ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

北条直正物語(37) 北条直正さん、没後100周年

2020-08-05 07:41:48 |  北条直正物語

          北条正直さん没後100周年

 大正9年6月15日、北条正直は亡くなりました。西暦でいえば1920年です。

 85歳、波乱の人生でした。

 今年は、2020ですから、北条正直がなくなってから100周年になります。

 稲美町では、北条正直を顕彰して記念行事が組まれていましたが、コロナの影響で行事は今のところ予定が立っていません。

 

 明治時代からの稲美町は、全国的にも珍しい苦難を背追いながらの歴史でした。

 まさに汗と涙の歴史の連続でした。

 北条正直の活動は、稲美町の先人とともにありました。

 その後、稲美町は現在の姿に生まれ変わったのです。

 もちろん、稲美町の先人の努力のたまものでしたが、北条正直が果たした役割を忘れることはできません。

 北条正直があっての現在の稲美町といっても言い過ぎではないでしょう。

 しかし、いま稲美町の住民に「あなたは北条正直を知っていますか?・・・」と聞くと、若い人は「小学校の時に社会科で学んだようですが、はっきりと覚えていません」また、新しい住民の方は、ご存じないのがほとんどでしょう。

 少し寂しいです。

 今年は、北条正直没後100周年です。彼について学習しましょう。

 そういう私も、彼について知ったのは25年ほど前のことでした。概略は調べましたが、あまり詳しく知りません。

 でも、稲美町にとっては、あまりに大きな役割を果たした人物であったのは確かです。

 この小冊子は、ほとんど小野晴彦さんの『赤い土』からの引用です。

 ですから、印刷し皆さんに提供が許される代物ではありません。

 今回は、学習会用のテキストのつもりでまとめています。

 もう少し調べて、再度小冊子にまとめればいいと考えています。

 このように不十分なものですが、とりあえずお読みいただき北条正直さんを知る一助にしていただければ幸いです。

 お読みいただきありがとうございました。(完)  (no5049)

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北条正直物語(36) 北条直正の墓碑を訪ねる

2020-08-04 10:44:47 |  北条直正物語

     北条直正の墓碑を訪ねる

 北条直正のお墓を訪ねました。

 11月の終わりでした。

 前日まで、暖かい日が続いていたのですが、その日は朝からどんより雲が覆って、今にも降り出しそうでした。

 昼過ぎ、コンビニでおにぎりを買って、ほおばりながら出かけました。

 加古川北インターで山陽道に乗り、姫路西インターでおり、姫路と鳥取を結ぶ国道29号線を北へ10分ばかり車を走らせると、めざす墓地はすぐ見つかりました。

 場所は、龍野市神岡町野部です。

 広い墓地です。

 車から降りると、ついに小雨がふり出しました。

 でも、北条直正さんが、水で歓迎してくれているようです。

 これだけ大きな墓地だと、北条直正の墓碑を探しだすのは大変です。

 ・・・・・

 北条・・・北条・・・と探していると、「北条家」の墓碑が多い。このあたりは北条の姓が多いらしい。

 しまった!・・・北条直正の戒名を調べてこなかったのを一瞬後悔しました。

 「今日は無駄足」だったかなと思った時でした。

 比較的大きな木の下に、新しい石造の説明板を見つけました。

 近づいてみると、なんと北条正直さんの顕彰碑でした。

 顕彰碑には、小野晴彦さんの文で、次のように刻まれていました。

    高燥の台地 印南野を 緑薫る稲美野に

     途を開いた北条直正ここに眠る

 顕彰碑の横は彼の墓碑で、裏面には次の銘が刻まれていました。

 大正九年六月十五日 没

      北条直正 行年八十五才

      同 か弥 行年七十 才  

 大正十年五月三十日 没(no5048)

 *写真:北条直正の顕彰碑と墓標

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北条直正物語(35) 義に生きた人・北条直正

2020-08-03 08:02:45 |  北条直正物語

      義に生きた人・北条直正

 ここまで、主に小野晴彦さんの小説『赤い土』から多くを引用させていただき、母里村の生活をかけた農民の歴史をたどりました。

 その中で加古郡長の果たした役割を抜きにして現在の稲美町を語ることはできません。

 北条郡長あっての現在の稲美町でした。「北条直正物語」も次回で終わることにします。

 北条直正についてまとめとして紹介しておきましょう。

 

