*『加古川市史(第二・五巻)』参照

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志方町探訪:草場をめぐる争い①

2007-11-29 07:52:39 |  ・加古川市志方全般

Mttakamikura_005    明日のブログの予告編である。

  百姓にとって水は、命そのものであった。

  水を確保するため、他の村としばしば争いがおきた。

  志方地域のこれらの水争いについては後日紹介したい。

  きょうは、山をめぐる争いである。

  水と共に山は、百姓にとっては死活問題だった。

  山は立ち木を採る場所というより、木々の若葉や若草を提供する場所であった。

  それらを切断し、積み上げ発酵させて、田に肥料として敷きこむのである。刈敷肥料である。

  寛延三年(1750)の「東飯坂村明細帳」に「一、田畑のこやし 鰯干(ほしか)・草藁灰・下こへ(人糞のこと)」とあり、草が肥料とされていたことを知ることができる。

  時代を少しさかのぼり、鰯干等が使われていなかった時代では、草藁灰等は、さらに貴重な肥料だった。

  天正14年(1586)平の村(現:平荘町)と升田村(現:東神吉町)との間で草場をめぐる争いがおきた。

  その他の村々でも草場をめぐって、しばしば争いがあった記録がある。

  草場をめぐる争いは、元禄期になると「ある理由」で、さらに多発するようになった。しばしば、境界論争にまで発展した。

  明日のブログでは、志方と加西の村々との大規模な草葉をめぐる争いを紹介したい。

  結論を先に述べておくと、この争いの結果現在の加西市と志方町との境界が確定している。

*写真は、高御位山中腹より志方町を望む。(文章と直接関係がない)

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志方町探訪:明治初期の東飯坂村②

2007-11-28 08:20:43 |  ・加古川市志方全般

Shikata_022      きのうに続き、明治10年代の東飯坂村のようすを『物産取調書』から続けたい。

  東飯坂村の耕地面積は、田21町3反1畝13歩、畑1町3畝20歩で、田を中心とした村だった。

  明治10年代は、明治20年代から急速に衰えるが、田でも盛んに綿作がおこなわれていた。

  綿は、水田より畑は1.5倍の反収をあげている。

  小麦の反収も田が畑の1.3倍の生産があった。

  『物産取調書』から、東飯坂村の産物の販売・購入の流通範囲も知ることができる。

 《販売》

 ・米(消費された残りの米)、 曾根村(現:高砂市)へ

 ・粳米(うるちまい)、曽根村へ

 ・かんぴょう、姫路へ

 ・菜種、横大路(現:志方町)・大沢(現:志方町)・野条村(現:加西市)へ

 ・薄木綿・刻煙草、近在へ

 《購入》

 ・綿(村内消費の不足分)、国包村(現:加古川市)から

 ・清酒、横大路村(現:志方町)、南池村(現:高砂市)から

 ・醤油、見土呂村(現:加古川市)から

 ・塩、大塩村(現:姫路市)、曽根村(現:高砂市)から

  こうしてみると、明治初年の東飯坂村の商品の流通範囲は、主に印南・加西・加古・加西郡などの周辺地域であることが分かる。

  写真は、「うっと峠」の頂上近くからの東飯坂の風景

*『加古のながれ』(加古川市史編さん室)参照

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志方町探訪:明治初期の東飯坂村①

2007-11-27 07:13:55 |  ・加古川市志方全般

Shikata_018   東飯坂の集落の坂を上った。坂というほどのものでもない。

  『志方町誌』によれば、「この坂は俗に“うっと峠”といい、昔はこの辺りは、うっそうと木々が茂り、昼なお暗く“うっとうしい峠”であったのでこの名前がある。

  また、“うしろ峠”の訛ったものだとも言われている」と書いている。

  現在坂上は、法華山道の幹線道路となっており、風景は一変して昔の“うっと峠”の風景はない。

  数体の石仏(写真)だけが、わずかに昔の面影を伝えている。

  東飯坂には、石坂姓が多い。村名もこの坂に関係しているのであろう。

  『加古のながれ』に、明治初年の東飯坂のようすを紹介している。貧しい集落であったようだが、当時の市域の一般的な集落の姿でもあり参考になる。

 《東飯坂村》(明治初年、当時の村長・石坂熊太郎の調査『産物取調』から)

  ◇総戸数  45戸(そのほかに医者を本業とするもの1戸)

