ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

余話  それぞの歴史像

2014-12-28 08:41:26 | その他

   史実とドラマの歴史像

 今日は12月28日(日)。仕事納めの日です。

 それにしても、なんと1年は短いことでしょう。定年後は特にそれを感じます。

 わたしは羊年です。来年は、6回目の羊年です。

 みなさんのこの一年はいかがでしたでしょうか。

 私にとってのこの一年は、おおげさにいえば、NHKの大河ドラマ「軍師・官兵衛」とお付き合いの1年でした。

 大河ドラマを1回も欠かさず見たのは今年が初めてです。

 というのは、公民館等で官兵衛についてお話を頼まれることが多かったためです。

 でも、若干後悔をしています。

 私の知る官兵衛像は司馬遼太郎の小説にある世界です。少しだけ、その他の史料で補っただけの官兵衛像です。

 先日、『黒田官兵衛‐作られた軍師像(渡辺大門)‐』(講談社現代新書)を購入し、読み始めました。

 「史実とドラマ」における官兵衛像とは随分異なっているようです。

   宮本武蔵、米田誕生説を・・・

 宮本武蔵像も「史実」と「ドラマ」では、ずいぶん異なっているようですが、一般的な歴史像は「ドラマ」により作られています。

 「宮本武蔵」の場合は、だんぜん吉川英治の小説「宮本武蔵」による像が一般的です。

 作州宮本村出身説が全国的に「当然のこと(常識)」として流布されています。

 今、『双剣の客人‐生国播磨の武蔵(寺林駿)‐』(アールズ出版)を読んだところです。

 この小説は、副題にあるように宮本武蔵を米田出身としています。

 しかし、これも小説の歴史像です。

 私が地元というわけではないのですが、「武蔵、米田村誕生説」を支持したいのですが・・・

 それぞれ、小説・史実・地元びいき等からなる、それぞれの歴史像をお持ちです。

 それでもいいと思っています。

 それらを肴にして、話しができるのは楽しいことです。

 来年もそんな1年になってほしいです。

 *写真:宮本武蔵と伊織像(米田町西光寺)

 *明日から来年の1月5日までブログをお休みします。6日から再開しますのでお付き合いください。この1年有難うございました。良いお年をお迎えください。

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高砂市を歩く(106) 宮本武蔵③・泊神社

2014-12-27 08:03:45 |  ・高砂市米田町

   泊神社(加古川町木村)
 ここで加古川町木村にある米田の氏神・泊神社について少し触れておきたい。
 『播磨鑑』の記述に「泊神社には4人の神官がおり、真言宗に属した神宮寺の僧と神人(みこ)一人がいた」とある。
 かなりの大社であったようだ。泊神社の氏子に注目したい。
 泊神社の氏子は、地元の木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の五ヵ村が祭礼の世話をするが、さらに塩市・米田新・古新・米田・船頭など加古川右岸(西側)一帯に広がっていた。
 現在、泊神社の氏子は、加古川の東岸・西岸に広がっている。すこし不思議である。
   もと、加古川本流は米田村の西を流れていた?
 江戸時代の絵地図で、加古郡と印南郡(いんなみぐん)の境界を見ている。

  「郡境」が、少しおかしい。「郡境」は川・海・山・道などを目印にするのが普通である。
 加古郡・印南郡の境界が決められた頃(奈良時代)、加古川の本流は、現在の加古川村(現在の本町)・木村・友沢村・稲屋村の東をながれていたと思われる。

  (上記の加古川村・木村・友沢・稲屋は明治22年4月1日、加古郡に編入された)

  加古川は、暴れ川である。

  武蔵の時代、加古川の本流は米田の西を流れていたようである。

  現在の加古川は、加古川の本流でなかったようだ。

  とすると、米田の氏神である泊神社が現在の加古川本流の西あることも理解できる。

 *蛇足

  前号でみたように、泊神社には宮本武蔵・伊織(武蔵の養子)の影がちらつく、吉川英治は、「宮本武蔵の宮本は、作州・宮本村からつけた」としている。吉川英治の小説「宮本武蔵」は、あまりにも有名になり、これが一般的に流布されている。