 北条直正は、播州揖保郡林田藩に代々仕えてきた藩士の家柄でした。

 明治12年1月8日、郡の役所(写真)が加古川の寺家町に置かれた時、北条直正は、10日、初代郡長として着任しました。

 疎水計画が具体化しようとしていた時でした。

 北条は、郡長の職にありながら、母里地区の農民に同情し農民が不利益を受けないようにいろいろ画策しました。

 そして、県令(県知事)をはじめ、租税課長ともしばしば対立し、ついに明治15年(1868)4月、郡長を突然解任されます。

 これに憤った石見厚一郎県議は、義侠心から県議を辞し、北条氏を補欠選挙に推薦し、北条直正は、県議に当選しました。

 その後、県議をやめて大阪に居を構えていましたが、請われて、岩本須三郎の後任として、明治27年4月から同39年3月まで3期12年間母里村第2代目村長としての職にありました。

 退職後8年をかけて『母里村難恢復史略』(もりそんなんかいふくしりゃく)を書き上げます。

 大正9年6月15日没 85才(妻、か弥、大正10年5月30日没 70才)

 彼の波乱の生涯の重要な部分は、ほとんど母里村にかかわりました。

     母里村二代目村長・北条正直

 北条直正にとって、母里村は、よほどの思い入れと、責任を感じていたようです。

 請われたとはいえ、普通郡長・県議の経験者が貧しい母里村の村長に就任するなど考えられません。

 地位や名誉でなかったことは、確かです。

 北条の頭にあったのは、果たせなかった「責任」の二文字であったのかもしれません。

 農地を手放した農民に対する「お詫び」であったのかもしません。(no5047)

 *挿絵:豊かになった現在の稲美町(『水を求めて』北播磨県民局より)

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北条直正物語(34) 逸治はん、国会議員にならへんか

2020-08-02 09:30:47 |  北条直正物語

    (魚住)逸治はん、国会議員にならへんか

 話を少し前にもどします。

 須三郎は、はかどらぬ疎水工事に政治力の不足を感じていました。

 (岩本)「(魚住)逸治はん、あんた国会議員に立候補せいへんか・・・」

 (魚住)「やぶからぼうに、何いうねん」

 (岩本)「逸治はんは、25歳で兵庫県の議員もされたし、郡部会副議長もしている。あんたの力をみんな認めている。あんた以外に誰もあらへん

     足らんのは政治の力や

 (岩本)「立派な疎水つくらなあかん。そのためには政治力が必要や。わし等に欠けているのは政治力なんや」「さいわい、こっちには疎水組合がある。それだけ有利や・・・」

 逸治は迷いましたが立候補を決断しました。

 逸治はみごと当選し、県では12名の衆議院議員の一人となりました。

 ・・・・

 逸治はん大変や、疎水が潰れた・・・

 疎水が、大雨でこわれたという一報が須三郎から入りました。

 逸治は、国、県にたよるしか方法しかないと考えました。

 まず県会で地方補助費を決議し、ついで国庫補助を仰ぐ方法です。

 知事は、この案を県会に提出しました。

 県会では、「85.000円で造ったものを完全なものとは言いながら180.000円もの金を得て修理するとは合点がいかぬ・・・」

 県会はじまって以来のさわぎとなりました。

 時間切れの寸前に、やっと2票差で可決されました。

 舞台は、国会にうつりました。

 衆議院では、逸治が開会前から政府関係者への陳情・議員への説得にまわり、何とか可決されました。

 国庫下渡金および地方補助金は65.015円で、組合負担金は324.714円でした。

 借金は組合負担として残りましたが、疎水の修理もでき、台地の農業は大きく変貌しました。

 以後、水の恵は大きく、村人は多くの畑や山林を水田に変えました。

     山田川疎水

 水はたちまちに不足するようになりました。

 そして、山田川からの疎水計画が再燃しました。

 明治41年山田川疎水工事の起工を知事に願い出、用地買収や起工準備にかかり、28万円の借り入れを決め内務・大蔵大臣へ申請しました。

 明治44年(1911)に着工し、大正4年(1915)に完成させました。

 人々は、うめきながら印南野の台地を水田へ変えたのです。

 印南の台地は、まさに稲の美しく育つ大地、稲美と大変貌をとげました。

     水は来たが・・・

 不当な地租の負担に耐えられず土地を失った百姓も多かったのです。

 水が来た時、彼らには耕す土地はなくなっていました。

 ・・・・(no5046)