     男:111人    女:113人

  ◇農業のほか補助業に従事するもの、13種・17戸

  (酒類小売業・桶屋職・豆腐製造・大工職・煙草小売業・紺屋職・綿打職・木綿仲間・畳職・生魚商・素麺製造・木挽職・こうじ製造)

  ◇土地所有

    一町以上       8戸

   一反~一町未満  25戸

   一反未満       6戸

   土地なし        7戸

  耕地の95%が水田。土地の8割が砂がまじり痩せていた。

  そして、山蔭で日当たりは悪かった。その上に、田は池から水を引いており耕作条件はよい方ではなかった。

  また、明治10年段階で農家の半数は小作であり、そのため補助業で生活を補う者が多かった。

  くりかえすが、東飯坂が特別に貧しい集落ではない。市域の一般的な農村像であった。

*『加古のながれ』(加古川市史編さん室)参照

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志方町探訪:細工所(さいくじょ)

2007-11-26 08:37:55 |  ・加古川市志方全般

Shikata_016    “細工所”(さいくじょ)というのであるから、何かを作っていた所だろうと想像する。

  歴史学者の落合重信氏は『ひょうご地名考』(後藤書店)で、志方町細工所について、次のように述べておられる。

  ・・・細工所というのは、事典にあるように「禁裏・国衙・幕府・荘園・寺院などに設置された手工業者の役所、および工房」という意味である。

  そこにいた手工業者はいろいろだが、鍛治・鋳物師・土器作・弓作・大工・紺屋・桧物師・白皮染等広範にわたっている。 

  はじめは、政府の出先機関である国衙の独占物だったが、時代の趨勢(すうせい)と共に、次第に荘園に移るようになった。

  ・・・志方庄の細工所は、史料はないが細工所の近くから須恵器を生産した古窯跡が残っている。

  「瓦(土器)を焼いていた所ではないか」とする説が有力である・・・

  郷土史家の石見完次氏は、「ここは古窯跡が多いところだから、古代土器の工房とも考えられる。

  また、最近の研究では、「細工所は“塞ぐ所(さえぐしょ・さえぐところ)”のことで、防御の設備のあった場所ではないか。

  (細工所は)中道子山城の下にあり、街道筋だから“塞ぐ所”であったともいえる・・・」と『古地名新解』で述べておられる。

  細工所については、「瓦・土器を作ったところ」とする説が有力あるが、「防衛の場所」説も捨てがたい。

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志方町探訪:儒者・玉田黙翁

2007-11-25 09:05:15 |  ・加古川市志方全般

Shikata_006    写真右は、玉田黙翁(たまだもくおう)の墓である。

    黙翁は、野尻(志方町野尻)に生まれた江戸時代の高名な儒者である。

  玉田家は、代々医を業としており祖父、父(柔庵)も医者であった。

  黙翁は、医者としてだけではなく、学問の道を究めた。

  そして、塾を開き多数の門弟を指導した。

  その塾を虎渓精舎(こけいしょうじゃ)といった。

  今もその跡が、野尻の虎ヶ谷の黙翁の墓のそば(写真下)にある。

Shikata_008    黙翁は、ほとんど虎ヶ谷の地を離れず門弟を指導した。

  黙翁のことを知った小田原藩主は、彼を江戸に招いた。

  二度ばかり、江戸に行ったが二度とも一年で帰郷している。

  門弟には姫路藩の儒者など多数いた。

  黙翁は、天明五年(1785)に没した。75才であった。

  黙翁の代で玉田家は絶えた。

  ※ 野尻には、玉田姓が多い。虎渓精舎跡へ案内してくださった方も玉田さんだった。

*『加古川市史(第二巻)』参照

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志方町探訪:雑郷(ぞうごう)