  泊神社の所在地を紹介しておきたい。

  泊神社の所在地は、「兵庫県加古川市加古川町木村宮本」である。武蔵は、こちらの宮本から「宮本」と名付けたとしても不思議はない。

  *写真:泊神社(加古川町木村)

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高砂市を歩く(105) 宮本武蔵②・伊織(武蔵の養子)奉納の棟札

2014-12-26 08:39:59 |  ・高砂市米田町

    伊織奉納の棟札
 吉川英治の小説『宮本武蔵』は、大好評をはくした。

 吉川英治は、武蔵の生誕地を「作州大原(岡山県)」とした。
 そのため、武蔵は作州人だと信じられている。
 近年、この説に異議が唱えられている。
 つまり、「宮本武蔵は高砂市米田町生まれである」とする説である。
 その根拠になったのは、泊神社(加古川市加古川町木村)の宮本伊織(武蔵の養子)が奉じた棟札(写真)の発見である。
 棟札について、少し説明を加えながら紹介したい。・・・・武蔵は赤松一族の出身である。武蔵誕生の250年ほど前のことである。
 赤松持貞は、こともあろうか将軍の側室に手をだしてしまった。

 持貞は切腹を命じられ、嫡男の家貞等一族は、印南郡の米田に追放になった。
 姓も田原に変え、地侍として勢力を伸ばした。
 そして、家貞から五代目に名前も同じ家貞の時、二人の男子がいた。その弟の武蔵玄信は、作州・新免(しんめん)氏の養子になった。
 新免氏は、後に宮本と名を変えた。宮本武蔵の誕生である。
 武蔵にも子どもがなかったので、伊織を養子とした。
 武蔵は、明石藩の小笠原に仕えていたが、豊前の小倉に移ったので伊織もそれに従った。伊織15歳の時であった。
 伊織は、小倉藩で家老にまでのぼりつめた。
 武蔵の死後8年目の承応二年(1653)、伊織は武蔵の出身地・米田の氏神である泊神社の老朽化がひどく、田原家の祖先供養のために社殿を新しくした。
 発見された棟札に武蔵の出自を書いている。

 武蔵の生誕地「播磨の国・米田説」は、俄然説得力を持ってきた。

 *写真:伊織奉納の棟札(泊神社)。なお、伊織奉納の灯篭が社殿の裏にある。

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高砂市を歩く(104) 宮本武蔵①・生まれは米田

2014-12-25 08:28:04 |  ・高砂市米田町

      米田は宮本武蔵誕生の地
  武蔵の出生地のことである。

 『高砂市史(二巻)・近世』から、武蔵の主要な生誕地を紹介しておきたい。
  生国は播磨(『五輪書』)
 まず、唯一、武蔵が著したとされる兵法書である『五輪書』には、はっきりと「生国播磨」と書いている。
  ・太子町宮本村
 次に、18世紀中頃に宮本伊織の出生地に隣接する平津村の平野庸脩(つうさい)が編んだ『播磨鑑(はりまかがみ)』がある。
 ここには、「宮本武蔵、揖東郡鵤ノ邊、宮本村ノ産也」と明記している。この宮本村は、現在の揖保郡太子町宮本村である。