 *挿絵:明治42年淡河川疎水完成(『水を求めて』・兵庫県北播磨県民局より)

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北条直正物語(33) 魚住逸治はん、疎水が潰れた・・・

2020-08-01 07:27:19 |  北条直正物語

        魚住逸治はん、疎水が潰れた・・・

 明治24年9月20日、淡河川からの水が本格的に印南野台地に流れくだりました。

 その喜びもつかの間でした。

 明治25年7月23日、降りだした雨は雨あしを強めました。

 雨粒は凄まじい音を立てながら台地をたたきつけました。

 村長の岩本は「疎水は、だいじょうぶか」「ケシ山のトンネルは・・」と不安になり見回りにでました。

 心配は的中でした。

 途中で野谷の(松尾)要蔵にあいました。

 「どないや・・・」

 「(岩本)須三郎はんか・・えらいこっちゃ・・水路もケシ山のトンネルも、ぐちゃぐちゃにつぶれとてしもうて・・・」

 須三郎は、その風景に呆然と立ちつくすばかりでした。まるで、白いヘビがのたうっているみたいでした。

 被害は、サイフォンを除く全線で全滅でした。

 ・・・・

 須三郎は、へこたれるわけにはいきません。

 「なんとかなるやろ・・・」

 須三郎は、東京へ国会議員(野寺出身)の(魚住)逸治に一報を入れました。(no5045)

 *写真・魚住逸治

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北条直正物語(32) 初代母里村村長・岩本須三郎

2020-07-31 07:17:21 |  北条直正物語

 明治22年4月1日、蛸草新村・草谷村・下草谷村・野谷新村・印南新村・野寺村の6ヵ村が合併して母里村が誕生しました。

 その時、江戸時代の新田をあらわす新村の名称はなくなり、それぞれ母里村蛸草・下草谷・野谷・印南となりました。

 初代母里村村長として蛸草の岩本須三郎が選ばれました。

     初代母里村村長・岩本須三郎

 蛸草新村の庄屋の家に生まれた須三郎は、父を早く亡くし12才で庄屋の家をついでいます。

 戸長になってからは、納税の問題・疎水事業にと、おいたてられ続けの毎日でした。

 あるとき、郡長が気の毒そうに、「岩本さんもえらいときに村長になってでしたな」となぐさめたほどです。

 (岩本)「ほんまですな・・・でも、苦労が大きいほど、喜びも大きますし・・・」

 静かに答える須三郎の声には重みがありました。

 まさに、須三郎の人生観でした。

 しかし、「村長の言うことよう分かるが、借金だけがぎょうさんできた。なんでこんな時に疎水つくるんや、もうちょうっと時期待てへんのかいな・・・わしら、土地売るしかしょうない」と不満をもらすものも多くいました。

 (岩本)「土地売ったらあかん、もうじき水が来る。疎水の仕事や鉄道の仕事で日銭かせいで、もうちょっとがんばらなあかん」

 こういうのが精一杯でした。

 明治22年は、雨が多い年になりました。そして、秋には台風にも見舞われ、できたばかりの水路の一部も崩れました。

 金が足りない。それだけではなかったのです。工事が始まると山陽鉄道の工事もはじまったため、人夫の賃金もあがりました。

 でも地方の地元資産家は、出資には冷淡でした。

 トンネルの工事の目途はついたのですが、工事費は、目途がつきません。

 21ヵ村の惣代は「淡河川疎水工事費拝借」を国に願い出でました。

 工費拝借願いは認められなかったが、借り入れ金の返済の延納は認められました。

     水がきた・・・・

 明治24年4月7日ケシ山トンネルは貫通し、4月11日、検査のために水門が開かれました。

 淡河川の水は、勢いよく疎水に流れ出ました。

 練部屋の配水所の周りは、水を迎える多くの人々の熱気があふれました。

 水は、ゆっくりと力強く5日をかけて練部屋に流れてきました。

 うれしさのあまり、水路に跳びこむ者も大勢いました。

 喜びは、練部屋からの支線水路やため池工事に大きな励みをあたえました。

 須三郎の蛸草では早くから水路・広谷池の工事を始めました。

 野寺の穴沢池の工事もさっそくはじまりました。

 こうして各村々で相次いで工事にかかり、明治40年には印南17、下草谷6、草谷5、野寺4、野谷3の新池が築かれました。

 野寺高薗寺の東がわにある「総池之碑」には、淡河川の疎水が通じて野寺村には4つの新池と5つ増築が行われたことを記録しています。新池分を紹介しておきます。

  (新築)

