ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

江戸時代、高砂の商業活動(7) (舟運2)舟運と阿江与助

2017-06-30 08:02:15 | 江戸時代、高砂の商業活動

 高砂の発展を支えた加古川の舟運をもう少し見ておきましょう。

 江戸時代、加古川流域は舟運により藩の枠を超えて一つの経済圏が成立していました。

 江戸時代、舟運は大いに栄えましたが、原因として次の三点があげられます。

      三つの理由(舟運の開発)

 ①  信長の後、秀吉は天正十一年(1583)、大坂に城を築き、大坂は政治・経済の中心となり、西国の諸物資は、主に船舶により大坂に集まりました。

 ②  そして、秀吉・池田氏という播磨一国を支配する大名の出現が考えられます。

 戦国時代のように群小の豪族の経済・技術・政治力では、一貫した舟運開発は不可能でした。

 ③  さらに、姫路藩による高砂港の整備があげられます。

      阿江与助(あえよすけ)

   慶長十一年(1606)、加古川筋の舟運は本郷から滝野・新町を経て高砂まで約50kmが貫通しました。

 地図の●は、舟運の河岸(かし)で、河岸とは「川の港」のことです。

 加古川の舟運は、容易に完成したのではありません。

 加古川には、随所に川床に岩が立ちはだかっています。その最大の難所は闘竜灘でした。

 時代は、中世から近世に移ろうとしていました。

 この時、加古川川筋に一人の人物が登場しました。 阿江与助です。

 阿江与助は、現在の加東市滝野町の郷志・大久保政忠の二男に生まれ、後に滝野村の阿江家をついでいます。阿江家は、大庄屋でした。

 文禄三年(1594)、姫路城にいた、秀吉の一族・生駒玄蕃(いこまげんば)から舟運開発の命を受けた与助は、自費でまず滝野から下流の工事を完成させました。

 この大事業は、阿江家の財力、与助の人望と熱意、それに領主の要請が一致したためと思われます。

 そして十年後の慶長九年(1604)、姫路藩主・池田輝政が再び西村伝入とともに、与助に滝野より上流の本郷までの舟運の開発を命じました。

 これにより、播州高砂と丹波がつながり、加古川川筋は一大経済圏となったのです。(no3636)

 *図:加古川流域と河岸の村々  絵:「阿江与助(作者・年代不詳)」(阿江家所蔵)

 ◇きのうの散歩(12.480歩)

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江戸時代、高砂の商業活動(6) 加古川の流れと高砂の町(舟運1)

2017-06-29 07:43:53 | 江戸時代、高砂の商業活動

    加古川の流れと高砂の町

 高砂の町場がつくられました。

 江戸時代の高砂は、加古川の流れをぬきに語ることはできません。

 高砂の町の特徴は、加古川の広大な後背地を持っていたことです。

 高砂は、商品経済の発達にともない、高瀬舟による加古川の舟運の役割は、ますます大きくなりました。

 高瀬舟の本来の役割は、年貢米を高砂へ運ぶことであったのですが、加古川の流域で産出された、さまざまな商品が高砂に運ばれました。

 また、高砂に集まった商品は、流域の各村々に運ばれました。

    どんなものが高瀬船で運ばれたのか

 主も商品は次のようです。

 下り荷物(高砂へ運ばれたもの)

  木工品・・・・・木材、タンス、下駄、桶、樽など

  生活用品・・・・薪、炭、紙、綿など

  食料品・・・・・米、芋、茶、梨など

 上り荷物

  農具・・・・・水車、唐箕(とうみ)など

  肥料・・・・干鰯(ほしか)・油粕など

  海産物

  嗜好品・・・・・菓子、煙草、酒など

  食料品・・・・・塩、砂糖、そうめんなど

  衣料品・・・・・呉服など

  生活用品・・・・鍋釜、火打石、畳表、ろうそく、石炭、仏壇など(no3635)

