ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

播磨町をゆく(7) 大中(6)、新井用水の逆サイホン

2019-05-31 08:58:56 | 播磨町をゆく

     新井用水は、播磨町の大池へ
 明暦2年(1656)3月に今里伝兵衛によって開発された新井用水は、約1年と言う短期間で完成させましたが、すべてが順調に進んだのではありません。

 加古川大堰(加古川市神野町西条)のところで取りこまれた水は、現在の播磨南中学のところの大池まで13キロ。難工事の連続でした。
 (加古川市)野口で東に向きを変えた新井は、播磨町の大池を目指し伸びています。

     新井用水の逆サイホン
 そうすると、途中、喜瀬川を越えなければなりません。

 そのため、当時としては驚くべき技術が採用されました。
 喜瀬川の下に樋を埋めて、水を対岸に流そうとするサイホンの技術です。
 大中遺跡から喜瀬川の右岸に沿って300メートルほど下ると、右側の土手下にフェンスに囲まれた見慣れない機械があります。
 ここが、新井(用水)が喜瀬川の下をくぐるところです。

 新井用水は、現在まで、350年間にわたって流域の田畑に恵みを与え続けています。
 新井の開削は、日岡山付近の山麓の岩盤掘など難工事の連続でした。
 喜瀬川の埋樋は、「新井の逆サイホン」と呼ばれています。
 新井は、ここで喜瀬川の下へ潜り込み、再び対岸で地上に出ます。
 現在のサイホンはコンクリート製で堅牢ですが、開通時は松の三寸(約10センチ)板製で、この松製のものは14・5年ごとに更新されていていました。
 石製に変わったのは天保元年(1830)頃ですから、11回ほど取り替えられています。(no4659)

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播磨町をゆく(6) 大中(5)、大中弥生遺跡

2019-05-30 06:14:49 | 播磨町をゆく

      大中(5) 大中弥生遺跡

 播磨町の歴史遺産はなんといっても、大中弥生遺跡です。

 『播磨町まちあるきマップ』(ヘリテージ加古)では次のように説明しています。

 ・・・大中遺跡は昭和37年(1962)年、中学生によって発見されました。

 弥生時代中期から古墳時代の中期の代表的な遺跡の一つで、国の史跡(しせな)に指定されています。

 様々な種類の住居跡が発見されています。出土品(しゅつどひんき)は郷土資料館保管展示されています。・・・

 

 大中弥生遺跡は、広く知られていますのでここでは詳しい説明は省かせていただきます。

 もう少し詳しい説明は「ひろかずのブログ」(「さんぽ171、播磨町を歩く52~55」)をお読みください。(no4658) 

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播磨町をゆく(5) 大中(4)、北向きの地蔵さん

2019-05-29 07:54:37 | 播磨町をゆく

     大中(4) 北向きの地蔵さん

 善福寺のすぐ北で、喜瀬川に架かる大中橋の東詰に地蔵堂がありあます。
 安置されているのは、「北向きのお地蔵さん」です。
 この「北向きの地蔵さん」のお堂に地蔵堂に、説明がありましたので、その一部をお借りします。(説明は、文を少し変えています)
      北向地蔵尊
 喜瀬川のほとりに、北向きにこのお地蔵さんはたたずみ、私たちを見守っておられます。
 多くの仏さまは、南面されています。このような北向きのお地蔵さんの数は少なく、一層より多くの功徳があると言われています。
 地蔵菩薩は、この大地と同じように、万物を成長せしめる偉大な効力を蔵しておられる仏様です。
 まさに「大地の母」であり、私たちに一番親しみを持って接してくださり、苦しいとき、悲しいとき、助けのほしいときに地蔵さんに、一心に帰依するならば、必ず、あらゆる苦しみからの救済に手をさしのべていただけます。
 この地蔵さんは、近在では、特に「子授け地蔵」または「子安地蔵」として昔から親しまれ、そのご利益(りやく)、霊験あらたかと言われてきました。(以下略)
 喜瀬川の堤を散歩されるとき、この「北向きのお地蔵」にもお参りください。
 きっと、いいことがありますよ。(no4657)
  *写真:地蔵堂

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播磨町をゆく(4) 大中(3)・大澤小学校(だいたくしょうがっこう)

