ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

円照寺の花たち(80) スズラン

2016-05-10 10:13:48 | 播磨の地震

  ス ズ ラ ン

  インターネットで「スズラン」を調べていると、こんな詩(最初の一行を省きました)見つけました。

 誰の書かれた詩かわかりません。

 円照寺の庭に咲くスズランもいいですよ。「花の茎をゆすっている音(ね)」を聞きまししょうか。聞こえますとも・・・・

   白い花たちを揺らすのは

   吹き過ぎる風ではない

   それぞれの花の下に

   小さな誰かがいて

   花の茎を揺すっている

   すると 人の耳には届かない

   透明な鈴の音が聞こえる

  スズランは、日本では北海道、本州(主に東部)、九州(稀)に自生しています。
 日本のスズランは、葉より低い位置に花をつけますが、『ドイツスズラン』は、花の茎も葉と同じくらいの高さになるそうです。(no3215)

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播磨の地震(7) 首都・加古川(幻の遷都論)

2016-04-23 07:20:14 | 播磨の地震

  〈お知らせ〉

 明日24日(日)と25日(月)は私用のため、ブログはお休みさせていただきます。都合により、26日(火)もお休みになるかもしれません。ご了解ください。

 きょうのブログは、「わたの里通信誌」の続きの予定でしたが内容が途中で、途切れますので、来週になります。

 なお、今日の「首都。加古川遷都論」は先に紹介した話題ですが、「播磨の地震」として再掲します。

 

  首都・加古川(幻の遷都論)

 大正12年(1923)9月1日、東京を中心に未曾有の大震災がおき、政府の一部に壊滅した首都を東京以外の場所に移そうとする遷都論がおきました。

 「今村均・回顧録」(当時の参謀本部少佐、後に陸軍大将)によれば、国土防衛上の観点から首都移転を極秘に検討し、加古川の地を候補地の一つにあげています。

 加古川が候補にあげられたのは、第一に災害が少ない地域であるということであったようです。

 が、その他に「中国大陸侵略に備え、日本の首都を西に移すべきである」との考えがありました。

 候補地として、加古川の他に八王子(東京都)はともかく、ソウル(韓国)が、あげられていました。

 ソウルを日本の首都に候補に挙げたのは、露骨な中国大陸侵略に備えた遷都論です。

 「遷都(八幡和郎著)」(中公新書)では、加古川への遷都の理由を次のように述べています。

 「・・・(首都の候補地は)兵庫県加古川の平地である。歴史上、(大きな)大地震にみまわれたこともなく、水資源も量・質ともに条件がよい。

 防空という観点からも理想的である。

 商工業都市としての機能は、阪神に任せ、皇室、政府機関、教育施設のみを移し、ワシントンをモデルに設計する・・・」

 この遷都論は、やがて各方面にもれ、動揺が起こり、立ち消えになりました。

 加古川の地は、他にも平清盛の時、日本の首都の候補にあがったことがあります。(no3194)

 *写真:関東大震災直後の東京

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播磨の地震(6) 「南海地震」・詳細は報道されず

2016-04-22 10:03:47 | 播磨の地震

     「南海地震」・詳細は報道されず

 突然の地震は昭和21年12月21日の早朝に発生し、死者は、1、300人をこえました。

 潮岬の沖合いを震源とするマグニチュード8.2の巨大地震・南海地震です。

 この時期、日本は敗戦により占領されていおり、マスコミの自由な報道も禁止されていました。

 そのためか、地震の被害・規模が大きかったにもかかわらず詳しく報道されていません。

 ある新聞は、加古川地方のようすを次のように伝えています。

 「・・・21日早暁、突如、加印(かいん)地方(旧:加古郡・印南郡を含む地方)を襲った強震は空前のもので、何れも戸外に飛び出し、酷しい寒気と異常な恐怖に震えつつ夜の明けるのを路上に待ったが、調査の進むにつれ損害は意外に大きく、加古川町では居屋河原町(いやがわらちょう)の洗濯業・入江源栄さん(40)、寺家町一丁目小間物商・三木さんの隣家の白木栄太郎さんが見るも無残。・・・」

 この時の南海地震のエネルギィーは、すべて放出されていないとのことです。

 最近、さらに大きな、次の南海地震が近いと、さかんに報道されています。

 要注意です。(no3193)

 

