ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(330) 「高砂染」初の海外デビュー

2018-10-28 19:50:35 | 高砂市

 きょうの神戸新聞に「高砂染」のニュースがありましたので掲載させていただきます。

          「高砂染」初の海外デビュー

 江戸時代に盛んに作られ、兵庫県高砂市内の企業が復刻した染め物「高砂染」が、400年の歴史で初めてとなる海外デビューを果たす。31日~11月10日に中東のアラブ首長国連邦(UAE)で開かれる展示会に出展。復刻した着物や、約100年ぶりに新作したという浴衣を披露する。(広岡磨璃)

 高砂染は、型染めを重ねる伝統技法と、謡曲高砂に登場する「高砂神社の相生の松」をモチーフとした文様が特徴で、祝いの心を表現する。江戸時代の姫路藩を代表する特産品として幕府への献上品にもなったが、昭和初期に姿を消した。昨年6月、再興を目指す会社「エモズティラボ」が発足。インターネットのクラウドファンディングで資金を募り、今年4月に復刻版の着物を完成させた。

 出展するのは、世界有数規模の本の見本市「シャルジャ国際ブックフェア」。今年は日本が名誉招待国で、神戸にあるインバウンド推進団体から声が掛かった。

 高砂染はジャパンパビリオンの一画に出展し、復刻した着物とともに、新作の浴衣を着用した状態で披露。染め物のワークショップも開く。古来の高砂染は幽玄を表現し、シックな色合いが主流だが、新作の浴衣ではあえて松枝柄を赤色で染め、「蝶熨斗紋」を黒で重ねた。

 同社取締役相談役で、高砂染創始家の一つとされる尾崎家17代目当主、尾崎高弘さん(52)=加古川市=は「アラブの人たちからどんな反応が得られるか、わくわくしている」。現地に向かう同社代表の寄玉昌宏さん(33)=同=は「高砂染が持つ『ことほぎ』の精神を伝えるとともに、お祝いのモチーフなど中東の文化も吸収したい」と話している。(no4534)

*写真・記事とも神戸新聞(10/28)より

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高砂市を歩く(329)「高砂染」狂言衣装、かみしもみつかる

2017-06-22 11:03:00 | 高砂市

 昨日の神戸新聞は「高砂染の狂言衣装、かみしもみつかる」の見出しで高砂染について大きく報道しました。

 「高砂染」については、「ひろかずのブログ」でも、取り上げています。資料としてこの記事を転載させていただきます。

   姫路藩特産「高砂染」

    狂言衣装、かみしもみつかる

 江戸末期から明治期ごろに制作された高砂染の狂言衣装が見つかり、創始家の一つとされる尾崎家の第17代当主尾崎高弘さん(51)=兵庫県加古川市加古川町=に引き取られた。肩衣とはかまがセットになったかみしもで、専門家は「芸能衣装に高砂染が使われるのは珍しい」と驚く。尾崎さんは「貴重な史料として保存し、展示できる場所を探したい」とする。

 高砂染は江戸期、姫路藩の特産品として、幕府への献上品に使われた。異なる柄の型を重ねた型染めが特徴で、中でも複雑な松枝文様が代表的。明治維新後、技術が衰退し昭和初期には途絶えたとされる。

 かみしもは、4月に京都市で開かれた古物オークションに出品され、東京都の業者が落札した。尾崎さんの知人で、古い布などを収集・販売している姫路市大津区の大谷眞喜子さん(69)と娘のあかねさん(46)が業者に頼み込んで特別に買い取り、尾崎さんに譲ったという。

 肩衣は丈62センチ、はかまは丈77センチ。いずれも上部が茶色地で炭や羽ぼうきなどの茶道具が黒色で型染めされ、下部は黒地にあさぎ色の松枝文様が浮かび上がる。藍染めの夏用衣料を仕立て直したものとみられるという。

 姫路市書写の里・美術工芸館の学芸員山本和人さん(58)は「狂言衣装で松はよく登場するモチーフだが、高砂染の松葉柄は初めて見た」と話す。一般的な高砂染は、松枝文様の部分に黒や藍などはっきりした色をのせるが、このかみしもは逆に、文様以外の部分を黒く染めているという。

 尾崎さんは高砂染の復興を目指す会社「エモズティラボ」(高砂市高砂町)の相談役を務めている。「今では高砂染を見て分かる人は少なく、蔵などに眠っていても捨てられることもある。多くの人に高砂染を知ってもらえるよう活用したい」と話した。(小尾絵生)(no3626)

*記事・写真とも神戸新聞(6月21日朝刊・東播版)からの転載です。

 