 *『加古川市史(第二巻)』・『KAKOGAWA-加古川とその周辺の歴史-(伊賀なほゑ著)』参照

 *挿絵:高瀬舟

 ◇きのう(6/28)の散歩(no11.758)

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コーヒーブレイク 円照寺のノウゼンカズラが見頃

2017-06-28 14:44:19 |  ・コーヒーブレイク・余話

 

 この時期、ノウゼンカヅラが円照寺をみごとに演出します。

 昨年「ひろかずのブログ」で、「円照寺の花たち」を連載しました。

 その中でも、とりわけ「ノウゼンカズラ」は印象的で、何回も紹介しています。

 日本一のノウゼンカズラの風景です。

 一昨年、円照寺で咲いている種類のノウゼンカズラの苗を一本頂きました。

 ずいぶん大きくなりました。今、玄関に咲いて言います。

 きょう(6/28)、神戸新聞は円照寺のノウゼンカズラを紹介しています。転載させていただきます。

 日曜日にでも孫と円照寺へ出かけます。お出かけください。円照寺でおあいしましょう。(以下神戸新聞)

  夏彩るノウゼンカズラ見頃(東志方広尾:円照寺)

 兵庫県加古川市志方町広尾の円照寺で、夏を彩るノウゼンカズラの花が見頃を迎えた。オレンジや黄色などの4種約100株が境内を染め、訪れた参拝客らの目を楽しませている。

 中国原産のつる植物。寺では上月義宗住職が約20年前に約10株を植え、株を増やしてきた。今年は7月中旬までに満開になる見込み。その後、花びらを落とし、8月下旬に再び花を付けるという。

 「ここ2、3日で一気に開花した。今年は、近年にないほどの咲きっぷり」と上月住職。加西市山下町から妻と訪れた男性(66)は「夏の花で、華やかなイメージ。自宅でも植えているが、これだけきれいに咲いているのは初めて見た」と話していた。 円照寺TEL079・452・2067(辰巳直之)(no3634)

 *本文・写真とも神戸新聞より

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江戸時代、高砂の商業活動(5) 高砂の町割り

2017-06-28 07:46:45 | 江戸時代、高砂の商業活動

      高砂の町割り

 寛永3年(1626)、高砂町の町割りが完成しました。

 図は、「近世元禄の頃の高砂の町図」です。

 なお、『高砂誌』によれば、高砂の町割りを担当したのは尾上左近右衛門・中須又右衛門でした。

 市街地の南部は、魚町・釣舟町・漁師町・戎町など漁業従事者の町、船頭・船持水主(かこ)・仲仕人夫等の渡海町などで構成されています。

 しかし、港町高砂の中心地は高砂川・南堀川に沿う東浜町・南浜町・材木町・今津町で、ここは、高砂町の玄関口で、船着き場・荷揚場の他、問屋の蔵が建ち並び、賑わいのある問屋街でした。

     飾磨と共に姫路藩の経済を支える

 東浜町の向いの北堀川を渡ると、南北の御津留穀留番所がありました。

 なお、北堀川に沿っての町は高瀬町です。

 これは、加古川筋に姫路藩、その他の藩の年貢の輸送に当たった高瀬船にちなむ町名と思われます。

 このように、池田氏の城下は、本多氏によって港町高砂として生まれ変わり、江戸時代を通じて、飾磨と共に姫路藩を支える港町として繁栄するようになりました。(no3633)

 *図:『近世の高砂(山本徹也著)』参照

 *「近世港町の商業機能に関する研究(市村泰隆)」兵庫教育大学修士論文参照

 ◇きのう( 6/27)の散歩(11.363)

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江戸時代、高砂の商業活動(4) 家を建てない場合は没収

2017-06-27 09:56:41 | 江戸時代、高砂の商業活動

             政治(軍事)都市から経済都市へ

 江戸時代に繁栄した29ヵ町からなる高砂の町並みは、元和三年(1617)に姫路藩主となった本多忠政によって作られたものです。

 元和の「一国一城令」に従って、高砂城が破却されたあと、その跡地には築城以前に、そこあった高砂神社が元の場所に戻され、神社の周辺に新たに町割りがなされて町人たちに屋敷地として与えられました。