ただし、『播磨鑑』には、もうひとつ佐用郡平福の説があるとしているが、その内容はない。
  ・生国は播磨(『二天記』豊田景英)
 そして、安永五年(1776)に豊田景英が著した『二天記』がある。
 新免玄信すなわち宮本武蔵の伝記である同書には、武蔵が播磨生まれであることを記している。
 豊田景英は、熊本藩細川家の筆頭家老である。
 『二天記』は、武蔵の晩年の弟子たちからの聞き覚書をはじめとする史料を、わかりやすくまとめたものであり、武蔵を知るうえで重要な著書である。
  ・作州宮本村(東作誌)
 さらに、文化12年(1815)に津山藩士正木輝雄が著した作州東部六郡の地誌『東作誌』には、武蔵が作州宮本村の平田無二の子であることを記している。
  ・米田村(宮本家系図)
 また、武蔵や伊織の子孫である豊前小倉の宮本家の系図を基にしたものがある。
 この系図は、19世紀中頃に作成されたと考えられるもので、武蔵が印南郡米田村の田原甚右衛門家貞の二男とある。
 甚右衛門家貞の長男は、伊織の父の甚兵衛久光である。
 つまり、武蔵は、伊織の父の弟、すなわち叔父というのである。
 *写真:「武蔵之生誕地」と刻んだ石碑。揮毫は、元首相の細川護煕氏のお父さんの護貞氏。
 *『高砂市史(第二巻)・近世』参照

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高砂市を歩く(103) 六継里(むつぎのさと)

2014-12-24 08:34:54 |  ・高砂市米田町

      六継里(むつぎのさと)
 『風土記』は、奈良時代の国ごとの産物・伝承・土地の質などをまとめた地理・歴史書である。
 米田(米堕)は、『風土記』に六継里(むつぎのさと)として登場する。
 もっとも、古代の里は、はっきりとした境界で分けられた地域ではなかったようである。
 六継里は、いまでは高砂市と加古川市が入り組んでいる里で、米田辺りから加古川東岸の稲屋辺りに及んだ地域らしい。
 10月上旬から中旬にかけて甘茸というめずらしい茸が生えたと『風土記』にはある。しかし、現在では現存しない植物だと言われている。
 当時の六継里の風景を想像したい。
 加古川の本流は、この里の西を流れていたと想像されている。
 稲屋(加古川市)を含んでいることから考えると、加古川の分流はあったものの、米田と稲屋は続いた地域であったのだろう。
 加古川本流は、六継里から海に流れ込んだ。そして六継里は、海岸に近い地域だった。
 目の前の海には、ナビツマ島が横たわり、さらにその先が瀬戸内海であった。
 ナビツマ島は、加古川の流れがつくった三角州で、今は陸続きになって高砂市内を形成している。
 *『播磨の国風土記を歩く(寺林峻)』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *「六継里」を示す碑(米田天神社南の桜公園の西、約5メートル)

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高砂市を歩く(102) 米田大震災(応永19年・1412)

2014-12-23 08:35:41 |  ・高砂市米田町

    米田大地震(応永19年・1412)
 前号で、中世の 加古川地域を記録した鎮増の書いた『鎮増私聞書』から応永32年(1525)の加古川大洪水を紹介した。
 『私聞書』は、また応永19年(1412)11月14日の早朝・米田に大地震があったことを記録している。
 地震の記事は、次のようである。
 ・・・某年(応永19年)十一月十四日暁、大地震あり、他国は、去程はなしと云伝、播磨にては米田東西十里計、神舎・仏寺・人屋はくつ(崩)れ、人の打殺さるゝこと多かりけり・・・
 播磨以外では、さほどのことはなかったようである。
 播磨では、米田を中心として周辺10里ほどの神社・仏閣等が殆ど倒壊したことを記録している。
 米田の地震は、今で言う直下型の地震であったのかもしれない。
 加古川下流の沖積平野は、加古川の流れが運んだ土砂が表面を覆い、地下の構造が把握しにくい。
 南海地震・山崎断層にともなう地震にはもちろん注意が必要であろうが、加古川にはあんがい私たちの知らない断層があり、それが動いて大きな被害をもたらすかもしれない。
 593年前に米田を中心にしておきた米田大地震は、そのことを私たちに教えてくれているのだろうか。
 歴史から学んでおこう。
 *『加古川市史(第二巻)』・『加古のながれ(市史余話)』(加古川市史編さん室)参照