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高砂市を歩く(328) 幻の「高砂染」

2017-05-31 07:56:08 | 高砂市

      幻の高砂染

 幻の「高砂染」の話をしましょう。以前にブログで紹介した「幻の高砂染」の再掲です。

   尾崎庄兵衛が「高砂染」をはじめる

 「慶長六年(1601)、姫路藩主池田輝政は高砂付近を開発し堀川をつくりその産業奨励の意味で、高砂の尾崎庄兵衛を召して木綿染をつくらせ「おぼろ染」として売り出しました。

 後に、庄兵衛は自邸でその業を営み、〝高砂染〟と改称した」というのがその一つの説です。

 『高砂町誌』(昭和55年4月発行)によると、「・・・慶長の頃、高砂鍛冶屋町に尾崎庄兵衛という人がいました。父祖の業をついで鍛冶職を営んでいました。

 庄兵衛は、常に考える人でした。

 たまたま、領主池田輝政が民間の生業を奨励するに当り、庄兵衛を召して染色をさせました。

 庄兵衛は日夜思いをこらし遂に一種の染め物を創案し、これを輝政にすすめました。それは、紋様が鮮やかで見事な出来栄えでした。

 そこで、輝政は庄兵衛を姫路に出府させ、これをつくらせて、「おぼろ染」と名づけました。

 当時この「おぼろ染」は輝政の紹介もあって諸藩士、業界に用いられ、庄兵衛はその用達に努めました。

 後年、高砂の自邸でその業を営み「高砂染」と改称し、以来これを家業として高砂染は高砂の名産となりました・・・」(高砂雑志)より

   高砂染は、江戸時代中期以降か?

 昭和52年の「兵庫縣社会科研究会会誌」第24号で、玉岡松一郎氏は「高砂染顛末記」の中で、次ように記しておられます。

 「慶長6年3月11日、姫路藩主池田輝政は高砂附近を開発し堀川を造りました。

 その時、産業奨励の意味で、尾崎庄兵衛を召して紙型による木綿をつくらせ、「おぼろ染」と名付け、諸藩にも販売しました。

 尾崎家の隣家の川島家も後世に染色しており、新しい図柄ができて「高砂染」と名を変えるようになったのは江戸後期のことでしょう・・・」

 また、尾崎庄兵衛は実在の人物で、先の玉岡松一郎著の『高砂染顛末記』に次のように書かれています。

 「・・・高砂市鍛冶屋町に現在自転車・単車等を盛業しておられる尾崎庄兵衛の子孫である尾崎庄太郎氏(明25生)を訪問する。

 現在、布等は一切残ってなくて、紙型は明治末頃に一度整理し、なお、40~50枚残っていたが、戦時中に防空壕に入れたり出したりしているうちになくなってしまったといわれる・・・」

 尾崎庄兵衛が、高砂染を行っていたことは事実と考えられます。

 しかし、その始まりが池田輝政の時代というのは、少し無理があるようです。

 というのは、綿作が盛んになるのは江戸時代中期以降のことです。時代はかなり下るものと思われます。

 *『姫路美術工芸館紀要3』(山本和人論文)参照

    相生屋勘右衛門説

 他方、高砂染は、相生屋勘右衛門のはじめた染物であるとする説です。

 「相生屋の先祖は、徳島の藩士・井上徳右衛門といい、約三百年以前に姫路へ来て染め物業を始め、五代目・勘右衛門に至って、藩主・酒井侯により松の模様を染めて献上して、屋号の相生屋を賜わりました。これが高砂染の起源である」といいます。