  穴沢池  明治 25 年 9月起工

  野畑池  〃  27年  4月 

  小出池  〃  27年10月

  中 池  〃  28年10月(no5044)

 *写真:岩本須三郎(『兵庫県淡河川・山田川疎水百年史』より)

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北条直正物語(31)  水は練部屋(ねりべや)へ

2020-07-30 10:17:45 |  北条直正物語

         水は練部屋(ねりべや)へ

 いくたの試練をのりこえて、ついに夢が実現する日が来ました。

 明治21年1月27日、淡河川疎水工事の起工式が播磨葡萄園で行われました。

 内海知事、田辺技師、県会議員、町村戸長、水利関係者らの顔がそろい、晴れた寒さ厳しい冬の日でしたが、ここばかりは華やいでいました。

 「(魚住)完治はん、よう頑張りましたな・・・」

 「皆さんのおかげです。百姓の思いは、みんなおんなじなんです・・・」

 だれかれとなく、完治に声をかけてきました。

 完治は、満ち足りたこの日の幸せをかみしめるのでした。

      ケシ山隋道は難工事

 たやすく思われた淡河川の平地の工事は、岩は崩れやすく難工事となりました。

 また、皮肉なことに工事は、しばしば雨にたたられました。

 御坂(みさか)では、水管(サイフォン)の工事が始まりました。

 人々の疑いと心配の中を工事は予定通り進み2年間で見事に完成しました。

 御坂を越えた疎水は、御坂の少し南のケシ山へと流れ下ります。

 この部分の疎水の一部は、山を貫く隋道(682m)工事となりました。

  *隋道(ずいどう)は、トンネルのこと

 ケシ山の隋道工事は、土地が軟弱で、湧水がおびただしく県の直営工事となったのですが、それでも一日60mを進めるのがやっとの難工事でした。

 21年2月に取りかかり、貫通するまで3年4ヶ月を要しました。

 ケシ山を越えた水は、ついに紫合村練部屋(ゆうだむらねりべや)の配水所に水は流下りました。

 そして、配水所の噴水口から吹き上がり、5つの排水口からそれぞれのため池へ向かうのです。

 工事費は、トンネルなどの難工事などのために大幅に増えました。

 工事もさることながら地元負担金の徴収は難航しました。

 長年の日照と重税のため、疲れきった村人とから集めることは限界に達していました。(no5043)

*写真:現在の練部屋の配水所。写真中央部(配水所から東)の山は雌岡山

 

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北条直正物語(30) 取水口、山田川から淡河川に

2020-07-29 10:43:05 |  北条直正物語

 地図で淡河川・御坂(サイフォン)・練部屋(ねりべや)を確認ください。

 疎水工事は、淡河川の取水口から練部屋までの疎水です。練部屋から流れ出た水は、各支線を流れ、印南台地を潤すことになります。

    取水口、山田川から淡河川に変更

 疎水に対する国の動きに、近隣の村々も参加を願い出ました。

 母里6ヵ村としても仲間が増えれば負担も軽くなります。

 双方の利害が一致して水利組合の組織は大きくなりました。

 19年には関係6ヵ村に加古新村、天満地区の10ヵ村、それに平岡の高畑村・土山村そして二見の東二見村・福里村が加わり21ヵ村となり、名前も「印南新村外20ヶ村水利組合」となりました。

 内海県令(森岡県令は明治18年に中央へ転出)は、この疎水事業に意欲的でした。

 県令みずから加古川まで出向き、21ヵ村の戸長(村長)と請願委員を郡役所に集めました。

 「・・・・私は、前県令からこの計画を引き継ぎました。国に工事費9万円の借り入れを願ったのですが半額の4万5千円程度が限度と思われます。

 それでも、この工事を受けるかどうか重大なことなので、よく考えて欲しい・・・・」

 新しく組合に加わった村々の代表は、どのくらいの工事費になるのか不安でしたが、何とか各村々の負担も決めることができました。

 内海県知事(明治19年度より県令から県知事に改称)は、水利土工費を国に申請しました。

     サイフォンって何?