2019-05-28 10:25:59 | 播磨町をゆく

       学制(がくせい)
 時代は、江戸時代から明治時代へとかわりました。

 世界に目を開いた日本は、その遅れを取りもどすために、まず教育に力を注ぎます。
 そして、明治5年(1872)8月「・・・・一般の人民は、必ず不学の戸なく、家に不学の人がいないようにする・・・」という大目標をかかげて教育の普及につとめました。
 これが「学制」です。
 この学制が実施された3年後の明8年には、全国に24,225の小学校がつくられました。
 しかし、就学率は3割程度であったといわれています。
    大澤小学校(だいたくしょうがっこう)
 この、学制により、播磨町域で最初につくられたのが大澤(だいたく)小学校でした。

 大澤小学校は、大澤、野添、二子(ふたこ)、古田、東中野、山之上(やまのうえ)を学区として、現在の大中の善福寺境内に開設されました。
 こうした初期の学校は寺院の一隅や民家を使って始められ、教員は二名か三名がふつうでした。
 まさに、「明治版・寺子屋」です。
 新政府は、火の車で、施設その建設費は国や県から支給されません。苦肉の策として多くの場合、寺が利用されました。
 それに、小学校といえども現在と異なり授業料50銭が必要でした。
 ですから、苦しい生活の中で学校制度反対運動も各地でおきています。
 明17年(1884)には大澤、本荘の両小学校が合併して、阿閇(あえ)小学校と改称され、明治33年(1900)、現在の播磨小学校の地に、木造校舎の阿閉尋常小学校が建てられました。
 なお、戦後の昭和21年(1946)、阿閇村立阿閇小学校と名称が変わり、昭和22年、六・三制により、阿閇中学校(現:播磨中学校)が阿閇小学校を仮校舎に開校されました。
 現在、善福寺の境内には大澤小学校跡を示す石碑(写真)が建てられています。(no4656)
 *『播磨町の歴史』(「歩いてみよう播磨町の歴史」を編集する会)参照

 *『播磨町町歩きマップ』(ヘリテージ加古)参照
 *写真:大澤小学校跡を記念する石碑(善福寺境内)

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播磨町をゆく(3) 大中(2)、善福寺 ・ 西国巡礼・郡西国二十番札所

2019-05-27 06:51:15 | 播磨町をゆく

     播磨町をゆく(3)  大中(2)

     善福寺  西国巡礼・郡西国二十番札所
 西国三十三観音霊場巡りは、平安時代の中ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねをするようになりました。
 人々は、病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えるとお礼のために、または亡き人の供養のために、さらに自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音霊場めぐりに出かけました。
 第一番の那智山青岸渡寺から、最後の三十三番目の谷汲山華厳寺までの寺めぐりでした。
 それは、まさに苦行の旅でした。  
 江戸時代になり、治安もよくなりました。
 交通機関も整備され、西国三十三観音霊場めぐりも比較的やりやすくなり、苦行であった巡礼も、レクレーション的な性格さえ持つようになりました。
 それでも、誰にでもできる気軽な巡礼の旅ではありませんでした。
 苦しい生活の庶民にとって、三十三観音霊場巡りは現在の外国旅行よりも、ずっと縁の遠いものでした。
 そこで考えられたのが播磨の国に三十三か寺の観音霊場を定め、それらの寺を巡礼すれば、同じ功徳があるとしてはじまったのが「播磨西国三十三所霊場めぐり」です
 このような巡礼がはじまったのは、江戸時代の初めの頃です。
     郡西国三十三札所めぐり
       善福寺は二十番札所

 「播磨西国霊場めぐり」よりも簡単に、誰にでもできる巡礼として、加古郡内に三十三観音めぐりの霊場が定められました。

 これが「郡西国三十三札所(郡西国ともいう)」です。
 この郡西国の二十番札所が、大中村の善福寺でした。
 なお、善福寺の境内には三十三体の仏様が安置されています。(no4655)
  *写真上:善福寺(播磨町大中)
  *写真下:善福寺の33体のみ仏たち(善福寺境内)

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播磨町をゆく(2) 大中(1)・大中の村名

2019-05-26 06:46:35 | 播磨町をゆく

 *このシリーズ、「播磨町をゆく」は播磨町まちあるきマップ」(「ヘリテージ加古」編集・発行)たくさんお借りします。なお、転載等は発行・編集者の許可をいただいています。