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播磨の地震(5)  加古川地方の津波

2016-04-21 11:38:33 | 播磨の地震

          津 波

  東北地方太平洋沖地震では、過去に例をみないマグニチュード(M)9.0の大地震による津波が、東北地方全域を一瞬に飲みこんでしまいました。

 津波の高さは10メートルの堤防を軽々と越えてしまいました。

 津波は10~20メートルとかいわれていますが、被害状況をみているとそんなレベルではないようです。

 リアス式海岸を襲った津波は、せり上がり、50メートルという高さまで到達したところもあったようです。

    加古川地方の津波

 では、加古川地方(瀬戸内地方)は、かつて津波の襲来どのようであったのでしょう。

 瀬戸内海沿岸に来襲した地震津波に関しては、被害が少なかったためか関心も薄く、その実態はほとんど研究されていません。

 それでも、津波に関する古記録がわずかに残されています。

 それらから推測されます。

  宝永地震(宝永四年・1707)による津波

 宝永地震による瀬戸内海沿岸各地の津波は、大阪府で2.5~3㍍で、兵庫県では赤穂で最高の3㍍を記録しています。

 岡山県でも最高3㍍を記録しています。

 広島県では1.2~2㍍と、津波の高さは東高西低の傾向が見られます。

 これらの記録から、加古川地方でも最高3㍍の津波があったのではないかと推測されます。

  安政地震(安政元年・1854)による津波

 安政地震では、大阪府で2.4~3㍍、兵庫県2~3㍍で、神戸では2㍍、赤穂では最高3㍍の津波を記録しています。

 この時は、岡山県では1~2㍍程度の津波でした。

 このような状況から加古川地方の津波は2~2.5㍍程度の津波があったのではないかと想像できます。

 なお、後に紹介する昭和21(1946)の南海地震の津波は0.8~1.2と低い津波でした。

 残された記録等による推測によれば、加古川地方では津波による被害はほとんどなかったようです。

 しかし、次の東海・東南海・南海地震が同時におきるのではないかと危惧されています。

 そうなれば、歴史の記録だけでは安心はできません。(no3191)

 *論文:「瀬戸内海の歴史南海地震の津波について」(山本尚明)参照

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播磨の地震(4) 米田大地震(応永19年・1412)

2016-04-21 11:16:23 | 播磨の地震

       米田大地震(応永19年・1412)
 中世の 加古川地域を記録した鎮増の書いた『鎮増私聞書(ちんぞうしぶんしょ)』に応永19年(1412)11月14日の早朝・米田に大地震があったことを記録しています。
 地震の記事は、次のようです。
 ・・・某年(応永19年)十一月十四日暁、大地震あり、他国は、去程はなしと云伝、播磨にては米田東西十里計、神舎・仏寺・人屋(人家)はくつ(崩)れ、人の打殺さるゝこと多かりけり・・・
 播磨以外では、さほどのことはなかったようです。
 播磨では、米田を中心として周辺10里ほどの神社・仏閣等が殆ど倒壊したことを記録しています。
 この時の米田の地震は、震源地が浅く、今で言う直下型の地震であったようです。

  加古川下流の沖積平野は、加古川の流れが運んだ土砂が表面を厚く覆い、地震を引き起こす地下の断層が分からなくなっています。
 南海地震・山崎断層にともなう地震にはもちろん注意が必要でしょうが、加古川にはあんがい私たちの知らない断層があり、それが動いて大きな被害を引き起こすかもしれません。
 593年前に米田を中心にしておきた米田大地震は、そのことを私たちに教えてくれているのでしょう。
 歴史か教訓を学んでおく必要がありそうです。

  米田大地震については『室町お坊さん物語(田中貴子著』(写真)をお読みください。

  なお、『鎮僧私聞書』は、応永32年(1525)の加古川大洪水についても記録しています。(no3190)

  *『加古川市史(第二巻)』・『加古のながれ(市史余話)』(加古川市史編さん室)参照

   『室町お坊さん物語(田中貴子著』(講談社現代新書)

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播磨の地震(3) 山崎断層

2016-04-20 11:21:10 | 播磨の地震

  「熊本地震が起きました」というより、現在進行中で、大災害をもたらしています。

 「ひろかずのブログ」では、熊本地震発生以降「播磨の地震」関係の記事へのアクセスが急増しています。

 そのため。今までブログで取り上げた、地震関連のブログを再掲します。

   山 崎 断 層

 兵庫県南部を東西に走る中国自動車道には、福崎から佐用までの間にトンネルがほとんどありません。

 谷がつながる地形が東西に伸びています。その上を中国自動車道が走っています。

 この谷がまさに山崎断層(写真)です。中国自動車道は、山崎断層の真上を走っているのです。

 自動車道の工事の為に山崎断層の地形はかなり損なわれましたが、それでも注意すれば、いたるところに活断層でできた地形を見ることができます。

 山崎断層は大地震のたびにずれ、谷や尾根に特徴的な地形を作ってきました。

 山崎断層は左ずれの断層です。

 写真は、昭和46年の撮影(夢前町四辻付近)です。現在はこの道に沿って中国自動車道が走っています。

 尾根の先端部分をご覧ください。

 尾根の先端部分が左(写真にむかっては右)にずれています。

 山崎断層はおよそ500㍍左にずれています。これらの地形は、「左横ずれ」という水平方向の断層運動でつくられたものです。

 この断層運動はまた,「破砕帯」とよばれる軟弱な岩盤を活断層にそって帯状に発達させました。

 破砕帯は侵食されやすく,それにそって谷がのびたり,谷幅が広がったりするため,直線的に続く起伏の小さな地形をつくります。

 トンネルのない中国自動車道は,まさに山崎断層がつくりだした景観です。

  30年以内に山崎断層でおきる地震の確率:5%?