        家を建てない場合は没収

 その時の「定書」の写し(写真)が『加藤家文書』に残されています。

 これには高砂の町人を優先し、他所の者へはそのあと にすること、同じ屋敷地で競合した場合はくじ引きにすること。

 屋敷地を与えられても家を建てない場合は没収して別の者に与えること。

 屋敷の分議にあたっては高砂年寄(有力者)であっても「えこひいき」があれば直訴することなどが定められています。

 ここで注目したいのはの内容で、領主は都市建設にあたって、町人が家を建て商工業を活発に行うことを期待していたことが判ります。

 このような法令は、同時期の他の都市でもみられます。

 その場合、たいていは無償で屋敷地が分議されており、地代収取よりも経済機能の充実に目的がありました。

 高砂では有償であったのか、また毎年の地子銭(税金)が徴収されたのか、現在のところ不明ですが、すくなくとも本多忠攻による高秒城の破却と町割り整備によって、高砂が軍事都市から平和的な経済都市に生まれ変わったと言えます。(no3632

 *「たかさご史話(29)」(今井修平論文)より

 *写真の文書:「高砂屋敷割定目之事」(『加藤家文書』)

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江戸時代、高砂の商業活動(3) 城下町から港(商業)町へ

2017-06-27 07:44:58 | 江戸時代、高砂の商業活動

     高砂は、城下町として出発したが!

  藩主・池田輝政の時代に、現在の加古川の河口に高砂城が造られました。

 城下町は、現在の高砂神社を中心とする高砂町(たかさごまち)でした。

 もう少し、図の説明をしておきます。

 上記の図は、近世の高砂の町場の図です。

 図は『近世の高砂(山本哲也著)』をお借りしています。

 高砂が城下町の時代、堀川で囲まれた現在の高砂町が城下町で、城下町の周囲の赤く塗りつぶした所が当時の町場でした。

     城下町から港(商業)町へ

 高砂の町は、姫路に次ぐ城下町として発展する予定でした。

 が、一大事件がおきました。

 それは、元和元年(1615)、武家諸法度の「一国一城令」です。

 つまり、幕府から「一つの藩には一つの城しか認められない」という法令が出されたのです。

 この幕府の法令により、完成まもなく高砂城は取り壊されることになりました。

 以後、姫路藩主・本多忠政は高砂を港町・商人町として道を歩み始めました。

 次号では、高砂城下町から町場に変わった、この間の事情をもう少し説明することにします。(no3631

 *図:赤く塗られた所が高砂城時代(池田輝政時代)の町場、元図は『近世の高砂(山本哲也著)』より

 *『近世の高砂(山本哲也著)』(高砂市教育委員会)、「近世港町の商業機能に関する研究(市村泰隆)」兵庫教育大学修士論文参照

*◇きのう(6/26)の散歩(12.057歩)

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江戸時代、高砂の商業活動(2) 今津村(現:加古川市尾上町)の人々、高砂へ移住

2017-06-26 04:36:25 | 江戸時代、高砂の商業活動

   高砂城、慶長17年の頃に造られた?