 内務省に、より精密な調査を依頼しました。

 内務大臣の山県有朋(やまがたありとも)は、洋式土木を学んだ新進気鋭の田辺儀三郎技師を派遣してきました。

 調査の結果は、人々を困惑させるものでした。

 山田川線は、シブレ山が険しく岩がもろく、はじめに見積もった工事費ではとてもおぼつかない。

 淡河村木津で取水すれば、平地を楽に掘り進めることができる」と言うものでした。

 地図をご覧ください。

 でも、この路線は志染村御坂(しじみむらみさか)で、いったん低地(志染川)をこえなければならないので、いままで誰も注目した者はありませんでした。

 田辺技師は、ここを鋼鉄のサイフォンで水を通すというのです。

 人々は、「なんぼ世の中が変ったいうたかて、いっぺん下ろした水が上がるやなんて、そんなええかげんな話聞いたことがないわ・・・」と不思議がるばかりでした。

 郡長は、サイフォンについて何度も何度も説明しました。

 そして、新しい路線の工事が認められました。(no5042)

 *地図は『兵庫のため池』(兵庫県農林水産部)からお借りしました。

 *写真:現在の御坂(みさか)サイフォン

 

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北条直正物語(29) 牛の餌じゃ

2020-07-28 10:38:17 |  北条直正物語

    疎水計画は動き出したが

 疎水建設は動き出しました。が、喜んでばかりはおれません。

 いぜん未納地租は残ったままでした。

 (明治19年)11月、鐘が鳴らされた。人々は役場へ急ぎました。

 吏員が、地租不納処分のために村に来たのです。村人たちはたまった不満をぶちまけた。

 「疎水ができるのに殺生や、水が来るまで待てんのかいな」

 「土地買うた者が儲けて・・・、お前等金持ちの味方ばっかりするんかいな」

 郡の吏員は何も言えませんでした。

 怒りに檄した村人たちに、戸長の岩本もなだめようもなかったが、吏員と話してもらちのあく問題でもありません。

 新郡長は「疎水の話が持ち上がって土地の値段もあがったし、売りやすくなったはずだ。売って納めるのがいやなら公売にするまで・・」と手かげんをしませんでした。

 不納者440人の畑地140町が処分されてしまいました。

 この時、6ヵ村730戸の農地7分の4以上の土地を奪われてしまったのです。

 その、ほとんどが土地を営々として開墾してきた小百姓の土地でした。

     牛の餌じゃ

 この時(明治19年)のひとりの農民の様が、『母里村難恢復史略』に記されています。

 以下のような内容もあります。

 ・・・・

 3畳敷ばかりの藁小屋の隅で、年老いた農夫が釜でなにやらに煮物をしていました。

 農夫は、突然の来訪者におどろいたようすでした。

 「だれじゃいな」

 「役所から来たんやが、だれもおらへんおかいな」

 吏員は、釜の中をのぞいてみたくなりました。

 老農夫は、あわててその手を押さえました。

 「見たらあかん」「中のぞかんといてくれ」

 悲鳴にも似た声でした。吏員は、一瞬ひるんだが蓋をはずしました。

 煮えた釜には麦らしいものが浮かんでいましたが、ほとんどが藁でした。

 「牛の餌やないか」

 いくら貧乏でも牛並みのものを食べているとは知られたくなかったのでしょう。

 税金の話どころではなくなりました。

 郡吏は、だまってポケットから20銭を取り出すと、そっとかまちに置いて、「これで税金はろとけ」

 そう言うと、後もみずに出ていきました・・・

 *小説『赤い土』小野晴彦氏は、この『母里村難恢復史略』(北条直正著)をベースに物語にされています。(no5041)

 *写真:『母里村難恢復史略』(北条直正著)

