ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

工楽松右衛門物語(38):松前藩

2013-08-31 06:01:05 | 工楽松右衛門

  松 前

(嘉兵衛の船は松前を目指している)

松前藩が、北海道という広大な地を支配しながら、山ばかりの松前半島の南端の福山(松前のこと)の地を根拠地としているのは、蝦夷に対する自信のなさのあらわれといっていい。

(なぜ、松前様はこんなところにいるのか)

と、暗くなりつつある沖から福山城下の背後の山々を見ながら、嘉兵衛はおもった。

すでに、嘉兵衛は、「箱()館(以後、箱館とする)」 という土地があることをきいていた。

道南のほぼ中央に位置し、大湾にかこまれ、港としてもわるくない。

それに、箱館の背後には亀田平野という広大な平野があり、もしそこで城下町を営めば野菜の供給にも事欠かない。

    松前藩は、アイヌからの襲撃をおそれていた

7b812d34しかし、野が広大なだけに、もし蝦夷が押しよせた場合、防禦がしにくかろうという規準になると、まったく問題がべつになる。

福山の地ならば、往来の山路はわずかしかなく、小人数でそれらをおさえておくだけで、安全が得られるのである。

それにかなわぬときは津軽半島へ逃げてゆくのに、もっとも便利であった。

福山は山がせまり、城下町の形成には窮屈な上に、わずかな平野があるだけで、まことに不自由ったらしい。

それでもなおここに藩が固執しているのは、蝦夷地統治の自信のなさの象徴といってよかった。

「福山」とは、この藩が、その城下をかりに名づけているだけの地名で、本来の地名ではない。

対岸の津軽衆も嘉兵衛たち船乗りも、「松前」と、この町をその地域名でよんでいる。以下、町の名も、松前城下とよぶ。(以上、『菜の花の沖』より抜粋)

・・・・

松前藩は、アイヌに苛烈な支配を続けている。当然「反抗があるかもしれない」と考える。

守備は十分でない。

そのため、松前藩は守りやすいという一点だけで、松前を城下にしているのである。

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工楽松右衛門物語(37):松前藩は悪の組織

2013-08-30 07:39:24 | 工楽松右衛門

Photo嘉兵衛も松右衛門も、やがて活躍の場所を蝦夷地に求める。蝦夷地・松前藩について見ておきたい。

江戸時代初期の寛文年間、アイヌの英雄的な酋長シヤクシャインにひきいられた大反乱があった。

松前藩はこれに対し、寛文九年(1669)に征討し、シヤクシャインを降伏させ、毒殺した。

以後、松前藩は実質上、北海道全土を版図にした。

     

    場 所

「場所」というのは、そこで漁業や商業を営んでよいという縄張である。

 藩は全土を八十余か所の「場所」に切り割って、これを藩士にあたえた。

このあたり、さかり場ごとに「場所(ショバ)」をもつやくざに似ている。

「場所」は、同時に武士にとって重荷でもあった。

みずから親方になって場所へゆき、アイヌから水産物を買ったり、本土の米、塩、酒、麹、鉄器、漆器などを売ったり、あるいは、時にアイヌを雇って直接、網を打つという仕事はだれにでもやれるというものではなかった。

これを近江商人が請け負った。

    

      松前藩は悪の組織

「松前」という藩は、歴史の上でどれほどの名誉を背負っているのだろうか。

広大な採集の宝庫の一角を占めた悪組織というほかなかった。

松前藩は、みずからの藩や藩人個々の利益になること以外に、どういう思想ももって

いなかったように思える。

「場所請負制」という利益吸いあげの装置の上に、藩も藩人も寝そべっていた。

松前藩史の上で、たとえばアイヌの医療に従事したという藩医のあるのもきかない。

アイヌに読み書きやそろばんを教えたという例もない。

むしろ逆であった。

アイヌをそのままの状態にとどめておくことが藩の利益であると考えられていたし、また、アイヌが死のうが生きようが、藩人たちにとってなんのかかわりもなかった。

すでに時代は測量技術を持っているのに、松前藩は、蝦夷地の精密な地図をつくろうとはしないし、また地理踏査も民俗調査もしようとはしなかった。(以上『菜の花の沖』より抜粋)

*写真:シャクシャイン像

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工楽松右衛門物語(36):蝦夷地は「外」の社会

2013-08-29 07:52:24 | 工楽松右衛門

嘉兵衛は、辰悦丸で蝦夷地に航海した。

司馬遼太郎氏は、蝦夷地について次のように書く。概要を紹介したい。

    

      地 球

Banntou「地球」という日本語も、嘉兵衛のこのにはすでにできていた。

たとえば、嘉兵衛の親しい松右衛門帆の松右衛門旦那は播州高秒のひとだが、「わしの在所にちかい土地から出たひとで、大坂の商家に奉公し、やがて番頭になり、幼主を擁し、衰えていた主家をもりたてて店を大名貸しができるまでにした仁がいる。