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高砂市を歩く(101) 加古川大氾濫

2014-12-22 08:33:33 |  ・高砂市米田町

   加古川大氾濫(応永32年・1425)
 中世(鎌倉~室町時代)の地方史は、一般的にはっきりとしない。
 というのは、ほとんど史料が残っていないからである。
 そんな中で、米田にあった定願寺(じょうがんじ)の僧・鎮増(ちんぞう)が残した『鎮増私聞書』は、室町時代を知る貴重な記録であり、それに加古川の大洪水のことが登場する。
 ・・・その年(応永32年・1425)の7月25日の夜半から雨がひどくなり、ついに加古川が氾濫しました。
 ・・・・
 加古川は、播州平野を流れる大河でございます。・・・・いったん川が暴れだすと手がつけられません。
 今回のような、大洪水は、近隣の人々が流されて亡くなるという大惨事に至ったのでございました。
 私(鎮増)も、いちおう避難しましたが、目の前を流れてゆく人々をみましても、どうすることができない、もどかしさがございました。
 人を救うのが僧侶のつとめであるはずですのに・・・
 しかしながら、この流死者を仏がお救いにならなかったのは、この者たちが悪行をつくって悪道におちるべき者だったからなのでしょうか。
 ざっと見ただけで、千人以上の人が亡くなったのでしょう。
 上記の「しかしながら、この流死者を仏がお救いにならなかったのは、この者たちが悪行をつくって悪道におちるべき者だったからなのでしょうか」の鎮増の考えは、当時の考え方からぬけだしていない。
 *(『室町お坊さん物語(田中貴子)』(講談社現代新書)より
 なお、この頃、加古川の本流は、鎮増の住む米田から伊保崎(高砂市西部)の方向流れていた。

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高砂市を歩く(100) 100号になりました

2014-12-21 07:25:24 | 高砂市

   「高砂市を歩く」が100号に

 先に、「ひろかずのブログ」は、加古川市、志方町、播磨町を訪ねました。

 この三地域を守備範囲にして、さらに深めようと思いましたが、無謀にも知識のない高砂市の散歩を始めました。

 きょうで、その「高砂市を歩く」が100号になりました。

 最近は寒いので、「なまくら」を決め込んで、あまり歩けていません。

 そのため、かつて書いた文章の再掲であったり、『高砂市史』からの紹介が多くなっています。

 100号は、一つのまとまりです。

 少し、「賢くなったかな」「ボケ防止になったかな」と一人ほくそえんでいます。

 高砂市を、もうしばらく続けますのでお付き合いください。

    「ぼやき節」

 この100号の感想です。

 時代は、急激に変わりました。特に、明治維新、戦後の変化は驚くばかりです。

 中でも、高砂市の変化は「異常」の言葉がぴったりするほどの変わりようです。

 渚がほぼ100%コンクリートで覆われ、市民のためのかつての天国のような風景が完全になくなりました。

 「時代の変化」と、かたずけるには、あまりにも残念な「激変」です。

 この辺りで、少し「高砂市について」を考えてみようではありあませんか。

 「ぼやき」になってしまいました。

 先日、本屋さんで「経済と人間の旅(宇野弘文著)」(日本経済新聞出版社)を買いました。

 その最初を紹介しておきたい。

 「・・・戦後約60年が過ぎ、ヨーロッパでは都市とか自然に対する考え方が大きく変わってきた。

 例えば、(スペインのバルセローナは)川岸を覆うコンクリートをはがして昔ながらの蛇行する川に戻し、周囲にその地域特有の樹木を植える。

 小鳥や動物がそこに集まり、子ともたちの格好の自然観察の場となった。

 自動車を中心とした交通体系を見直して市電などの公共交通機関を復活させ、街の中心部から極力、自動車を締め出すようにした。

 その結果、商店街などの懸念とはむしろ逆に市街地が活性化し、雇用が増える都市が数多く出てきた。・・・」

 *写真:向島の夕暮れ(高砂町、向島町)