2007-11-24 08:06:12 |  ・加古川市志方全般

Shikata_002    雑郷(ぞうごう)に来ている。

  志方町出身でない方には、あまり馴染みのない地名だろう。

  地図で確かめて出かけた。近くに来ていのだが分からない。

  それらしい道を行った。対向車があったら「万事休す」である。

  地図にある池がみつかった。さらに木立をぬけると、小さな平地と数件の家が現れた。

  どうやら雑郷(写真)に着いたらしい。

  雑郷は、収穫を終えているが棚田に囲まれた谷あいの村である。

  周囲が山のせいか風がない。近くを走る山陽自動車道の騒音もここまで聞こえてこない。

  ここは、まさにシャングリ・ラ(Shangri・La)である。

  農家の庭先に無断駐車をして写真を撮っていたら、お爺さんが出てこられた。

  しばらく話になった。

  雑郷は、「二軒が入船姓、一軒が大城戸姓の3軒だけで、いまは小学生も中学生もいない」とのことだった。

  つまり、3軒で一つの集落をつくっている。

  加古川市志方町雑郷である。

  雑郷について『志方町誌』は「・・・明治14年の調査によると、10戸・人口54人で、おそらくこの頃が一番栄えた時代であろう・・・」とある。

  入船氏によると、祖先がここに来てから16代なるという。村は戦国時代の草分けとしてよいのかもしれない。

  初夏の頃、この辺には蛍が飛び交っていることだろう。その頃にもう一度来てみたい。

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志方町探訪:いわくら(磐座)

2007-11-23 09:46:24 |  ・加古川市志方全般

Mttakamikura_013   神社などという建造物がない時代から神に対する信仰はあった。

  そして、祭は行われていた。

  古代人は、心霊は樹木に宿り、また岩に宿っていると考えていた。

  樹木に宿るとして、今に行はれるのが「ひもろぎ」であり、岩に神が宿り祭ったとするのが「いわくら(磐座)」に対する信仰である。

  志方に住んだ古代人にとって、高御位は毎日見上げるお山であった。ひときわ目立つお山であった。

  その山頂に見事な磐座がある。

  古代人は、この岩座(いわくら)を神として祭ったことであろう。

  高御位山の磐座の写真を紹介できないのが残念である。先日、高御位山に登った時、この磐座を撮影し忘れていた。

  もう一度登りたいが、体力に自信がない。写真は、その時撮った岩座(いわくら)あたりから南を撮影したものである。

  きょうは、これでお許し願いたい。(志方側の風景は、昨日のブログをご覧ください)