このひとは、地球をしらべている」といったりした。

その松右衛門の友達は、商いのかたわら儒学、天文学を学び、卓抜した経済論を確立した。

哲学的には無神論を主張し、大地については、地動説を主張していた。

姓を山片(やまがた)といいい、生涯を番頭であまんじたから、蟠桃(ばんとう)と号した。 

その著『夢の代(しろ)』は、嘉兵衛の壮年期に刊行されるのだが、そこには、「地球ハ、テマリノゴトクニシテ、其周リ(そのめぐり)ミナ山海・国土アリテ、・・・・」とあり、地球ということばが使われている。(以上『菜の花の沖』より)

なお、山片蟠桃については「工楽松右衛門物語(17)」をご覧ねがいたい。

    

      蝦夷地は「外」の社会・・・

嘉兵衛は、マリノヨウナ地球を北へ航海している。

日本の歴史である。「日本人」は、古代より営々として稲を育て続けた。そして、「日本」は、瑞穂(稲)の国となった。そして、金太郎飴のような社会ができあがった。

ただ蝦夷地ばかりは、稲作社会でない。その意味で、日本国の「外」にあった。

そして、そこに住む人間を「夷」、土地を蝦夷地とした。

気分的にも、松前・蝦夷地は、とてつもなく遠かった。

この地方が、「北海道」という名称にかわるのは、明治二年(1869)、新政府によってである。

立案者は、江戸末期における最大の探検家・松浦武四郎(181888)であった。

松浦武四郎は、高砂市を訪れている。曽根神社の境内に説明がある。

とにかく、江戸時代の人の感覚でも蝦夷地は、遠い地球上の土地であった。

*写真:山片蟠桃像(米田町神爪の公園)

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工楽松右衛門物語(35):辰悦丸完成

2013-08-28 12:29:06 | 工楽松右衛門

「松右衛門物語」とは言いながら、今紹介しているのは、高田屋兵衛が主人公になっている。ご辛抱下さい。嘉兵衛門は、松右衛門から多大の影響を受けている。

   新造船を決める

Pp194 薬師丸で秋田まで航海をしたが、薬師丸では蝦夷地への航海は無理であることがわかった。

嘉兵衛と与茂平の出会いは、土崎(つちざき・秋田)で、ふしぎな展開をした。

与茂平と話すほどに嘉兵衛は、この人物が信用のできる人物であることが分かった。そして好きになった。彼の工房を見学すると技術の確かなこともわかった。

土崎の前の海は、北前(日本海)である。北前の海と船については知り尽くしている。

それに、この地方は大阪と比べ手間賃が安いため、より安価にできる。

嘉兵衛は、自分の船の建造を与茂平に建造を頼むことにした。

与茂平は喜んでくれた。

その時、もち金も十分ではなかった。

とりあえず、手持ちの金を与茂平ら渡した。

   すべては「信」

兵庫湊に帰ってきた。

冬場、日本海は荒れる。そのため、北前船の入津も少なくなる。

湊は、ふだんより静かになる。

が、嘉平は忙しかった。瀬戸内海で稼なければならなかった。すべては、新造船のためである。

金さくも、しなければならなかった。

この時、嘉兵衛が世話になっている廻船問屋和泉屋を実質的に引き継ぐことになった。

そして、故郷の淡路へも帰った。

とにかく、いそがしい毎日であった。

金さくの、めどもたった。すべて嘉兵衛の「信・(信用)」から出ていた。

   新船・辰悦丸で蝦夷地へ

和泉屋の船であった春日丸・寛政丸、そして薬師丸は荷物をいっぱい積んで土崎を目指して兵庫を出た。

土崎では、新造の船がほとんど完成していた。みごとな船であった。嘉兵衛は「辰悦丸」と命名した。何度もそれを撫ぜた。横で、与茂平も目頭を押さえていた。

喜兵衛は、船首に立った。

次弟の嘉蔵は、羽織を脱いで、はしゃいだ。

春も早い、梅の咲く頃になった。

辰悦丸は、白い松右衛帆に風をいっぱいは孕んで土崎から松前に向かった。

以上は『菜の花の沖』を食いつまんで、紹介した。

   余話として・新造(しんぞう)

司馬遼太郎は、新造船について余話書いているので紹介しておきたい。

この言葉か陸(おか)にあがって、若妻のことを敬称して「新造さん」と呼ぶようになった。

香りが高いという印象からそう呼ばれたのであろう・・・
*写真:辰悦丸模型(洲本市五色町都志・高田屋嘉兵衛翁蔵)