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高砂市を歩く(99) 米墮(よねだ)の伝承

2014-12-20 08:46:54 |  ・高砂市米田町

   文・挿絵とも米墮(よねだ)の伝承に『ふるさとの民話』(加古川青年会議所)からの転載であることを最初にお断りしておきたい。

      ◇米墮(よねだ)の伝承

 大化元年(645)、船師の藤井という人が、年貢の米を船に積んで海を通っいました。

 その時、法華山一乗寺(いちじょうじ)にいた法道仙人(ほうどうせんにん)が、鉢を飛ばせて供米を申し入れました。

 藤井は、自分だけの了見で米を渡すことができないとことわったところ、鉢はふたたび空中に舞いあがり、それに続いて、積み荷の米も法華山へとつらなって飛んでいってしまいました。

 藤井は、驚いてあやまりに行きました。 

 藤井が供米をこばんだのは、年貢米を私物として考えなかったことが正しいのであって、おこる法道仙人の方が無理です。

 法道仙人が笑って許すと、米もとのように連なって船へ飛んで帰りました。

 その米俵のうち一俵がこの地に落ちたことから米墮といい、後に米田と呼ばれるようになりました。

 (墮には「落とす・落ちる」と言う意味がある)

 一俵だけこの地に落ちたのは、法道仙人が信仰している薬師如来がまつってあったので、供物としてあった、といわれています。

 その後、米のとれだかもどんどん増え、村は栄えていきました。

 

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高砂市を歩く(98) 観月碑

2014-12-19 08:15:49 |  ・高砂市米田町

    観月碑

 風景は、ずいぶん変わった。

 米田本村と新村の間に、月見の名所といわれ俳諧を楽しむ人々で賑わった堤防も、洗川と共に消えてしまった。

 これら周辺にあった石造物は米田橋西の路傍に集められている。

 *前号で紹介した「弥兵衛塔」の横に観月碑(写真)はある。

 観月碑について「HP」の説明をお借りした。

 ・・・

 「観月碑」は、幕末の頃、俳諧仲間の集いや往来の人々の休憩所として活用された“観月亭”と伝えられるところに建てられた句碑・歌碑です。
 観月亭は、文化年間(1804-1817)に、砂部村の俳人・喜多順庵が、米田村神宮寺の住職(栗本玉屑)や松岡青蘿と相談し、加古川の川面に月が映える景勝地に建てたと言われます。

 場所は、加古川の旧流・洗川の堤に建てられたのですが、現在の「観月碑」はこの場所から移転されたと思われます。
 なお、碑には俳諧八句、和歌二首が刻まれていますが、現在では文字が磨耗し消えかかっています。

 そのうち、次の二句が判読できる。

 

    大空に さはるものなき 新月の不二

    雨はれの 若葉に散るや 月の影

 

 川面に映された月の澄明な姿が目に浮かぶようです。

 高砂は、月を愛でたり、浜や浜の松の風景に包まれた別天地であった。

 高砂からそんな風景が消えて久しい。あまりにも大きな財産を失った。

 *写真:観月碑(前号の弥兵衛塔の右横にひっそりとある)

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高砂市を歩く(97) 「やへどさん」(弥兵衛塔)