   播磨町をゆく(2)、大中(1)・大中の村名

 大中村(おおなかむら)は明治10年、大澤村(おおざわむら)と東中野村が合併(がっぺい)して生まれた新村です。

 村名は大澤村(おおざわむら)の「大」と東中野村の「中」を合わせて「大中(おおなか)」となりました。

 大中地区北部(おおなかちくほくぶ)(旧大澤があり、古代の弥生時代から台地に集落が形成され、早くから人が住んでいたことがわかります。

  大正時代になると、別府港(べふこう)と国鉄土山駅間(こくてつつちやまえきかん)を結ぶ別府軽便鉄道(べふけいびんてつどう)が村の中を走っていました。

 昭和40年代前半には農地の土地改良(とちかいりょう-ほ場整備)が行われ、ため池、水路(すいろ)、及び道路も整備されました。

 昭和40年後半の高度経済成長期には、沿岸部(えんがんぶ)の工業化が進んだ結果、人口が急激に増え宅地化が進みました。(no4654)

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播磨町をゆく(1) もう一度、播磨町(加古郡播磨町)を歩きます

2019-05-25 05:30:00 | 播磨町をゆく

    播磨町をゆく(1)

    もう一度、播磨町(加古郡播磨町)を歩きます

 シリーズ「別府町をゆく」は、少しお休みにして、新しいシリーズ「播磨町をゆく」をはじめます。

 「別府町をゆく」は、原則「播磨町をゆく」と1週間ごとの交互の連載とします。

 とりあえず、来週の土曜日まで「播磨町をゆく」の連載です。

     播磨町の各地域の名称のこと

 時代は、江戸時代から明治時代にかわりました。
 時代は変わったのですが、明治の初めの集落名は江戸時時代のままでした。
 つまり、当地域の村々は、東本庄村・西本庄村・宮北村・野添村・古宮村・大沢村・東中野村・経田村・古向村・宮西村・二子村でした。
 が、明治5年から7年にかけて政府の町村費用の節約方針があり、当地域の村々も合併が進められました。
 その結果、明治8年から9年にかけて、東本庄村・西本庄村・宮北村が合併して「本庄村」に、大沢村・東中野村が「大中村」に、そして経田村と古向村が合併して「古田村」と名称を変えました。
 蛇足です。「古田村」の名称です。古向村の「古」と経田村の「田」をつなぎ合わせた名称としました。

     阿閇村(明治22年4月1日)誕生

 そして、22年4月1日、新しい町村制により、本庄村・野添村・古宮村・大中村・古田村・二子村が合併して阿閇村(あえむら)が誕生しました。
 「阿閇村(あえむら)」の名称ですが、播磨町の地区は、『播磨風土記』、『和妙抄』で、「阿閇津」「阿閇庄」と呼ばれていたようで、この古い土地名をとって「阿閇村」としました。

     播磨町(昭和37年4月1日)

 なお、昭和37年4月1日、新しい町村制で名前を「播磨町」として現代に至っています。(no4653)
 *図:『兵庫県市町村合併史(上)』(兵庫県)参照

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別府町をゆく(24) 浜の風景(8)・お爺さん・おばあさんの子どものころ

2019-05-24 08:21:41 | 別府町をゆく

 

      浜の風景(8)

           お爺さん・おばあさんの子どものころ

 これらの写真は昭和32年当時のものです。

 昭和42前(浜の埋め立て)の浜の風景を知る人にとって、思い出いっぱい景色です。

 でも、子供や孫に「お爺さん・おばさんの子どもの頃、別府の浜で貝をいっぱいとったよ、夏には泳いだよ、それに魚釣りもしたんだ、夢の世界だったね・・・」と、語るだけの風景に変わってしまいました。

 子どもは信じないでしょうね。(no4652)

 *写真:浜の風景(呉田利明氏提供)

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コーヒーブレイク 『加古川さんぽ(上・下)』をお読み下さい

2019-05-23 09:30:25 |  ・コーヒーブレイク・余話

 『加古川さんぽ(上・下)』をお読み下さい

 最近は、『加古川さんぽ(上・下)』の宣伝が多く申し訳ありません。

 内容のわりに、たくさんの方に読んでいただいています。

 ありがとうございます。

 今日も、ひつこく、宣伝させていただきした。ご了承ください。

 遠方の方には郵送します。

 お詫びです。500部だけの製作のため1冊が1000円(上・下で2000円)と高くついてしまいました。ご了承ください。

 お申し込は下記のいずれかへお願いします。

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 Tel  携帯080-1353-0337   自宅 079-490-4641