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工楽松右衛門物語(34):土崎(秋田)にて

2013-08-28 06:22:22 | 工楽松右衛門

   秋田へ行ってくれ

ある日、嘉兵衛は、北風荘右衛門に呼ばれた。

「秋田まで行ってくれるか。木材を運んでほしい」

これは賃仕事だと思ったが義理のある荘右衛門から出た以上、断ることはできなかった。

「往(ゆ)きは、お前に、もうけさせてやる。庄内や秋田では木綿や繰綿(繰り綿)が高くなってこまっているそうだ」

情報に関しては、荘右衛門にはかなわない。

途中、無理をしてシケに巻き込まれたが目指す庄内・土崎(つちざき・秋田県)に着いた。

 薬師丸は、日本海の荒波によく耐えた。

     船大工・与茂平

Photo 土崎滞在中に嘉兵衛は、土地の船大工の棟梁で与茂平という人物を知った。

「あの船は、大坂の伝法(でんぽう)の船でございますか」と、その人物は、嘉兵衛が浜にいるときにやってきて、沖の薬師丸を指さした。

「おそれ入ります。申し遅れましたが、手前は与茂平と申しまして、この土崎で船大工の真似事を致しております」男が、いった。

まだ三十そこそこだが、すでに棟梁だという。

いわゆる、苦味走った顔で、ひげの剃りあとが青く、足腰がいかにもたくましそうであった。

伝法というのは、地名である。摂津(大坂)西成郡を流れる中津川(長柄川)が海に入るあたりにあり、その砂浜は天下第一等の船大工の大集落で、たがいに技術を競いあうために、ここで造られる大船は日本でもっとも出来がいいとされていた。

与茂平が見たとおり、薬師丸は伝法でつくられた。

     松右衛門と似ている?

嘉兵衛は、ひとがすきであった。船大工の棟梁の与茂平を見たとき、「こういう感じの人を見るのは、はじめてではないか」と思い、かれが知っている、いろんなひとびとの顔を思いうかべては、誰に似ているかとおもったりした。

(松右衝門旦那・・・)

 技術熱心というところでは与茂平は似ている。

「世に将軍、大名などと威張ったひとびとがいるが、松右衛門旦那ほどえらい人は日本国にはいないのではないか」とさえ嘉兵衛はおもうときがある。

ただ松右衛門は、独創の人にありがちなことながら硬質の精神が皮膚にまで、はみ出すぎている。

個性がつよすぎ、ひとがかれに親しんだり、なついたりするという徳には欠けるかもしれない。

与茂平を最初見たとき、「松右衛門旦那を若くしたような感じだ」とおもったが、触れるにつれて、別の人格だと思うようになった。      ,

松右衝門は、播州人に多い性格として、世間の権威に対して不敵なところがあり、そのくせ内々は権威に頭を撫でられると犬ころのように可愛らしくなるところがある。

たとえば、北風荘右衛門から恩を受けているとはいえ、ときに過度に身を屈する面があって、嘉兵衛に意外な思いをさせた。

もっとも、そのことについては、「身分というものがある以上、仕方がない」と、嘉兵衛は、それでもって松右衛門への尊敬を上下することはないものの、しかし、多少の淋しさはある。

    思わぬ展開が!・・・

薬師丸で秋田まで航海をしたが、薬師丸で蝦夷地への航海は無理であることがわかった。

嘉兵衛と与茂平の出会いは、ふしぎな方向へと展開をする。

*絵:北前船でにぎわった土崎湊(江戸時代)

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工楽松右衛門物語(33):おまえは商人か、船乗りか

2013-08-27 08:22:28 | 工楽松右衛門

  気にするな・・・

91b342db 「きょう、お前の薬師丸を浜から見たぞ」

自分が、船を得たように喜んで、あすにでも船の中を見せてくれといった。

嘉兵衛は、跳ねあがりたいくらいにうれしかった。

松右衛門旦那のように船の名医ともいうべき人に薬師丸を診(み)てもらえれぱ、どれほど益になるかわからない。

「北風の旦那もおよろこびだったろう」

「はい」と、浮かぬ顔でうなずいた。

「なんだ、お叱言(こごと)があったのか」

「お叱言ばかりでございました」

「気にするな」

松右衛門旦那はいったが、かれの顔からも微笑が消えている。やがて、「北風様は兵庫の神様だ。そう思え。

神様というのは、どの神様でもご機嫌がとりにくいものだ」と、いった。

  おまえは船乗りか、それと商人か

さらに、松右衝門旦那が、「嘉兵衛、お前は船乗りか、それとも商人か」と、あらたまった表情で質問してきた。

嘉兵衛は、船乗りでございます。

かれは、とっさに言おうと思ったが、すぐ言葉をのみこんだ。

「そうでもあるまい」と、いう気持があったのである。

嘉兵衛は、自分を規定するのに、商人とはせず、船乗りであるとしている。

すくなくとも、船と風と海というもののおもしろさに、少年のころからとりつかれてきた。

松右衛門旦那に対してもそうであった。松右衛門旦那が廻船問屋の主人であるがゆえに敬しているわけではなく、松右衛門帆の発明者であり、船について無眼の創造力をもつ人として尊敬しきっている。