 高砂染の最初については、以上のように尾崎庄兵衛説と相生屋勘右衛門の二説があり、はっきりとしていません。

 姫路と高砂と場所はことなっていますが、江戸時代、姫路藩の染め物業者として「高砂染」の生産を行っていたようです。

    河合寸翁の政策

 特に、河合寸翁が家老になって以降は、高砂染は姫路藩の献上品として定着していくことになりました。

 寸翁は、困窮した藩の財政を立て直すために木綿の専売制を実施したことで知られていますが、一方で、姫路藩の多くの国産品の奨励にも力を入れました。

 天保三年(1833)には、藩校であった好古堂内に御細工所を設けて高砂染の染色を実際に行っています。

 そして、「高砂染」を姫路の特産品として江戸、大坂などへ積極的に流通させました。

 文献上、高砂染の起源は、現在のところ18世紀中葉まで遡ることができます。

 その後、高砂染は江戸時代のみならず明治、大正、昭和と存続し、高砂を含めた姫路の広い範囲で染められ、より多様な展開をみせました。

 河合寸翁が亡くなり、やがて明治時代を迎えて、高砂染が藩の保護を解かれて後も生産は続きました。

 *『姫路美術工芸館紀要3』(山本和人論文)参照

     姫山絞の台頭

 明治時代も高級品として生産が続いていた高砂染は、大正10年代になると新たに姫山絞(ひめやましぼり)の生産が目につくようになりました。

 大正14年(1925)発行の『姫路商工案内』の広告ページに、姫路染色業組合の22名の名が掲載されています。

 それを見ると、組合長として「寺島仙吉」、副組長として「吉田廣吉」の名があり、最後に高砂染の「井上勘右工門」も名を連ねています。

 姫山絞は、木綿を用いた藍染絞の一種です。

 大正13年7月発行の一『姫路之実業』を見ると「姫山絞と高砂染合せて16万円」という数字が見られますが、このうち高砂染の占める割合は姫山絞よりも少ないものと考えられます。

 昭和4年発行の『産業要覧』にも、「現在、姫路市の染織品は紺染、高砂染、姫山絞などですが、姫山絞は価格の低簾なること、容易に鎚色せざる点に於いて他に比なく、毎年その生産額を増し、販路は国内各地方に及ぶ」と記されているように、絞り染が盛んになった理由は、より安いコストの商品が民間に供給されたことを示すものです。

 これまでの型染ならば、わざわざ伊勢に型紙製作を依頼する必要があり、それだけ製作にかかる日数とコストがかります。

 それに比べ、藍染めの絞りならば型紙は必要なく、注文を受けてすぐに取りかかることができました。

 こうして、高砂染は時代が下るにつれ、より安易でコストの安い絞り染に押されることになりました。

    高砂染の終焉

 昭和に入ると高砂染の名を文献上で見つけることは、いよいよ難しく、『姫路』(昭和5年発行)と『ひめじ』(昭和8年発行)の掲載広告に中州喜平、『高砂実業協会』(昭和2年発行)に藤尾呉服店の名が見えるのみです。

 このうち後者の藤尾呉服店は高砂北本町に店を構えており、広告には「高砂名産・高砂染」とありました。

 また『高砂染顛末記』には次のような記述も見られる。

 田植には高砂染は欠かせぬものであり、また「高砂染の時代が下ること、腰巻に用いたことがあった」と記されています。

 現段階では、高砂市内における高砂染についての資科を欠くため、明確なことはわからないのですが、徐々に簡略化した高砂染となっていたようです。

こうして、江戸時代、姫路藩の高級品であった高砂染は、昭和のかなり早い時期に終焉を迎えました。

 *『姫路美術工芸館紀要3』(山本和人論文)参照(no3604)

 

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高砂市を歩く(327) 「高砂染」再興へ会社設立

2017-05-31 07:43:48 | 高砂市

 昨日(30日)、神戸新聞は「高砂染」のニュースを掲載しました。

 「高砂染」については以前ブログでも書いた話題です。資料として掲載しておきます。

 なお、以前にブログで書いた高砂染めについて、次号で再載しておきます。

    「高砂染」再興へ会社設立 創始家子孫らも支援

 高砂染の再興を目指す団体「エモズティラボ」(兵庫県高砂市高砂町鍛冶屋町)が6月1日に株式会社化するのを前に、姫路市本町で会社設立発表会をこのほど開いた。高砂染の創始家とされる尾崎家と井上家の子孫も出席し、事業への支援を約束した。9月ごろには新ブランド「アムタ」から、新デザインのスカーフなどを発売する予定。

 同団体は昨年夏に発足した。尾崎家17代目当主の尾崎高弘さん(51)=加古川市加古川町=が相談役となり、活動を全面的に支えてきた。これまでに高砂染の代表的な松葉柄を取り入れたデザインの風呂敷や文具などを開発。高砂染の復興へ本腰を入れるため、株式会社化にかじを切った。

 これまでは織物を使っていたが、今後は型染めに取り組む。高砂染の古布に倣い、本来のデザインに近づけ、異なる2枚の型を重ねる技法も取り入れる。アムタではスカーフやストール、ランチョンマットなどの製造を検討しており、インターネット販売やイベント出店で販路を拡大していくという。

 代表を務める寄玉昌宏さん(32)=同市西神吉町=は「高砂染の原点に立ちながら、新たな高砂染を発信したい」と意気込む。高砂染の復刻版の製作に向け、インターネットを通じて個人から資金を募るクラウドファンディングにも取り組む。7月末までに175万円を目標とし、協力者には3千~5万円の投資額に応じて、アムタの新商品や、復刻版の高砂染などを贈る。