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北条直正物語(28) 疎水計画が動く    

2020-07-27 07:37:38 |  北条直正物語

   疎水計画が動く

     品川農商務省大輔(次官)来る

 (明治16年)12月19日、農商務省大輔(次官)の品川弥二郎が、葡萄園の視察に訪れ、この視察に県から租税課長が同行しました。

 葡萄園の園長の福羽(ふくば)は、葡萄園の苗の植え付けや生育のようすのほか、地域の百姓の生活のようすも話しました。

 丸尾茂平次(印南新村戸長)は、地租を納めるために土地を売ったことを話しました。

 品川は、さらに村の生活ぶりを聞きただすのでした。

 ・・・・・

 (品川)「租税課長。人民が租税を納めるために土地を売ったと言っているが、知っているのか」

 (租税課長)「はい、知っております」

 (品川)「知っていてなぜすぐに止めさせなかったのだ。第一に、土地を売って納めなければならないほどの地租を課すとはなにごとだ」

 租税課長への叱責はするどいものでした。

 (品川)「・・・なぜ、適正な修正をしなかったのだ。郡長が土地売買の世話をしたということであるが、租税課長が修正していれば、せずに済んだはずではないのか」

 そして、品川弥二郎からこんな発言が続きました。

 (品川)「これからは、なるべく土地を売らないように。土地さえあれば、その内によいことがあるであろう」

 戸長たちは、顔を見合わせるのでした。

 「よいこと?・・・、ひょっとしたら国のほうで疎水計画が具体化しているのではないのだろうか・・」

 その後も、魚住逸治さんの疎水の話に随分熱心でした。

 ・・・

 租税課長は、おもしろくなかったのでしょう。

 「この恨みは必ずかえさせてもらう・・・」

 百姓への、お門違いの恨みが、腹のそこで煮えたぎっているのでした。

    疎水計画が動く・・・

 「国が、疎水を具体化させるのではないか」というウワサは、百姓の間で大きな波紋をよびました。

 ウワサだけではなかったのです。

 年が改まった(明治)16年、県は疎水線の実測を始めました。2月には県の土木課長と郡長が水源まで視察をしました。

 突然、疎水計画をめぐる状況が変わってきました。

 3月には、県の動きを追うかのように、農商務省の南市郎平が訪れました。

 南は、安積疎水(福島県)を手がけた人物でしたから、疎水計画のウワサは、いっそう大きく広がりました。

 県の土木課も加わり大がかりな調査もはじまりました。

 7月10日には大蔵卿(大臣)の松方正義(まつかたまさよし)の巡視があり、続いて農商務卿の西郷従道(さいごうつぐみち)の視察がありました。

 (明治)17年3月、関係村より新赤堀郡長の副申を添えて、水路開削起工願を提出しました。

 疎水計画は、にわかに動き出しました。(no5040)

 *写真:品川弥二郎(農商務省大輔)

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北条直正物語(27) 北条郡長辞任

2020-07-26 10:17:37 |  北条直正物語

   北条郡長辞任

     説得すれど

 印南新村の百姓衆が、郡役所に直訴したあくる日、郡長(写真)は上庁しました。

 なんとしても、土地の取り上げの件を県令に伝えたかったからです。

 しかし、県令からの返事は、むなしいものでした。

 (県令)「地価を修正し、増租分の延長も認めたのに、その上に郡役所まで押しかけるとはあまりにも強情者たちである。処分は徹底して行なえ・・・」

 ・・・

 郡長は、何を説いても分かってもらえぬ上司に言いようのない怒りを覚えました。

 (郡長)「このままでは、村が潰れてしまう。当座、2000円でも納めたら急場をしのげるのだが・・・郡長が租税の支払いのために畑を売らせる。こんなことが許されるのだろうか」

 こんな考えが北条自身を苦しめるのでした。

 ともかく、今を切り抜けるために2000円が必要でした。

 北条は、大阪のYに、土地の購入を申し込みました。

 Yは、葡萄園に興味を持ち、将来の疎水の話に目を輝かせました。

 「いまは儲けにならへんが、疎水ができたら、この地はようなる。ええ買い物かも知れへん」と考えたのでしょう。

 没収地のうち34町の契約がまとまりました。

 価格は、葡萄園の時と同じ反当り6円でした。

 その代金の2000円は戸長に渡され、そのまま地租未納分として納付されました。

 なんとか急場をしのぐことはできました。

 残った没収地は元の百姓に返されました。

    北条郡長辞任

 (明治)15年4月。突然郡長に勧業課への転任が決まりました。

 役人として好ましくない人物として、閑職へ追われたのは明らかでした。

 悔しかった。北条は、自分の力のなさを骨身にしみて感じるのでした。

 このままでは、百姓がかわいそうだ。

 ・・・・

 北条は、役人を辞任しました。(no5039)