しかし、船好きが船を持とうとする場合、商業的才覚を働かさざるをえないのである。

「わしも船きちがいだ」と、松右衛門旦那はいった。

「北風の旦那は、船きちがいのこの松右衛門を若いころから可愛がってくださった。

わしは齢をとってから、北風の旦那のお力をも借りて廻船問屋になったが、北風の旦那と話をしているときは、いまでも船きちがいの自分しか出さない。

廻船問屋としての松右衛門を出すと、ぴしゃりとやられてしまうだろう」

北風の旦那が、わしやお前に期待しているのは、あくまでもよい船乗りとしてだ。

那珂湊から小ざかしく荷を運んでくるような商人としてではない」と、松右衛門旦那はいった。(以上『菜の花の沖』より

 北風家との呼吸が、その後の嘉兵衛・松右衛門の人生に大きな影響を与えたのかもしれない。

*絵:工楽松右衛門像(工楽禎章氏蔵)

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工楽松右衛門物語(32):薬師丸で蝦夷地へ!

2013-08-26 13:58:39 | 工楽松右衛門

   薬師丸で蝦夷地へ!

嘉兵衛の希望は、「他人がきけば気が狂ったか」と思うかもしれないが、薬師丸で日本海へ乗りだし、蝦夷地までゆきたいということであった。

「自前の船で自前の荷主になれば、北前船の場合、一航海ほどであたらしい船を建造できるほどの資金が得られる」と、嘉兵衛はおもったのである。

時間をかけて、嘉兵衛は薬師丸の点検をしてまわったが、船はしっかりしている。

多少は浸水が出るかもしれないが、必要なものを補修すれば十分海にうかぶことができる。

「ひょっとすると、船に、だまされているのかもしれない」とおもった。

嘉兵衛は、なぜこの程度の破船で薬師丸の水主たちが船をすてたのかよくわからなかった。まともな理由からではなさそうである。とするなら、「縁起が悪い」ということから船乗りが嫌ったのではないかと想像した。海で働く者は、しばしば縁起の虜になった。

浜屋清右衛門

Tizu嘉兵衛が船底からはいのぼって艫(とも‐船尾)に出てくると、羽織を着た小柄な人が立っていた。

「私が、浜屋清右衛門でございます」と、その人は、わかわかしい笑顔で自分から名のった。那珂湊きっての廻船問屋の若当主が、一介の沖船頭に対して、まことに鄭重な態度なのである。