 発表会には、井上家の子孫で高校教員の井上国雄さん(57)=姫路市神屋町=も駆け付けた。染め物屋は2代前で閉じたといい、「これまで染め物を意識せずにきたが、このご縁をきっかけに協力していければ」とエールを送った。尾崎さんは「一度途絶えた高砂染の復興は困難な道のりだが、歴史や技法などに立ち返り、前に進んでいきたい」と力を込めた。(小尾絵生)

 ■高砂染 江戸時代後期に姫路藩の特産品として発展し、幕府への献上品にも使われた。高砂神社の相生の松をモチーフにした松枝模様が特徴で、2枚の柄が異なる型を用いて2度染めする。明治維新後、庶民に広まるにつれ、簡素化され、昭和初期に姿を消したとされる。創始家は高砂の尾崎庄兵衛と姫路の相生屋井上勘右衛門の説がある。(no3603)

 *写真、:姫路藩の下で発展した高砂染めにちなみ、姫路城を背景に協力を約束する(右から)尾崎高広さん、寄玉昌宏さん、井上国雄さん=姫路市本町(記事・写真ともに神戸新聞より)

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高砂市を歩く(327) 工楽松右衛門旧宅整備 高砂市、基本計画まとめる

2016-06-19 07:04:37 | 高砂市

 きょう(19日の)神戸新聞は、工楽松右衛門旧宅整備について報じています。

 このブログでも松右衛門について、しばしば取り上げましたが、この記事も史料として掲載させていただきます。

  工楽松右衛門旧宅整備 高砂市、基本計画まとめる

 

 兵庫県の高砂市は、高砂町今津町の市指定文化財「工楽松右衛門旧宅」の修繕や活用案を中心とした「堀川周辺地区建物等基本計画」をまとめた。高砂町の堀川周辺には歴史的建造物が集まっており、旧宅を中心的施設として活用したい考え。駐車場を設けるなど、周辺整備を進める内容も盛り込んだ。市は20日、市議会6月定例会で報告する。

 堀川周辺は江戸時代に港町として栄え、明治には工業都市化が進んだ。江戸時代から昭和にかけて建てられた歴史的建造物が今も残り、一帯が県の歴史的景観形成地区に指定されている。

 高砂町出身の工楽松右衛門は、帆船の帆を丈夫に改良した「松右衛門帆」の生みの親であり、海洋土木技術者としても港の修築などで手腕を発揮した。

 旧宅は2代目松右衛門が住んだとされるが、詳細は分かっていない。文化人らと交流があった6代目長三郎のころには文化サロンとして、版画家棟方志功や俳人永田耕衣らが訪れていたという。

 ここ20年ほどは空き家状態が続いていたが、今年1月、工楽家から市へ土地と建物の所有権移転が完了。市の文化財に指定された。

 旧宅は江戸後期に建てられたと見られ、木造2階建て延べ床面積約330平方メートル。時代を経て改築などされているが、外観は江戸時代後期に、内部は戦前ごろの姿の復元を目指す。

 修繕後は商家建築の魅力を伝える施設として公開。工楽松右衛門の功績や、長三郎と交流した文化人らの作品などを展示する。また市民の文化活動などに使える集会スペースなども設けることを検討している。

 周囲の歴史的建造物や社寺などを巡る拠点となるよう、旧宅近くに大型バスも入れる駐車場の整備も盛り込む。事業は2016~18年度にかけて行い、事業費約3億円を見込む。

 担当の市まちづくり推進室は「歴史・文化・観光の拠点として活用できるようにしていきたい」としている。(小尾絵生) (no3255)

*写真:工楽松右衛門旧宅の整備後のイメージ図(高砂市提供)

コメント (2)
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高砂市を歩く(326) 宮本武蔵 in 高砂(26) 第1回・宮本武蔵祭

2015-09-14 02:30:51 | 高砂市

 西井ノ口(加古川市東神吉町)の柴田圓治さんの撮影された西井ノ口の写真を紹介しています。

 柴田さんは、西井ノ口以外の写真も多く撮影されています。

 が、「西井ノ口の写真集」では、そのほとんどをはぶかせていただいています。

 先に「ひろかずのブログ」では「宮本武蔵 in 高砂」で、宮本武蔵の連載をしましたので、とくに「宮本武蔵まつり」だけは、その続きとして紹介させていただきました。

 カテゴリーは「高砂市」に入れました。

     宮本武蔵祭

 宮本武蔵は、戦国時代末期から江戸時代にかけての動乱の世を駆け抜けた剣豪です。

 2003年にはNHK代がドラマでも放映され大ブレークしました。

 しかし、ドラマは、吉川英治の小説をもとにしており。武蔵を作州(岡山県)生まれとしていました。

 史料をふまえるなら、武蔵は今の高砂市米田町生まれとする方が史実と考えられます。

 多くの歴史家は高砂説をとっておられます。

 高砂の米田町では、「宮本武蔵・伊織奉讃会」が結成され、「宮本武蔵まつり」がおこなわれました。(no2945)