 高砂が近世の都市として成立したのは、姫路藩主となった池田輝政の高砂築城にはじまります。

 『池田家履歴略記』には、慶長十七年(1612)の項に「造高砂城」という見出しがあります。

 この史料は、1799年の序文をもつ後世の編纂物ですので信頼性にやや不安はありますが、高砂城は慶長十七年に高砂城が造られたのでしょう。

 おそらく、慶長六年から十四年にかけての大規摸な姫略築城が一段落したのち、高砂築城に着手したものと思われます。

 『慶長播磨国絵図』(天理大学図書館蔵)に城と高秒町が描かれています。

 ただし、その規模は不明で、はっきりとしていません。

    今津村の人々、高砂へ移住

 中世の頃、先に説明したように今津村のあった加古川河口から尾上神社付近にかけての地域は、瀬戸内を行き交う船の停泊地として大いに栄えていました。

 中世に栄えたか今津村(現:加古川市尾上町)も、江戸時代に初めの頃には、土砂の堆積により、すっかり、その機能を失なってしまいました。

 そのため、姫路藩主は、新たに今津の人を中心にして右岸の高砂に移動させ、新しい城下町づくりを計画しました。

結果、尾上町(現:加古川市)の今津村は慶長・元和の頃に消滅しましたが、代わって、高砂に新しい「今津町」が誕生したのです。(no3630

  *絵図:慶長播磨国絵図(天理大学図書館蔵)、解読図

 ◇きのう(6/25)の散歩(10.459歩)

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江戸時代、高砂の商業活動(1) 中世の高砂

2017-06-25 10:20:35 | 江戸時代、高砂の商業活動

 シリーズ「地域の風を読む」は少しお休みして、近世の高砂を散策します。

 「ひろかずのブログ」では、今までに近世の高砂の町を散策しましたが、もう一度、少し角度を変えて紹介しましょう。

 とはいうものの、重なる紹介があることをご了解ください。

     中世の高砂

 近世以前の高砂のようすから始めます。

 最初に、地名としての「高砂」にみることができます。

 『経国集』は、9世紀の初頭の作品です。

 その後、よく知られるものとしては、『源平盛衰記』・『法然次上人絵伝』などに紹介されています。

 しかし、鎌倉・室町時代の高砂は、漁村的性格が強い集落であったようです。

 そして、高砂は、江井崎、福泊、飾磨、室津とともに播磨5泊の一つに数えられ、瀬戸内海の屈指の船泊となり、港としての役割は高まっていきました。

   中世の高砂は現在の尾上町(現:加古川市)

 しかし、その「高砂」は現在の高砂ではありません。

 加古川はまさに暴れ川で、近世(江戸時代)初期、池田輝政改修前は、加古川の流路は、しばしば変動し、阿閇村(あえ:現在の播磨町)から、西は曽根村(現在の高砂市)の間を変動しました。

 したがって、その高砂の河口の高砂泊も流路の変動に伴って移動しました。

 中世の高砂泊は、今日の高砂ではなく、現在の加古川左岸の今津(いまづ:現加古川市尾上町)のあたりでした。

 そのことは『播磨名所巡覧図絵』の「・・・今州(津)の裏口にて・・・」の記述や、天理大学所蔵の『慶長播磨図絵』からも確かめることができます。(no3629)

 *絵:「法然上人絵伝(高砂浦)」より

 ◇きのうの散歩(11.176歩)

