ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

円照寺の花たち(60) 鮮やか 花のトンネル(神戸新聞より)

2016-03-31 06:45:47 | 円照寺の花たち

 きのう(30日・水)の神戸新聞の朝刊に「鮮やか 花のトンネル」の題で円照寺のユキヤナギが紹介されました。

 紹介しておきます。

 *以下、文・写真は共に神戸新聞からの転載です。

   鮮やか 花のトンネル

 「花の寺」として知られる円照寺(兵庫県加古川市志方町広尾)で、春本番を告げるユキヤナギの花が見ごろを迎えた。無数の白い花を付けた枝が頭上から降り注ぐように垂れ下がり、まるで花のトンネルのよう。大勢の参拝客らがくぐるように観賞していた。

 バラ科の落葉低木。同寺では、上月義宗住職(69)が50年ほど前に数株を植え、現在は150平方メートルの旧境内敷地に約40株がある。

 上月住職によると、花は例年通り3月下旬に咲き始め、見ごろは4月上旬までという。友人と訪れた主婦(71)=姫路市香寺町=は「純白の花と若葉の対比が素晴らしい」と感激していた。

 観賞無料。境内ではクリスマスローズやツバキも花盛り。円照寺TEL079・452・2067

 (辰巳直之)(no3164)

*写真:見ごろを迎えているユキヤナギ(神戸新聞より)

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円照寺の花たち(59) 何時来ても  心和むよ 花の寺

2016-03-30 14:08:57 | 円照寺の花たち

    何時来ても 心和むよ 花の寺

 昨日(29日)の夕方でした。

 円照寺へブログのための写真を撮りに出かけました。

 住職は、花の水かけが終わったところで、休憩所で、ひとしきりお話をしました。

 そのとき、机の上に綺麗な字で、「何時来ても 心和むよ 花の寺」と書かれた俳句(右の句)が置かれているのを見つけました。

 どんな方でしょうね。うれしくなりました。

 また、いつかお会いしましょう。

 その時は、やはり、花が話題になるでしょうね。

 私ですか。

 花のことは、ほとんどわかりません。

 でも、花は、いいですね。(no3163)

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円照寺の花たち(58) 小さなピンクのユキヤナギ

2016-03-30 06:57:17 | 円照寺の花たち

 

     ちいさなピンクのユキヤナギだが・・・

 本堂の裏に、鉢植えの小さな「ゆきやなぎ」があります。

 珍しい「ピンクのユキヤナギ」です。 

 今の時期、円照寺を訪れる人は、ツバキやミモザに目を奪われて、誰もこんな小さな「ユキヤナギ」に注目されません。

    ロング・スパンで

 でも、こんなことを考えています。

 昔、山里に棲む人(日本の集落のほとんどは山里でした)は、次の世代(30~50年)を見据えて、山に木を植え続けたといいます。

 その木々は、やがて山に水をつくり、その水は田畑を潤しました。そして、水は海へ流れ、豊かな海を育てました。

 かつて、日本では、こんな営が、営々と続いていました。しかし、現在、このサイクルが、ぷっつりと無くなってしまいました。

・・・・

 30~50年もしたら、きっと、この小さな「ピンク色のユキヤナギ」も、大きくみごとなピンクのユキヤナギなっていることでしょう。

 政治家は、叫びます。「未来の街づくりのために・・・・をしよう」と。

 でも、政治家の叫ぶ未来は、せいぜい任期の4年か8年、あるいは政治家が評価される生前のスパンです。

 そうではなく、もう少し長い年月(30~50年)を想定して、計画していく必要がありそうです。

 そうすれば、もっとたくさんの名所(くつろぎの場所)と、すばらしい生活の空間ができるはずです。しかも、安価に。

 たとえば、市内に真っ赤なモミジで埋まる公園・寺・町、あるいは、藤の花で埋まる場所がいっぱいあれば、どんなに素敵でしょう。さいわい、加古川市は田園都市です。

 名前だけの田園都市ではなく、町全体が花の町で溢れたら、そんなにすてきでしょう。少しばかり、ロング・スパンを考え、そして、スローライフをしたいですね。

 以前、ニュージランドのクライストチャーチ市へ行ったことがあります。その時もそんなことを考えました。

 クライストチャーチは、花で埋まっていました。

 円照寺の住職のお仕事にヒントがありそうです。(no3162)

 *写真:本堂裏の小さな、ピンク色のユキヤナギ

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円照寺の花たち(57) ゆきやなぎ(2)・きれいね

2016-03-29 09:09:46 | 円照寺の花たち

    ゆきやなぎ(2)