2014-12-18 09:03:39 |  ・加古川市米田町

 気ままな「ひろかずのブログ」です。

  いま、小説『双剣の客人(寺林俊)』(アールズ出版)を読んでいる。

 この小説は、主人公・宮本武蔵は米田村(高砂市米田町)誕生説で書いておられる。

 米田を歩いてみたくなった。

 でも、きょう(12月17日・水)は寒波。

 いまから頑張って、写真を撮りに出かけます。

    加藤弥兵衛塔

 慶安二年(1645)、陸奥白河藩から姫路入りした榊原忠次の頃には、播磨南部を中心として新田の開発が盛んに進められた。

 姫路藩は新田開拓を進めるための後援を惜しまなかった。

 新田が完成すると、検地役人により新田の高などが決められた。

 もちろん、村にとって高の査定は少ない方がよいが、藩にとっては、その反対になる。

 そのため、姫路藩の役人と百姓との駆け引きがあった。

 加藤弥兵衛は、そんな役人の一人だった。

弥兵衛の名前は、播磨地方南部の各村々の検地にしばしば登場する。

    加藤弥兵衛、自刃す

 伝承によれば、寛文年間、米田新田の開発が完成し、検地が行われた際、弥兵衛は検地におもむき、貧しい百姓のために寛大な措置をとった。

 百姓にはよろこばれたが、役人として責任を感じ、帰路、籠の中で切腹したと言われている。

 村人は、これを悲しんで米田に碑(写真)をたてた。

 地元では、この塔を「やへどさん」と呼び、親しんだという。

 弥兵衛は、藩財政の窮乏を新田開発で切り抜けようとした藩政担当者と農民との間に板ばさみになった犠牲者であったのだろう。

 *写真:加藤弥兵衛の塔

 

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高砂市を歩く(96) 時光寺②・官兵衛と秀吉

2014-12-17 08:58:18 |  ・高砂市阿弥陀町

   阿弥陀の宿(しゅく)

 天正5年(1577)10月19日で、季節は秋に向かっていた。秀吉は播州に向かった。

 秀吉の家臣が中心で、ざっと4000人にすぎなかった。

 信長軍としても兵力に余裕なかったのである。このことが、秀吉や官兵衛の播州工作を困難にした大きな原因となった。

 当時の寺光寺(高砂市阿弥陀町)のあたりの風景を『播磨灘物語』からお借りしたい。

    秀吉、阿弥陀(高砂市阿弥陀町)に到着

 官兵衛がもっとも待ちかねているであろう、と秀吉は思った。織田家としては兵力を他に使うことが多く、播州入りはまだ早かったのだが、官兵衛がせっつくために、とりあえず秀吉が手兵をひきいて乗りこんだのである。

 官兵衛は、秀吉を出迎えるべく、阿弥陀ケ宿(高砂市阿弥陀町)という在所の道路わきまで出ていた。

 阿弥陀ケ宿とは、(姫路から)8キロばかり東へ行ったところにある。宿場である。

 街道のまわりは、5分も佇んでいれば退屈するほどの平坦な野で、ところどころに岩肌の丘陵がある。阿弥陀ケ宿は宿場といっても粗末な伏屋(宿屋)が十軒ばかりある程度で、路傍に馬をつなぐ杭、馬の足を洗う溝が流れているのが、かろうじて宿場の設備といっていい。

 宿場の南側に、時光寺(じこうじ)という小さい寺がある。この境内に阿弥陀堂がある。そのために、この地名が興ったという。

 官兵衛は、供を50人ばかり連れて、この寺で秀吉の軍列の来るのを待っていた。

 「筑前どのの御人数に馳走せよ」と、すでに宿場の長者に心くばりを命じてある。旅塵をおとさせるために、軒下々々に大きな水桶を出させ、また空腹しのぎのために握りめしも用意させた。

 やがて、「筑前どのの御人数、見えたり」と呼ばわり声があがり、官兵衛はすぐさま騎走して宿場の東のはずれまで出た。秀吉は、中軍にある。・・・

     時光寺(浄土宗)

 以上が『播磨灘物語』(司馬遼太郎)からの引用である。阿弥陀町の時光寺へ出かけた。

 小説の「小さい寺」というイメージがあったが、あたりは平地で、そこだけは小高く石がけの上に聳えている寺であった。城跡のような地形である。

 境内は檀家の方であろうか、落ち葉を集めて燃やしておられた。煙が薄くただよい、本堂は小説のような雰囲気のなかにあった。

 「ここで秀吉と官兵衛があった」ことを想像している。どんな、話をしたのだろうか・・・

 *写真:時光寺(浄土宗)の本堂

 *『播磨灘物語(司馬遼太郎)』参照

 