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コーヒーブレイク  少しは、ましなブログに・・・

2017-06-24 08:44:29 |  ・コーヒーブレイク・余話

    シリーズ「地域を歩く」を少し休憩します

 最近、耳が聞こえにくくなりました。

 視力も落ちました。

 それに、なによりも体力の衰えを感じるようになりました。

 「ヤバイ!・・・とは思いながらも半分年齢で仕方がないか」とあきらめています。

 「一方、何とかしなくては!・・・」と思い、「読むこと」を中心にしていた生活を、2ヶ月ほど前から散歩(体力維持)を中心とした生活に切り替えました。

 以前から腰痛対策として、少しだけの散歩はしていましたが、歩数を増やすことにしました。

 そして記録をつけることにしました。

 5月は、目標を一日5000歩に設定しました。

 それでも、散歩の途中でやはり腰が痛くなります。そんな時は、適当な腰かけの場所を見つけて10分ほど休憩します。

 不思議なことに、毎日散歩していると、適当な距離で、よい休憩場所がみつけかりました。

 5月は毎日の目標を達成しました。それも超過達成です。一日6000~7000歩になりました。

 準備期間があったせいか、6月はほとんど10,000になっています。

 そして、その数字をブログの最後に「きのうの散歩」としてそっと書き込んでいます。

 この数字は、加計学園のように大ウソではありません。

 最近は、そんな生活が中心です。

    少しは、ましなブログに・・・

 現在退職以来14年目が進行中です。何とか生活習慣病を抱えながらも、今日までブログを書くことを中心にした生活ができました。

 が、昨日は少しショックなニュースを読みました。小林麻央さんが亡くなられたニュースです。小林さんは闘病生活をブログに書いておられます。

 多くの方に感動を与えておられます。

 「お前は、だらだらしたブログをかいているだけじゃないか・・・」という声が聞こえてきそうです。

 今「地域の風を読む」を書いていますが、このシリーズを少し休憩して、「少しは、気合の入ったブログにしなくては」反省しました。

 急にそんなブログにはならないと思いますが、次号から江戸時代の高砂町のことを、少しは気合を入れて鳥瞰してみたいと考えています。(no3628)

 *写真:小林麻央さん(ご冥福をお祈りします)

 ◇きのうの散歩(10.424歩)

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地域(加印)の風を読む(67) 国道2号線を一方通行に

2017-06-23 10:57:26 | 地域の風を読む

      国道2号線を一方通行に

       (昭和44年12月1日より)

 兵庫県公安委会は、(昭和4411月)7日、加古川市内の国道2号線の交通マヒ対策として、121日から、二号線の市街化地域1.6キロメートル東行きの一方通行とし、西行きについては、市道平野西河原線をう回するという幹線国道戦ではめずらしい交逼規制を決定しました。

 市内を通る国道二号織は交通の渋滞が撤しく、43年度調べでは500メートル以上の渋滞が西行き446回、東行き401回、あわせ手847回もあり、通行車輛も一日4万台に近く、こんご年末をひかえて、ますますふえる傾向にあります。

 これまで駐車、右折、歩行者の横断禁止などの措置をとってきましたが大きな効果がなく、この規制となったものです。

 これによって、加古川橋の東詰めから平野交差点までの国道二号線を東行きとし、市道平野西河原線(平野交差点から消防署まで)と加古川左岸線2.6キロメートルを西行きの一方通行として、これらの両区間の4.2キロメートルのうち、とくに駐車禁止でないとこるは通行方向の右側にも停車を認めることにしました。(「広報かこがわ・2205号」より)(no3627

 *記事・地図ともに(「広報かこがわ・昭和4411月号」)参照

 ◇きのうの散歩(12.277歩)

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高砂市を歩く(329)「高砂染」狂言衣装、かみしもみつかる

2017-06-22 11:03:00 | 高砂市

 昨日の神戸新聞は「高砂染の狂言衣装、かみしもみつかる」の見出しで高砂染について大きく報道しました。

 「高砂染」については、「ひろかずのブログ」でも、取り上げています。資料としてこの記事を転載させていただきます。

   姫路藩特産「高砂染」

    狂言衣装、かみしもみつかる

 江戸末期から明治期ごろに制作された高砂染の狂言衣装が見つかり、創始家の一つとされる尾崎家の第17代当主尾崎高弘さん(51)=兵庫県加古川市加古川町=に引き取られた。肩衣とはかまがセットになったかみしもで、専門家は「芸能衣装に高砂染が使われるのは珍しい」と驚く。尾崎さんは「貴重な史料として保存し、展示できる場所を探したい」とする。

 高砂染は江戸期、姫路藩の特産品として、幕府への献上品に使われた。異なる柄の型を重ねた型染めが特徴で、中でも複雑な松枝文様が代表的。明治維新後、技術が衰退し昭和初期には途絶えたとされる。

 かみしもは、4月に京都市で開かれた古物オークションに出品され、東京都の業者が落札した。尾崎さんの知人で、古い布などを収集・販売している姫路市大津区の大谷眞喜子さん(69)と娘のあかねさん(46)が業者に頼み込んで特別に買い取り、尾崎さんに譲ったという。