 *写真:第1回「宮本武蔵まつり」(昭和62年5月5日撮影)

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高砂市を歩く(325) 宮本武 in 高砂(25) 武蔵の死

2015-08-18 09:37:52 | 高砂市

   武蔵死す

 正保2年(1645)年、武蔵は熊本で亡くなりました。

 その時の様を、寺林峻氏は『双剣の剣客』で次のように書いておられます。

 きょうのブログは小説です。武蔵の最後は作者の想像です。

   高砂の潮風をききながら

 ・・・・

 「伊織よ、わしを生国播磨(高砂)へ運べ」

 末期の苦痛が武蔵を攻めているのがはた目にも明らかだった。

 「はい、父上。小康を得なされば、必ず・・・・」

 「ならぬ、今すぐだ。虚空に遍満せる真実はの、最後にはそれぞれがの、生まれし大地に伏せて受けとめるものなのだ」

 途切れとぎれに言うと、「いずこなるぞ、わが生国(高砂)は・・・」立てた右膝に身を預けたまま問う。

 「播磨国(高砂)はあの方角にございまする」

 伊織が寅(東北束)の山並みのはるか遠くを指す。

 武蔵は、一つ小さくうなずき、険しく大きい孤高の眼をその方角にしっかりと据える。

 伊織が寄り、添って父の細くなった背を支えた。

 「気をしっかり持って、剣一途の長いながい遍歴の終わりを、どうか高砂の地にてお迎え下され」

 伊織としても、できれば武蔵を描磨へ連れ帰りたい。

 「おお、高砂浦の波音が微かに聞こえてくるではないか」

 「はい。明け方など風が波音を米田の生家にまで届けてくれました」

 耳に届いている波音が実は有明海のものだと伊織は口にできない。

 武蔵の眼が、そのときにわかに和んだ。

 眼から険しさが消え、孤高の色が消え、心持ち細くもなったかと思うと、伊織は、父を支える腕に重さを感じた。

 「父上っ」

 ・・・・

 5月19日早朝、宮本武蔵は62歳の命をようやく肥の国のしたたる緑の中に溶け込ませた。(no2908)

 <お知らせ>

 「宮本武蔵in 蔵高(25)」までを一部としておきます。

 いったん、このシリーズをお休みして、次の話題へ移ります。

 「宮本武蔵(二部)」は、少しお休みして続けることにします。

 *『双剣の剣客』(寺林峻)参照

 *写真:宮本武蔵坐像(熊本県美術館蔵)晩年の肖像画と思われる。

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高砂市を歩く(324) 宮本武蔵 in 高砂(24) 五輪之庭

2015-08-17 07:30:27 | 高砂市

   五輪之庭

 仏教では「私たちの住む世界の全ての物質と現象は、五つの元素(空気・風・火・水・土=地)の組み合わせにより成り立っている」としています。五輪塔は、「地・水・火・風・空」の世界(当時の宇宙観)をかたどったものです。

 『五輪書』は、宮本武蔵が著した一書ですが、たんなる武術の指南書や奥義書ではありません。

 人間の真実、人生の真実をも解きあかした思想書といわれます。

 その概要は、「地之巻」では兵法をあらわし、「水之巻」では二天一流の太刀筋を、「火之巻」では戦いの理を、「風之巻」には他流の批判を述べ、「空之巻」は結論となっており、ここに表れている武蔵の思想には、他の兵法者(書)とは著しく異なっています。

  そこで、米田町西光寺の庭に「五輪之庭」をテーマにした作庭が試みられました。

 仏教でいう五輪にちなみ、かつ武蔵の著した『五輪書』の趣旨を生かした作庭となっています。

 ここからでてくるのは、「文武両道」の思想であり、これはまた人生の指針でもあるといえます。

   余話:山本富士子の祖先話

 武蔵と関係のない余話です。

 年配の方であればどなたでもご存知の大スターです。

 山本富士子さん(1931年生まれ)は、1950の第1回ミス日本(700人近い応募者があった)において、満場一致でミス日本に選ばれました。

 彼女は、日本を代表する美人で、その後映画全盛の時代大活躍した大スターです。
 山本富士子さんの山本家が、代々米田に居住されており、富士子さんの祖父に当たる故山本重蔵氏らの墓碑、寄進物や、母、故山本勝代様の寄進物、叔父、故山本健次郎氏の寄進碑などが西光寺にあります。(no2907)

 *写真上:五輪之庭(米田町西光寺)、下:山本富士子

 *「西光寺HP」参照

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高砂市を歩く(323) 宮本武蔵 in 高砂(23) 独行道の碑 