  遠くに小豆島が見える。まさに、「まほろば」のような風景が展開している。

  当然、高御位山は海からも、ひときわ目立っている。漁師達も、高御位山を神として信仰した。

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志方町探訪:高御位からの風景

2007-11-22 17:04:17 |  ・加古川市志方全般

Mttakamikura_011     きようのブログは雑感である。事実ではないかもしれない。後日確かめてみたい。そのつもりで読んでいただきたい。

  ・・・急に、高御位に登りたくなった。

  甘かった! 高御位は「たかが304㍍」でる。

  でも、日ごろの運動不足がたたり、まさに「されど304㍍」になってしまった。

  山頂まで、すいぶん休憩をとった。

  山頂の手前で、北の方から「黒いちぎれ雲」が流れてきた。

  急に、時雨出した。八幡町の辺りだろうか、虹が出ている。

  温度が下がってきた。風も出てきた。

  が、山頂に着くと「ちぎれ雲」が南へ去った。光が、いっぱいにあふれだした。

  眼下に志方町・西志方町が広がっている。

  志方町・西志方町は、山で囲まれた町である。山から流れ出した水は、水田を潤している。

  しかし、その水量だけでは水田を潤す力がないのか、高くなった山すそに池が築かれている。

  高御位側の池は、主に西志方の村々の水田を潤しているようである。

  このことが、西志方という地域のまとまりをつくってたのであろう。

  志方町は、北側の池や中央部に集まった水を貯めた池の水を利用しているようだ。

  志方中学校のある宮山の向こうに東志方町わずかにみえる。

  東志方地域は、法華山谷川そして七つ池から流れ出した西川の水を利用し、そしてその水を貯めた池の水で田畑を潤しているのであろう。

  もちろん、法華谷川・西川だけの水だけでは不十分であろう東志方地域の山すそに池が築かれている。

  地図を見ながら、この風景を眺めているとそんなことを想像する・・・・

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志方町探訪:渡辺信二

2007-11-21 08:10:22 |  ・加古川市志方全般

Mttakamikura_007   昭和36年、有志で高御位山頂に滑空記念碑「飛翔」(写真)が建設された。

  碑文は次の通である。

  「先覚者があった。彼を渡辺信二といった。志方町の人である。

  大正十年(1921)十月十七日、彼自ら創作した滑空機に彼自身が搭乗し、天空を目指してここから飛んだ。

  滑空距離三百㍍、時に二十一才であった。

  ここへの搬上は、下之町の青少年がかってでた。

  ・・・・(以下略)・・・・」

  彼は、子供の時より航空機に興味を持ち、航空兵を志したが徴兵検査では乙種で望みを絶たれた。

  その後、航空学校を卒業後、わが国最初の民間水上飛行士の免状を得た。

  卒業後、堺・高松・福岡の定期航空に従事し、時には甲子園でおこなわれた全国中等学校の野球大会(現:高校野球大会)の開会式などの飛行にも参加した。

  大正15年4月6日、堺発福岡行きの郵便飛行中、神戸沖で発火を起こし殉死した。

  日本における郵便飛行の最初の犠牲者となった。

*『志方町誌』参照

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志方町探訪:稲岡商店②

2007-11-20 21:58:25 |  ・加古川市志方全般

3304bb44_6   右の表は、稲岡商店のタオル販売量の推移を示したものである。

  日清戦争後の1896年(明治29)以降、タオルの販売が急増している。

  これは前回に述べたように、この時期、清(中国)への輸出が急増したためである。

  この急増傾向は、その後も続き、日露戦争直後の1905年(明治38)には、販売量は前年と比較しても二倍近く伸びている。

  しかし、この好調な輸出は、何時までも続かなかった。

  まず、日露戦争後の恐慌の影響を受けた。

  そして何よりも、1915年(大正4)5月の「対華21か条の調印」後は、激しい日本商品の排斥運動により清国方面への輸出が危険な状態になった。

  そのため、稲岡商店は、その後日本国内への販路開拓に方向転換していく。

  ※「対華21か条の要求」

   第一次世界大戦が始まると、ヨーロッパ諸国は、清国の支配に対して余裕をなくし、権益の放棄を余儀なくされた。

   こうした状況を利用した日本は、清国に山東半島の権益の要求、旅順・大連そして南満州鉄道の租借などの要求を中国に押しつけた。

*『加古川市史(第三巻)」参照

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志方町探訪:稲岡商店①

2007-11-18 09:12:36 |  ・加古川市志方全般

217   江戸時代の後期の加古川市域は、木綿の一大産地であった。

  特に、幕末期には姫路藩の木綿専売制の下で莫大な生産高をあげた。

  しかし、江戸幕府の終焉とともに専売制が終わった。

  開港により、外来木綿の輸入が本格化し、木綿問屋の経営を圧迫し、ほとんどの問屋は没落した。

  そんな中で、経営を存続させていくことのできたのは、横大路村(志方町西志方)の稲岡九兵衛(九平)家のように、大坂の有力問屋と強力な関係を結ぶことのできた一部の者に限られた。(写真は稲岡家)

  大木綿問屋の稲岡家であったが、九平は明治24年に稲岡商店(現:稲岡工業)を創業し、同39年には個人商店から会社組織に変更して、合名会社「稲岡商店」とし営業を拡大させていった。

  注目すべきことは、それまで木綿をあつかっていた稲岡商店は、次第にタオルの製造へと切り替えていったことである。

  日清戦争後に、タオルを清国(中国)へ輸出したことをきっかけに、タオル生産は急速に普及した。

  日露戦争以後は広東・上海・香港・インドさらにオーストラリアまで市場を拡大させていった。

 *『加古川市史(第二巻)』・『加古のながれ』(加古川市史編さん室)参照

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志方町探訪:一ツ橋領の木綿藩仲間

2007-11-17 09:42:43 |  ・加古川市志方全般

4c6690a0   姫路藩の木綿の専売制については、以前にも取り上げた。

  (*8月18・19のブログ「東神吉探訪:神川甚左衛門①・②」をご覧ください)