 肩衣は丈62センチ、はかまは丈77センチ。いずれも上部が茶色地で炭や羽ぼうきなどの茶道具が黒色で型染めされ、下部は黒地にあさぎ色の松枝文様が浮かび上がる。藍染めの夏用衣料を仕立て直したものとみられるという。

 姫路市書写の里・美術工芸館の学芸員山本和人さん(58)は「狂言衣装で松はよく登場するモチーフだが、高砂染の松葉柄は初めて見た」と話す。一般的な高砂染は、松枝文様の部分に黒や藍などはっきりした色をのせるが、このかみしもは逆に、文様以外の部分を黒く染めているという。

 尾崎さんは高砂染の復興を目指す会社「エモズティラボ」(高砂市高砂町)の相談役を務めている。「今では高砂染を見て分かる人は少なく、蔵などに眠っていても捨てられることもある。多くの人に高砂染を知ってもらえるよう活用したい」と話した。(小尾絵生)(no3626)

*記事・写真とも神戸新聞(6月21日朝刊・東播版)からの転載です。

 

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地域(加印)の風を読む(66) 市庁舎建設工事いよいよ着工

2017-06-21 06:58:43 | 地域の風を読む

 昭和44年月発行の「広報かこがわ」は、下記の見出しで、加古川市の新庁舎建設を大きく報じました。

 一部を読んでおきます。

        新庁舎建設工事

        市制20周年の来春5月完成

         総工費 8億300万円

 ‥‥新舎は、加古川町北在家と野口町良野とに渡る国鉄高砂線沿いの公共用地45121平方メートルに建設します。

 新庁舎の概要は、中央部に鉄骨鉄筋コンクリート造り、地上5階建て、塔屋4階、地下2階の本庁舎と左側には鉄筋コンクリート造り地上2階の二階の議場棟あわせえて建築延面積は、10840平方㍍。

 さらに、その左側には、鉄骨造り平家建て949平方の附膚があり、本庁舎・議場付属棟とこの3つの建物の配置にも機能的な構成が考えられています。

 また、庁舎等の1階には市民サービスの充実をはかるため、特殊な用務を除いて窓口事務専門を全部1階を全部一階に集約し、すべてすみやかに処理できるように、合理的に配置され電光掲示板によって表示されるようになっております。

 さらにその中央部には、ゆったりとした市民ホールを配置し、天井にとりつけられた直径約8㍍のトップライトからは、明るい日ざしがさしこむように設計にも新しい工夫がこらされています。(以下省略)(no3625)

 *写真:19455月新庁舎に移転

 *昨日の散歩(11.663歩)

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地域(加印)の風を読む(65) 神戸製鋼所加古川へ進出(4)・そして、浜が消えた

2017-06-20 06:32:03 | 地域の風を読む

    そして、浜が消えた

 『加古川市史(第三巻)』の次の指摘に注目してみます。

 ・・・(埋め立てにより)かつての浜辺での海水浴や潮干狩りの楽しさを奪われたのであり、「埋め立て造成」の名の下に、景観の強制的な変更とその受け入れを余儀なくされてしまったのである。

 このことの持つ意味を、私たちはもう一度よく考えてみないといけないのではないだろうか・・・・                                                      


 以下は、復讐で「広報かこがわ」からの引用です。

 (「広報かこがわ」1967年4月15日号より)

 ・・・このしゅんせつにより遠浅の浜辺がなくなり、潮干狩り、海水浴場が姿を消し、昔の面影は一変し、壮観な工場群が建設されようとしている。

 (「広報かこがわ」1968年5月15日号より)

 (見出し) 

 「来春完成めざし 埋め立て始まる

  尾上町・別府町地先の公有水面」

 ・・・現在約十隻のしゅんせつ船がか動しており、排砂管より勢よく土砂が吹き出している、日々海岸が変ぼうしております・・・

 そして、別府・尾上町から海岸線が消えた。

 市民のウオーターフロントはなくなりました。(no3624)