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高砂市を歩く(95) 時光寺①・朱印領の寺

2014-12-16 08:49:46 |  ・高砂市阿弥陀町

 話題が十輪寺でとまっている。少し話題を変え、阿弥陀町の時光寺の話をしたい。

   時光寺・朱印領を持つ寺

 西阿弥陀村の時光寺は、高砂町の十輪寺と共に浄土宗西山派の寺院である。

 寺領の点では十輪寺より多い20石を所持していた。

 また、慶安元(1648)8月、徳川家光から朱印状を拝領して以降、引き続き寺領の朱印状を拝領する寺院としての寺格は十輪寺より上にあった。

 史実はとも角、建長元年(1249)に創建され、元弘建武の騒乱で焼失した際にも足利尊氏によって再建されたという伝承を持つように、もともと源氏と縁が深い寺院である。

 一方、天文4年(1535)には後奈良天皇から住職の更衣着用が勅許されている。

 こうした由緒と伝統が、将軍家からの朱印状拝領に繋がったのではないかと考えられる。

 しかし、時光寺は、西山派教団内の寺格面では十輪寺の下位にあった。

 寺格の昇進には由緒や伝統に加え、本山への多額の献金が必要であり、こうした点で時光寺は劣っていたためではないかと考えられている。

 十輪寺には、高砂町の富裕な町衆(壇家)の経済力があった。

   曽根天満宮との関係

 また、時光寺を特徴づけるものに曽根天満社との関係がある。

 時光寺は、縁起では曽根天満社の西に堂宇を建立したものを前身とするが、近世にも例年9月1日に初穂を持参し曽根天満社に参詣している。

 当寺は、西阿弥陀村周辺地域に圧倒的な伝統と権威を誇った寺院であり、村の名称も、寺光寺の本尊「阿弥陀如来」から来ている。

     地蔵院の独立

 が、未だ寺檀関係が流動的であった近世前期(寛文期)には、寛文六年(1666)8月26日、西阿弥陀村の三 人・東阿弥陀村の二人・中筋村の三人は、連名で京都の浄土宗鎮西派本山知恩院に対して、西阿弥陀村内に存在した地蔵堂という名の小庵に寺号を付けて欲しいという願書を差し出した。

 彼らは、時光寺の旦那(檀家)で、あったが、詳細は不明なものの時光寺との問に何らかの寺檀争論が生じ、結果、西山派を抜け鎮西派への転派を求めた。

 本山知恩院はそれを許諾した。

 *『高砂市史(第二巻・通史編近世)』参照

 *写真:時光寺(高砂市阿弥陀町)



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高砂市を歩く(94) 十輪寺を訪ねる⑧・三浦一族

2014-12-15 09:52:55 |  ・高砂市高砂町

     三浦一族

  十輪寺には高砂の豪商・三浦氏一族の墓がある。

 三浦信成、法名「亨徳院真空道貞」の墓碑には、「三浦氏は相模の豪族・三浦大介義明より出、一族が北条早雲に滅ぼされた際に、三浦義高が高砂に逃れた」とある。

 義高より五代目が信成にあたる。

 この人は、延宝2年(1674)に生まれ、巨万の富を築き、宝暦4年(1754)2月11日に享年81歳で没した。

 その子、義芳は元禄16年(1703)に生まれ、明和4年(1767)7月に没した。

 三浦家は、第三次・松平時代には姫路藩の御用聞役となり、多額の調達金を踏み倒されたあげく、寛延一揆で居宅をうちこわされ略奪に会うなどの憂き目にあったが、それでも高砂有数の豪商として知られていた。

 三浦家は製塩だけでなく、廻船を所持して北国にまで塩を廻送し、日本各地に商業上の関係があつた。

    学問の人、三浦義芳・号は迂斎(うさい)

