高砂の発展を支えた加古川の舟運をもう少し見ておきましょう。
江戸時代、加古川流域は舟運により藩の枠を超えて一つの経済圏が成立していました。
江戸時代、舟運は大いに栄えましたが、原因として次の三点があげられます。
三つの理由(舟運の開発)
① 信長の後、秀吉は天正十一年(1583)、大坂に城を築き、大坂は政治・経済の中心となり、西国の諸物資は、主に船舶により大坂に集まりました。
② そして、秀吉・池田氏という播磨一国を支配する大名の出現が考えられます。
戦国時代のように群小の豪族の経済・技術・政治力では、一貫した舟運開発は不可能でした。
③ さらに、姫路藩による高砂港の整備があげられます。
阿江与助(あえよすけ)
慶長十一年(1606)、加古川筋の舟運は本郷から滝野・新町を経て高砂まで約50kmが貫通しました。
地図の●は、舟運の河岸(かし)で、河岸とは「川の港」のことです。
加古川の舟運は、容易に完成したのではありません。
加古川には、随所に川床に岩が立ちはだかっています。その最大の難所は闘竜灘でした。
時代は、中世から近世に移ろうとしていました。
この時、加古川川筋に一人の人物が登場しました。 阿江与助です。
阿江与助は、現在の加東市滝野町の郷志・大久保政忠の二男に生まれ、後に滝野村の阿江家をついでいます。阿江家は、大庄屋でした。
文禄三年(1594)、姫路城にいた、秀吉の一族・生駒玄蕃(いこまげんば)から舟運開発の命を受けた与助は、自費でまず滝野から下流の工事を完成させました。
この大事業は、阿江家の財力、与助の人望と熱意、それに領主の要請が一致したためと思われます。
そして十年後の慶長九年(1604)、姫路藩主・池田輝政が再び西村伝入とともに、与助に滝野より上流の本郷までの舟運の開発を命じました。
これにより、播州高砂と丹波がつながり、加古川川筋は一大経済圏となったのです。(no3636)
*図:加古川流域と河岸の村々 絵:「阿江与助(作者・年代不詳)」(阿江家所蔵)
◇きのうの散歩(12.480歩)