2015-08-16 09:45:33 | 高砂市

     独行道の碑

 米田天神社の近くの「武蔵生誕地碑」がある同じ敷地に、「独行道の碑」(写真)あります。読んでおきましょう。

     独行道

   一、世々の道をそむく事なし

  一、身にたのしみをたくます
  一、よろつに依怙の心なし
  一、身をあさく思世をふかく思ふ
  一、一生の間よくしん思わす
  一、我事におゐて後悔をせす
  一、善惡に他をねたむ心なし
  一、いつれの道にもわかれをかなします
  一、自他共にうらみかこつ心なし
  一、れんほの道思ひよるこゝろなし
  一、物毎にすきこのむ事なし
  一、私宅におゐてのそむ心なし
  一、身ひとつに美食をこのます
  一、末々代物なる古き道具を所持せす
  一、わか身にいたり物いみする事なし
  一、兵具は各別よの道具たしなます
  一、道におゐては死をいとわす思ふ
  一、老身に財寶所領もちゆる心なし
  一、佛は貴し佛をたのます
  一、身を捨ても名利は捨てす
  一、常に兵法の道をはなれす
    正保弐年
     五月十二日 新免武藏


 「五輪書」を書き終えたとき、武蔵は死を覚悟していました。

 洞窟(霊巌洞)に引きこもったまま、最後を迎えるつもりでした。

 武蔵のガンは進行していました。

 いかに、武蔵の意志であるとはいえ、周囲の者は放置できません。

 ようやく、鷹狩と称して胴窟を訪れた旧知の盟友が、帰宅を促し、居宅に連れ戻しました。

 正保二年(1645)、春も暮れようとするころでした。

 その年の五月、武蔵は身辺整理を姶めました。

 高弟の寺尾孫之丞勝信に「五輪書」を、その弟・求馬助信行には「兵法三十五箇条」を与えました。

 求馬助は、師の最後をみとるべく、側に付き添っていました。

 その求馬助に、武蔵は筆を所望し、流麗な筆致で、一紙に以下、21ヵ条を書きました。

 武蔵が自分の短所を克服するために自戒の事柄だといわれています。

 まさに、武蔵の人生観(独行道)でした。(no2906)

 *『Ban Cul』(2003冬号)参照

 *写真:「独行道の碑」(米田天神社前の「武蔵生誕碑」のそば)

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高砂市を歩く(321) 宮本武蔵 in 高砂(22) 神宮寺

2015-08-15 08:35:51 | 高砂市

      神宮寺(じんぐうじ)

 神宮寺は米田天神社に隣接する米田第一公民館の東隣にある寺院です。

 神仏混淆のあらわれとして、もとは米田天神社の付属寺院でしたが、明治以降の神仏分離によって独立しました。

 宮本伊織は、天神杜、神宮寺ともども崇敬しており、天神社修復の時に、「三十六歌仙額」等を寄進しました。

  伊織、神宮寺に鰐口(わにぐち)を寄進

 神宮寺には別に鰐口(写真)を寄進しています。

 鰐口は、参詣の際に本殿前で綱を振り動かして打ち鳴らします。

 お賽銭等をする前に「がらん・がらん」と鳴らすのでおなじみの音響具です。

 寄進された鰐口は、三重の円が刻まれており、その外円に「正保三年(1646)」「宮本伊織藤原朝臣貞次敬白の銘があります。

 鰐口を寄進することでねんごろな供養ができるとされますが、伊織が、銘文どおり正保三年(1646)にこれを寄進したのであれば、三十六歌仙額の寄進に先立つ7年前のことで、修復とは関係ないでしょうが、その年は、武蔵か亡くなった翌年に当たることから、きっと養父・武蔵の一周忌供養のための寄進したのでしょう。

   余話:玉屑

 江戸時代の後期には、俳諧の玉屑(ぎょくせつ)が住職を務めた寺院としても知られています。

 観月碑にある玉屑の句を紹介しておきます。(no2905)

    おお空に 障るよの霜 月の不二


 *『Ban Cul』(2003・冬号)参照

 *写真上:(米田)神宮寺、写真下:伊織寄進の鰐口

 

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高砂市を歩く(320) 宮本武蔵 in 高砂(21) 米田天神社(2)・余話として 

2015-08-14 07:47:20 | 高砂市

 武蔵には関係がない米田神社の余話です。

   米田天神社は、菅原道真を祭る神社にあらず

 「・・・米田天神社の旧社殿は、江戸時代のはじめに、宮本伊織が泊神社の後修復されました。米田天神社の修復は、承応二年(1653)に完了しています。

 以下『高砂市史(第二巻)』から引用します。

 「・・・米田天神社の主神は少彦名命(スックナヒコナノミコト)であるが、天神社の名称のためか、古くから誤って天満官と称されることもあって、天満宮と称されることもあった。