 「播磨の地震(2)」で紹介した「貞観10年(868)の播磨大地震」は、山崎断層が震源であった可能性が高く,山崎断層の小規模な地震はしばしばおきているものの、その後千年以上、大地震を起こしていないことが注目されています。

 播磨地震から1,100年以上が過ぎた現在、山崎断層西部が近い将来に大地震を起こす可能性は大きいといわれています。
 一方、山崎断層系東部の東端の私たちの地方は、今後30年に山崎断層を震源とする地震(M7.3程度)が発生する確率は5%と予想されています。

 が、現在「予想外」の出来事が多すぎます。(no3188)

 *写真:山崎断層と中国道

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播磨の地震(2) 播磨大震災(貞観10年:868)

2016-04-19 12:00:12 | 播磨の地震

      播磨大震災(貞観10年:868)

 播磨に大地震の記録があります。

 その記録は『類聚国史(巻・一七一)』で、「・・・(貞観十年七月十五日の条に)播磨の国に地震があり、大地震。郡の官舎・諸寺の堂塔みなことごとく崩れた・・」と播磨に大地震があったことを記録しています。

 地震が発生したのは、七月八日のようで、被害の状況を調査し、一週間後に報告しています。

 この大地震が播磨に与えた影響は甚大なものだったようです。

 郡の役所や寺の堂塔はことごとく大破しています。

 死者等の記録はないものの多くの人々が犠牲になったと想像されます。

 余談になりますが、播磨には貞観十年(868)年以前の建物がほとんど残っていないのは、この地震のためであると考えられています。

    山崎断層

 山崎断層帯主部(南東部:三木・加古川・小野市)では、M7.3程度の地震が発生する可能性が予想されており、山崎断層帯主部全体が連動して活動することも考えられます。その場合、M8.0程度の地震が発生する可能性も考えられています。

 今後30年の間に地震が発生する確率が我が国の主な活断層の中ではやや高いグループに属しています。

 山崎断層については再度別に取り上げます。(no3186)

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播磨の地震(1) 草谷断層

2016-04-18 12:36:03 | 播磨の地震

 熊本の大震災の影響か「草谷断層」に対するアクセスが急増しています。

 再度、掲載することにします。

 なお、加古川地方の地震・津波については後日まとめて再掲する予定です。

   草谷断層

 上の地図をご覧ください。

 草谷断層は、山崎断層が三木市の方へ走り、そこから南へ向きを変えて伸びる山崎断層の一部であるといわれています。

 草谷断層は、三木市から稲美町を貫き、加古川市へ分布する断層で、東北東-西南西方向に延びており、右横ずれの断層です。

 もう少し詳細に言うと、この断層は稲美町内では野寺辺りから入ヶ池(にゅうがいけ)にかけて割れ、千波池(国岡)の南の岸から南西へ、そして加古川市平岡町へ伸びる断層です。

 草谷断層は、今後30年以内に動く確率は0%といわれており、当面は地震の心配の少ない断層です。

 でも、最近は想定外の事例が多すぎます。

 ☆あるHPに稲美町の池と草谷断層についての最悪のシナリオがありました。

 無断でお借りします。

 (文末を「です・ます調」に変えています)

  最悪のシナリオ 草谷断層動く!

 田植えを控えた五月中旬でした。

 稲美町の約九十のため池は、どこも満々と水をたたえています。

 普段は水利組合や自治会が適度な水位に管理しているが、はや梅雨本番を思わせる長雨が、一週間近くも続いていました。

 昼前、Hさん(41)は自分の田へと水を引く池で洪水吐(こうずいばけ)のようすを見ている時でした。

 大地がごう音とともに揺れ、たまらず倒れ込んだHさんが顔を上げると、約二百メートル先の高地の池の堤が引き裂さかれ、濁流が一気に迫ってきたのです。

 必死で電柱に登りました。

 足下を通過した濁流は勢いを増して約三キロ下流まで進み、集落を水びたしにしました。

 二時間後、町災害対策本部に入った情報では、町を貫く草谷断層が動いたとのことでした。

 「危険度0%」。住民の誰もが、断層についてそう思いこんでいました。

 だが、断層に近接したため池はほとんどが決壊し、国岡、森安など高台の地区を除き町の大部分が浸水したのです。

 町はまるで、大きな水たまりのようになってしまいました。

 〈追記〉

  稲美町は町面積の一割以上を占めるため池の危険度を示す地図を作って全戸配布しました。全国初の試みです。

  地図の作成に携わった明石工業高等専門学校の神田佳一教授は、「考えられる最も危険な状況から作ったが、想定外の地震や降雨も起こり得ます。ため池が決壊するかもしれない、という日常からの意識こそがその時に役立つ」と言われています。(no3184)

 *写真:草谷断層

 

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