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北条直正物語(26) 郡長は味方や

2020-07-25 10:24:20 |  北条直正物語

    郡長は味方や

 (郡長)「皆さんはお願いに行くつもりでも県令は、一揆ととるでしょう。

 その後にまっているのは、処罰だけです。立ち方、まちごうたらいけません。どないしたらよいか、よう考えてください。・・・皆さんでよう話し合ってください」

 郡長は、いっとき部屋にこもりました。

 ・・・・

 ややあって、郡長は呼びだされました。

 (百姓)「・・・来る時、丸尾戸長(村長)に、冷静に行動するように」と言われました。

 そして、郡長は、たとえ役人でも村のことを真剣に考えてくれはった。役人の中でたった一人の味方や。

 わし等には、まだ大事な郡長や。

 郡長の話を、よお聞いて欲しいといわれました。話はまだ、まとまっていません」

 北条郡長は、熱いものがこみ上げてくるのでした。

 「地券の取り上げの件は、なんとしても県令と話をつけます。そう丸尾さんにお伝えください」

 百姓は、来た道をひきあげていきました。何の解決もないままで・・・(no5038)

 *挿絵:『赤い土』より(昨日と同じ)

 

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北条直正物語(25) 印南新村の百姓たつ

2020-07-24 07:09:18 |  北条直正物語

     印南新村の百姓たつ

 明治15年は、なんとも気の重い年明けとなりました。

 「240町の土地を農民から取り上げることは百姓の生きる全てを奪うことになる。営々として積み上げた苦労を、村を一気につぶすことになる。法の定めに従うとはいえ、人間として許されるのだろうか・・・」

 郡長は、言いようのない悔いとおののきを覚えるのでした。

 田舎の宿は、静かでした。冬の風だけが屋根でなっています。

 しかし、怒りに火がついついてしまいました。

 ・・・・

 数日後、印南新村の男200人あまりが郡役所を目指しました。

 郡長がその知らせを受けた時は、すでに加古川の町に迫っていました。

 午前10時。一群は寺家町の役所に着きました。

 さっそく、一群は郡長に直訴しました。

 (百姓)「この度のこと(地券没収)は、人とも思えぬ仕打ちであり、あまりにもひどい。このような仕打ちをした県令は、おそらく真実を知らないとしか思えません。

 我々は、直接県令に会って事情を説明し、処分を取り消すように嘆願することにしました。郡長には迷惑と思うが同行願いたい・・・

 百姓も立たなあかん時があります。今がそのときやと思てます・・・」(no5037)

 *挿絵:『赤い土』より

 

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北条直正物語(24) 飴と鞭

2020-07-23 08:21:20 |  北条直正物語

    飴(地租の見直し)

 新祖額に対する不満は他の地域でもおきていました。

 かたくなな態度をとっていた政府も、一部の祖額の修正に応じざるを得ませんでした。

 14年にずれこんだ地価の修正作業でしたが、全国の15ヶ村で祖額の修正が行われることになりました。

 15ヶ所のうち6ヶ所が兵庫県で、川辺郡の一ヶ村と蛸草新村を除く印南5ヵ村が対象となりました。

 国は、正式に印南5ヵ村の祖額は適正な査定でなかった事を認めたのです。

 しかし、森岡県令は国の財政確立のための職務に忠実のあまりの勇み足ということか、中央では高く評価されていました。

 この修正される村の中に、なぜか蛸草新村の名前がないのでした。 

 詳しいことは分かりませんが、これは隣り合う加古新村や国岡、国安、岡村への影響を考えてのことであったのかも知れません。

 蛸草新村の戸長(村長)、岩本須三郎にとってはつらい決定でした。

 「お人よしやから、甘う見られるんや」「村のもんは、えらい迷惑や」と言う者もいました。

 ただし、この減税は14年から行われ、それまでの祖額はそのまま納めなければならなかったのです。

 祖額は、若干修正され、延納は認められたのですが、まだまだ納められる額ではありません。

 ・・・・

 祖額を決めた県としては、祖額が間違いであると国に指摘されたことは、面白くありませんでした。

     鞭(より厳しい取立て)