嘉兵衛は「薬師丸」で蝦夷地への航海のことを話した。そして、「蝦夷地へ二十回も往復できる程堅固(けんご)に修理してほしい」といった。

清右衛門は、嘉兵衛に親切であった。

嘉兵衛たちは薬師丸の修理がおわるまで、那珂湊で借家を借り、それぞれがこの湊で働いた。

がだんだんと、那珂湊のことが分ってきた。松前(蝦夷地)から来る産物が思ったより多いのである。

蝦夷地や松前の物産をあつかうのは大阪・兵庫から下関経由で日本海をゆく北前船の一人舞台ではない。

    北風荘右衛門、不満

春の中頃、薬師丸の修理が終わった。

清右衛門の好意で驚くほど安価に堅固な修理ができた。

那珂湊で、干鰯やシメ粕(大豆や魚の絞り粕)を、いっぱい積んで兵庫湊に帰ってきた。

まずは、北風荘右衛門にあいさつをいそいだ。

そして、嘉兵衛門のお礼の気持ちとして、自分の荷のすべてを荘右衛門に譲ろうと、申し出た。

荘右衛門は、嘉兵衛の申し出を断った。

不満な顔をみせた・・・

嘉兵衛は、思い足で北風家を辞した。その足で松右衛門旦那の所へあいさつにいった。

以下、松右衛門と嘉兵衛の話であるが、その前に余話である。

 浜屋清右衛門のことである。彼は、青空のようなすがすがしい人であった。

彼は、大内清右衛門という名で、徳川斉昭の密命で蝦夷地から千島・樺太を調査し、海を渡って沿海州も調査した。

その後の経過は、はっきりしないが「蛮社の獄」に連座し、命を落とした。

清右衛門は、数奇な運命をたどった。

*地図:那珂港  

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工楽松右衛門物語(31):薬師丸

2013-08-26 05:55:41 | 工楽松右衛門

  筏で江戸へ入津

「筏の航海は、「もともと北風様の見栄から出たことだ」

北風荘右衛門が、兵庫の氷主がどんなものであるかを江戸の者に知らせてやりたい、そのためにのみ筏を出す、といったことを嘉兵衛は踏まえている。

「わし(嘉兵衛)も見栄でこれをやった。見栄でやった以上は、それらしく派手にやりたい」

・・・・筏が品川に到着の日は、みながまちかまえて港はざわめいた。

・・・・

品川到着の日に、北風荘右衛門への手紙を飛脚問屋に託した。

町飛脚は京・江戸をわずかに六日で走りとおした。

江戸滞在が十五・六日になったころ、兵庫から嘉兵衛のところへ飛脚の手紙が届いた。

      薬師丸

Thca85tyyo「西宮和泉屋伊兵衛持船の薬師丸という船を存じておろう」という意味のことが、その書出しにある。

それが破船し、いま常州(現・茨城県)の那珂港(なかみなと)に繋がれている。

和泉屋伊兵衛は破船など捨ててしまうといったのを、お前のためにわずか十両という捨値で買いとっておいた。

もし、お前にその気があるなら那珂湊まで行ってその船を検分せよ、土地において修繕できるものならそのようにして兵庫まで乗って帰るがよい・・・・というものであった。

薬師丸は、和泉屋の船で働いていた嘉兵衛にはなじみの船で、乗ったことはないが、その姿をあざやかに思いえがくことができる。

「薬師丸は運のわるい船だった」と、嘉兵衛はいった。

平素無口な次弟の嘉蔵が、「兄やん、まあこんな話は、めずらしいことやろな」

・・・嘉兵衛らは薬師丸の検分に出かけた。

(意外なことだ)

 遠隔の地で破船して水主たちも去り、船主の和泉屋伊兵衛も捨てる決心をしたような船なら、湊のすみに古桶のようになって、なかば沈んでいるか、脇の浜の波打際に放置されているとおもっていたのに、わざわざ乾いた砂の上までひあげられているだけでなく、丁寧に苫ぶきの小屋までつくられているのである。

(船を舟でこの浜までひいてきて、さらにはコロを敷いて陸までひきあげるについては、延べ五十人ぐらいの手間がかかっているだろう)

嘉兵衛は、すくなからざる出費だったろうと思った。

すでにこの船を捨てた和泉屋伊兵衛門が、ここまでのことをするはずがない。

(以上『菜の花の沖』より、文章は、少し変えている)

少しの修繕で船は使える・・・

 北風荘右衛門の好意であることは明らかである。荘右衛門がニヤリと微笑んだように思えた。

立派な船とはいえないが、思いがけないことで嘉兵衛は船持の船頭になることができた。

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工楽松右衛門物語(30):筏で江戸へ

2013-08-25 08:01:32 | 工楽松右衛門

  高田屋嘉兵衛⑥

紀州のヒノキを江戸へ運んでくれないか

1shinagawa1「男なら北前船を動かすべきだ」と松右衛門が嘉兵衛をけしかけた。

「しかし、それには二千両という大金が要る。

・・・二千両。

そのうち、嘉兵衛は松右衛門によばれた。

「北風の旦那に紀州様からお話があって、紀州熊野の新宮にうかんでいる五百年物のヒノキ十二本を江戸に運んでくれないかということじゃ」と、松右衝門旦那は一気にしゃべった。

かつて材木を筏に組んで帆や櫓を向け、船室もつくり屋根を苫で拭いて船舶そっくりにして、姫路藩の丸太を江戸へ運んだのは松右衛門である。

以後、松右衛門は航海の名人のという評判はたかくなった。

ひいては兵庫の船乗りの名声もあがった。

こんどは、紀州藩から北風家に依頼があったのも、松右衛門のかつての快挙を聞いてのことらしい。

が、ちかごろの松右衛門は廻船問屋の主人として多忙で、とても筏の航海をやっているひまがなく、その点は、北風家もよく知っている。

「たれか、よい者がいないか」と、北風家の番頭が、松右衛門に、人選を依頼したから、かれは、一も二もなく嘉兵衛を推薦したのである。

「いつでございますか」

(注)松右衛門は、42才(天明五年・1785)、姫路藩の依頼で秋田から巨木を筏に組み大坂へ運搬し、その後、高砂から江戸まで丸太を運んだが、その時「姫路五本丸」と書いた旗をたて航海した。

    筏で江戸へ

嘉兵衛は、筏(いかだ)という冒険的な航海をすることに血が沸いてしまったことと、兵庫の数ある沖船頭(雇われ船頭)のなかで、自分が選ばれたということで、胴がふるえてきた。

「紀州様は、お急ぎらしい。春になれば一番ということになるだろう・・・」

・・・・

(この時、嘉兵衛は筏で江戸品川沖を航行する風景を思っていた)