 *  お申込みは、自宅、携帯番号、住所(郵便番号)をお聞かせください。

 *  ご近所の方は、自宅(加古川市尾上町今福9番地)で販売いたします(no4651)

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別府町をゆく(23) 浜の風景(7)

2019-05-23 08:22:16 | 別府町をゆく

    浜の風景(7)

 きょうは、説明抜きです。

 昭和32年当時の別府の浜です。

 昭和32年、私は中学2年生でした。

 加古川中学の生徒でしたから、普段の遊び場ではなかったのですが、夏は海水浴に、春は潮干狩りによく来ました。

 マテ貝を採りが、面白かったのをよく覚えています。砂の穴に塩を入れると貝が顔を出すんです。(no4650)

 *写真:浜の風景(写真提供:呉田利明氏・昭和32年)

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別府町をゆく(22) 浜の風景(6)・金沢新田跡(3)

2019-05-22 06:54:00 | 別府町をゆく

 前回に引き続き『別府小学校百周年記念誌』より、田下明光さんの思い出です。

     魚(じゃこ)とり

 魚の獲り方です。

 「タンボツ」と呼ばれる竹筒でウナギを獲る方法があります。

 太い竹を1㍍位に切って中の節を全部とり去り、数十本を束にしてヒモでくくって水の中にオモリをつけて沈めます。

 数メートル間隔で、ヒモをつなぎ数本一組にして大ミゾ、小ミゾ、シンガイなどに沈めておきます。

 何日かして行くと、タンボツの中でウナギが寝ているのです。

 また、竹ヒゴの先にウナギ用の細長いハリをくくりつけ、大きなミミズを房がけにして、大ミゾの石垣の穴の中に入れて、中のウナギを誘い出したり、ひっかけたりしました。

 シンガイでは、夏になると、ゆでたザリガニの身をエサにして、ウナギを専門に釣りました。

土用の丑の日が近づくと、友達と誘いあって大物を狙いに行きました。

    ワンドあたり

 ワンドでは、大人と一緒になってボラやイナ(ボラの幼少期)をとりました。

 満潮時に大ミゾ側の三ケ所の水門を全部閉め、海側の水門だけを開けて海水を入れると海から魚も一緒にドッと入り、ワンドの中が満水になると水門を閉めます。

 ボラが外まで飛びはねて手づかみできる時もありました。

 今度は、大ミゾ側の三ケ所の水門に皆で、大きなタモ(玉網)をそれぞれに入れて受けてから、三つの水門を同時に少し開けると、タモの中に魚が入る仕組みなのです。

 時々、チヌやスズキの大物が獲れることもありました。

 冬場のカレイ釣り。春まだ浅く海水の冷たい頃のバ力貝、アサリとり。

 夏の昼間は、イナやウナギとり。夜は、チヌの夜釣リ。

 夏も終わりかけ、秋風が吹き始めると、カーバイトのカンテラを持って大ミゾでのエビすくい。

 秋は、ハゼ釣り。

 そして、モズクガニを別府川の岸壁ですくったり、マガリ付近の岩場では魚の頭をエサにカニとり・・・。

 汐干狩、海水浴は当然として、一年中海で遊んでいました。(以下略)(no4649)

 *写真:金沢新田跡(呉田利明氏撮影・昭和36年)

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別府町をゆく(21) 浜の風景(5)・金沢新田跡(2)

2019-05-21 09:41:16 | 別府町をゆく

 『別府小学校創立百周年記念誌』に、田下明光さん(昭和37年卒業)が子どもの頃、新野辺の海岸で遊ばれた思い出を書いておられます。

     浜の風景(4)

 僕にとって別府は海です。そして、海は別府でした。

 父親となって自分の娘、息子に話して聞かせる少年時代の想い出は、あの遠浅の別府の海の話しばかりなのです。

 小学校に入る頃に始めた釣りは未だに続いていますが、エサを買わなければならないことと、魚が釣れなくなったことは、当時と比べて大きな変化です。

    シンガイ・ワンド・マガリ

 「シンガイ、ワンド、マガリ」この言葉を懐かしく感じるのは30代後半(それも男性かナァ)までではないでしょうか。(*この原稿は平成5年に書かれていますので筆者は現在50才代後半)

