昨日のブログで、「草場をめぐる争いは元禄期になると“ある理由”でさらに多発するようになった」と書いた。
「ある理由」とは、次のようである。
文禄四年(1595)の太閤検地や姫路藩の検地では、村々の田畑は計測され村ごとに登録された。
そのため、平野部では村と村との境界は、おのずとはっきりした。
しかし、山林原野での境となると、はなはだあいまいなままであった。
延宝五年(1677)におこなわれた延宝検地で、はじめて山林原野の面積も登録するように指示された。
といっても、正確なものではなく、適当に報告されただけである。
ところが、元禄十年(1697)、幕府は全国の大名と寺社に対して「国絵図」等を作成して提出するように命令した。
この絵図の作成を機に、各地に郡堺論争がおきることとなった。
その一つが、志方と加西の郡堺論争である。
志方側は、地図の北にある黒い線を郡堺と主張したが、加西側は従来の慣習どおり、奥の池の南、野尻を通る道あたりまでを主張した。
話はまとまらなかった。
京都町奉行所にもちこまれ、志方側の主張が認められ決着した。
現在の志方町と加西市の境界はこの時に決まった。
しかし、京都町奉行所は加西の田原村・倉谷村に対して、両村が主張した南の線まで入りこんで山草を刈ってもよいとする「大岡裁判」とした。
この論争では、樹木の書かれていない所が草場であり、双方の争奪の場となったのである。
*『加古川市史(第二・五巻)』参照