北前船を持とうにも金がなく、さらには金を作るわずかな資本(もとで)もない身では、命をもとでにするしかない。

嘉兵衛は好んで冒険を楽しむような性格を持たなかったが、ともかくこの場合、ありあわせの命を使うしかないと考えていた。(以上『菜の花の沖』より)

*絵:歌川広重「東海道五十三次・品川の宿」

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工楽松右衛門物語(29):船を持て

2013-08-24 07:00:52 | 工楽松右衛門

 高田屋嘉兵衛⑤  船を持て

前号の続きである。

・・・・

172f52e8 多度津で、嘉兵衛が松右衛門旦那からきいた話で胆に銘じたのは、「持船船頭になれ」ということであった。

「沖船頭(雇われ船頭)など、いくらやっても面白味にかぎりがある」という。

「嘉兵衛、いくつだ」

「二十四でございます」

「うらやましいのう」

わしなどは四十から船持の身になったが、もっと若ければ船のことが身についたにちがいない、沖船頭をいくらやったところで、持船とは身につき方がちがう、ともいうのである。

が、資金が要る。

千石船一艘の建造費には千五百両という大金が必要であった。

二千両といえば、それだけの現金を持っているだけで富商といわれるほどの額である。

松右衛門の場合は、「松右衛門帆」という大発明をして、それを製造し大いに売ったればこそ、沖船頭から足をぬいて持船の身になることができた。

「わし(嘉兵衛)には、資金がありません」といったが、松右衛門旦那は無視し、大声をあげ、持船の身になればぜひ松前地へゆけ、といった。

「陸(おか)を見い。株、株、株がひしめいて、あとからきた者の割りこむすきまもないわい」ともいった。

株をもつ商人以外、その商行為はできない。

大坂に対して後発の地である兵庫でも、株制度は精密に出来てしまっている。

 ・・・・

株という認可制特権をもたない者は、いっさい取引に参加できない。

もともと商人がこの制度を考え、幕府に認めさせたわけであったが、封建制の原理のなかにこの種の思想がふくまれていることはいうまでもない。

   蝦夷地へ

ただ松前・蝦夷地の産物については、まだ株仲間が構成されていないものが多く、その意味で北海まで足をのばす北前船には、新入りの廻船業者にとって大きな自由がひらかれていた。

「男であれば、北前船をうごかすべきじゃ」と、松右衝門旦那はくりかえしいう。

・・・・(以上『菜の花の沖』より)

その夜、嘉兵衛には、松右衛門の「蝦夷地に行け」とい言葉が、一点のしみのように残った。・・・

 *絵:日本海を行く北前船

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工楽松右衛門物語(28):金毘羅大権現

2013-08-23 14:05:11 | 工楽松右衛門

    高田屋嘉兵衛④

司馬遼太郎の小説が好きである。

読めば「かしこく」なる。かれは、世間に広まっている「司馬史観」といわれる言葉を嫌がったそうであるが、小説には司馬史観が散らばっている。それらを拾い集めることも醍醐味である。

今回は、金毘羅大権現について松右衛門に語らせている。

金毘羅大権現

300pxzozusan_01 (その夜、嘉兵衛は松右衛門に酔った。金毘羅大権現の話にもなった)

・・・・松右衛門且那は、「多度津にきて、なぜ金昆羅さんが舟人から大もてであるかがわかったろう」と、いわば罰があたりそうなことをいったのである。

金毘羅さんは、本来、山なのである。

象頭山といわれる秀麗なすがたの山で、海上を走っている航海者の側からいえば類なくすばらしい目印になる。

その山を見て、自分の船の位置を教えてもらい、また他海域から帰ってくると、ふたたびその山を見て、こんどの航海もぶじだったことをよろこびあう。

自然、山を崇敬するようになる。

多度津の前の海に、船乗りの輩出地としては質量ともに日本一の塩飽諸島(しあくしょとう)が浮かんでいる。

「大むかしから塩飽衆が朝な夕なあの山をおがんでいたのを日本中にひろめたのよ」

 塩飽衆の船には金毘羅犬権現がまつられている。

「彼らが日本国の潮路という潮路に活躍しているために、いつのまにか他国の船も金毘羅大権現を崇敬することになったのよ」と松右衝門旦那はいう。

    

   廻船とは・・・

「商いの尊さは、そういうことじゃ」と、金昆羅大権現と商いを一つレベルに置いていったが、このことは松右衛門の思想の一特徴かもしれなかった。

もし、塩飽衆という大きな交通行動力をもったひとびとがいなければ、金毘羅大権現がいかに霊験があるといっても、あの山中で祠も朽ちはてているところだ、よきものを安く配って世に幸せをあたえるのが廻船という商いじゃ、わかったか、と松右衛門旦那はいう。