 別府海岸は、加古川の東岸から別府川の西岸にかけて、加古川市のほぼ南限いっぱいの尾上町と別府町の海岸線約3.5キロメートルのうち東半分を占めておリ、逮浅の海水浴、汐千狩、釣りに最適の海岸でした。

 「アマの泣き潮」と呼ばれていた、一年で一番潮の引く日には沖合300メートルまでいっても背が立つほどでした。

 海岸線には別府から尾上まで延々と防波堤が続いていました。

 防波堤の北側には平行して大小二筋の溝があり、「大ミゾ」「小ミゾ」と呼ぶ一種の気水域(海水と真水の混入域)で、さらにその北側には干拓田跡「シンガイ」が広がっていました。

 小ミゾより大ミゾの方が塩分が多く、小ミゾにはフナもたくさんいたし、シンガイは真水に近く、シンガイの北側にも東西に細長いミゾがあって、フナやナマズが釣れました。

 大ミゾが気水域なのは、海と大ミゾの水を調整する「ワンド」と呼ばれる石積みのバームクーヘンのような樋が防波堤に接して大ミゾ側にあリ、海側に一ケ所、大ミゾ側に三ケ所の水門がありました。

 そして、防波堤は真ん中にあたり、別府と尾上の境界付近で大きくカーブを描いており「マガリ」と呼んでいました。

 マガリ付近からは投げ釣りでカレイ、キスなどがよく釣れましたが、小学生特代はこのマガリで隣町の尾上の小学生と知り合ったり、にらみあったりした、子供の領分の境界でもありました。

 シンガイ、ワンド、マガリ、ここで、僕達は多くの魚の種類と獲り方を覚えたのです。(no4648)

 *写真:ワンド(上)と金沢新田跡(下)の風景(呉田利明氏提供)

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別府町をゆく(20) 浜の風景(4)・金沢新田跡(1)

2019-05-20 06:30:29 | 別府町をゆく

 

   浜の風景(4)・金沢新田跡(1)

 赤く塗った部分が、江戸時代につくれた「金沢新田」です。

 金沢家(東神吉町砂部)に残る文書等から判断して、「金沢新田」は、天保四年(1833)ごろからはじまり、天保八年(1837)に完成したと思われます。

 この時の新田は84町4反21畝の広大な新田でした。

 この金沢新田とさらに別府の浜への拡張により神戸製鋼所は建設されました。

 写真は、金沢新田の風景です。(no4647)

 *写真:金沢新田の風景(昭和33年・呉田利明氏撮影)

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別府町をゆく(19) 浜の風景(3)・魚釣り

2019-05-19 06:51:21 | 別府町をゆく

     浜の風景(3) 魚釣り

 いつの時代も釣りは人気がありました。

 この写真は、昭和32年の釣りの風景です。

 場所は、背景に「あかがね御殿」がありますので、場所はお分かりと思います。

 今の海洋センター付近です。ここにたくさんの太公望が集まりました。

 

 「オジサン・・・今日は何が釣れるんですか」

 アジが多いな。

 「今夜のおかずですか」

 そうやな、酒のアテにな・・・うまいで・・・

 

 当時は、キャッチ・アンド・リリースなんてしません。

 食べるために釣りをしました。

 釣り竿は、竹でした。(no4646)

 *写真:昭和32年の魚釣りの風景(提供:呉田利明氏)

 

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『加古川さんぽ(上・下)』ができました

2019-05-18 08:23:58 |  ・コーヒーブレイク・余話

    お爺ちゃんが書きました、読んでくださいね。(写真:昨年6月円照寺にて)

 *今日も「別府町をゆく」はお休みで、昨日と同じ内容で申し訳ないです。今日から、『加古川さんぽ』の販売を開始します。

    『加古川さんぽ(上・下)』ができました

 『加古川さんぽ(上・下)』が、できあがりました。

 きのう(17日)、印刷所から届きました。

 「やさしく、短く(簡潔に)」をモットーにして編集したつもりですが、私の独りよがりで、読んでいただけるかが心配です。

 感想をいただければ幸いです。

 なお、きょう(18日)から販売をします。お読みいただけるお友達を紹介してください。

 お届けします。遠方の方には郵送します。

 お詫びです。500部だけの製作のため1冊が1000円(上・下で2000円)と高くついてしまいました。ご了承ください。

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*  ご近所の方は、自宅(加古川市尾上町今福9番地)で販売いたします。

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