 (宮本)伊織も、泊神社の棟札で祭神を菅神すなわち菅原道道真と記している。・・・・」

 つまり、米田天神社は、現在の加古川市木村の泊神社を江戸時代の初め伊織がこの地にあった神社の修復をしています。

 米田天神社の祭神は、菅原道真ではありません。

 しかし、なぜか誤解され天神社と呼ばれ菅原道真を祭る天満宮とされていたようで、拝殿の前に菅原道真」を祭る天満宮のシンボルである臥牛(がぎゅう)がどっかりと鎮座しています。

 さすがに現在は、臥牛があるものの米田天神社は天満宮としていませんが、菅原道真に寄せる当時の村人の願いを想像します。

    菅原道真は農業(水)の神

 江戸時代の初め、しばしば大旱魃に襲われました。特に、米田天神社がつくられた少し前の承応3年(1645)の旱魃は、ひどいものでした。太陽が大地を容赦なく照りつけました。秋の収穫は何もありません。人々は餓えてさまよいました。

 こんな時、人々は、神に祈るより方法はありません。雨の神・菅原道真にいのりました。

 菅原道真は、学問の神様であるとともに、百姓にとっては農業の神様でした。

 詳細は省きますが、道真の怒りが雷神として現れたと信じた藤原貴族たちには恐怖でしたが、道真は農民にとって雷は雨と水をもたらし、稲の実りをもたらす神として全国にひろがりました。

 江戸時代の始め、米田村の百姓が菅原道真にかけた思いを想像してしまいます。

(no2904)

 *『高砂市史(第二巻)』参照

 *写真:米田天神社

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高砂市を歩く(319) 宮本武蔵 in 高砂(20) 米田天神社(1)

2015-08-13 08:02:41 | 高砂市

 武蔵の当時とは、すっかり違った現在の集落ですが、米田に武蔵の影を捜してみます。

 米田天神社へでかけます。

 子供の頃の武蔵を想像すると、この場所は絶好の遊び場であったのでしょう。

   米田天神社(1)

 天神社は、米田「武蔵・伊織の里」の中心にあります。

 米田の鎮守で、もとは単に天神社と呼ばれていたようです。

 先に説明した加古川を挟んで隣接する泊神社(加古川市加古川町木村)の末社です。

 泊神社は、加古川東岸の木村、加古川などのほか、同西岸の今市、中島、そして米田など合わせて17か村の氏神で、米田にも末社があり、それが米田天神社です。

 しかし、江戸の初期、17世紀半ばには泊神社は本社、末社とも随分荒れ果てていました。

 武蔵の養子・伊織が、その荒廃を憂えて、承応二年(1653)、泊神社を再建し、同時にその旧杜殿を移転ずる形で天神杜の再建も行っていました。

 伊織にしてみれば、養父と自分の出生地である米田の鎮守とその本杜の荒れた姿を見るに忍びなく、自らの出世もしました。

 そのため、社殿の寄進を行ったようです。

 天神社には、伊織の弟の小原玄昌が寄進した三十六歌仙額や、田原家一族の大山久太郎の寄進の石燈籠のほか、能舞台も残っています。(no2903)

 *『BanCul 2003冬号』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *写真上:米田天神社、写真下:田原一族の寄進の石燈籠

 

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高砂市を歩く(318) 宮本武蔵 in 高砂(19) 孤独、そして多芸 

2015-08-12 07:55:21 | 高砂市

  武蔵の年譜の続きとして、もう少し武蔵を紹介しておきます。

    孤独な武蔵の生涯

 それにしても、武蔵の一生は孤独でした。

 みずから孤独にのめりこんでいったようなところがあるようです。

 生涯のほとんどは放浪生活でした。

 30歳のころから消息不明となり、再び歴史の上に姿を現わすのは28年後の57歳のとき細川家の客分としてむかえられたときです。

 28年間どこでなにをしていたか謎で、彼かれには世間なみの青春というものがありませんでした。

 妻もめとっていません。

 ときおり、彼の見せる冷酷さもこのことと関係があるのかもしれません。

    武蔵は多芸の人

 この姿を消した30半ばから彼の生活に変化があり、武芸よりも思索の生活に入っていったようです。

 詳細は分かりません。

 武蔵の風貌は、身長5尺8寸(175㎝)で力も抜群だったといいます。

 頭に疔を病んだため月代をそることなく、壮年時代は頭髪を腰のあたりまでたらしていたようです。年とってからも肩まで垂らしていました。

 かれの肖像画を見るとやはり異相といってよい顔です。

 武蔵は、明石の地にユニークな足跡を残しています。

 というのは元和3年(1617)小笠原忠真が明石に入部して新城の構築と城下町づくりに看手したとき、武蔵はまねかれて町割(都市計画)を担当しました。

 武芸者の彼がどこで町割りの技術などを学んだのか、また、小笠原家とどういうゆうゆかりがあったのかはっきりしていません。

 明石の中心部十ヵ町は、武蔵により原型ができあがりました。

 武蔵の文化活動(絵画など)や明石の町割りについては、後に再度述べることにします。(no2902)