 27日(日)の昼下がり、円照寺に出かけました。

 「ゆきやなぎ(1)」で、紹介したように、いま旧照寺の「ゆきやなぎ」が満開です。

 日曜日は、温かい日でした。

 見学の方がたくさん来られておられました。

  ・こんにちは

  ・きれいね

  ・うちにも「ゆきやなぎ」があるんやけど、こんなに見事になるんやろか

  ・何本でこんなになるの、こんな「ゆきやなぎ」見たことないワ・・・

  ・でも、こないなったら、住むとこなくなる・・・

 楽しいお仲間のようで、お話に花が咲いていました。

 花を見ていると、気持ちが楽しくなるんですね。

 円照寺でお見かけするお顔はみな素敵です。

     ここは、パワースポット!

 住職は「ここへ弱った花を持ってくると、元気になるんです。そして、ここにある花はよく育ちます」と、いっておられます。

 前にも紹介したように、ここはパワースポットなんです。

 元気になりますよ。

 綺麗になりますよ。

 お出かけください。(no3161)

 *写真:満開のゆきやなぎ(旧照寺跡27日撮影)

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コーヒー・ブレイク   『火の路(松本清張)』を読む

2016-03-28 15:46:52 |  ・コーヒーブレイク・余話

           『火の路(松本清張)』を読む

   きょう(28日)、先日から読み始めていた小説を読終えました。

   朝の9時ごろから3時頃まで、小説の終わりカ所を「うんうんと言いながら」読み終えました。

 小説は『火の路(松本清張)』(文芸春秋・上下二巻)です。

 先日、ある自治会で、その自治会を中心とした歴史学習会を持ちました。たくさん集まっていただきました。

 ある人から「生石神社(おうしこじんじゃ)について知りたいですね」という声がありました。(その地区は、生石神社(石の宝殿)の氏子の地区)

 もう25年以上も前になりますが、生石神社について、調べ始めたことがありました。

 その時は、現職で、いそがしく途中で中断していました。

 小説『火の路』は、その時に買った小説です。

 でも、「小説の一部に生石神社(石の宝殿)について書かれていたな・・・」ということ以外、内容等は完全にわすれていました。

 今、少し暇な時期ですので、『火の路』を読み返しました。

 小説というには、少し読みづらい内容です。というのは松本清張氏の古代史の研究がやや専門的に、各所にちりばめられているためです。

 「うんうんと言いながら読みました」と書いたのはそのためです。

    いつか、「石の宝殿」の話をしましょう

 今回は、再び「石の宝殿」に凝ってみようと計画しました。

 そのため歴書を読むように線を引きながら小説を読みました。

 資料を重視する歴史家には書けない、全く観点の違った小説(話)です。

 でも、そこは小説です。最後はジーンとして涙が出てきました。

 いま、「円照寺の花たち」を連載していますが、いつか「石の宝殿」についても報告したくなりました。もちろんもう少し勉強してからになりますが・・・(来年ぐらいになりそうです・・・)(no3160)

 *挿絵:石の宝殿(松本清張・『火の路』p335 より)

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円照寺の花たち(56) ゆきやなぎ(1)

2016-03-28 09:49:21 | 円照寺の花たち

 

 詩人・山村暮鳥は、いっぱいに広がる「菜の花」を、次のように表現しました。

    いちめんのなのはな(「風景」より)

 いちめんのなのはな(「いちめんのなのはな」7回繰り返し)

 かすかなるむぎぶえ

 いちめんのなのはな(「いちめんのなのはな」8回繰り返し)

 ひばりのおしゃべり

 いちめんのなのはな

 いちめんのなのはな(「いちめんのなのはな」8回繰り返し)

 やめるはひるのつき
 いちめんのなのはな

     春の爆発(ゆきやなぎ)

 では、山村暮鳥が円照寺の「ゆきやなぎ」見たらなんと表現したでしょうか。

 いちめんの、ゆきやなぎ 

 いちめんの、ゆきやなぎ

 いちめんの、ゆきやなぎ

 ・・・・・(くりかえし)・・・・

 力いっぱいの春の爆発

   

 今、旧円照寺跡(円照寺北100㍍)に「ゆきやなぎ」がみごとに咲いています。(no3159)

 *写真:旧円照寺跡の「ゆきやなぎ」(撮影・堀江)

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円照寺の花たち(55) 赤い花白い花(2)・フランクハウザー