 *『加古川市史(第三巻)』参照

  写真上:昭和30年代の別府浜の海岸線

  写真下:同場所の現在の風景

 ◇きのうの散歩(10.200歩)

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地域(加印)の風を読む(64) 神戸製鋼所加古川へ進出(3)・神戸製鋼所操業

2017-06-19 07:05:25 | 地域の風を読む

 

  昭和43年・神戸製鋼所操業

 加古川市が神戸製鋼所の有力候補地として白羽の矢がたったのは、昭和34年のころでした。

 そして、建設計画が示されました。

 これに対して加古川市議会は積極的に動きました。

 昭和35年1月の市議会は、「・・・目標が神戸製鋼所と決まった以上・・・(中略)・・・神戸製鋼所誘致に本市の運命を賭けるべきであろうと考えるのであります。

 地元各位のご協力はもちろん、全市かって一丸となって、これが目標完遂のために、当議会においても、強力な神戸製鋼所誘致特別委員会の設置を提案する次第であります」

 まるで、戦時中の演説かと見まがうほどの雰囲気の中で、全会一致で特別委員会設置が決まりました。

 この間、市民の声はあまり聞こえていません。

 そして、昭和43年(1968)厚板工場の操業を手始めとして、その後着実に銑鉄一貫工場体制による新鋭製鉄所は完成しました。

 加古川製鉄所は、環境保全を最優先する基本理念を持って進められたはずであったが「神戸製鋼所第三高炉建設をめぐって推進派と反対派の市民多数が傍聴に押しかけ乱闘(1974・12)」や「ばい煙公害に悩まされている農民が、第三高炉反対を訴えて市役所に直訴(1975・5)」といったできごとが起きました。

 その後、大気汚染防止法など基準値超過の際、記録の中止・データーの改ざんなどを行い、大きな社会問題ともなりました。(no3623)

 *『加古川市史(第三巻)』参照

 *写真:神戸製鋼所

 ◇昨日の散歩(13.766)

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地域(加印)の風を読む(63) 神戸製鋼所加古川へ進出(2)・市の財政は改善されたが

2017-06-18 08:21:29 | 地域の風を読む

 別府・尾上町の浜は埋め立てられ、神戸製鋼所が進出してきました。

 現在、そこは金沢町です。

    神戸製鋼所・加古川市へ進出 

 加古川市の財政は火の車でした。

 昭和36年(1961)2月、3億8000万円の赤字を抱えて、地方財政再建準備団体の指定を受けるまでにいたっていました。

 この時(昭和37年)甘いささやきがありました。

 東は明石から西は赤穂にいたる地域が「播磨工業地帯」として指定を受けたのです。

 そして、昭和37年、加古川市・兵庫県・神戸製鋼所は、神戸製鋼所加古川工場建設に関する協定書に調印し、加古川市は工業都市に向けて一歩をふみだしました。

    加古川市の財政は改善されたが・・・

 神戸製鋼所が本格的創業を始めた昭和45年(1970)頃から、加古川市の財政は徐々に改善されました。

 この意味では、評価できます。

 「・・・第二次産業の中で素材産業が大きなウエイトを占める加古川市の産業構造は不安な状況にあり、今後活力ある街づくりを推進するためには、バランスのとれた産業構造を確立し経済活動を活発化することが必要である・・・」と『平成二年度商工概要』(加古川市経済部商工労政部)は指摘しています。

 が、ご多分にもれず、水質汚濁や大気汚染といった公害とも無縁ではありません。

 別府・尾上町の海岸から海岸が消えました。

 子どもの遊ぶ水しぶきもなくなりました。(no3622)

 *『加古川市史(第三巻)』参照、

 *写真:神戸製鋼所加古川工場

 ◇昨日(6月17日)の散歩(10.443歩)

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