  つけ加えたいことがある。

  加古郡・印南郡で生産される白木綿を「長束木綿(ながそく・もめん)」といった。

  姫路木綿は、二つのルートを通して江戸・大坂へ出荷された。

  一つは、姫路周辺の木綿・綿布は、国産木綿問屋であり、他は長束木綿問屋であった。

  姫路城周辺の国産木綿問屋は、江戸積に積極的であった。

  しかし、長束木綿問屋は、今までの取引の関係もあり、必ずしも江戸積み一本にまとまっていなかった。

  莫大な借金を抱える藩としても、江戸積みだけに頼るわけにはいけない事情もあった。

  藩側は、江戸積み重視の立場から、幅・長さ等の規格を厳しくした。

  つまり、「規格外の商品は、江戸積みとして認めない」というのである。

  しかし、尺不足などの規格外の商品の大坂への積み出しは認めた。

  規格外の商品の大坂への積み出しが増えた。

  藩は、取締りを強めたが、取り締まれない事情が生じた。

  加古川地方、特に印南郡には、図のように一ツ橋徳川領がある。

  志方村の一ツ橋領については、11月10日のブログでも説明したが、とりわけ今市・中島・曾根(現:高砂市)の村々の商人の活動は激しかった。

  商人は、規格外の商品をゲリラ的に購入・販売した。

  姫路藩の取締りには限界があった。つまり、そこは姫路藩ではないのである。

  一ツ橋徳川氏領の木綿仲間の活動は、姫路藩の専売制に大きな障害となった。

*『加古川市史(第二巻)』参照

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志方町探訪:中道子山城(志方の城山)

2007-11-16 08:21:36 |  ・加古川市志方全般

194   鎌倉時代の後期になると、各地に山城がつくられた。

  市内では、志方町にある「天神山城」や「中道子山城(志方の城山)」が知られている。

 ◇中道子山城(志方の城山)◇

  中道子山城について『加古川市史(第二巻)』は、その築城主を南北朝期の赤松氏則説と室町初期の孝橋繁広説の二説を紹介している。

  そして「(中道子山城は)山頂にあったと伝えられる中道寺という寺院跡の転用の域を出なかったと思われる。

  本格的な築城は、応仁の乱後の孝橋繁景以後のことであろう・・・」と記す。

  『印南郡誌』は、中道子山城は、四代目城主・孝橋秀光の時代まで続き、秀吉の攻撃により落城したとし、落城のようすを次のように記している。

  ・・・秀吉が、この城を攻めたとき城主は、山一面に笹をしいて敵軍を苦しめるが、敵兵は側面より火を放ち、その火が城に移り陥落した。今なお、焼き米が出土する・・・

  話が合わない。城主・秀光は天正頃の人物ではない。

  三木合戦の記録・『別所記』にも中道子山城の記載がない。『謎の城』である。

  中道子山城は、何らかの理由で三木合戦の頃には、すでに衰退していたと考えられる。

  ある郷土史家は「衰えていた中道子山城を志方城主・櫛橋が、その後使っていたのではないか」と推測している。

  とすると、秀吉が攻めたという話とつながる・・・

 ◇天神山城◇

  櫛橋氏は、武功により赤松氏から恩賞として、西飯坂に天神山城を与えられたらしい。

  その後、山城である天神山城から、平城の志方城(志方町志方町:しかたちょう・しかたまち)へ本拠を移した。

*写真は、平荘町から中道子山城をのぞむ。山頂(中央)の平らな場所に中道子山城があった。

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志方町探訪:幸圓(こうえん)②

2007-11-15 10:16:53 |  ・加古川市志方全般

948cf64f_4   幸圓(こうえん)は、官兵衛の妻であり、福岡藩主・黒田長政の母である。

  父は、志方城藩主・櫛橋伊定(くしはしこれさだ)であった。

  幸圓については、地元でもあまり知られていないようである。

  しかし、彼女の実像が浮かんでこない。

  司馬遼太郎は、小説『播磨灘物語』で幸圓について、次のように書いている。

  (名前は)お悠といった。

  彼女は、官兵衛より背が高く、鴨居(かもい)で頭を打ちそうな自分の背をつねに苦にしていた。

  ・・・・官兵衛は婚礼のときに、はじめて彼女をみた。式は夜おこなわれた。

  その式の夜、薄暗い灯のかげで彼女をみたとき、その背の高さにおどろいてしまった。

  婚儀は、双方にむかいあっておこなわれる。官兵衛の敷物は、円座が三枚重ねてあった。それで辛うじてつりあいがとれた。・・・・

  床入りしても夜中であるためによく分からず、しみじみ顔を見たのは、お悠が、庭の柿木の下にいて、侍女に柿を取らせている姿を、たまたま縁側から見たときだった。

  (わが嫁は、あのように美しかったのか)

  陽が、お悠のうなじにあたっていたが、その白さは玄妙としか言いようのない印象だった。・・・・

  司馬氏は、幸圓をこんな風に描いている。

  これは司馬氏の幸圓像で、もちろん事実ではない。名前も、お悠としているが、史書には無く司馬氏がつくった名前である。本当の名は分からない。

  それにしても、官兵衛は洗礼を受けたキリスト教徒であり、生涯一夫一妻を貫いた稀有な例であった。

  そして、幸圓が浄土宗の信徒であることを認めていた。

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