2016-03-27 08:30:01 | 円照寺の花たち

    赤い花白い花(2)・フランクハウザー

 詳細は、忘れました。

 「ある弥生遺跡で、ツバキの鍬が発見された」とある本で読んだことを覚えています。

 この場合、柄の部分が堅いツバキの材質が利用されたようです。

 また、ツバキの名は、「ツバキの葉のかがやき」から名付けられたという説を聞いたことがあります。

 もともと、ツバキは花の美しさよりも「木質の堅さ」や「葉の輝き」に注目された木のようです。

   世界一のツバキ、フランクハウザーが咲いています

 古代人だけでなく、少し前の世代の人が写真のような、みごとなツバキの花を見たらビックリするでしょうね。

 「なんという花だ。この花は、これはツバキではない・・・」と、いうに違いありあんせん。

 写真の赤い大輪のツバキは「フランクハウザー」で、現在世界で最もきれいなツバキといわれています。

 ツバキには失礼ですが、まるでバラのようです。

 いま、円照寺で、フランクハウザーが咲いています。お寄りください。(no3158)

 *写真:フランクハウザー(撮影:堀江)

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円照寺の花たち(54) 赤い花白い花(1)

2016-03-26 09:17:52 | 円照寺の花たち

      「赤い花白い花」は、きっとツバキの花

  24(木)の夜、妻と「紙ふうせん」のコンサートに出かけました。

  会場(加古川市民会館小ホール)はいっぱいでした。

  「紙ふーせん」のしっとりしたハーモニー。いいですね。

  みんなで、「赤い花白い花」を歌いました。

  おじいさんも、かわいく(?)歌いました。

  歌詞からは、この「赤い花白い花」は、何の花かわかりません。

  でも、きっとそれはツバキなんですよ・・・

    「赤い花白い花」の歌詞

   1.  赤い花摘んで あのひとにあげよ
     あのひとの髪に この花さしてあげよ
     赤い花 赤い花 あのひとの髪に
     咲いて揺れるだろう おひさまのように
   2.  白い花摘んで あのひとにあげよ
     あのひとの胸に この花さしてあげよ
     白い花 白い花 あのひとの胸に
     咲いて揺れるだろう お月さんのように
   3.  赤い花ゆれる あの娘の髪に
     やさしい人の ほほえみにゆれる
     白い花ゆれる あの人の胸に
     いとしい人の 口づけにゆれる
     口づけにゆれる(no3157)

 *写真:髪飾のツバキ(ポップ・ジー) *撮影:円照寺にて

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円照寺の花たち(53) ナンシー・レーガン

2016-03-25 08:11:29 | 円照寺の花たち

    椿・ナンシー・レーガン

 ツバキを見ながら、アメリカ合衆国のことを考えています。

 というのは、写真のツバキの品種が「ナンシー・レーガン」。

 もちろん、ナンシー・レーガンは、元アメリカ大統領夫人です。

 彼女は、3月の6日、ロサンゼルスの自宅で亡くなられました。

 うっ血性心不全が原因でした。94歳。

 *レーガン大統領:2004・6・5死亡(93歳)

    リンカーンが泣いている 

 写真の真っ赤なツバキは「ナンシー・レーガン」です。

 「ナンシー・レーガン」と命名された経過を知りたかったのですがわかりません。ご存知の方は一報ください。

 日本人の場合、花の名前に首相(政治家)や、その婦人名をつけることは、しないでしょうね。

 ・・・

 品種改良をした人は熱烈なレーガン大統領か、共和党の支持者だったのでしょうか。

 今回の共和党の候補者のトランプは、発言からすると、最悪の共和党の候補者のようです。

 彼のような候補者が、共和党の大統領候補に指名されないことを望みたいです。

 アメリカの誇る大統領「リンカーン」は、共和党の大統領だったんですが・・・

 そんな、生臭い話とは関係なく、今本堂の西の壁のそばで、ナンシー・レーガンは真っ赤な花を咲かせています。(no3156)

 *写真:ツバキ(ナンシー・レーガン)

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円照寺の花たち(52)  モクレンの詩

2016-03-24 07:58:25 | 円照寺の花たち

        モクレンの詩(山村暮鳥)

 いつの頃だったか、はっきり覚えていません。国語の時間に山村暮鳥の詩「雲」読みました。

  その後、この詩だけは、私の記憶に張り付いています。おせっかいですが、紹介します。


     
   おおい雲よ
   ゆうゆうと
   馬鹿にのんきそうじゃないか
   どこまでゆくんだ
   ずつと磐城平(いわきだいら)の方までゆくんか

 

 ゆったりとした詩です。いい感じです。

 こんな詩は好きですね。

 また、彼はモクレンを次のように歌っています。

 

   木蓮の花が
   ぽたりとおちた
   まあ
   なんといふ
   明るい大きな音だったろう
   さようなら
   さようなら

 

