「志方町を歩く」は、一週間ほどお休みとします。
瓢水の父母の墓標はどこに?
太字に注意してお読みください。
滝 瓢 水
現在の加東市滝野町から別府に移り住んだ瀧家は、初代・元春から三代・政清で財を成しました。
家業は、廻船問屋で、叶屋(かのうや)と号し別府港に拠点をおき、加古川の流域の物産を集め大坂や西国に送り、生活物資や魚肥等を買い入れ、それを販売する一大商社として大いに繁栄し、千石船七艘を所有するまでになりました。
その家業も四代・瓢水の代になり、急速に衰えました。
それもそのはず、家業は他人まかせで異常なほどに趣味の俳句にのめりこんだのでした。
◇瀧家の墓所◇
瀧家の墓所について紹介します。
瀧家の墓所は、別府の西町の共同墓地にありますが、もともとこの場所にあったのではありません。
別府町以外の人には、分かりにくく申し訳ないのですが、今の「別府町民会館」のある場所です。
江戸時代、ここに金蔵坊という僧坊があり、そこの墓地に埋葬されていました
明治初年、今の場所に移されました。
余話をはさみます。
は22年、別府村・西脇村・新野辺村が合併して新しい別府村ができたとき、金蔵坊があった場所に村役場がおかれました。
西町の現在の瀧家の墓所に話をもどします。
瀧家の墓所には、初代(元春)・二代(清春:瓢水の祖父)の墓標はあるが三代(政清:瓢水の父)の墓標が見当たりません。
「さればとて 石に布団は かけられず」と瓢水が詠んだ母・参の墓標もみあたりません。
ともに数年前まで、ここにあったと聞きました。
その経過が分かりません。瓢水の父母の墓標は、貴重な地域の語り部であり、文化財でもあるはずです。
瓢水の墓標であるが、瓢水は宝暦十二年(1762)五月、七十九才の時大坂の旅先で没し、現在の大阪市天王寺区生玉町の持明院(生国魂神社東)の墓所で眠っています。
以上が以前に紹介した文章です。
きょうは、ビッグニュースがあります。瓢水の父母の墓碑がわかりました。
今「志方町を歩く」を続けていますが、一週間ほどお休みして、滝瓢水について緊急報告をします。楽しみにしてください。
*写真の瓢水の句碑は西町の墓地のものではありません。
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