 *『兵庫人国記(黒部亨)』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *絵:宮本武蔵肖像画(部分)・島田美術館蔵

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高砂市を歩く(317) 宮本武蔵 in 高砂(18) 宮本武蔵の年譜

2015-08-11 09:48:06 | 高砂市

 「宮本武 in 高砂」では、あまり筋だっていません。流れがつかみにくいと想像します。

 ここに、武蔵の年譜を紹介しておきます。

 「宮本武蔵in 高砂」の記事を下の年譜に載せてお読みください。

   官本武蔵の年譜

 1584年  武蔵米田に誕生

 1588年  このころ田原家から新免家

        (作州大原)に養子に行く

 1596年  初めて、剣客と試合をして勝つ

 1600年  黒田氏に陣借りをして閥ヶ原の合戦に参加

 1604年  京都・一乗寺で、吉岡一門との対決

        このころから、禅・絵画・作庭の研究

 1612年  巌流島で佐々木小次郎との試合に勝つ

 1617年  甥の伊織を養子とする

        このころ、新免造酒之助(みきのすけ)を養子とする

        明石小笠原家の客分となる

 1626年  養子官本伊織、小笠原家の家臣となる

 1634年  伊織を頼り、小倉に住み、小笠原家の客分となる

 1636年  伊織、島原の乱での軍功により、家老となる。武蔵も軍監として参加

 1640年  熊本藩主細川氏の知偶を得る

        熊本に住み、絵画・書・詩歌をたしなむ

 1645年  「五輪書」が成立

 同年62才で死亡

 1653年  伊織、泊神杜を再建(no2901)

 *絵画:武蔵13歳の肖像(島田美術館蔵)

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高砂市を歩く(316) 宮本武蔵 in 高砂(17) 泊神社(3)・伊織、泊神社修築

2015-08-09 08:16:23 | 高砂市

     宮本伊織の生誕400年(2012年)式典

 2012年10月21日、宮本武蔵の養子、伊織の生誕400年記念式典が木村の泊神社で行われました。

 10月21日が伊織の誕生日だそうで、主催者はこの日にこだわって開催されたそうです。

 プログラムは「鬼太鼓座(おんでこざ)」の元メンバーの太鼓、武蔵円明流の演武、それに旭堂南海さんの「宮本父子伝」の講談等が披露されました。

    伊織は明石藩の家老に

 武蔵の養子の伊織は若くして明石藩の家老になり、島原の乱鎮圧に侍大将として活躍しています。

 泊神社は伊織にとっての氏神で、彼は1653年、荒廃する社殿を再建しています。

     宮本伊織・14代目当主参列

 式典では、宮本伊織から14代目の当主の方(写真上)も小倉から参加されました。

 余談ですが、宮本さんは、2012年10月18日(木)のBS歴史館「宮本武蔵‐巌流島ミステリー」にゲストとして登場されておられていたのを偶然拝見していましたのでビックリでした。

 優しそうな方でした。

 なお、BSでは俳優・高橋弘樹さん・アナウンサーの渡辺真理さんが解説者とともに参加され、解説者は国際武道大学教授の魚住孝至さんで、魚住さんは高校の後輩の歴史学者(加古川出身)で、おもしろい番組でした。

   宮本伊織、泊神社に燈籠を寄進

 *本殿裏の伊織寄進の石燈籠の説明を読んでおきます。

 ・・・武蔵の死後8年目の承応二年(1653)、伊織は武蔵の出身地・米田の氏神である泊神社の老朽化がひどく、田原家の祖先供養のために社殿を新しくし、石灯ろう(写真下)を奉納した。

 この本殿裏の二基の灯籠は、宮本伊織とその一族である田原正久が寄進したものです。

 二基とも花崗岩製で、承応二年(1653)三月に寄進したことが、銘文によって明らかです。

 宮本伊織のものは、全長297センチ、田原正久寄進のものは全長165センチあります。(no2899)

 *写真上:宮本伊織から14代目当主

 *写真下:宮本伊織寄進の灯ろう(二基の内、右側の燈籠)

 

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