 県の租税課は、「減税は行われたのだからもはや文句はないはずである」と、地租未納の徴収は一段と激しさを増しました。

 県の命令に郡長も従わざるを得ません。

 郡長は、印南6ヵ村の主だった者に伝えました。

 「先日、県令より命令がありました。印南新村の地祖未納者処分をせよと言うことです。

 皆さんにも地租未納分を完納してもらわねばなりません。

 この度の命令は厳しいものであり、猶予はないでしょう。

 不納の時は公売処分になります・・・・」

 しかし、「ないものはない」のでした。

 陳情の効果もなく、不納者221名の土地は公売されることになりました。

 しかし、この時も入札者は一人も現れませんでした。

 県は、次の方法として土地没収と地券引き上げを通知してきました。

 明治14年12月31日のことでした。

 印南6ヵ村にとって、冷たい、絶望の大晦日となりました。(no3036)

 *挿絵:増税を迫る役人

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北条直正物語(23) どこまでも続く苦難

2020-07-22 08:42:36 |  北条直正物語

     どこまでも続く苦難

 明治時代初期の村名がしばしば登場します。地図(赤い部分)で場所を確認ください

    6ヵ村(現:母里)連合会結成

 明治13年3月播州葡萄園が発足しました。

 疎水の話は、いつも工事費用になると前へ進みません。

 旱害・重税が重なり疎水の話どころではなかったのです。

 しかし、山田川疎水関係の印南新村、蛸草新村、野寺村、野谷新村、草谷村、下草谷の村々で疎水を造るための連合会がつくられました。

 県・国へ働きかけることにしました。役員もぐっと若返りました。

 魚住逸治23才(野寺村)、松尾要蔵29才(野谷新村)、岩本須三郎35才(蛸草新村)らを中心とし、若い熱と智恵で疎水問題が進められることが決まりました。

     国からの援助消える

 地元の連合会ができました。県も疎水建設に働きかけるといいます。国も山田川疎水に対して理解が生まれたと思われました。しかし、行く手に暗雲が待ち受けていました。

 新政府は、西南戦争等に多額の出費があり、出費を抑えなければならなかったのです。

 新政府は、明治13年、太政官代48号をだしました。

 その3条には、府県が実施する工事の土木費のうち、国からの下げ渡し金を14年度より廃止するというものでした。

 国からの援助金がなければ、山田川の疎水事業計画は止まってしまいます。

 あんのじょう、県へ提出していた山田川疎水計画は即時「却下」されました。

      厳しい税の取立て

 それを追うかのように「明治14年3月25日、11・12・13年の祖額不足分を一時に徴収し、不納ものは断然処分すべし」という命令が届きました。

 北条郡長は、不可能なことを県に申し入ましたが、県からの返事は「不納ものは当然のこととして、処分せよ」でした。

 郡長の抵抗もむなしく、不納者の土地が公売に出されました。

 神戸から数名の者が物色に来たのですが、さすがに土地にかかる重税に手出しができず入札者は一人もいませんでした。

 安心はできません。次は、土地の没収がまっていました。

      あいつぐ県への嘆願

 印南新村は、金のできる目当てはなく、県に地租算定の基となった23円で買い上げてもらうように嘆願した。

 返事は簡単なもので、「書面之趣ハ難聞届候条成規之通相可心得事(しょめんのおもむきは、ききとどけがたくそうろうじょう、せいきのとおり、あいこころえるべきこと)」

 引き続き、年貢の未納期間を引き伸ばして欲しいことを県に嘆願しました。これも一蹴されました。

 印南新村が嘆願書を出した頃、六か村としても地価修正の伺い書を提出しました。

 前年の8月に地価の修正願いを提出していたのですが、9ヵ月を過ぎても返事は、「追って沙汰する」と言うものでした。

 その間にも地租の督促は急で、6ヵ村はたまらず地租の延納を願い出ました。

 良い返事は、ありません。

 百姓の怒りは、沸点に達しようとしていました。(no5035)

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