 また、三浦家は学芸を愛好する文人の家としても知られ、当主自身が学芸・芸能をたしなむだけでなく、当時一流の文人と交際し後援した。

 特に、義芳は、若い頃には漢学を学び、家業のかたわら和学や地誌学を研究し、隠居後は樹徳堂と(じゅとくどう)称する隠居所を設けて、待ちかねていたたように著述活動に励んだ。

 義芳と親交があった明石藩儒の梁田蛻巌の漢詩文集に「樹徳堂記」がある。

 それによると、義芳は愛した奇石や珍しい花弁・美竹を堂の内外に飾って訪れる人々を楽しませ、多数の書物を揃えて研究した。

 また、60歳頃には東路の旅にも出ており、その旅行記は高い評価を受けている。

 この旅行記を読むと、彼の人間らしさ、そして江戸中期の民衆社会の自由関達な空気が感じとられる。

 三浦義芳は、高砂が最も輝いていた時代を象徴する人物であった。

*『高砂市史(第二巻・通史編近世)』参照(三浦義芳については「高砂市史(二巻)」で詳しく紹介されていますのでご覧ください)

*写真:三浦一族の墓(十輪寺)

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高砂市を歩く(93) 十輪寺を訪ねる⑦、梶原氏の城(2)・落城

2014-12-14 08:06:36 |  ・高砂市高砂町

       高砂城の戦い

 野口城・神吉城・志方城と、加古川・高砂地方の三木城を支える城は、つぎつぎに落され、加古川・高砂地方で残っているのは高砂城だけにとなった。

 黒田官兵衛の時代の高砂城の話をしておきたい。

 『播州太平記』から高砂城の戦いを再現したいが、この本は物語性が多く、実態はよくわからない。

 とにかく、高砂城は秀吉軍に敗れた。

    高砂城の攻防(『播州太平記』より)

 秀吉は、三木城を攻めようと、三木城の東にある平井山に陣を置いて、三木城を兵糧攻めにする準備にとりかかった。

 高砂城がじゃまになる。

 高砂城主・梶原景行は、別所氏とは親密な味方であった。

 景行は、毛利とひそかに連絡をとり、海上から加古川を登り、美の川を経て三木城へ兵糧を運びこもうとした。

 秀吉は、加古川の河口の今津(現在の尾上町)に軍と軍船を置き、海上を封鎖し、秀吉軍は、高砂城に攻めてきた。

 しかし、梶原景行は、落ち着いていた。

 やがて、毛利の援軍くることがわかっていたからである。

 秀吉軍は、高砂城に火をつけた。城の多くが焼かれた。

 毛利の援軍が波をけたててやって来た。

 天正六年(1578)十月十八日、秀吉軍の二回目の攻撃が始まった。

 秀吉軍には油断があった。

 秀吉の兵は、梶原軍と毛利軍に挟まれ、ほとんどが打ち取られ、残った兵は今津へ逃れたという。

    高砂城落ちる

 この大勝利に気をよくした毛利軍の吉川元春と小早川隆景は、「この勢いで、三木へ攻めよせ、秀吉軍をはさみうちにすればかならず勝てる」大将で藩主の毛利輝元に進言したが輝元は、そうしなかった。

 「まず本国へ帰り・・・兵糧をととのえてから三木城へ運送する方がよかろう。兵糧さえあれば、守りの固い三木城のこと、攻めおとされることはない」と、毛利軍は帰国してしまった。

 平井山の陣でこの知らせを聞いた秀吉は、くやしがった。

 さっそく、室津・坂越(さこし)・網干・飾磨の港に番船をおいて、毛利軍の通路をたち切り、三たび高砂城を攻めた。

 高砂城は、毛利軍が帰国したばかりで余力はなかった。

 高砂城は落ちた。

 景行は、長い籠城(ろうじょう)は望めないと判断し、一族を残らず三木城へつかわし、自分は髪をそり、龍庵と名を改め、鶴林寺にこもったという。

 その後の龍庵について知っている者はだれもいない。

 *写真:小松原(荒井町)の三社大神社境内に、梶原氏の旧高砂城があったと言われている。

 

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