「嘉兵衛、もっと飲め」

と、ときおり松右衛門旦那が注いでくれたが嘉兵衛は酒よりも松右衛門旦那に酔っていた。(以上『菜の花の沖(司馬遼太郎)』より)

*写真:象頭山(ウィキペディアより)

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工楽松右衛門物語(27):多度津(讃岐)にて

2013-08-23 07:45:51 | 工楽松右衛門

    高田屋嘉兵衛③ 

前回の続きである。

くどくなるが、この高田屋嘉兵衛と松右衛門の出会いの場面は、司馬遼太郎のつくりあげた話であり物語としてお読み願いたいが、二人の出会いの風景としては不自然ではない。史実としては、松右衛門は、しばしば多度津を訪れている。

    多度津(讃岐)にて

Kitamaefune嘉兵衛が「船たで場」からみていると、その男はこちらへ近づいてくる。

御影屋の「簾がこい」に入ったかち、松右衛門旦那であることはまぎれもない。

簾がこいからもれてくる声は、船大工たちを集めて指示しているらしい。

嘉兵衝は、やがて松右衛門旦那のやっていることがわかった。

松右衛門旦那は、ロクロの改良を思いついてやってきたらしい。

松右衛門旦那は、「簾がこい」から出てきて、それが目的であるように、嘉兵衛に近づいてきた。

嘉兵衝は、あわてて船の上から降りてくると、松右衛門旦那のさびた声が耳にとどいた。

「嘉兵衛さんかや。お前は、おもしろい男じゃというなあ」

松右衛門旦那の声は、「からーん」と空に吹きぬけてゆくような響きがあった。

「お前は、船がおもしろいか」

松右衛門旦那は船上にのぼって、船体をなでながら、嘉兵衛にきいた。

嘉兵衛はすこしあがっていた。

人間としての品格が、いままでみたどの人物とまるでちがっていた。

「おもしろうございます」

「なんぞききたいことがないか」

 船についてである。嘉兵衛は、すこし怯えさえ感じた。

「山ほどあるように思いますが、いまは体のなかが空っぽでございます」

「ぽんくら」

松右衛門旦那は、笑って嘉兵衛の背をどやしつけた。

やがて風むきが変わって「船たで」の煙がただよいはじめたので、松右衛門旦那は降りた。

「今夜、わしの宿に来んか」と、松右衛門旦那はいい、船たで場のそばにある大きな網元の家をさし示してから、自分の簾がこい入った。(以上『菜の花の沖』参照)

・・・・

嘉兵衛は、その日、松右衛門に御馳走になった。

北前船、蝦夷地の話もあったであろう。

「松右衛門さんが、目にかけてくれている」と思うと、震えるような嬉しさがあった。

*写真:北前船(神戸海洋博物館HP より)

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工楽松右衛門物語(26):嘉兵衛と松右衛門の出会い

2013-08-22 08:17:22 | 工楽松右衛門

    

   高田屋嘉兵衛②  

以下の物語の高田屋嘉兵衛と松右衛門の出会いは、司馬遼太郎氏がつくりあげたのだろうが、嘉兵衛と松右衛門の風景としては、いかにもありそうな話である。

 松右衛門と嘉兵衛の出会いの話として、史実はともかくとして自然な気分にさせてくれる。

     

    嘉兵衛と松右衛門のであい

Photo嘉兵衛の住む兵庫湊の西出町の長屋は、冬になると賑やかになった。

冬は海が荒れる。よほどのことが無いと船は動かない。

北前船や樽廻船が、この時期うごかないため、船乗りたちは春からの仕事に備えて岡での生活を楽しむ。

もっとも嘉兵衛は、暇ではなかった。

堺屋の持船のうち、二艘の船底を「たで」ねばならない。

「たでる」とは船底を燻して、木材を食う虫を追いだすことだが、老朽あるいは損傷のか所を修理するということも含まれている。

兵庫の湊の欠陥として、この浦が出船・入船で繁昌するあまり「船たで場」が少なかった。

後に、兵庫湊にも本格的な船たで場は造られるが、嘉兵衛のころにはまだそれがなかった。

この年、兵庫のせまい「船たで場」が予約でいっぱいであったため、海向こうの讃岐(香川県)の多度津まで「船たで」に行くことになった。

これは、特殊な例ではなく、兵庫に籍をもつ船で多度津まで「船たで」にゆく場合が多かった。

船舶の世界において、多度津は田舎ではない。

船大工などもむしろ兵庫より人数が多く、腕のきこえた者も少なくなかった。

    

    松右衛門の船だ!