 暮鳥は、この詩にどういう気持ちを込めたのでしょう。

 72歳のおじいさんは、ちょっと物悲しく聞こえました。

 「元気を出さなくちゃ」

 「ぼたっ」と落ちないように。

 「さようなら」といわないように。(no3155)

 *写真:旧円照寺のモクレン(23日撮影)

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円照寺の花たち(51) 吾輩は、花が好きである

2016-03-23 09:21:50 | 円照寺の花たち

 いま、旧円照寺では、ハクモクレンに続いて、(紫)モクレンが写真のように満開になりました。

 お寄りください。

 (夏目)漱石の俳句の話です。

     吾輩(夏目漱石)は、花が好きである

 夏目漸石が執筆活動に没頭したのは、意外なことに明冶38年から大正5年に亡くなるまでのわずか11年間で、その間に彼はほとんどの名作を誕生させています。

 彼は、英語教師を志し、東京帝国大学(現在の東京大学)に入学しました。

 そこで、文学好きの愛媛県松山市からやってきた青年と友だちなります。

 この青年こそ、後の俳人正岡子規でした。

 漱石は、子規に感化され俳句をたしなむようになりました。

 自然を注意深く観察するようになり、花にも興味を持ちました。

 漱石は、モクレンが雨に濡れているのを見て、次のように詠んでいます。

     木蓮(モクレン)に 夢の様なる 小雨哉

 晴れた青空を背景にしたモクレンもいいのですが、漱石は雨の中のモクレンを気にいったようです。

 雨の日の円照寺の花たちも一興ですよ。(no3154)

 *写真:モクレン(旧円照寺・円照寺北100㍍)

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円照寺の花たち(50) 円照寺、春湧く

2016-03-22 07:07:27 | 円照寺の花たち

   

        円照寺から春が湧き出しました

   「円照寺の歴史」を書いている間に、花は満開になりました。

   まるで円照寺の境内から春が湧き出したようです。

  昨日(21日)、円照寺の境内にいました。

  ツバキも満開です。

  写真の赤いツバキは、ファイヤーダンス。

  中央下の淡いピンク色のツバキはオメガ。

  ツバキの後ろの黄色い花は、ミモザ。

  そして、青い空を背景に、それぞれの色合いを際立たせています。

  まさに、自然が織りなすコラボレーションです。

     出会いの場所に!

  旧円照寺跡で、見学に来られた大野(加古川町)のKさんと久しぶりにお会いしました。

  10数年ぶりの再会でした。

  「旦那さんは、元気ですか」「元気です」

  「一緒に来る予定でしたが・・・」

  「よく、いらっしゃるんですか」「3度目です」

  「次は、ノウゼンカズラの頃に一緒しましょう。きれいですよ」

  「是非、そうしたいですね・・・」

  会話はこれだけ。

  次は、ノウゼンカズラの頃に、是非お会いしたいです。

  その時は、電話をします。帰りにビールでも飲んで、いっぱいお話をして、そして元気をもらいます。(no3153)

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コーヒー・ブレイク  常楽寺でのお話し

2016-03-21 08:22:40 |  ・コーヒーブレイク・余話

 

        常楽寺(東神吉町神吉)でのお話

 きょうの「円照寺の花たち」はお休みします。

 昨日(20日)は、お彼岸の中日。

 この日、太陽は真西に沈みます。

 その太陽が沈む西の先は、阿弥陀仏がお住いの浄土の東門があるといいます。

 お寺では、いろんな行事が行われます。

 東神吉町神吉の常楽寺に出かけました。

 常楽寺でも、お彼岸の行事が行われました。

 行事の後、午後2時から私の持ち時間で、『加古川お城物語り・神吉城の興亡』のテーマで檀家の方にお話をしてきました。

 というのは、ここ常楽寺は、戦国時代の神吉城跡に建てられた鎮魂の寺です。

 信長軍(総大将は信長の長男・信忠)30000の軍勢が、ここ神吉城の兵2000を攻めにせめ、ついに城主・神吉頼定は、力尽き討ち死にし、城も炎上してしまいました。

 あつかましくも、まさにその場所にある常楽寺で、神吉城の顛末をお話してきました。

 いつもの公民館でのお話とは一味違いました。少し緊張しました。

 そのため、「少しは早口だったかな」と少し反省しています。

    「女人往来図」も展示

 なお、常楽寺には鎌倉時代から南北朝時代のかけてと推定される「女人往来図」があります。

 当時、「女人は穢れており、極楽へは、なかなか往生できない」とされていました。

 そんな時代に、女人も往生できることを仏画で表現した例はほかにありません。

 常楽寺の「女人往来図」は、日本で唯一の例です。

 (注:「法然・親鸞などは、女人も救われる」と説いていました)