多度津で、「船たで」の作業を監督していると、隣の「船たで場」に、兵庫の廻船問屋船が三艘「船たで」をしていた

松右衛門の船である

・・・・(以上、小説『菜の花の沖』参照)

司馬遼太郎は、この話を寛政四年(1792)と想定している。

嘉兵衛は、明和六年(1769)生まれあるから、この時、嘉兵衛23才である。松右衛門は、嘉兵衛より16才上であるので、松右衛門39才である。

*写真:船たで場(神戸海洋博物館HPより)

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工楽松右衛門(25):高田屋嘉兵衛①・兵庫湊へ

2013-08-21 08:19:44 | 工楽松右衛門

いま、ブログでは「工楽松右衛門」について書いているが、ここにもう一人登場してほしい人物がいる。

『菜の花の沖』の主人公・高田屋嘉兵衛である。

工楽松衛門は地元、それも高砂市では知られていたが、あまり広く知られた人物ではなかった。歴史的に重要な人物ではない、という意味ではない。

彼を全国的に有名にしたのは、小説『菜の花の沖』である。

特に、『菜の花の沖(全六巻)』(文芸春秋・文庫)の第二巻に、ずばり「松右衛門」の項がある。

嘉兵衛の頭には絶えず、松右衛門の励ましの声が聞こえていたようである。

少し、より道をして、「高田屋嘉兵衛」について書いておきたい。

    高田屋嘉兵衛① 淡路島を抜ける

E6051261彼は、明和六年(1769)正月、淡路島の西海岸(西浦)都志(つし)本村(五色町)という寒村で生まれ、追われるように兵庫へ押しだされた。

寛政二年(1790)先に、兵庫湊の堺屋で働いていた弟の嘉蔵(かぞう)のところへ乞食のような姿で転がり込んだ。

嘉兵衛が兵庫に出てきた頃は、まさに商品経済が隆盛を誇った時代で、米や塩、干した海産物、酒、鉄、繊維を主として、多様な商品が日本を取り巻くように取引されていた。

     新酒番船で一番に

 兵庫湊には樽廻船・菱垣廻船・北前船でにぎわい、嘉兵衛には驚き連続であった。貪欲に仕事を覚えた。

寛政三年(1791)、嘉兵衛の乗りこんだ堺屋の樽廻船が、その年の「新酒番船」に出場して、みごと一番の栄誉をうけることとなった。

樽廻船としては、その年の最高の栄誉を獲得したのである。

早春の太平洋は、まだ波が荒い。「新酒番船」とは、その年の新酒を樽廻船に積み江戸到着の順位を競い、一番はたいそう名誉なこととされていた。

嘉兵衛は、その船の事務長のような役割を果たした。

嘉兵衛の働く堺屋も北風家の傘下にあった。北風家は、嘉兵衛の将来を見込んで、兵庫湊・北風家の名をあげるため、いろいろとしかけたようである。

 *絵:『菜の花の沖・四(司馬遼太郎)』(文春文庫)のカバーより

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工楽松右衛門物語(24):松右衛門の発明・アラマキ鮭

2013-08-20 07:10:40 | 工楽松右衛門

 「工楽松右衛門物語(19)」で松右衛門の発明を紹介したが、彼の発明は、松右衛門帆や機械工具ばかりでなかった。以下の発明品もこんにちの食生活を豊かにした。

蝦夷との商い

松右衛門のように持船がすくなく、あたらしい商人には、既成の航路に割りことはむずかしい。松前(蝦夷地)へ行く商いの方がやりやすかった。

松前の商品で最大のものは肥料用のニシン(干鰯・ほしか)で、この肥料が上方や播州などの植物としての木棉の生産を大いにあげている。

Photo_2 しかし、この商品は、株仲間が組織されていて、松右衛門のような新参が割りこめないし、割りこめても妙味が少なかった。

そのため、北風荘右衛門は松右衡門に独立をすすめ、あつかう商品として、昆布と鮭をすすめた。

松前から帰ってくる北前船の昆布を大量に上方に提供した。

昆布を料理のダシにつかい、上方料理の味を変えた。

昆布以前と昆布以後とでは、味覚の歴史は大いに変わった。

  松右衛門の発明・アラマキ鮭

さらに、松右衛門は、蝦夷地で一つの発明をしている。アラマキ鮭である。

松前(蝦夷地)から運ばれている鮭は塩鮭で、塩のかたまりを食っているようにからいものであったが、松右衛門は松前で食った鮭の味がわすれられず、この風味をそのまま上方に届けたかった。

かれは内蔵やエラをのぞき、十分水洗いをしてから薄塩を加え、わらでつつんだ。

無論このていどの塩では腐敗はふせげない。このアラマキ鮭だけのために早船を仕立てた。

このアラマキ鮭の出現は、世間から大いに喜ばれたが、儲けの多くは、この市を主宰する北風家に吸われていたかもしれない。

ハム、ソーセージ、鰹節などの食品の発明は、人々の生活に大きな影響をおよぼしたが、その発明者の名は知られていない。

アラマキ鮭の発明者は、松右衛門であったことが記録として残っている。

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