 ふだん公開されていない、そんな貴重な軸も展示されました。(no3152)

 *写真:常楽寺本堂でのお話しの風景

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円照寺の花たち(49) 円照寺に残る「朝鮮通信使饗応記録」

2016-03-20 08:55:06 | 円照寺の花たち

   円照寺に残る「朝鮮通信使饗応記録」

 円照寺に「朝鮮通信使饗応記録(享保4年・1719)」が残されています。

 この古記録について、上月昭信氏が「志方郷(第50号)」で「円照寺に残る朝鮮通信使饗応記録」として報告されています。

 ・・・・

 江戸時代将軍が代わるごとに、朝鮮からは通信使とよばれる使節が江戸を訪れるようになりました。この使節を「朝鮮通信使」といいます。

 この朝鮮通信使は、江戸時代を通じて合計12回派遣されました。

 円照寺の「朝鮮通信使饗応記録」は、幅14.8㎝、長さ293㎝の和紙に書かれ巻ものとして保管されています。

 はじめに「献立」とあり、前半は来日した高官に供された献立で、後半は、通信使一行の官職、人数、姓名の記録です。

 この記録は、享保4年(1719)、第8代将軍吉宗の時に来日した朝鮮通信使(第九次通信使)の際の記録であり、一行475人のうち、朝鮮側の高官6人をもてなした「料理と一行の編成」を書き写したものです。

 朝鮮通信使は、対馬を経て各地に寄港しながら大坂・江戸をめざしました。

 幕府は領内を通過する各藩に対し、通信使一行の警備と接待の内容について細かい指示と連絡をしています。

 一行は、岡山県の牛窓から室津へ寄港し、室津での接待は姫路藩が担当しました。

 藩は、宿舎や食事の準備のため等の財政負担を商人・百姓に割り当てました。

   吉広村庄屋・堀内氏から円照寺に譲られた記録

 郷土史家の上月昭信氏は、「この記録は堀内家の家系図と一緒に発見されたことから、堀内家から円照寺に譲られたものと思われ、吉広村の庄屋であった堀内蘇斎は、姫路藩の接待記録や来訪した人名を書き写し、後日のための備えたものと思われる」と推測されています。

 なお、円照寺に残る通信使一行の名前について、上月氏は韓国での調査で、誤字脱字が多い幕府の記録よりも正確な内容となっていることを確認されています。

 また、享保4年の原本となる姫路藩の記録が未発見であるだけに貴重なものとなっています。(no3151)

 *写真:朝鮮通信使饗応記録(部分)

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円照寺の花たち(48)  庄屋・堀内信秀寄進の鐘

2016-03-19 08:28:57 | 円照寺の花たち

           もう一つの梵鐘

 前号で「円照寺の梵鐘」を紹介しましたが、円照寺にはもう一つ、小さな梵鐘がありあります。

  すこし、「円照寺の花たち(17)・伊能忠敬広尾に来る」の内容と重なります。

(伊能忠敬)測量隊は、文化11年(1814)3月4日、姫路城下を二手に分かれ出発、その日の測量を済ませ、夜は合流して、坂本村(加西市)庄屋宅などに宿泊しています。

 翌5日も二隊に分かれ、一隊の忠敬を含む5人のメンバーは、坂本から法華山線に沿って三口に出て、県道43号高砂北条線を南下しながら志方町内に入りました。

 一行は細工所から岡、中才、吉広、柏尾、そして平荘町の一本松に向かって測量をしました。

 日記によると3月5日の昼食は、吉広村(現広尾西)庄屋・(堀内)清之丞宅でとっています。

 庄屋・清之丞は医者でもあり「堀内京庵」と名のっていました。

 3月5日は旧暦であり、今の2月です。

 その日は、晴れていたようですが、凍えるような空気の中での測量であったと思われます。

    庄屋・堀内信秀寄進の鐘

 庄屋・清之丞の父と思われる堀内信秀より円照寺に寄進された天明五年(1785)の銘がある鐘(写真)が、本堂の軒に掛かっています。

 堀内家は、当時円照寺の檀家総代のような人物のようです。

 堀内家は、明治時代の初めまで吉広村に住んでおられましたが、その後転居されています。

 堀内家の邸宅跡・墓地は、現在も広尾西地区に残っており、邸宅跡に一部遺構を見ることができます。

 なお・堀内家に保存されていた古記録の一部が、現在円照寺に保存されています。

 次号で、紹介しましょう。(no3150)

*写真:堀内家(庄屋)寄進の鐘

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